巻頭言
た べ て あ げ て
中 川 愼 一

 ずいぶんと前のことだが、はっきりと覚えている。二歳くらいの女の子が、食事をしていた。たどたどしい箸使いが、けな気であった。ようやく持てるようになったばかりなのだろう。その懸命な面持ちの中には、誇らしさも感じられた。つい、その様子に引き込まれてしまった。
 その内、箸を休めたかと思うと、隣のお母さんに向けて、その子は甘えた声を出した。それが、「たべてあげて」だった。食べさせてほしいという意味のようである。彼女にとって、一人で食事を済ませることは、まだまだ荷が重かったのだ。その仕草と表情が何とも愛らしく、印象に残った。小さな子らしい言葉の間違いを微笑ましく思った。
 何日か過ぎてから、ふと気が付いた。「たべてあげて」は、小さな彼女なりに、自分のもっている知識と力を総動員してのことではなかったのか。知っているわずかな言葉の中から、「食べる」「〜させる」「〜して」の三つを選び出し、組み合わせて、自分なりの表現をつくり上げたのである。なんと素晴らしい姿だろう。小さな子供であっても、こんなにも大きな力をもっているのだ。

 今、私たちは、「生きる力」を話題にし、「自ら学び自ら考える」子供の姿を目指した取り組みを行っている。その議論や実践を重ねる中で、子供たちがそのような力をもっていない錯覚に陥っていることはないだろうか。
 素晴らしい力を潜ませている子供が願う姿にならないとしたら、教師がその力を封じ込めてしまっていることを疑うべきである。私たちは、子供の自立を願うあまりに、要らぬお節介をしてしまうことすらある。

 また、教師が子供を「これができない」と否定的に見るのと、「ここまでできている」と肯定的に見るのとでは、その後の成長に大きな違いが生まれる。
 子供のノートの3−7=4を見て、「この子は引き算が分かっていない」ととらえてしまうと、教師は一から教え込もうとする。そうではなく、「この子は引き算が二つの数の差を表す演算であることまでは分かっている」と見抜くことができたなら、指導すべきことは式の書き表し方だけである。余裕をもって、その子の学びを支えていける。どちらの方が子供の力が伸びていくかは、歴然としているだろう。

 子供たちは自分の力でやり遂げることを願っている。助けを求める場合でさえも、一人でできる程度の手助けを望んでいる。
 もたもたしていても整っていなくても、子供の懸命な取り組みには手を出さず温かく見守ることのできる教師でありたい。そのためには、子供を肯定すること、心にゆとりをもつことが大切なのではないかと思う。
(富山県教育委員会砺波教育事務所・指導主事)