巻頭言
教 育 学 部 に 入 っ て
卯 田 昌 代

 中にはやる気まんまんの人もいる。理想像が高くて勉強以外も見てやりたいという人、相談に乗ってやりたいという人もいる。またやる気まんまんだが、気が付くと講義中に眠っている人とか、講義をテレビのように感じチャンネルを替えるように窓を眺めたり、夢を見たりしている人がいる。先生の批評をしたり、自分の自慢をしていたり、大学入試の問題集をやっていたりする人はまだよく、初めから先生になる気もなく講義にも出て来ない人もいるようだ。と思っていたけれど、後者のような目立たない人が全てを分かっているような気がする。

 私は、何になりたかったんだろう。先生ではなかったが、先生になってもよいと思っていた。職業としての先生でなく、もっと大きなイメージがあった。人生の師匠のような。でも、実際はそうでない。教え込みでなくて、支援するとか、わかったようなことが言いたいのではない。

 集中講義があった。2教科を受けた。一人目の先生は話が長かった。二人目の先生は小学校にもいたことがあるという話もあって板書が多くて丁寧だった。初めの先生はこわそうであまり好きではなかった。声の調子を変えたり、先生が、広い教壇上の角を行き来していろんな方向に話し掛けようとする様子は初め、自信があって悪く言うと、えらそうに見えた。が、よく考えてみると、自信のある先生ほど声も板書の字も小さく、動き回られたりなさらない。その先生のその様子は内容に対するものでなく、うまく伝えられるかという不安から、より努力されている様子の表れだと思った。中身の伝え方としては二人目の先生の方がわかりやすいけれど、私は一人目の先生はいい先生だと思った。しかし友達の感想は全く逆だった。他の講義の話でも人間味が出てくるような講義の仕方は話が長くなり評判がよくないと思う。

 求められているのは、一人の尊敬できる先生でなくて、何か良い情報や知識を得るための媒体の気がする。確かにそれでも教育は成り立つと思う。つまり教師が自ら学び自ら考えていれば良いし、もっと言えば自立してなくても子どもが勝手に情報を得ることによって自立できるのなら、それでもよいかもしれない。

 私がなりたかったのは、先生だったのだううか。