巻頭言
叱 り 方 の 違 い
田 中 宏 幸

 この夏、アグネスチャンの講演を聴く機会を得た。予定時間を超えほぼ2時間近い講演であったが、1500名近い聴衆が心から魅了される内容であった。―ー幼少のころは優秀な姉と比較されるために、自分を認めてもらおうとわざと汚い恰好をしていたこと。中学1年生のとき、肢体不自由児の施設に行き、ものの見方が変わったこと。ユニセフ大使としてエチオピアを訪ねたとき、内戦と干魃のために餓死していく子どもたちを目の前にして何もできなかった悔しさと、ボランティア活動を長く続けることの大切さを悟ったこと。ー― 生育歴に添って進められる体験談の豊かさと、ユーモアを交えた軽快な話しぶりに、心洗われるような思いのする講演であった。

 なかでも、心に残ったのは次の言葉である。
「私達はよく『迷惑だからやめなさい』と言います。でも、それでいいのでしょうか。私達は他人に『迷惑』をかけずには生きていけません。だからこそ『皆のために自分ができることをしなさい』と言うべきではないでしょうか。」
 確かに、そうだ。私達の世代は何かにつけ、「他人の迷惑になることをしてはいけない」と教えられ、また教えてきた。その結果、どうなったか。「迷惑をかけなければ何をしてもいいのだろう」というわがままな考え方を助長し、心身障害者や高齢者などを「迷惑」な存在とみなす考え方に与してきたのではなかったか。
 担任の先生に「他人の迷惑になることをするな」と叱られる生徒にとってはどうだろう。その言葉は、行為そのものをたしなめる言葉として伝わらず、「おまえは悪い子だ」というメッセージとして伝わってしまう恐れがある。

 一般に、他人と比べられて育った子どもは、自分をありのままに受け入れることができないために、優れた子がいると妬み、劣った子がいるといじめたりからかったりすると言われる。この叱り方は、その子を否定するばかりで、その子自身を認めたものとはならないのである。
 「迷惑をかけるな」という言葉と、「お互いに迷惑をかけ合っているのだから、他人のために役に立つことは何かと考えて行動しなさい」という言葉と。叱り方のわずかな違いだが、その質の差は大きい。2学期への戒めとしたい。
(ノートルダム清心女子大学)