総 合 的 な 学 習 か ら の 「 脱 学 習 」
好 光 幹 雄

 車窓から見た桜島は雄大かつ美しかった。この桜島を望みながら、12月26日27日、第4回「新しい国語実践」の研究会鹿児島大会に参加した。

「『総合的な学習の時間』に生きる国語力の育成」と題した3時間に及ぶパネルディスカッション・実践への提言では、次のようなことが話題になった。
 パネラーもコメンテーターも、「総合的な学習の時間」を支えるのは国語の力であり、国語の授業の中では、教科としての国語科本来の立場を一層明確にすることを強調していた。

 その中で、須田実先生(本研究会会長)は総合的な学習の時間を含めて、現在の教育改革の動向は、『未来の学習』(1979年ユネスコのウォール報告書)の理念に基づく世界的な教育改革と方向を同じくするものであるとし、『未来の学習』(生涯学習理念、生きることを学ぶ方針、国際的・基本的連帯性をもった教育改革、自己実現を図る教育、主体的な情報の受信・発信・交信、学習コミュニケーションの開発等)へのアプローチを図る国語力のより徹底した育成を提言された。異論のないところである。

 ところで、須田先生のお話を聞きながら思い出されたのが、この『未来の学習』よりも9年前1970年に発表されたイヴァン・イリッチの『脱学校の社会』である。イリッチは、学校を無くせばよいといった学校無用論ではないが、文明批判への一つのアプローチとして学校を取り上げ、学校化されつくした社会や制度や価値などを例に挙げ、衝撃的な文明批判を行った。生涯学習の理念等、イリッチが揺さぶりをかけた影響は大きいのではないかと思われる。
 教育改革が進められている今日、イリッチが「脱学校」と言ったように、今一度「脱学校」という見方で、今日における学校本来のあるべき姿を見定めなくてはならないであろう。

 同時に「総合的な学習の時間」をどのように捉え実践をどのように進めるのかを考えるとき、新しい学力観の延長として、システム化された学習からの「脱学習」という見方で「総合的な学習の時間」を見直してみることが必要ではないであろうか。
 はい回るだけに見えていたものが異なって見えるかも知れない。
 逆に「総合的な学習の時間」は無意味で不要であると思われるかも知れない。「総合的な」という玉虫色の言葉がおかしいと気付くかも知れない。
 文部省のねらいは、マニュアルを求めることからの教師の脱皮であり、「総合的な学習の時間」はその揺さぶりであると思うかも知れない。
(大津市立堅田小)