巻頭言
教 師 こ そ 、最 大 の 環 境
神 山 和 江

 私が平成6・7年度に勤務した妻沼町立小島小学校は、埼玉県の最北端に位置している県内唯一の小中学校併設校である。児童数43人の小規模校であるが、年に数回AETの先生が来られ、子ども達と一日中生活を共にしてくださるようになった。
 AETの一人、ブレット・フォルジャー先生は、オーストラリアの国籍を持ち、22歳で来日して8カ月。たどたどしかった日本語も少しずつ流暢になり、時々冗談を言って笑えるほどになった。

 ある日「日本語が上手になりましたね。」と話しかけると、彼曰く「まだまだです。物事を考える時はどうしても英語になってしまいます。早く、日本語で考えられるようになりたいです。」
 私は、何年か前教材として扱った『最後の授業』のアメル先生の言葉を思い出し胸を打たれた。「フランス万歳」と黒板に書かれたアメル先生は、母国語を大切にしていけば心まで占領されることはないのだと子ども達に最後の授業で訴えたからである。

 ところで、最近の教育課程の中で環境教育の重要性が叫ばれている。県の魚「ムサシトミヨ」の生息地である熊谷市内の小中学校では、そんな関係もあって数校が環境教育の指定を受けた。その時の先生方の合言葉は、「環境教育は足元から」であった。これは、公害や緑化を考えることも大切だが、先ず自分たちが住んでいる所ですぐできることを見直してみようということであろう。

 極論を申せば、私は教師こそ最大の環境と思われてならないのである。時と場に応じた言葉を使い分けられる教師。その選びぬかれた言葉を発する表情、声の量と質、間の取り方、瞳の輝き、全てに教師その人の長い間のプロとして積み上げられ、鍛えぬかれた人間性が表出する。
 話し言葉の修練を積もうと努力する教師は、おのずと子ども一人ひとりにかける言葉も違ってくるはずである。例えば、五十音の全音で始まる言葉を書き出してみる。
 「あ」あっ、すごいね。
 「い」いいなあ。この読み方は。
 「う」うん、これはまいった。
 「え」えらいぞ、この方法は……
 「お」おもしろい考えだね。
等々である。

 ちなみに、英語で雨は「rain」一語であるが、日本語では「春雨」「時雨」「霧雨」「豪雨」「氷雨」「夕立」……。数えてみると十を超える。そして、その時の雨のイメージをあざやかに思い描くことができるのである。
 「日本語」の言葉のもつ偉大な教育力を、もう一度見直してみたいと思っている今日この頃である。
(熊谷市立新堀小学校)