巻頭言
感 覚 的 な 判 断 力 が 薄 ら ぐ 子 供 た ち
廣 井 嗣 雄

 校庭の積雪柱が、220センチメートルを記録。久しぶりに青く澄みきった空。昼休みは清掃なしで60分のロングタイム。
 校庭では、給食を終えた子供たちがクロスカントリーのスキーを楽しんでいる。どの顔も実に生き生きとしている。しばらく見ていて、不思議なことに気がついた。太陽が照っているにもかかわらず、数名の子供が厚いアノラックを着て走っている。平地滑走はアルペンと違って運動量が多い。直ぐに汗ばむのに、アノラックを着用しての滑走。汗の始末をどうするのかと考えるとともに、最初の指導の徹底の恐ろしさをも感じたのである。

 吹雪の朝の通勤通学場面でのこと。駅のホームには、超ミニスカート姿の女子高校生たちのグループ。外に露出している股からブーツまで、肌が真っ赤になっている。流行に走ることなく、雪国の子供らしくズボンを履いた方が健康なのに。感覚的にどうなのか。

 先日、薬剤師さんが学校の換気調査で来校された。その際、「最近の子供たちは、感覚的に判断することができなくなってきていますね」と話された。このことは、高校に調査で訪問するたびごとに、女生徒の服装で感ずることである。流行も大切だが、立派な母親になるべき生徒として、もっと身体を大切に考えて判断し、行動できないものかというのである。

 ところで、このように子供たちの感覚的に判断する気力を阻害している要因は何か。流行なのか。
 入学してくる子供たちを見ていて、少子化による過保護も一因となっているのではないかと思われる。何から何まで、子供が痒くなる所へ母親の手が伸びていく。脱いだ服は親が始末する。靴や服の紐は母親が結んでやる。一寸したスリ傷でも、直ぐに母親が薬を塗布したりカットバンを貼ったりする。あげくの果ては、ご飯の箸まで子供の手に持たせるなど、子供たちにとってはいたれり尽くせりである。
 子供を大事にする余り、親が子供にすべき大切なことを見失っていないかとさえ思う。動物の親の子育てを見習っても良いと感じる時が少なくない。教育は、学校だけではない。家庭における教育を根本から見直さなければと思うこの頃である。

 21世紀を自分の力で開拓していける子供を育てるためにも、親・教師が本気になって考える時期にあると考える。「生きる力」も、このところから出発すべきでないだろうか。
(新潟県湯之谷村立井口小学校)