巻頭言
ス パ イ ダ ー マ ン
川 端 眞 一

 十数年前、京都で国際昆虫学会が開かれた時、森樊須(はんす)さんという学者に会ったことがある。森鴎外のお孫さんである。北海道大学で農林生物を研究されていた。ほとんどない頭の毛が白かった記憶があるから、かなりのお年だったに違いない。森さんは、なにも知らない若い記者の取材に懇切丁寧に応じてくれた。

 「オーストラリアの乾燥地帯では、ウシが糞をするとコンクリートのように固まって牧草が生えなくなります。牧畜にとっては大問題なのです。これを解決していくれたのが昆虫でした」。あらゆる試みに失敗した後、導入されたのが大型のフンコロガシだった。後ろ足で、糞をコロコロ転がして集め回り、食べてしまうあのムシである。このように農業や畜産に有用な生物は数多くあり、これを研究する学者もいるのだという。

 森さんの研究テーマは天敵探しだった。農薬を使わずに農作物の害虫を天敵で駆逐したいのだという。「クモが有望なのですが、これというスパイダーマンがなかなか現れません。アハハハハ」。笑い飛ばして手をやった森さんの禿頭がなぜか忘れられない。

 こうした天敵は「生物農薬」と呼ばれる。日本では1995年3月、イチゴの害虫ダニを食べるダニの一種とトマトにつくシラミに寄生するハチが初めて農薬として登録された。しかし、森さん期待のスパイダーマンの登場はまだ聞こえてこない。

 いま、地球環境を守る試みは、あらゆる角度から進められている。「生物農薬」が開発されれば、農薬の使用を少なくできる。琵琶湖をはじめ貴重な水源の汚染にストップをかけることができるかもしれない。大切なことだ。しかし、森さんの表情には、功利的な目的意識は感じられなかった。その笑顔には、根っから昆虫が好きだと書いてあった。役に立つか否かよりも世の中の仕組みや動植物の生態に興味があるらしいのだ。

 学問とは何なのだろう。科学は役に立つから学ぶのだろうか。確かに結果として役に立つことはある。だが、逆に不幸をもたらす結果だってある。教育も同じだ。役に立つから「源氏物語」を読めるようにするわけではない。人間が本来持っている興味を呼び覚まし、その感性を磨くことこそが大切なのではないだろうか。森さんはまだ元気に笑っていらっしゃるだろうか。
(京都新聞社)