巻頭言
美 し い 言 葉 の 根 っ こ
相 良 敦 子

 「この子が下の子のように話す子だったら、こんなことにならずに済んだのに」と母親は泣いた。その子は山に行って遊んでいた時栗のいがが目にささった。家に帰って「目が痛い」と何度も訴えたが、栗のいががささった状況をちゃんと伝えなかったので母親は、そのうちに治るだろうぐらいに考えたという。病院に行った時は手遅れで失明してしまった。その子は何でも漠然としか表現しないことに母親が気がついたのは、その弟が伝えたいことを正確に話し始めた時である。この兄弟が通っていた保育園は弟の時代になって、子どもが自分の言葉で正確に母親に必要なことを伝達するような指導を始めた。その指導を受けた弟とそんなことに無頓着に幼児期を過ごした兄との違いを感じていただけに母親の嘆きは大きかったのである。

 ある母親は似たことを言った。下の子が通う幼稚園では、文章を組み立てる教材があって、子どもたちは主語や目的語を組み合わせて文を作って楽しんでいた。兄弟が小学生になったとき、そんな経験がない兄は、主語や目的語や助詞の関連がよく理解できてないようで、表現がおぼつかない。それに較べて弟は文の組み立てがきちりしているので、思っていることがどんどん書ける。その違いを見て、母親は幼児期に基本が身についた人間の確かさを感じるという。

 筆圧がなくお粗末なひょろひょろした字を書く小学生に「もっと指先に力を入れて」と言っても無理である。指先にしっかりと力を入れることができるのは、幼児期に「ひねる・つまむ・押さえる」などの経験をしっかりしたかどうかにかかっているからである。

 「書く」「話す」「文を作る」などの実力の基礎は、小学校に入る以前の経験にかかっている。だから幼児期の教育は、そこに連なる見通しのもとに考えられてしかるべきなのに、日本の幼児教育界は、早期教育に走るのをおそれてこの課題に本気で取り組まない。

 私はフランスの幼児教育現場をよく訪れる。昔も今も変わらないのは、訪問客への最高のもてなしが「詩の朗読」だということだ。四歳・五歳の子が誇らしく詩を朗読してくれる。どの幼な子も、言葉を美しく表現する術を身につけようと努力している。美しい言葉の根っこは幼児期にある。だから様々の側面からの意図的な言語教育が幼児期から必要だと思う。
(滋賀大学教育学部附属幼稚園長)