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第七章 エンマコオロギ (3)

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2003/10/02 Thu. 16:10

 帰宅してあわただしく着替えをすませ、瀬戸日日新聞の販売店まで自転車を走らせた。
 店頭ではバイクや自転車の前カゴに夕刊の束を載せた人たちが次々と出かけていくところだった。キアの姿は見あたらず、店の前をうろうろしている僕のことなど誰ひとり気にとめなかった。
 そのなかに以前、スーパーカブで県住まで送ってくれた男の人をみつけた。
「こんにちは。この前はお世話になりました」
 振り向いた男の人は、僕を見てあわてたように手を横に振った。
「滋ならおらんで。聞いてへんか」
「やっぱり休んでるんですか。そのことで……」
「ちゃうがな。もうとっくにクビになっとう」
 背中を冷たい汗が流れた。
「いつのことですか、それ」
「先月の二十日すぎや。いや、あいつが悪いんやないで」
 男の人は僕を追い立てるようにカブを押してひとつ先の路地を折れ、背後を確かめて低い声で続けた。
「本署の刑事が、あいつのこと聞き込みに来とったんや」
「それだけですか?」
「やましいとこがあんのは店長のほうでな。労基法とか最低賃金やとか、この店たたけばなんぼでも埃が出る」
「そんな……刑事さんは店の取り調べに来たんじゃないんでしょう」
「そない言われても足元はみられとないもんや。申し訳ない話やけどな」
 僕らの前を自転車に乗った若い配達員が通り過ぎた。ちらりとこちらに向けた視線をかわすように、男の人は首をすくめた。
 僕は「もういいです」というかわりにぺこりと頭をさげた。それから校区はずれの県住めざして全速力で自転車をこいだ。
 葺合家には人のいる気配がなかった。家の前にはポリバケツが転がり、濡れ落ち葉があちこちに貼りついたままだった。鍵のかかったノブをがちゃがちゃいわせ、ドアを乱暴に叩いてみたが何の返事もなかった。
「うるさいわ!そこは留守や。それぐらいわからんかい!」
 隣家のドアから顔を出した初老の男の人がどなった。僕は藁にもすがる思いで駆け寄った。
「いつから留守なんですか?子供も帰ってきてないんですか?」
 男の人はめんくらったように赤い目をしばたたいた。
「昨日の昼頃には大声でわめきちらしとったけどな。そのあとはずっと静かやで。くそ野郎もアホ息子も戻ってへん」
「一緒にどこかへ行っちゃったとか……」
「んなわけあるかい。騒ぎのたんびに、邪魔や出て行け顔も見とないてほざいとんは親父ばっかりや」
 そこまで言って、男の人はばたんとドアを閉めてしまった。
 僕は肩を落としてドアの列に背を向け、コンクリの柵越しに下界を見おろした。
 夏休みにもここでこんなふうに途方にくれたことがあった。畑のなかの空き倉庫に今日はコウモリの姿も見かけなかった。
 日暮れとともにエンマコオロギが鳴き出した。あたりが暗くなっても葺合家には誰も帰ってこなかった。

 家に帰る道すがら、公衆電話をみつけてまた堂島さんに連絡をとった。
「西中の防災対策はかなーり適当やったらしいな。今回、被害が広がらんかったんは運が良かっただけやて消防があきれとる」
「運じゃなくて、葺合の機転ですってば」
「家庭科室からペーパータオルの燃えカスがようけみつかっとる。放火と失火の両面から捜査が続くやろ。テーブルに燃え移った火に消火器を使ったやつも重要参考人や。消防はまだみつけてへんけど」
「葺合は住之江を助け出してすぐに僕を追っかけたから……住之江を追い立てた連中からは何も聞いてないんですか」
「現場にいたガキどもか。今日はほとんど登校してへんかったようやな」
「玉出先生は?」
「今はまだ絶対安静や。診断は頚椎損傷。危険な穴ボコを放置していたかどで、学校側が施設安全管理責任を問われることになる」
「あれは犯罪です。誰かが穴を掘ったんです。先生は僕らの身代わりにトラップにかかっちゃったんですよ。足にピアノ線がひっかかってたでしょう」
「ピアノ線はみつかってへんよ。君らが取っといてくれたら調べようもあったかもな」
「……」
「まあ、焦るこたない。校長や教頭の首根っこは押さえてあるし、職員室の書類やパソコンも押収したからな。本格的な調査は週明けからじっくり始まるやろ」
「放火の犯人探しと学校の責任追及だけなんですね……」
 堂島さんは手持ちの情報を消防や警察の他の部署に知らせる気はないんだ。刑事さんの最終目的は江坂のボスをつかまえること。学校からいぶり出された不良中学生たちを追い詰めて、大人が動き出すのを待ち伏せしている。そのあいだに校内で何が起こっていようと、他の生徒たちがどんな目にあっていようと、本当は知ったこっちゃないんだろう。
「……今朝、二年の男子が校内でケガをして病院に運ばれたでしょう」
「ああ、淡路とかいうガキな。葺合にやられたて言うとるで」
「でたらめだ!騒動の種をまいたことで制裁を受けたんですよ。ボスに脅されて嘘をついてるんだ」
「なら、カスチビにアリバイはあるんかい」
「……」
「あいつが火ぃつけたんやて噂もあんねんぞ」
「誰がそんなでまかせを!」
「シロや言うんなら、何で出てこうへんのや」
「……僕がみつけて来ますよ。ちゃんと説明させればいいんでしょう」
 腹立ちまぎれに啖呵をきったものの、キアを捜し出すあてなんて何もなかった。
 また親父さんに殴られて顔を腫らしてるんだろうか。登校したらまずいことになるとでも思っているのか。なぜ僕にすら連絡をくれないんだろう。

2003/10/03 Fri.

 朝刊の社会面三段抜きで西中の火事が取り上げられた。教師が一名重体になっていることから始まり、安否確認のできない生徒が何人もいること、スプリンクラーの不備、家庭科室のガス栓や備品の管理不行き届き、生徒たちの避難指揮系統の混乱、養護教諭の不在など、明るみにでた学内の不祥事が書き連ねてあった。
 台風一過の晴天も二日はもたず、西の空から羊のような雲がわきだしていた。
 気温が急に下がって、上着をきっちり着込んでも肌寒いほどだ。
 生徒達が登校する頃には本館周りに黄色いテープが一段と増え、昨日にも増して雑多な大人達が出入りしていた。
 制服を着ていない人でもなんとなく雰囲気で職種の区別はつく。
 動作の機敏な消防士たち。目つきの鋭い警察官たち。年輩の教師っぽく見える人たちに学年主任がはりついている。あれはたぶん教育委員会。前に来ていた児童相談所の人もちらっと見かけた。一眼レフのデジカメを持っているのは新聞記者。通りすがりの生徒に話しかけようとしたが、生徒は無視して逃げていった。
 学校全体が浮き足立っているのに、一年C組だけは別世界のように静かだった。担任は朝のSHRに一瞬だけ顔を見せ、生徒達をにらみつけて出ていった。教科担当の教師たちは宇多野先生と顔を合わせるのを避けているみたいだ。時間ぎりぎりに現れて粛々と授業をこなし、チャイムと同時にそそくさと立ち去った。台紙の折れた出席簿は教卓に放り出されたままだったが、誰も手に取ろうとしなかった。またひとり欠席者が増えた。千林だ。昨日までは背景に溶けるように目立たない態度をとっていたが。
 教室の空気はどんよりと淀んでいる。一方で、生徒達の周囲にはちりちりと帯電したようないらだちがまとわりついていた。

 三限目の国語が始まって五分ほど経ったころ、教室後部のドアがそろりと開いた。わずかに足をひきずりながら、ひとりの男子生徒が入って来た。キアだと気がついて思わず声をあげそうになり、必死でおさえた。
 鞄は持っていない。ぼさぼさにもつれた髪。制服には白っぽい汚れがカビのように浮いている。煤がついたまま雨に濡れて、まだ生乾きのようだ。数名の生徒が後ろを振り向き、あわててまた前を向いた。国語の教師もチョークを持った手をとめて目をぱちぱちさせたが、すぐに何も見なかったふりをして授業を再開した。
 席についたキアは両肘を机に置いてうつむいたままじっとしていた。すぐ前の席の女子生徒が鼻に手をやってじりじりと机を引き離した。
 休み時間になってもキアは席を立たなかった。僕は彼の隣の欠席者の席に移動した。ふたつの机をぴたりとくっつけ、境目に教科書を広げた。
 四限目の理科の教師はいつもどおり、アンチョコに顔をつっこんでその内容を黒板に延々と書き写し続けた。僕とキアの周囲には目に見えないバリアがぴっちりと張り巡らされていたが、教師はそんなことなど微塵も気にかけていなかった。
 僕はノートとりに集中するふりをしながらキアのようすをうかがった。不揃いに伸びた前髪が顔にかかってはいたが、痣や傷はないようだ。
「におうか?」
 ぼそりと言われてどぎまぎと視線をそらした。キアはちょっと口の端を持ちあげて無理に笑おうとした。
「悪いな。二日ほど風呂にはいってへんのや」
 風呂どころの問題じゃない。この二日間、こいつはいったいどこで寝泊りしていたんだ。
 尋ねたいことは山ほどあったが他の生徒たちの前ではままならない。
 四限目が終了すると、キアは僕が席に戻った隙にふいと姿を消した。
 僕はあわてず、弁当包みをかかえて教室を抜け出した。

 さして広くもない校内で、これほど部外者の目があふれていては身をひそめる場所など限られてくる。
 二、三カ所あたりをつけて歩いてまわり、ほどなくキアをみつけた。
 ゴミ置き場と体育倉庫の隙間。じくじくと湿った地面に段ボールの切れ端を敷いて腰を下ろし、手にした小さな紙袋から何かをつまんでもそもそと食べていた。
 こちらに気がついて袋を隠そうとしたが、すぐにあきらめて膝にもどし、観念したように空をあおいだ。
 僕は自分の弁当の包みをほどき、白飯に箸をつきたてた。
「交換しよう」
「……おまえの口には合わん……」
「つべこべ言うな。それ、よこせよ」
 紙袋をひったくって有無をいわさずに弁当箱を押しつけた。キアは僕の剣幕に押されて弁当を受け取り、手製のメンチカツとポテトサラダを見おろしてごくりと唾を飲んだ。
 はじめは遠慮がちにひとくちふたくち、その後はもう堰を切ったように止まらなくなった。
 がつがつと飯をかきこむ友達を横目に、紙袋を開いてみた。なかには半分焦げた小指大の物体が五、六個入っていた。脚は焼け落ちてしまっていたが、たぶんエンマコオロギとクビキリギスだろう。一個つまんで口に放り込んだ。この手のムシが食べられることは本を読んで知っていたし、ちゃんと料理すればおいしいのかもしれないと思っていた。でも今かみしめたものは塩さえふっていない直火であぶっただけの代物で、炭化した部分の苦みだけが舌を刺した。
 キアは飯粒ひとつ残さずに弁当をたいらげた。箸を置いて、取り返しのつかないヘマをした子供みたいに情けない顔をした。
「喰ってもた……全部……」
 見ている僕のほうがいたたまれなかった。
「火事のあと家に帰ってないのかよ」
 キアは膝のあいだに頭を押し込んで動かなくなった。僕はその前にしゃがみこんだ。
「メシ代のかわりだ。ちゃんと説明しろ」
 不機嫌なうなり声がかえってきた。
「帰ったよ。待ち構えとった親父にどやされて追ん出されたけどな」
「閉め出しをくったのか」
「ほとぼりをさましとう間に、親父が出張に行ってもた。それだけや」
「家の鍵も持たせてもらってないのかよ。県住の管理人さんに頼んで開けてもらえば……」
「もともと独りもん向けの賃貸や。俺がおんのも目ぇつぶってもうとんのに、そのうえ迷惑かけられるか」
「なんでお前がそんなことばっかり……親がちゃんと面倒みるはずのことじゃないか」
「親父は間違うてへん。俺がオカンにつくて決めて縁切ってんから、そっちへ帰れ言うて筋通しとうだけや。俺が勝手にごじゃしとうだけで……」
「帰れない事情があるんだろ。ちゃんと話してないのか」
 キアは頭をもたげて僕をにらんだ。僕はひるまずにらみ返した。どこで知ったと訊かれるかと思ったが、黙って立ち上がると僕に背を向けてゴミ置き場の裏に歩いていった。
 掃除用の水道からざばざばと水を流す音が聞こえてきた。僕もゴミ袋をまたいで移動した。キアは裸の上半身にホースの水をかぶり、鳥肌の立った胸をシャツでごしごしと拭いていた。もともとほっそりしていた身体は夏より肉が落ちて、肋骨や椎骨が痛々しいほど浮き出ていた。胸から上腕、脇、背中にかけて、また数を増やした打ち身や擦り傷から血がにじんだ。
 僕は脱ぎ捨てられた上着を拾いあげ、こびりついた汚れをもみ落とそうとした。内ポケットのあたりで固くて小さなものが指に触れた。ポケットに手をいれてみて、裏生地の内側に何かが縫い留めてあるのだと気がついた。
 手をとめてこちらを向いたキアの前で、僕は上着を裏返し、前身頃の縫い目を引き裂いた。見覚えのある小さな真鍮の鍵が足元に転がり落ちた。
「……保健室の鍵だ」
「おせっかいババアが」
 キアが吐き捨てるようにつぶやいた。
 僕は鍵を拾って握りしめた。壬生先生は最後まで生徒のことを心配してくれていたんだ。
「薬とタオルと着替えだ。ここで待っててくれよ」
 キアが言い返すのを待たずに、本館目指して駆けだした。

 職員室には昼休みでも絶え間なく人が出入りしていたが、少し離れた保健室のある一角は閑散としていた。
 警察や消防もまだここまでは捜査に来ていないようだ。
 それでも用心深くあたりをうかがいながら、僕はドアにそっと近づいて鍵をさしこもうとした。
 おかしい。鍵はすでに開いている。足音をひそめて室内にはいりこみ……すぐに自分の考えのなさを後悔した。
 部屋の奥で誰かがごそごそと物音をたてていたのだ。
 引き返すのは危ない。とっさの判断ですぐ傍のデスクの陰に身をひそめた。
 まもなく姿を現したのは宇多野先生だった。
 手にさげた紙袋から黒くて太いコードがはみだしていた。たぶんACアダプタだ。ということは、あの角ばった袋の中身はノートPCか。
 誰かがデータ流出事件を蒸し返したり保健室の業務まで捜査する気になる前に、悪事の痕跡を消そうとしているのか。
 先生が部屋を出て鍵をかける音と、廊下を遠ざかっていく音を確かめてからそろそろと身を起こした。
 消毒薬と肌着、非常食の缶詰をタオルで包んで手近の買い物袋に詰め、大急ぎでゴミ置き場に引き返した。
 キアはいなかった。まもなくチャイムが鳴ったので救援物資は体育倉庫の裏に隠して教室へ戻った。

 既に五限目が始まっているはずなのに、教室前の廊下には十人ほどの生徒たちがうろうろとたむろしていた。
 出入り口の前に四人の大人が立って道をふさいでいるのだ。中にいる生徒達も逃げ場をなくして身を縮めている。
 四人の中で一番めだつのは宇多野先生だった。額に青筋をたて、両手で握りしめたボールペンを今にもへし折りそうにひん曲げている。そんな態度などおかまいなしに悠然と質問を繰り返しているのは、いつかすれちがった児相の女の人。部下とおぼしき若い男の人が、はらはらしながら二人を見くらべている。
 五限目国語担当の宮木先生は、三人から一歩さがったところで迷惑そうに薄い髪をなでつけていた。
 女の人が僕に気づいて手招きした。
「あなた、烏丸聡さんですね」
「生徒に許可無く話しかけんでください!」
 間髪入れずに宇多野先生がどなったが、女の人は気にしなかった。
「壬生先生から多少は話を聞いてます。葺合滋さんが今どこにいてはるか、ご存じかしら」
 僕を返事する気にしたのは、宇多野先生へのあてつけだ。
「いつもならちゃんと授業に出てますよ。あなた達みたいなのがうろうろするから、いなくなっちゃったんだ」
「なんだその口の聞き方は!」
 先生が今度は僕をどなりつけ、詰め襟に指をかけてひきよせようとした。児相の男の人があわてて先生の腕をおさえた。
「ちょっと、落ち着いてくださいよ先生」
「生徒が落ち着かんのは、あんたらみたいなのがうろうろするからだろうが」
 男の人は手を離してすがるように連れの女の人を見た。女の人は眉ひとつ動かさずに先生に向き直った。
「生徒さんたちが落ち着けるように、先生からきちんとお話をうかがいたいですわ。場所を変えましょか」
 宇多野先生は口の中でぶつぶつと毒づき、いきなりきびすを返して歩き出した。二人の招かれざる客はそのあとを追い、宮木先生はやれやれと教室に入っていった。
 ぞろぞろと教師に続いた生徒たちに背を向け、僕は校舎の外へ向かった。体育倉庫に立ち寄って荷物を回収し、正門から堂々と校外へ出た。何人かの教師がこちらを見たが、一年C組の生徒と知ってとがめだてる者はいなかった。


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