悪餓鬼日記帖:なにぃ、文句あっか! |
00.05
2000.05.31:
とうとう5月も終りになった。これから夏に向けて季節が動く。当面は梅雨入りだが、まだ湿度も温度もそんな雰囲気はない。今日は一日雨だったが、本格的な雨季はこれからだろう。
ところで「南蛮人の来襲」は無事契約に漕ぎ着けたが、これから為替レートの荒波に気を使わねばならない。台風が来ねばよいが・・・
2000.05.30:
今日は月末締切の仕事を全部片づけた。本来なら明日でもかまわないのだが、生憎「蒙古の来襲」ならぬ「南蛮人の来襲」で一日費やすことになったからである。
考えてみると最近は韓国の来客が圧倒的に多く、欧米からは少ない。最近の経済の事情からみて、それもやむを得ないところであろう。
明日は仕事の話もさることながら、「常識・『非』常識」のネタ捜しもしてみたい。
2000.05.29:
小学生の息子が歌を口ずさんでいるので、良く聞いてみたら「サウンド・オブ・ミュージック」だった。
最近は小学校で私が若い頃の歌、それもポピュラー系のものをやるようになった。「エーデルワイス」もやるし「大きな歌」もやる。昔の小学唱歌はそのうち姿を消すのだろうか。そう言えば中田喜直さんも亡くなられたし、クラシックが基本になっているメロディーは子供達の性に合わなくなってきているのだろう。
私自身も小学生の頃からポピュラーソングで育った。ラジオの「9500万人のポピュラーリクエスト」という番組をビートルズが登場する少し前から聞いていた。学生時代はフォークソングの全盛時代だった。
今は2ビートのアップテンポが主流だが、20年後には宇多田ヒカルの歌が流れるのだろうか?
2000.05.28:
批判を恐れず、また「神の国」発言について書く。
度重なる釈明会見でも、首相は未だ発言を撤回しない。何故か。結局彼と彼の所属する自民党が日本は「神の国」であるということを確信しているということだろう。直接的にはそういう発言をしていないが、「神の国」に固執している限りにおいて、そう考えていると見られても仕方がない現実がある。
それと彼は「神の国」ということと宗教とをごちゃまぜにしていることについても自覚がない。むしろ同じ物と考えているといったほうが正確だろうか。こうなると戦前の「八紘一宇」そのままである。
宗教は個々人の心のありかたの問題であり、何人も冒すことができない。と同時に、それは個人の信条・良心の問題であるので、それを国のありかたとして強制できるわけもないのは明白である。それを強制したのが戦前の「神の国」であった事実は消し去ることができないし、その教訓として憲法19条および20条が存在するのである。それが理解できない、あるいは「撤回しない」という言葉で事実上の理解拒否をするというなら、これはもう憲法を遵守することを義務づけられている一国の首相としての資格が問われるのは当然であろう。
繰り返しになるが、個人の信条としての宗教と、国のあり方の問題とは全く違うレベルの問題である。
2000.05.27:
作られる孤独・7
どうも最近妙な事件が起こる。今日も死んだ子供を「まだ生きている」として遺体を傷付けたというのがあったが、盲信もここまでいくと、何で??と不思議に思えてならない。
これは少し例が違うかもしれないが、占いの類も「当たるから」として完全に信じ切っている人がいる。血液型の性格判断、これも私は占いの一種と見ているのだが、これも結構信じられている。占いを信じるに足る根拠というのは、私が見たところ、こういうことのようだ。つまり万人に対してあてはめても何ら不自然でない表現、例えば「おとなしいけれども時として感情的になる」などとという言葉を使えば良い。そうすれば信じたいと思っている人にはまるで自分のことを言っているように見えてくる。
オウムもそうだが、最初から盲信することが前提となっている人というのは、失敗の経験が少ないからのように思う。世の中そんなにうまい話があるはずもない。「絶対に儲かる」と一緒で、真実なら誰も放っておかないからだ。昔なら一笑に付されたことが今になって通じるのは、現在の日本ではそれだけ狭い孤独な世界に生きさせられているということなのではないか。
サリン事件でオウムから多くの人が離れた時、こんな母親の信者がいた。金があるのか子供を連れてロンドンへ行ったが、そこでもいたたまれなくなって去る時にこう言った。「ハルマゲドンというのは存在しますから、インドにでも行って修行します」
その後の彼女の消息は知らないが、子供はどうなっただろうか・・・
2000.05.26:
今日、陸蒸気組の職場サポート副幹事長に正式任命された。幹事長は古参の人が既にいるのだが、私のレベルを見ていた上司が私に了解なしに指名、委員会にノミネートしたのである。今まではどちらかというと表に出ないようにしていたのだが、今度だけは逃れられそうにない。幹事長は真面目だし出来が悪いというのではないが、もう一つ応用がきかないので、PC本体からLAN、ホストも含めて結局全部私にお鉢が回ってくるだろう。
今は仕事が少ないからいいが、忙しくなってきたらちょっと心配である。でもこの際だから電算化にかける予算が余りにも少ないことに噛み付いてやろうかとは思っている。
2000.05.25:
今月末になって少しづつ仕事が増えつつある。昨年夏以降はどん底にあったが、どうやら「離陸」しかかっているようだ。勿論急激に増えるような兆しはまったくないが、仕掛かりの書類が入った袖机の中は閑散とした状態を脱したことから今までと違うということが読み取れる。
経済企画庁は「回復した」という証拠をやっきになって探しているようだが、本当は牛歩のように進んでいるのが実態のようである。とはいえ利益が出る仕事も少なければ失業率も高いし、個人消費もなかなか伸びない。事実を正しく捉えてこそちゃんとした解決策が取れるのではないだろうか。
2000.05.23:
最近血糖値が上昇していて、医者からはこっぴどく怒られている。
自覚症状はほとんどないのだが、検査をすると不養生がばれてしまうのだ。ただ、医者には内緒にしているが私には一つの目安があって、血糖値が上がるとそれに比例して腹の皮下脂肪だけが厚くなる。不思議にも太りはしない。だから本当は自分でも予想はつくのだが、医者にはのらりくらりと言い訳をしていた。
それが先月から主治医が変わって、彼は若いながらも私の狡猾な作戦を見抜いたらしく、入院をちらつかせてカロリーの削減を迫った。「入院」と言われるとこちらは弱い。慌ててダイエットにいそしむことになった。
2000.05.22:
17日の日記で書いた首相の発言について、誤解を恐れず問題の核心に触れたい。
まず、彼は疑いもなく戦前の体制を肯定し、それを国民に広めたいという意志を持って発言をしている。それは「神の国」発言の後、「国民のみなさんにしっかりと承知していただく、その思いで・・・」という言葉にはっきり示されている。
だからこそ別の場で「教育勅語の中に、やはりまじめな一つの真理はあったと思いますので・・・」とも述べているのである。さらに先の戦争についても、侵略戦争であったかどうかの評価を未来へ先送りすることで、それを否定した。歴代の首相がすべて侵略戦争かどうかの評価をこのような形で曖昧にし、否定したことは以前の日記に書いたとおりである。
ところで彼は「神の国」発言に対する記者団の質問に「日本の悠久の歴史と伝統文化という意味で申し上げている」とも語っていて、天皇中心のイデオロギーである神道を宗教や伝統扱いしている。
これらを見ると、彼は二重の大きな時代錯誤の誤りを犯していると言わねばなるまい。
一つは言うまでもなく、戦前の天皇を中心とする政治体制を善しとし、その体制を維持するために徹底して教え込まれた「教育勅語」を復活させようとする誤りである。戦前は憲法から言っても、また実際に行われた政治も、軍隊に守られた天皇のための国であった。教育勅語も国民を子供の頃から「天皇のためならば命も惜しくはない」と教えるために使われたのである。
ここで教育勅語の持つ問題点を指摘しておこう。勅語の「克(よ)ク忠ニ克ク孝ニ」は事実上「忠」だけが強調され、「特攻隊」という世界にも類を見ない人命軽視の作戦の根拠として使われた。また、「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ・・・」以下にある言葉をもって、一般的な人間愛を示すものという説を唱える人もあるが、この文の結論は最後の「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ」であって、天皇に何かあれば他を差し置いてでも駆けつけよということだったのである。
こういう教育がなされた結果はどうだったのか。侵略戦争に反対した人達はことごとく投獄・処刑された。そして、私の母などは28歳になって玉音放送を聞くまで「日本が負けることなどあり得ない」と本気で信じ込まされたのである。また、国外に対してはまさに「天皇を中心とした神の国」が支配すべきという、侵略を正当化する理由にされた。
次に彼は「天皇を中心とした神の国」を宗教の一つとして扱おうとしているようだが、これも歴史の事実に反する。そもそも「古事記」「日本書紀」は天皇による政治を天から授かったものとして合理化するために書かれた歴史書であって、宗教とは言えない。奈良・平安時代における宗教はあくまで仏教である。また武家社会に移ってからは、あくまで幕府の権威を高めるために官位が天皇から与えられるという形式をとっただけであって、武士階級と皇族以外にとっては直接的な関係は存在しなかった。江戸時代に至っては天皇の存在さえ知らない人々がいたのである。それが明治になって始めて「現人神(あらひとがみ)」とされた。
また、明治以後も天皇は宗教とは別格とされた。廃仏棄釈によって寺は破壊され、天理教などの新興宗教も弾圧されたのが事実である。
よしんば神道を宗教をみなしたとしても、政治や教育の世界の上に宗教を置くとどうなるか、戦前の歴史は言うにおよばず、近代ではホメイニ体制下のイランがどうだったかご存知の方も多いはずである。近代の政治は宗教を切り離すことで進んできた。人々の道徳的規範は時代と共に変化した。その場合悩める人は宗教に救いを求めるかもしれない。しかし千年以上も前の戒律を現実の政治よりも上に置くことがどんなに混乱をもたらすか、人々は既に教訓を得たのではないだろうか。
ともあれ、「神州日本」と現憲法は両立しない。そのことを学ぶためにアジア全体で2千万人もの命が犠牲になった。そのことを子供に伝えることはあっても、「天皇を中心とする神の国日本」とは口が裂けても言うつもりはない。さもなくば私は「道を誤らせた人」として子々孫々にまで怨まれるだろう。
2000.05.21:
昨日職場の連中と六甲へ登った。天気が心配されたが、小雨決行ということで少し下が濡れている状態だったのを、とにかく行こうということになった。午後から晴れて気分のいい山歩きをした。
最近の傾向として中高年の方が元気で、若者は逆に運動不足で悲鳴を上げていた。もっとも私は最後尾で遅れ気味の連中の尻を叩きながら登ったのと、古いキャラバンシューズを久しぶりに履いた(最近はスニーカーばかりだった)せいか、ちょっとへばり気味になってしまった。
山の上では焼き肉、ビールを飲んで憂さ晴らしをした。会社は車通勤が主流のため、普段の日は帰りに一杯ということができない。それで休日のリフレッシュが喜ばれるようだ。
ところで天気予報は「曇り時々雨、所により雷雨」とあったが、実際は「曇りのち晴れ、夜に入って一時雷雨」となった。
2000.05.19:
3月のJRダイヤ改正で私がいつも出勤に利用する電車の編成が8両から6両に減らされた。どういう理由かは知る由もないが、通勤電車という性格上乗客数が減るわけもなく、当然混雑がひどくなった。お陰で座れないことが時として発生する。電車に乗っている時間が約45分、これはちょっとこたえる。東京のことを思えば楽なのかも知れないが(逆に東京で暴動が起きないのが不思議に思えてならない)、やはり腰にこたえる年齢になったせいか、チト辛いものがある。転勤になってから半年以上になるが、こういうことがあるのでいつまで経っても乗りなれたという感じにならない。「通勤になれましたか」との質問をよく受けるが、未だに「ノー」と答える始末である。
陸蒸気組とのギャップを埋めるのも結構疲れるし、若い時のような順応性が落ちたことを痛感する毎日である。
2000.05.18:
前回韓国に出張した時に会った会社の人間が打ち合わせで来日した。現在の仕事の問題点と、次の仕事へ向けての準備作業である。
打ち合わせをしていても憂鬱な気分だった。「神州日本」が腹の底に沈んで、彼らと目を合わせるのが辛かった。
2000.05.17:
残念だが「作られる孤独・4」で指摘した憲法をないがしろにする発言がまたもや現実になった。それも現職の首相である。さらには「謝罪はするが、撤回はしない」という確信犯である。会社でも「こんなひどいことを言う人物が首相ではどうしようもない」と発言する人もいた。
「天皇を中心とする神の国日本」とは、どう屁理屈をこねても誤解のしようがない。都知事の「三国人」発言もそうだが、言い訳をすればするほど発言の真意がはっきりする。つまり誤解を招かないための解説を必要とするなら最初からそういう解釈をつけて慎重に発言すべきであって、それを考えずに無意識に発言するということは、まさに最初の発言が本音であることを証明しているのである。それを撤回しないのだからこれはもう憲法に対する挑戦状以外の何物でもない。重ねて言うが、「神州日本」は戦後憲法で完全に否定された。
こういうことを言う人物に教育改革を任せるわけには行かない。民主主義を否定する教育は断固拒否する。
2000.05.16:
未明に京都の亀岡、園部あたりを中心として地震があったが、なぜか直前に目が覚めた。夜間の地震では時々起こる現象で、阪神大震災の時もそうだったが以後はそれが途絶えていた。
初期微動に対して敏感なのかも知れないが、それよりも早いようにも思える。第六感みたいなものがあるのかどうかはよくわからない。
5年間の中断(逆に地震に対する恐怖感はかえって強かった)を経て、脳も復旧したのだろうか。
2000.05.15:
作られる孤独・6
最近の少年の凶悪事件で共通して出てきた問題はやはり「いじめ」だったようだ。なおかつ学校も警察も知らぬ顔をする。人が困っている時に誰も助けてくれないという寂しさは子供だけでなく親をも巻き込んで悲惨な結果を生むということを証明したように思う。
こんな調子では犯罪予備軍を育てているようなもの。犯人にはきちんと責任を自覚してもらい、罪を償ってもらわねばなるまい。また必要ならば刑を重くしたり被害者に納得のいく裁判のありかたも検討する必要があるだろう。しかしである。子供を取り巻く環境を改善しなくては片手落ちである。今日も文部省の調査が出ていたが、学校自身が「子供達は命の尊さとか法を守ることの重要さを十分理解していない」と認めている。
我々は石川五右衛門が詠んだ辞世の句とされる次のような言葉を思い起こすべきだろう。
浜の真砂は尽きるとも世に盗人の種は尽きまじ
2000.05.14:
テレビCMでこんなのがある。さる住宅メーカーのもので、有名なゴスペルソングのメロディーに歌詞は社名を連呼するというものだが、歌手はアメリカ人でもアイルランド訛りがあるらしく、母音の前に”H”の発音をつける癖で”L”の発音が「エル」ではなく「ヘル」っぽく聞こえる。「ヘル」とは「地獄」を意味するので、何となくケッタイな感じを受けるのだ。スポンサーはそのことを知っているのかはなはだ疑問である。
ところで、この「ヘル」の発音に関して有名なジョークがある。
ところはアメリカの首都ワシントン、日曜の礼拝に行く婦人達を乗せた路面電車が停留所に近づいた。ワシントンの道路名は”A,B,C・・・”とついていて、次の停留所は”H,I,J,K,L”通りの近くだった。そこでアイルランド生まれの車掌はこう叫んだ。「ヘイチ、ハイ、ジェイ、ケイ、ヘル!」
停留所の前は教会で、婦人達は訝しげな顔をしてそそくさと電車を降りたという。
2000.05.13:
突然こんな話題を持ち出すが、日本の店に使われている横文字の看板には非常にスペルミスが多い。例えば;
×Orientaru ○Oriental=「オリエンタル」、東洋のこと
×Cheru Bour ○Cherbourg=「シェルブール」、フランスの港町
×Boroniya ○Bologna=「ボローニャ」、イタリアの町
看板だけではない、コンピュータゲームに出てくる名前や単語の綴りなどは昔から間違いが目立つ。勿論最近の日本人が作った英文ホームページ、それも企業が作ったものでも例外ではない。
国際化とかIT革命とか言うが、その前にもうちょっと正しい言葉に注意してほしいものだ。でたらめな日本語を見せられたら悲しくなるのと同じことで、相手もいい気持ちにはならないだろう。
こんなことを書いたのは、PC用語をあまりにもでたらめな読み方をする例をずらりと並べたホームページを見たからである。確かにあまりに専門的な言葉(例:Ethernet=イーサネット)もあるために、横文字に慣れた私でさえ最初は戸惑うこともあるが、向上心は失わないでほしいものだ。
2000.05.12:
自転車を使えるようになって仕事がはかどるようになった。急な会議でも電話一本で駆けつけることができるのは非常に楽だし、相手とのコミュニケーションをはかる上でスムースになる。逆に対外的には不評、社外との折衝が多い立場としては不満たらたらである。というのも会議室は少ない上にみすぼらしいし、駐車スペースが少ないので前の事務所の横に車を止めてから徒歩で5分もかけてこちらに来るのだから。会社としての「顔」を辺鄙なところへ押し込める神経が信じられない。
特にここの総務はそういう対外的なことについての経験が非常に乏しく、世間知らずである。今回の引越は我々だけでなく、いくつかの部署が移動したのだが、配置図を見る限り、いずれ他の工場から来る人達のための空きスペースを確保するためだけが目的で、関係部署の利便性とか対外的な考慮ということは全く無視されていることが明白なものだった。新幹線組は皆この「世間知らず」を嗤っていた。
さて、例の「I love
you」ウィルス、情シスで集計したら連休中に13件入っていることがわかった。中でもびっくりしたのが京都の某一流大学から来たものである。しかし今回の犯人が大学生であることを考えると不思議ではないような気がした。私が何度か聞いたことがあるのは、大学のコンピューターの管理はいい加減なところが多く、学生のやりたい放題というところもあるというのだ。それに学生というものは時間が十分あるから、やる気さえあれば何でもありなのだろう。
2000.05.11:
今日から「日本の常識・世界の『非』常識」というコーナーを新設した。
数ヶ月前からどういう内容にするかアイデアを探っていたが、この日記でのある出来事をヒントにした。そしてまた先日こんなことがあって、私の決意を固くした。
私の職場に英検2級という若い女性がいるが、例の「スヌーピー」の作者であるチャールズ・シュルツ氏が死んだ時に彼の漫画(もちろん英文)を読んだことがあるか聞いたところ、「ない」という返事だった。彼女は「スヌーピー」のキャラクターは知っていても肝心の漫画は見たこともなかったし、4コマ漫画の登場人物(「犬」物と言うべきか)であることも知らなかったのである。
私は数回"Herald
Tribune"という英字紙で数回見ただけだが、言葉は非常に難しかった記憶がある。しかし、英語を良く勉強した彼女でさえこの程度、そもそもいくつになってもスヌーピーやミッキーマウスを喜んでいるのは日本の女性だけだと言ったら驚くような顔をしたのである。別にキャラクターグッズを非難はしないが、自分達がそういう環境にいるという自覚がないことに視野の狭さを感じたのである。
人間は自分自身を外側から客観的に見ることによって初めて理解できるということが結構ある。新しいコーナーではそこを強調していきたいと思う。
2000.05.08:
連休が明けて出勤したら、「I love
you」ウィルスが全社で2件発見されていた。情シスがわざわざ6日(土)に出勤してサーバーに残っているメールをスキャンした結果だった。勿論パッチを入れたことは言うまでもない。
ところでさる管理職からウィルスの案内とともに「駆除の方法はまだ出ていません」とメールが来ていたので、「パッチがもう出ているから入れとかんかい」と返信した(ザマーミロ)。NAIの日本語ページのリリースが遅かったので知らなかったらしい。アメリカのHPではとっくに出ていたのだが、たまたまNAI日本が引越だったようだ。
話は変わるが、やっと連絡用自転車が貰えた。早速試運転をしたが乗り心地はまあまあ。それにしても真っ黒のママチャリが売られているとは驚いた。黒といえば昔のオヤジが乗っていた配達用のものしか知らなかったからである。
さて、これで仕事がやりやすくなった。何しろ東西400m南北1000mのだだっ広い敷地に建物がばらばらに建っている間を移動するには、自転車が必須だからである。新幹線組の事務所に行くだけでも片道徒歩で5分かかるところが1分半に短縮された。「新幹線」まではいかないが、「陸蒸気」が「特急」には昇格したか(笑)
2000.05.07:
9連休が終わろうとしている。
連休中に大変な事件があって、のんびり過ごしたとはいうものの、TVに釘付けになったことがそのまま尾を引いている感じだった。おまけに例の「I
love
you」ウィルス騒ぎで慌ててパッチを入れるなどPCも忙しかった。
明日は会社の方も何らかの対策でドタバタするだろう。とりあえずは情シスからの指示があるまでメールは開けられない。犯人が特定されたとしても、一人歩きし始めたウィルスはしばらく世界中を駆け回るのでまだ気は抜けない。
2000.05.06:
作られる孤独・5
今回の少年による犯罪で、またもやいじめの問題というのが背景として出てきている。一昨日書いたように政府の調査でもいじめがなくならないどころか、子供達自身が解決不可能と感じるまでにエスカレートしている。いわばいじめが日常化していると見ていいだろう。
先日書いた憲法問題にからんで言うなら、いじめは「基本的人権の侵害」であることは明々白々である。このような状態が年中あるとするなら、日本は本当に異様な国と見られても仕方あるまい。単に教育行政として捉えるだけでなく、国民全体の問題として解決しないと、将来に禍根を残すことになるだろう。
そこで2つの私的提案をしてみたい。
ひとつは、子供達に対して人権教育を徹底することである。学校であろうと家庭であろうと、いじめが相手の人権を傷つけるものであること、自分も他人もそれぞれ固有の人生と社会での役割を担っていることを教えねばなるまい。「いじめられる方にも原因がある」という見方をする人もいるようだが、弱点をあばいてそこを攻撃をすることは、怪我をした傷口に塩を塗るようなものであることを肝に命じるべきである。誰にも長所・短所があり、それを互いにカバーしあってこそ人間社会がうまくいくということを人類の歴史は教えている。それが民主主義ではないか。そこが理解されなければ、人間は他人との協調(依存ではない)をすることができず、孤立するしかない。
もうひとつは今の大人の社会にある「いじめ」同然の風潮を解決することである。特徴的なのは、企業でのリストラ・首切りを当然視し、大量の解雇者を出していることである。それもリストラ対象者を「役に立たない邪魔者」扱いしている例をあちこちで聞く。社内での自殺者も増えているという。
それから、最近の社会的弱者に対する福祉の切り捨て、特に老人に対するものは世界に例をみないひどさである。「まるで年を取ることが悪いことのように言われるのは心外」と嘆く老人は少なくない。ひところ若者が「オヤジ狩り」と称してホームレスの人達を虐待したことがあったが、大人の社会を反映している例として、教訓にすべきだろう。
2000.05.04:
大変な少年犯罪の連続で、大騒ぎになっている。同じ17歳というのは偶然だろうが、少年犯罪の増加・凶悪化はここまで来たかという思いがする。アメリカのように銃を持てないだけで、内容的には似てきているような感じがしないでもない。少年犯罪についての一般論をやるほどの力はないが、今回の2つの事件について、現時点でわかっていることの中から疑問点を少し書いてみたい。
バスジャック事件:
1.犯行の動機がもうひとつはっきりしない。一説によると、病院に戻されるのがいやで、できるだけ遠ざかりたかったらしいが、普通の旅行ではなくて凶器を持ってバスに乗るというということと、どこが繋がるのだろうか。
2.女性に対する虐待行為が目立つ。何か女性蔑視にかかわるような環境があったのだろうか。興奮した状態だから潜在的に持っていた意識が出やすいはずだ。
3.バスジャック対策に問題を残したようだ。高速道路でとっさにハザードランプをつけたり、無線連絡を運転手に要求するのは無理があるように思うのだが。
4.バス会社の対応でわけのわからない点がある。昨夜の社長の会見で「迷惑をかけた」と謝罪しているが、謝罪すべきは犯人であって、会社ではない。ところが今日の死亡した人の家族に対しての態度は非常に事務的だったようで、このへんのチグハグな対応は何なんだろうか。
主婦殺害事件:
1.見かけだけの「いい子」が起こしたらしいが、徹底して仮面をかぶり続けた、あるいは周囲が全く気付かなかったという理由は何か。逆に言うと「人殺しを経験してみたかった」というのは本心を見抜かれないための嘘かもしれない。
2.「あの子が人殺しをするなんて・・・」という「安全神話」が崩れていると断定してよさそうだ。何故このような幻想にはまるのか、問題を根本から見直さなくてはならないだろう。タイミングがいいというべきか、子供達は「今のままではいじめはなくならない」との結論を出していることが、政府の調査で明らかになった。
2000.05.02:
部屋を整理していたら昔に作ったジグソーパズルが何枚か出てきた。
若い頃はこういうことに集中するのが好きで、一度1500ピースを毎日深夜に及ぶまでこつこつ組み合わせ、5日間で仕上げたことがある。今でもやってやれないことはないと思うが、その間はこの日記も完全に中断することだろう。
2000.05.01:
作られる孤独・4
以下の部分については、家庭や学校、職場などにおける諸問題を書いてからにするつもりだったが、回り道をしてから結論を書いても冗長になるし、論旨が明確でないと理解しにくくなると思い、先に書くことにした。
民主主義における個人というものは、個人の自立と判断力、社会における自己の位置と役割が自覚されていないと成り立たないシステムであると言えるだろう。「個人の自由と責任」でも示唆したように、十人十色の性格を持った人間が共存し、合意を形成するにはそれなりの地道な努力を必要とする。
しかし、現在の日本を見ているとそういう民主主義とは逆行する方向の力が強く働いている気がする。つまり自立よりも何かに依存、悪く言えば従属させるような傾向が存在しているように見えるのである。そしてそれは自らが好むというよりも目に見えない圧力のかたちをとっているようだ。例えば「横並び体質」というが、横並びにしないといけないような雰囲気が作られているために、自主的判断を断念させられているというのが現実だろう。これも私の甥の言葉だが「学校ではみんな同じでないといけないという強い力が働いていた」とのことである。彼は一度問題を起こして村八分になった友人を立ち直らせようと手出しをしたら、学校はその友人に「不良」のレッテルを貼り、クラスメートも手助けをする甥をいじめの対象にし始めたという。それで彼は手助けを断念した。
これでは社会として個人の自立や共栄共存がはかれるわけがないし、ましてや困っている人を救うという姿勢が出てくるはずもない。自分で自分の人生を切り開く力もない孤独でバラバラな人間が生み出されるだけである。私は中学の時にこんなことを経験した。ある生徒Tは時々学校を休むことがあった。普段はおとなしい、ごく普通の中学生に見えた。ところがある日、数学の教師が彼の休む理由をクラスで話した。曰く「Tは家庭内暴力を繰り返している。お前らなんとかしたれや」とのこと。それでTの親しい数人の生徒が相談して、気分転換をさせるためにゴルフのキャディーのアルバイトに連れ出すことにしたのである。こういう取り組みは今でもあるだろうが、全体としては逆の方向に走っているようにしか見えない。
それにしても、何故戦後50年以上もなるのにこういう民主主義が日本では発展しないのか。犯罪だけを見ると事態は悪い方向に走っているように見える。私の個人的結論から言うと、ひとつは憲法の精神がないがしろにされてきたからと見る。随分と大上段に構えた見方との批判もあろうかと思うが、憲法の主権在民・基本的人権の尊重・恒久平和の精神を定着させる努力がなされてきたかというと、残念ながら事実はそういう見方を許してくれない。戦後一貫して政権を握ってきた勢力は現憲法を「押し付け憲法」として敵視してきた歴史は明白だからである。憲法の問題となると9条がよく論議されるが、民主主義に対する姿勢を問う論議はあまり少ないと思う。そもそも諸外国の例を見ても、政権を握る勢力が成立当初から自国の憲法を攻撃しているという例を聞いたことがない。若干脱線するが、憲法見直しを主張する意見に「古くなったから」というのがあるが、最初から守る努力もしなかった連中にこういうことを言う資格はない。「憲法を守るあらゆる努力をしたが、どうしても時代に合わないので何とかしたい」というのなら聞く耳を持つ気にもなるのだが。
次に憲法と並んで問題になるのが、日本の歴史的事情として大衆からの世直し、政治的変革の経験を持たないことがあると考える。何度も私のヨーロッパでのつたない経験を持ち出して申し訳ないが、彼らは隣国同志の絶え間ない殺し合いの歴史と同時に、フランス革命に代表される民衆による問題解決の方法を学んできたように思われる。彼らは日常的に、問題があれば激論を交わしてでも合意できる道を探ろうとする。フランスの35時間労働制。すなわちワークシェアリングの労使合意などはその最も良い例である。また、私は仕事で付き合いのあったあるドイツ人から以下のような話を聞かされた。
彼はミュンヘンの西、列車で1時間くらいのアウグスブルグという地方都市に住んでいる。ある時、彼はミュンヘン空港へ行くために、最近運行を始めた朝6時発の初発バスに乗るために車で家を出た。ところがバスターミナル近くの市営駐車場は6時半からしか開かない。仕方なく彼は違反を承知で路上駐車をした。2日後彼が帰ると当然のごとく車には駐車違反の切符が貼られていた。怒った彼は近所の人達を説得して一緒に市役所へ抗議行動に行った。結果、市営駐車場を5時半から開けさせると同時に、40マルク(約3千円)の罰金をも撤回させたのである。
彼は50半ばの営業マン、年中日本や韓国、中国を飛び回っているいわゆる「ワーカホリック」で、奥さんは嘆いているらしい。しかし彼のような行動はヨーロッパでは珍しくも何ともない。だが日本ではマスコミが騒ぐようになってから役所が渋々腰を上げるという類のものでしかない。こういう違いはやはり歴史の経験がものをいうように思う。
以上が今の日本における民主主義問題の主な私の認識である。これをどう解決するのか、勿論社会全体の議論と合意が必要だが、一つの理想としてコープの玄関に掲げてある額に書いてある次のような言葉を私は好む。
「万人はひとりのために、ひとりは万人のために」