LATEST ACCIDENT 〜速報・最新の航空事故〜

※ご注意:この頁に記載されている情報は、世界の航空事故総覧に掲載準備中の草稿をそのまま掲載しております。従いまして、世界の航空事故総覧の各検索からの検索は次回正式更新時まで出来ません。また、草稿につき掲載内容が変更となる可能性があることを申し添えます。

 2011年9月7日午後4時5分頃、独立国家共同体ロシア連邦・ヤロスラブリ発同国ベラルーシ・ミンスク行きYAK Serviceのチャーター便Yak-42D(RA-42434)が、ヤロスラブリ空港を離陸直後、初期上昇中にボルガ河畔に墜落した。
 この事故で乗員8名、乗客37名、計45名のうち、乗員7名、乗客36名、計43名が死亡し、乗員1名、乗客1名、計2名が重傷を負った。
 乗客はヤロスラブリに本拠を置くプロのアイスホッケーチーム「ロコモティブ」の選手団らであり、8日に行われるロシア・プロリーグの今季開幕戦に出場するため、ベラルーシに向かう途中であった。乗客の国籍は11名がカナダ、チェコ、スウェーデン等10ヶ国の外国籍であり、選手やコーチ達であった。
 事故機は、離陸直後、高度を得られないまま左に傾き、滑走路付近のアンテナ塔に衝突し、空港から約2kmの地点に墜落、大破炎上した。高度を得られなかった原因として3基あるエンジンのうち1基の故障の可能性が指摘されている。
 事故機は1993年に製造された。

(2011年9月8日午後11時更新)


 2011年6月21日午前0時4分頃、ロシア連邦・モスクワ発同国カレリア共和国ペトロザボーツク行きのRusAir9605便(RusLine243便:コードシェア便、運航はRusAir)ツポレフTu-134A-3(RA-65691)が、ペトロザボーツク空港へ着陸進入中に空港から約1km南方の公道上に墜落した。
 この事故で、乗員9名、乗客43名、計52名のうち、乗員8名、乗客36名、計44名が死亡し、乗員1名、乗客7名、計8名が負傷した。
 事故機は6月20日午後10時24分にモスクワ・ドモジェドヴォ空港を出発し、事故当時、現場一帯は悪天候に見舞われていた。事故機は墜落により大破炎上した。墜落現場には、約140名の警察官と救急隊が出動し、救助活動に当たった。
 なお、事故機が管制塔との交信を絶ち、墜落した時刻については、6月20日午後11時40分との情報もある。
 カレリア共和国はモスクワから北方に約950kmのロシア連邦北西部に位置し、ペトロザボーツクは同共和国の中心都市である。
 事故機は1980年に製造された。

(2011年6月21日午後11時30分更新)


 2011年1月9日午後7時45分、イラン・テヘラン発同国ウルミエ行きイラン航空277便ボーイング727-286(EP-IRP)が、ウルミエ空港に着陸進入中に、空港から約8kmの農村地帯の雪原に墜落した。
 この事故で、乗員12名、乗客94名、計106名のうち、乗員12名、乗客59名、計71名が死亡し、35名が負傷した。なお、搭乗者数と死者数はメディアによって諸説あり、情報が錯綜している。
 事故当時、現場付近は吹雪と濃霧で視界が悪く悪天候であった。事故機が不時着を試みていたとの情報もある。機体は一部が原形を留めるのみで大破したが炎上しなかった。悪天候により救出活動は難航した。
 イランでは、経済制裁により、かねてからボーイング機の整備が困難になっているとの指摘がある。
 ウルミエは、イラン北西部に位置し、トルコとの国境に付近の山岳地帯の都市である。
 事故機は、1974年に製造された。

(2011年1月10日午後0時5分更新)


 2010年11月4日午後5時45分頃、キューバ・サンティアゴデクーバから同国ハバナに向かっていたアエロ・カリビアン航空883便ATR-72-212が、巡航中にキューバ中部のサンクティスピリトゥス県のグアシマル近郊の山岳地帯に墜落した。
 この事故で乗員7名、乗客61名、計68名全員が死亡した。乗員乗客のうち、40名はキューバ国籍、28名は外国籍(アルゼンチン、メキシコ、オランダ等10カ国)であり、うち1名が日本国籍であった。
 事故機は午後5時42分に異常を伝える緊急信号を発した後、交信が途絶えた。
 アエロ・カリビアン航空はキューバの国営航空会社である。

(2010年11月5日午後8時40分更新)


 2010年8月24日午後9時36分頃、中国・黒龍江省ハルビン発同国・黒龍江省伊春行き河南航空8387便エンブラエル190LR(B-3130)が、伊春空港へ着陸の際に滑走路をオーバーランし、滑走路から約2kmの草地で爆発炎上した。
 この事故で、乗員5名、乗客91名、計96名のうち、乗員乗客計42名が死亡し、乗員乗客計7名が重傷を負い、乗員乗客計47名が負傷した。乗員乗客の国籍は全員中国籍であった。
 事故機は午後8時45分頃、ハルビン国際空港を離陸した。事故発生当時、伊春空港周辺は霧のため、視程が300mを割り込んでいた。事故機は着陸の際に滑走路をオーバーランして炎上し、小規模な爆発の後、機体が二つに折れ、一部の乗客は裂け目から脱出したと伝えられる。機体は火災によりほぼ全焼した。
 事故機のブラックボックスは事故翌日までに回収された。事故調査は、民航東北地区管理局が行うが、製造元のエンブラエル社からも専門家チームが派遣される。
 伊春市は、黒龍江省の省都ハルビンの北東約250kmに位置し、伊春空港は、伊春市の山間部に位置する2008年竣工、2009年供用開始の新設空港で、夜間の飛行条件が複雑であったとの報道もある。
 河南航空は、河南省鄭州市に本社を置く、ローカル線を中心に運航する航空会社である。
 事故機は2008年に製造された。

(2010年8月26日午前0時30分更新)


 2010年7月28日午前9時45分、パキスタン・カラチ発同国イスラマバード行きエアブルー202便エアバスA321-231(AP-BJB)が、イスラマバード国際空港へ着陸進入中にイスラマバード北方近郊のマルガラ丘陵の中腹の森に墜落した。
 この事故で乗員6名、乗客146名、計152名全員が死亡した。
 事故当時、現場付近は低い雲に覆われて雨が降っており、視界不良であったと伝えられる。同国ではモンスーンにより、雨の多い季節にあたり、イスラマバードでは、少なくともここ2日間は激しい降雨が続いていた。イスラマバード空港の管制官は、悪天候のため同国東部ラホールへの代替着陸を同空港に向けて飛行中の旅客機に進言していたが、事故機は同空港への着陸を希望した。目撃者によると、事故機は墜落直前は、かなり低空を旋回していた。事故機は午前9時43分にイスラマバード国際空港の管制官と交信したのを最後に消息を絶った。
 事故当日中にフライト・データ・レコーダーは回収された。
 エアブルーはパキスタンで最大手の民間航空会社で、国内線のほか、アラブ首長国連邦、オマーン、イギリスとパキスタンを結ぶ国際線を運航している。
 事故機は2000年に製造された。

(2010年7月29日午後11時20分更新)


 2010年5月22日午前6時10分頃、アラブ首長国連邦・ドバイ発インド・マンガロール行きエア・インディア・エクスプレス892便ボーイング737-8HG(VT-AXV)が、マンガロール・バジベ空港に着陸時にオーバーランして崖下に転落し、大破炎上した。
 この事故で、乗員6名、乗客160名、計166名のうち、158名が死亡し、8名が負傷した。
 事故当時、空港周辺の天候は、風は穏やかで雨も降っておらず、視界も良好であり、滑走路の路面は乾いていた。事故機は、通常の接地点を越えて接地し、2400mの滑走路をオーバーランし、空港の敷地の外壁に衝突し、滑走路端の森林地帯の谷に転落した。空港は丘陵の頂上に位置していた。現場には数十台の消防車が駆けつけたが、森林の谷は地形的に救助隊が入るのを阻み、救助活動は難航した。
 複数の生存者の証言として伝えられるところによると、生存者らは、着陸後、機体が爆発するまでの数秒前に飛行機から飛び降りて逃げた。事故機は滑走路から外れて境界壁に激突し、瞬時に機内に煙が充満した。
 マンガロールは、インド南西部のカルナタカ州の都市である。
 エア・インディア・エクスプレスはインド国営のエア・インディアが経営する低価格航空会社で、インド南部にベースを置き、利用客が多い東南アジアと中東間に路線網を築いている。
 事故機は2007年に製造された。

(2010年5月23日午後8時30分更新)


 2010年5月12日午前6時10分頃、南アフリカ・ヨハネスブルク発リビア・トリポリ行きアフリキーヤ航空771便エアバスA330-202(5A-ONG)が、トリポリ国際空港に着陸進入中に、滑走路09の端から900m手前、滑走路中央線の延長線から南に200mの地点に墜落した。
 この事故で、乗員11名、乗客93名、計104名のうち乗員11名、乗客92名、計103名が死亡し、乗客1名が足の骨折等の重傷を負った。乗客の国籍は62名がオランダで、その他は、イギリス、ドイツ、フィリピン、南アフリカ、ジンバブエ、リビア、フランス、フィンランドであった。搭乗客の多くはヨーロッパへの乗り継ぎ客であったと伝えられる。
 唯一の生存者は、10歳のオランダ国籍の男児であった。(8歳との情報もある。)
 事故当時、トリポリ国際空港周辺は、霧が出ていて視界不良であったとも伝えられるが、空港の観測値によると視程は5〜6kmはあった模様である。また、墜落直前に事故機のパイロットから、機体に問題が発生した旨の通報があったとの報道もある。
 事故機は破片となり散乱したが、炎上はしなかった。なお、事故機のブラックボックスは、事故当日に回収された。
 リビア運輸省は、事故当日にテロの可能性を否定した。
 アフリキーヤ航空は2001年4月にリビア政府が設立し、2001年12月に運航を開始した航空会社である。
 事故機は2009年に製造された。

(2010年5月23日午後8時30分更新)


 2010年4月10日午前10時55分頃、ポーランド・ワルシャワ発ロシア連邦・スモレンスク行きポーランド政府専用機(運航はポーランド空軍)ツポレフTu-154Mが、スモレンスク空軍基地に着陸進入中に滑走路の手前約1kmの地点に墜落した。
 この事故で乗員8名、乗客88名、計96名全員が死亡した。
 乗客は、レフ・カチンスキ大統領夫妻をはじめとするポーランド政府・議会の関係者で中央銀行総裁や外務次官、参謀総長をはじめ3軍の司令官全員ら政府要人も搭乗していた。一行は、同日、スモレンスク州でポーランド政府の主催により開催が予定されていた「カチンの森事件」70周年追悼式典に出席するため現地に向かっていた。この式典に参加するため、犠牲者の遺族ら1000名も別途列車等で現地入りしていたが、本件事故の発生を受けて、式典は中止された。
 スモレンスク空軍基地は、事故当時濃霧のため視界不良で、管制官は、機長にベラルーシのミンスク空港かモスクワに着陸するよう提案していたが、機長は予定通り、スモレンスクに着陸することを決定した。事故機は、最終進入中に空港付近の森林地帯の樹木に接触して墜落、炎上した。
 ロシア非常事態省によると、事故当日中に全員の遺体が収容された。また、ブラックボックスは事故当日に回収され、フライトレコーダーの初期解析結果によると、事故機は高度を下げ過ぎていただけでなく、滑走路から少なくとも150m外れていたことが判明した。今後事故調査はロシアとポーランド両国の合同で進められる。
 スモレンスクはロシア連邦西部の都市で、郊外の森が、第二次世界大戦中の1940年に起こった「カチンの森事件」の舞台となった。「カチンの森事件」とは、スターリン政権の旧ソビエト連邦秘密警察により、ポーランド人将校、軍人を中心とする戦争捕虜ら約22000人が銃殺され埋められた事件である。本件事故の3日前の4月7日には、ロシアのプーチン首相、ポーランドのトゥスク首相らが出席したロシア政府主催の70周年追悼式典が行われ、歴代ロシア首脳として初めて現地を訪れたプーチン首相が、ポーランドとの歴史的対立への和解を呼び掛けたばかりであった。
 事故当日に、コモロフスキ下院議長が大統領代行に就任し、7日間の国家服喪を宣言した。
 事故機は1990年に製造され、歴代大統領が使用してきた。

(2010年4月11日午後11時30分更新)


 2009年7月15日午前11時33分頃、イラン・テヘランからアルメニア・エレバンに向かっていたカスピアン航空のツポレフ154型機が、イラン・カズビーン市近郊に墜落した。
 この事故で乗員15名、乗客153名、計168名全員が死亡したものとみられる。乗員乗客数、事故発生時刻等については、各メディアによって情報が錯綜している。
 事故機は、イラン・テヘランを墜落の約16分前に離陸した。墜落現場はテヘランの北西約140kmで、飛行中に技術的なトラブルが発生し、緊急着陸する空港を探していたとの情報もある。事故機は飛行中に炎上して墜落した。墜落現場には大きな穴が開き、破片が数百メートルに渡って散乱していることから、墜落の衝撃は激しかったものと見られる。
 カスピアン航空はイランとロシアの合弁会社として1993年に発足し、ロシア製航空機を中心に運航している。

(2009年7月15日午後9時35分更新)


 2009年6月1日世界標準時午前2時15分頃、ブラジル・リオデジャネイロ発フランス・パリ行きエールフランス447便エアバスA330-203(F-GZCP)が、高度35000ftを巡航中にブラジル・レシフェの北東約1200km、ブラジル北東部フェルナンド・デ・ノローニャ諸島沖の大西洋上でレーダーから消え、消息を絶ち、ブラジル北東沿岸から約1100kmのブラジル領海内の大西洋上に墜落した。
 この事故で、乗員12名、乗客216名、計228名は全員死亡したものと見られる。現在のところ、生存者も遺体も発見されていない。エールフランスによると乗員乗客のうち国籍が明らかな者は、フランス61名、ブラジル58名、ドイツ26名、中国9名、イタリア9名、スイス6名、イギリス5名、レバノン5名、ハンガリー4名、アイルランド3名、ノルウェー3名、スロバキア3名、アメリカ2名、ポーランド2名、スペイン2名、モロッコ2名、アルゼンチン1名、オーストラリア1名、ベルギー1名、カナダ1名、クロアチア1名、デンマーク1名、オランダ1名、エストニア1名、フィリピン1名、ガンビア1名、アイスランド1名、ルーマニア1名、ロシア1名、スウェーデン1名、トルコ1名であった。
 事故機は、現地時間の5月31日午後7時3分(世界標準時午後10時3分)にリオデジャネイロ国際空港を出発後、約11時間飛行して、現地時間の6月1日午前11時15分(世界標準時午前9時15分)にパリのシャルル・ドゴール空港に到着する予定であった。
 離陸の約4時間後の世界標準時午前1時33分頃に、雷雨を伴う激しい乱気流の空域に入った旨の運航乗務員からの連絡がブラジルの管制官にあり、この交信が最後の交信となった。事故機は、世界標準時午前1時48分にレーダーの監視空域を抜け、世界標準時午前2時頃には悪天候の空域を通過したものと見られるが、電気系統の故障や与圧の異常を示す自動信号による通報が事故機から送信され、約4分間に渡ってエールフランスのコンピューターと交信を行った後、世界標準時午前2時14分に最後の自動信号による通報が送信され、そのまま消息を絶った。この直後に墜落したものと見られる。
 エールフランスの最高経営責任者は墜落当日の記者会見で、事故機が激しい乱気流に遭遇し、さらには落雷に遭うなどして複数の機器系統に異常をきたし、管制との連絡が取れなくなったうえ、諸条件により墜落に至った可能性を指摘した。なお、フランス政府は墜落当日、事故機がハイジャックなどに巻き込まれた可能性は非常に低いと述べた。しかし、6月2日にフランス国防相はテロの可能性を含めて調査すると述べ、テロの可能性に初めて言及した。
 事故発生当時、墜落現場付近の空域は雷雲を伴う乱気流に見舞われており、事故機とほぼ同じ時間帯に同じ空域を飛行していたTAM航空(本社:ブラジル)のパイロットが、フェルナンド・デ・ノローニャ諸島から約1300km離れた地点を飛行中に明るくオレンジ色に光る海域を目撃したと証言した。
 墜落現場と推定されたブラジルの北東海域ではブラジル空軍のC-130ハーキュリーズなど航空機8機とブラジル海軍の艦船3隻が出動した他、セネガルに駐在しているフランス軍の航空機2機が捜索活動を行っていたが、悪天候で捜索は難航を極めた。フランス政府はアメリカ政府にも偵察衛星を用いた事故機の捜索を依頼していたが、翌6月2日未明にブラジル空軍機が、事故機が最後に自動信号を送信した地点に近いブラジル北東沿岸から約1100kmの海域で座席、救命ブイ、金属の破片などの残骸や航空燃料の油膜が約5km四方にわたり海上に浮遊しているのを発見し、墜落現場が確定した。海上に浮遊した残骸は6月3日に、現場海域に到着したブラジル海軍の艦船4隻が悪天候の中、回収作業に当たった。墜落現場の水深は2000〜3000mとも3000〜4000mとも5000mとも報じられ、今後の捜索活動や事故調査は困難を極めることが予想される。フランス政府は、水深6000mまで潜航可能な小型潜水艦を投入するが、現状ではコックピット・ボイス・レコーダーやデジタル・フライト・データ・レコーダーなどの回収の目途も立っていない。6月3日以降はアメリカ海軍の航空機1機も捜索活動に協力する。
 墜落現場の確認を受けて、ブラジル政府は6月2日から3日間を服喪期間とした。
 本件はエールフランスにとって史上最悪の航空事故となった。
 事故機は2005年に製造された。

(2009年6月4日午前0時15分更新)


 2009年3月23日午前6時48分頃、中国・広州発成田行きフェデラルエクスプレス80便(貨物便)MD-11F(N526FE)が、成田国際空港に着陸の際、バランスを崩して横転し、炎上した。
 この事故で、乗員2名全員が死亡した。乗員の国籍は2名ともアメリカであった。
 事故機は、A滑走路(4000m)に着陸の際、2回程バウンド(ポーポイズ)し、滑走路に左主翼を接触させ機体を左に大きく傾けて、滑走路の左側に外れて横転、裏返しになり炎上した。火災は約50分後に消し止められた。
 事故当時、滑走路上は最大瞬間風速18mの強風が吹いていた。また、成田航空地方気象台は、高度500m以下でウインド・シアが発生するとの気象情報を出して、管制官に通報しており、管制官も午前6時46分過ぎに事故機に着陸許可を出した際に、ウインド・シアの注意喚起を行っていた。
 この事故で、成田国際空港はA滑走路を閉鎖。B滑走路(2180m)のみで終日運用され、発着便に大きな乱れが出た。
 本件は成田国際空港で初めての航空死亡事故となった。
 事故機は1993年に製造された。

(2009年3月24日午前0時35更新)


 2009年2月25日午前10時31分頃、トルコ・イスタンブール発オランダ・アムステルダム行きトルコ航空1951便ボーイング737-8F2(TC-JGE)が、アムステルダム・スキポール国際空港に着陸進入中に、空港の北方約1.5km地点の農地に墜落した。
 この事故で、乗員7名、乗客128名、計135名のうち、9名が死亡し、25名が重傷、25名以上が負傷した。なお、死者には、機長と副操縦士が含まれていた。
 機体は墜落の衝撃で、大きく分けて胴体前部と中央部、後部の3つに分断され大破したが、火災は発生しなかった。死傷者の多くは機体後部に集中した。
 生存者らの証言によると、突然エアポケットに入ったように高度が下がり、すぐに機体後部が地上に激しく接地したという。また、墜落直前にエンジンの出力が強まった後、急降下したとの証言もある。目撃者の証言では、事故機が機首が上がった状態で墜落したという。
 事故当時、薄い霧がかかっていたが、運航の支障になる程の天候不良ではなかった。  本件事故調査にはアメリカ国家運輸安全委員会(NTSB)も参画することになった。
 事故機は2002年に製造された。

(2009年2月27日午前0時30更新)


 2009年2月12日午後10時17分頃、アメリカ・ニュージャージー州ニューアーク発同国ニューヨーク州バッファロー行きコンチネンタル航空3407便〔機体の所有及び運航は、コンチネンタル航空傘下のコミューター航空会社(いわゆるコンチネンタル・コネクション)で、バージニア州に本社を置くコルガン・エア〕ボンバルディアDHC-8-402 Q400(N200WQ)がバッファロー・ナイアガラ国際空港滑走路23への着陸進入中に同空港の北東約10km、バッファロー近郊の同州クラーレンスセンターの民家に墜落した。
 この事故で、乗員5名、乗客44名、計49名と民家の住民1名の合計50名が死亡し、近隣住民2名が軽傷を負った。
 事故当時、ニューヨーク州をはじめとするアメリカ東部では強風注意報が発令され、各地の空港で欠航や遅れが相次いでおり、現場一帯は軽度の降雪に見舞われ、磁方位240度方向から10ノット以上の風が吹いていた。また靄が出ていたため視程は約3マイル、雲底高度は最も低いもので約1100ftであった。事故機は午後9時20分頃、予定よりも2時間遅れでニューアーク・リバティー国際空港を離陸し、着陸予定時刻の5分前に墜落した。目撃証言によると、事故機は飛行高度が低く、異常な音が聞こえたという。また、突然急降下して民家を直撃したという目撃証言もある。
 墜落後、機体は民家もろとも爆発炎上した。高さ15m以上の火柱が上がったといい、空が炎でオレンジ色に染まったという。墜落現場が住宅街で消防署に近かったこともあり、直ちに消火活動が開始されたが、鎮火には3時間以上を要し、尾翼を残してほぼ全焼した。この火事で近隣の12世帯が避難した。
 アメリカ国土安全保障省は、本件についてテロの可能性を否定している。また、専門家からは、事故原因として機体への着氷との見方も出ている。
 墜落現場は、ニューヨーク州西部で、ニューヨーク市の北西約450kmに位置し、世界的な観光名所ナイアガラの滝の近郊である。
 DHC-8は、ボーイング、エアバスに次ぐ世界3位の航空機メーカー、ボンバルディア社(本社:カナダ・モントリオール)の双発航空機で、DHC-8-402 Q400はジェット機並みのスピードと燃費の良さ、静粛性などを主なセールスポイントとしている。高知空港で2007年3月13日、全日空機が前脚が出ずに胴体着陸した事故の機体は、本件の事故機と同型であるが、この事故では、前脚の格納ドア開閉に必要なボルトが製造時に取り付けられていなかったことが原因であった。同型機では他にも、2007年9月にドイツ・ミュンヘン空港で胴体着陸した他、デンマークでも着陸の際、主脚が折れ曲がり滑走路を逸脱する事故を起こすなど機体や装置のトラブルを繰り返しており、その安全性に疑問が呈されてきた。現在、日本国内では全日空グループで14機、日本エアコミューターが11機の計25機が就航している。
 事故機は2008年に製造された。

(2009年2月14日午後2時更新)


 2008年9月14日午前3時15分頃、独立国家共同体ロシア連邦・モスクワ発同国ペルミ行きアエロフロート・ノルド航空821便ボーイング737-505(VP-BKO)が、着陸のための降下中にウラル地方のペルミ近郊に墜落した。
 この事故で乗員6名、乗客82名、計88名全員が死亡した。乗客の国籍は、ロシアの他、アゼルバイジャン9名、ウクライナ5名、ドイツ1名、フランス1名、イタリア1名、スイス1名、ラトビア1名、トルコ1名であった。
 事故機は午前1時12分にモスクワ・シェレメチェボ空港を離陸し、午前3時30分にペルミ空港に到着する予定であった。午前3時10分頃、ペルミ空港へ着陸のため降下中、高度3600ftで交信が途絶え、レーダーアウトした。
 事故機は、木造家屋や集合住宅の近傍約数百mの地点に墜落し爆発炎上したが、地上での犠牲者はなく、火災も消防隊により約2時間後に消し止められた。残骸は半径約4kmの範囲に飛散した。ボイスレコーダとフライトデータレコーダは墜落当日のうちに回収された。
 右エンジンから出火したとの情報もあり、空中で出火し炎上しながら「彗星のように」降下するのを見たという住民の目撃証言もある。 乗客の中には、ロシア南部チェチェン共和国での武装勢力掃討作戦でロシア軍を指揮していたトロシェフ将軍も搭乗しており、テロの懸念もあったが、ロシア政府当局は、攻撃や破壊工作を示す痕跡は見つかっておらず、テロの可能性は低いとしている。
 この事故の影響で、墜落現場の近傍を走るシベリア鉄道の線路上に約500mにわたって、機体の残骸が散乱して線路が損傷し、列車の運行が一時停止された。
 アエロフロート・ノルド航空はアエロフロート航空の子会社であるが、アエロフロート航空は9月16日以降、ノルド航空に対し、アエロフロートの社名を用いることを禁止した。この措置について、アエロフロート航空の重役は、「我が社は、旗を貸し出したためにあまりに高い代償を支払った」と述べた。
 事故機は1992年に製造された。

(2008年9月15日午後5時35分更新)


 2008年8月24日午後8時40分頃、キルギス・ビシケク発イラン・テヘラン行きイラン・アゼマン航空(運航はイテク・エア)6895便ボーイング737-219(EX-009)が、ビシケク・マナス国際空港を離陸直後に空港から約2kmの地点に墜落した。
 この事故で、乗員7名、乗客83名、計90名のうち、乗客68名が死亡し、乗員7名、乗客15名、計22名が負傷した。
 乗客の国籍はイラン52名、キルギス24名、カザフスタン3名、カナダ2名、中国1名、トルコ1名であった。なお、生存者の国籍は、キルギス11名、イラン11名であった。乗客には国際親善試合のためイランに向かう途中のビシケクの高校のバスケットボールチーム17名が搭乗しており、うち10名も犠牲となった。
 事故機は、事故の約2時間前にモスクワから到着し、点検と整備を受けた。マナス国際空港を午後8時30分頃に離陸し、高度約1000mを上昇中に大きな音と共に機内の気圧が急減圧したことを示す警報が作動し、同空港に緊急着陸するために引き返す途中で旋回中に急降下して墜落した。機体は激しく炎上した。
 キルギス政府の要請により、アメリカ政府は現場近くのマナス米空軍基地から、消防車や救急車を多数派遣した。
 キルギス政府は、本件についてテロの可能性は低いとしている。
 事故機は、イランの航空会社イラン・アゼマン航空にチャーターされていた。
 イテク・エアはキルギスの航空会社であるが、安全基準を満たさないため、欧州連合(EU)圏内での運航を禁止されている。
 事故機は1980年に製造された。

(2008年8月26日午前0時15分更新)


 2008年8月20日午後2時45分頃、スペイン・マドリード発同国領カナリア諸島グランド・カナリー島行きスパンエア5022便(ルフトハンザドイツ航空との共同運航便)MD-82(EC-HFP)が、マドリード・バラハス国際空港を離陸直後に、滑走路を右側に外れて滑走路の脇の草地に墜落し、爆発炎上した。
 この事故で、乗員6名、乗客166名、計172名のうち、153名が死亡し、19名が負傷した。死傷者の多くは煙を吸っていた。乗客の国籍はスペインとドイツが主であった。乗客のうち22名は子供であった。
 目的地のカナリア諸島は、モロッコ沖の大西洋に位置する人気のリゾート地で、夏休みには欧州各地から観光客が訪れる。事故機の乗客も、その多くがバカンス客であった。
 事故機は、本来の出発時刻であった午後1時頃に、離陸のため滑走路に向かい離陸滑走を行ったが、故障のためターミナルに引き返して整備を受けていた。スパンエアが事故翌日に明らかにしたところによると、最初の離陸前に、事故機のエンジン(プラット&ホイットニー製JT8D-219)の空気取り入れバルブが過熱状態に陥っており、整備士が整備規定に従い、問題のバルブの機能を停止させる処置を施した。この故障及び処置と事故原因の関連性は現在のところ不明である。事故当時の空港周辺の天候は良好であった。
 事故機は、整備終了後の午後2時45分頃、再び離陸滑走を行い、滑走路36Lを離陸した直後に機体が傾いて右前方の草地に墜落、炎上した。滑走路脇の草地に突っ込んだ直後、事故機は大規模な爆発を起こし、尾翼など一部を除いて機体の残骸が広範囲に散乱し、激しく煙を上げて炎上した。事故直後からヘリコプターや消防車、救急車が多数出動し救助及び消火活動に当たった。
 事故発生直後、離陸滑走中または離陸直後に左エンジンから爆発音と共に炎が上がったとする複数の目撃証言が得られたことから、左エンジンに注目が集まったが、空港当局が撮影していた離陸滑走中の事故機のビデオ映像には、炎や爆発の模様が写っていないことが、22日になって明らかになった。
 事故当日、スペイン開発相は、テロの可能性を否定し、事故であるとの見解を示した。ボイス・レコーダと、フライト・データ・レコーダはその日のうちに回収された。今後の事故調査には、アメリカ国家運輸安全委員会(NTSB)、アメリカ連邦航空局(FAA)とボーイング社の調査チームが支援を行う。
 本件事故の発生により、バラハス国際空港は閉鎖され、一時機能が麻痺したが、翌日にはほぼ通常の運航状況に復旧した。  スパンエアは、1988年に創業したスペインに本社を置く同国の主要航空会社の一つであり、スカンジナビア航空の子会社である。同社も昨年来の燃料費高騰のあおりを受けて2008年の第1四半期に4100万ユーロ(約67億円)の赤字を計上したため、全従業員約4000人のうち1062人の人員削減を発表していた。
 事故機は1993年に製造され、スパンエアは1999年に大韓航空から購入し、使用していた。

(2008年8月23日午前0時10分更新)


 2008年6月10日午後8時45分頃、ヨルダン・アンマン発シリア・ダマスカス経由スーダン・ハルツーム行きのスーダン航空109便エアバスA310-324(ST-ATN)が、ハルツーム空港に着陸後に炎上した。
 この事故で、乗員11名、乗客203名、計214名のうち、少なくとも乗客29名が死亡、乗客71名が行方不明となり、乗員11名、乗客103名、計114名の生存が確認された。乗客の大半はスーダン国籍であった。
 事故機は、同日午後にポートスーダンに着陸しようとしたが、砂嵐と強雨のため、スーダン・ポートスーダンにダイバートし、夜になって再びハルツームに向けて離陸、激しい雷雨と視界不良の中、ハルツーム空港に着陸した。乗客や空港関係者の証言を総合すると、強い制動を伴う荒い着陸が行われた後、数分後に鋭い衝撃を感じたと言い、機体が停止する前に右エンジンから出火して爆発、炎が瞬く間に機内に広がった。客室乗務員による避難誘導が行われ、脱出用シュートによる避難が行われた。
 火災が発生したとき、事故機は管制塔に到着ゲートの問い合わせをしていた。大きな爆発音は数回に及んだと言う。火災は翌朝には鎮火した。
 事故機は1990年に製造された。

(2008年6月12日午前0時20分更新)


 2008年5月25日午後1時31分、ベルギー・ブリュッセル発バーレーン行きカリタ航空207便(貨物便)ボーイング747-209F(N704CK)が、ブリュッセル空港で離陸の際に大破した。
 この事故で乗員5名のうち4名が軽傷を負った。
 事故機は約76tの貨物を積載していた。
 離陸滑走中に機長が爆発音のような音を聞いたため、離陸を中止したところ機体が滑走路を走過し、翼上部付近と尾翼の付根の付近の二箇所で機体が折れた。機体は、空港と都心部を結ぶ幹線道路から約10m、民家から数百mの地点で停止した。燃料は漏出したが、消防隊の出動により火災は免れた。
 カリタ航空はアメリカ・ミシガン州イプシランティに本社を置く航空会社である。
 事故機は1980年に製造された。

(2008年5月27日午前0時30分更新)


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