2007年3月7日午前7時58分頃、インドネシア・ジャカルタ発ジョグジャカルタ行きガルーダ・インドネシア航空200便ボーイング737-497(PK-GZC)が、ジョグジャカルタ・アディスチプト空港に着陸の際に滑走路を逸脱してフェンスを突き破り、滑走路端から約300m地点の田圃の堤に衝突し田圃の中で停止して炎上し、尾翼部分を残してほぼ全焼した。
この事故で乗員7名、乗客133名、計140名のうち、乗員1名、乗客20名、計21名が死亡し、乗員乗客計110名が負傷、残りの9名は手当てが不要な状態であった。乗客の国籍は、インドネシア125名、オーストラリア8名、ブルネイ2名、イタリア2名、日本2名、イギリス1名であり、そのうち死者の国籍で明らかなのは、オーストラリアが5名であった。運航乗務員2名は共に生還した。
事故機は午前6時頃ジャカルタ・スカルノハッタ国際空港を出発し、午前7時頃ジョグジャカルタに到着の予定であった。事故機には同日に予定されていたテロ対策協議のためのオーストラリア外相のジョグジャカルタ訪問に備えてオーストラリアの外交関係者と報道関係者8名が搭乗していたため、事故発生当初はテロも疑われた。
目撃証言によると、事故機は着陸の際に大きくバウンドして前輪付近から出火、機体は滑走路を外れて停止し間もなく爆発炎上した。また、乗客が撮影した事故直後の映像によると、停止した際には機体の前方部分が大破し、脇から出火していたことが分かった。生存者の証言によると、接地の際に速度が落ちず、接地時に右主翼の前に炎が見えて客室内で悲鳴があがり、機体が停止した直後には後方のドアに乗客が殺到し、飛び降りるようにして脱出、その直後に大爆発が起き機体が黒煙に包まれたという。
激しい火災のため犠牲者の遺体の損傷は激しく、身元確認作業は難航した。
インドネシア政府は事故発生直後にテロの可能性を否定した。また、ガルーダ・インドネシア航空の広報担当者は、事故直後、前輪が出ていない状態で着陸した可能性があるとした。事故翌日の8日、捜査当局責任者は着陸時に前輪が大きな衝撃を受けるなどして外れた可能性があることを示唆し、事故直後の火災は、右主翼内燃料タンクが破損したことによるものとみられることを明らかにした。第2エンジンは途中で脱落していることから、エンジン脱落を契機に出火したものと見られた。また、同日インドネシア警察当局は、事故機が急角度で滑走路に進入したため、着陸の際に大きな衝撃を受けた可能性がある旨を指摘した。インドネシア運輸安全委員会は9日、脱出時にL1ドアが開かず、機体前方のビジネスクラスの乗客の脱出の障害となったことを明らかにした。犠牲者の多くはビジネスクラスの乗客であった。
事故機のフライトデータレコーダーとコックピットボイスレコーダーは火災による損傷を受けた状態で回収され、9日にはオーストラリアに送られ、同国で解析された。コックピットボイスレコーダーの解析結果について、2007年4月2日にインドネシア運輸安全委員会が明らかにしたところでは、着陸直前、進入速度が速すぎたため、副操縦士は減速の操作を行なったが、充分に減速できなかったことから、機長に着陸復行を進言した。しかし、機長は聞き入れず、副操縦士と口論となった末に着陸を強行した。事故直後、機長は着陸前に強い下降気流を受けたと証言していた。
本件事故の発生により、アディスチプト空港は閉鎖されたが、事故当日午後1時には再開された。発着便計13便に影響が出た。
ジョグジャカルタは、ジャカルタの南東約440kmのジャワ島中部に位置し、近郊に世界遺産のボロブドゥール遺跡などがあり、外国人観光客も多数訪れるインドネシアの古都である。
事故機は1992年に製造され、同社では2002年10月から使用されていた。