2004年1月3日午前4時44分、エジプト・シャルムエルシェイク発同国カイロ経由フランス・パリ行きFlash Airlines(本社:エジプト)604便ボーイング737-3Q8(SU-ZCF)が、シャルムエルシェイク空港を離陸直後にシャルムエルシェイク空港南方約11kmの紅海海上に墜落した。
この事故で乗員13名、乗客135名、計148名全員が死亡した。
事故機はチャーター便で乗客のうち133名は旅行のためエジプトを訪れたフランス人であった。殆どのフランス人乗客はフランス国内大手の旅行会社のうちの1社であるFRAMを通じて旅行を手配していた。その他の乗客はモロッコ人1名、日本人1名であった。乗員は全てエジプト人であった。(但しフランス人のうち2名は日本人乗客の子供でありフランスと日本の二重国籍であった。)
事故機は離陸約5分後、空港から約11Km南方の地点でレーダーから機影が消えた。事故機は、離陸後約2〜3分で何等かの異常が発生し、シャルムエルシェイク空港に引き返そうとしていた。しかし事故機からはメーデーは発せられなかった。事故機は高度5000ft以上の上空から海面まで約17秒間で急降下して墜落した。主要な残骸は水深約1000mの海底に沈んだ。墜落の衝撃が激しかったため、回収された遺体はいずれも損傷が激しかった。身元確認にはDNA鑑定が用いられた。事故当時の空港周辺の天候は良好で、運航の支障となるような要素はなかった。
報道されたところによると事故の直前、事故機の乗客の一人が親族に機内の状況を2度にわたって携帯電話で伝えていた。1度目は離陸のために滑走路に向かう途中で、トラブルが生じていることを伝えるもので、2度目は墜落の直前で、何かが起きている旨を伝えた後、背後で客室乗務員とみられる女性の絶叫が聞こえて通信は途絶した。
航空機を狙ったテロ情報が相次いで流され、欧米の大手航空会社が次々と欠航を決めるなどの異常事態の中で発生した本件事故をテロと見る声も少なくなかった。事故の直後、エジプト政府の民間航空相はテロの可能性を否定したが、テロも視野に入れた事故調査が展開されることになった。墜落直前に爆発音を聞いたという証人も現れたが、回収された遺体からは爆発の痕跡は発見されなかった。深海からの機体の引き揚げを含む捜索活動及び事故調査には、フランス政府も協力した。また米国国家運輸安全委員会もエジプト政府の要請に基づいて調査官を派遣した。
Flash Airlinesは、エジプトでの休暇旅行パッケージを各国に販売することを主な事業とするフラッシュグループの子会社として設立されたカイロに本社を置くチャーター便運航専門の不定期航空会社で、事故機を含めて2機の1993年製ボーイング737-300を保有し、欧州各都市とエジプト各都市間をチャーター便で結んでいた。同社の機体の定期的な整備はノルウェーの企業に委託されていた。
同社はスイス連邦民間航空当局が2002年10月に実施した機体の抜き打ち検査で、ICAOの定める航空安全基準を満たさなかったため、以後スイス上空の飛行および同国内での離着陸を禁止されていたが、2003年10月にツールズでフランスの民間航空当局が行った検査では合格していた。本件事故後フランス民間航空当局は、スイス連邦航空当局が同社に対して飛行を禁止する措置を取っていた事実を知らなかったと述べた。安全性に疑問がある航空会社に必要な措置を取らずにそのまま就航させていたために自国民に犠牲者が出たのだとすれば、フランス民間航空当局の責任問題となるため、同社の安全性の評価については関係各国、マスコミ等を交えて議論の対象となった。なお、同社はフランスの他、ノルウェーとポーランドで検査に合格していた。また、エジプトの民間航空相は、スイスの飛行禁止措置が事故後報道された際に、スイス連邦民間航空当局の対応は不正確で根拠を欠くものであると述べ、不快感を露にした。
事故2日後、スイス連邦民間航空当局は、2002年10月に実施した抜き打ち検査の対象となった機材は事故機そのものであったことを明らかにするとともに、飛行禁止措置までの経緯を明らかにした。その内容によると、当局はまず2002年4月に同社への検査を実施し、その際にエンジン、ステアリングシステム、脚部に明白な整備不足を発見した。その他、航法関係書類の不備、国際基準での計算法で燃料量の計算を行っていない点、幾つかの非常口の表示が使用できない状態になっている点などを発見した。これらの改善すべき点については同社及びエジプト民間航空当局に通知された。そして同年10月に再び検査を行った際、これらの状況が改善されていなかったため、飛行禁止の措置に踏み切った。
シャルムエルシェイクは、シナイ半島の最南端に位置する紅海沿岸のリゾート地として有名で、サミットなどの開催地となる他、世界でも有数のスキューバダイビングの名所としても知られており、ヨーロッパ各地から毎年たくさんの人々が冬期のバカンスに訪れる。
事故機は1992年に製造された。