2002年7月1日午後11時36分頃、ロシア・モスクワ発ドイツ・ミュンヘン経由スペイン・バルセロナ行きバシキール航空(本社:バシコルトスタン共和国〔ロシア連邦共和国内〕)2937便ツポレフTu-154M(RA-85816)とバーレーン発イタリア・ベルガモ経由ベルギー・ブリュッセル行きDHL(米資本の国際宅配会社、本部:ベルギー)611便ボーイング757-23APF(A9C-DHL)貨物機が、ドイツ南西部のバーデン・ビュルテンベルク州ユーバリンゲンの上空高度約10790mで空中衝突し、2機ともユーバリンゲン近郊のボーデン湖北岸付近に墜落した。
この事故で、バシキール航空機の乗員12名、乗客57名、計69名とDHL航空機の乗員2名の合計71名全員が死亡した。バシキール航空機の搭乗者の国籍は全員ロシア国籍であり、DHL航空機は、イギリス人機長1名、カナダ人副操縦士1名であった。
事故当時、両機はスイスの航空管制下にあった。事故が発生した空域は、ドイツとスイスの管制空域の境界近くで、ドイツの領空でありながらスイスの管制圏内に置かれていた。ドイツの管制当局は事故発生約5分前にスイス・チューリッヒの管制センターにバシキール航空機との交信を引き渡していた。
事故翌日の7月2日、スイスの管制当局は、管制官がバシキール航空機に衝突回避のため高度を下げるように指示したが、応答が遅く、3度目の指示でようやく降下を開始したこと、DHL航空機では、この時既にTCASが作動し、降下を始めていたため、空中衝突したとの見解を発表し、バシキール航空機が、管制の指示に迅速に対応していれば、あるいはDHL航空機がTCASの指示に従わず高度を維持していれば事故は避けられたことを暗に指摘した。また、ドイツのバーデン・ビュルテンベルク州政府運輸相も事故原因としてバシキール航空機が管制の指示に反応しなかった点を指摘し、DHL航空機は衝突回避に最後まで努力したとの見解を示した。ドイツ管制当局やドイツ警察当局もバシキール航空機が管制指示に迅速に従わなかったことが事故原因であるとし、マスコミもバシキール航空機にはTCASが搭載されていなかったのではないか、ロシア人パイロットの英語力不足が事故の要因ではないか、バシキール航空機はチャーター便で、この航空路の運航には不慣れであったのではないかといったバシキール航空機に事故の主因があるとの専門家の指摘を重く取り上げた。
7月2日午後には、スイスとドイツの航空管制当局が初期解析に基づく事故の概要を明らかにした。公表された内容によると、両機は事故空域にほぼ同じ高度約10970mで飛来した。管制官は衝突の50秒前に約210m降下するようバシキール航空機に3度にわたって指示したが、バシキール航空機からは応答がなく、衝突の25秒前になって突然急降下した。その直後、DHL航空機のTCASが作動し、同じく急降下したため10760mで空中衝突したとし、依然としてバシキール航空機の応答の遅れに事故の主因があることを示唆しながらも、降下するバシキール航空機に対して同じく降下の指示を出したDHL航空機のTCASの作動状況も含めて、両機が行った回避措置が事故原因解明の焦点となり得ることも示そうとした。
これらの動きに対し、ロシア航空運輸局は、航跡上航路に誤りはなく操縦ミスではなく管制の指示に問題があったと反論し、ロシア首相も事故機は比較的新しく必要な装備が備え付けられており、乗員は英語が堪能で、10年間の飛行経験を有していたと述べて牽制した。併せてバシキール航空も事故は管制官のミスにより発生したとの見解を示した。
ここに至り、ロシア機の応答の遅れが事故の原因としながら、最初の回避指示から衝突まで僅か50秒しかなかったことなど、スイス側の主張に疑問が呈されるようになり、状況が一変した。ドイツのパイロット連盟も5分から10分の余裕を持って回避指示が為されるのが通常と指摘した。
7月3日、スイスの航空管制当局は、事故当時チューリッヒ国際空港内にある航空管制センター内のコンフリクトアラーム(接近警報)が事故の約30分前から機器メンテナンスのため作動していなかったことと、本来2名体制で管制にあたるべきところ、1名で管制を行っており、他の管制官は休憩中であったことを明らかにした。また同日、ドイツ連邦航空事故調査局(BFU)は、事故の概要を、両機は同じ高度10973mで接近し、管制官は、バシキール航空機に、衝突50秒前に300m降下するよう指示した。しかし即答がなかったため25秒後に再度降下を指示し、これに応じてバシキール航空機は降下を開始したが、ほぼ同時にDHL航空機のTCASが作動して降下を開始し、その25秒後に両機は高度10790mで空中衝突した旨修正した。さらに、同日のうちに、管制センターのレーダーシステムに地上レーダの不使用などが原因で航空機の機影が一時消えたり、位置が正確に表示されない欠陥があり、1999年にはニアミスを発生させていたことも明らかになり、スイスの管制当局への不審感はもはや拭いきれないものとなった。
7月4日、ロシアの事故調査当局は、ボイスレコーダーの解析により衝突の約90秒前にバシキール航空機のTCASが作動し、同機のパイロットがスイス管制当局に対して衝突の危険性を警告していたことを明らかにし、実際の回避指示が出されたのはその40秒後の衝突50秒前で、直ちに回避指示が出されていれば事故は避けられたとスイス管制当局を批判した。同日、ドイツ連邦航空事故調査局は管制官からバシキール航空機への回避指示はこれまで発表していた衝突50秒前ではなく衝突44秒前であったことを明らかにし、少なくとも衝突90秒前には回避指示をすべきであったと管制サイドの回避指示の遅れに問題があると指摘した。
7月6日、ドイツ連邦航空事故調査局は、事故当時スイス・チューリッヒの航空管制センターでは主電話回線網も調整のため電源が切られており、代わりに予備回線を使用していたこと、管制官は事故直前の午後11時25分43秒から33分11秒まで、数回にわたりドイツのフリードリヒスハーフェン空港との電話連絡を試みたものの障害発生で失敗し、この復旧を試みている間に両機が接近したことを明らかにした。
7月8日、ドイツ連邦航空事故調査局は、バシキール航空機のTCASは衝突45秒前に上昇を指示し、衝突44秒前に出された管制の指示は降下であったことを明らかにし、矛盾する2つの指示のうち管制の指示に従って衝突したことが明らかになった。また、DHL航空機のTCASも衝突45秒前に降下を指示していたことが明らかにした。
7月12日、スイス運輸相はユーバリンゲンで開かれた慰霊式典に出席し、事故原因の一部はスイスの航空管制の初期対応に過失があったことを公式に認め、補償の用意があることを表明した。
スイスの航空管制はスイス政府が99.85%の株式を保有する民間会社スカイガイド社により営利を目的に運営されていた。スイス連邦航空事故調査局が明らかにしたところによると、スイス航空管制当局のレーダーは事故直前の6月25日付の他の航空事故調査報告書で、欧州の航空安全のための支援機関ユーロコントロールの基準を満たしておらず、早急な改善が必要であることが指摘されていた。
その後の調査で両機に登載されていたハネウェル社製の最新式TCASは、事故当時正常に作動しており、最初の回避指示を出してからさらに接近し続けていることを感知して、それぞれ2度目の回避指示を出していたことが分かった。
CVRの初期解析結果等によると、DHL航空機は、管制官がバシキール航空機に対し2度目の降下の指示(衝突約25秒前)を出した直後、TCASの指示に従って降下中であることを管制官に報告した。管制官はこの報告を受けて2機がコリジョンコースにある危険性を認識したものと見られる。取り急ぎ管制官はバシキール航空機に対し、DHL航空機が同機から見て右側にある旨注意を促した。しかし実際にはDHL航空機は左側から接近していた。この管制官の誤った指示により、バシキール航空機のパイロットは衝突の11秒前に前方を確認したにもかかわらず、右側を注視することとなりDHL航空機を発見できなかった。最終的にDHL航空機は衝突の3.8秒前、ロシアのバシキール航空機は1.8秒前にそれぞれ相手機を視認した。バシキール航空機のパイロットは視認後直ちに上昇を試みたが、もはや回避できなかった。
複数の目撃証言によると、衝突の瞬間、夜空全体が炎による閃光でオレンジ色に染まって地上を照らし、程なく雷鳴にも似た轟音が響き渡ったといい、直後に残骸などが雨のように降り注いだという。主要な残骸は主にユーバリンゲンの北西約5Kmの田園地帯オーヴィンゲンを中心に幅2Km、長さ6Kmの地域に落下し、その他の落下物は半径30〜40Kmの地域に散乱した。残骸の一部は炎上した状態で落下し、住宅や学校、農場で火災が発生した。
バシキール航空機はチャーター便で、乗客57名のうち52名は高校生以下の学生、5名は引率者であった。一行はスペイン・バルセロナで開かれるユネスコ(国連教育科学文化機関)フェスティバルに参加し、カタルーニャ地方のリゾート地で休暇を過ごす予定であった。今回の旅行はユネスコの現地委員会がバシコルトスタン共和国の首都ウファに組織する特別学校において行われた様々な選抜試験の全てに合格した優秀な学生達に与えられた特典であり、バシコルトスタン共和国大統領府や政府閣僚の子供も多く含まれていた。一行は6月29日にモスクワ入りしたが、旅行業者の案内ミスにより予定していたスペイン行きの便に乗れず、急遽チャーター便を手配し、事故に巻きこまれた。
墜落現場のユーバリンゲンは、フランクフルトから南へ約220Km、ドイツ最大の湖ボーデン湖(約540平方Km)北岸の保養地として知られる閑静な観光都市であり、夏場は水上スポーツなどのリゾート地として賑わいを見せる。また、湖の対岸はスイス・オーストリアという国境の町でもある。
バシキール航空は、旧ソ連崩壊後アエロフロートから分離独立し、バシコルトスタン共和国の首都ウファを本拠地としてアラブ首長国連邦やトルコ、パキスタン、中国、イラン、ドイツなどへの国際チャーター便の運航も行っていた。一方DHLは、世界各国に関連会社や事務所を持ち、約260機もの航空機を保有して全世界規模で営業している国際宅配業者である。
事故当日、ドイツ国内は、準優勝の好成績をもって前日に閉幕したサッカーワールドカップの代表チームの帰国を受けて、喜びに包まれていたが、事故の一報で祝賀ムードは暗転した。
バシキール航空機は1995年に製造され、DHL航空機は1990年に製造された。