2001年11月12日午前9時17分頃、アメリカ・ニューヨーク州ニューヨーク発ドミニカ共和国サントドミンゴ行きアメリカン航空587便エアバスA300B4-605R(N14053)が、ニューヨークのジョン・F・ケネディー国際空港を離陸約103秒後に空港から約8Km離れたニューヨーク市クイーンズ区ロッカウェイの住宅街に墜落した。
この事故で乗員9名、乗客251名、計260名全員と地上の住民5名の計265名が死亡した。
現場は住宅密集地帯で、4棟が全壊・全焼するなど計12棟の住宅に被害が出た上、少なくとも住民16名が負傷した。
事故機は1987年に製造され、1988年7月から就航していた。
乗客のうち226名はドミニカ国籍あるいはドミニカ系アメリカ移民であった。
機体の残骸は概ね4箇所に分かれて落下した。エンジン1基はガソリン・スタンドの敷地内に、また垂直尾翼は海岸付近の海上に、機体の主要部分や客室部分は住宅街に落下した。住宅街では大規模な火災が発生した。
NTSBのDFDRの初期解析結果により、事故機はDFDRの記録が終了する28秒前と8秒前の2回に渡り、事故機の直前に同空港を離陸し前方を上昇中のニューヨーク発成田行き日本航空47便ボーイング747-400の後方乱気流に巻き込まれたこと、2回目の遭遇の数秒後、機体は左右上下に激しく揺れ、尾翼が作動しなくなったこと、2回目の乱気流の直後、パイロットが機体を右に制御しようとしたのに対し、機体は左方向に傾斜して制御を失い急旋回しながら機首を下げ、墜落したことが判明した。
また、残骸の散乱状態などから、事故機は墜落前に垂直安定板、方向舵、第2エンジン、第1エンジンがそれぞれ胴体から脱落したことが判明した。
事故直後、エンジン4基を搭載しているボーイング747では、非常に強い後方乱気流が発生する場合があり、後方乱気流に事故機の垂直尾翼が破壊されたのではないかとの見解も一部の専門家から出された。しかし、NTSBは、乱気流の強さは想定された限界を超えたものではなく乱気流だけで尾翼がもぎ取られることはないと明言し、後方乱気流が、揺れを引き起こすことはあっても墜落に直接影響を与えるほどの威力は持たなかったものと事故発生当初から考えていた。NTSBは、尾翼が機体から外れたのは、後方乱気流だけが原因ではなく、尾翼の構造、素材などの欠陥、機械トラブルや操縦ミスを含めた複合的原因が存在する可能性を視野に幅広い事故調査を行った。また、エアバスA300の尾翼に使われている炭素繊維強化プラスチックは、軽くて強い反面、内部の損傷などが察知しにくい難点があるとの指摘もあり、NTSBでは尾翼に構造上の欠陥がなかったかも合わせて調べるとともに、事故機固有の事情として1988年に事故機がアメリカン航空に納入される前、機体と垂直安定板の6箇所の接続部分のうち1箇所に不具合があり、補強したことなどにも注目し、事故との関連性を調査した。
2004年10月26日、NTSBは最終報告書を発表し、事故原因は副操縦士が不要な方向舵操作を行ったことにあると結論付けた。事故調査報告書によると、事故機が日航ジャンボ機の後方乱気流に2度にわたって遭遇した際、事故機の副操縦士は方向舵のペダルを数回操作して機体を制御しようとしたが、その操作により横向きの強い力が発生し垂直尾翼が脱落した。関与した要因としては、エアバスA300の方向舵が軽い操作でも大きく動くよう設計されていた点、アメリカン航空ではパイロットに、方向舵をこのような場合のコントロールに使用することを奨励する内容の訓練を行っていた点などを指摘した。NTSBは同時にアメリカ連邦航空局(FAA)に、方向舵の設計基準の見直しなどを勧告した。
2001年9月11日の米国同時多発テロのから2ヶ月、いまだ緊張が続くニューヨーク市では、本件事故発生に伴い、市内全域に最高度警戒態勢が敷かれ、同空港から半径40Kmの上空は飛行制限、ニューヨーク周辺の3空港(ジョン・F・ケネディ、ラガーディア、ニューアーク)は閉鎖されたが、同日夕方までに段階的に運航を再開した。また、マンハッタン島と周辺地域を結ぶ橋やトンネル、地下鉄も閉鎖されたが、同日夜までに一部の制限を除き通行可能となった。その他エンパイアステートビルなどの主要施設や総会を開催中だったニューヨーク市の国連本部も一時閉鎖された。
同時多発テロと同じ時間帯に同じニューヨークで起きた本件事故は、多くの人々にあの日の恐怖を蘇らせた。