1997年12月19日午後4時13分(日本時間同6時13分)頃、インドネシア・ジャカルタ発シンガポール行きシルクエア185便ボーイング737-36N(9V-TRF)が、巡航中にインドネシア・スマトラ島南部パレンバンの北北東約55Kmのスンサン村付近のムシ川流域に墜落した。
この事故で日本人2名を含む、乗員7名、乗客97名、計104名全員が死亡した。
事故機は午後3時37分に機長の操縦でジャカルタ・スカルノハッタ国際空港を離陸した。高度35000ftを巡航中にメイデイの通報もないまま急降下して墜落した。事故機は計器飛行方式で飛行していたが、事故当時の天候は良好で有視界気象状態をも満たしていた。
事故機の残骸は尾部を除いた大部分がムシ川の川底に埋まった状態であったが、残骸の回収作業により総重量の73%の残骸を回収した。しかし、残骸は細かく破壊され、コックピットボイスレコーダー、フライトデータレコーダーも墜落直前には機能を停止していたため、困難で地道な事故調査活動が展開された。
事故調査の結果、午後4時5分にコックピットボイスレコーダーが録音を停止し、午後4時11分27秒にはフライトデータレコーダーも記録を停止したこと、事故機は午後4時12分18秒頃に急降下を開始するまで高度35000ftを維持していたこと、墜落直前に右主翼と方向舵の一部が事故機から脱落していたことなどが分かった。
事故調査の過程でインドネシアの事故調査委員会(NTSC)は、証拠は不十分であるが、本件事故の原因となりうる事柄を発見したが、アメリカ国家運輸安全委員会(NTSB)は、この仮説に強く反発したと伝えられる。結局、NTSCは事故調査報告書において高度35000ftからの逸脱の理由とブラックボックスの機能停止の理由は明らかにならなかったとし、原因不明の結論をとったが、NTSBは、事故機は手動操縦で機首下げが維持されていたこと、コックピットボイスレコーダーが意図的に作動しないようにされていたこと、急降下に陥った後も異常な姿勢からの回復は可能であったが試みていないこと、急降下は副操縦士よりも機長により行われた可能性が高いことなどを意見として主張した。NTSBは自殺という言葉こそ用いなかったが、事故は機長の意図的な行動の結果であると述べ、機械的な故障や誤作動の可能性を否定した。
NTSBによって示唆された機長自殺企図説によれば、機長は、副操縦士がコックピットを離れたすきに自殺を図る目的でコックピットボイスレコーダーとフライトデーターレコーダーをオフにし意図的に急降下を行ったことになる。機長は、とりわけ事故前の約6ヶ月間にわたり、いくつもの仕事関係の悩みを抱え、事故当時は経済的にも著しく困難な状況にあり、この点はインドネシアの事故調査担当者らの間でも議論の対象となった。また、機長の経歴において、事故当日は重要な意味を持っていた。1979年のこの日、彼は当時所属していた空軍の編隊飛行訓練に飛び立つ予定であったが、彼の航空機だけが故障のために飛行できず、他の僚機3機は訓練飛行に飛び立っていた。僚機3機は山岳地帯で悪天候に遭遇して全機墜落し、搭乗していた全員が死亡した。
なお、アメリカ連邦航空局(FAA)は、本件事故の発生を受けて1998年1月8日付で、1995年9月20日以降にボーイング737の新造機を受領した航空会社に対し水平安定板の全てのファスナーとエレベーターアタッチメントフィッティングボルトが適切な場所に取り付けられているかを24時間以内か5飛行回数以内に点検することを要求する耐空性改善命令(AD)を発行した。
事故機は1997年2月に納入されたばかりの新造機であった。