1977年3月27日午後5時6分、大西洋のカナリー諸島サンタクルス・デ・テネリフェ島(スペイン領)のテネリフェ(ロス・ロデオス)空港で離陸滑走中のオランダ・アムステルダム発スペイン領グランド・カナリー島行きKLMオランダ航空4805便ボーイング747-206B(PH-BUF)と滑走路端へ向けタキシング中のアメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス発同国ニューヨーク州ニューヨーク経由スペイン領グランド・カナリー島行きパンアメリカン航空1736便ボーイング747-121(N736PA)が、滑走路上で正面衝突した。
この事故でKLM機の乗員14名、乗客234名、計248名全員と、パンナム機の乗員16名、乗客380名、計396名のうち329名の計577名が死亡した。(なお事故後病院などでの死者数を加えるとパンナム機の最終的な死者数は乗員9名、乗客326名、計335名となり、合計583名が死亡した。パンナム機から生還した61名のうち59名が重軽傷を負い、2名は怪我もなく無事であった。)
KLM機機長は、管制塔からの離陸許可を受けずに離陸滑走を開始しており、パンナム機の交信による混信と管制官が誤解を招きかねない用語を使用したことにより、離陸スタンバイの指示を離陸許可と誤解したものと見られる。パンナム機は、管制の指示ではC-3で滑走路を離脱し、離脱を報告することになっていたが、走過しC-4に向かって滑走路をタキシングしていた。パンナム機のパイロットはKLM機と管制との交信をモニターし、KLM機が離陸を開始することを恐れ、自機がまだ滑走路上にいることを無線で報告したが、この報告が混信を招き、管制塔の離陸スタンバイの指示もパンナム機の報告もKLM機に届かない結果となった。KLM機の航空機関士はこれまでの交信内容から、パンナム機の滑走路離脱の報告がないため、パンナム機がまだ滑走路上を移動中であるかも知れないことに懸念を抱いていたが、離陸を急ぐ機長を制止出来なかった。事故当時のテネリフェ空港の天候は濃霧で視程は500mに満たず、このことも事故の間接的要因となった。
事故原因については、KLM機の機長に主な非があるとするスペイン政府の公式の事故調査報告書(通称スパニッシュ・レポート)とそれに真っ向から反論し、管制と航空機との交信時の誤解を発端に数々の偶然が重なり事故が発生したとするオランダ政府の見解(通称ダッチ・レポート)が出された。スパニッシュ・レポートが酷評されたのに対し、ダッチ・レポートは国際的に高い評価を得た。(なお、ダッチレポートは管制官がサッカー中継を聞きながら管制業務を行っていたために業務への注意が散漫になった可能性も示唆している。)
両機は、目的地のグランド・カナリー島ラスパルマス空港が爆破テロで閉鎖されたために再開まで隣のテネリフェ空港で待機していた。同空港は待機する旅客機で混雑し、誘導路にまで旅客機があふれ、1本しかない滑走路を誘導路代わりに使わざるを得ない状況となり、このことも事故原因の一端を構成した。
衝突の直前、KLM機は回避のため離陸操作を行い、パンナム機は滑走路を左方に離脱しようとした。しかし、KLM機の主脚がパンナム機の第3エンジンに衝突したのを最初に、パンナム機の機体上部、垂直尾翼を破壊し、同時に爆発炎上した。KLM機は、衝突後約140m飛行して滑走路上に墜落炎上した。
KLM機の乗員乗客の主な死亡原因は事故後の火災に起因するものであり、衝突そのものが与えた被害は少なかったと見られている。
◎関連文献(刊行年順) |
著者名 | 書 名 | 出版社 | 刊行年 | 頁 数 |
岡野正治 | 「事故のモンタージュ(T)」 | 全日本空輸株式会社総合安全推進部 | 1989年 | 18頁〜50頁 |
村上耕一 斎藤貞雄 | 「機長のマネジメント」 | 産能大学出版部 | 1997年 | 186頁〜192頁 |
デビッド・ゲロー | 「航空事故」(増改訂版) | イカロス出版 | 1997年 | 141頁〜145頁 |
宮城雅子 | 「大事故の予兆をさぐる」 | 講談社(ブルーバックス) | 1998年 | 39頁〜51頁、55頁 |
メアリー・スキアヴォ | 「危ない飛行機が今日も飛んでいる(上)」 | 草思社 | 1999年 | 200頁〜201頁 |
デヴィッド・ビーティ | 「機長の真実 ―The Naked Pilot―」 | 講談社 | 2002年 | 111頁〜124頁 |
デイヴィッド・オーウェン | 「墜落事故」 | 原書房 | 2003年 | 207頁〜214頁 |