1958年2月6日午後4時3分、ユーゴスラビア(当時)・ベオグラード発西ドイツ(当時)・ミュンヘン経由イギリス・マンチェスター行き英国欧州航空609便Airspeed AS.57アンバサダー2(G-ALZU)が、ミュンヘン空港を離陸滑走中にオーバーランし、滑走路端付近の家屋に衝突し停止した。
この事故で乗員6名、乗客38名、計44名のうち乗員2名、乗客21名、計23名が死亡した。
事故機は給油のため午後2時17分に降雪の中をミュンヘン空港に着陸し、給油の後午後3時20分に滑走路に向けての地上走行許可を管制塔から得て、午後3時31分には離陸滑走を開始したが、エンジンの出力が不均一で圧力も変動したため離陸を中止した。滑走路を引き返し再度離陸を試みたが、今度は第1エンジンの圧力が失われ、やはり離陸の中止を余儀なくされた。運航乗務員間で協議した結果、「ブースト・サージング」を避けるためにスロットルを通常よりゆっくりと開くことが決まり、3度目の離陸を試みることとなった。午後4時頃、事故機は3度目の離陸滑走を開始した。85ノットまで加速した時、第1エンジンにサージングが発生し、第1エンジンのスロットルはサージングが止むまで下げられ、再びゆっくりと上げられた。117ノットまで加速したときV1がコールされた。ところがその直後、V2(119ノット)に到達する直前に、事故機はスラッシュ(溶けかけた雪や氷でシャーベット状になった状態)に覆われた滑走路面に速度を奪われ約105ノットまで減速した。この時点で残された滑走路長で停止することは不可能であった。
事故機は滑走路をオーバーランし、空港の敷地のフェンスを突き破り道路を横切り民家と立木に衝突し、さらに約90m横滑りし、トラックが納められた木造の車庫に激突して激しく炎上した。機体前方部はさらに約65m滑ってようやく停止した。
事故当時、滑走路面は広くスラッシュに覆われていた。このため、エンジンの不調も手伝って事故機は離陸時に必要な充分な加速を得ることが出来ず、且つ離陸中止後の制動も得ることが出来ない状況に陥った。
スラッシュの危険性については事故当時、英国欧州航空社内ではあまり知られていなかった。事故後、英国航空省はスラッシュに関して注意を喚起する文書を発行した。
西ドイツ政府は、事故の原因を機体の氷結(アイシング)とする報告書をまとめたが、イギリス政府はスラッシュが事故の主要な原因であるとして反論した。
乗客にはイギリスのサッカーチーム「マンチェスター・ユナイテッド」の選手が含まれ、イギリス国内に衝撃を与えた。
事故機は1952年に製造された。
◎関連文献(刊行年順) |
著者名 | 書 名 | 出版社 | 刊行年 | 頁 数 |
デヴィッド・ビーティ | 「機長の真実」 | 講談社 | 2002年 | 353頁〜355頁 |
デイヴィッド・オーウェン | 「墜落事故」 | 原書房 | 2003年 | 119頁〜126頁 |