耐火物技術とはなんぞや?!
1:緒
小生も耐火物の世界に30数年身を置いてきた。 耐火物の技術は他の技術分野と少し異なるように感じられる。
その点についてこれから、小生の思いとして書き綴らんと思う。
2:耐火物との関わり
どうしてこの世界へ入ったかを話さなくてはならない。 小生は、化学という分野が余りというか可なり好きではなかったし、現在もそうである。
振り返れば、小生が小学校6年生のとき、近くの駐在所の数歳上級のお兄さんから鉱石ラジオをもらったときから、電気機器の虜になった。現在もその延長でアマチュア無線を生涯の趣味として続けている。 鉱石ラジオの構造に興味を持ち、回路の変更、鉱石の変更、アンテナを家の松の木に引き回すなどをした。当時は雑音も少なく、夜中に遠い地方から聞こえる放    送に聴き惚れた。
 
ある時、近くの親戚を訪問した。当時、NSB(日本短波放送)で野球と株の実況で、スーパーヘテロダイン式の家庭用ラジオの
局部発信側のバリコンのタップにワニ口クリップで取り付ける部品が販売されていた。これをつけて短波を聞くようにされていて、ダイアルを回していると無線の交信が聞かれた。14MHzでのローカルラグチュであった。自分もやりたいという気持ちが
強まった。
その後自衛隊の見学会に奈良のあやめ池遊園地行ったとき、当時AMでの自衛隊の交信を聴き居ても立ってもいられないようになった。
家のラジオは、再生式の1−V-1であったのでどうにもならなかった。
そのうち、隣村に2年先輩の人がマニアックも良いところで自作をやっていた。また、当時珍しいSSBの自作を、アンカバーで
Wと交信をしていた。その人は惜しくも高校卒業後、自営の仕事で来るまで走行中、モビール通信に熱中して前車に衝突して
なくなられた。この人とは高校まで高校の無線クラブ、放送部で一緒をした。
京都の寺町や大阪の日本橋へ行き、部品、主としてジャンクを購入して5級スーパー受信機を製作し受信にはまることになった。
それを聞いていると面白そうに話しているのに気が付いた。それは、7MHz、14MHzのアマチュア無線であった。
自分でもやりたくなって送信機を制作しようと試みたがとにかく資金がなかった。
高校の同級生でK君がJA3C**で免許を持ってやっていた。それを借りて帰ってアンカバーででの交信を始めた。
その機械は807シングルで変調は忘れたが周波数の切り替えはプラグイン方式であった。
それを参考に807シングル+6V6ハイシング変調であった。
そろそろ免許と大学時代20歳で電話級アマチュア無線技士の資格を取り、JA3IDQのコールサインで堂々と交信を始めた。
大学受験のために勉強に邁進した。京大の数理工学に進学したく受験をしたが夢かなわず、1浪ののち京都工芸繊維大学、京都府立大学、京大工業教員養成課程に
合格をしたが、授業料の安い国立大学へ進学することにした。窯業工芸学科でセラミックを学ぶ学科であった。大学時代は比較的真面目に勉強し、卒業時に教員家庭を取らずで
200数十単位を取得した。大学中はアルバイトで電気屋さんの仕事で、電気配線、水道工事、テレビ修理をやった。テレビは500台近くを修理した。
就職になり、播磨耐火煉瓦(株)という製鉄用耐火煉瓦の製造会社を受けることになり、面接でせっかくならば会社に来るまでに上級資格を取れと社長に言われ、
2級アマチュア無線技士の資格を取得した。電信(モールス)の送受信には苦労をした。
入社後、寮にアンテナを建て頑張った。地元の今日たちとも知り合いになりよく遊んだ。
これから耐火物の世界の話になってくるのである。
(続く)



 
 

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