「私」がいっぱい(パート1.5)



【1】前口上

 もう、かれこれ四半世紀前の話になります。
 阪神・淡路大震災後の「インターネット元年」と呼ばれた時流に乗って、型落ちのマルチメディアパソコン(懐かしい!) Macintosh Performa 575 を購入。今から思うと子供のおもちゃみたいなものですが、当時、この13インチの(図体はでかかった)愛機は、夢の世界に開かれたドアで、通信速度と課金 を気にしながら覗きこんだ“情報の海”は、どこかしら底知れない深さを湛えていたものでした。
 やがて、ネットサーフィン(懐かしい!)に飽きて、次にはまったのがメーリングリスト。哲学者・翻訳家の中山元氏が主宰する「ポリロゴス」 に登録して、すぐに、長文かつ大量の常連投稿者になっていました。顔も素性も性別も知らないメンバーの存在を意識しながら、本を読んで考えた こと、思いついたことを“パブリック”な場に発表することに熱中し、ほぼ4年、週2本のペースで投稿を続けたのです。
 それらの文章は、私のホームページ「ORION」の、ショーペンハウアーの“Parerga und Paralipomena”を逆さまにして「補遺と余録」と名づけた場所に集録していて、今回、“続篇”を書こうと思っている「「私」がいっぱい」 [http://www.eonet.ne.jp/~orion-n/ESSAY/TETUGAKU/17.html]という論考も、その倉 庫の中に保存してあります。
 これは、森岡正博氏の「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味 -「独在性」哲学批判序説」[http://www.lifestudies.org/jp/kono01.htm]を批判的に援用(利用)しつつ、哲学 者永井均氏の「〈私〉の独在論」について考えたものでした。
 その森岡氏が、永井氏との共著『〈私〉をめぐる対決──独在性を哲学する』(明石書店、2021年12月)の第3章「〈私〉の哲学を深掘り する」の註の中で、私のこの文章に言及し、「永井と入不二[基義]と森岡の議論を独自の視点から批評したもので、注目に値する」と、好意的に 紹介してくださったのです。「ウェブの深海に沈んで読者からは見えにくくなっていると思われるので、注意喚起しておきたい」とも(同書207 頁)。
 いわば“サルベージ”していただいたわけで、大変光栄なことだと思うと同時に、忘れかけていた“宿題”を思い出すことにもなったのでした。 精確に言うと、しっかり覚えてはいたけれど軽々に手がつけられず、なかば忘れ(たふりをし)ていた課題に、いよいよ取り組むきっかけを与えて もらった、という次第。論考の最後に、私は、次のように書き残していたのです。「私がいっぱい」パート1をここで終える。パート2は、たとえ ば「物質と時間」といったタイトルで近いうちに再開したいと考えている、と。
 予告していた“続篇”を始めることにします。


【2】噛み合わない議論

 『〈私〉をめぐる対決』は、3部構成で出来ています。
 第Ⅰ部「〈私〉とは何だろうか?」は、森岡氏による「永井の〈私〉の哲学」の解説。第Ⅱ部「実況中継「現代哲学ラボ 第2回」」は、 2015月12年に催された永井・森岡両氏の公開討論(森岡氏の言葉では「公開インタビュー」)の記録。第Ⅲ部「言い足りなかったこと、さら なる展開」は、その後に執筆された森岡氏の論考とこれに対する永井氏の批判的応答。そして森岡氏の「まえがき」と「あとがきに代えて」、最後 に「現代哲学ラボ」世話人の田中さをり氏による「あとがき」が加わる。
 読み処が第Ⅲ部にあることは、分量と中身から言って間違いないと思います。第Ⅱ部は kindle 化され、音源[https://philosophy-zoo.com/archives/4992]も公開されているので、この本を手に取らなければ読 むことができない、という意味でも。しかし、そこで展開されているのは、独在性の〈私〉をめぐるスリリングな哲学的対論ではなく、田中氏が用 いた(“異例”と言っていい)言葉を借りるならば、どこまでも「噛み合っていない」(306頁)議論なのです。
 実際、私は第Ⅲ部を読み進めながら、森岡氏の“執拗”(永井氏が関心を失ったかそもそも関心がない論点への“こだわり”)と永井氏の“苛 烈”(森岡氏の議論に対する情け容赦ない徹底的な批判)に、胸が痛くなりそうでした。どちらも真剣な哲学的対話に欠かせない態度だと思います が、それにしてもこの擦れ違いは何なのだ、私は何を読まされているのか、この議論はどこに着地するのか、着地しないまでも行きつく果てにいっ たい何が残るのか、と。
 噛み合わなさをめぐって、森岡氏自身は、「永井が四○年間かけて到達した山頂から眺めれば、森岡の議論は麓の入り口の付近でうろうろしてい るものにすぎない」(282頁)と、永井氏からのコメントを括っています。永井氏も同じ趣旨の言葉を、「不満」(217頁)もしくは“苛立 ち”(に近いものを私は感じた)をもって書き残しているのです。
 いわく、同じ主題について永年考え続けてきた者にとっては、三十年前に書いた「原画」は、その上に何重にも必然性をもった修正の上塗りが施 されているのだから、いまそれについて論じられても「懐かしい」という以外の感想を持つのは難しい。「きわめて多くの重要な修正が施されて、 もはや原型は意味を無くしている」(232頁)。
 独り相撲は言い過ぎですが、森岡氏は違う土俵で相撲をとっている。だから、議論はどこまでいっても噛み合わない。これが私の率直な感想で す。ただし、それは森岡氏の“愚昧”がなせることではあり得ません。永井哲学の起点となった〈私〉の存在をめぐる「驚き」を、森岡氏は確かに 共有しているし、永井哲学の最先端の議論をきちんとフォローし、かつその意義も把握している。本書全体を読んで、私はそう確信しています。
 だとすると、森岡氏は、永井哲学の到達点もしくは最前線ではなく、その出発点となった初発の議論に、意識的に、いわば“確信犯”的にこだ わっていることになります。では、それはいったい何故なのか?


【3】森岡氏の戦略?

 森岡氏は、なぜ“前期”もしくは“初期”の永井哲学にこだわったのか。私はこの問いに対する回答、というか仮説を二つもっています。
 その一つは、この本のコンセプトそのものにあります。『〈私〉をめぐる対決』は「現代哲学ラボシリーズ」の第2巻として刊行されたもので、 シリーズのねらいについて、森岡氏は「全巻のためのまえがき」で次のように書いています。第一に「哲学をする」こと自体への入門書をめざすこ と、第二に「日本語をベースとした、オリジナルな世界哲学」(J-哲学)を作ること。
 すでに“問題”を共有している者か、まったくの“初学者”かで違ってくると思いますが、第Ⅰ章の(さすが『まんが 哲学入門』の著者らしい)書き振りを見るかぎり、森岡氏が想定しているのは「哲学する」ことの“初学者”、ただし、この本に(というか、この本のタイトル に惹かれて)手を出す程度には“問題”を共有できる相手だと思います。
 そのような読者層を念頭において、森岡氏は、永井哲学の「入門部分を分かりやすく解説」しているのです。──〈私〉とは、「世界の中でただ ひとりだけ特別な形で存在している」ような私の在り方のことを指す。しかし、そのような在り方(独在性)について公共言語で語ろうとすると、 誰にでも等しく当てはまる「私」の在り方へと自動変換され、私が最初に言いたかったこと(〈私〉の独在性)は伝わらず消去されてしまう。
 これに対して永井氏は、第Ⅲ部の応答で、この「解説」では〈私〉の不思議さをめぐる「存在論的な驚き」が充分伝わらないし、またこの不思議 さには「その人がどういう人であるか」が全く関与していないこと(〈私〉の存在は世界の因果関連から外れていること)が明確に表現されていな い、と批判します。これらのことをしっかり書かないと、独在性の問題と一般的な意識の私秘性の問題(たとえばクオリアをめぐる)とが混同され てしまい、「多くの読者は問題の真の意味を理解することができないだろう」(212頁)と。
 いくら「分かりやすく」といっても限度がある、ということなのでしょう。この批判は正しいと思いますが、しかし永井氏自身、少なくとも“前 期”もしくは“初期”の段階では、独在性と私秘性を明示かつ厳密に区別して論じていなかったのではないか(むしろ、クオリアを典型とする意識 の私秘性にのっかって、〈私〉の独在性を議論していたところがあったのではないか)と私は感じていますが、これらのことはいずれ「パート 2.0」に本格的に取り組むなかで精密に検証しないといけない。
 ともあれ、“初学者”相手に、いきなり独在性と私秘性の区別云々の議論を持ち出すのはハードルが高い、まずは誤解を恐れず、“問題”の直感 的な雰囲気を味わうことから始めて、徐々に「哲学する」ことを追体験してもらえればいい。そのためには、“前期”もしくは“初期”永井哲学 の、“子ども”の「哲学的感覚」(私はこれを“哲覚”と呼んでいる)に根差したスリリングで眩暈的な(かつて私も魅了された)議論がとっつき やすい。
 勝手な推測ですが、森岡氏による本書の編集方針、というか“戦略”がこのあたりにあった可能性はあると思うのです。


【4】承前、森岡氏の戦略?

 前回の話題に関連して、永井氏の文章を二つ、引用しておきたいと思います。“前期”もしくは“初期”に書かれたもの(森岡氏が『〈私〉をめ ぐる対立』の第Ⅰ部で引用した文章)と、永井哲学の最前線に属するもの(同書第Ⅲ部での永井氏の応答中の文章)。
 音楽を“引用”するのに、楽譜を転記するだけではダメなのと同様、哲学の議論、それも哲学の“問題”に関するものは、大意要約や言い換えで は肝心なところ(“哲覚”的キモ)は伝わらないと思うので。

◎「この私」をめぐる果てしない問答
《どの人間も、もちろんみなある意味では、それぞれ「私」であろう。しかし、そのうちひとつだけが、まさに‘この’私であるという理由で、他 の「私」たちから区別されることは否定できまい。だが、そのように言えば、どの人間もある意味ではそれぞれが「‘この’私」ではないか、と反 問されるかもしれない。この反問に対しては、再びこう答えることができる。どの人間もみなそれぞれが、「‘この’私」であるかもしれないが、 そのうちひとつだけは、まさに‘この’「‘この’私」であるという理由で、他の「‘この’私」たちから区別されるのである、と。もちろん、こ の問答は果てしなく続く。》(『〈魂〉に対する態度』223頁、『〈私〉をめぐる対決』20-21頁で森岡氏が引用)

◎「剥き出しの存在論的問題」と「言語哲学的問題」
《…私が何を最重要の論点であると考えているかをはっきりさせておきたい。最重要点は、それが無ければ何もないのと同じであるといえるほど超 重要であるにもかかわらず、それが在っても無くてもこの世界の実在的[リアル]な記述内容にいささかの変化も生じさせないある特殊な存在が ──存在しないこともありえたのに、いやむしろ存在しないほうが普通であるはずなのに──何故か(ほんとうに何故か)‘現実には’そして‘現 在は’存在している!ということ、この存在論的事実である。第二に重要なことは、この事実は他人に伝えることができない。それどころか、この 事実はそのことだけを取り出してて記述する(描写する)こと自体ができない。なぜなら、この事実を記述する際に使われる同じ記述方式を使わな ければ他者の存在もまた記述できないからである。すなわち、私以外のだれであれ、第一基準[〈私〉の第一基準「この世界の中で、現実に痛みを 感じ、現実に物が見え、現実に音が聞こえ、現実に思考し、現実に想像したり思い出したりする唯一の人」(217頁)──引用者註]を使わずに 自己を他から識別する方法はないのだ。ということはつまり、奇跡的に存在したはずの〈私〉の存在(だけ)を語り出すはずの言葉が、すでに存在 していた(またこれから存在するであろう)諸々の自己を語る際にも使わざるをえないありかたをしているのだ。これが第二の重要点である。第一 の点は剥き出しの存在論的問題であり、第二の点は真の哲学的(強いて分類するなら言語哲学的)問題である。》(『〈私〉をめぐる対決』 218-219頁)

 備忘録がわりに、少し先走ったことを書きます。
 永井氏は、第二の文章の中で言及した「第一基準」のことを、『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』では「《私》の成立の第一基準」 (113頁)と呼んでいます。〈私〉と《私》。この二つの記法の違いが、「永井の独在論」と「森岡の独在論」の決定的な差異につながっていく はずです。


【5】死者との対話・ロボットの心やゾンビの問題

 森岡氏が“前期”もしくは“初期”の永井哲学にこだわった(と、私が勝手に決めつけている)理由の二つ目は、その“動機”にあります。この ことは、『〈私〉をめぐる対決』第Ⅰ部本文の締めくくりに、永井氏との哲学対話に臨む姿勢を、「森岡は永井の哲学を念頭に置きながら、いかに して自分の問題意識を貫いてそれに対抗していけるか」(33頁)と書いていることから明らかです。
 それでは、森岡氏の「問題意識」とはいったい何か。実は、このことが端的にあらわれている(と同時に、永井氏の「問題意識」というか永井哲 学の“構造”が語られている)二人のやりとりを、第Ⅱ部の対話の中に見つけたので(58-74頁)、少し詳しくフォローしておきたいと思いま す。
 発端は、永井氏が『哲学の秘かな闘い』収録の論文で導入した「独我論」と「独今論[どっこんろん]」をめぐる議論にあります(岩波現代文庫 264頁)。──“他人によって主張された”独我論に対して、別の独我論者が「いや違います。独在的に存在しているのは私です」と反論できる ように、“文字に書かれた”独今論、たとえば「私は今、この文字を書いている。‘これ’こそが現にある唯一の‘本当の’〈今〉だ」と印刷され た主張に対して、「いや違います。読んでいるその時が、私にとって〈今〉じゃないですか」と反論できる。
 しかし、とここで森岡氏は問う。独我論の場合は、反論された側が「でも正しいのは僕だ」と再反論できるように、お互いを否定しあうことがあ りうるが、独今論の場合、プリントアウトされた文章の方が、それを読んでいる私を否定するってことないじゃないですか。
 永井氏答えていわく、独我論の場合に、否定する他人がいるということを言うのであれば、書かれたものだって十分否定している、今読む自分を 否定している、とも言えるんじゃないかな……。〈今〉と言っている(書いている)以上は、それを読む方の「今、これが〈今〉である」というこ とを否定する力を文章はもっていて、それは、他者(独我論を主張する他者)を否定する力とそんなに違わないと思うけど。
 ここから先は、生[なま]の発言を引用します(74-75頁)。

【森岡】いや、永井さんが本当にその立場に立つんだとしたら私側にとってはそれは嬉しい話で、なぜかって言うと、「対話とは何か」とかいうこ とが問い直されていく可能性があるからですね。だって対話っていうのは、こちらに何か対話する主体があって、あちらさん側にも何か主体があっ て、この二つの主体が理性みたいなものを使いながらやっていくのが対話だ、と。このモデルから外れるのは対話じゃないっていうふうに考える人 は多いと思いますが、それを否定する可能性のある理論になるんですよ。私も実は全然別のフィールドでそういうことは考えていて、生命倫理で脳 死の問題とかやっているじゃないですか。すると脳死の人との対話みたいな話って実際出てくるわけですよ。でもあれは哲学的にどういうことか。 脳の中は理性も何もない。これを理論化するのはなかなか難しくて、でも私は何とかしたいと思っているんだけど、その話とどっかで絡む話になり そうで、私にとっては嬉しい話です。

 「これが本当の〈今〉だ」と書かれた文章には、「いや、これ(その文章を読んでいる今)こそが〈今〉だ」という反論を否定する力がある、と する立場が、脳死の人との対話の可能性とどうつながっていくのか、その理路がいまひとつ掴みきれないところが残ります。
(『ボルヘス、オラル』に収められた「不死性」の中で、ボルヘスは、ダンテやシェイクスピアの詩を読みかえした時、われわれはそれらの詩を書 いた瞬間のシェイクスピアやダンテになるのだと言っています。そのような意味での「死者(のペルソナ?)との対話(コミュニオン)」の話な ら、少し分かるような気もする。)
 しかし、この論点はここでは措いて、とにかく、森岡氏の「問題意識」がどのあたりにあるのか、つまり、永井の独在論を「私側」に絡ませたい と森岡氏が考えている、その「別のフィールド」の所在が、いま引いた発言の中にあらわれていることは間違いないでしょう。


【6】承前、死者との対話・ロボットの心やゾンビの問題

 森岡氏の発言には、続きがあります。以下、永井氏の応答も含め、丸ごと抜き書きします(75-76頁)。

【森岡】紙に書かれた文章のどこを見ても、脳も理性も何もない。だけど否定ということが文章の側で起きるということは言えるのですね?
【永井】そうだと思いますよ。言えるんじゃないですか。結局言葉ですからね。言葉の力は書かれたものにも同じようにある。
【森岡】と、考えるとそれはまさに言霊論みたいな話に接続してきますでしょ。
【永井】そうも言えますね。
【森岡】だからそこは……。
【永井】この話、僕の話は結局ね、独在的なものと言葉との対立関係でできているから、そこで実は、心とか人間の主体とかいう話は本当はあんま り出てこないんですよ、本質的には。独在的なものはまったく独在的だから、その本質は心でも意識でも何でもないんですね。何かそういう単独で 唯一のものなんですね。言語っていうのはそういう構造を普遍化して一般化したもので、この対立図式なので、そこで主体が何であるとかね、実は ロボットであるかゾンビであるとか、そういう問題は本質的には出てこないんです。
【森岡】でも掘ると出てくるかも。
【永井】むしろ出発点がこっちにあって、こういう出発点なので、普通の人がよく問題にするような「人間とロボットやゾンビはどう違うか」と か、そういう話はあんまり大した話じゃないようにできているんです、構造的に。
【森岡】いや、それはそうかなあ。そうでないような気がして。ほんとうはそこへもつながっているんだけど、永井さんの思考がそっちへあんまり 何か向かわないということでは。
【永井】そうですね。つながるんだけど逆方向につなげたいんですよね。こっちの独在性の側からつなげたい。つなげる場合はね。

 ロボットの心やゾンビの問題は、“前期”や“中期”の永井氏の著書にたびたび出てきた思考実験の素材の代表例で、そのほか、火星へ行った私 の話や水槽脳、体と脳が入れ替わった転校生の話、カブトムシの入った箱、等々、ずいぶん刺激をうけながら読んだ記憶があります。
 しかし、(これは永井氏自身がどこかで書いていたことですが)、そういった話題に関連する具体的な内容(たとえば「ロボットに心は宿るか」 といった)には哲学的な意味はなくて、だから、“後期”あるいは“最先端”の永井哲学は、その種の──「心や意識」といった、言霊論的な言葉 の力の圏域内にある実在的[リアル]なものをめぐる──思考実験を通じた“哲覚”的アハ!体験に依りかかることなく、純粋に論理的な──現実 的[アクチュアル]な次元における「独在的なもの」の、「剥き出しの存在論的問題」をめぐる──議論がもたらすロジカル・ハイだけで組み立て られているのです。
 ややこしい言い方になりました。前回と今回の二回にわたって取りあげた対話のうちに、森岡氏と永井氏のそれぞれの「問題意識」が、言い換え れば、“永井の独在論”と、これとは違う方向を向いた“森岡の独在論”の輪郭が、かなり鮮明に示されていることを、最後に確認しておきたいと 思います。


【7】補遺、永井哲学の三部作

 さて、ここまでの(やや長すぎる)“助走”を経て、ようやく本題が見えてきました。“永井の独在論”と“森岡の独在論”の対決がそれです。
 ここから先は、およそ次のような段取りで進めていくことになります、──まず、『〈私〉をめぐる対決』における「噛み合わない」議論の渦中 に踏み入り、そこから“森岡の独在論”を垣間見るための素材を蒐集して「パート1.5」を終える。あわせて“永井の独在論”をめぐる「パート 2.0」への足場をかためる。

 先へ進む前に、前回使った永井哲学の“中期”や“後期”という言葉をめぐって、少し“解説”を加えます。
 永井氏は、『〈私〉の存在の比類なさ』の「学術文庫版へのまえがき」で次のように述べています。「本書の二年後に、私は『マンガは哲学す る』という本を書いており、それが後期の出発点であったといえる。結実するのは、さらにその四年後の『私・今・そして神』においてである」。
 これを執筆した当時、永井氏は還暦前だったはずですから、人生百年時代の“後期”の仕事が、五十台前半で「結実」するのでは計算が合いませ ん。せめて“中期”と言うべきです。こうして、私は、永井均の仕事を前期・中期・後期の三期に分けて、それぞれの時期の主要な業績を、以下の ように三部作のかたちで整頓することにしたのです。
(*はタイトルや内容を一部変更して文庫化された作品を表示。全面的に改訂されたものもある。)

★前期三部作
 『〈私〉のメタフィジクス』(1986)
 『〈魂〉に対する態度』(1991)
 『〈私〉の存在の比類なさ』(1998/2010)

★中期三部作
 『マンガは哲学する』(2000/2004/2009)
 『転校生とブラックジャック 独在性をめぐるセミナー』(2001/2010)
 『私・今・そして神 開闢の哲学』(2004)

★後期三部作
 『存在と時間 哲学探究1』(2016)
 『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』(2018)
 『哲学探究3』(連載中)

 前期三部作は「独我論から独在論へ」、中期三部作は「中心化された世界の存在論をめぐって」、後期三部作は「何度でも初めて哲学すること」 などと、それぞれのテーマを設定できるかと思いますが、これはまだ思案中です。
(“後期”の仕事はまもなく「結実」するはずだから、これに続く第四期のことも考えておかなければいけない。たとえば“晩(成)期”とか“林 住期”と名付け、さらに“没後期”まで用意しておいて、今後の永井哲学の“進展”に思いを馳せたいと思う。)

 ことのついでに、永井哲学のそれ以外の三部作を、変わり種も含めていくつか列挙しておきます。

★哲学者三部作
 『ウィトゲンシュタイン入門』(1995)
 『これがニーチェだ』(1998)
 『西田幾多郎 「絶対無」とは何か』(2006)
*『西田幾多郎 言語、貨幣、時計の成立の謎へ』(2018)

★仏教三部作
 『〈仏教3.0〉を哲学する』(藤田一照・山下良道、2016)
 『哲学する仏教 内山興正老師の思索をめぐって』(山下良道・ 藤田一照・ネルケ無方、2019)
 『〈仏教3.0〉を哲学する バージョンⅡ』(藤田一照・山下良道、2020)

★SNS三部作
 『哲学の賑やかな呟き』(2013)
 『遺稿焼却問題 哲学日記2014-2021』(2022)
 『独自成類的人間』(2022刊行予定)

★翻訳三部作
 『コウモリであるとはどのようなことか』(トマス・ネーゲル、1989)
 『ウィトゲンシュタインの誤診 『青色本』を掘り崩す』(2012)
*『『青色本』を掘り崩す ウィトゲンシュタインの誤診』(2018)
 『時間の非実在性』(ジョン・エリス・マクタガート、2017)

★文庫解説三部作
 『現代思想としてのギリシア哲学』(古東哲明、ちくま学芸文庫、2005)
 『恋愛の不可能性について』(大澤真幸、ちくま学芸文庫、2005)
 『観念的生活』(中島義道、文春文庫、2011)

 三部作に仕立てることができなかった著作のうち、重要と思われるものを、身も蓋もない括り方で整頓したもの。

★その他三部作
 『哲学の密かな闘い』(2013)
*『新版 哲学の密かな闘い』(2018)
 『哲おじさんと学くん』(2014/2021)
 『今という驚きを考えたことがありますか マクタガートを超えて』(大澤真幸、2018)

 最後に、今後の議論にかかわる三部作を二つ。

★猫三部作(永井-森岡論争三部作)
 『翔太と猫のインサイトの夏休み』(インサイト、1995/2007)
 『子どものための哲学対話』(ペネトレ、1997/2009)
 『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』(アインジヒト、2003/2011)

★永井-入不二論争三部作
 『なぜ意識は実在しないのか』(2007)
*『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』(2016)
 『〈私〉の哲学 を哲学する』(入不二基義・上野修・青山拓央、2010)
 『現実性を哲学する』(入不二基義・森岡正博、刊行予定)

 最初の方は、森岡氏が猫だと言いたいのではなくて、登場する猫の名が、それぞれ英語・フランス語・ドイツ語で「洞察」を意味していて、この うち「ペネトレ」は、“森岡の独在論”のキーワードの一つ「ペネトレイター」と、語彙的に(かつ概念的にも?)つながっているのではないか、 と言いたかったのです。(冗談です。)
 後の三部作には、入不二基義氏との間で“勃発”した論争が、永井哲学の“進展”にとって画期となったことを踏まえ、「パート1」(「私」が いっぱい・本篇)で取り上げた“前期”における論争に続く、“中期”および“後期”の論争に関連する書物を掲げています。(その詳細はいず れ、「パート2」か「パート3」で触れることになると思う。)
 なお、『現実性を哲学する』は、『現代哲学ラボ第4号 永井均の無内包の現実性とは?』(入不二基義・森岡正博、kindle版、 2017)を書籍化したもの。「現代哲学ラボ・シリーズ」の第3巻として、『〈私〉をめぐる対決』に続く刊行が予告されています。

 補遺の補遺として。
1.以前ブログで、『〈仏教3.0〉を哲学する』をめぐって「永井均が語ったこと」という文章を書きました。[https://orion- n.hatenablog.com/search?q=%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%9D%87%E3%81%8C%E8 %AA%9E%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8]
2.“中期”および“後期”の「永井-入不二論争」について、Web評論誌「コーラ」 [http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/index.html]に連載している『哥とク オリア/ペルソナと哥』の第62章第5節にその概略を書いています。

 追記。 <2022.04.16>
 重大な疎漏を“発見”した。永井哲学を語る上で『〈子ども〉のための哲学』(1996)をはずすわけにはいかない。
 『これがニーチェだ』と『私・今・そして神 開闢の哲学』と組み合わせて「現代新書三部作」とするか、それとも『〈私〉の存在の比類なさ』 (独在論の入門書)と『翔太と猫のインサイトの夏休み』(哲学一般の入門書)と組み合わせて「入門書三部作」とするか。同じく取りあげそこ なった『ルサンチマンの哲学』(1997)/*『道徳は復讐である』(2009)と『なぜ人を殺してはいけないのか?』(小泉義之、 1998)と組合せる(『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』を加えて「倫理四部作」とする)手もある。
 自著解説に従うならば、「前期三部作」に「『〈子ども〉のための哲学』以前三部作」の副題をつけて3+1冊のグループにまとめ、「中期三部 作」に『倫理とは何か 猫のアインジヒトの挑戦』(独在論の倫理学的展開)を加えてこれも3+1冊にすると整合がとれる。


【8】余録、入不二の独在論

 前回の最後に触れた「永井-入不二論争」の、第四弾が“勃発”した(?)ようなので、そのことを少し書いておきたいと思います。いずれ取り 組むことになる“入不二の独在論”(あるいは“入不二の現実性論”)についての、かなり先走った備忘録として。
 先月、「永井均先生古希記念ワークショップ:私・今・現実」という催しがありました。楽しみにしていたのに、そんなときに限ってはずせない 仕事が入って、今、当日使われた資料やいろんな人の報告や感想を眺めては、その場に立ち上がっていたはずの“哲学的気配”の余韻を味わってい るところです。
 なかでも、出演者である入不二基義氏の発表「〈 〉についての減算的解釈─永井の独在性から入不二の現実性へ」の内容が公開されているのは 感涙ものでした。以下に書き起こしたのは、その動画[https://www.youtube.com /watch?v=qDAshhcWTdA]の34分25秒から38分55秒まで。ワークショップでの入不二氏の発表の“キモ”にあたる箇所 です。

・永井バージョンの〈私〉では、A=〈私〉∧B=〈私〉∧C=〈私〉……のような、唯一の〈私〉が複数存在するかのような矛盾が発生する。む しろ、その矛盾こそが、〈私〉と《私》の力動的な関係を構成する。
・しかし、純粋現実性の側から振り返られた〈私〉では、そうはならない。〈私〉は、文字通りただ一つの中心であって、その唯一の中心性が、異 なる複数の人物を通底して実現しているだけなので、特に矛盾はない。絶対的唯一性と受肉の複数性の間にあるのは、矛盾ではなく分有である。
・絶対的に唯一である〈私〉と複数の人物(主体)の分有関係を、図を使ってイメージしておけば次のようになる。

※画像資料[https://t.co/dJLCAWPnYU]18頁「唯一中心分有型の解釈」の上半分

・〈私〉は絶対的に唯一の中心であり、すべての人物(主体)ABCD……に対しても、文字通りただ一つなので、一つの円の一つの中心が〈私〉 に相当し、その中心を異なる角度から分け持っているのが、おのおのの扇型ABCD…である。
・複数性は、あくまで人物(主体)が持ち込む要因であって、それは〈私〉の絶対的唯一性には何の影響も及ぼさない。次元が異なる。
・さらにイメージを拡張するならば、下の小円の図が加わる。

 ※画像資料18頁「唯一中心分有型の解釈」の下半分

・実際には、おのおのの扇型つまり人物(主体)は、唯一の中心〈私〉を分有することで、円に同じ仕方で参与しているだけなのに、おのおのの扇 型が独立の中心(《私》)をもった一つの完全円であるかのように捉えられる場合に、複数円のようなイメージができあがる。
・ただし、この複数円の複数中心を可能にしているのは、あくまで人物(主体)の受肉における異なり、扇型の位置や中身の違いに相当する異なり であって、元の大円の唯一中心(〈私〉)が複数あることにはならない。
・〈私〉の中心性に関するこの考え方を、「唯一中心分有型」の〈私〉解釈と呼んでおく。これは永井バージョンの〈私〉に対する減算的解釈に なっている。

 ※画像資料19頁

・永井バージョンの〈私〉の方は、この絶対的な唯一中心と受肉化による複数中心との間に位置していて、両サイドの重ね合わせとして、両サイド の中間に浮かび上がるように思われる。
・〈私〉の絶対的な唯一性と人物(主体)の複数性を同じ一つの水準に持ち込んで重ね合わせて、Cの〈私〉、Eの〈私〉、Hの〈私〉とすると、 〈私〉が中心である別個の円として孤絶しつつ、その孤絶において並列するという矛盾的なあり方が発生する。

 ──入不二氏の報告を聴きながら、脳裏に浮かべていたのは、天台本覚の悉有仏性の思想(如来蔵思想)でした。入不二姓が『維摩経』(入不二 法門品)に由来することから連想したわけではないですが、入不二氏の哲学的思索には(その風貌も含めて?)、どこかしら仏教的なもの(ただ し、それは南方(小乗)でも北方(大乗)でもない、東方仏教と言われる伝統に属するものだと思う)との親和性が感じられたのです。
(今回は取りあげる余裕がないのでスルーしたが、入不二氏が「永井の独在性から入不二の現実性へ」と言うときの「現実性」(精確には「純粋な (力としての)現実性」もしくは「無内包の現実性」)は、永井氏の記法を使うと「〈 〉」と表記することができる。これはいかにも「無」とか 「空」といった仏教的概念を連想させる。)
 この印象を、“森岡の独在論”や“永井の独在論”に応用拡大すると、森岡氏の〈私〉はどこかしらキリスト教神学における「ペルソナ」の概念 と(あるいは、グレッグ・イーガンの短篇「貸金庫」(『祈りの海』)に登場する、家から家へ、体(宿主)から体(宿主)へと、すべての記憶を 保持したまま移動していく名前のない〈わたし〉と?)親和的であり、永井氏の〈私〉はキリスト教的な一神教と仏教的な無神論との双方に繋がっ ていく、ということになるでしょうか。

 追書。ワークショップにおける入不二基義氏の発表は、その後刊行された『《私》の哲学 をアップデートする』に集録されている。この共著に ついては、いずれ「「私」がいっぱい(パート3.5)」(仮称)において取りあげる予定である。
 

【9】唯一最大の論点

 本題に入ります。
 森岡氏が、『〈私〉をめぐる対決』第5章で、「森岡が永井に問いかけた唯一最大の論点は、「人物○○が〈私〉である」と「〈私〉が人物○○ である」は根本的に異なっているというものであった」(283頁)と書いている、その「唯一最大の論点」(ただし、永井氏にとっては論点です らなかった)に絞って、以下、“永井の独在論”と“森岡の独在論”の噛み合わない対立の様相、というか、それぞれの“感触”の違いのようなも のを味わっていきたいと思います。

 発端は、第Ⅱ部の対話で、永井氏の「翔太が〈私〉である世界」という表記に対して、森岡氏が「違和感」(116頁)を表明したことにありま す。
 いわく、「〈私〉が翔太である」はありえる。「~である」という述語がどんどん変わっていくのはいい。述語は反事実的に想定してもかまわな いから。しかし、〈私〉は徹底的に反事実的になることを拒むものじゃないか。だから「翔太が〈私〉である世界」のように、〈私〉が述語になる ことはできない。(86頁)
 永井氏答えていわく、実は〈私〉っていうのは一つの概念なんですよね。現実じゃなくてね。山括弧は現実性をすでに概念化してとらえていま す。(86頁)
 「翔太が〈私〉である」は、翔太という独在性をもったやつが一人いる世界を概念的に想定しましょうと言っているだけなんです。ただ、今度は そこに逆の不思議さがあって、本当は「私」だけのこととしてしか伝わらない独在性の問題が、「翔太が〈私〉である」で伝わる。むしろこういう 形式化が可能な形でしか独在性の意味自体が理解できないように出来ているんですよね。(88-89頁)
 森岡氏再びいわく、〈私〉が概念であるというのはその通りなんだけれど、ポイントはそこじゃない。「である」がポイントで、「〈私〉は翔太 である」の「である」は正しく説明できるが、「翔太が〈私〉である」の「である」は無理じゃないかと直観的に思わざるをえない。(89-90 頁)

 ──永井氏が言う「概念としての〈私〉」は、私の理解では二重山括弧の私、すなわち《私》にほかなりません。概念としての《私》についてで あれば、「翔太が《私》である」という表現には何の問題もない。森岡氏もそれは承知の上で、あくまで山括弧の私、すなわち(公共言語を使って 語るときには《私》としてしか語れない、したがって本来は語りえない)〈私〉をめぐって、「人物○○が〈私〉である」は成立しないのじゃない かと主張し、永井氏も同様に「人物○○が〈私〉である」は成立すると主張している。というか、森岡氏の「直観的」な主張を躱しているわけで す。
 この「唯一最大の論点」が、第Ⅲ部での二人の“応酬”を通じて「展開」していくことになります。


【10】〈私〉そのものが剥き出しで持続する

 第3章の第1節で森岡氏は、自身の直観的な「違和感」の実質をよりクリアーに表現しようと試みます。
 いわく、「人物○○が〈私〉である」という命題は理解することができない。「〈私〉である」は、何か別の述語部分と入れ替わるような形で代 入できるものではないからだ。〈私〉はそもそも命題の述語部分に置かれ得ない。それが、独在性の意味である。〈私〉はすべての可能性を唯一者 として貫通して必ず主語の位置に入ってしまう。〈私〉の視点からすれば、現実世界に対比される可能世界など存立し得ない。これはそもそも可能 世界の概念に対する疑義につながる。(125-126頁)
 これに応えて永井氏いわく、森岡の議論は理解できないが、言いたいことを忖度してみると、人物持続の諸条件(カント原理)とは無関係に、 〈私〉がただそれだけで、剝き出しで持続できると考えているのではないか。しかし、それはいくらなんでも素朴すぎる見解だろう。(第4章「森 岡論文への応答」第2節、228頁)

 話は前後しますが、いま引いた応酬の少し前で、永井氏は次のような議論を展開しています。
 いわく、〈私〉がいない世界と〈私〉がいる世界とは根源的に違う。この「単純なこと」を、言葉で説明するのは難しい。しかし、図で示すとほ とんどの人が理解できるし、「存在論的に本質的なポイント」が直に伝わる。

 図1 …●▲◆■▼…
 図2 …●▲◆□▼…
 図3 …●△◆■▼…

 図1で、…●▲◆■▼…は人間(意識的存在者)を表現しており、図2では、人物■がなぜか〈私〉であるという事実が□によって表現されてい る。図1の「平板な世界」のあり方と、これと矛盾する「異様な世界」のあり方とが、図2で合体させられている。この二種の世界あるいは世界の 二種の捉え方の対比こそが──「これほど根源的な違いがあるにもかかわらず、いかなる実在的[リアル]な差異もない」ということが──独在性 という問題の哲学的本質である。(第4章第1節、214-215頁)
 この図を使っていえば、「人物▲が〈私〉である」世界とは、図2の□がいったん■(図1)にもどって、▲が(可能的にではなく「現実」 に)△である世界(図3)を考えればよい。それは、図1と図2とを概念的に理解できた以上、必ず理解できるのでなけれなならない。(228 頁)

 ──「〈私〉は人物○○である」は言えるが、「人物○○が〈私〉である」はそもそも言えない。この森岡氏の主張に対して、永井氏は「理解で きない」と一刀両断です。
 ここまでのところ、私は永井氏の議論に説得されています。「人物○○が〈私〉である」は、「この丸は四角だ」とは違って、概念的に有意味に 理解できるからです。そんなことよりも(失礼!)むしろ、永井氏が言うように、いかなる「実在」的差異もないのに、「現実」には、根源的に異 なる世界が二つあることの方が、よほどスリリングな、“哲覚”を擽る問題だと思うからです。
 ただ、その一方で、森岡氏が言わんとしていることがとても気になるし、なぜか惹かれ(かけ)てもいるのです。カント以前に戻るのか、という 批判を潜り抜けて、あらゆる可能世界を「貫通」して唯一存在する〈私〉を、森岡氏がいかにして造型し得るか、あるいはその試みは壮大な失敗に 終わるのか。
 森岡氏は『生まれてこないほうが良かったのか?』の中で、渡辺恒夫氏が『輪廻転生を考える』で論じた「遍在転生観」──宇宙に存在するただ 一人のこの私(独我論的な私)が、輪廻転生によって何度でも、時間軸を超えてこの世界に生まれてくるという転生観──に注目しています。生成 途上の“森岡の独在論”の起点は、たぶんこのあたりにあると思います。


【11】ピン止めされる〈私〉

 第3章第2節で森岡氏は、「翔太が〈私〉である」と措定することが不可能であることを「別の角度」から説明しています(141-144 頁)。
 「〈私〉は♯♯である」や「♯♯が〈私〉である」というときの「♯♯」を、「この文章をいま読んでいる読者」、つまり「あなた自身」に置き 換えて考えてみよ。
 「〈私〉は♯♯ではない」とはどういう状態であるかを、〈私〉は、〈私〉であり続けながら想像することができるはずだ。というのも、 「〈私〉は♯♯である」というときの〈私〉は「現実世界にピン止めされた唯一の〈私〉」なのであって、それが現実に「♯♯」であろうと反事実 仮想として「♭♭」であろろうと、〈私〉のピン止めはいっさいはずれておらず、〈私〉の唯一性は微動だにしないからである。
 しかし、「♯♯が〈私〉ではない」とはどういう状態であるかを、「♯♯」が「♯♯」であり続けながら想像することは不可能であるし、できて はならない。なぜなら、「♯♯が〈私〉ではない」という想像は、〈私〉(ここから世界が開けている唯一の原点)からなされるほかはなく、その 内容も〈私〉によって決定的に侵食されてしまうからである。

《「ここから世界が開けている‘唯一の’原点」は、〈私〉によるあらゆる想像を浸食し、汚染し、その原点の存在を否定するような想像までをも 貪欲に浸食し、汚染し、みずからの支配下に置いてしまうのである。これこそが独在性の意味であろう。独在性は貫通していくのである。》 (142頁)

 これに対して、永井氏は次のように応答します(第4章第3節)。
 〈私〉そのものが剥き出しのまま世界に「ピン止め」されうるという議論は、いわば注文通りに典型的なカント的「誤謬推論」ではないだろう か。(239-240頁)
 森岡が言うように、「〈私〉は♯♯ではない」という状態を〈私〉であり続けながら想像することができたなら、それはそのまま「♯♯が〈私〉 ではない」状態を想像したということではないのか。「♯♯が〈私〉ではない」という想像は、〈私〉からなされるほかはなくとも、想像である以 上、その内容が〈私〉によって決定的に浸食されてしまうことはありえない。もしかりに想像内容が現実の事実によって浸食されてしまうならば、 それはたんなる想像力の力不足という心理的事実の問題であって、ここで論じている哲学的・形而上学的問題とは関係がない。(245-246 頁)

 ──ここでもまだ、私は永井氏の議論に説得されています。カント以前どころか、森岡の議論はそもそも哲学の議論ではない、と永井氏は厳しく 指弾し、哲学の素人・門外漢の私でさえ、そう言われればそうなのかもしれないと思う。
 そして同時に、森岡氏はなぜこの“苦しい闘い”を続けようとするのか、がとても気になるのです。「そうだ、その通りだ、私は何も哲学や形而 上学の問題(だけ)を論じたいわけではない、独在性、もしくは独在的存在者という概念を使って、私が考えたい問題、私が取り組みたい問題(二 人称的共同性をめぐる?)に挑んでいく、そのための(そのためだけの)哲学的基礎固めをしたいのだ」、とそう言ってしまえば“楽”になるだろ うに、なぜ森岡氏は、永井哲学の土俵の上で頑張り続けるのか(あるいは、永井哲学を森岡哲学の陣営に引き入れようとするのか)。

 以上の議論のうちにうまく「ピン止め」することはできませんが、“森岡の独在論”にとって大切な(“永井の独在論”にとっては土俵外の)話 題を一つ抜き書きしておきます。
 森岡氏は、「世界に〈私〉という唯一の世界の開けの原点が複数存在する」と主張することは可能なのか、そもそもそれは、つまり「唯一のもの が複数ある」という語義矛盾をきたす事態とは「いったどういうリアリティを指しているのだろうか」と問いを立て、自ら次のように答えていま す。

《転んで泣いている子どもに声をかけて抱き起すとき、その子どもに他の〈私〉が存在するという語義矛盾そのものを、〈私〉はリアルに生きてし まっている。もしそのように考えられるとすれば、他の〈私〉は永井の言うように「かいま見られる」ものではなく、その子どもの場所に‘語義矛 盾そのものとしてありありと露出しているものである’と言えるはずである。そしてその語義矛盾の露出こそが、私たちが共同で生きていくうえで の根拠なき確信の構造を形作っているはずである。》(134頁)

 ここで言われる〈私〉とは《私》(比類ない私、かけがえのない私、「~にとって」の〈私〉、概念としての〈私〉)のことにほかならないで しょう。
 そして、この意味での〈私〉すなわち《私》の成立の論理的な仕組みや、〈私〉との関係性という「独在性に内在する矛盾」を曖昧にしたまま、 (転んで泣いている子どもに声をかけて抱き起す、のような)情緒的な事柄を混入させて議論すべきでない、というのが永井氏の批判です(235 頁)。
 この(極めてまっとうと思われる)批判をくぐりぬけ、精錬されたかたちで打ち出される“森岡の独在論”とは、いったいどのようなものになる のか(おそらくそれは、「感性的独在論」とか「生命哲学的独在論」と名づけていいだろう、「論理的独在論」や「言語哲学的独在論」と呼ぶべき “永井の独在論”との対比において)。──これが、「パート1.5」における私の、唯一ではないけれども最大の論点です。


【12】独在的存在者の場所・二人称的確定指示

 第3章第3節。森岡氏はここで、永井均の〈私〉の概念を二つに分割します。

    / 独在性    ⇒ 在り方としての〈私〉
 〈私〉
    \ 独在的存在者 ⇒ 場所としての〈私〉

 「独在性」と「独在的存在者」の区別は、もともと「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味」(1994)において導入され たものでした。森岡氏はそこで〈私〉という表記を否定し、これに対応するものとして「独在的存在者」を用い、そしてその存在のあり方や性質を 指し示すものを「独在性」と表現しているのです。
 「いまから振り返ってみれば、この論文にはいくつかの問題点がある。」森岡氏は、そう語り始めます。その問題点の一つが、〈私〉と「独在的 存在者」の関係をめぐるもの。「森岡の論文ではこの二つが同一視されているが、それは誤りである。」

《永井の〈私〉の概念をていねいに点検してみれば、そこには、(1) 「ここから世界が開けている‘唯一の’原点」という在り方を指している場合と、(2) 「〈私〉は人物○○である」「人物○○が〈私〉である」というように固有人名…と〈私〉との連結を指している場合、の二種類があることが分かる。前者を 「在り方としての〈私〉」、後者を「場所としての〈私〉」と呼ぶことにしよう。(略)
 すると、「独在的存在者」は後者の「場所としての〈私〉」と同一であり、「独在性」が前者の「在り方としての〈私〉」と同一であることが分 かる。これが正しい形での〈私〉と「独在的存在者」の対応関係である。そのうえで言えば、森岡が〈私〉の問題でもっとも気にしているのは、 「場所としての〈私〉」の問題、すなわち「独在的存在者はいったい誰なのか?」という問題である。》(『〈私〉をめぐる対決』147-148 頁)

 最後の「独在的存在者はいったい誰なのか?」という問いに対する森岡氏の答えは、『まんが 哲学入門』(2013)の第3章(165頁)において、まんがイラストのかたちで(文字通り)示されています[*]。

 もしその人が死んだら世界全体が消滅することになるかもしれないような、そういう「私」がただひとつだけ存在する。そのような、ただひとつ 非常に特殊な「私」──永井均が〈私〉と呼び、森岡正博が「独在的存在者」と呼んだもの──を「ひとり存在」と呼ぶとして、ではその「ひとり 存在」はどこにいますか? それは誰ですか?
 この先生の問いかけに対して、まんまるくんは「ここにいます」「まんまるです」と答えるが、先生は「違います!! 「ひとり存在」はまんま るくんではありません そこにもいません 「ひとり存在」は…」と、間をとってから、「あなたなのです!!」と、紙面もしくはディスプレイに 垂直の方向(手前)に向かって、この本をいま読んでいる読者を指差す。
「…紙面に描かれたまんがイラストがちょうど紙面を前方に向けて飛び出すようにして読者の目の奥へと突き刺さり、その目の奥の場所から開いて いると暗示されるパースペクティヴに沿って独在的存在者があると指示される」(『〈私〉をめぐる対決』186-187頁)。

 森岡氏は、この指差しを「二人称的確定指示」(独在的存在者が誰であるのか、すなわち〈私〉の場所がどこであるのかを確定的に指示する方 式)と呼びます。そして、〈私〉という在り方(独在性)を主たる関心事とする“永井の独在論”は、〈私〉が誰なのか、〈私〉の場所がどこなの かを「確定的」に説明するには明確さを欠く、と批判するのです。

 この「二人称的確定指示」をめぐる議論に対しても、永井氏はあいかわらず、「理解できない(意味のわからない)議論」である、と“冷淡”な 態度を崩さず、疑問点をこれでもかと列記します。それらのうち、私が強く同意できた指摘事項を拾っておきます。(第4章第4節、249頁、 250頁、254頁)
 いわく、『まんが 哲学入門』165頁のイラストを私が見た時に、私が独在的存在者として「二人称的確定指示」されると森岡は言うが、そういう直接経験が成立していない時で も、私は「‘こいつ’だけが独在的存在者であること」を知っている。森岡の主張は、時計が存在するから常に〈今〉が「確定指示」されると言っ ているのと同じことのように聞こえる。時計には「今」たちのうちどれが〈今〉であるかを指す力はない。
 またいわく、森岡の議論では、最初に一人称の指示者が想定されているが、なぜその人は独在的存在者ではないのか。関連して私見を差し挟むな らば、だれであれ他者が独在的存在者を指すことなどできない。神でさえそれは不可能である。その神が、「〈私〉がたまたま受肉しているこの人 とは独立に存在するが、この独在的世界と相関的にしか存在しない、独在性の世界的・客観的な成分」であったとしても、独在的存在者の成立に とって、そのようなものが必要なわけではない。

 ──私は、永井氏が繰り出す批判に共感しつつ、その一方で(あるいはそれ以上に)、森岡氏の「二人称的確定指示」のアイデアに“未知の魅 力”を感じ(始め)ています。

[*]『まんが 哲学入門』165頁のイラストをめぐる永井均と入不二基義の“反応”を余録としてまとめる予定だったが、先を急ぐので見送り。以下に、関連する文献を記 す。

≪永井均の場合≫
○『哲学の賑やかな呟き』(2013)所収の「『まんが哲学入門』について 2013.8.9」で同書第3章を「全く賛成できない」「哲学的 には端的に間違っている」と批判。「にもかかわらず、なぜ私が『まんが哲学入門』をそれほど称賛したかといえば、川畠成道(や新沼謙治)に通 じる「深く悲しい」声が聴こえたから。」(379頁)
○『存在と時間 哲学探究1』(2016)第1章の註(22頁)で『まんが 哲学入門』を「画期的な哲学入門書」と絶賛。ただし同書147頁前後の議論を「哲学的には誤っている」と批判。
○以上の永井の議論に対して森岡は「独在今在此在的存在者」(2017)の補論2「永井による森岡の議論への言及について」で応答。

≪入不二基義の場合≫
○『現実性の問題』(2020)第5章で『まんが 哲学入門』第1章「時間論」の議論とイラスト(変形判)を引用(180頁)。また「あなたなのです!!」「プギャー!!」(『まんが 哲学入門』170頁)とヴェーダーンタ学派の「我はそれなり、汝はそれなり、全てはそれなり」を並べて議論(185-186頁)。(森岡の『生まれてこな いほうが良かったのか?』(2020)第4章3「おまえがそれである」参照)
○『現実性の問題』第6章で──共著『運命論を哲学する』で森岡が言及した「指差しの運動」(243頁)に関連する議論の中で──「あなたな のです!!」「プギャー!!」のまんがイラストを引用(240頁)。
○『現実性の問題』第5章(181頁~)・第6章(199頁~)で『運命論を哲学する』において森岡が扱った論点に応答。


【13】承前、独在的存在者の場所・二人称的確定指示

 私が、森岡氏の「二人称的確定指示」のアイデアに“未知の魅力”を感じる理由。
 それは、(生と死、存在と無ほどに隔絶した)異なる世界にまたがる“二人称的直接交流”──たとえば砂漠の預言者やジャンヌ・ダルクが神の 声を聴く、太宰治や永井均の作品を読んで「ここには私のことが書かれている」と驚く、といった類の宗教的・文学的・哲学的な神秘体験、あるい は第5回で取りあげた脳死者との“対話”、さらには転移・憑依・受肉、等々──をもたらす見えない回路や理路を説明する未知の理論が、そこに 可能性として潜んでいるに違いないと直観したからです。
 私はその昔、永井均著『西田幾多郎』と、美学者の尼ヶ崎彬氏が紀貫之や藤原定家他の歌論について書いた『花鳥の使』の二冊の書物を同時並行 的に読み進め、それらの融合を通じて、王朝和歌をめぐるいくつかの論点──クオリアやペルソナといった、本来言葉にできない純粋経験(歌の 〈心〉)を言語で表現できるのはなぜか、和歌に詠まれた〈心〉が、本来相通じるはずのない他者に伝わるのは一体いかなるメカニズムに拠るの か、一つの歌を詠むことは一つの〈心〉が現われること、ひいては一つの〈世界(現実)〉が出現することに他ならないのではないか、等々──へ の関心を嵩じさせたことがあります[*1]。
 これらのことを考えていく上で、森岡氏の「貫通」や「二人称的確定指示」の概念が非常に有効なのではないかと、私は確信しているのですが、 しかしこれは個人的な関心事にかかわる話題なので、このあたりで自粛します。

 ところで、森岡氏は、論文「独在今在此在的存在者」(2017)[http://www.philosophyoflife.org/jp /seimei201707.pdf]の中で、まんがイラストを使った「指差し」が、独在的存在者の確定指示にとって「非常に有効」である理 由を、次のように述べています。

《それは、まんがの絵の人物の頭の中に独立した内的意識があるとは考えられない[その点で脳死者と同じである──引用者註]にもかかわらず、 私がまんがを読むときには、あたかもそのまんがの絵の人物の頭の中に独立した内的意識があるかのように読んでしまうからである。そしてそのよ うな迫力を持ったまんがの絵の人物が、あるストーリーを背負って、「あなたなのです!!」と指差すときに、それによってただ一つだけの独在的 存在者がありありと確定指示されるのである。》(『現代生命哲学研究』(第6号)113-114頁)

 率直に言って、私には、まんがの絵の人物が「あなたなのです!!」と指差すことによって「ただ一つだけの独在的存在者がありありと確定指示 される」のはなぜなのか、(レトリックとしては迫真性を感じつつも)その理屈がいまだに掴みきれません。
 『聖書』を読み進めているうち、そこから神の声が立ち上がり、しかもその声は他ならぬこの私に直接向けられている──あるいは、これは「独 在今在此在的存在者」に書かれていることですが、親が脳死の子の身体に人格の一部が存在し続けていると実感し、その「身体に現われたなにもの か」(森岡氏はそれを「ペルソナ」と呼ぶ)と言葉にならない対話を行なう──といった(私には想像することしかできない)切実な体験を念頭に おいて考えると、もしかすると森岡氏が想定している事態に近づけるのかも知れません。
 これに対して、ただ絵に描かれただけの「顔」が、「あるストーリーを背負って」、かつ、そのストーリーを時間をかけて読み進めていく読者と のかかわりを通じて、あたかも独立した内的意識があるかのような「迫力」を持った「人物」に、すなわち「二人称的確定指示者」に成っていくの だ、という森岡氏の議論はとても腑に落ちるし、何か大切なこと(独在的存在者が「在る」か「無い」かだけでなく、独在的存在者に「成る」か 「成らない」か)が指摘されていると思います。

 いま引いた文章に続けて、森岡氏は「独在的存在者は指差される側にのみある」ことを次のように強調しています。

《ここから分かるのは、指差しによって独在的存在者が確定指示されるためには、その指差す者の中に独立した内的意識があるかのようなリアリ ティを私が生きていることが必要だということである。ここで注意すべきは、その「指差す者の中の独立した内的意識」は、けっして独在的存在者 ではないということである。独在的存在者は指差す側にあるのではなく、指差される側にのみある。(略)
 ここでのポイントは、「そこに誰かがいる」かのようなリアリティを私が持っているような状況や文脈において、その誰かが私を指差すという出 来事が起きたときに、独在的存在者の確定指示が生起し得るということである。すなわち、独在的存在者の確定指示は、「「そこに誰かがいる」か のようなリアリティを私が持っているような状況や文脈において、その誰かが私を指差すという出来事が起きる」という前提があってはじめて成立 する。すなわち、「そこに誰かがいる」かのようなリアリティというものがまず最初にあって、そのあとで、独在的存在者の確定指示が生起するの である。これが「指差しモデル」の第一の本質である。》(同114頁)

 森岡氏は、文中の「リアリティ」について、「ここでの「リアリティ」(実在性)は、永井の言う意味での「リアリティ」(実在性)とは異な る」と註を付けています。
 「リアリティ」(実在性)と「アクチュアリティ」(現実性)の区別は、入不二基義氏との論争を経た後の“後期”の永井哲学において決定的に 重要な論点になるのですが、ここでは、『〈私〉をめぐる対立』に収録された永井氏の文章から、関連する個所を引いておきます。それは、「なぜ か〈私〉という不思議なものが存在しているという事実」(210頁)について述べられたもので、その“さわり”を第3回で紹介しています。

《…その人が〈私〉であるということに、その人がどういう人であるか(心的であれ身体的であれ、その人の持つ性質、特性、特徴)がまったく関 与していない、という点が不思議なのである。その人はその人を〈私〉たらしめるようないかなる特質も持ってはいないのだ。ということはすなわ ち、〈私〉の存在にはいかなる原因もないということであり、その存在は世界の因果連関から外れている、ということを意味する。これは驚くべき ことだといえる。》(『〈私〉をめぐる対立』212頁)

 ここで言われる、心身の性質・特性・特徴・特質、世界の因果連関が「リアリティ」(実在性)に、そして、それらから外れて(無関係に)存在 する〈私〉のあり様が、つまり「なぜか〈私〉という不思議なものが存在しているという事実」が「アクチュアリティ」(現実性)にかかわります [*2]。森岡氏が先の引用文中で使った「リアリティ」は、永井氏の言う意味での「アクチュアリティ」(現実性)のことだった、私はそう考え ます。

[*1]唐突で場違いな註になるが、ちょうど今読んでいる辻邦夫著『西行花伝』が佳境に入ってきて、是非書き残しておきたい文章(女院・待賢 門院璋子崩御前後の西行の述懐)と出逢ったので。

《歌は、単なる言葉の遊戯[あそび]ではない。歌の心、歌の意味は、もう一つの新しい現実[このよ]の出現[あらわれ]なのだ。歌で開かれた 舞台に似た世界は、ただ妻戸の向うの庭を見るといったものではない。それが藤色の歌なら藤色に世界が染められるのだ。赤なら、夕陽に野山が照 らされるように、現実[このよ]は茜色に染め変えられるのだ。心が月の光に澄んでゆくとき、実は、この世が蒼く澄んでゆく。花の色を歌が詠み だせば、それは歌のなかに閉じこめられた花の色ではなく、この世がすべて花の色に包まれ、花の色に染められるのだ。》(『西行花伝』(新潮文 庫)355頁)

《多くの歌詠みたちが物合せや遊山や遊興のさなかに、花を飾り、屏風を置くように歌を詠み出すとすると、崇徳院や私には、反対に、この世は歌 の中に包まれていた。歌はつねに大いなる開花であり、尽十方世界を包みこむ無窮[はてなし]の球体[たま]であった。日々の暮しの中の細々し た装飾品の一つ一つではなく、天地を包みこむ容器[うつわ]のような存在であった。(略)
 自らの力を誇示して言うのではないが、こうした思いはようやく私のなかに。まさに、疑うことのできないものとして掴めるようになっていたの であった。巨大な透明な球[たま]のごときものとしての歌──その歌に包まれて現実[うつせみ]の諸々の物事[もの]は意味を持ちはじめる、 という信念、それを私は崇徳院と共有しようというのであった。》(同359-360頁)

[*2]帯(腰巻)の背に「世界の秘密」というコピーが印刷された永井均著『遺稿焼却問題』に、次のツイートが収録されている。──描かれた 絵が「何の絵か」ということと「その絵が在る」ということ、「この二つの関係を混同しないことが重要だと思う。私が哲学上ぜひとも言いたいこ とは、それだけかもしれない」(098-099頁)。
 野暮な註釈を加えると、もちろん「何の絵か」が「リアリティ」に、「その絵が在る」が「アクチュアリティ」にかかわる。場違いな註への補註 になるが、西行の(虚構の)述懐に出てくる藤色、赤、茜色、蒼の「花の色」や「巨大な透明な球(=歌)」が「アクチュアリティ」の、「現実の 諸々の物事」が「リアリティ」の異称である。


【14】補遺、独在主義に基づく誕生肯定

 第3章第3節に書かれていた事柄のうち、ぜひ(あるかもしれない後の議論への“伏線”として?)注目したい文章があります。長くなるので、 最初と最後だけ抜き書きします。

《森岡が、独在的存在者とは誰なのか、その場所はどこなのかという問いに執着するのは、森岡の「誕生肯定の哲学」と深くかかわるからである。 誕生肯定の哲学は、さらに広い「人生の意味の哲学」に包摂される。(略)主観主義は、人間の主観に着目して、それに他人が口出しをするのはお かしいと主張するが、独在主義はそのような「人間一般の主観」について云々するような考え方をすら拒否するのである。そうすることによって、 いまこの文章を読んでいる読者の一度かぎりの人生というものの意味を真に立ち上がらせようとするのだ。森岡の「誕生肯定の哲学」は、この独在 主義の次元において構想されている。森岡が永井の独在性の哲学にコミットせざるを得ない最大の理由はここにある。そして、森岡が独在性の読み 換えの運動よりも、独在的存在者の場所のほうにより強い関心を持つ理由もここにある[*]。森岡が着目している独在性と、永井が着目してきた 独在性が交わっていることだけは少なくとも確かであると思われる。》(156-157頁)

 いろいろな読み方ができる文章だと思います。
 たとえば、「人生の意味」が意味しているのが「リアリティ」の次元なのか「アクチュアリティ」の次元なのかによって、“森岡の独在論”と “永井の独在論”は、単なる「交わり」のレベルではすまない関係を切り結ぶでしょう。森岡氏が「リアリティ」の次元で「人生の意味」を考えて いるのだとしたら、それこそ両者は「噛み合わない」し、「アクチュアリティ」の次元なら、森岡氏が着目する独在性は、永井氏の独在性の世界を 豊かに拡張することになる(かもしれない)からです。
(「アクチュアリティ」の次元における「人生の意味」とは、人生の“内容”とは一切無関係に、ただ今そこに「在る」こと自体に着目して考えら れるものなのではないか。前回の註で引用した西行の(虚構の)述懐に出てきた「天地を包みこむ容器(うつわ)」(=歌)が、それ自体としては 内容空虚であるものであったように。自問自答ながら、私はそう考えている。)
 そもそも、森岡氏が言う「誕生」は、「私」もしくは《私》がこの世に生を受けることなのか(リアリティの次元)、それとも〈私〉が出現する こと、あるいは「受肉」することなのか(アクチュアリティの次元)によって、議論はまったく異なったものになってくるでしょう。

 これらのことについては、あるかもしれない後の議論に委ねることにして、ここでは、森岡氏が先の引用文の註で参照を促していた『生まれてこ ないほうが良かったのか?』(2020)第7章の中に、かの「唯一最大の論点」にかかわる議論を見つけたので、そのことを紹介したいと思いま す。
 森岡氏はそこで、一般的な「ある人」についてではなく、この「私」が生れてくること、すなわち「生成」が悪であるかどうか、という問題を考 察しています。そして、ここでもっとも重要なのは、この問題を考える「私という主体」それ自体が、出生という出来事によってはじめてこの世に 存在するに至るという点である、と指摘します。
 私が生まれてこなかったことがどういう状況なのかを、いまここにいる私が想像してみることはできない。なぜなら、そのような反事実的な状態 を正しく想像するためには、それを想像しようとする私それ自体をも消去しなければならなくなるからである、というわけです。
 これに対して、私が「存在」していないことに関しては、いまここにいる私がそのような反事実的な状態を仮想的に措定し、その状態が悪かどう かを判断することができる。というのも、「私が存在していない」状態については、それを想像している私それ自体にまでその否定の力は及ばず。 私はいわば外側の安全地帯に立って命題を傍観的に考察することができるからである。

《私の存在を反事実化することは可能であるが、私の生成を反事実化することは不可能である。私は自身の存在の否定の外側には立てるが、私は自 身の生成の否定の外側には立てない。まさにここに「生成」の「生成」たる所以がある。「生成」は力なのである。(略)私の非存在と私の非生成 は本質的に異なっており、前者は措定可能であるが後者は措定不可能であるという命題を「私の非存在/非生成問題」と呼んでおきたい。これは新 しく発見された命題である可能性がある。》(『生まれてこないほうが良かったのか?』287-288頁)

 森岡氏がここで論じている「生成」と「存在」の区別は、ニーチェに由来するものです。私はそれを、「アクチュアリティ」(現実性)と「リア リティ」(実在性)の区別に対応させて考えています。つまり、〈私〉の「生成」(誕生)をめぐる「現実性」のレベルと、「私」もしくは《私》 の「存在」(持続)にかかわる「実在性」のレベルの、二つの次元が区別されるというように。
 そのような前提をおき、かつ「私が生まれてこなかった」状況を当の「私」が想像することはできないという森岡氏の、ややトリッキーで子ども の理屈のような(これは皮肉ではない、念のため)議論を受け入れるなら、次のようなことが言えるかもしれません。
 すなわち、「人物○○が〈私〉である」は、本来「現実性」のレベルに属する事柄(生成=誕生)を、「実在性」のレベルの事象(存在=持続) として扱う無意味な命題である──「私が〈私〉でない」事態、つまり「私が誕生しなかった世界」を、その「私」が有意味に想像あるいは命題と して措定することはできない──と森岡氏は主張していたのだ、と。

 最後に、森岡氏の議論を私なりに図示してみます。図の上半分は、事実として想像可能(命題として措定可能)な領域を、下半分はそれが不可能 な領域を示しています。

       <生 成>
        actuality
         │
    不 在  │  存 在
         │ 
  ━━━━━━━┷━━━━━━━
   possibility     reality
       virtuality
       <非生成>

[*]他人の文章に勝手に註を付けるのも失礼な話だが、永井氏がこの一文をめぐって次のように書いている(第4章第5節、262-263 頁)。後の議論につながるかもしれないので、概要を抜き書きする。
 いわく、森岡は「独在性の読み換えの運動よりも、独在的存在者の場所のほうにより強い関心を持つ」と言うが、これは驚くべきことである。そ んな「暢気な分類」はしていられない、ということこそが独在性問題の本質だからだ。独在的存在者を切り離しそれに関心を集中するなどというこ とはできない。「それを語ろうとするそのことの内で独在性のもつ(森岡の言う)「読み換え」の運動が必ず働き、その語りの全体をその運動の支 配下に置いてしまうからだ。」
 以上に述べたことを前提にして森岡の議論を捉えなおすなら、「独在主義」に基づく「誕生肯定」は、その本質そのものの内に不可避的に「誕生 否定」の契機を孕んでおり、それによる浸食と汚染を免れない可能性がある。「もしそうだとすればそれは興味深い事実であり、また何かしらこと の本質を突いているような印象が少なくとも私にはある。」


【15】哲学的感度

 第3章第4節で、森岡氏は、いよいよ“中期”と“後期”の永井哲学(のいわば本丸)に切り込みます。そしてそれに伴って、永井氏の批判の舌 鋒も一段とその厳しさを増していくのです。
 たとえば、『私・今・そして神』におけるカント原理とライプニッツ原理の対比をめぐって、森岡氏がもっぱらカントを否定的に位置づけたこと について、永井氏は次のように書いています。──「これは(〈私〉と《私》の対比とはまた別の)〈私〉と「私」の対比の問題である。〈私〉の 持続・連続性は何によって保証されるのか、という問題にかかわる際にはこちら[カント原理]を無視することはできない」。にもかかわらず、 「なぜか森岡はこの問題系(の存在自体)をまったく無視して」おり、「この問題関連に興味がない(感度がない?)」。(256頁)
 また、『存在と時間 哲学探究1』の付録「風間くんの「質問=批判」と『私・今・そして神』」への森岡氏の言及に対して。──「私の見る限 り、森岡の理解は彼[風間くん]の問いの深さと広がりをまるで理解していない」(260頁)。
「おそらくは森岡は独在性という不思議な現象が存在していること自体は捉えているのではあろうが、事実としてそういう現象が存在しているのだ と単純に受け入れており、なぜかその不思議さということにあまり心が動かされておらず、したがってそれが存在している(といえる)ことの内に あるある捉えがたい種類の哲学的な謎にほとんど感度を持っていないように見える」(261頁)。
「(少なくとも私の意味での)哲学に関心を持っていないように私には見える」(262頁)。

 今回(第4ラウンド?)は、森岡氏の“完敗”だと私は見ています。もちろん、二人は勝負事(ゲーム)を楽しんでいるわけではないし、また “負けた”といっても、それは永井哲学の土俵(=哲学観)の上での話であって、森岡氏の議論(精確には、森岡氏がほんとうに論じようとしたこ と)が意味や価値を失うわけではありません。
 森岡氏は、自身が取り組みたいテーマ(たとえば「人生の意味の哲学」)へのアプローチの基礎を固めるため、「永井の独在性の哲学にコミット せざるを得ない」と思っています。俗な言い方をすれば、“永井の独在論”を自身の思考圏内に囲い込みたい。そのためには、どうしても拭えない 「違和感」を解消して(永井哲学が孕んでいる“誤り”を正して?)、“森岡の独在論”のうちに呑み込みたい。
 だから、いくら強烈な反撃を浴びても(無視されても)──哲学的な「感度」や「関心」の欠如を疑われても[*1]──懲りずに(失礼!)何 度もチャレンジしていく。そういう“闘いの姿勢”を取りつづけること(大袈裟に言えば、自らの(哲学的な)“死”を賭けたギリギリの思索を継 続すること)を通じてのみ、自身が構想する「生命の哲学」が“本物”になると確信して。
(実は、私はもうずいぶん前からそんな読み方をしている。森岡氏に“肩入れ”して本書を読んでいる。それは“判官びいき”などではなく、私自 身が(あるいは私もまた)前々回に書いた関心事をめぐって、永井哲学を“利用”しようとしているからにほかならない[*2]。)
 その意味で、本書『〈私〉をめぐる対決』は、森岡哲学にとってのインキュベーターであり、その産みの苦しみを赤裸々に記録した「悪戦苦闘の ドッキュメント」であると言えるでしょう。

[*1]永井氏はツイッターで「『意識と本質』を始めとする井筒俊彦の諸著。イスラム学的には知らないが哲学的意義は皆無ですよ」 (2021.10.14)とか「井筒俊彦は単に哲学の素人であるにすぎない」(2021.10.15)と書いている。
 『遺稿焼却問題』に収録されたツイートには、井筒俊彦と吉本隆明の「二人とも哲学的なセンスが(非常に似たような仕方で)全くない」 (2019.01.20、194頁)とある。「井筒俊彦のイスラム哲学理解の精度を疑っている」とか「井筒という人は…実はシャーマンのよう な人だったのではなかろうか。しかし、まさにそれゆえに、その宗教的直観は意外なほど平板で、やはり安っぽい」とも(2014.02.01、 78頁)。
 ここで言われる「哲学」は「私(=永井)の意味」での哲学である。すなわち、哲学は思想ではない(『〈子ども〉のための哲学』)とか、特別 の種類の天才の傑出した技芸の伝承によってしか哲学の真価を伝えることはできない(『私・今・そして神』)とか、哲学書は「台本」だ(『なぜ 意識は実在しないのか』)といった哲学観のもとで見られた哲学のことである。
 私は井筒俊彦とは違った意味で(字義通りの)哲学の素人だが、永井氏の哲学観には全面的に賛同している(つもりである)。その上で井筒俊彦 (や森岡正博)の哲学“的”思想に惹かれ強烈な刺激を受け、その思索(技芸)は「心から心へ伝ふる花」として伝承されるべきものと考えている (し、永井氏が井筒俊彦(や森岡正博)の思想や理論を否定しているわけではない──そもそも否定などできない──と考えている)。
 一点付記すると、永井氏が繰り出す「素人」や「平板」等々の刺激的な語彙は逆説的な意味を持っている。私は井筒俊彦(や森岡正博)の思想に 時として「退屈」を感じるのだが、これも同列の語彙である。

[*2]私の関心事というのは、司馬遼太郎との対談で井筒俊彦が語った「古今[和歌集]、新古今[和歌集]の思想的構造の意味論的研究」にか かわるものだが、それが最近途方もない“大風呂敷”に包まれるようになった。
 きっかけは武田梵声著『野生の声音──人はなぜ歌い、踊るのか』や三浦雅士著『考える身体』『スタジオジブリの想像力──地平線とは何か』 を同時並行的に読み進めるうちに、かつて刺激を受けた中沢新一著『狩猟と編み籠──対称性人類学Ⅱ』などと融合して一つの壮大な人類史的想像 をかきたてたことにある。

 ……人類が長い時間をかけて言語を獲得したとき、そのような「インメモリアル」(坂部恵『かたり──物語の文法』)な過去における出来事と 同時に、後に宗教(アニミズム・シャーマニズムから一神教・多神教・無神教まで)や芸術(詩・音楽・舞踊・映画・美術・建築)や哲学(数学を 含む、精確には「哲覚=数覚」の学)へと分岐していく、ある超越的な心身と世界の(変容)体験がもたらされた。その体験の核にあった(し今も ある)のが、永井氏が(おそらく人類史上初めて)言語化=概念化することに成功した(しつつある)「独在性」にかかわる原体験、いわば「独在 感覚」の受容であった。……

 宗教や芸術の領域に「宗教人類学」「芸術人類学」があるように、哲学にも「哲学人類学」が必要だ。それは宗教・芸術・哲学のうちの一ジャン ルにかかわるだけでなく、それらに共通する根源現象すなわち「独在感覚」を解明するものでなければならない。
(成田悠輔氏が、「メタバース」(ネット上の仮想空間)のアバターを通じて1万人と同時に恋をすることができるようになったとき、「他の誰で もない私」や「何ものにも代えがたいあなた」という概念(アイデンティティーの独自性)は意味をもつのか? という問題が生じると指摘してい る(朝日新聞GLOBE、2022.05.01)。このような(実は非哲学的な)問いに応えるのも、永井哲学に発する「独在性」もしくは「独 在感覚」をめぐる「哲学人類学」の仕事だろう。)
 ──森岡氏が独自の思想的・理論的な思索、たとえば“森岡の(貫通型)ペルソナ論”の構築へと向かわず、あくまで“永井の独在論”にこだわ るのはぜかという問いに対する答えがこのあたりにある(と思う)。


【16】承前、哲学的感度

 第3章第4節で、森岡氏は、かの「唯一最大の論点」に関する“新機軸”もしくは“新趣向”を繰り出します。そしてそれは、永井氏からの最終 的な反撃を引き出すことになるのです。
 森岡氏は、「風間くんの質問」(次回取りあげる予定)に言及した際、そもそも「この問いの全体がどの視点から見られているのか」(164 頁)──神か人物○○(永井氏の表記では「私」)かそれとも読者なのか──という論点を指摘し、これを別の角度から見るために「人物○○と 〈私〉が連結される三つの段階」(165頁)を分析しています。

【第一段階】
・〈私〉という概念それ自体が(「〈私〉は人物○○である」という形式で)成立する。
・第一段階の〈私〉は「世界に実在はしないが、世界の中に〈私〉という在り方で占める位置がある」(167頁)。

【第二段階】
・第一段階で成立した〈私〉が、目の前の人物○○という場所に他の〈私〉があるというリアリティをもって生きる。
・「他の〈私〉」という概念を他の人物○○に連結させて日常生活を生きることができる。このときいったい何が起きているのか。「森岡はそこに 「ペルソナ」概念が介入しているとの予想を持っている」(166頁)。

【第三段階】
・「人物○○が〈私〉である」という連結がなされる。
・第一段階と第二段階の連結は理解できるが、第三段階の連結は理解できない。「人物○○が〈私〉である」というときの〈私〉は「世界に実在し ないだけでなく、世界の中に〈私〉という在り方で占める位置もない」(167頁)。

 森岡氏が言う「世界の中に〈私〉という在り方で占める位置がある」は分かりにくい表現ですが、たとえば「受肉」のことを考えてみるといいで しょう。父なる神がイエスに受肉して子なる神になり、その「キリストが私のうちに生きておられるのです」…。
 そのような解釈が成り立つとすれば、そしてまた「ペルソナ」を、「実在性」のレベルにおける神(=〈私〉)の存在様態を表わす語として受け 止めるならば、(いや、おそらくそんな大袈裟なことでなくても)、森岡氏の三区分は、“永井の独在論”で言うところの〈私〉と《私》と「私」 の区別に対応していて、森岡氏が言いたいことは、結局、第三段階の〈私〉は実は「私」でしかないのだから、これを〈私〉と言ってはならない (言えない)という、至極当然のことだったのだと理解することができます[*]。

(いや、ここは私の解釈ではなく、永井氏がどう反応したかを述べる場だった。)

 永井氏の応答は、“無視”と言っていいものでした。それどころか、森岡氏の問題意識を逆撫でするかのように、「なぜ〈私〉は風間なのか(= なぜ風間が〈私〉なのか)」といった表現を繰り出しているのです。
 さらに、森岡氏が「森岡は永井型の独在論の本質を理解していない」(168頁)かもしれないと、あくまで可能性として言及したことを受け て、「(そうであることは)間違いないと思う」(261頁)と切り返し、次のように書き加えているのです。私が前回“完敗”という語彙を用い たのは、永井氏のこの発言を踏まえてのことでした。
「彼の記述においては、この現象をめぐる哲学的な謎の部分がきれいさっぱり消えており、まるで独在性という現象が本当に[リアリー]ただ存在 していて、それをこちらが自在に利用できるかのようなのである。(261頁)

 一点、つけ加えます。
 永井氏は、(「は」と違って)「が」は、特定の何かを並列的に存在する他の同種のものから区別して指す働きをするという「日本語学的事実」 (265頁)に注意を促し、だから「〈私〉‘が’人物○○である」とは言えない、と書いています。
 そして、(人物○○と〈私〉の連結ではなく)、人物○○が属する「のっぺりした(平板な)世界」(267頁)と、〈私〉が属する「いびつな (奥行きのある・立体的な)世界」(267頁)との接合をめぐって議論を展開します。
 いわく、これら二つの世界の接合の事実の発見、もしくは接合点すなわち人物○○と〈私〉との同一性の発見は「いびつな世界」の側からなされ るのだが、しかし「接合によって発見された事実そのものは発見の経緯とは独立」である。「この同一性はただ〈私〉の側から発見されるにもかか わらず、〈私〉の内部にある主観的事実のようなものではありえず、〈私〉に関する客観的事実でなければならず、客観的事実としてあらわれざる をえないのだ。」(268頁)

《…この接合点の発見(あるいは発見された接合の事実)は、もちろん「〈私〉は人物○○である」というように表現されても(しかるべく同一性 言明ととられるかぎり)間違いではないが、むしろ「人物○○が〈私〉である」と表現されたほうが(問題の本質を外さないためには)より適切で ある。こちらのほうが、「人物○○が〈私〉である!」と末尾に「!」を付けた形の存在論的な驚き(存在の奇跡!)の含意が読み込みやすいこと からもそれがわかる。》(271頁)

 最後の一文に註がついています。「この存在論的驚きを表現するためにであれば、むしろ「人物○○は〈私〉である!」[唯物論的独我論者○○ の述懐!──引用者註]という文を使うのも深い味わいがあると思われる。」(272頁)

[*]あと一つ加えるとすれば、森岡氏は“永井の独在論”における《私》(その人にとっては〈私〉)の存在を認めていないように思える。この 世界にいるたくさんの《私》が実はすべて〈私〉であると考えているように思える。永井氏が、森岡は〈私〉がただそれだけで(「実在性」のレベ ルにおいて)剝き出しで持続できると考えているのではないかと批判しているのは、たぶんそのことを言っている。
 しかし、そうだとすると唯一であるはずの〈私〉が複数存在することになり、論理的不整合をきたす。これを解消するための方策は二つあって、 その第一は、《私》に代わる概念として「ペルソナ」(多にして一という特質を持つ)を導入しこれを精錬すること(究極的には〈私〉の概念を放 棄するに至るまで?)。
 第二は──ニーチェの永劫回帰を「二度と起こりえないはずのこの今が、その内容だけじゃなくて、その‘この今’性をも保持したまま、繰り返 す」こと、あるいは「かけがえのないこの時のかけがえのなさそのものの無限回化」(永井均『道徳は復讐である──ニーチェのルサンチマンの哲 学』128頁)と解釈するように──すべての《私》は実はだた一人の〈私〉の無限個化なのだと考えること(それがどんな世界になるのか、そも そも世界と呼べるのか、呼べるとしてそれを世界と呼ぶのは誰なのか…)。


【17】補遺、風間君の質問をめぐって

 『〈私〉をめぐる対決』は、(森岡氏の進行・編集による)永井哲学への優れた入門書、あるいはその動態を一望できるマップの機能をもった書 物なのですが、これまで私がその面をほとんど取りあげてこなかったのは、森岡氏の“悪戦苦闘”に寄り添うため、というか森岡氏がこの絶体絶命 の苦境からいかにして脱し、“森岡の独在論”を構築してみせるかに注目してきたからです。
 その方針はこれからも(といっても、実質的には「対決」はほぼ完了している)貫くつもりですが、ただ今回の「風間くんの質問」をめぐる森岡 氏の批判──「森岡の目からみたとき、ここでの問題設定そのものが間違っていると思える」(163頁)云々──は勝手が違います。
 私の目からみても、これは無用かつ不用意な“切り込み”でしかなかったと思える。(それが「無用」であるのは“森岡の独在論”にとって不要 不急であるという意味で。また「不用意」というのは、“永井の独在論”を批判するため持ち出すには準備不足だったという意味で。)むしろ永井 氏の“逆鱗”に触れて、過激かつ過剰な(しかし、その一方で永井哲学の“真髄”を垣間見せてくれる)反撃を招いてしまった。
 ですから、今回は森岡氏の議論に寄り添うのではなく、永井氏が自らの哲学について語った事柄のうち、私の“琴線”に触れた箇所を抜き書きす ることに徹したいと思います。

 「風間くんの質問」とは、「いま現実にはなぜか〈私〉である風間維彦が、かりに〈私〉でなくただの風間維彦という人であったとしても、 〈私〉でないその風間維彦さんも、この現実と全く同じように「なぜ風間維彦が〈私〉なのか」と問うであろうから、風間維彦は〈私〉でないこと はありえないのではないか?」(『存在と時間 哲学探究1』330頁)というものです。
(森岡氏が「問題設定そのものが間違っている」と言うのは、「風間維彦が〈私〉であったり〈私〉でなかったりする」という個所に問題がある、 という理由から。)
 永井氏は、かつて「これまでに有効に批判されたことがあるか?」と聞かれて、「風間くんの批判=質問」と答えた──「その[風間くんの質問 の]おかげで私は西洋哲学全体を実感として掴んで「哲学者」になれました」──というのです(「夏の循環読書 2011.7.20」、『哲学 の賑やかな呟き』261-262頁)が、正直に言って私は最初これを読んだとき、この質問のどこにそれほどのインパクトがあったのかがよく判 りませんでした。
 後になって気づいたことですが、それは、つまり「風間くんの質問」が永井哲学に与えた影響の実質がよく判らなかったのは、私が既に「風間 ショック」後の永井哲学にある程度親しんでいたから(具体的には『私・今・そして神』を部分読みを含めて十回以上は読んでいたから)ではない かと思います。つまりもはや当たり前の風景になっていて、それ以前との違いに対する「感度」がなかった。
 しかしそれでもまだ腑に落ちないところが残っていて、それが今回、森岡氏の批判に対してその「哲学的感度」の有無まで云々して敢然と繰り出 された永井氏の再批判を読んで、かなりはっきりしてきました。
 以下、私の個人的な感想は控えて、永井氏の文章を『〈私〉をめぐる対決』から三つ抜き書きします。第一の引用文は先に述べた「当たり前の風 景」に関するもので、第二の引用文が今回「はっきり」したこと、第三の引用文は「風間くんの質問」を契機にして始まった永井哲学の“最先端” の風景を示すもの。

◎〈私〉と《私》─「あるとき突然なぜか〈私〉ではなくなる」ことの想定不可能性
《風間の問いのポイントは、現実には〈私〉でない風間を想定しても、彼もまた「なぜ〈私〉は風間なのか(=なぜ風間が〈私〉なのか)」という まったく同じ問いを必ず問いうる(その意味で必ず〈私〉でありうる)という事実から出発している。それらはまったく同じ問いであると同時に まったく違う問いでもある。現実には〈私〉でない場合、それはもちろん「~にとって」付きの〈私〉にすぎないのだから、《私》であるにすぎな いとはいえるのだが、〈私〉は、その同一性(持続)にかんしては、「~にとって」付きの「~」の同一性(連続性)に拠らざるをえない(すなわ ち《私》を経由せざるをえない)ため、この人格同一性(同じ人であること)によって〈私〉は成立してしまわざるをえない(のではないか)。こ れが背後にある問いである。言い換えれば、「あるとき突然なぜか〈私〉ではなくなり、たんなる風間という人になってしまう」ということ自体 が、彼が記憶を喪失するといった実在的変化を想定しないかぎり、論理的に起こりえない(想定不可能な)ことなのではないか、という問いが背後 にある。》(258-259頁)

 最後の一文に付された註。「ここには〈私〉と《私》の(それ自体が累進する)累進構造が働いており、ここが独在性という哲学的問題のキモで あるのだが、私の見るところでは森岡の議論はこの事態を対象化してそれについて論じるということがなく、むしろつねにそれのどこかに乗って動 いているように見える。」(259頁)

◎独在性という問題は本当はないかもしれない
《風間は逆に、自覚的にかどうかはわからないが、まさにその[独在性という現象の]哲学的・存在論的な謎の核心を、そこだけをいち早くつかん だのだ。いち早くというのは、だれよりも早くという意味であり、当然、私自身よりも早くであった。彼の問いは、どちらかが正しい答えか、と いった答え方が可能な問いではなく、むしろ、独在性という問題は本当はないかもしれないと疑わせる力を秘めた、真に本質的な問題提起であっ た。》(261頁)

◎〈私〉の二義性、形式的・概念的な理解と直接的・実質的な理解
《…この問題は全体として形式的・概念的に理解することが可能であり、可能であるどころか不可欠でさえある、ということがすこぶる重要であ る。すなわち、接合される二種の世界は必ずしもともに現実世界である必要はないのだ。というのは、問題の他者への伝達はそのことを介するほか はなく、ここでのこの議論そのものがことによって初めて可能になっているからである。さらに、…このことが重要であるのはそれだけではなく、 〈私〉とか「そこから世界が開けている唯一の原点」といった表現にはそれゆえに二義性があることになるからでもある。このような表現は、直接 的・実質的に理解することも、形式的・概念的に理解することもでき、この現実世界で現在使われると、直接的・実質的な理解が即座に成り立って しまうため、その形式性・概念性が飛び越されて即座に忘却され、直接的・実質的な理解に固執してしまいがちになるが、たとえば〈私〉や「そこ から世界が開けている唯一の原点」が過去にあったとか未来に生じるといった時制変化を介在させるだけでも、話はそう簡単でははないことがすぐ にわかる。》(272-273頁)


【18】短い総括、エクリチュール、鏡像段階

 第3章第5節。
 引き続き森岡氏は、永井氏の最新作『世界の独在論的存在構造 哲学探究2』の問題点を指摘しつつ、自論との近似点を探っています。その中に は、「読者置き換え型解釈」(永井)と「二人称的確定指示」(森岡)の比較論という、興味深い話題があるのですが、詳細は「将来の著作」 (187頁)に委ねられます。
 また、「独在論の三種類の読み換え」──①〈私〉⇒「私」、②〈私〉⇒固有人名、③〈私〉⇒読者──も目を引くのですが、これは、永井氏に よる再解釈──①〈私〉⇒《私》、②〈私〉⇒「私」、③読み換えではない、強いて言えば複合的な読み換え(〈私〉の《私》化と「私」化の媒 介、〈今〉の《今》化と「今」化の介在)による「自己同一性」の成立(277-278頁)──を通じて、永井哲学の領土に併合されるのです。
 というわけで、今回は(今回もまた)、永井氏の論文(第4章第6節)の中から、もっとも刺激的だった箇所を抜き書きすることで、本書 『〈私〉をめぐる対決』第Ⅲ部の総括に代えたいと思います。

《「そこに書かれている〈私〉をあたかもいま読んでいる自分自身であるかのように理解している」とき、そういう問題を考えている人物としての 記憶とともに、独在性の形式的・概念的理解もまた介在し、経由されている。と同時にまた、〈いま〉にかんするそれと同種の読み換えも介在し、 経由されている。この例では、文字化によってそのことがあからさまになっているが、この構造自体は通常の〈私〉の持続においても避けることが できない。そもそも記憶という現象自体がこの仕組みの介在によってはじめて可能になるからだ。ちなみに、ジャック・デリダが自己同一性の成立 に不可避的に介入するこの外在化の仕組みを、フランス人らしく隠喩的に「文字(エクリチュール)」と呼んだことは印象深いことであった。しか し私見ではむしろ、カントの「観念論論駁」におけるデカルト批判のほうが、機先を制して隠喩的でない精確な問題提起をおこなっていたと思 う。》(278頁)

 文中の「印象深いことであった」は、永井氏特有のアイロニカルな表現で、実際ここでも「しかし私見では…」と逆接の文章が続いています。
 しかし私見では、永井氏にとってデリダ(やラカン)といったフランス人思索家の仕事は、その“文学的”衣装を取り去った“剥き出し”の着想 や概念において、大きな位置を占めている(場合がある)のではないかと思いますし、この箇所でも、デリダの議論は結構永井氏の琴線に触れてい るのではないかと思います。そうでなければ、「精確」ではないと思う事柄についてわざわざ書かないと思います(普通は)。
 私見を、というより思いつきを重ねると、デリダの「隠喩」を単なる文彩としてでなく、ある意味では文字通り、あるいは「文字」の概念を大き く拡張して受け入れると、森岡氏の「二人称的確定指示」の理解に役立つ見通しの利いたアイデアが得られるのではないか。たとえば、「文字は “仮面”である」とか「文字は“鏡”である」といった(隠喩に隠喩を重ねた)概念をこしらえることで。
 いま私の念頭にあるのは、ラカンの鏡像段階論です。──清水高志氏が共著『今日のアニミズム』第六章の奥野克巳氏との対談の中で次のように 語っています。「鏡像的関係が他者との間にあって、それを通じて自己をあらしめる、自己形成するという精神分析学の理論は、ラカンでももとも とは生物にそうしたものがあるということも手がかりになって生まれたと言われます。」(328頁)
 以下は、同書第五章の清水氏の論考「アニミズム原論──《相依性》と情念の哲学」からの抜き書き。文中の「幼児」を「あなたなのです!!」 と二人称的に確定指示される独在的存在者、「鏡(像)」を「外在化の仕組み」(拡張された文字あるいは脳死の人)だと思って読んでみてくださ い。

《ラカンによれば、生まれたばかりの幼児はいまだ統合された全体というよりは、盲目的でばらばらな欲動の寄せ集めであるに過ぎない。こうした 幼児は、全体的な統一された身体の像を、鏡に映った自分の像として最初に見る。この像は、統一的で理想化された自己のイメージ(イマーゴ)で あり、幼児はそれに愛着を覚え、自己として引き受けることによって、みずからを主体化しようとするのだという。しかしこの像そのものは、結局 のところ自分とは異なる鏡像としての他者であり、この他者なくしては主体としての自己はあり得ない、という立場にかえって置かれてしまう。 ──自己の主体は、このとき鏡像の側に疎外されてしまい、その葛藤から鏡像は愛情の対象ともなるが、憎しみの対象ともなる、というのである。
 こうした鏡像段階論じたい、そもそも生物が自分と同じ種を知覚することによって種としての成熟に至るという、動物生態学や生物学の研究を踏 まえて語られたものであったことは忘れられるべきではない。》(『今日のアニミズム』252頁)

 最後の一文に付された註。(〈私〉の生物学的基盤というものがもし考えられるとすれば、孤独相から群生相への移行はとても重要な現象になる だろう。)
「…ラカンは、心的因果性の問題に対することを説明するには異質な分野における事例であることをあらかじめ断りつつ、鏡像段階において他者の 存在が必要とされることを説明するために、…サバクトビバッタが孤独相から群生相へ移行する際に、ある段階で自分とよく似たイメージの視覚的 な動きに晒されることが契機となる例を挙げている。」(261頁)


【19】貫通型独在性をめぐる後日譚

 第5章「貫通によって開かれる独在性──あとがきに代えて」。
 『〈私〉をめぐる対決』を、永井哲学への“入門書”として読むのではなく、森岡哲学の「悪戦苦闘のドッキュメント」として見るならば、森岡 氏によって書かれたこの最終章は、本書の白眉にあたるでしょう。
 その冒頭の一文が「永井からのコメント[本書第4章]を読んで一歩前進できた部分があったので、その骨子を記しておきたい。」(282頁) で、以下がその「一歩前進」の内容。この引用箇所にいたる記述の中で森岡氏は、かの「唯一最大の論点」にかかわる「人物○○が〈私〉である」 は無意味だという主張を、「人物○○が独在的存在者である」という言明は無意味だ、に改めています。

《したがって、森岡の言う独在的貫通としての独在的存在者の概念は、永井の言う〈私〉の概念とは異なるものである。ただし両者とも独在性を指 し示す概念であることに間違いない。森岡の側から見た場合、この発見が本書最大の収穫であり、永井との対話がなければ気づくことのできなかっ たものである。これが冒頭に述べた一歩前進の内容である。この両者の差異をクリアーにするためには、貫通型独在性における人称的世界の構造を きちんと解明する必要がある。これについては、なるべく早い段階で包括的に言語化したいと考えている。そしてそれを森岡のメインの仕事である 誕生肯定の哲学へと結びつけていきたい。》(299頁)

 森岡氏は、本書が上梓された直後のツイッターに次のように書いています。「独在性についての永井と森岡の深刻なズレのように見えるものの隙 間から、真性の哲学の問いが浮上する姿を目撃することができます。類例のない哲学書。普通の対談を予想してたら脳が破裂します。」(2022 年1月21日)
 ここで言われる「真性の哲学の問い」──それが、永井均の〈私〉の概念と森岡正博の「独在的貫通としての独在的存在者」の概念、そして両者 が共に指し示す「独在性」をめぐるものであることは当然のこととして──が向かう先は、何よりも、いまだ哲学的概念として精錬途上である(提 唱されたばかりの)「貫通型独在性」であることは言うまでもないでしょう。
 永井氏も同じ時期にツイートしていました。「森岡説に反対するといったことは全くしていないと言ったが、第5章に新しく登場する「貫通型」 についても(貫通性の構成はいずれにせよ不可欠なので)その理路が整い論脈が飛躍なく辿れるなら必ず賛同できるはず。この種の議論においては それを主張する理路と独立の主張(意見)はそもそも存在しないので。」(2022年1月14日)
「とはいえ、森岡さんはそうは(=この種の議論においてはそれを主張する理路と独立の主張(意見)はそもそも存在しないとは)思っていない可 能性もあり、もしそうだとすればそこが「対決」になっている可能性がある。かつて異種格闘技をお互い自分のルールに従ってやったらどうなるか 考えたことがあったが。
 それを主張する理路と独立の主張(意見)というものも存在するとも考えられる。それはとても根源的な対立を形成する、と。例えば①すべては 〈私〉の存在から始まる(開闢する)という考えと②無いほうが普通であるはずの〈私〉が何故か在ることの驚きとの対立。この二つの対立は「対 決」はさせられない。」(2022年1月15日)
「それでも、この二つの見地の相互関係をさらに研究することはまだまだどこまでもできる。すべきことはそれであり、どちらかの立場に立つ(な どというつまらないこと)ではない。」(2022年1月16日)
 ──呟きはまだまだ続くだろうし、後日譚はキリがない。


【20】補遺、独在的存在者の場所・再考

 前回引用した文章の中で、森岡氏は、「森岡の言う独在的貫通としての独在的存在者の概念は、永井の言う〈私〉の概念とは異なるものである。 ただし両者とも独在性を指し示す概念であることに間違いない」と書いていました。これを図で表すとこうなります。

 〈私〉 → 独在性 ← 独在的存在者 (← 二人称的確定指示者)

 ここで気になるのが、(第13・14回で話題にした)「リアリティ」(実在性)と「アクチュアリティ」(現実性)の区別の問題です。上の図 に書き込んだ3つ(ないし4つ)の項はいずれの次元に属するものなのか、ということです。異なる次元に属する項を同一線(ないし平面)上に並 置するわけにはいかないからです。
 このことを私の“感覚”に照らして整理したのが、次の図です。

 【現実性】       独在性
            /     \
         〈私〉      独在的存在者
                    ↑
 【実在性】 …《私》《私》…     │
       …「私」「私」… (二人称的確定指示者)

 「独在性」を「アクチュアリティ」のレベルに位置づけるのは、やや微妙です。〈私〉や「独在的存在者」が持つ特性や本質あるいは概念と見る なら、それは明らかに「リアリティ」の範疇に属するからです。ここでは、「独在性」≒「純粋なアクチュアリティ」(無内包の現実性=〈 〉) と捉えておきます。
 これに対して、《私》や「私」や「二人称的確定指示者」が「リアリティ」のレベルに属することは見易いと思います。というか、ここではその ようなものとして位置づけています。
(〈私〉が形而上学的・存在論的次元に棲息するとすれば、《私》は概念的・論理的・言語哲学的次元に棲息する。ここで言う「リアリティ」(実 在性)のレベルは、語義通りの「物」や「現象」だけでなく想像・虚構の世界や概念的・論理的・言語哲学的事象も含めて考えられるものなので、 《私》は明らかにこれに属する。)

 問題は、〈私〉や「独在的存在者」をどこに位置づけるかです。私の“直観”では、〈私〉は「アクチュアリティ」を本籍としつつ現住所は「リ アリティ」にあり、「独在的存在者」は逆に「リアリティ」を本籍としつつ現住所を「アクチュアリティ」に持つ、となります。
 精確に言い直すと、まず〈私〉は、本来「アクチュアリティ」のレベルに属するものですが、それを言語を使って(概念として)語ると《私》 (「私」=人物○○にとっての〈私〉)に、すなわち「リアリティ」のレベルの事象になります。〈私〉が孕むそのような両属性を、永井氏は「物 自体のお零れ」と表現しています[*]。先の図に即して言えば、〈私〉とは、「物自体」=「純粋なアクチュアリティ」(無内包の現実性= 〈 〉)≒「独在性」のお零れとして現象界(リアリティの次元)の中に生き残ったものである、ということです。
 次に「独在的存在者」とは、「リアリティ」の次元に属する「二人称的確定指示者」の指差し(貫通)によって垂直方向に、つまり「アクチュア リティ」の次元に向かって立ち上げられたもの、となるでしょうか。
 このあたりのところは、永井的(もしくは永井-入不二的)な構図の中に、強引に“森岡の独在論”を埋め込もうとしていて無理がある。森岡氏 自身の、とりわけ「貫通型独在論」の「貫通」の概念をめぐる議論に即して掘り下げていく必要があります。(「ペルソナ」の概念についても同 様。先の図のどこにこれを位置づければよいか、独在的存在者との関係如何、等々。)

[*]『存在と時間 哲学探究1』第5章。

《感性の形式(つまり時間空間)や悟性の形式(つまりカテゴリー)の適用を経ていないため、まだ現象を構成していない、つまり実在していない が、その素になっているものを「物自体」と呼ぶとすれば、〈私〉や〈今〉は物自体である。とはいえしかし、ほんとうに物自体だとすれば、 〈私〉だとか〈今〉だとか、何らかの内容的規定を示唆する呼び名で呼べるはずがない。だからたぶんそれらは、このような超越論的な(=実在を 構成する)形式が適用された後に、そのような形式をすり抜けて生き残った(そのような形式によって変様させられながらも現象界の中に生き残っ た)、物自体のお零れのようなものなのであろう。》(77頁)


【21】余録、独在的存在者の個数

 森岡氏によれば、独在的存在者は「ただ一つ」なのだから、その個数を云々することはナンセンスです。だから、正しく言えば「独在的存在者の 個数」ではなく、「独在論的存在構造」を持った「実存」の個数と言うべきかもしれません。
 そのような意味での「例外的存在者」には三つのものがある。『〈私〉をめぐる対決』第Ⅱ部の「実況中継」の中で、永井氏はそう語っていまし た(51-52頁)。

【森岡】ただ、ちょっとお聞きしたいのは、普遍化できないものを言語を使って表現する[と必ず空回りして、別のものに読み替えられていく── 引用者註]という話をしましたが、それって別に〈私〉だけじゃないですよね。〈今〉っていうのがそうだし、〈ここ〉っていうのがそうだし、あ と〈現実〉っていうのもそうかもしれないですけれども。(略)
【永井】時間的な順番としては一気にじゃなくて、〈私〉ということ、自分のことから考えてこの問題に行き着いて、それであとから考えたら、こ れは〈私〉だけじゃなくて、同じ構造は〈今〉とか〈現実〉とかそういうものにもあると。〈ここ〉っていうのは体との関係ですから、〈私〉がい る場所が〈ここ〉であると考えることができます。(略)
【森岡】三つなんですね、
【永井】なぜ三つなのかということ自体が謎なんですけれども。なぜ三つもあるのか、ということと、なぜ三つしかないのか。これが謎で、誰かが 解明したら大したものだと思います。僕にはわからないですね。なぜかそうなっていると。それぞれが人称と時制と様相というカテゴリーを作り出 すわけですけどね。

(あと一つ、文法カテゴリーで言えば「態 voice」とか「法 mood」にかかわる第四のものが考えられるのではないか、という「仮説」を私は抱いている[*1]のだが、これは個人的すぎる話題なのでこれ以上は自粛 することにして)、ここで、関連する話題として、入不二基義氏が「永井均先生古希記念ワークショップ」において、「今回の発表の始発点」とし て紹介した『〈私〉の哲学 を哲学する』(2010)の議論を引きます(101-103頁)。
 入不二氏はそこで、「この私」というときの「この性」(山括弧〈 〉で表現される)は、「私」や「今」といった特定のものだけではなく、本 質的には何にでも(「コップ」にでも「世界」にでも)つくと主張しています。

【永井】いや、だから、この意味が付与できるものは、「世界」とか、「今」とか、「私」とか、そういう種類のものしかないんじゃないかって。 (略)
【入不二】(略)けれども、最終的にはどれにでも……。「どれにでも」というのは、別にXは特定の領域に限られない、つまり、ほんとうはXは 何でもいい、という意味ですよ。そういう限定のなさ、複数のものから選び出すのではないということが、むしろ、現実性を表す「この」には含ま れているのではないかと思います。(略)あくまでも、「この」がつくものはなんでもかまわないということは、「この」が特定の内実とはいっさ い無関係であるということなのであって、それを「無内包」と表現しています。ですから、「この」は「X」から決定的に区別されるし、「X」に 依存しない、(102-103頁)

 ここに“勃発”した永井-入不二論争は、独在性をめぐるもう一つの「対決」として、今なおリアルに継続しているものです。ただしそれは、永 井-森岡論争がそうであったのと同様、どちらか一方が正しく、他方が間違っているといった「対決」ではなく、それぞれまったく異なる哲学的問 題を同じ場所で考えているといったことになるのでしょう[*2]。

[*1]永井氏が『私・今・そして神』で「神/現実/今/私」の四つの項をめぐって書いた次の文章──かの「風間ショック」が永井哲学にもた らした帰結が記されてている箇所──が、私の「仮説」の「始発点」になっている。つまり第四の「神」にかかわる「独在論的存在」が考えられる のではないかということだ。

《ともあれ、神の存在論的証明をめぐる哲学史上の諸説、現実世界の位置をめぐる可能世界論における対立、A系列とB系列をめぐる時間論上の議 論、そしてコギト命題の解釈をめぐる論争、これらがすべて‘同じ一つの’問題をめぐっていることは、まずまちがいないことだと私は思う。
 私はずっと、自分の関心に従ってまったく自分勝手に哲学をやってきた。だが、本書で到達し本書で論じられたような問題が、古代ギリシアに始 まり、デカルト、カントを経て今日にいたるあの固有名としての哲学にとっても最も中心的な課題であったことはまず疑いのないことであるように 思われる。》(『私・今・そして神』180-181頁)

《私、今、現実、神……世界の内部で理解されるなら、それらはつねに、もし世界内の一存在者でないとすれば何も連動していない歯車にすぎな い。だからもちろん、そんなものは存在しないとつねに言える。しかし、通り越して短絡させることができる、機構全体とまったく繋がっていな い、その歯車こそが、その機構全体をはじめて現実に存在(つまり実存)させているのだ。
 それがすべての開闢であると同時に、そんなものはどこにも存在しない。すなわち、そんなものはどこにも存在しないと同時に、それがすべての 始まりなのである。》(『私・今・そして神』222-223頁)

[*2]「ワークショップ」の2日後に、永井氏が「今回の入不二とは私は違う問題を考えていると思った。したがって用語法も違っている(用語 法が違っているにすぎないともいえる)。人々はこういうところに対立を認めがちで、それについて論じたがりがちであるように思うが、それは概 して不毛である。ただ違うことを考えているというだけなので。」(2022年3月20日)とツイートし、入不二氏が「私もそう感じました。 「無内包の現実性」からは(少なくとも)2つの別の路線が出てき得るように思いました。」とリプライしている。
 これは一つの仮説だが、「独在性という不思議な現象」(261頁)の存在“以前”が入不二哲学の、存在“以後”が森岡哲学の、そして独在性 の存在そのものという意味での“現在”が永井哲学の、それぞれ主たる関心領域である(などと言うことができるのか、できるとしてそこに哲学的 な意味があるだろうか)。


【22】二人称の優位、貫通の諸相

 森岡氏の「貫通型独在性」の概念は、①二人称的確定指示の圧倒的先行、②指示による(独在的)貫通、③貫通を通じた独在性の気づき(独在的 存在者の場所の確定)、という三段階で構成されています。
 このプロセスの起点となるのは「二人称の優位」(295-296頁)という事態であり、森岡氏はこのことを幼児の言語習得の(あるいは公共 言語成立の)プロセスに準えて説明しています。

《私がこの世界に生まれ落ちたときにはすでに人々が二人称で指したり指されたりするコミュニケーションを行なっており、私は二人称の網の中へ と生まれ落ちる。私は二人称を用いた指差しの意味を学習し理解するがゆえに、それを通路として独在的存在者の場所の把握に至ることができる。 その意味で、独在的存在者の概念は二人称を基盤のひとつとして成立する公共性の落とし子である。》(『〈私〉をめぐる対決』296頁)

 森岡氏は続けて、このプロセスの構造解明は「人称的世界の哲学」のテーマの一部であると述べた上で、“永井の独在論”との違いに言及しま す。

《このように、徹底的に一人称的で私秘的なもののように一般には捉えられがちな独在性の問題は、二人称の優位という地点を経由して、公共性の 地平へとすでに接続されているという構造になっているのである。これらの点においても、純粋な形而上学の枠内に〈私〉の概念をとどめておこう とする永井と、その路線を取らない森岡のあいだには隔たりがある。独在的存在者の概念は形而下の肉体の世界ともつながっている。しかし、独在 的貫通によって独在的存在者が成立することで、ある内包がこの世界へと付加されるわけではない。そのような形ではつながっていない。》 (296頁)

 最後の一文を読むと、森岡氏が想定している独在的存在者とは、やはり一人称的な「魂」(あるいは「リアリティ」の次元に剥き出しで持続=存 在する〈私〉そのもの)に根差した概念なのではないか、そしてそれは二人称的な「ペルソナ」と実は同根の──ジュリアン・ジェインズが『神々 の沈黙──意識の誕生と文明の興亡』で論じた「右脳がささやく神々の声を左脳が聴く」といった事態に根差した──ものなのではないかと思えて きます。
 これらの点について確認するためには、本書『〈私〉をめぐる対決』の叙述を超えて、森岡氏の関連論考を読み込んでいく必要があるでしょう。 実際、私は「パーソンとペルソナ」「ペルソナと和辻哲郎」「人称的世界はどのような構造をしてるのか」等々を一瞥して、「ペルソナ」「人称的 世界」といった本書では軽く触れられただけの諸概念に、「二人称的確定指示」や「貫通」や「独在的存在者」と同様の“未知の魅力”を強く感じ ました。
 ただ、本稿ではそこまで踏み込んでいく余裕はないので、最後に、上記の三段階のうちの第二のステップ、すなわち「貫通」について、確認して おきたいと思います。

 『〈私〉をめぐる対決』において森岡氏が「貫通」に言及した箇所を拾います。どういう場面を想定してこの語を用いているかを検分すれば、そ れ託されたもの(概念的操作の射程・範囲)が見えてくると思うからです。なお、第一の引用文は、〈私〉を「独在的存在者」に上書きして読むべ きでしょう。

《「〈私〉」はそもそも命題の述語部分に置かれ得ないのである。それが「独在性」の意味するものである。すなわち、〈私〉はすべての可能性を 唯一者として必ず主語の位置に入ってしまうのである。これは可能世界論に関する言明のように見えるが、実はそうとも言えない。むしろ、〈私〉 の視点からすれば、現実世界に対比されるような可能世界などそもそも存立し得ないことになると考えられる。》(125-126頁)

《「ここから世界が開けている‘唯一’の原点」は、〈私〉によるあらゆる想像を浸食し、汚染し、その原点の存在を否定するような想像までをも 貪欲に浸食し、汚染し、みずからの支配下に置いてしまうのである。これこそが独在性の意味であろう。独在性は貫通していくのである。》 (142頁)

《なぜ貫通型と呼ぶかといえば、「あなたなのです!!」の指差し線が頁から飛び出してきて、見る者ひとりだけを実際に象徴的に貫通するという 経験を通して独在性への気づきが切り開かれるからである。この指差しの背後に、この指差しを行なう主体が隠れて存在しているわけではない。そ してこの独在的貫通は指差し線の動きの背後と手前の時空に果てしなく延びていると考えられる。》(287頁)

 これらの議論を通じて、「貫通」という概念の骨格が浮かび上がってきます。
 一言で言えば、独在的「貫通」を通じてすべての時空が すなわち、あらゆる可能世界・想像世界・虚構世界がただ一つの現実世界のうちに収束 する。別の言い方をすれば、独在的存在者は、あらゆる可能世界・想像世界・虚構世界を浸食(=貫通)して、この現実世界(形而下の肉体の世 界)における唯一者として存在する。
 他者との壁、生者と死者との壁、リアリティとアクチュアリティの壁、そして「主体/対象」「一/多」「内/外」(清水高志『今日のアニミズ ム』第二章・第五章参照)の論理の壁を貫通して。

 ──喃語もしくは譫言のごとき覚書を残し、「パート1.5」を閉じます。