HISTORY OF ODANI
小谷の歴史
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小谷城と浅井氏
近江を制する者は天下を制す
古来より滋賀、近江は京の都へ行き来する要衝とされてきました。戦国時代「近江を制する者は天下を制す」と言われたように、小谷城を攻め落とした織田信長、豊臣秀吉など、名だたる武将が戦いを繰り広げる舞台となっています。 北近江、戦国屈指の山城小谷城 小谷城が築かれた小谷山は、標高495mの急峻な山です。前面には虎御前山・山脇山・丁野山、西に高時川、背後には伊吹山系が控える自然の要害に囲まれた屈指の山城です。城下には北陸と東海地方を結ぶ北国脇往還、そこから南には、東山道に通じる小谷道が分かれていました。 小谷城跡は、小谷山に深く切り込んだ清水谷(きよみずだに)とその両側の尾根、及び小谷山々頂大嶽(おおづく)にあり、その構造は、本丸を中心とする主郭と居館のあった清水谷、それらを守るように配置された出丸・金吾丸・大嶽城・月所丸・焼尾丸・福寿丸・山崎丸の独立した砦からなります。 戦国大名 浅井氏
浅井氏は、北近江の守護大名京極氏の被官で、小谷城西麓の丁野(ようの)(現長浜市小谷丁野町)を本拠としていました。大永3年(1523)、浅井亮政らが 京極氏の跡目争いに乗じて国人一揆を起こしたのをきっかけとして、やがて主導権を 握り北近江を支配するようになります。
小谷城はこの頃築城されたのではないかと考えられます。 三人の城主 天正元年(1573)9月1日、織田信長によって攻め落とされるまで、小谷城は北近江を統治した浅井氏三代の拠城として機能します。初代亮政が頭角を現し始めた大永3年(1523)頃から数えて、約50年の歴を刻んできたのです。浅井家を巡る人びと 元亀争乱
元亀元年(1570)に織田信長が浅井の同盟である越前の朝倉氏を攻めたことによって事態は大きく変化します。この一報を聞くや否や長政は義兄信長から離反し、織田・徳川連合軍を朝倉軍とともに姉川で迎え撃ちます。浅井・朝倉軍は姉川では敗れ退陣したものの、その後「志賀の陣」で優勢となり一進一退の攻防を繰り返しました。 一度は和睦を結びましたが、天正元年(1573)大嶽を攻め落とされ、ここを守っていた朝倉軍は退却し朝倉義景は越前国大野で自刃します。信長は小谷城へ総攻撃をかけ、同年8月29日久政自刃(享年49)、9月1日長政も小谷城内赤尾屋敷で自刃しました。(享年29)こうして小谷城落城、浅井三代は潰えました。 浅井三姉妹
長政とお市の子のうち、三人の娘たちは、戦国から江戸と続く動乱の時代の中で、歴史に大きく名を刻むこととなります。姉妹の名前は、茶々・初・江です。浅井と織田の血統を受け継いだ彼女らは、それぞれ豊臣、京極、徳川へと嫁ぎ、波乱の運命をたどっています。 浅井家の家系図 初代 浅井亮政
![]() 外政を良くし、北近江の支配者として浅井氏の基礎を築きました。大永5年(1525)、南近江の六角定頼が小谷城を攻めたときの記録によれば、当時は本丸のある尾根ではなく、小谷山最高峰の大嶽(おおづく)に城があったということがわかります。 また、亮政は天文3年(1534)に京極高清・高延親子を小谷城麓の清水谷の館に招いて饗応しています。京極家は元々浅井家の主家にあたります。これを自分の築いた城で盛大にもてなすことで、世間に浅井の力を見せつけたのでした。 二代 浅井久政
![]() しかし、高時川の上流に井関を作って領内の田を潤したり、用水争いの時にはそれぞれの意見をよく聞いて裁定を下すなど、領地経営において手腕を発揮しました。 三代 浅井長政
![]() その後、長政は織田信長の妹、お市の方を正室に迎えています。これは信長が京へ上るために、近江の地を同盟国としておきたいという思惑のよる政略結婚でしたが、長政とお市の方は仲睦まじく、二男三女をもうけています。 長女 茶々
![]() 豊臣家の世継を生んだことにより、絶大な力を持つようになった茶々ですが、秀吉が亡くなり関ケ原の合戦で石田三成が敗れると、徳川家との争いの矢面に立つこととなります。難攻不落といわれた大坂城は大坂冬・夏の陣で落城、茶々豊臣秀頼と運命を共にしました。享年47でした。 次女 初
![]() 夫の高次は本能寺の変の後、明智光秀につきますが妹の龍子が秀吉の側室となったために助命され、その後近江八幡城主、大津城主となります。大津城主のときの関ケ原の合戦では東軍徳川方につき、西軍石田方の軍勢を足止めしました。 このとき初は城内に残り、兵を励まし兵糧運びまで手伝ったと言われています。 夫の死後出家し、常高院と名を改めました。大坂の陣では姉 (豊臣方)と妹 (徳川方)との間に立ち、豊臣家の使者として奔走しています。落城寸前まで淀殿の説得にあたり、混乱の中でも冷静な判断を失わない気丈な姿を、淀殿の侍女お菊が『お菊物語』に記しています。晩年は江戸で過ごし、寛永10年(1633)に64歳で亡くなりました。 三女 江
![]() 動乱の中父母を亡くし、後見人となった秀吉の計らいで、天正12年(1582)に佐治一成(かずなり)と、文禄元年(1592)に羽柴小吉秀勝と結婚しています。一成とは秀吉の命で離縁させられ、秀勝とは死別しています。 文禄4年(1595)、6歳年下の徳川秀忠と3度目の結婚をし、二代将軍となった夫との間に二男五女をもうけました。このうち長男の家光は三代将軍に、五女の和子(まさこ)は後水尾天皇のもとへ輿入れし興子(おきこ)(後の明正(めいしょう)天皇)を生み、将軍家・天皇家に浅井家の血筋を残しました。江戸城で54歳の生涯を閉じた江は、その死後当代の女性としては最高位の従一位を贈られ、東京芝の増上寺に眠ります。 お市の方
![]() 小谷城落城後の天正十年(1582)、柴田勝家と再婚。天正十一年、賊ヶ岳で柴田軍が敗れ、勝家と自刃する。 |
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