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   「午」平成2年(1990年)  
   「午」 1990 冊子  
   「午」1990年の奉納絵馬の冊子表紙  
   「午」1990年 絵馬奉納者 名簿  
   「午」 絵馬   
     
                     静かな音楽
                                          佐々木幹郎
 絵馬というものはもともと、神に馬を捧げるかわりに、板に馬の絵を描いて納めたことから始まった。と、言われている。だから、絵馬の板の上縁は山形になっていてこれは厩舎の屋根を正面から見た形をあらわしている、という説がある。
 しかし地域によっては昔から絵馬に描かれる絵は、馬に限らなかったまた、必ずしも絵馬の板の上縁が山形になっていなくてもいいようだ。目の悪い人は「め」という字を、病苦を持つ者はその部分の絵を描き、母親が乳をしぼっている絵なども、地方に行くとよく見られる。柳田国男はこれらの絵馬にあらわれているものを、「神様もどうか共々に、この事実を念頭に留めて下さいといふ、希望の表白に他ならぬ」(「絵馬と馬」)と考えた。あるいは、「絵馬を神に上げたいと思う動機と、今でも小説に挿絵を入れ、物語を舞いにまふような風習とは、本来は一つの起こりではなかつたらうか」とも言っている。「言葉はまだ我々の心の中のものを、同じ強さではつきりと言ひあらわすことが出来ない。それを補充し又は代表するのが古い世から行はれた絵馬では無かたらうか。」(板絵沿革)
 小説の挿絵と絵馬とを同列に置いて考えるアイディアはいかにも柳田流で、ふいをつかれる。奉納は奉納だが絵馬を神に「納め奉る」ということは古来から決して、神への「贈呈」の意味を持っていなかった、
 神様に人々がお願いするとき、言葉だけでは足りぬと考えて、絵を捧げる。あるいは絵を言葉の代わりにして、自らの希望を伝える。
このとき、重要なのは、絵馬が紙に描かれたものではなく、板に描かれるものであったということだろう。紙はもともと、大変高価なものであった。そのため庶民は、安価で豊富な板に絵を描いて奉納した。その習慣が紙の豊富な現在も「絵馬」という形で残っていると考えたら、実に不思議な「板絵芸術」の残りかたではないか。パソコンやワープロを使って文章や絵を描く人々が、神社に御参りすると今も「板」に願いごとを書き、絵を捧げる。この情報社会で、神への情報(願い)だけは、「板」によってしか伝わらないのである。
 板に絵を描いたものは、年月を経て古びていくと、独特の味わいを見せるようになる。風に晒されて木目がくっきりと浮かび上がり、かつて鮮やかに彩色されていた絵も、その色を失い、わずかに剥落を免れた部分だけが、過日の面影を残す。長い時間だけが、板の上を通過していくと、神が願いを聞き届けた部分だけが、風に晒されて消えていくのだろうか。人の一生よりは、ずいぶん長く、遠い時間がかかるものだ。
絵馬はまた、誰の目にも触れることろに掲げられる。公開を前提としているから、同時代の人だけではなく時代を経た後世の者も、遠い昔の人の願いごとを知ることが出来る。古びた絵馬を見つけると、時間が経っても人間の願いごとや発想というのは少しも変わらない、とも思うし、また、昔の人のほうが現在より優れていた、と思い直すこともある。そういう情報の伝わり方も、「板」というメディアが持つ独特の性格だろう。絵馬は風に晒された「板絵芸術」として、たった一枚だけでも美術館の役割をする。
 ずいぶん前に、北九州で今も活躍を続けている琵琶法師を尋ねてまわったことがあったそのとき、佐賀県の山奥の神社で古びた板に描かれた琵琶の絵を見たことがある。琵琶の音は神の声を伝えるとも言われ、かつては描くだけで吉兆とされた。その神社の宝物殿からは、数百年前に奉納された古い琵琶も出てきた。木の骨組みだけが残り、手で触れると今にも粉々に壊れそうだった。この神社の祭神は弁財天で、盲目の琵琶法師たちの守護神でもあった。昔の琵琶法師たちが奉納したと絵馬であり、楽器だった。わたしは絵の具が剥落しかけた絵馬と、骨組みだけの琵琶から、風に混じってかすかな音色を耳にしたように思う。朽ちるということは、何という静かな音楽だろう。
(詩人)
 
     
以上の文章は「午」1990年開催の絵馬展に佐々木幹郎氏より寄稿戴き「午」出展冊子に記載されたものです。

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