エカテリーナ宮殿(南東側から写)
外に出てみると、正午を過ぎていたこともあってか、エカテリーナ庭園は旅行者の声でとても明るい雰囲気になっていた。また朝からぐずついていた雨は止み、雲が流れて青空がのぞき、光の射す時間が多くなってきたので、雨上がりの気持ち良さが庭園内をつつんでいることが感じ取れたのである。
庭園内の旅行者から聞こえてくる言葉は、ロシア語はもちろん、英語、ドイツ語その他いろんな言語が聞き取れた。馬車に乗っていた観光客が、どこの国の人であろうとも、さまになっているように思えた。 私はプーシキンの詩の『ツァルスコエ・セローの思い出』をプリントアウトした紙を片手に、詩のなかにあるチェスメ海戦記念柱とカグール河畔の戦いの記念柱を足早に探した。だがそううまくは見つかるはずはなかった。 |
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プーシキンはツァールスコエ・セロー(リツェイ時代)のことを、いくつもの詩に詠んだ。下の詩もこの地を詠ったものだ。 |
ツァールスコエ・セロー
数々の心地よい感情と過ぎ去った喜びの護り手よ
どうかわたしを連れていっておくれ 気ままなわたしの怠惰を
_____________(一八一七) |
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詩にもあるとおり、プーシキンにとってツァールスコエ・セローは、生涯、深い懐かしみを抱ける地だった。紆余曲折の末、1831年にナタリヤと結婚し、同年、妻とともにツァールスコエ・セローに移ったときも、詩にあるような数々の心地よい過去の印象が、再び詩人に語りかけたのだろうか。同窓生の友人たちが、デカブリストとして苦難にあえいでいることも頭の片隅から抜けることなく、複雑な思いもあったであろうが、母校を訪ねて後輩に囲まれたり、妻と二人で庭園を散歩している間は、詩人にとっての束の間の幸せがおとずれていた。 |
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変なことを書くようだが、プーシキンのことを考えたりして庭園を歩いているうちに、頭の中で音楽が鳴り出し、それを口ずさみながらカメラのファインダーを覗いたり、庭園を見歩くようになったことを、妙にリアルに憶えている。その曲はヘンデルのアリア「合奏協奏曲・第12番,作品6の12」で、カラヤン指揮のアルバム「アダージョU」に収録されている分だった。庭園の雰囲気が私の頭の中で曲を奏でたといったら、お馬鹿だろうか。 |
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集合時間ぴったりに、宮殿内の売店に戻ったつもりだったが、添乗員さんが私のことを探していたので、遅れたつもりはないものの少し悪い気がした。
我々はバスの駐車場に向かって歩き出し、エカテリーナ2世が愛顧した建築家Ч・キャメロンの手による「キャメロン・ギャラリー」(1784−1787制作)の前を通った。「キャメロン・ギャラリー」は1946年から一年かけて再建されたそうだが、ぜんぜんそんな感じがしなかった。 「キャメロン・ギャラリー」の南側階段の両側には、ギリシア神話のヘラクレスの像と、花の女神フローラの像が立っていた。彫刻は1786年に制作・完成を見たようだが、左の写真のように、上にあがって像と記念撮影をする人もいて、その光景に思わず笑みが浮かんだ。 |
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右手に大池を望みながら、庭園内の林に入っていくと、豪奢な廃屋か?と思わせるような建物があった。エルミタージュ美術館のなかに幾つかのエルミタージュ≠ェあるのと同様、エカテリーナ庭園内にもエルミタージュ≠ェあって、上の建物がその一つ?なのだ。それにしても保存状態はどうなっているのだろう?
バスの駐車場の手前に、お土産の屋外マーケットがあった。もちろん声をかけられた。駐車場への通り道に、しっかり屋外マーケットのスペースがとってあるとは、さすがだと少し関心してしまった。スパス・ナ・クラヴィー聖堂の裏手にある屋外マーケット同様、声をかけてくるのが本当に上手だった。ここでも私は「レーニンもの」を勧められた……。 |
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