極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
貨客船「キト」(Quito)
「キト」(Quito)は1938年にブレーメンのSchiffbau-Gesellschaft "Unterweser"
A. G.,で建造された北ドイツロイド(Norddeutscher Lloyd=NDL)社の貨客船で、6月14日にブレーメンから中南米への処女航海に出発し、以後は中南米での沿岸航路に就航しました。1939年8月24日にエクアドルのグアヤキル(Guayaquil)に到着し、翌8月25日に本国から開戦の事前警告電を受信したためそのまま待機し、姉妹船の「ボゴタ」も9月1日に到着して合流しました。
1939年9月3日の欧州開戦後も「キト」と「ボゴタ」は1940年1月までグアヤキルに留まり、1940年1月12日にはチリのコキンボ(Coquimbo)に移動しました。
1941年になるとNDL社はチリ政府と2隻の船体売却交渉を行ないましたが不調に終わり、ここで日本へ向けて連合国側の海上封鎖を突破する指令を受けました。
1941年4月、チリ政府に出航許可が申請されたのを機にカナダ海軍の補助巡洋艦「プリンス・ルパート」(HMCS Prince Rupert)がコキンボ沖に張り付きましたが、1941年5月18日に「キト」はこの警戒を出し抜いて出発し、その日の夜には「ボゴタ」も出発し「キト」は6月27日には無事横浜に到着しました。
1941年7月28日、「キト」と「ボゴタ」の2隻はドイツ海軍の補給船に指定されましたが、1942年9月10日からは日本側に傭船され帝国船舶の管理下で「帝珠丸」(ていしゅまる)と呼ばれ、特設潜水母艦として潜水艦への補給船として運用されました。
1943年6月、ドイツ海軍は連合軍の警戒が厳しい大西洋に代わりそれまで遠距離であったため活動の乏しかったインド洋に注目するところとなり、インド洋派遣のUボートをにより「モンスーン戦隊」(Gruppe Monsun )が設立されました。同時に日本海軍の協力によりペナンにはUボート基地が開設され、第一陣として11隻のUボートがヨーロッパ各地から極東へと向かいました。
これに合わせて「キト」と「ボゴタ」は日本側の傭船からドイツ海軍の徴用船に戻り、船名も元の「キト」と呼ばれるようになり「ボゴタ」とともにドイツ・イタリア潜水艦や「モンスーン戦隊」のためにUボート用の魚雷、補修部品、燃料、潤滑油を輸送する補給船としてシンガポールを拠点に運航されました。
1943年5月には封鎖突破船「アルスターウーファ」によりヨーロッパから運ばれたUボート用補給物資がバタビア(現ジャカルタ)に陸揚げされ、9月に「キト」はこの物資をバタビアからペナンのモンスーン戦隊基地へと輸送しました。
「キト」は1944年6月~8月まで、横浜の三菱重工横浜造船所のドライドックに入渠して補助潜水艦母艦への改装工事を実施しましたが、工事が完成して横浜から神戸に向け航行中の8月22日に座礁事故により小規模な浸水が発生したため、2隻の日本船により曳航されて神戸に向かい修理が行われました。
1944年11月連合軍の攻撃によりペナンのUボート基地は維持できなくなると「モンスーン戦隊」の司令部はシンガポールに、Uボートはバタビア(現ジャカルタ)に移動しました。また「キト」と「ボゴタ」はバリクパパンからUボート用の燃料と潤滑油をスラバヤやバタビアへと輸送しました。
1945年以降、バタビアが極東での主要なUボート運用基地となり、シンガポールとスラバヤが修理拠点となりましたが、ここで修理できない故障やバッテリーの交換作業は神戸に回航されて行われました。
1945年4月27日、キトはバリクパパンでUボート用燃料を積載し、1900時に単独でバタビアに向けて出発しましたが、4月30日になっても到着しませんでした。「キト」は4月29日の夜、ジャワ海のボルネオ島パンジェルマン沖で米潜水艦「ブリーム」(USS Bream)の発射した魚雷6本のうち2本が命中して沈没していました。
生存者が「ブリーム」により救助された模様ですが、単独航行で夜間に撃沈されたため日本側ではバタビアに到着しない「キト」の状況把握が遅れ、4月30日に捜索活動が開始され5月1日まで捜索が行われされましたが、捜索開始が遅れたため何も発見できませんでした。
2026.3.10 新規作成