泡沫戦史研究所/極東の異邦人/モンスーン戦隊の補給艦

極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
貨客船「ボゴタ」(Bogota)

 「ボゴタ」(Bogota)は北ドイツロイド(Norddeutscher Lloyd=NDL)社の貨客船として建造されて1938年3月18日に竣工して3月22日にはブレーメンから中南米への処女航海に出発し、その後は南米北海岸と西海岸で沿岸航路に就航しました。1939年8月26日、開戦の事前警告を受信した「ボゴタ」はプエルト・デ・クリストーバル(Puerto de Cristobal)からパナマ運河を通過し、コロンビアのブエナベントゥラ(Buenaventura)~エクアドルのグアヤキル(Guayaquil)に向かい、9月1日に姉妹船の「キト」(Quito)と合流しました。

 1939年9月3日の欧州開戦も「ボゴタ」と「キト」は1940年1月までグアヤキルに留まり、1940年1月3日「ボゴタ」はグアヤキルからチリのコキンボ(Coquimbo)に向けて出発して1月11日に到着し、キトも翌1月12日に到着しました。
 1941年になるとNDL社はチリ政府と2隻の船体売却交渉を行ないましたが不調に終わり、ここで日本へ向けて連合国側の海上封鎖を突破する指令を受けました。1941年4月、チリ政府に出航許可が申請されたのを機にカナダ海軍の補助巡洋艦「プリンス・ルパート」(HMCS Prince Rupert)がコキンボ沖に張り付きましたが、1941年5月18日に「キト」はこの警戒を出し抜いて出発し、その日の夜には「ボゴタ」も出発し「キト」は6月27日には無事横浜に到着しました。

 「ボゴタ」は1941年6月15日にマーシャル諸島で「エルザ・エスベルガー」(Elsa Essberger)から燃料補給を受けて日本船に偽装して出発しましたが、6月18日にチリのタルカワイ(Talcahuano)から日本に向けて航行中に機関の故障したドイツ貨物船「オゾルノ」(Osorno)からの緊急連絡を受けて救援に向かい、「オゾルノ」を曳航して1,800マイルを航行して7月3日に横浜に到着しました。
 1941年7月28日、「キト」と「ボゴタ」の2隻はドイツ海軍に徴用され補給船に指定されましたが、1942年9月10日からは日本側に傭船され帝国船舶の管理下で「帝寶丸」(ていほうまる)と呼ばれ、特設潜水母艦として潜水艦への補給船として運用されました。

 1943年6月、ドイツ海軍は連合軍の警戒が厳しい大西洋に代わりそれまで遠距離であったため活動の乏しかったインド洋に注目するところとなり、インド洋派遣のUボートをにより「モンスーン戦隊」(Gruppe Monsun )が設立されました。同時に日本海軍の協力によりペナンにはUボート基地が開設され、第一陣として11隻のUボートがヨーロッパ各地から極東へと向かいました。
 これに合わせて「キト」と「ボゴタ」は日本側の傭船からドイツ海軍の徴用船に戻り、船名も元の「ボゴタ」と呼ばれるようになり「キト」とともにドイツ・イタリア潜水艦や「モンスーン戦隊」のためにUボート用の魚雷、補修部品、燃料、潤滑油を輸送する補給船としてシンガポールを拠点に運航されました。
 1943年11月末にはヨーロッパに向かう「伊34」潜水艦へのインド洋上での補給が「ボゴタ」により予定されましたが、「伊34」潜水艦はシンガポールからペナンに向けて航行中の11月13日に英潜水艦「タウルス」(HMS Taurus)に撃沈されてしまいました。
 「ボゴタ」はその後12月23日にはヨーロッパに向かう「伊29」潜水艦に対してインド洋上でディーゼル燃料と食料品を補給し、「伊29」潜水艦はロリアンに無事到着しました。

 1944年11月連合軍の攻撃によりペナンのUボート基地は維持できなくなると「モンスーン戦隊」の司令部はシンガポールに、Uボートはバタビア(現ジャカルタ)に移動しました。また「キト」と「ボゴタ」はバリクパパンからUボート用の燃料と潤滑油をスラバヤ及びバタビアへと輸送しました。
 1945年以降、バタビアが極東での主要なUボート運用基地となり、シンガポールとスラバヤが修理拠点となりましたが、ここで修理できない故障やバッテリーの交換作業は神戸に回航されて行われました。

 1945年5月5日、ドイツ降伏に伴い「ボゴタ」はジャカルタで日本側に接収され、ドイツ人乗組員は抑留されました。5月6日、「ボゴタ」は「ボゴタ丸」と改名し、海軍の掃海艇母艦として登録されましたが実際には輸送艦として運航され、専門要員の不足のためドイツ人乗組員の一部は5月末ころまでは引き続き勤務を続けたようです。
 6月にはジャカルタからシンガポールに向けて車両336 t、爆薬165 t、エンジンおよび航空機の予備部品41 t、航空燃料100 t、米および食料130 t、塩120 t、タバコ71 t、野菜2 tなどの貨物を輸送しました。
 「ボゴタ」は1945年9月、シンガポールで航行不能の状態で連合軍に接収されて12月1日にSCAJAP番号「B022」を付与されました。1946年3月25日には修理のために玉野に回航され、修理完了後は復員船として本土~シンガポール方面を往復して1947年5月まで復員輸送に従事し、11月には上海に回航されました。

 1950年7月にドイツの海運会社NDLに返還され、同社で唯一の外洋船となりましたが債務を逃れるためにRoland-Linie社に移管されて傭船扱いで運航されました。1955年5月28日にデンマークのOluf Svendsen社に売却され「Astrid Sven」と改名されましたが、その後も1957年12月にギリシャのHellenic Mediterranean Lines社に売却され「Phrygia」と改名、1964年にはピレウスのAlcyone SAに売却され「Alcyone」と改名しました。
 1964年5月9日、「Alcyone」はセネガル沖で機関室が爆発して火災となり、5月11日に沈没しました。
 1945年5月5日、ドイツ降伏に伴い「ボゴタ」はジャカルタで日本側に接収され、ドイツ人乗組員は抑留されました。5月6日、「ボゴタ」は「ボゴタ丸」と改名し、海軍の掃海艇母艦として登録されましたが実際には輸送艦として運航され、専門要員の不足のためドイツ人乗組員の一部は5月末ころまでは引き続き勤務を続けたようです。
 6月にはジャカルタからシンガポールに向けて車両336 t、爆薬165 t、エンジンおよび航空機の予備部品41 t、航空燃料100 t、米および食料130 t、塩120 t、タバコ71 t、野菜2 tなどの貨物を輸送しました。
 「ボゴタ」は1945年9月、シンガポールで航行不能の状態で連合軍に接収されて12月1日にSCAJAP番号「B022」を付与されました。1946年3月25日には修理のために玉野に回航され、修理完了後は復員船として本土~シンガポール方面を往復して1947年5月まで復員輸送に従事し、11月には上海に回航されました。

 1950年7月にドイツの北ドイツロイド(NDL)社に返還され、同社で唯一の外洋船となりましたが債務を逃れるためにRoland-Linie社に移管されて傭船扱いで運航されました。1955年5月28日にデンマークのOluf Svendsen社に売却され「Astrid Sven」と改名されましたが、その後も1957年12月にギリシャのHellenic Mediterranean Lines社に売却され「Phrygia」と改名、1964年にはピレウスのAlcyone SAに売却され「Alcyone」と改名しました。
 1964年5月9日、「Alcyone」はセネガル沖で機関室が爆発して火災となり、5月11日に沈没しました。


2026.3.10 新規作成

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/