泡沫戦史研究所/ドイツ軍占領地での治安戦

中央軍集団の後ろの方<後編>

 1943年3月にルジェフの突出部からの撤退する「水牛作戦」が実施され、来るべき「城塞作戦」に備えて中央軍集団戦区では南方軍集団の接続部である南部への再配備が実施され、モスクワ正面にあった第9軍が南部戦区へと移動し、同時に南方軍集団に移管されていた第2軍も中央軍集団に復帰しました。
 ベラルーシの後方地域では「城塞作戦」に備えて後方連絡路の安全確保のためパルチザン掃討作戦が強化され、各地で大規模な掃討作戦が展開されました。
・第3戦車軍
・第4軍
・第2戦車軍
・第9軍
・第2軍

 1943年7月、「城塞作戦」が中止されるとソ連軍の反撃が始まり、8月には第2戦車軍と第9軍はキーロフ(Kirov)~ブリャンスク(Bryansk)~セフスク(Sevsk)地区の新防衛線に後退しました。8月中旬、第2戦車軍司令部は危機迫る(と思われた)バルカン半島に移動となり、第2戦車軍の配属部隊は第9軍に移管されました。
 10月にはスモレンスクを放棄してパンター陣地まで計画的に後退し、ソ連軍の攻勢主力はウクライナ正面に向けられたこともあり、前線を整理した中央軍集団戦区はしばらく安定しました。
・第3戦車軍
・第4軍
・第9軍
・第2軍

19.白ロシア占領軍及び保安部隊司令官
 中央軍集団の後方占領地域を管轄する「中央軍集団保安部隊及び占領軍司令官」(Kommandierender General der Sicherungstruppen und Befehlshaber im Heeresgebiet Mitte)は1943年10月8日付けで「白ロシア占領軍及び保安部隊司令官」(Kommandierender General und Befehlshaber der Sicherungstruppen Weißruthenien)へと改編・改称されました。この際には従来は「オストラント国防軍占領司令部」の管轄下にあった「白ロシア保安地域司令官」の管轄地域が移管され、司令部の管轄地域は軍集団の後方地域から白ロシア行政区を含む地域まで拡大されました。
 「中央軍集団保安部隊及び占領軍司令官」はマックス・フォン・シェンケンドルフ(Max von Schenkendorff)歩兵大将が引き続き指揮をとりましたが、1943年7月6日に大将がカルパッチ(Karpacz)での休暇中に心臓発作で急死するとルートヴィヒ・キューブラー(Ludwig Kübler)山岳兵大将が司令官代理として7月22日~10月1日まで指揮をとりました。
 1943年10月1日付けで司令官としてエルンスト・ゲオルク・エドウィン・グラフ・フォン・ロートキルヒ・ウント・トラッハ( Ernst Georg Edwin Graf von Rothkirch und Trach)騎兵中将が就任し、「白ロシア占領軍及び保安部隊司令官」と改称後も引き続き指揮を執り、1944年1月には大将に昇進しました。

 軍後方地域を管轄する「軍後方地域司令部」(Korück)は第2戦車軍の移動にあわせて交代し、第2戦車軍後方地域を管轄した「第532軍後方地域司令部」が引き続き第9軍後方地域を管轄し、代わりに第9軍後方地域の「第582軍後方地域司令部」が第2戦車軍司令部とともにバルカン方面に移転しました。
・第590軍後方地域司令部(Korück 590)=第3戦車軍後方地域
・第559軍後方地域司令部(Korück 559)=第4軍後方地域
・第532軍後方地域司令部(Korück 532)=第9軍後方地域
・第580軍後方地域司令部(Korück 580)=第2軍後方地域

 「白ロシア占領軍及び保安部隊司令官」と「軍後方地域司令部」には1943年10月時点で次のような部隊が配属されていました。
・第201保安師団:第590軍後方地域司令部
・第286保安師団:第559軍後方地域司令部
・第203保安師団:第580軍後方地域司令部
・第221保安師団
・スロヴァキア第2歩兵師団
・第52野戦訓練師団
・第390野戦訓練師団
・第391野戦訓練師団

 「白ロシア占領軍及び保安部隊司令官」は1944年4月19日付けで「白ロシア国防軍占領司令部」(Wehrmachtsbefehlshaber Weißruthenien)と改編・改称され、エルンスト・ゲオルク・エドウィン・グラフ・フォン・ロートキルヒ・ウント・トラッハ( Ernst Georg Edwin Graf von Rothkirch und Trach)騎兵大将が7月1日まで引続き指揮を執りましたが、占領地域の消滅により解隊しました。

20.RONA旅団
 1943年7月、「城塞作戦」が中止されるとソ連軍の反撃が始まり、8月には中央軍集団の第9軍と第2戦車軍はキーロフ(Kirov)~ブリャンスク(Bryansk)~セフスク(Sevsk)地区の新防衛線に後退しました。8月26日、ソ連軍はセフスク地区で攻撃を開始し、RONA旅団の第4連隊は第20軍団に配属されてドイツ軍の撤退を援護し、セフスク(Sevsk)地区で2日間持ちこたえ、ドイツ軍の捨て石となって壊滅しました。
 1943年8月中旬、「大ロシア自治区ロコティ」の後ろ盾であった第2戦車軍司令部はバルカン方面に転出となり、ロコティ地域は前線となったため「大ロシア自治区ロコティ」の住民はベラルーシのレペリ(Lepel)地区に移住することとなり、約3万名の住民がカミンスキーとともにレペリに移住しました。

 1943年9月の時点でRONA旅団の兵力は約6,000名で4個狙撃兵連隊、1個護衛大隊、1個工兵大隊、1個戦車中隊からなり、カミンスキーは移住先のレペリ地域でも各連隊を分散配置して自治区を再構築しようとしました。しかしドイツ軍の劣勢が明らかになると、反乱を起こしてパルチザン側に寝返ろうとする連隊が続出し、カミンスキーは連隊本部に乗り込んで首謀者を自ら処刑して回り事態を鎮静化しました。
 また「大ロシア自治区ロコティ」の住民のレペリ地域への移住が行われたものの、地域の安全確保は自力で行わなければならず、レペリ地域で最初のパルチザン掃討作戦が実施されました。


・Hubertus作戦
 1943年10月16日~10月27日、ベラルーシのレペリ(Lepel)~ウォロソヴィッチ地区でのRONA旅団によるパルチザン掃討作戦。RONA旅団はウォロソヴィッチ地区のパルチザン部隊の根拠地を襲撃し、戦死・行方不明72名、負傷者61名の損害と引き換えにパルチザン部隊に戦死562名、捕虜35名の損害を与え、多数の銃火器を鹵獲、又は破壊した。
作戦参加兵力:
RONA旅団
  第2狙撃兵連隊
  第3狙撃兵連隊
  第5狙撃兵連隊
  護衛大隊


 1944年4月11日からドイツ軍はベラルーシで一連の大規模なパルチザン掃討作戦である「Regenschauer (にわか雨)作戦」と「Frühlingsfest (春祭り)作戦」を実施し、RONA旅団を含む大兵力が投入されました。RONA旅団は戦闘団「カミンスキー」として戦闘団「アンハルト」(第2SS警察連隊の戦闘団)とともにヴェトシュ地区で戦闘に投入され、その後レシニ~ロギ~ヴォロキ地区を転戦して5月9日に戦線から引き揚げられるまで奮戦しました。
 この戦闘により、高級SS及び警察指導者「中央ロシア及び白ロシア」のフォン・ゴットベルクSS中将及び警察中将は旅団の戦闘力を高く評価し、武装SSへの編入を提案しましたが、もはやカミンスキーにとって選択肢はありませんでした。
 RONA旅団は兵力3,000~4,000名で改編のためリダ(Lida)へと移動し、1944年6月17日付けでSS突撃旅団「RONA」と命名され改編作業が開始されました。兵士の家族約6,000名と元ロコティ自治区の住民など約15,000名がカミンスキーに同行し、リダ南方約50kmのディアトロヴォ(Dzyatlava)地域が新しい移住先として提供されました。
 しかし1944年6月22日に開始された「バグラチオ作戦」により中央軍集団の戦線はたちまち崩壊し、リダ~ディアトロヴォ地区にも7月にはソ連軍が迫りました。このため一般住民約21,000名はポンメルンに避難することになり、東方労働者として移住しましたが1945年初めのソ連軍の侵攻により住民虐殺の犠牲になりました。

 1944年8月1日、SS突撃旅団「RONA」はSS第29武装擲弾兵師団NORAへの拡大が下令され、シフィエントシュフ(Świętoszów)のノイハマー演習場で拡大・改編が開始される計画でした。
 SS突撃旅団「RONA」の家族約10,000名はSS師団への拡大計画に合わせてスロヴァキアへの移動が計画され鉄道輸送も開始されましたが、受け入れ側の準備の遅れからチェンストホヴァ(Częstochowa)で足止めされ待機しました。
 8月1日ワルシャワでポーランド国内軍による蜂起が起きると、編成中の第72武装擲弾兵連隊(ロシア第1)により戦闘団「フロロフ」(Kampfgruppe Frolow)が編成されて鎮圧に投入されましたが、ワルシャワでの蛮行はドイツ軍上層部でも問題視され、ヒムラーの承認によりカミンスキーは8月28日に銃殺刑となりました。
 公式には「パルチザンの襲撃により死亡」と発表されましたが、カミンスキーを失った部隊の士気は地に落ち、SS師団への改編も中止されSS突撃旅団「RONA」は解隊され、約3,000名が家族ともにミュンジンゲン(Münsingen)でウラソフの「ロシア解放軍」に合流しました。

21.1943年前半のパルチザン掃討作戦
 1943年になるとスターリングラードとクルスクでの敗北が重なり、占領地の住民にもドイツ軍の敗勢が徐々に広がり始めました。ベラルーシでもパルチザンの活動が活発となりドイツ軍による大規模なパルチザン掃討作戦が実施される一方で、作戦目標はパルチザンの包囲・殲滅ばかりでなく労働者の連行と家畜や穀物の収奪へと変化して行きました。
 1943年2月、ドイツ本国での労働者の不足から東方労働者をドイツ本国に移送する方針が示されましたが、東方占領地においても労働力は不足しており占領軍は労働者の移送に反対しましたが、結局はドイツ本国での労働力確保が優先され3月には4か月間に100万人の移送が計画されました。
 パルチザン掃討作戦で捕虜となったパルチザンも労働可能な男は捕虜収容所を通じてソ連軍捕虜と同様に労働者として炭鉱などでの重労働に送りこまれました。また居残っている住民からはパルチザン掃討作戦の傍ら労働可能な男女が強制的に根こそぎ連行され、軍の撤退により失われた労働力の穴埋め、陣地などの建設工事、ドイツ本国の労働者などとして送りこまれました。
 しかし労働力とならない老人や子供、障がい者、自力で歩けなくなった者はその場で射殺され、輸送中や収容所の劣悪な環境で死亡するものは後を絶ちませんでした。

・Eisbär I~III作戦
 1943年1月~2月に第2戦車軍の後方地域であるロシアのドミトリエフ(Dimitriyev)~Mikhailovka地区で実施されたパルチザン掃討作戦。第2戦車軍の後方部隊とともにロシア人民解放軍(RONA)の大隊は作戦地域北部での警戒任務に従事したほか、NORA第7大隊は初めて実戦に投入された。
 この作戦によりパルチザン部隊はブリヤンスク南方地区から完全に駆逐され、第2戦車軍の後方地域はより安全なものとなり、ロコティ地区の「大ロシア自治区ロコティ」は拡大の一途をたどりました。
作戦参加兵力:
第532軍後方地域司令部
<トルブチェフスク~スセムカ地区>
第621東部砲兵大隊
第615、616、617、618、619、620東部大隊
ハンガリー第102軽師団
ハンガリー第105軽師団
<リチカ南方~ドミトリエフ=リゴフスキ地区>
ロシア人民解放軍RONA旅団の一部(数個大隊?)
戦闘団「リューブザム」:第17機甲擲弾兵旅団
ハンガリー第108軽師団


・Franz作戦
 1943年1月7日~1月14日、ベラルーシのミンスク(Minsk)~バブルイスク(Babruysk)の中間地点のCherven地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦によりパルチザン1,143名と容疑者882名を殺害し、住民約10,000名が強制労働に連行され、牛2,000頭が押収されました。この作戦は住民を労働者として大規模に強制連行した初めての作戦となり、以後はドイツ本国への労働者の移送と穀物や家畜の移送が大規模に行われました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第13警察連隊
第23警察連隊第1大隊
第24警察連隊


・Erntefest(収穫祭) I作戦
 1943年1月18日~1月27日、ベラルーシのミンスク(Minsk)~スウツク(Sluzk)鉄道及び道路の東側、Cherven’~アジポヴィーチ(Asipovichy)西方までの地域でのパルチザン掃討作戦。この作戦ではパルチザン805名、容疑者1,165名が殺害され、捕虜34名のほか1,308名の住民が強制労働に連行され、馬395頭、牛2,803頭、豚572頭、羊1,560頭、穀物459トンが押収され、ドイツ側の損害は戦死6名、負傷17名に留まりました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第2警察連隊(戦闘団Griep)
第13警察連隊(戦闘団Worm)
第23警察連隊第1大隊(第307警察大隊:戦闘団Binz)
第12(リトアニア)シューマ大隊
第57(ウクライナ)シューマ大隊
保安警察及びSD部隊×3個


・Erntefest(収穫祭) II作戦
 1943年1月28日~2月9日、収穫祭(Erntefest) I作戦に続きベラルーシのミンスク(Minsk)~スウツク(Sluzk)鉄道及び道路の西側でのパルチザン掃討作戦。この作戦では収穫祭(Erntefest) I作戦とほぼ同様の部隊が参加し、パルチザン2,325名を殺害し、住民272名を強制労働に連行しました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第2警察連隊(戦闘団「Griep」)
第13警察連隊(戦闘団「Worm」)
第23警察連隊第1大隊(第307警察大隊:戦闘団「Binz」)
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
Rodjanoff大隊(ドルジーナSS部隊)


・Schneehase作戦
 1943年1月28日~2月15日、ベラルーシのポラツクPolotsk地区でのパルチザン掃討作戦。この地域は北方軍集団への補給路の中でも漸弱な地域であり、常にパルチザン部隊の攻撃目標となっていました。ドイツ側はパルチザン部隊をポラツク~イドリツァ鉄道沿いの地域から排除し、ラトビア国境付近のオスヴェイスコエ湖方面に追い込んで壊滅する計画でしたが、パルチザン部隊はポラツク北側のドレトウニの駅付近とヤズノ湖の南側から2個打撃群で2月11日から反撃を開始して対抗し、2月15日までの戦闘でロッソノ(Rosony)地区からドイツ軍を撃退しました。
 パルチザン側の推計ではロッソノ地区では260戸の家屋が焼かれ、住民1,245名が殺害されましたが、別の資料ではパルチザン側の死者2,283名となっており、約1,000名前後がパルチザン部隊の損害ではないかと考えられます。ドイツ側の損害は死者37名で銃器54挺を鹵獲しました。
作戦参加兵力:
第201保安師団
SS第1歩兵旅団(自動車化)のSS第8歩兵連隊(自動車化)
第281保安師団の一部
第391野戦訓練師団の一部
セーベジ(Sebezha)、イドリツァ(Idritsa)、ピルトシカ(Pustoshka)、Novohoransk地区の守備隊
第61保安連隊
第61装甲列車
SS野戦募兵所「ボブルイスク」の第2補充訓練大隊
航空部隊


・Hornung作戦
 1943年2月8日~2月26日、ベラルーシのスウツク(Słuck)ゲットーの破壊とプリピャチ沼沢地北部のMorocz(現Moroch')~Milewicze(現Milevichi)地区での大規模なパルチザン掃討作戦で、1月~2月初めの「Erntefest(収穫祭) I作戦」と「Erntefest(収穫祭) II作戦」に続いて実施されました。
 ドイツ軍はこの作戦によりブレスト(Brest)~ルニネツ(Luniniec)~ホメリ(Gomel)間の道路と鉄道の安全を確保することを目的に大規模な兵力が招集されました。
 作戦は二段階に分かれており2月8日にスウツク(Słuck)ゲットーの破壊から開始され、ここでユダヤ人約3,300名が殺害されました。
 2月14日~15日には第二段階として作戦地域を無人地帯とする作戦が行われ、作戦によりレーニン村1,046名、ブシツィ村780名、アダモヴォ村787名、コパチェヴィッチ村426名が殺害されました。最終的にスウツクゲットーのユダヤ人を含む12,718名が殺害され、捕虜はわずか65名で移送された労働者は記録にありません。ドイツ側の死者は29名でその内27名は外国人シューマでした。
作戦参加兵力:
【戦闘団「オスト」】Kampfgruppe "Ost"
第2SS警察連隊
第18SS警察山岳猟兵連隊/警察山岳砲兵大隊
第1SS(自動車化)歩兵旅団/「ボリソフ(Borissow)」大隊
SSドルジーナ部隊/「ロジオノフ(Radjanoff)」歩兵大隊
【戦闘団「ノルト」】Kampfgruppe "Nort"
第23警察連隊/第1大隊(第307警察大隊)
第12警察戦車中隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第57シューマ大隊
第112警察通信中隊
【戦闘団「ヴェスト」】Kampfgruppe "West"
第13警察連隊/第1大隊、第2大隊
第18シューマ大隊
第56シューマ砲兵大隊/第1中隊
警察工兵部隊
【戦闘団「ジュート」】Kampfgruppe "Süd"
第10警察連隊/第2大隊、第3大隊
第11警察連隊/第1大隊
第103シューマ大隊
重装備中隊「Kohlstedt」
【戦闘団「ジュートオスト」】Kampfgruppe "Südost"
スロヴァキア軍保安師団第101歩兵連隊


・Kugelblitz作戦
 1943年2月23日~3月8日、ベラルーシのポラツクPolotsk~ロッソノ~Dryssa川地区でのパルチザン掃討作戦。この作戦ではパルチザン3,780名を殺害して武器583挺を押収し、ドイツ側損害は117名でした。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第201保安師団
第61保安連隊
第1SS(自動車化)歩兵旅団
第61装甲列車


・Lenz-Süd(南国の春)作戦
 1943年4月1日~4月4日、ボリソフ(Boeisov)~ストボダ(Sloboda)~スモレヴィチ(Smolevichi)地区でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第13SS警察連隊(第3大隊を除く) 第23SS警察連隊(第1大隊を除く) 第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊) 第12増強警察戦車中隊 SSドルジーナ部隊及びSD部隊 SS特別大隊「ディルレヴァンガー」 第57(ウクライナ)シューマ大隊 第202(ポーランド)シューマ大隊 郷土防衛大隊の1個中隊


・Lenz-Nord (北国の春)作戦
 1943年4月8日~4月13日、「南国の春(Lenz-Süd)作戦」に引き続きボリソフ(Boeisov)~スモレヴィチ(Smolevichi)~ラゴイスク(Lahoysk)~Sembin地区でのパルチザン掃討作戦。作戦地域には約2,000名のパルチザン部隊がいると報告されていました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)


・Zauberflöte (魔笛)作戦
 1943年4月17日~4月22日、ミンスク市内及び周辺地区での共産主義者とパルチザン掃討作戦。4月17日午前4時から4月18日までミンスク市(人口180,000名)は完全に封鎖され市街の外縁部には検問所が設置されました。市内はI~VIの6区画に分割され、各区画ごとにしらみつぶしの捜索が行われ、76,000名が捜索を受けこのうち約52,000名が強制労働の選別のため集合場所に連行されました。
 この作戦により住民550名が強制労働のためドイツ本国に連行され、700名はミンスクの労働収容所に送られ、39名が逮捕、2名が殺害されました。また鉄道での捜索中に22,000名の無賃乗車が判明し、以後駅での定期的な捜索が実施されることとなりました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊(第3大隊を除く)
第24SS警察連隊第3大隊(第307警察大隊)
第12警察戦車中隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
SSドルジーナ部隊
ミンスク守備隊
保安警察及びSD指揮官「白ロシア」の一部(ミンスク駐屯)
TeNo部隊
特別編成増強中隊(士官5名、下士官12名、兵108名)
第141予備歩兵師団の一部
第390野戦訓練師団の一部


・Draufgänger I-II作戦
 1943年4月28日~5月10日、I及びIIの一連の作戦はミンスク北側のマラジェチナ(Maladziečna)及びManili森林~Gorodok東方~ルドニャ(Rudnia)森林地帯の広い地域で展開されたパルチザン掃討作戦。
 この地域には6,000名~7,000名のパルチザン部隊が活動していると考えられており、全体の作戦指揮はフォン・ゴットベルクSS大将が、現場での部隊指揮はGrip警察大佐が行い、第一段階の「Draufgänger I作戦」は4月28日~4月30日まで、第二段階の「Draufgänger II作戦」は5月1日~5月10日まで実施されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第2SS警察連隊
第1(増強)警察戦車中隊
第12(増強)警察戦車中隊
SSドルジーナ部隊
第118シューマ大隊


・Cottbus (コトブス)作戦
 1943年5月12日~6月21日、ベラルーシのミンスク北東~レぺリ(Lepel)の広範囲の地域で実施されたパルチザン掃討作戦。この作戦はドイツ軍によるロシア・ベラルーシ地域における最大級のパルチザン掃討作戦であり合計16,662名の兵力が投入されました。
 フォン・ゴットベルクSS大将への報告によるとパルチザンは戦闘で6,087名が死亡し3,709名が処刑、捕虜599名のほか、住民の男性4,997名、女性1,059名が労働者として移送され、牛6,346頭、穀物684トンが押収されました。このほかに住民2,000~3,000名が「地雷原の処理中に爆発に巻き込まれて!」死亡し、作戦全体での死者は約20,000名に達すると推定されます。
 ドイツ側の損害は死者59名~128名、負傷者300名以上でパルチザンの激しい抵抗にあい、大量の武器とパルチザンの拠点が発見されて破壊されましたが、パルチザン部隊は大部分が南部に向けて撤退し480~950挺の武器が押収されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルク」】Kampfgruppe "von Gottberg"
第2SS警察連隊
第13SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊
  第1大隊(第103警察大隊)
  第2大隊(第12(リトアニア)シューマ大隊)
  第3大隊(第51(ウクライナ)シューマ大隊)
SSドルージナ部隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第286保安師団
第600コサック大隊
第57(ウクライナ)シューマ大隊

第3警察大隊
国家地方警察小隊(ボリソフに駐屯)
国家地方警察出動隊「Kreikebom」
国家地方警察司令部「Plechtschenicze」
第3(リトアニア)シューマ大隊
第15(リトアニア)シューマ大隊
第54(ウクライナ)シューマ大隊
第102(ウクライナ)シューマ大隊
第115(ウクライナ)シューマ大隊
第118(ウクライナ)シューマ大隊
第271(ラトビア)シューマ大隊
第700特別編成東部連隊の一部?


・Zigeunerbaron(ジプシー男爵)作戦
 1943年5月15日~6月6日、中央ロシアのブリヤンスク南方の第2戦車軍後方地域で「ツィタデル作戦」の準備として後方補給路と通信線の安全確保を目的に実施されたパルチザン掃討作戦。
 パルチザンの兵力は6個旅団の約6,000名で戦闘により3,152名が戦死、1,568名が捕虜となり、569名が脱走兵として拘束されました。他に住民15,812名を強制的に退去させ、パルチザンの陣地2,930ヶ所とキャンプ207ヶ所が破壊され、戦車×3両、野砲×24門、対戦車砲×14門、迫撃砲×55門、航空機×2機を鹵獲または破壊し、馬316頭、牛380頭、荷馬車×717両、スキー×110組、そり×183台が押収されました。
 ドイツ軍はパルチザン旅団を壊滅させることはできず後方連絡路への圧力をわずかに軽減させた程度でしたが戦死約3,000名の損害を被りました。OKW(国防軍最高司令部)は作戦成功と評価したが、戦車部隊などの予備兵力の投入は補充兵員の損耗、燃料と弾薬の不足など、「ツィタデル作戦」の開始に少なくない影響を与えました。
作戦参加兵力:
第47戦車軍団司令部
第4歩兵師団
第7歩兵師団
第292歩兵師団
第10機甲擲弾兵師団
第18戦車師団
ハンガリー第102軽師団
第532軍後方地域司令部
  コサック騎兵保安大隊III/57:4個騎兵中隊
  第615東部大隊
  第616東部大隊
  第617東部大隊
  第620東部大隊
  第621東部砲兵大隊
  第II/9アルメニア歩兵大隊:5個中隊
  第807アゼルバイジャン歩兵大隊
ロシア人民解放軍(RONA)旅団
第137コサック騎兵大隊第1中隊
第137コサック騎兵大隊第2中隊
第45東部中隊
第102東部中隊


・Freischütz (魔弾の射手)作戦
 1943年5月20日~5月30日、ロシアのブリヤンスクの北~北東地区のブリャンスク北~北西のジャチコヴォ(Dyatkovo)~イヴォト(Ivot)~ジューコフカ(Zhukovo)の地域で実施されたパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第707歩兵師団第747歩兵連隊(保安集団「ジュート」)
第5戦車師団の一部(第455東部特別編成司令部を含む)
第6歩兵師団の一部(カミンスキー旅団第1連隊の第1、第2大隊を含む)
ロシア人民解放軍RONA(カミンスキー)旅団
  第1連隊の第3大隊
  第4連隊の第11大隊
第587保安大隊
第791保安大隊
第807アゼルバイジャン歩兵大隊
第4装甲列車


・Tannhäuser (タンホイザー)作戦
 1943年5月31日~6月23日、ロシアのブリヤンスクの南西地区のスタロドゥーブ(Starodub)東方~ポーチェプ(Pochep)の鉄道線路~デズナ川(Desna)西方にかけての地域でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第707歩兵師団第727歩兵連隊第2大隊
第587保安大隊
騎兵部隊「Trubtschevsk」
第9アルメニア野戦大隊の一部
第618東部大隊
第617東部大隊の一部
第304保安大隊の2個中隊
第757保安大隊の2個中隊
ロシア人民解放軍RONA(カミンスキー)旅団
  第4連隊の第12大隊

22.パルチザン掃討作戦総司令官と1943年後半のパルチザン掃討作戦
 ますます活発化する後方地域でのパルチザンへの掃討作戦強化のため、1943年6月21日付けで新たに「パルチザン掃討作戦総司令官」(Chef der Bandenkampfverbande)が設立されて、高級SS及び警察指導者「中央ロシアおよび白ロシア」のエーリッヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー(Erich von dem Bach-Zelewski)SS大将が司令官に任命されました。
 これによりSSと警察部隊への限定的な指揮権しか持たなかったフォン・デム・バッハ=ツェレウスキーSS大将は「パルチザン掃討作戦総司令官」として後方地域でのパルチザン掃討作戦の名目上の最高責任者としてパルチザン掃討作戦に従事する全ての部隊(武装SS、治安警察、保安警察、TeNo情報部、NSKK、シューマ)を指揮し、必要により郵便保安部、鉄道警察、税関、陸軍や空軍にまで命令を出せるようになりました。
 しかしこれは既存組織の指揮系統に「屋上屋を重ねる」の典型的な例で実際的な効果があったか疑わしく、パルチザン掃討作戦の指揮系統はいっそう複雑怪奇なものになっていました。また多忙を極めるバッハ=ツェレウスキーSS大将に代わりSS及び警察指導者「白ロシア」としてパルチザン掃討作戦で手腕を発揮していたフォン・ゴットベルクSS少将及び警察少将は1943年7月5日付けで高級SS及び警察指導者「中央ロシアおよび白ロシア」代理となりSS中将及び警察中将に昇進しました。
 1943年7月、「城塞作戦」が中止されると中央軍集団戦区でもソ連軍の反撃が始まり、8月には中央軍集団の第9軍と第2戦車軍はキーロフ(Kirov)~ブリャンスク(Bryansk)~セフスク(Sevsk)地区の新防衛線に後退しました。スターリングラードとクルスク戦以降のドイツ軍の敗勢は占領地の住民やロシア人義勇兵にもますます広がり、住民の集団移住や東部大隊の西部戦線への移送と相まって脱走兵やパルチザンへの寝返りが頻発するようになりました。
 一方ベラルーシのパルチザンは1943年夏頃には10万名以上の兵力となり、戦術面や作戦面でも非常に深刻な脅威とみなされるようになりました。ドイツ軍の主要な通信線への攻撃、電話線の切断、道路の封鎖、地雷原の敷設、罠の設置などでドイツ軍を悩ませました。パルチザンには多くのソ連軍やNKVDの将校が派遣され、1943年にはパルチザン旅団の指揮官は正規の将校に交代し、1943/44年の冬にはパルチザンの兵力は13万5千名を超えていました。

・Hermann作戦
 1943年7月7日~8月5日、ミンスク西方のナリボキ(Nalibocki)森林地帯でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
【戦闘団「フォン・ゴットベルグ」】Kampfgruppe "Von Gottberg"
第2SS警察連隊
第1(増強)警察戦車中隊
第12(増強)警察戦車中隊
第1SS(自動車化)歩兵旅団
第21山岳小隊(自動車化)


・Orloff作戦
 1943年8月30日~31日、ベラルーシのプロポイスク(Propoisk)地区北部での兵力約2,000名のパルチザン「グリシン(Grischin)部隊」への掃討作戦。作戦参加部隊は8月29日から移動を開始し、8月30日から第221保安師団を主力とする「コープ」集団(Gruppe “Kopf”)は包囲網を形成する計画で、第9警察戦車中隊の4両の装甲車が攻撃の先鋒を務めることになっていました。
 第221保安師団は8月30日に「グリシン」部隊を捕捉しましたが、敵は8月30日~31日の夜に包囲網を突破してしまい、師団は急遽移動することとなり作戦は中止されました。
作戦参加兵力:
【「コープ」集団】Gruppe "Kopf"
第221保安師団
第34保安連邸本部
第636野戦補充擲弾兵連隊第1大隊の大隊本部及び第2中隊
第642東部大隊
第643東部大隊
第930保安連隊第2大隊
第930保安連隊の第1東部中隊
第286保安師団の第1中隊
第45保安連隊の第15東部中隊
高射砲部隊司令部と1個軽高射砲小隊
砲兵中隊「エンケ」(Enke)
第4砲兵集団「ボーメ」の本部及び第2砲兵中隊
第614東部砲兵中隊
第9警察戦車中隊(第9警察偵察装甲車中隊)


・Hubertus作戦
 1943年10月16日~10月27日、ベラルーシのレペリ(Lepel)~ウォロソヴィッチ地区でのロシア人民解放軍RONA旅団によるパルチザン掃討作戦。ロシアのロコティ地域からベラルーシのレペリ地域に移住後、移住地域の安全確保のために実施されたRONA旅団によるこの地域で最初のパルチザン掃討作戦で、ウォロソヴィッチ地区のパルチザン部隊の根拠地を襲撃し、旅団の損害は戦死・行方不明72名、負傷者61名によりパルチザン部隊に戦死562名、捕虜35名の損害を与え多数の銃火器を鹵獲、又は破壊しました。
作戦参加兵力:
RONA(カミンスキー)旅団
  第2狙撃兵連隊
  第3狙撃兵連隊
  第5狙撃兵連隊
  護衛大隊


・Heinrich (ハインリッヒ)作戦
 1943年10月25日~11月9日、ベラルーシ北部のドレトゥニ(Dretun)及びポロツク(Polotsk)東北~ラトビア国境地帯の森林と湿地帯でのパルチザン掃討作戦。この作戦には北方軍集団戦区の戦闘団「イェッケルン」(Kampfgruppe “Jeckln”)が、中央軍集団戦区ではクルト・フォン・ゴットベルクSS中将兼警察中将の戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe “von Gottberg”) や第3戦車軍の後方部隊が動員されました。
 この作戦によりパルチザン5,452名が死亡し、住民約8,000名が強制労働に連行され、さらに約8,000名の住民が再定住のために強制移住させられました。
作戦参加兵力:
<北方軍集団>
【警察戦闘団「イェッケルン」】Polizei Kampfgruppe "Jeckeln"
第113保安連隊
  第1大隊(第835保安大隊)
  第2大隊(第941保安大隊)
  第3大隊(第972保安大隊)
第9SS警察連隊第3大隊(第132警察大隊)
第773保安連隊
  第591保安大隊
  第597郷土防衛大隊
  第663保安大隊
  第319ラトビア警察大隊
第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」
  第1大隊(第276シューマ大隊)
  第2大隊(第277シューマ大隊)
  第3大隊(第278シューマ大隊)
  第4大隊(第312シューマ大隊)
第3エストニアSS義勇旅団 ※11月1日から配属
第16SS警察連隊
第3警察戦車中隊
<中央軍集団>
【SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」】SS Kampfgruppe "von Gottberg"
第2SS警察連隊 ※第1(増強)警察戦車中隊を含む
第13SS警察連隊(第2大隊を除く)※第4警察戦車中隊を含む
第24SS警察連隊(第3大隊を除く)
第9警察戦車中隊
第12(増強)警察戦車中隊
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)※11月1日~4日の間のみ参加


・Ulanen作戦
 1943年11月6日~11月7日、ベラルーシ北部、ポラツクPolotsk南方約35kmのDubrovka-Yaroslav地区でのパルチザン掃討作戦。
作戦参加兵力:
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第32警察狙撃兵連隊第1大隊、第2大隊(第206シューマ大隊)
第405郷土防衛大隊

23.1943/44年の冬季戦
 1943年10月6日、北方軍集団の第16軍/第43軍団と中央軍集団の第3戦車軍/第2空軍地上軍団の接合部であるネヴェリ(Nevel)地区でソ連軍の冬季攻勢が発起されると、軍集団戦区の接続部の手薄な防衛線が破られました。
 特に第2空軍地上軍団の「第2空軍地上師団」は攻勢の矢面に立たされ、戦闘初日にはRossed~Wilikije Gory地区で師団の防衛線が蹂躙され、12kmの幅で突破され、第43軍団の第83歩兵師団との連絡は絶たれ、師団はNewelから南方約20kmのLobok地区まで敗走し、前線は最大15kmの深さまで食い破られました。
 第83歩兵師団からは救援部隊として第547擲弾兵連隊第2大隊の戦闘団が突破し、一時的に連絡を回復しましたが焼け石に水でした。

 10月31日、ソ連軍はネヴェリ(Nevel)南方でドイツ軍の薄い防衛線を西向きに再び突破し、11月7日までにはドイツ軍戦線の後方地域で北西~南西にむけて広い範囲で進撃し、戦線後方地域に大きな危機が訪れました。ソ連軍は北方軍集団戦区では11月13日までにラトビアのリガから前線後方のノヴォソコロニキ(Novosokolniki)を結ぶ鉄道などの要衝であるプストシカ(Pustoshka)に迫り、中央軍集団戦区では戦線後方の要衝であるポラツクとビテブスクを目指して進撃していました。
 この危機に際して北方軍集団では突破口となった第43軍団戦区の南側に第18軍から「第1軍団司令部」が10月10日に到着し、さらに第28軍団司令部から抽出された司令部要員により10月31日付けで「軍集団Loch」が設立されて第43軍団と第1軍団の後方部隊と増援部隊を統合運用して12月4日まで防衛戦を展開しました。
 一方、中央軍集団戦区では第2空軍地上軍団の突破口に第4軍から緊急輸送された「第9軍団司令部」が10月12日に到着し、なけなしの前線部隊をかき集めて投入されました。
 おりしもネヴェリ(Nevel)西方の戦線後方地域ではパルチザン掃討作戦の「Heinrich (ハインリッヒ)作戦」が10月25日から11月14日までの計画で実施されていましたが11月9日までで中止され、作戦に参加していた中央軍集団戦区の戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe “von Gottberg”)と北方軍集団戦区の戦闘団「イェッケルン」(Kampfgruppe “Jeckln”)はそのまま防衛戦に投入されました。
Heinrich (ハインリッヒ)作戦→

 中央軍集団の第9軍団戦区でソ連軍は10月31日にネヴェリ(Newel)の南方でドイツ軍の薄い防衛線を西側に向けて再び突破し、一隊はネベリ(Nevel)~ポラツク(Polotsk)間の鉄道線路沿いにポラツク方面に突進し11月7日には、ポラツクから約30km手前のドレドゥニ地区に達しましたが、ここで阻止されました。
 別の一隊は南下し、11月14日にはコジヤニ~スロヴニ地区に達し、11月16日~19日には再度ビテブスク方面に向けて南東への攻撃を開始し、11月28日までにはLosvida湖~シロチノ地区へと達しており、要衝ビテブスクまで約25kmまで迫りましたが、泥濘期となり突進はかろうじて止まりました。
 第9軍団戦区は東側を正面とした第129歩兵師団~第6地上師団(L)~第3地上師団(L)~第4地上師団(L)の前線と、突破したソ連軍に対する西側の第87歩兵師団~第20戦車師団~第252歩兵師団の防衛線に分かれており、ゴロドク~Lobok地区では南北方向に約50kmの突出部を形成していました。
 12月初め、霜が降って地面が凍るとソ連軍の大攻勢が再びはじまりました。第9軍団のゴロドク~Lobok地区までの突出部に対してソ連軍はゴロドク地区北側の第20戦車師団戦区から北東に突破するとともに、北端の第129歩兵師団戦区で南西に突破して突出部の第129歩兵師団、第87歩兵師団、第20戦車師団を一網打尽しようとしており、こうして『第1次ビテブスク防衛戦』が始まりました。

 12月8日、ソ連軍の大攻勢が始まると第129歩兵師団は街道沿いに南へと後退しましたが、第20戦車師団戦区ではソ連軍の約3kmに渡る突破口を反撃により封鎖することに成功しました。しかし戦闘団「ミハエル」(Kampfgruppe “Michael”)の戦区ではソ連軍がベルノヴォ湖とチェノヴォ湖の間を北東に突破し、ノヴィキ(Nowiki)~ロドチハ(Rodtschicha)~ヤクシェンキ(Jakuschenki/Yakushenki)~サモリ(Samori)地区に至り、次いでクリマショヴォ(Klimaschowo)地区に進撃しました。
 これに対して第112機甲擲弾兵連隊第1大隊、第20機甲偵察大隊、第92機甲工兵大隊及び第61装甲列車が投入され、ソ連軍先鋒部隊を阻止することはできませんでしたが、第21戦車大隊と第28突撃砲大隊第3中隊の奮戦により、少なくとも個々の防衛拠点を確保することには成功しました。
 この大攻勢は12月15日まで続きソ連軍はマラシェンキ(Malaschenki)地区で街道に到達し、第59機甲擲弾兵連隊第1大隊と数両の戦車が街道の奪還を試みましたが、同日中にソ連軍に再び封鎖され、北側の第87歩兵師団が孤立しました。
 第87歩兵師団はそれでもソ連軍の猛攻を跳ね返しましたが、死傷者と捕虜1,600名、Hiwi(ロシア人志願補助員)も212名を失う損害を被り、重装備も全て失いながら12月17日に生き残りの5,000名のみがなんとかドイツ軍戦線に辿り着きました。
 12月20日の時点で師団残余は「第87歩兵師団戦闘団」となり、その後第3戦車軍予備、第53軍団、第9軍団と配属先を変えながら1944年2月まで第3戦車軍戦区で戦い、3月に北方軍集団の第16軍/第1軍団戦区に移動しました。

 第9軍団はザロノフスコエ(Zaronovskoye)湖付近の新しい防衛線へと後退し、12月20日の時点で第252歩兵師団、第20戦車師団、第87歩兵師団の一部及び戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe “von Gottberg”)が配属され、第252歩兵師団が前線を安定させ、第20戦車師団の一部である第92機甲砲兵連隊の残余は第3戦車軍予備の第5猟兵師団に配属されて防衛戦に投入されました。
 湖に厚い氷が張った12月23日にはソ連軍はザロノフスコエ湖付近で南への攻撃を再開し、これに対して第21戦車連隊の第3、第4中隊の戦車が第5猟兵師団の猟兵とともに反撃し撃退することができました。ソ連軍の攻撃は続きましたが勢いはなくなり、一方でドイツ軍には待望の援軍が到着しました。
 12月末から1944年1月にかけて、第9軍団の第12歩兵師団、第3戦車軍/第6軍団の第131歩兵師団、第299歩兵師団及び機甲擲弾兵師団「フェルトヘルンハレ」の到着によりドイツ軍は歩兵師団×10個、戦闘団×1個、機甲擲弾兵師団×1個、弱体ながら戦車師団×2個に加えて第505、第501重戦車大隊、突撃砲数個大隊、第519重駆逐戦車大隊という小規模ながら機甲兵力も残っていました。
 1944年12月30日の時点で第9軍団はビテブスク西方~ポロツク地区に布陣しており、戦線左翼は第16軍の第1軍団と接続していました。


第9軍団(1944年12月30日現在)
第211歩兵師団
第252歩兵師団
第5猟兵師団
第12歩兵師団:北方軍集団から転属


 『第1次ビテブスク防衛戦』が終了した1944年1月18日の時点で、ドイツ第3戦車軍の防衛線はビテブスクを守る第53軍団が大きく突出する形となり、西側の第9軍団が第16軍の第1軍団と接続し、南側には第6軍団が連なる防衛線へと後退し、雪解けとともに戦線は一応安定しました。

23.1944年のパルチザン掃討作戦
 1944年3月までにウクライナの北ウクライナ軍集団と南ウクライナ軍集団の戦線は崩壊し、ソ連軍の前線はコーベリ(Kovel/Ковель)~テルノピリ(Ternopil/Тернопіль)地区に達しており、プリピャチ沼沢地では中央軍集団/第2軍が約400kmにわたって脆弱な側面を防衛していました。
 中央軍集団戦区の第56戦車軍団司令部はなけなしの前線部隊とともに引き抜かれ、危機が迫る(と思われた)コベリ南方のトゥルヤ(Turja)川沿いの防衛線に派遣され、東部正面の防衛線はますます手薄になる一方でしたが、それでも活発化するパルチザン活動に対してあらゆる後方部隊がかき集められて大規模な掃討作戦が展開されました。
 1943/44年の冬にはパルチザンの兵力は13万5千名を超え、1944年になるとパルチザン旅団は十分な指揮統制を持ち、その戦闘力はソ連軍の野戦部隊とほぼ同等のレベルに強化されていました。ドイツ軍の大規模掃討作戦に対しては森や沼地に隠れて姿をくらまし、ドイツ軍が撤退すると再び支配権を獲得しました。
 1月~3月はドイツ軍に対して3,500回以上の攻撃を行いましたが、4月~5月は偵察と徴兵活動に集中し、バグラチオ作戦が始まるとパルチザンはドイツ軍の撤退路に罠を張って進路を封鎖する足止め戦闘に終始しましたが、ドイツ軍には大規模な掃討作戦を行う力は残っていませんでした。

・Marocco作戦
 1944年1月、ベラルーシのソムリ(Somry)地区(ミンスク~モギリョフの中間)でのパルチザン掃討作戦。この作戦によりパルチザンと容疑者1,118名を殺害し、1,345名を拘束し、この戦功により指揮官のエドガー・ポー(Edgar Puaud)准将はレジオンドヌール勲章(Ordre national de la Légion d'honneur)と二級鉄十字章を受章しました。
 1944年7月にフランス人義勇兵は武装SSに移管され、SS武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」として再編成されました。
作戦参加兵力:
第638(フランス)増強擲弾兵連隊:3個大隊(約1,000名)


・Regenschauer (にわか雨)作戦
 1944年4月11日~4月16日、ベラルーシのウシャチ(Ushachi)地区(ポラツクPolotskの南約40km、レペリLepelの北約30km)で活動中の11,000~12,000名のパルチザン部隊に対してポラツク(Polotsk)~ウシャチ(Ushachi)~レペリ(Lepel)地区で実施されたパルチザン掃討作戦。
 作戦には第3戦車軍の後方部隊を含む20,000名以上の兵力が投入され、ウシャチ(Ushachi)地区の西側から掃討作戦を実施しましたが、これに対してパルチザン旅団(兵力約15個旅団14,000~18,000名)は戦闘を避けて後退し、ドイツ軍はレペリ(Lepel)~オルシャ間の鉄道を回復することに成功しました。4月16日からは連携して「Frühlingsfest (春祭り)作戦」が開始されました。
作戦参加兵力:
【SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」】
第2SS警察連隊
  第1大隊
  第2大隊
  第3大隊
  第9警察戦車中隊
  第12(増強)警察戦車中隊
  第2警察ロケット砲中隊
SS連隊「ディルレヴァンガー」
第24SS警察連隊(第1大隊及び第2大隊)
第501SS猟兵大隊
第743工兵大隊
  大隊本部中隊
  第1中隊
SD(SS保安情報部)1個中隊
回教徒SS連隊
砲兵大隊「フォン・ゴットベルク」
  第2SS警察連隊の第1砲兵中隊
  第2SS警察連隊の第2砲兵中隊
砲兵中隊「ディルレヴァンガー」

戦闘団「Krehan」(第95歩兵師団の戦闘団)
第201保安師団
RONA(カミンスキー)旅団
第52保安師団の一部


・Frühlingsfest (春祭り)作戦
 1944年4月16日~5月12日、ベラルーシのポラツク(Polotsk)~ウシャチ(Ushachi)地区でのパルチザン掃討作戦。「Regenschauer(にわか雨)作戦」の直後に開始され、第16軍の後方部隊がポラツク(Polotsk)地区の南と西から第3戦車軍の後方部隊に向かってパルチザン部隊を追い込みました。  この作戦は東部戦線後方地区での最後の大規模作戦となり、SS戦闘団「フォン・ゴットベルク」を含む「Regenschauer(にわか雨)作戦」参加部隊に加えてさらに大兵力が招集され、パルチザン部隊は激しく抵抗しソ連空軍も航空攻撃と大規模な空輸により支援し、ドイツ軍も空軍のシュツーカと多数の警察及び武装SS部隊を投入し、第95歩兵師団がパルチザン部隊の撃破に成功しました。
 パルチザン部隊の損害は戦死、捕虜、負傷者合計で14,000名に上り、3,000名以上がオルシャ地域へと脱出したものの、ポラツク南部地域からはパルチザン部隊が一時的に一掃されました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第23SS警察連隊(第1大隊を除く)
第24SS警察連隊
第26SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊第3大隊
第36警察狙撃兵連隊第1大隊
第286保安師団第64保安連隊
第330国土防衛大隊

第350保安大隊
RONA(カミンスキー)旅団
  第1連隊
  第5連隊
  護衛大隊
第56(ウクライナ)シューマ大隊
第62(ウクライナ)シューマ大隊
SS連隊「ディルレヴァンガー」
第5ラトビア国境防衛連隊
第2ラトビア義勇警察連隊
第3ラトビア義勇警察連隊
第201保安師団


・Kormoran(コルモラン)作戦
 1944年5月22日~6月20日、中央軍集団の第4軍及び第3戦車軍戦区であるミンスク(Minsk)~ボリソフ(Borisov)街道沿いの地域でのパルチザン掃討作戦で、作戦地域には約16,000名のパルチザンが集結していると推定されており、白ロシア国防軍占領司令部(Wehrmachtsbefehlshaber Weißruthenien)及び高級SS及び警察指導者「中央ロシア」(Höhere SS und Polizeiführer Russland-Mitte)の合同作戦として実施されました。
作戦参加兵力:
第2SS警察連隊
第24SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊第3大隊
第221保安師団
第391野戦訓練師団

24.中央軍集団の崩壊
 「バグラチオ作戦」前夜の6月19日/20日の夜、パッルチザンは中央軍集団後方連絡路への全面攻撃を開始し、ミンスク~オルシャ間、モギリョフ~ヴィテブスク間の鉄道は数日間ほぼ完全に麻痺しました。翌20日の夜から三夜連続で鉄道線路への攻撃は続き、ヴィテブスク~オルシャ間、ポロツク~モロデチノ間の鉄道線路は大きな被害を受け、ミンスク~ブレスト~ピンスクを結ぶ鉄道線路はさらに大きく破壊されました。
 6月22日「バグラチオン」作戦により中央軍集団の戦線が破られ、ミンスクに危機が訪れました。第3戦車軍戦区では第53軍団は壊滅、第6軍団は粉砕され、第9軍団は西を目指して後退中で戦線は崩壊しており、南翼の第9軍戦区でも手ひどく叩かれ、包囲・突破されて戦線を維持できなくなっていました。
 第4軍戦区でも3個軍団がソ連軍の突進により南北から挟撃されようとしていましたが、ヒトラー総統はミンスクを「要塞」と宣言し、あらゆる犠牲をはらっても死守するよう第4軍に命じました。
 6月29日、「Freischütz(魔弾の射手)作戦」が開始されましたが、第4軍中央部の第12軍団、第27軍団、第39戦車軍団の各部隊は大損害を被って7月2日までにはベレジノ地区のベレジナ川防衛線へと後退しました。
 ソ連軍は薄い戦線の隙間をすり抜けて南北からミンスク市街に迫っており、第2親衛戦車軍団が7月3日の早朝にミンスクの防衛を突破し、夜明けには市街中心部に突入し、翌7月4日にはミンスクは陥落しました。

 「白ロシア占領軍及び保安部隊司令官」は1944年4月19日付けで「白ロシア国防軍占領司令部」(Wehrmachtsbefehlshaber Weißruthenien」と改編・改称され、フォン・ロートキルヒ・ウント・トラッハ騎兵大将が引き続き指揮を執りました。
 6月22日に開始されたソ連軍の「バグラチオ作戦」により中央軍集団の戦線が壊滅すると、司令部は7月にはベラルーシから撤退して「ロートキルヒ総司令部」(Generalkommando Rothkirch)へと改称されました。
 「ロートキルヒ総司令部」は第3戦車軍/第26軍団に配属されリトアニアのカウナス南方地区で防衛戦に投入され、その後オストプロイセン(第20軍管区)のダンツィヒ近郊まで後退し11月11日付けで「第53軍団司令部」と改称されました。12月には西部戦線に移動して第7軍に配属され、アルディンヌ攻勢に参加しましたが1945年4月15日にルールポケットで降伏しました。フォン・ロートキルヒ・ウント・トラッハ騎兵大将は1945年3月6日にアイフェル地方のノインキルヒェン(Neunkirchen)近郊でアメリカ軍の捕虜となるまで軍団を指揮しました。
 中央軍集団戦区の軍後方地域司令部は戦線がドイツ本国に後退しても存続し、最後まで戦闘部隊を支え続けました。
・第590軍後方地域司令部(Korück 590) =第3戦車軍後方地域
 第3戦車軍とともに7月~8月中旬にはオストプロイセンまで後退しましたが、1944年8月7日付けで解隊しました。1945年1月26日付けで第11軍が再建された際に元司令部要員から「第11軍後方地域司令部」(Korück 11. Armee)として再編成され、西部戦線に移動しました。
・第559軍後方地域司令部(Korück 559)=第4軍後方地域
 第4軍とともに7月~8月中旬にはオストプロイセンまで後退しましたが、ハイリゲンバイル包囲陣内に包囲され、オストプロイセンの戦闘で壊滅したと思われます。
・第532軍後方地域司令部(Korück 532) =第9軍後方地域
 第9軍とともに7月~8月中旬にはワルシャワ地区のヴィスワ川沿いの防衛線に後退後、8月1日のワルシャワ蜂起を迎えました。1945年1月のソ連軍の「ヴィスワ=オーデル攻勢」によりオーデル川の防衛線まで後退し、最後はベルリン前面のオーデル川防衛線に布陣しました。
・第580軍後方地域司令部(Korück 580)=第2軍後方地域
 第2軍はプリピャチ沼沢地北側に沿って展開していたため、比較的戦力を維持したまま7月~8月中旬にはワルシャワ北側のナレフ川沿いの防衛線へと後退しました。ヴェストプロイセン~オストプロイセン地域のダンチヒ(Danzig)~ゴッテンハーフェン(Graudenz)地区で包囲され、1945年4月7日付でオストプロイセン軍と改称し5月9日に降伏しましたが、最後まで第2軍/オストプロイセン軍の指揮下にありました。

 中央軍集団の後方地域にあった治安部隊は臨時戦闘団にまとめられて防衛戦に投入され、兵員も装備も貧弱なままソ連軍の前に放り出されて壊滅してゆきました。なかには第4軍戦区にあった警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」のようにSS警察旅団「アンハルト」~SS警察旅団/警察戦闘団「ハンニバル」と名を変えながら1945年3月まで戦い続け、歴代の指揮官3名はいずれも騎士十字章佩用者という、場違いな警察戦闘団/警察旅団もありました。

 西方に撤退できたシューマ大隊やベラルーシ郷土防衛大隊などから1944年7月にシューマ旅団「ジークリング」(Schutzmannschafts Brigade "Siegling")が編成され、その後「SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)」(30.Waffen Grenadier Division der SS (russische Nr.2))~「SS武装擲弾兵旅団(白ロシア第1)」(Waffen Grenadier Brigade der SS (Weiβruthenische Nr.1))と変遷、流転を繰り返し、路線の違いからウラソフ将軍の「ロシア解放軍」と合流することはなく、1945年3月に「SS第30武装擲弾兵師団(白ロシア第1)」(Waffen Grenadier Division der SS (Weiβruthenische Nr.1))と改称されましたが4月になると師団は解隊されました。
シューマ旅団「ジークリング」→

 「パルチザン掃討作戦総司令官」であるフォン・デム・バッハ=ツェレウスキーSS大将は1944年7月の時点で名目上ベラルーシだけではなく、ベルギー、フランス、総督府、オランダ、ノルウェー、ウクライナ、ユーゴスラビア、ビヤウィストク地域の一部におけるパルチザン掃討作戦の指揮を執るとされましたが、実際のところは従来からの担当地域であるベラルーシ地域に限定されており、その地域も「バグラチオン作戦」で失われました。

 ベラルーシの自治政府樹立を目指す「ベラルーシ中央評議会」は1944年6月27日に1,039名の地方代表を集めて全体会議が開催され、「自治政府樹立」と「国軍設立」の方向性が承認されドイツ占領地域においては画期的な出来事となりました。
 しかしソ連軍の攻撃により7月3日に首都ミンスクが陥落し、「ベラルーシ中央評議会」はポーゼン(Posen)へと退避して「ベラルーシ中央評議会」亡命政府となり、その後ベルリンへと移動しました。
 1944年末、亡命「ベラルーシ中央評議会」は「ベラルーシ共和国政府」へと格上げされ、オストロフスキーは共和国大統領に就任しましたが、もはや国土はなく有名無実の存在でした。
 オストロフスキーはドイツ敗戦時に幸運にも西側への脱出に成功して戦後は西ドイツで暮らし、その後1956年にアメリカに移り「亡命ベラルーシ人民共和国政府」の主要メンバーとして活動を続け、1976年10月17日に波乱の人生を閉じました。

・独ソ開戦から1942年春頃までを書いた「中央軍集団の後ろの方<前編>」→はこちら

・1942年春~年末までを書いた「中央軍集団の後ろの方<中編>」→はこちら

・民政地区として統治された「白ロシア行政区」について書いた「中央軍集団のもっと後ろの方」→はこちら

・保安師団について書いた「中央軍集団の後ろの方<中央軍集団の保安師団>」→はこちら


2026.8.17 新規作成