第92(自動車化)擲弾兵旅団
Grenadier Brigade(mot.)92

 部隊名だけ見るとただの「歩兵部隊」ですが、ここで平凡な部隊を取り上げるはずはありませんね(笑。
この旅団の前身はアラブ人義勇兵による「第287特別部隊」であり、旅団にも多くのアラブ人義勇兵が含まれていました。

1.設立
 1941年4月、中東でイギリス・イラク戦争が始まるとイラクへの支援を目的としてHelmuth Felmy空軍大将を司令官として「特別司令部F(Sonderstab F)」が設立されました。 しかし、ドイツからイラクへの連絡路といえばヴィシー・フランス領シリア経由の空路くらいしかなく、少数の空軍機が派遣されましたが5月30日には休戦が成立してイラクはイギリスの勢力下となりました。 特別司令部Fはその後は対イギリスプロバガンダ作戦の一環としてアラブ人義勇兵部隊の設立母体となり、アラブ人義勇兵たちには例によってナチス・ドイツ勝利の暁には「新秩序のもとでの独立」が約束されました。
 1941年7月24日、特別司令部Fの下で最初の部隊である「第288特別部隊」がポツダムで編成されました。この部隊は中東と北アフリカの砂漠地帯での運用を前提とした装備を整えており、 このため部隊は北アフリカに送られてアフリカ軍団に編入され、その後機甲擲弾兵連隊「アフリカ」へと改編・改称され特別司令部Fの手を離れました。
【補足-1】

 特別司令部Fのアラブ人義勇兵はブランデンブルク部隊の兵士が編入されたほか、フランス軍とイギリス軍捕虜の中から、シリア、サウジアラビア、エジプト、トランス・ヨルダン、パレスチナ、レバノン 及びイラクなど中東地域の出身者が集められました。1942年1月26日、まず「アラブ訓練大隊」がSchober大尉を指揮官として編成され、アラブ人義勇兵は4月の時点で133名に達しました。 続いて「第287特別部隊(Sonderverband 287)」の編成が計画され、部隊は次のような編成となる予定でした。


第287特別部隊(1942年5月4日の計画時の編成)
Sonderverband 287

本部中隊
第287機甲偵察中隊
第287軽工兵中隊
第1~第4機甲擲弾兵大隊
第287戦車猟兵中隊
第287(自動車化)通信大隊(2個中隊)
第287ロケット砲中隊
第287補給管理隊
第287補給部隊
第287突撃砲中隊


 しかし、例によって部隊編成は計画通りには進まず、1942年8月4日にデーベリッツ練兵場において編成が完了した時点で 第287特別部隊は はドイツ人基幹要員とアラブ人義勇兵により 次のような編成となっており、部隊は「アラブ兵団」とも呼ばれました。


第287特別部隊(1942年8月現在の編成)
Sonderverband 287
本部中隊
第1装甲擲弾兵大隊(第1~第4中隊)
    第5対戦車砲中隊
    第6装甲車中隊
第2装甲擲弾兵大隊(第7~第8中隊)
第3装甲擲弾兵大隊(第9~第12中隊):訓練大隊
※ 第9~第11中隊はアラブ人義勇兵(392名)
※ 第12中隊はドイツ人による重装備中隊
第287通信大隊(2個中隊)
第287突撃砲中隊(8月15日より配属)


 1942年8月21日、特別司令部Fと第287特別部隊は訓練大隊(第3大隊)を除きスターリノへと移動し、9月には特別司令部Fは軍団司令部規模の「特別編成司令部 (Generalkommando z.b.V.)」に、第287特別部隊は「第287特別編成連隊」へと改編され、その後北コーカサス地方へ進撃中のA軍集団の第1戦車軍に配属されました。 部隊はA軍集団がコーカサス山脈を越えてイラン~イラク~中東へと進撃する際にはその先鋒部隊となると考えられていました。しかしA軍集団はコーカサス山脈を越えて進撃することはできず、 第287特別編成連隊は第40戦車軍団に配属され、第16自動車化歩兵師団と第3戦車師団の接続部であるマヌィチ(Manich)運河付近で偵察及び警戒任務のために前線に投入されました。 1942年9月中旬、第16自動車化歩兵師団の長距離偵察班はアストラハンの手前まで達し、シュリープ少尉の偵察班はゼンリンでアストラハン~キズリャル間の石油輸送鉄道に達しましたが、 これがドイツ軍の戦力の限界でした。

1942年11月、スターリングラード方面でソ連軍の反撃が開始されたためコーカサス地方のA軍集団は一転して後方を遮断される危機となり、コーカサス地方から苦難の撤退を行わなければならなくなりました。 特別司令部Fと第287特別編成連隊は1943年1月にコーカサスの前線から引き上げられ、第4戦車軍の第29軍団に配属されてロストフ橋頭堡防衛のためミウス川の防衛線に投入されました。 この時点で連隊は次のような装備状態であり、戦力判定は「I」であらゆる攻撃任務に従事可能と判定されていました。


第287特別編成連隊(1943年2月23日現在)の装備状況

2個大隊(大隊兵力は各400名以上)
突撃砲×3両
軽高射砲×5門
重高射砲×1門
15cm砲×5門
重対戦車砲×1門
中対戦車砲×5門


 第287特別編成連隊は1943年2月から3月までの防衛戦で大損害を被った後、4月にドイツ本国に帰還後南フランスへと移動し、1943年5月2日付けで「第92(自動車化)擲弾兵連隊」 と改編・改称されました。この際に1個軽砲兵中隊と1個工兵中隊が配属されましたが、そのかわり第92突撃砲中隊(元の第287突撃砲中隊)は5月22日付けで戦車猟兵大隊「ロードス」の編成母体として抽出され ギリシャへと移動しました。また特別司令部Fは1943年4月15日付けで「第68特別編成司令部」へと改編され、ギリシャへと移動していました。
 一方、第287特別部隊の第3大隊(訓練大隊)はギリシャへと送られており、アッティカ地方のSuniumに駐屯していました。1942年11月8日の連合軍による北アフリカ上陸を受けてイタリアのパレルモに移動し、 1943年2月にチュニジアへと渡りました。その後チュニジアでアラブ人義勇兵の募集と訓練に従事し、1943年5月には他の枢軸軍部隊とともに連合軍に降伏しました。

2.ユーゴスラヴィア
  第92(自動車化)擲弾兵連隊は南フランスからセルビアへと移動し、第2戦車軍の第15山岳軍団に配属されました。連隊は1944年5月7日から15日までの「Morgenstern作戦」、続いて5月25日からチトーの パルチザン司令部襲撃作戦である「ロッセルスブルンク(Rösselsprung=ナイトの跳躍)作戦」に参加しました。「ロッセルスブルンク作戦」では包囲部隊として参加し、第202戦車大隊とともに包囲地域の北側での 警戒任務に当たりました。作戦には次のような部隊が参加しましたが、第500SS降下猟兵大隊がチトーのパルチザン司令部に突入したときにはチトー本人は脱出した後であり、作戦自体は失敗に終わりました。


「ロッセルスブルンク作戦」参加部隊(1944年5月25日)

第500SS降下猟兵大隊
第373クロアチア歩兵師団
    第383歩兵連隊
    第384歩兵連隊
    第373戦車猟兵大隊
    第373偵察大隊
SS第7義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」
ブランデンブルク連隊
    第2大隊
    第3大隊
第92(自動車化)歩兵連隊
第1山岳猟兵師団
ウスタシ部隊(200名~300名)
チェトニク部隊(約500名)


 1944年6月5日、連隊は「第92(自動車化)擲弾兵旅団」へと改称されましたが例によって旅団とは名ばかりであり、連隊規模から戦力の増強はありませんでした。

 1944年8月23日、ルーマニアのミハイ国王はアントネスク元帥を罷免し、新首相にセナテスク将軍を指名してソ連との休戦条件を受諾し、8月25日には早くもドイツに戦線布告しました。 続いて8月26日にはブルガリアが中立を宣言し、9月4日には枢軸同盟からの脱退を宣言しました。しかしソ連軍は中立を認めず、9月5日に一方的にブルガリアに宣戦布告し9月8日にはブルガリア領内に侵攻を開始しました。 9月9日にはブルガリア「祖国戦線」がクーデターにより政権を奪取し、新生ブルガリア政府は9月11日にドイツに対して戦線布告する事態となりました。こうして東部戦線南翼は崩壊し、ハンガリー南部~ ルーマニア~ブルガリアとユーゴスラヴィアとの国境地帯には巨大な戦線の空白地帯が出現しました。このままではギリシャ・アルバニア方面のE軍集団が孤立することは明白であり、 ドイツ軍はギリシャ・アルバニア方面からの総撤退を開始しました。

 第92(自動車化)擲弾兵旅団はこの危機に際してベオグラード東方のルーマニア国境地帯、トランシルバニア・アルプス南西部のアルマズルイ山脈のSzaskabanya地区での峠の防衛に派遣されました。 9月末から旅団はギリシャから撤退してきたばかりの第18SS警察山岳猟兵連隊の2個大隊とともにソ連軍第3ウクライナ戦線の機械化部隊を相手に防衛線を展開しながら10月10日までにベオグラードへと後退しました。
 旅団はその後も第1山岳猟兵師団を中心とした戦闘団「ステトナー」に配属されてベオグラード南東のモラバ(Morava)川での防衛戦に投入され、10月15日までのベオグラードをめぐる戦闘で大損害を被りました。旅団はその後1945年1月15日に「第92機甲擲弾兵旅団」として再編成されましたが、この時点で実際にどれくらいのアラブ人義勇兵が残っていたかはわかりません。


第92機甲擲弾兵旅団
Panzergrenadier Brigade(mot.)92

旅団本部
第92装甲擲弾兵連隊
    第1~第3大隊
    工兵中隊
    高射砲中隊
    重歩兵砲中隊:軽歩兵砲×6門、重歩兵砲×4門装備
第192軽砲兵大隊:2個砲兵中隊
第192戦車猟兵大隊
    2個戦車猟兵中隊
    第1192駆逐戦車中隊(ヘッツアー×10両装備)
第192(自動車化)偵察中隊
第458(自動車化)通信中隊
第192(自動車化)工兵大隊:3個工兵中隊(第92工兵中隊より)
第192混成高射砲中隊:増強高射砲中隊(第320師団より)
第468補給大隊


3.最後の防衛戦
 再編成された第92機甲擲弾兵旅団は、1945年2月以降第2戦車軍に配属されてサバ川~ドラウ川での防衛戦、カポシュバール(Kaposvar)やバラトン湖南部での防衛戦に第191突撃砲旅団と共に投入されました。 1945年3月6日から開始されたドイツ軍最後の攻勢である「春の目覚め」作戦の際には軍集団予備として第2戦車軍戦区にありましたが、3月14日にはバラトン湖北東部の第6軍戦区での防衛戦に投入されることとなり、 ヴェスプレーム(Veszprem)に集結した後にハンガリー第3軍戦区へと移動し、エステルゴム(Estergom)南西部で戦線へと投入されました。
 3月16日、ブダペスト南西のヴェレンツェ湖北方戦区でソ連軍による「ウィーン」作戦が発動され、ドイツ軍は防戦一方となり「春のめざめ」作戦は3月18日をもって中止されました。 旅団は3月18日までハンガリー第1師団戦区で戦線を突破した敵に対する反撃に投入されたのを始め、Kisber東方地区、Kecsked~Környe地区、タタバーニャ(Tatabanya)西方地区などで防衛戦を展開しました。 3月18日~26日の間、旅団はハンガリー第3軍戦区で第96歩兵師団、第711歩兵師団、SS戦闘団「アマイザー」とともにタタバーニャ~Felsögalla~Labatlanの西方地区で防衛戦を行い、Labatlanを3月末まで 防衛した後に西へと後退しました。旅団はコマーロム(Kormorn)へと後退し、ここでドナウ川を北へと渡りさらにNeuhäuslへと撤退しました。【補足-2】

 その後ブラチスラヴァ(Bratislava)北西のニトラ(Nitra)地区で第8軍、フェルトヘルンハレ戦車軍団の第96歩兵師団に配属され、4月4日にはウィーン北東のMarchegg~Breitensee地区へと移動して防衛戦を展開しました。 1945年4月5日現在の第96歩兵師団の編成は下記のような状態であり、典型的な寄せ集めでした。


第96歩兵師団の編成(1945年4月5日現在)

師団司令部
第287擲弾兵連隊(2個大隊)の残余
第283擲弾兵連隊(2個大隊)の残余
その他第196の番号を冠する師団部隊の残余
SS戦闘団「アマイザー」(第417機関銃大隊、1個ハンガリー大隊を含む)
ハンガリー第27歩兵師団の4個軽歩兵大隊の残余
警戒大隊「レンツ」(消防・警察部隊から編成)
第92機甲擲弾兵旅団の残余
第82機甲擲弾兵教育及び補充連隊の第2大隊
第897州兵大隊の1個中隊
第417特別編成州兵師団の残余


 第92機甲擲弾兵旅団は4月6日~11日には第96歩兵師団とともにウィーン北西部のピリクスドルフ(Pillichsdolf)へと後退しました。このころウィーン市街地では第2SS戦車軍団と ソ連軍の戦闘が始まっており、一方ドナウ川北岸では第43軍団の第96歩兵師団、SS第37義勇騎兵師団司令部の戦闘団、第101猟兵師団が弱体な兵力で必死の防衛戦を展開していました。 第2SS戦車軍団の北方への撤退路を確保するため、ウィーンの防衛部隊から総統擲弾兵師団が引き抜かれて4月8日~11日の間にドナウ川北岸の防衛線へと移動し、強化された第43軍団は北から第96歩兵師団、 総統擲弾兵師団、SS第37義勇騎兵師団司令部の戦闘団という序列で4月13日まで防衛線を守り抜き、大損害を被りながらもウィーンからの撤退を成功させました。
 その後旅団は4月14日~15日にはHornsbergで第37SS義勇騎兵師団に一時的に配属され、Hollabrunnで5月5日を迎えました。第96歩兵師団と第37SS義勇騎兵師団の戦闘団「アマイザー」の残余は 5月8日までにフライシュタット方面へと西進してアメリカ軍に降伏しており、旅団の残余も行動をともにしたと考えられます。


【補足-1】
第288特別部隊(Sonderverband 288)
 部隊の編成にあたりアラブ人義勇兵は第800特別編成建設教導連隊「ブランデンブルク」の第3大隊第11中隊が「特別中隊」として編入され、基幹要員と他の兵士はドイツ人により編成されていました。 1942年10月31日、機甲擲弾兵連隊「アフリカ」へと改編・改称され「第90アフリカ軽師団」に編入された時点で3個歩兵大隊で編成されており、1個大隊は北アフリカ出身のアラブ人義勇兵、 2個大隊はパレスチナ、東アフリカ、スペインなどからの民族ドイツ人兵士により編成されていました。

第288特別部隊の編成(1941年6月24日)

本部中隊
    装甲車小隊
特別中隊(第800特別編成建設教導連隊「ブランデンブルク」より)
山岳猟兵中隊
狙撃兵中隊
機関銃中隊
対戦車砲中隊
高射砲中隊
工兵中隊
通信中隊


【補足-2】
SS戦闘団「アマイザー」
 この戦闘団は1945年2月25日、第37SS義勇騎兵師団の第92SS義勇騎兵連隊、第37SS砲兵大隊の1個中隊などからなる戦闘団であり、アントン・アマイザーSS中佐が指揮を執りました。戦闘団の兵力は約2,500名で3月2日には第8軍の第43軍団に配属され、コーモルンとグランの中間地点で作戦に投入されました。その後戦闘団には第417機関銃大隊、1個ハンガリー大隊、第6戦車師団第4機甲擲弾兵連隊の第2大隊などが増強され、3月5日~16日までビクスケ付近で防衛戦を展開しました。
3月19日から戦闘団は第92機甲擲弾兵旅団、第96歩兵師団、第711歩兵師団と共にグラン橋頭堡の防衛戦に投入され、橋頭堡が放棄された後はドナウ川北岸で3月21日まで防衛戦を継続した後、コーモルンを経てドナウ川北岸沿いに撤退しました。1945年4月1日、戦闘団はプレースブルク東方まで撤退し、4月5日にはマルフ河を西岸へと渡りました。これ以降、SS戦闘団「アマイザー」は第96歩兵師団に配属され、終戦まで師団と共に戦闘を継続しており、5月8日までに第96歩兵師団と共にフライシュタット方面へと西進してアメリカ軍に降伏しました。しかし、捕虜となった兵員の大部分は協定により5月14日にソ連軍へと引き渡されました。

SS戦闘団「アマイザー」の編成(1945年2月末)

SS第92義勇騎兵連隊(2個騎兵大隊)
SS第37砲兵大隊の第2中隊:105mm軽榴弾砲×4門装備
SS第37通信中隊の1個小隊
SS第37工兵大隊の1個小隊
衛生小隊
馬匹補充段列
<その後増強された部隊>
第417機関銃大隊
1個ハンガリー大隊
第6戦車師団/第4機甲擲弾兵連隊の第2大隊


参考資料
「The East Come West MUSLIM, HINDU, AND BUDDHIST VOLUNTEERS IN THE GERMAN ARMED FORCES 1941-1945」(Europa Books 2001)
「Die Gepanzerten und Motorisierten Deutschen Grossverbande」(Podzun 1986)
参考HP
www.Panzer-Archiv.de
    Alles zur mot.Brigade92  


2010.6.13 新規作成

http://www.eonet.ne.jp/~noricks/