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沿革・歴史


妙蓮寺 門  大本山妙蓮寺は、宗祖日蓮大聖人より帝都弘通宗義天奏の遺命を受けた日像聖人によって、 永仁2年(1294)に創建された。日像聖人が遺命を果たすため鎌倉より京都へ上られた時、 五条西洞院の柳酒屋は深く聖人に帰依し、未亡人は邸内に一宇を建立して聖人を請じ、卯 木山妙法蓮華寺と称した。これが妙蓮寺の縁起である。(柳の字を二つに分けて卯木山と いう。)
 その後、たびたびの法難にあったが、応永年間(1420年頃)本勝迹劣、本迹一致の論争を 契機に妙顕寺を退室した日慶聖人によって柳屋の地に本門八品門流として再興された。その 後、寺域を堀川四条に移し、皇室ならびに伏見宮家と関係深い日応僧正を迎えるにおよび、 皇族始め足利将軍義尚等の参詣多く、また今出川家の公達日忠聖人は、三井寺より改宗して 当寺に投じて学室道輪寺を創立し、本化教学の道場を開く。ここにおいて当寺の法運は隆昌 を極め、山門の様式も格式高いものとなった。
 天文5年(1536)には、法華宗の隆昌を妬む比叡山天台宗を筆頭に諸宗の僧俗10万人に よって襲撃され、妙蓮寺をはじめとする日蓮聖人門下21本山は、ことごとく灰燼に帰し堺 に立ち退いた。
 天文11年(1542)大宮西北小路に復興され、天正15年(1587)には、豊臣秀吉の聚楽 第造営に際して現在地に移転した。当寺は、1kuの境内に塔頭27ヶ院を有する大寺院で あったが、天明8年(1788)の大火によって、そのほとんどが焼失し、わずかに宝蔵・鐘楼 を残すのみとなった。
 寛政元年より漸次復興して、現在に至り、塔頭8ヶ院を残す。


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