第4章 1990年代(平3‐12)

国などの動き
 1990年代は、ベルリンの壁崩壊後、90年10月に東西ドイツの統一がなり、その翌年にはソ連邦が消滅し、戦後の世界史を形作ってきた東西冷戦構造が解体し、世界は新たな枠組みを模索する段階にはいります。また91年には湾岸戦争が生じ、中東地域の不安定化とそれによる石油資源問題が、現在に続く大きな問題として横たわることになります。
 また、経済問題では、1989年から90年にかけて、貿易不均衡の是正を目的とした日米構造協議が行われ、以後、アメリカの日本に対する経済構造改革への攻勢が強まることになります。そして、96年のクリントン大統領の就任後は、アメリカの対日経済攻勢はさらに強くなります。
 国内では、こうした世界情勢の影響も受け、自民党内閣が倒れ、93年には細川連立内閣の誕生となりますが、遂に長年日本の政治を形作ってきた55年体制そのものが崩壊することになります。最大野党であった社会党が遂に消滅することになりました。90年代に入ってのバブルの崩壊は、その後の景気を長期にわたって低迷さすことになると同時に、住専処理問題や公務員汚職問題を顕在化させ、経済財政の立て直しのための行政改革が課題となってきます。加えて、95年の阪神淡路大震災は、地方自治に深く関わる、わが国におけるボランティア活動の本格的な幕開けとなりました。
 
 京都市の動き
 1990年代の京都市は、その前半は田辺市長、後半は田辺市政を継承する桝本市長による市政運営となります。
 田辺市長誕生直後の1989年には京阪鴨東線の三条−出町柳駅間が開通、また、同和対策事業にかかる臨時不動産取得審理会の最終答申があります。しかし、なんと言っても田辺市長は、就任早々からバブルとその崩壊のなかでの市政運営を余儀なくされます。90年には「ゴルフ場等の建設事業に関する指導要綱」が制定され、91年には比叡山中乱開発事件で代執行が行われます。田辺市長の基本政策は、91年に健康都市構想を策定し、その翌年にはその政策を推進する健康都市づくり市民会議を発足させ、さらにその翌年の93年には新京都市基本計画「平成の都づくり−文化首都の中核をめざして」を策定するとともに、田辺市長の本分とも言うべき「保健医療計画」を策定するとともに、健康増進センター「ヘルスピア21」を開設する一方、「京都・大学センター」を発足させます。そして、1994年には、平安建都1200年記念の年を迎えます。この年には、「古都京都の文化財」が世界文化遺産に登録され、また、第11回全国都市緑化フェアーが梅小路公園で開催されます。
平安建都1200年記念協会による世界人権問題研究センターもこの年に開所します。そしてその翌年には、世界文化自由都市宣言による提案を受けた京都コンサートホールが完成し、「平成の京づくり推進のための市政改革大綱」が策定され、行財政改革が推進されることになります。
 1996年2月、田辺市政を継承した桝本市長が市長に就任、市政の基本指針は「健康都市」から「元気都市」へとそのステージをアップします。97年には建都1200年記念事業としての京都駅新駅舎が完成します。また、この年には、市営地下鉄では烏丸線が宝ヶ池国立京都国際会館まで延伸、東西線の開業とともに、それにあわせた御池、山科、醍醐などターミナル施設の開業が翌年にかけてみられます。地下鉄東西線は、99年に宇治市六地蔵への延伸工事に着工しています。
 また、97年には、COP3(気候変動枠組み条約第3回締約国会議)が京都で開催されるほか、京都市では福祉事務所を区役所に統合して大区役所制へ歩みだします。国際化推進大綱を策定するのもこの年です。そして、翌98年には自治百周年記念式典を行うものの、同時に「京都新世紀に向けた市政改革行動計画・第1次推進計画」を策定せざるをえなくなります。20世紀最後の99年には、市と京都仏教会との和解もあり、「華やぎと安らぎ」をうたった21世紀京都市がめざすべき新たな基本構想「21世紀グランドビジョン」が策定されます。

 第1節 田辺市政から桝本市政へ

  京都市市政調査研究会は、別途シンクタンクを模索することとして1994年(平6)3月に閉幕。筆者は、1992年4月に歴史資料館次長に就任し1999年(平11)3月に京都市を依願退任するまで同職に従事する。

 1.権力構造の変化

●田辺市政の継承
 田辺市政は、その誕生当初から、京都市政の刷新を掲げながらも、折からの土地バブルと乱開発の荒波に遭遇するのですが、基調としてはそれまでの都市整備を大枠で継承しつつ、1990代の京都の幕開けに努めます。そして、1990年代にはいると、京都は、「平安建都1200年」です。ところが、一転してのバブルの崩壊と景気停滞に直面する中での都市整備と建都1200年です。当初の思いとは別に、大胆な手が打てない状況のもとで、何とか建都1200年を全うし、そして、病を抱えていた田辺市長は、建都1200年を花道に、また、同年に再び迎え入れた世界歴史都市会議の開催も果たしたうえで、2期目の任期途中で退任することになります。そして、教育長であった桝本頼兼氏がその後継市長となるのです。
 1996年2月に行われた市長選挙は、2極対立の厳しいものでしたが、田辺市政を継承する桝本頼兼教育長が当選し、その市政を継承することになったのです。
 前年末に体調を崩していた田辺市長は、いったんは職務に復帰していたものの、結局1月9日に辞表を提出することになり、急遽市長選挙に突入することになったのです。ただ、この時期の辞任となったのには、戦後京都市の市長選挙が2月にあったのですが、舩橋市長の倒病による突然の辞職によって、以来市長選挙の時期が、1年で最も暑い8月となったために、これは選挙運動としては大変な負担となっていたのです。ですから、この真夏の8月を避けるために、再び2月選挙への貢献をされたものとの理解が当時あったのです。だいたいが、市長候補者は高齢者が多く、これによって以後の市長選挙は、その運動員を含めて大変たすかることになりました。

●教育長の京都市長ということ
 図らずも、予期せぬ任期途中での退任となった田辺市長の後継者は、そう簡単には定まりませんでした。中央政界における自民党の凋落傾向と公明党との対立そして社会党の躍進傾向は、京都政界にもその影響が及ぶことから、共産党を除く他の与党も容易にはまとまりにくい状況となっていました。まして、田辺市長は、政治的には積極的に何らかの素地を築こうとする人柄ではなかったために、「田辺市政の継承」をしてほしいとしながらも、その後継者の指名はしませんでした。

 結論から先にいえば、容易に候補者が確定しない中で、最後の一手ともいうべき形で、教育長在任中の桝本頼兼氏に白羽の矢が立ったのです。これには、誰よりもご本人が一番驚いたのではなかったでしょうか。元来、市長候補ともなるような人は、早くからそれなりの意欲を言わず語らずの中で漂わせているものなのですが、同氏にはそのような、いわば「権力欲」のようなものは全くなかったのです。
 しかし、考えてみれば、今川市政下でのうち続く不祥事の影響がまだ十分癒えない中で、京都市助役以下の市長部局からの候補者擁立は困難であり、また、市役所以外からの、いわゆる「庁外」の候補者もまたむずかしったのです。
 突然の市長選挙ではあったのですが、共産党には勢いがあり、田辺市長の後継態勢には中央の政治状況もかかわり容易にまとまりがつきにくい事情にありました。
 こうした状況の下で、政党主導というよりも、共産党を除く市議会与党各派によって、候補者はまとめられ、自民党も一歩退いた形であったともいえました。

●田辺市長後継選挙の経過
 では、ここで、田辺市長辞任による後継選挙の経過を、当時の私のメモを参考にふり返ってみましょう。
 ・まず、田辺市長自身、こうした健康上の理由による任期途中の辞職は、意に沿うものではなかったようです。将来の京都市政に向けての土台は一応築くことができたとの自負はあったようですが、新年度に向けての予算編成はまだその途上にありました。そのために、後継市長には、「田辺市政」の継承者であってほしいという願いがありました。
 ・ただ、そのための政治状況には、難しいものがありました。京都市議会の与党体制は、社会党がすでに与党に加わったていたために、共産党を除くオール与党の安定した状況にあったとはいえ、折からの中央政界は激動のさなかで、当時の政府与党と新進党との激烈な対立状況にあり、とりわけ創価学会もその渦中におかれていました。
 ・この時期、京都政界ばかりか中央政界にも台頭してきていた野中代議士は、創価学会をめぐる対立状況の中でもその中心人物であったのです。
 ・ですから、京都市長選挙でも、候補者選びから選挙戦の展開に向かって、自民党、そして野中代議士は、それを主導することができなかったのです。そのため、野中代議士は、田辺市長とも協議していたもようではあるのですが、結局、候補者の選定は、市議会与党に委ねることになったようなのです。のちに、野中代議士は、「政治家の戦いは敗れましたが、経済界や町中の人々が桝本市長を生んだのです」と述懐しています。
 ・後継市長については、田辺市長は自らの後継者の指名は行わないものの、田辺市政の継承は強く望んでいて、その役割は市議会与党に課せられたのです。
 ・候補者は、本来であれば、市政の刷新を掲げて当選してきた田辺市政の継承者である限り、庁内出身の候補者ではふさわしくないでしょうし、また、市長退任後の市長の継承者は、通常であればその市長を支えてきた助役が指名されるべきでしょうけれども、それもなかったのです。
 ・こうしたことから、候補者難のなかで、庁内候補では、地下鉄の経費拡大問題や市政の体質問題になお批判の高い折から、助役や交通局長などは候補者たりえず、長年、市政とのそれなりの距離を築いていた教育委員会の教育長に白羽の矢が立てられたのです。またこれは、先の1989年の市長選挙で、元教育長であった城守昌二元助役が、政党の背景なしに約5万票もの得票をしていたことが、選挙戦では大きく寄与したことが考えられるのです。教育長出身の市長がついに実現するのです。このことに関し、上京区の国枝克一郎自民党市議が、桝本教育長の市長選挙担ぎ出しをやったのは自分だ、と時に述べていたようです。さもありなんという気もします。

●2極対決の選挙
 こうした状況を背景として、1996年2月の市長選挙は戦われました。
 田辺市長が辞表を提出したのが1月9日。早くも13日には共産党京都府委員会と同党市会議員団が、田辺市政の継承を許さないとの見解を表明し、後継への対決姿勢を鮮明にしています。
 これに対して、1月23日には、市議会与党4会派が、桝本頼兼教育長に立候補要請、これを受けて25日に桝本教育長は、出馬会見。 30日に「十大基本政策」を発表します。
 他方、1月26日には、前回市長選挙にも田辺市長と争った、京都生協運動の活動家であった井上吉郎氏が再び立つこととなり、「民主市政の会」と政策協定を結び、29日に公約を発表します。
 これにより、2極対立が確定します。選挙の結果は、桝本ョ兼氏222,579に対し、井上吉郎氏は約4千票差の218,487で、かなりの接戦だったといえるでしょう。

 2.桝本市政の執行体制

●保守・中道路線か
 こうして、中央政界が流動的な激変期にあったために、それまでの市議会与党4会派もその影響を受けたものの、何とかそれなりにまとまって田辺市政を継承するための市長候補を実現し、選挙それ自体も厳しいものではあったけれども、その時の商工会議所の会頭が稲盛体制であり、危機感をもってよく活動していたようで、こうした状況が、選挙後の桝本京都市政の政治的な性格も形作ったようなのです。
 桝本市政の政治基盤は、従来からの自社公民4党の連携のもとにあるとはいえ、この時には自民党と公明党の関係が複雑であったために、自民党も強い主導権を発揮することができず、市議会与党として、市議会サイドがそれなりのまとまりを見せて市長を生みだしたのが今回の特徴であったといえるでしょう。そのために、市政運営のリーダーシップは政党サイドではなく、また市議会にはもともとそのような体質がないことから、結局は、市政運営の主導権は、突如として降ってわいた形で市長になった桝本市長自身が担うことになるのです。が、桝本市長自身が教育畑一筋できた教育畑のエースであって、市行政全般のエースではなかったために、実態的には、市長部局が自らその任を背負うことになるのです。市政刷新を掲げて誕生した田辺市長は、後継者を育てることができなかったばかりか、後継者の指名すらできないなかで、しかも「田辺市政の継承」を願う状況は、この当時の京都市政の現状をよく表しているものと思われました。
 すはわち、京都市政は刷新されなければならない、公務員汚職は中央、地方を問わずはびこっている、にもかかわらず、現実の市政運営は、市長部局を中心とした市役所庁内の体制に依存しなければならなかったのです。とはいいながらも、京都市政の主たる問題は、今川市長というトップ自身のりーだーシップのあり方にあったのであり、その意味では、市長が交代することによって主たる問題は解決していたのかもわかりませんね。しかし、市役所の体質改善の問題は、田辺市政から桝本市政へと引き継がれていくことになったのです。

●桝本市政のスタンス
 桝本市政の執行体制の問題は、まず教育委員会と市長部局との関係、中央との関係、府や商工会議所との関係、そして市議会との関係の問題がありますね。
 市長の事務部局と教育委員会との関係には、1967年の革新市政誕生以来の、ある種相互不信のような長い歴史があります。特に、その時期の教育委員会を担ってきた城守教育長と市長部局との関係はそうで、城守教育委員会は、革新市政下で独自の歩みをしていたのです。それは、すでに述べているように、城守教育長の独特の行政の筋があったのです。そして、桝本市長は、その城守教育長の下で、教育一筋に育ってきただけに、市長部局と桝本市長との関係は複雑であったのです。
 中央との関係は、この段階では特に特筆すべきものはなく、建設省と自治省からの人材派遣が継続されるかどうか、そして、新たに台頭してきた野中代議士との関係が、市長選挙で一歩退いた形での同氏がどのように関与してくるかにかかっていたともいえます。なお、ついでいえば、京都市と例の山段氏との関係は、山段氏自身の影響力の低下と、市長の若返りによる世代交代によって、その影響力はなくなってきていたといえるのではないかと当時見ていました。すなわち、一時代を風靡した山段氏ではあったのですが、同氏の影響力は人脈によって形成されてきていたので、その人脈が老化し、若返りが図れなくなることによって、京都市政への影響力は消えていったのでしょう。
 京都府や京都商工会議所との関係では、1986年に誕生した自治省出身の荒巻貞一知事の安定した府政運営と直前に就任した行動力のある稲盛会頭とによって醸し出される京都戦略のもとに京都市が埋没しかねない状況のもとにあったのではないでしょうか。舩橋市政以降の京都市政は、ともすれば内向きの傾向が強く、対外的な関係、中央や他都市との関係に対する逞しさは見られなくなってきていたように見受けられてきました。「御池産業」といわれたころの体質を外向きに改革することがなおできなかったのでしょう。
 議会との関係も、この内向きの体質を形成するのに、一役買っていたのかもしれません。京都市議会を見ていると、各会派の組織的な動きよりも、議員個々人の動きの方が結局は勝っているようなので、市政の基本的なかじ取りは、結局は市長を頂点とする市役所庁内に返ってくるのです。
 そこで、助役の体制、助役は桝本市長になって副市長とその呼称を変えるのですが、これを見ると、市長のスタンスの取り方がよく表れていると思います。まず、桝本市長就任直後の1期目は、田辺市長の信頼が厚かった薦田助役が引き続き副市長に就任し、田辺市政の継承とともに、市長部局出身の副市長に依存する度合いが高かったのです。そして2期目からは桝本市長の庁内でのリーダーシップが発揮されてくるようになるのです。

●市長部局と教育委員会
 そこで、桝本市政下での庁内体制の取り方について振り返ってみますと、大雑把に見て、戦後の京都市政の庁内体制には、民生行政を核とする共産党支持勢力が根強く、それと時の市長とのしのぎあいという側面が強かったように思われます。市の職員労働組合運動における社共の勢力争いも同様のことで、それには、京都の社会状況も大きく作用していたことでしょう。大都市の中では、京都市は低所得者が多かったのです。すなわち、市民の立場に立とうとすればするほど、左翼的な考え方に傾斜する度合いが高くなる傾向があるように見受けられるのです。こうしたことから、市長部局内では、共産党支持傾向のある
職員と、社会党支持勢力層とのしのぎあいが常に存在し、対立しつつも、市職員として、また京都市政を担うものとしての協調も同時に存在するという、一面的には理解できない複雑な関係にあるといえます。
 これに対し、教育委員会内部は、明快であるといえるでしょう。京教組対教育委員会の対立は伝統的なもので、その対立はかなり激しかったものの、それは、市長部局側から見れば、互いに教育現場という逃げることのできない共通の場があるからこその対立に見えるのです。が、いずれにしても、教育における京教組、京都教職員組合と市教委とは、互いに逃れることのできない、プロレスでいうところの「金網デスマッチ」を演じているように見えるのです。これに対して、市長部局側は、職員の多様な政治傾向と労働組合における共産党支持勢力との対立はあっても、行政という場における共通の理解が暗黙の上にできあがっているのです。教育長から市長になった桝本市長には、ここのところの呼吸の違いのようなものがおそらく理解ができなかったのではないでしょうか。桝本市長就任直後に助役に任命した、それまでの市長部局のエースであり、桝本市長に託された同和行政の改革に最善を尽くした中谷佑一交通局長と桝本市長との違いはこのあたりにあったのです。桝本市長としては、市長部局にはなかなかになじめず、市長部局側としても、市長にはなかなかになじめなかったのです。
 それでも大切なことは、若い市長の誕生は市政の若返りをもたらせ、対外的な未熟さを内包しつつも、自治省と建設省からの出向人材の協力を得て、1980-年代から90年代、そして21世紀への京都を着実に築いていったといえるのではないでしょうか。これは、京都市行政の底力といえるのではないでしょうか。

 3.新世紀への歩み

●21世紀グランドビジョンの策定作業
 田辺市政は、市政刷新を掲げつつも、市政の基本施策は、結構今川市政を継承していたようなのです。平安建都1200年や道路、地下鉄建設などの都市整備構想などはその最たるものでしょう。そうした中で、自らの健康都市構想を進めるために、21世紀に向かう基本計画を審議会を設置して策定していたのです。そして、その基本計画のなかで、次には21世紀の新しい京都市基本構想を策定するべきことを提示していました。21世紀を目前に、21世紀を迎えるべき都市構想から、いよいよ21世紀を歩む京都市の都市構想を、「21世紀グランドビジョン」として策定するべき段階に来たのです。これが、桝本市政に託された最大のものであったのでしょう。
 桝本市長は、まず自らの政策課題である「もっと元気に・京都アクションプラン」を市長就任直後に策定し、その政策課題を推進しつつ新たな21世紀の京都市基本構想の策定に着手します。この新基本構想は、先に田辺市政下で1993年に策定された新基本計画の中で、「21世紀のまちづくりのグランドビジョン」として、その策定に向けて早期に検討を進めるべきであると明記していて、田辺市政下で徐々に準備が進められていたのです。そこで、桝本市政下でもそれを継承し、かつ大々的に進めることになります。
 1998年10月、100人規模の策定審議会を設置して本格スタートし、21世紀を目前にした1999年10月にその答申を得て、12月に市議会で可決されることにより、第2次の京都市基本構想は策定されました。京都市基本構想に関しては、本ホームページの別稿で詳細に記述していますのでこのではその詳細は省略します。なお、この第2次京都市基本構想「21世紀グランドビジョン」の一連の策定過程については、当時、1998年から99年にかけて自治省から京都市に出向し、総合企画局の政策企画室長として基本構想策定事務をになっていた前葉泰幸氏が、後その詳細を『自治研究』2000年9月から2002年4月に4回にわたって研究論文として掲載しています。客観的な立場によるものとして、今後の研究に大いに参考となるものです。

●健康都市から元気都市へ
 「もっともっと元気 ますます元気」田辺市政を継承する桝本市政は、ここから始まります。病に倒れた田辺市長の継承者は、元気では申し分のない、行動力のある、しかも若い市長だったのです。いわく「元気都市」です。田辺市長の「健康都市」からさらに発展させて、市政のキーワードが、「健康」から「元気」にステージアップしたのです。
 「健康」が単に人体的な福祉、医療の概念を超えて、都市そのものが健康でなければならないという「健康都市構想」をたてた田辺市政の継承者として、継承と同時に、自らの個性も加味して発展させるために、健康から元気に、は、桝本市長のキャラクターからして格好のものでした。というよりも、元気都市は、桝本市長のキャラクターから自然に生みだされたものといえるでしょう。まったくのはまりです。
 こうして、桝本市政の基調は、「健康都市」から「元気都市」にステージアップすることになりました。こうして、病によって無念な思いをもちつつ任期途中に引退された田辺市長だけに、次の市長には、自らの政策を引きついてほしいという願いが強かったのです。そこには、市政刷新という課題、バブル崩壊に伴う市財政の立て直し、21世紀を迎える京都の都市整備の進めなど、多くの多岐にわたる継承課題があります。また、そこには、今川市政からの都市整備にかかる施策、たとえば地下鉄や高速道路、それにかかわる地域の拠点整備事業などが目白押しにあります。
 桝本市政は、ある意味で、舩橋政市政から今川市政、さらに市政刷新の洗礼を受けつつも都市整備を中心に田辺市政から桝本市政へと引き継がれてきた戦後京都市の都市整備事業を、21世紀に橋渡しすると同時にそれを21世紀から受け止める役割をも担ったものなのです。

●同和行政の正常化−特別施策の終了
 今川市政下で噴き出した同和行政の負の遺産は、田辺市政からさらに桝本市政に至るまで続くことになります。地区改善事業にかかる行政の進め方、行政と地域、行政と特定事業者とのかかわり方など多くの残された未解決の問題が継続しています。そこには、地区の雇用問題解決のための行政の特定分野への優先雇用などの新たな問題もありました。
 同和行政のひずみは、政府の特別法に基づく地区改善事業にかかる用地買収など不動産取得に関するもので、すでに、今川市政下の1986年12月に設置された臨時不動産取得審理会(会長・村松赳夫京都大教授)によって、その調査検討を進めていて、田辺市政成立後の1989年12月に意見具申がなされています。また、これも、今川市政下で、問題の鳥居事件発覚直後の1983年6月には、磯村英一氏を座長とする「京都市同和対策事業検討委員会」を市長の私的諮問機関として設置し、翌年10月にはその意見具申を得るなどの努力は続けられてきてはいたものの、同和行政の抜本的な改革は容易には進まなかったのです。そこには、同和地区住民やその住民を代表する運動団体と行政の関係などについても、事業の進展に応じた改革もまた必要だったのです。同和差別の根底にある就業問題の解決への一環として、市の一定の職場、職種についての雇用の促進を図ってきたことも、やがてそのことが地区住民の優先雇用として市議会で問題化されるようになることなども、地区の改善と時代の変化との関係の中で、同和行政もまた変化していく必要に迫られていくことになります。
 地方自治行政において、同和行政が一躍クロースアップされてきたのは、1960年の同和対策審議会答申、そしてそれを受けて1969年に制定された同和対策事業特別措置法(同対法)の実施でした。この法律は、物的な生活改善にかかる事業の実施を目的としていて、同和差別全般の改善を守備範囲としていなかったために、そのことはその後も一貫した問題として残っています。が、そのことはさておき、同和地区の差別的な生活環境改善のための事業は、特別措置法の実施によって全国的に展開します。1969年に実施された特別法は10年の時限立法でしたが、その後も期限延長や法の姿を変えるなどの積み重ねのうえで最終的に2002年3月をもって国策としての事業は終了することになります。そしてこれに合わせて、京都市も桝本市政下で、諸種の同和行政正常化への努力を積み重ねて、特別施策としての同和行政の終結に向かったのです。担当副市長は中谷佑一氏で、同氏は、舩橋市政以来の同和関係運動団体と行政との良好な関係を築いてきた苦労人であっただけに、今度は自ら進めてきた関係の見直しを自らが矢面に立ってその改革を進めていくということの苦労は並み大抵のものではなかったに違いありません。桝本市長自身は、市長部局内の一様ではない複雑な関係については理解が及んでいるとは思えなかった中で、本当に気の毒であったと思います。でも市長自身の揺るがない態度を背景に、無事、それなりに塔別施策としての同和行政をまとめ、終結させたのですが、同氏は、それを機に、2期目の副市長任期の途中で退任します。原因は病気だったのです。同氏は、市長部局のエースの一人だったので、まことに残念なことでした。また、この同和行政の正常化と特別施策としての同和行政の終結実現には、本当に多くの職員が苦労を重ねてきたのです。私の親しかった多くの職員もその例外ではなく、その結果として、今日の京都市政の人権行政があるのです。

●「21世紀は人権の世紀」
 「21世紀は人権の世紀」を目指し、また期待もして、建都1200年記念事業として、1994年12月に同記念協会が設立主体となって「世界人権問題研究センター」は設立されていましたが、20世紀末から21世紀初頭にかけての特別施策としての同和事業の終結は、同和差別を21世紀に持ち越さないという熱い思いを抱いて取り組んでいた自治体も少なからずありました。1969年以来33年に及ぶ国と地方との物的な同和事業に投入した財政は約16兆円(朝日調べ」)、また別の調べでは国費累計約4兆3千億円、地方推定累計約9兆7千億円、総計約14兆円という試算もあります(読売)。こうした財政投下による改善事業の完遂によって、確かに生活環境は抜本的に改善されました。こうして、教育と就職の機会均等への積み上げ、さらにあらゆる差別意識の克服へと、社会の意識が高まっていくことを願う段階へと来たのではないか、21世紀は、そうしたあらゆる差別を克服していく、それを実現していく世紀であるとの強い思いは、同時に願いとして、特別施策としての同和事業の終結と、そしてまた、世界人権問題研究センターの設立にはあったのです。私が敬愛してやまない歴史家、林屋辰三郎先生が、病気の身体を鼓舞しながら、建都1200年記念協会の副会長として、最後まで打ち込んでこられたのが、この世界人権問題研究センターの設立でした。その思いを知るものとして、現実に迎えた昨今の世界的な差別感の蔓延による世界史的ともいえる世界の混乱には、まことに沈痛な思いを禁じ得ない毎日です。
 ただし、かつて、部落差別は部落独特の差別で、差別のなかでももっとも許すことのできない差別であり、他の差別とは異なるものであるとの強い思いで戦ってこられた運動団体の諸兄も、今日では反差別全体との連携の中で戦われるようになってきています。差別撤廃の運動は着実に進んでいます。が、まだまだ深刻な実態はなくならないのも現実で、行政、社会、政治、地域、そして国家、国際社会のすべてがより一層の努力を積み上げていくべき事柄なのではないでしょうか。そうした思いにとらわれていまず。

 >>>よばなし・余話し<<<
  同和行政終結の歩み

1951年   オールロマンス事件 同和差別の行政責任を明らかにする
1965年8月 政府の同和対策審議会、「同和地区に関する社会的及び経済的諸問題を解決するための基本的方策」について答申
1969年7月 「同和対策事業特別措置法」制定 10年の時限法 さらに3年延長
1982年4月 「地域改善対策特別措置法」制定 5年の時限法
1983年1月 土地改良事業をめぐる鳥居事件(京都市)
1984年6月 国の地域改善対策協議会(会長・磯村英一)、同和問題解決のための「今後における啓発活動のあり方について」意見具申
1984年10月 京都市同和対策事業検討委員会(委員長・磯村英一前東洋大学長)「京都市同和行政のあり方について」意見具申
1987年4月 「地域改善対策特定事業に係る国の財政措置に関する法律」制定  5年の時限法 さらに5年延長
1989年4月 同和関係3団体代表、朝日新聞社の呼び掛けで、初の座談会(朝日4/15)
1990年4月 市民局を新設し、同和対策室を民生局から移管
1993年7月 市、「今後における本市同和対策事業のあり方について(具体的内容)」発表
1994年3月 部落解放同盟全国大会で、運動の主軸をこれまでの同和対策事業から、「教育、労働、啓発」に移行する歴史的な路線転換の運動方針を採択
1994年12月 建都1200年記念協会による「世界人権問題研究センター」開所
1996年5月 政府の地域改善対策協議会、「同和問題の早期解決に向けた今後の方策の基本的在り方について」意見具申
1996年7月 政府、「地域改善対策特定事業にかかる国の財政上の特別措置に関する法律」の期限が切れる翌年4月以降の同和対策に関し、着手済みの15事業について5年間に限って法的措置を講じることを柱とする政府の大綱「同和問題の早期解決に向けた今後の方策」を閣議決定
1996年11月 市同和問題懇談会、特別措置法の来年3月期限切れを前提とした「今後における京都市同和行政の在り方について」意見具申
1997年4月 市、中谷佑一副市長名による通達「同和行政の改革を進めるに当たって」を各局区長に出す ・同和対策事業62事業中43事業を今年度中に見直す ・その他行政組織や運動体との関係の見直しなど
1998年4月 文化市民局の同和対策室を廃止し、人権文化部を設置
1998年6月 市、「人権擁護思想の普及高揚を図るための市民啓発推進員に関する要綱」制定 市人権行政推進主任を設置 「市同和対策主任設置規定」廃止
1999年3月 「同和行政の見直しについて−特別施策の廃止と今後の取組−」まとめる
2002年1月 「特別施策としての同和事業の終結と今後の取り組みについての基本的考え方」を発表
2002年3月 国の特別施策としての同和行政の終結(「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」の期限切れ) 1969年措置法制定以来の総事業費約16兆円(国、地方とも 朝日新聞調べ) 

 

●ポンデザールと京都を語る会
 桝本市長が、市長に就任三月後の1996年11月の21日、京都市は、突如として鴨川の三条と四条の間に、歩行者専用の芸術的な橋を架ける計画を明らかにしたのです。びっくりしました。梅原猛氏の主導による京都百年の大計を語る「京都を語る会」は、実はこの鴨川歩道橋問題を契機に誕生したものなのです。
 実は、この時、パリ市長でもあるシラク・フランス大統領が来日中で、同大統領は京都が好きなものですから、就任直後の桝本市長に、フランスを代表するセーヌ川にかかる芸術橋と称されるポン・デ・ザールのデザインを、鴨川の三条・四条間の歩道橋に用いては、との好意を示されたようなのです。就任直後の桝本市長は、これぞ日仏親善のシンボルと喜んだであろうことは想像に難くありません。
 ところがです、いくらパリの素晴らしいデザインの橋とはいっても、それが京都の鴨川に合うかどうかはまた別です。期せずして大騒ぎとなり、翌年1997年10月に都市計画決定をしたものの、さらにその翌年1998年6月になって、桝本市長は、「鴨川芸術橋」(ポン・デ・ザール)建設計画を白紙に戻すことを表明するに至りました。伝統的な都市の個性と都市のデザインの難しさ、ひいては、行政というものの難しさについて、就任早々の桝本市長は思い知らされることになったでしょう。まして、素早く行動力のある桝本市長としては・・・・。
 さて、ここで、梅原猛氏が助け舟を出されることになるのです。それが「京都を語る会」なのです。1998年は京都市が独立した固有の市長を得て、市役所を開庁して以来ちょうど100年目となる自治100周年の年でした。そこで、梅原氏からの提案で、急遽、自治100周年記念事業に位置付けた、各界を代表する24名の識者によって、京都100年への自由なる意見交換の場を設けることになったのです。そこで、鴨川に架かる橋のデザインについても意見交換することが試みられるのです。ここで見過ごすことのできないことは、梅原先生という独特のキャラクターです。
 この「京都を語る会」は、梅原猛氏を座長に、1998年4月20日を第1回に、翌年1999年7月12日までに計5回の会合を、公開で行い、京都100年への自由な意見が交換されました。とはいえです、やはり運営は梅原流の独特のものでした。それは、自由にとはいっても、同氏の意図は、当初から、桝本市長の鴨川歩道橋にそれなりの落ちをつけること、そして、これが最大の狙いなのですが、京都に国立の大規模な歴史博物館を誘致することにあったのです。そのための機運づくりなのです。結局、同氏は、自分の意図を実現するために「京都を語る会」を設けるのですが、それには桝本市長に対する手助けのような手を差し出し、結局自分の意図を貫くのです。その思いは、世界文化自由都市にまでさかのぼります。その意味では、同氏のなかでは一貫した根深い思いが継続していることになるのですが、このあたりの問題はまた、後のところで触れていきたいと思います。

●翻弄される歴史博物館構想
 京都を語る会は、第1回目は自由な意見の開示、第2回は「京都市歴史博物館構想」について、第3回は「京の魅力と鴨川の橋」について、第4回は「未来の都市像〜南と北」、第5回は「京都100年への提言」というテーマで開催されたのですが、このテーマは、あらかじめ梅原座長と京都市とで用意されていたものです。さらに、今一つ、同氏は、京都商工会議所会頭の稲盛京セラ会長とも親しく、両氏の波長はよくあっていたようで、この京都を語る会が発足した直後の4月29日、稲盛会頭は京都に大規模な歴史博物館が必要との見解をぶち上げたのです。当然、第2回会合での問題提起となるものです。京都市に歴史博物館が必要であるとの有力者の意見はありがたいものなのですが、問題認識のずれが大きく、実際は、ここから歴史博物館構想の漂流が始まることになるのです。
 そもそも京都市歴史博物館構想は、歴史学者で京都の歴史に最も造詣の深い林屋辰三郎先生の長年の京都の歴史の編さんの中で、熟成されてきたもので、建都1200年記念事業の特別展「甦れ平安京」展そのものが博物館を想定しつつ企画されてきたものなのです。そしてその事業は林屋先生とその後そのために歴史資料館長に就任していただいた村井康彦先生の手によって、京都の歴史研究者を総動員して着々と準備作業が進められてきていたのですが‥‥。ここで、今回の「京都を語る会」なのです。
 「京都を語る会」では、実に活発に京都に歴史博物館が必要だとの意見が展開されるのですが、問題なのは、設立主体としての京都市に対する認識と、発言者がすべからく、大きな「大博物館」が必要で、しかも南部開発の起爆剤として南部に設置すべしということなのです。しかも、梅原氏からは、「宗教博物館」が主張されていたのです。すなわち、・大きな博物館、・南部への立地、・宗教博物館、・国立の博物館として誘致、というようなことになってきたのです。これらは、あくまで京都市が設立者であり、それに応じた歴史都市京都にふさわしい歴史爵物館を想定して、戦前からの過去数十年に及ぶ京都の歴史編纂の成果の集大成としての「京都市歴史博物館」とは異なる、極めて一部の強い思い付きの考え方にすぎないのです。当時、私は、京都市歴史資料館次長の職にあり、この渦中にいただけに、それぞれは善意であるものの、当事者の組織的な積み上げを考慮しない、有力識者の強い思いというものの弊害を、いやというほど感じていました。しかし、例えば稲盛会議所会頭の場合、複数のラインから、同氏は半端でない寄付金を用意されているというような情報が寄せられていました、また、梅原氏が稲盛会頭と歩調を合わせられるのも、稲盛氏のそうした力を想定されていたのも事実です。そしたまた、決定的なのは、設立主体が京都市ではなくなることなのです。「京都市には財政的な甲斐性がないから、国につくってもらうべきだ」という考え方です。こうしたことから、京都を代表する有力者がこうした意見ですから、元来財政的に自信のない京都市ですから、桝本市長の考え自身もぐらついてくることになります。こうして、「京都を語る会」を契機にして、京都市歴史博物館構想は、いわば褒め殺しのような形で漂流することになったのです。これはまた、京都市の主体者としての立場が厳しく問われたものであったともいえるのではなかったかと思います。本当に、苦い思い出です。


 第2節 継承される今川市政の都市整備計画

  1.土地利用計画の見直し

●伝統的な北部保存と南部開発
 今川市政は、古都税と鳥居事件によって、戦後京都市政の歴史のなかでも、もっとも弱体化した市政との評価の中にあるのですが、実は、都市整備に関してはそうではないのです。
 すでに見てきたように、1980年代以降の京都市の都市整備は、基本的には今川市政下で構築されたたものが、田辺市政へ継承され、さらに田辺市政を継承する桝本市政にも継承されて今日に至っているのです。そして、さらに大きく言えば、敗戦後の新しい市政を担った高山市政下では、財政・経済力の弱さから本格的な都市整備はできなかったものの、経済の高度成長と、財政再建計画の達成からはその検討を開始し、それが、井上市政下での長期開発計画にたどり着いています。ただ、この計画は富井革新市政の誕生で、京都盆地開発計画として否定され、新たに、都市は人間の住むところという「まちづくり構想〜20年後の京都」が策定されます。しかし、長期開発計画で示されていた「北部保存、南部開発」という京都市の基本的な土地利用の枠組みは以後も継承されるのです。

●都市整備におけるソフト施策の重視
 そこで、富井市政下での都市整備は、富井市長が病に倒れて1期で終わったためにその全体像を評価するのは難しいのですが、人間都市「都市は人間の住むところ」とはいいながら、その前提には、経済の高度成長による大都市の拡大発展というものを前提としてとらえていたのは現実でした。そこで、都市の拡大発展に伴うひずみの是正を、人間生活上から正していく、都市をソフト施策で是正していくことに当面の主眼を置くことになっていたのです。これは、田辺市政の「健康都市」、桝本市政の「元気都市」につながるものがありますね。ただ、富井市政下での「まちづくり構想」までは、都心部の問題は十分にはとらえられてはいませんでした。そのことが、舩橋市政下での都心部の空洞化現象として明確に意識されることになり、新たなまちづくり構想、それすなわち自治体の基本構想・基本計画策定へと発展するのです。その担当助役は今川氏で、担当局長は後技監になった望月氏でした。この京都市最初の基本構想・基本計画は、舩橋市政の継承者である今川市政下でまとめられ、具体的な都市整備構想は、主に、建設省からの木下博夫氏に負うところとなり、古都税などの騒動とは別に、着々と計画はすすめられ、助役の任を終えた後には、後輩の内田俊一氏を確保し、田辺市政下での継続を図るところとなったのです。
 元来は、モータリゼーションの激化による明治時代以来の基幹交通手段であった市電の廃止による、車社会への対応。そのための地下鉄建設とターミナル整備、そして自動車交通のための基幹道路の整備が基本となり、各市政下で着実に進行していったのです。
 そして、地価上昇下での都市整備の苦労を経て、今度は不況からデフレ下での都市整備の道にはいり、ここから改めて京都の都市のあり方を再考する中で、新景観政策に至るといえるのです。新たなる京都100年への道です。

●仏教会の景観対策と和解 高さ規制
 そういえば、仏教会の後日談として、京都仏教会が、高さ60mへの京都ホテル改築計画に対して、真っ向から抵抗するという事態がありましたね。各寺院に立て看板をたて、さらには、京都ホテル宿泊客には拝観を拒否するという大変な事態でした。
 京都市が強引に進めた古都税の鉾をおさめたことから、1988年にはいると、空席となっていた理事長に相国寺の有馬頼底師が就任し、また、古都税騒動で京都仏教会から分かれた京都府仏教連合会の全日本仏教会への加入も実現し、仏教界も落ち着きをみせ、この頃から、京都仏教界の観光政策への協力が見られるようになりますが、まさにその直後からです。
 1990年11月、京都仏教会は、古都の景観保存に、会員寺院は結束して取り組むとして、JR京都駅や京都ホテルの高層化計画に「絶対反対」の方針を、田辺市長に申し入れることを決めるのです。申し入れは翌月の12月に提出されました。そして、翌年の1991年1月から、「京都の歴史的景観を破壊する高層化に反対」の立て看板約30枚を、加盟20寺院に立て、さらに12月からは、京都ホテルとその系列4施設の宿泊客の「入山お断り」すなわち「拝観お断り」にまで至るのです。公開空地を用意する代わりに高さ規制を緩和する、創設直後の京都市の総合設計制度に対する真っ向からの抵抗です。JR京都駅ビルの高層改築は、都市計画法の「特定街区」制度の市内初適用によって高さ規制を60メートルに緩和したものです。仏教会のターゲットは京都ホテルに絞られました。
 ところが、京都ホテルと仏教会とは、「拝観お断り」実施直前の1991年の11月20日、すでに市の建築確認は下りていたにもかかわらず、当初計画の高さ60メートルを引き下げる方向で設計を再検討することとし、2日後に予定されていた着工を延期するということで「和解」し、これにより仏教会は拝観拒否を中止しました。が、です。着工直前のこのような動きに、京都ホテル側はおさまらず、12月3日の臨時取締役会で、当初計画通りの60メートルで改築することを決定。これにより、高橋社長は辞任することになります。そして、京都ホテルの改築は、当初計画通りの60メートルで、12月9日に着工します。これに対して、仏教会側はすぐさま、京都ホテルと工事施行業者の清水建設を相手取って、建設工事差し止めの仮処分を京都地裁に申し立てます。仏教会が絡むとどうしてこうした展開になるのでしょうね。この仏教会の申し立ては、翌年1992年8月に却下されます。仏教会は即時抗告を断念し、すぐさま、再び実力行使に入る予告をします。12月1日から、京都ホテルとそのグループ4施設の宿泊客に対する拝観拒否の実施です。実施寺院は、金閣寺、銀閣寺、相国寺、清水寺、広隆寺、青蓮院、蓮華寺の7カ寺です。そして9月18日には、仏教会と加盟11カ寺が、京都市長と市の建築主事を相手に、京都ホテルへの総合設計制度による許可処分の取り消しなどを求める訴えを京都地裁に起こしました。が、京都地裁は、1994年1月、仏教会には原告資格はないと却下します。翌年19995年9月には、大阪高裁の控訴審判決でも、訴えの資格がないと控訴を棄却、これにより、仏教会は上告を断念します。こうして、仏教会も手詰まりとなります。京都ホテル側は、1994年7月に、地上16階、地下4階の高さ60メートルで新築開業しています。
 そうこうしているうちに、仏教会と京都市との間に、水面下で関係改善の動きが出てくるのです。折角、古都税問題が解決している中で、再び仏教会と市が今度は景観対策で対立し、京都観光の障害となってきていることに対して、仏教会、京都市ともに、その折り合いを探る動きが生じてきていたのです。1996年にはその動きはマスコミにも取り上げられるようになります。市長は、田辺氏から桝本市長に移りす。そして、これには1995年から京都商工会議所会頭になった京セラ会長の稲盛和夫氏による双方への働きかけも大きく作用したようなのです。そして1999年5月、稲盛京都商工会議所会頭の提案による、京都市と京都仏教会とのトップ会談が行われるに至るのです。雪解けです。その翌月、京都仏教会は、京都ホテル高層化に反対する立て看板を、加盟寺院から撤去します。そして代わって、新しい看板「京都市・京都経済界・京都仏教会は一体となって京都の景観保護に努め、文化観光都市京都のさらなる発展の為、努力することを誓いました」を立てるのです。以後、2001年3月には、桝本市長と京都仏教会の有馬頼底理事長とが、共同記者会見で、二条城での公演「音舞台」を9月に共同開催することを発表し、さらに翌年の2001年1月には、仏教会は、京都市が2002年に開催する二条城築城四百年記念事業推進のために、百万円を京都市に寄付することを表明するなど、京都市の観光振興に対する協調姿勢が示されてきます。こうした、仏教会、経済界、そして京都市の観光振興に対する協調体制は大変いいことなのですが、これには、大きな担保がかかっているともいえるのです。

●将来にわたる京都市の「覚悟」
 担保とは何か、それは、仏教会は、高層化に反対する景観保護対策が認められたとの理解があってこの協調を行っているのであって、もし、今後、京都市行政が、たとえ例外であったとしても60メートルを超える高層化を認めるようなことがあれが、この協調は一瞬にして崩壊するであろうことが考えられるのです。その意味では、この協調は、京都市に縛りがかかったものとして受け止められねばならないでしょうね。
 ただ、桝本市長は、その後、後でふれるように、全市域の高度規制を行う新景観政策を実施しますから、これなども、その過程のなかで位置付けられているものと考えられるのですが・・・。その後の、桝本市政以降の市政になると、例えば現在の門川市長はこれをどう受け止めているのでしょうか。このように、この仏教会との協調は、実は、今後将来にわたる京都の都市政策の基本にかかる事柄なのですね。
 次にもう一つの根本的な問題を、すなわち宗教界の都市行政への関与について触れる必要があります。古都税問題とは異なり、建物の高さ規制にかかる景観対策は、都市行政の根本にかかわる事柄です。そうした事柄に対して、宗教界が、宗教団体として関与することは本来あってはならないことではないでしょうか。他方で、行政サイドからも、宗教界に対する宗教上の関与をしてはならないのは同じことです。政教分離が今日の社会の基本的なルールなのですから。一方が他方を犯すと、それは相互作用を生むこととなり、自らにも跳ね返ってくることは肝に銘じるべきことではないでしょうか。京都仏教会には、どうもこの種の血の気がありすぎのような気がするのですが・・・・。
 そこでもう一つ。都市自治体は、その都市内に居住するものによって構成されます。また、そこに住まわなくとも、そこに土地を所有する者は、すべて一定の権利義務を負いますが、宗教法人はその埒外です。しかしです、宗教法人といえども、特に京都の寺社は、京都の都市形成に深くかかわり、これをもって、寺社側は、京都は寺社のおかげで繁栄しているという意識が強いように思われるのです。ところが、都市行政のサイドから見ると、寺社のためには、膨大な公共投資をしているのです。鉄道や道路、参詣者や観光客に対するあらゆる便宜など、財政上の負担は半端ではありませんが、これに対して、寺社には固定資産税も法人住民税も課税されていないのです。寺社は、都市行政から受益する一方なのです。というようなことがあり、そのことを議論するよりも、互いにその位置をおもんばかることにより相互理解を深めることが必要なのでしょうね。

>>仏教会と高さ規制・京都ホテル 簡単な歩み<<

1990.9.28 京都駅を改築する第3セクター「京都駅ビル開発株式会社」創立総会 府・市ともに5%出資 
1990.11.9 京都仏教会、理事会で、景観美保全のため、JR京都駅や京都ホテルの高層化計画に対し、「絶対反対」の方針を田辺市長に申し入れることを理事会で決める。
<申し入れ書>の要旨 ・周辺乱開発への厳正な法の適用 ・現行条例に不備があれば、さらに厳格な条例の制定 ・高さ制限を緩和前の31mー15mに戻すべき ・市の都市計画の将来ビジョンを示せ 
1990.12.19 京都仏教会、田辺市長に景観保全の申入書を提出
1991.1.22 市建築審査会、総合設計制度に基づく京都ホテルの高さ60メートル改築計画に同意する
1991.1.28 京都仏教会、「京都の歴史的景観を破壊する京都ホテルなどの高層化には反対です」の看板約30枚を清水寺など加盟20寺院に立てる
1991.2.14 市、総合設計制度に基づく京都ホテルの60メートル改築計画を許可。 7/23建築確認
1991.11.13 京都仏教会、加盟8カ寺の門前に「一二月一日から同ホテル関連施設宿泊者の入山お断り」の看板を掲げる 8カ寺・金閣寺、銀閣寺、清水寺、広隆寺、青蓮院、蓮華寺、相国寺、二尊院
1991.11.20 仏教会と京都ホテル合意し、記者会見で、京都ホテル側が、改築で当初計画の60m を引き下げる方向で設計を再検討し、22日に予定していた着工を延期することを発表。仏教会は、拝観拒否の中止を表明。
1991.12.5 京都ホテルは、臨時取締役会で、当初計画通り60メートルの改築を行うことを決定。これにより、高橋社長は辞任。
1991.12.9 京都ホテル、改築工事安全祈願祭を行い、着工する。
1991.12.13 京都仏教会、京都ホテルと清水建設を相手取り、「和解協定」を根拠に、建築工事の禁止を求める仮処分を京都地裁に申し立てる。 
1992.8.6 京都地裁、京都仏教会の1991年12月13日の仮処分申し立てを却下
1992.8.20 京都仏教会、即時抗告を断念し、京都ホテルグループ5施設の宿泊者に限り、12月 1日から加盟7寺院の拝観拒否を発表  金閣寺、銀閣寺、清水寺、広隆寺、相国寺、青蓮院、蓮華寺  対象ホテル・施設 京都ホテル、烏丸京都ホテル、粟田山荘、たかつき京都ホテル、いばらき京都ホテル
1992.9.18 京都仏教会と同会加盟寺院のうち11カ寺、京都市長と市建築主事を相手に、京都ホテルヘの総合設計制度導入の許可処分の取り消しなどを求める訴えを京都地裁に起こす
1992.10.19 京都地裁、京都市が京都ホテル隣の市道とホテル所有地を交換したのは違法として「ノッポビル反対市民連合」と「京都仏教会」のメンバーが、市と京都ホテルに対し市道の変換などを求めた訴訟に対し、「前提となる住民監査請求が法定の期限内に行われておらず不適法」として訴えを却下
1992.10.29 市都市計画審議会、JR京都駅ビルの高さ60メートルの改築計画について、特定街区制度による高さの規制緩和を市内で初めて適用する都市計画案を承認  11/26府都市計画地方審議会も諮問通り承認
1992.11.1 京都仏教会、京都ホテルの60メートル高層化に反対して、12月1日から同ホテル系列5施設の宿泊者の拝観拒否を予告する看板を加盟7カ寺の門前に出す 青蓮院、清水寺、金閣寺、銀閣寺、広隆寺、蓮華寺、相国寺
1992.12.1 京都仏教会、金閣寺など7寺院で、京都ホテルグループの宿泊客に対する拝観拒否戦術に入る 
1994.1.31 京都地裁、京都ホテルの60メートル高層化改築に反対する京都仏教会などが田辺京都市長らを相手に「総合設計制度」導入の許可処分などの取消を求めた訴訟に対し、「仏教会に裁判を起こす資格(原告適格)はない」と訴えを却下
1994.5.18 京都ホテル完成式 地上16階、 地下4 階 7/10京都ホテル新築開業
1995.9. - ;大阪高裁、京都仏教会が、「総合設計制度」導入の許可処分などの取消を求めた訴訟の控訴審判決で、「仏教会に裁判を起こす資格(原告適格)はない」と、仏教会側の訴えを棄却。仏教会側は上告を断念 
1996.4.9 市と仏教会和解の兆の報道 
1996.11.13 市と仏教会幹部会談 市:景観対策などを担当する局長クラスの幹部 仏教会:大西真興ら理事クラス 
1999.5.8 京都仏教会、緊急理事会で、稲盛和夫京都商工会議所会頭が提案している市との和解に向けた会談に応じることを決める
1999.5.20 市と京都仏教会、稲盛京都商工会議所会頭の提案によるトップ会談実現
1999.6.13 ;京都仏教会、京都ホテル高層化に反対する看板を撤去
1999.6.23;京都仏教会の有馬頼底理事長、京都名産品組合の総会で、「京都の観光客が減少したのは仏教会にも責任がある」と反省、「行政、経済界と協力し、室町時代に築かれた精神文化を生かして、観光振興の行動を起こしたい」との考えを示す 
1999.9.27 京都仏教会、「京都市・京都経済界・京都仏教会は一体となって京都の景観保護に努め、文化観光都市京都のさらなる発展の為、努力することを誓いました」との看板をこの日から取り付ける
2001.3.28 桝本市長と京都仏教会の有馬頼底理事長、二条城での公演「音舞台」を9月に共同開催することを記者発表
2002.1.18 京都仏教会、京都市が来年開催する二条城築城四百年記念事業推進に、市に百万円を寄付
2002.02.27 市の財政難で打ち切りとなる祇園・白川南通の夜桜ライトアップを、京都商工会議所が京都仏教会と共同で継続実施することを決める。 見込み事業費約500万円を両団体折半で負担
2002.07.06 「京都・花灯路」開催に向けた推進協議会設立  参加団体に京都市、京都府、京都商工会議所、平安建都1200年記念協会、京都市観光協会とともに、京都仏教会も参加  清水寺〜青蓮院の散策路約2キロと円山公園など 事業費約1億7千万円 

2.小学校の統廃合と跡地利用

●小学校跡地利用
 都市周辺部の人口増加利用とは逆に、都心部人口の減少による小学校の統廃合が、大きな問題となり、その統廃合の結果として、都心部に貴重な空白地が生まれることになりました。これをどう活用するか、或いは活用せずに空白地のまま将来に残すかは、変貌の最中にある京都市にとって、大変重要な問題です。
 この問題には二つの側面があります。一つは、都心部の人口減少という都市政策上の問題です。今一つは、生徒数の減少が、教育システムの限界を超えて、教育を維持していくことが困難になってきつつあるという教育上の問題です。良好な教育システムを維持再生していくために、小規模校の統廃合が行われるのですが、それによる廃校となった跡地利用は、都市政策全般に関わる問題です。したがって、教育委員会が行った統廃合の結果生まれる廃校後の跡地利用の問題は、市長部局企画調整部門の中に「小学校跡地利用審議会」が設けられ、そこで検討されることになったのです。ここで、微妙な問題が生じます。小学校の統廃合は、教育委員会にとっては大変な苦労です。その結果生じた廃校跡の都市施設への活用は市長部局で、市長部局では労せずして都心部における施設活用が可能となり、教育委員会に対しては、なにか申し訳ないような遠慮した気分が働きます。大体役所というところは、自らの所管していた施設の事後の活用についても、その事態処理に苦労すればするほど、それはその元々の所管部署に帰属するのが通常なのですから、小学校跡地の活用は第1義的にはっ教育委員会にあるといえるでしょう。が対象施設があまりにも多く、また、都心部の施設政策にあまりにも深くかかわっていたのです。
 ただ、この問題は、市長のリーダーシップというよりも、教育委員会の自主的な取り組みであったことと、1990年代に入って活発化してきたということが、1990年代後半以降の教育長からの市長就任ということもあって、その種の矛盾を解決していったように思われました。教育委員会のリーダーシップ性が生きてくるのです。ともあれ、小学校統合による跡地活用に関しては、1994年1月に設置された河野健二京都大学名誉教授を会長とする「京都市都心部小学校跡利活用審議会」が8月に「跡地活用の基本方針案」をまとめます。これを受けて、京都市は同月に、助役をトップとする小学校跡地利用検討委員会を庁内に設置、そして、2年後の1996年2月に、市は、跡地活用を3用途に分ける考え方を審議会に奉告し、以後それに基づき跡地活用をはかることになります。それが、、広域・身近・将来用地という3用地区分です。この段階で、廃校数は実に18校に達していました。ちなみに、用地区分は次のとおりです。
広域用地:広域的なまちづくりに活用する跡地
身近用地:身近な暮らしに活用する跡地
将来用地:今後の需要に備える跡地

 ここで特に注意しておきたいのは、将来用地の重要性についてです。すでに、あちこちで述べたり書いたりしてきていますので多言を弄しませんが、これまでの京都の発展の基盤の一つに、都心部における空白地が常にあったことが幸いしていましたね。しかもその空白地たるや、平安京以来の正方形の区画のなかにこそあったのです。明治維新時の小学校の建営も、その区画の中にありました。いま、その小学校がなくなり、跡地が、食いつぶされることになっては、京都の未来はありません。その意味で、跡地活用に当たって、「広域用地」や「身近用地」という目下の必要性に応える活用とともに、「将来用地」として、今後将来のために公共資産として温存しておくこととされたことには大変感心しました。願わくば、今現在の経済効果に目を奪われることなく、京都将来の資産として残すことを死守してほしいですね。

●,銅駝及び柳池中学校の統合問題の教訓
 さて、私の知る限り、市立学校の統廃合が最初に大問題になったのは、1970年代後半における「銅駝中と柳池中学校の統合」問題でした。これによって伝統ある銅駝中学校が廃校となるため、地元では大変な反対運動が展開され、当時教育長であった城守昌二氏は、これまた大変な苦労の渦中におかれるのです。しかし、信念を曲げない同氏はこれを強行突破し、1978年11月の市議会にその統合条例案を提出して可決に持ち込み、翌々年1980年4月には、その跡地に市立,銅駝美術工芸高等学校を開校するに至ります。このことの評価には種々の見方があろうかと思いますが、同氏は、二度と同じ苦労はしたくないと、強気でならした同氏としては考えられないような思いを抱かれていたようなのです。京都市最初の学校統廃合は、実に衝撃的な幕開けだったといえるでしょう。舩橋市政の全盛期でのことでした。

●住民要望を受けて
 この「銅駝中学校統合問題」の教訓の上で、教育委員会は、教育委員会主導の統廃合はやめ、徹底した住民サイドからの意見による対応にかじを切ったのです。そのやり方は、また、徹底していたようです。
 ただその前に、「銅駝・柳池中学校の統合」問題が解決してまもなく、1983年1月、永松自治連合会が、市立永松小学校の隣接小学校への統合を決めて、市教委に要望し、それを受けた市教委の統合受入れについての照会に対して、開智自治連合会が永松校の統合受入れを了解する回答を行い、4月には市立開智小学校で、永松小学校との統合式が行われて、両校との統合が円満に行われています。永松小学校の跡地には、3年後の1986年11月に、「京都市立永松記念教育センター」が設置され、1991年4月にはセンター内に「学校統合推進室」が設置されます。そして同センターは、2003年4月には名称を「京都市総合校育センター」に変更して現在に至っているようです。
 そこで、小学校統廃合の動向ですが、まず、1988年の.2月に、市の小学校長会と市教委は連名の「学校は今……小規模校の明日をみんなの課題にしていただくために」という、都心部の小規模小学校の問題を訴える冊子を作成、配布します。これによって、教育委員会主導の小規模校統廃合の進め方を改め、あくまで地元中心の検討結果にまち、市教委はそれを受けて解決策を進めることの意思を鮮明にしたのです。当時、私はその冊子を見て驚きを隠せませんでした。まことに見事な方向転換でした。以後、市教委は、統廃合に関して、受けに徹していきます。
 1990年11月になると、;小規模校該当小学校の校長らで組織する「市小学校長会小規模校問題特別委員会」が、将来の学校統合に向けての「モデル校構想」(校長会試案)をまとめます。こうして、翌年の1991年以降、下京区の5つの小学校、さらに2つの小学校の統合、中京区の5校の統合がいずれも地元自治連合会で合意に達し、翌1992年3月には、下京区内の9小学校が閉校式をあげ、4月に3小学校に統合されて開校式を行う。すなわち、豊園、有隣、修徳、開智、格致小は洛央小学校に、、教業、乾小は洛中小学校に、菊浜、稚松小は六条院小学校に統合し開校。また、中京区内では、竹間、富有→竹間富有に、 明倫、本能→高倉西に、日彰、生祥、立誠→高倉東への統合を1993年4月に、高倉西、高倉東→高倉は1995年に、上京区内では、春日、梅屋、竹間富有、龍池→御所南に1995年4月に統合を実現することが決定されます。こうして、小規模小学校の統廃合が進む中、今度は中学校でも統廃合の動きが生じ、1992年3月には、中京区の柳池中と初音中学校の統合が両校PTAで合意となり、初音中が柳池中に統合することになりました。
 統廃校後の小学校の跡地利用は、その検討は市長部局に委ねられたのですが、中学校の統廃合後の跡地利用については、その数も少ないことから、それは教育委員会の中で活用の仕方を検討させてもらう、とは、当時の市長部局の政策も理解している教育委員会内の識者の個人的な意見でした。
 
●住民自治の伝統を受けて 
 やはり、ここでも言わずもがなのことについても多少触れておくことにしましょう。
 京都市の小学校は、明治2年に全国に先駆けて建営されたとのことですが、京都市の小学校の特徴は、そこに重点があるのではありません。京都市の小学校の特徴は、地域住民によってつくられ、運営されてきたということにあります。当初は、役所機能も持っていたのですから。それは、中世の町衆時代からの地域共同体の流れをくむもので、今なおそうした精神的伝統をになっているのです。小学校区は、通例、小学生がその学校に通う地域的範囲をいうのですが、京都では、それは地域共同体の範囲をいうのです。
 ですから、戦後、中学校を新設するために、いくつかの小学校ごとに1校を廃して、そこに中学校を建てたのですが、そこで廃された小学校区の小学生は、隣の小学校に吸収され、隣の小学校区になるんですけれども、これまでの小学校区はなくなるのではなく、元学区のまま地域住民組織としては残るのです。すなわち、通学校区としては吸収されるけれども、元学区としての組織は従来通り存続するのです。ですから、京都市では、中学校が設置されたその場所の元々の小学校区はなくなるけれども、必ずそこには、小学校をもたない元学区がそのままあるのです。単純に言ってしまえば、これこそが、中世以来の京都の地域共同体の基盤を引き継いできたものなのです。通りを挟んで両側の住民が辻から辻までの約110メートルごとに町内会を組織し、その町内会がいくつか集まって「組町」を組織し、これが町共同体の基盤をなしているのですが、京都市の都心部の小学校区は、実はこの組町の規模を引き継いだものなのです。
 今般の小学校統廃合で、実に多くの小学校がなくなりましたけれども、通学区であった元学区は、地域共同体の伝統を持つ住民組織として、その後も存続し、行政区の担い手として、区役所との提携のもとにその活動は続くのです。
 京都市の小学校区としての元学区は、地域住民組織の伝統をにないつつ、変貌する新しい時代に適応するために、今苦しんでいるのかもしれません。1980年代の土地バブル、そして今時のインバウンドブームと二度にわたる町家崩壊による空洞化の危機を、どう乗り切っていくのでしょうか。小規模校統廃合とその跡地利用の問題には、こうした、京都市の存亡にかかる重大な問題が内在していることを自覚する必要があるのではないでしょうか。

   >> 小学校統廃合と跡地活用の主な歩み<<

〇統廃合の歩み
1983.01.29 永松自治連合会、市立永松小学校の隣接小学校への統合を決める
1/31市教委へ要望 2/3開智自治連合会、統合受入れを市教委へ回答 3/14永松校閉 校式  4/5市立開智校で,永松校との統合式開催
1986.11.15 京都市立永松記念教育センター」を設置
1991.4.1   永松記念教育センターに「学校統合推進室」を設置
2003.4.1  「京都市総合教育センター」に名称変更

1988.2 「学校は今……小規模校の明日をみんなの課題にしていただくために」を市小学校長会と市教委名で発行
1998.4.28 市教委、小規模校問題に関する市民意見の集計結果を公表
1990.1.16 小規模校該当小学校校長らで組織する「市小学校長会小規模校問題特別委員会」(会長・小森喜和本能寺小校長)、将来の学校統合に向けて「モデル校構想(校長会試案)をまとめる。 「保護者、地元の皆様方へ」を配布
1991.2.8 下京区の4学区にある6自治連合会、合同総会で、1小学校への統合を決める。 4小学校:豊園・開智・有鱗・修徳 2元学区:永松・成徳   新小学校:豊園小学校に新校舎を建設 開校予定:1994.4 4/18 新たに格致小学校を統合に加えることに合意 
1991.5.31 教業と乾小学校(中京区)、菊浜と稚松小学校(下京区)の自治連合会が、それぞれ1校に統合することを市教委に要望  教業と乾→乾小の校舎を利用  菊浜と稚松→稚松小の校舎を利用 来春から新校名でスタート 
1991.10.17 中京区の「中京東・南ブロック統合準備委員会」、本能、明倫、日彰、生祥、立誠の5校の統合で合意し、1995年に統合。

 というように、1990年から、都心部の小規模校統合への地元自治連合会の合意が形成され、続々と小学校の統廃合が具体化していきます。そして、1992年になると、中学校の統廃合も始まります。
1992.3.27 中京区の柳池中学校と初音中学校の統合について、柳池中学校PTAが合意し、事実上統合が決まる。(初音中は、昨年 9月に合意済み)

〇跡地活用の歩み
 こうして、小学校の統廃合が進む中で、その跡地の活用についての対応が必要となり、
土地の活用については、統廃合とは別に、京都市として対処することになり、次のように、その審議会は市長部局の企画調整局に設置されます。跡地活用への歩みの概要は次の通りです。

1994.1.12 市、「市都心部小学校跡地活用審議会」設置 会長:河野健二京大名誉教授
1994.8.2 「市都心部小学校跡地活用審議会」、「跡地活用の基本方針」をまとめ、答申
1994.8.31 市、庁内に助役をトップとする小学校跡地利用検討委員会を設置
1995.8.9 市、小学校跡地活用の目安となる3用途案を発表 広域・身近・将来
1996.2.5 市、「市都心部小学校跡地活用審議会」に3用途案を報告
 これにより、審議会を軸としながら、跡地活用が計画的に推進されることになる。
よく知られている<広域活用>としては、
・学校歴史博物館(1998.11) 下京・開智小学校跡
・こども未来館(1999.12) 上京・竹間小学校跡
・芸術センター(2000.4) 中京・明倫小学校跡
・ひと・まち交流館 京都(2003.6) 下京・菊浜小学校跡
   市民活動総合センター、福祉ボランティアセンター、長寿すこやかセンター、
   景観・まちづくりセンター
・京都第二赤十字病院・救命救急病院(2004.7) 中京・梅屋小学校跡
・京都国際マンガミュージアム(2006.11) 中京・龍池小学校跡地
 また<身近用地>としては
 上京、下京、中京の各区に、地域の老人ディーサービスセンター、特別擁護老人ホーム、介護支援センター、公園、幼稚園、児童館などの福祉施設とともに、地域の図書館なども整備されるようになってきています。 

 

 3.地下鉄建設とターミナル開発

●地下鉄延伸
 伝統的に、都市財政の貧弱な京都市においては、地下鉄網を張り巡らすような都市財源はなく、地下鉄建設着手の時点から、これは、都市政策なのか財政政策なのかという悩みにとらわれつつ進められてきていたのです。ですから、財源は当然のこと起債で賄うのですが、その起債の償還のための財源自体が次なる起債によるという自転車操業でやってきていて、こうしたことから、地下鉄建設事業は、一端着手するや永遠にその事業、すなわち起債事業を続けなければならないというのが、当時の理財局長経験者の話でした。そしてまた、地下鉄経営上の問題としては、その運賃収入が、累積する起債を償還するだけの財源規模とならない、運賃収入をより多く確保するためには、また地下鉄路線の延伸を図らなければならないというジレンマにあり、この地下鉄建設問題は、現代京都市の最大の難問ではあるのです。
 それでは、具体的な事業の進展状況を見てみましょう。
 まず、地下鉄烏丸線です。これは、桝本市政誕生翌年の1997年6月に、烏丸線の北進延伸区間の北山から宝ヶ池の国際会館までが完成して開業しています。京都駅以南については、すでに1988年6月に京都駅―竹田間が開業していて、近鉄京都線と相互乗り入れが実現していました。
 地下鉄東西線は、工事費の暴騰で、田辺市政下で一大政治問題化したのですが、今川市政末期の1988年7月に事業免許を得て、田辺市政誕生直後の1989年11月に着工し、桝本市政下での烏丸線延伸直後の1997年10月に二条から醍醐までで開業します。また、東西線延伸では、醍醐―六地蔵間は1999年10月着工、2004年11月開業、そして二条駅から天神川への西進は2002年12月着工、2008年1月開業を達成しています。

●ターミナル建設
 大体は、京都の駅前開発は、地方都市と比べても遅れていたきらいがありましたが、これも、今川市政末期から田辺市政にかけて活発に計画、実施され、京都のまちを大きく変えてきました。そしてこれも、桝本市政は継承します。
 まず、地下鉄烏丸線の建設に合わせて、京都で最初の地下街「ポルタ」が1980年11月にオープンしますが、これが地下鉄建設に関連するターミナル開発の最初でしょう。次いで、これもJR京都駅周辺整備事業でもありますが、京都駅南口再開発ビルのアバンティが1984年3月に開業します。そして、地下鉄烏丸線最初の北限の北大路駅には1995年3月に「キタオオジタウン」が開業しました。こうした地下鉄建設に伴うターミナル、拠点開発が全市的に展開するのは地下鉄東西線に合わせてでしょう。この時期、JRの高架化などの立体交差も手がけられ、実に多方面に地域開発事業が計画され、それが田辺市政、桝本市政へと引き継がれ、桝本市政で完成する事業が多いのです。
 地下鉄東西線では、二条駅周辺整備、市役所前の御池地下街、京阪三条駅前、JR山科駅前、醍醐再生プロジェクトなどがあります。


  4.高速道路の整備構想 

●自動車専用道路の都心部への導入!
 京都市の交通対策は、モータリゼーションの進行に対して、比較的遅れていたといえます。高速道路構想は1960年代頃からあったとはいえ、高山市政下では、財政の立て直しに時間がかかり、富井市政では自動車への便宜よりは、車社会の人間生活への障害に対する対策が主たる問題となって、人間生活擁護の対策となっていて、また、舩橋市政では「マイカー観光拒否宣言」などもあり、今川市政になって、ようやく都市部における車の存在も肯定的にとらえられるようになったのでしょうか。今川市政になって、車専用の高速道路を都心部へも乗り入れる計画の具体化が浮上して、大阪・神戸の自動車道路網との接続が試みられることになったのです。
 阪神高速道路公団は、文字通り大阪・神戸における自動車専用の高速道路網の構築を進めていて、そこには京都は入っていません。そこで、1987年の年明け早々に、京都市は、市域への自動車専用道路を導入する計画を発表し、5月に、大阪、神戸とともに、6知事市長で「京阪神都市高速道路促進協議会」を設立し、高速道路建設の促進を図るとともに、それを担う「阪神高速道路公団」を「京阪神高速道路公団」に改組することもめざすことになりました。そしてその課題は田辺市政へ引き継がれます。

●田辺市政から桝本市政へ
 田辺市長は、都市高速道路であってもその景観を重視し、1990年年明けに、旧市街地への導入に当たっては、それを「地下化」すべきとの考えを示し、それまで高架化を考えていた計画の見直しを指示、7月に、京都市内に導入を計画している「京都高速道路」の計画概要を発表、翌年1992年の8月に都市計画決定がなされます。その内容は、西大路線と堀川線の十条通以北を地下化し、以南を高架に、その事業化は京阪神高速道路公団(仮称)によるとしたもので、延長は5.4キロメートルでした。これに基づき、翌年1991年6月には、京都経済界挙げて「京都高速道路整備促進京都市協議会」が、塚本京都商工会議所会頭をはじめとする主要24団体によって結成されます。それには荒巻府知事をはじめ、府・市議会議長、衆参両院議員らが顧問に就任し、文字通り京都を上げてその推進を図る体制となります。そしてその設立趣意書で、3年後に迎える平安建都1200年の記念事業に位置付けるのです。京都再生への起爆剤と考えられたのです。そして、1993年4月には、京都市内での高速道路建設ができるようにするための阪神高速道路公団法の改正案が国会で成立します。そして、1997年から98年にかけて新十条通や油小路線などの工事が着手されますが、その間の事情は結構ややこしく、私も関係がなかったもので、あまりよくは知りません。2005年には、小泉内閣による民営化路線で、道路公団も民営化し、阪神高速道路公団は阪神高速道路会社となり、その際に、斜久世橋区間の工事費を京都市が肩代わりするなどの事情が生じるなどのことを伴いつつも、新十条通と油小路線は2011年に一応完成します。その間、民営化後の阪神高速道路会社は、京都高速道路の名称を「阪神高速8号京都線」に整理します。そして、2012年に至って京都市は、「京都市京都高速道路検証委員会」で、都市計画決定から20年経過してなお実施されていない京都高速道路の堀川線、西大路線、久世橋線はその計画が見直しの対象となったのです。
 阪神と京都を結ぶ高速道路についてはもちろん異存のないところなのですが、高速道路の都心部への乗り入れ計画の具体化には当時”エツ!”と思ったものでした。これなどは、今川−田辺−桝本市政へと、建設省の人材とともに継承してきたものの、事実上挫折状態にあるといえるでしょう。これも、京都の都市特徴の一つなのでしょうね。

●立体交差の効用
 京都市の自動車交通にとって、新たな道路建設とは別に、既存の鉄道関係との立体交差は大変重要な役割をもっています。地下鉄道の建設は、ある意味でその最たるものですが、これも、京都市では遅れていました。
 市内における鉄道との平面交差での交通渋滞を回避するものとしては、古くは大正時代における京都駅の高架化の意見書を市会が京都府知事に提出し、また昭和初期には、同じく市会が、京都駅と東海道線、山陰線の高架を、鉄道大臣に要望するというように、早くからその運動は行われており、また、戦後においても1950年には、府、市、商工会議所で「市内国鉄改革に関する委員会」を設置して、高架促進の運動を開始しています。こうして、山陰線の高架については、二条〜京都駅間が1976年に、二条〜花園駅間は1990年から高架化事業で単線で実施しますが、2000年には複線化も実現しています。
 私鉄関係では、阪急電鉄の西院−四条大宮間が短いけれども1931年と関西初の地下鉄となり、戦後も1963年に四条大宮から河原町までが地下を延長しますが、鴨川の東を走る京阪電鉄は、五条通が国道1号線に付け替えられたこともあって、まさに開かずの踏切だったのです。この京阪電鉄は、この鴨川沿いの地下路線が、もともとは京都市がその建設免許を得ていたところでもあり、結局地下化されることになりました。
 京阪電鉄の地下化は三条−東福寺駅間が、1979年着工して、1987年に完成し、さらにその延長として新たに三条−出町柳駅間の鴨東線が2年後の1989年に完成しています。これによって、鴨川東岸の川端通が完成します。
 また、地下鉄烏丸線と竹田駅で相互乗り入れする近鉄に関しても、市の東寺−竹田駅間の連続立体交差化工事は1993年に着手し、5年後の1998年10月に完成しています。
 こうしたことは一例ですが、いずれも1市長の時代で解決するものではなく、時には何代にもわたってその課題は継承されることによって実現しています。ですから、今川−田辺−桝本市政と進んできても、こうした都市基盤の根本的な課題は、変わることなくその課題は継承され、そして順次実現してきているのがわかると思います。今川市政に、市政運営上の大きな問題があり、その正常化のために田辺市政が成立したとはいえ、こうした都市基盤整備の課題は継承されてきたし、まして、田辺市政の後継者である松本市政では、それは当然のことでしょう。そして、あとで述べるように、桝本市政では、それらの総決算ともいうべき都市政策が、自覚的にか無自覚的にかはともかく、実行されるのです。


 第3節 平安建都1200年記念事業

1.記念事業の歩み

●今川市長から田辺市長へ
 平安建都1200年記念事業は、京都市基本構想策定過程でその構想が浮上し、京都市の将来構想を21世紀ではなく、1994年の平安京建設1200年を歴史的節目としてとらえ、その周年事業を京都活性化への起爆剤にしようとしたもので、府や商工会議所との三者の結束によって、今川市長のときにその基本が固まっていました。こうした府、市、経済界三者の結束の結果であっただけに、市長が今川市長から田辺市長に代わってもその内容は継承せざるえをえないものでした。
 田辺朋之市長が誕生したのは1989年8月、すでに記念事業は決定され、その推進組織である平安建都1200年記念協会はその数年前の1985年7月に発足していたのです。ですから、田辺市長は、この世紀の大事業を推進することが、その任務として課せられていて、実際、その通り、今川市政下での記念事業を見直すことなく、建都1200年を推進したのでした。一部、今川市政下ですでに挫折しかかっていた洛南サイエンスタウンなどは別にして。

●田辺市長の記念事業
 健康都市づくりを目指した田辺市長は、新たに、京都市にもマラソンを導入することにし、「健康都市・京都マラソン」を1200年記念事業に加え、この時は、ハーフマラソンでしたが、後フルマラソンとなり、今日につながっているのです。
 こうして、平安建都1200年記念事業は、今川市政によって企画、推進体制が整えられ、その実行は、田辺市政が担うこととなったのでした。
 たが、1980年代後半のバブル経済は京都にも襲ってきたのですが、田辺市長誕生時は既に行き詰まりを見せ、1990年代に入るや今度はバブル崩壊に見舞われることになります。こうして、バブル崩壊後の景気低迷期に平安建都1200年を迎えることになるのですが、この状況は、100年前の遷都1100年記念事業の時を期しくも似通っているのです。1895年の遷都1100年祭も、今回の平安建都1200年記念事業時も、ある意味では恵まれることがなく、不満の残るものであったのかもしれません。盛り上がりは、当初考えられていたほどにはいかなかったようなのでした。
 ここで、平安建都1200年記念事業の若干の歩みを、手持ちのメモから掲載しておくことにしましょう。

>>平安建都1200年記念事業の歩み<<

1978.10.15 世界文化自由都市宣言を発す
1980.6.20 策定中の京都市基本構想の基調テーマのサブフレーズに、建都1200年が位置付けられる。 「伝統を生かし創造をつづける都市・京都―建都1200年をのぞむ市民のまちづくり」
1981.12.4 林田知事、今川市長定例懇談で、「建都1200年記念事業」が取り上げられる。
1982.1.13 庁内に「市平安建都1200年記念事業企画連絡会議」及び,「同幹事会」を設置。
1982.4.26 京都経済同友会、「建都1200年京都活力化特別プロジェクト」(総合ディレクター・塚本元代表幹事)を設置し、翌年1983年3月「京都は甦るか―建都1200年京都活力化への提言」をまとめ発表
1982.10. - 平安建都1200年記念事業に関する市民アイデア募集の応募集計まとまる。
1982.12.3 林田知事、今川市長会談で「平安建都1200年記念事業推進協議会」(仮称)の設置を合意。
1983.2.7 平安建都1200年記念事業推進協議会発足 座長・森下弘 副座長・林屋辰三郎
1983.4.20 平安建都1200年記念事業推進協議会「企画委員会」発足 委員長・林屋辰三郎 副委員長・小谷隆一
1984.10.11 平安建都1200年記念事業推進協議会、「記念事業」を決定し,記念協会設立準備委員会を設置。2/13発足 委員長・林屋辰三郎 副委員長・小谷隆一
1985.3.27 3月定例市議会で、平安建都1200年記念事業基金条例を可決。3/31公布  
1985.5.7 平安建都1200年記念協会設立準備委員会、法人名称を「財団法人平安建都千二百年記念協会」とし、職員6名からなる事務局を商工会議所内に設置することなどを決める。(職員6人は府、市、会議所から各2人)
1985.7.8 「財団法人平安建都1200年記念協会」設立発起人会。会長は桑原武夫京大名誉教授。 平安建都1200年記念事業推進協議会は解散
1986.4.8 平安建都1200年記念協会、賛助会員の募集開始。 年会費:一般は1口3,000円 特別は1口30,000円
1986.11.2-08 平安建都1200年記念協会主催「京都1200ウィーク」開催 11/2「四条ひろば」実施 
1987.2.28 財・平安建都1200年記念協会、平安建都1200年記念事業のシンボル・マーク決める
1988.3.30 平安建都1200年記念協会、同記念行事のテーマソング・京都音頭「みやこ太鼓」を、全国公募479点から選定し、発表
1988.8.8 平安建都1200年記念協会の第2代会長に、ノーベル化学賞受賞者の福井謙一京都大学名誉教授を決定。 
1990.1.12 田辺市長と荒巻知事、それぞれ記者会見で、市が平安建都1200年記念事業として計画している「コンサートホール」を府有地の府立大学農場跡地に、府の「勤労者総合福祉センター」を市有地の市交通局九条営業所用地に建設することで双方合意したと発表 
1990.3.7 平安建都1200年記念協会、記念博覧会について、従来のパビリオン方式を見直し、京都市を中心に府内全域を会場にした特別記念イベントを開催するよう方針を転換。テーマ「人間・都市・地球」。 
1990.7.17 府、市、会議所、平安建都1200年記念として、京都に和風の第2迎賓館の建設を政府に要望することを決める。 建設場所の候補地・京都御苑 
1990.11.19 平安建都1200年記念協会、理事長に、千宗室裏千家家元を選出。また、同記念事業を、国家的事業に格上するための趣意書を決める。 
1991.4.3 京阪神商工会議所、第10回首脳懇談会で、平安建都1200年事業を国家レベルの事業として推進するよう3商工会議所が連携を図りつつ協力支援することに合意
1991.6.7 「京都高速道路整備促進京都市協議会」設立発起人会で、平安建都1200年記念事業として位置付ける設立趣意書を発表
1992.1.22 平安建都1200年記念協会、諮問機関「世界人権問題研究センター設立研究会」(会長・田畑茂二郎京大名誉教授)を発足させる。12/17センターのあり方について答申
1992.2.22 市、平安建都1200年記念事業として整備を進める梅小路公園の計画概要を、この日までにまとめる
1992.3.26 平安建都1200年記念協会、平成6年に行われる記念イベントなど記念事業の全体計画を決定。 6/6祝典(梅小路公園など) 11/8記念式典(国立京都国際会館) イベントの総称「京都創生1200」
1992.4.1 市、企画調整局に「建都1200年事業推進室」を新設
1992.4.1 平安建都1200年記念協会事務所、第一勧業銀行烏丸支店に移転 
1992.6.6 平安建都1200年記念事業をPRするプレイベント開催
1992.7.3 平安建都1200年記念協会、「特定公益増進法人」としてこの日までに認定を受ける 
1993.6.6 京都新聞社、京都新聞社会福祉事業団、建都1200年記念事業として京都市が建設する「梅小路公園」内に「いのちの森」をつくる「植樹基金」の募集を開始 
1993.10.26 市、市内16カ所に「平安建都1200年情報コーナー」を設置 市役所、区役所など 
1993.12.10 平安建都1200年記念協会、公式ガイドブック「京都1200」と「京都1200公式ガイドマップ」を作製発売
1994.1.1 平安建都1200年記念協会、「カウントダウン&オープニングイベント」
1994.3.1 平安建都1200年記念事業の「京都国際映画祭−第7回東京国際映画祭京都大会」推進委員会設立総会開催 
1994.3.20 平安建都1200年記念事業「健康都市京都国際市民マラソン」ハーフマラソン開催 1万人規模
1994.6.4 -12 平安建都1200年記念協会「祝市祝座」(梅小路公園)開催
1994.6.6  平安建都1200年記念協会主催「記念祝典」 
1994.6.8-9 平安建都1200年記念シンポジウム「平安会議(世界賢人会議)」 
1994.9.22-10.23 市、平安建都1200年特別記念展「甦る平安京」展開催 於・美術館
1994.11.6 平安建都1200年記念事業「京都まつり」開催 御池通りで1万人規模のパレード 
1994.11.8 平安建都1200年記念式典、国立京都国際会館で行われる 「平安宣言」 ・1100年以後の京都の近代化事業に貢献した4人の人物の直系縁者を顕彰 北垣国道、田辺朔郎など
1994.12.1 世界人権問題研究センター開所 理事長・林屋辰三郎京都大学名誉教授 所長・田畑茂二郎京都大学名誉教授 場所・京栄烏丸ビル7階 設立認可11/22 
1994.12.27 市、平安建都1200年記念イベントの経済波及効果 765億円の推計を発表
1994.12.31 平安建都1200年を締め括る「京都創生1200年クロージングイベント」
1995.10.23 平安建都1200年記念協会、「ポスト1200年懇話会」を設置初会合 座長 河合隼雄国際日本文化研究センター所長 
1997.3.25 財・平安建都1200年記念協会、新会長に千宗室裏千家家元、新理事長に稲盛和夫京都商工会議所会頭を選ぶ。96.3福井謙一前会長が会長辞任のため

 

>>余話し<<
  顔が東京に向いているのではなく、京都のために尽くす人

 1988年、この頃はうれしいことに、私は、林屋辰三郎先生と、おおむね週1回、二人だけの対話を楽しませていただいていたのです。
 いうまでもなく、林屋先生は、平安建都1200年記念事業の実質的な牽引者で、1200年記念協会の副会長でした。記念協会は、1985年に設置され、その会長には、それまで1200年事業推進協議会の会長であった桑原武夫京都大学名誉教授が引き続き協会の会長に就任、これは至極当然の流れでした。しかし、1988年4月、この桑原会長が亡くなったのです。そこで、後任の会長を選出しなければなりません。1200年記念協会の会長ともなれば、京都の各界をおさめ、また中央にも顔の利く人物でなければなりません。
 早速協会の首脳部による候補者探しです。しかし、なかなか適任者が発表されませんでした。が、実は、自薦他薦の人物は多かったようなのです。また、この人物選定には、副会長である林屋先生の発言権も強いはずですね。で、この頃の林屋先生と私の対話です。
 林屋先生は、記念協会会長の選定には相当頭を費やされていたようですが、選定の基準ははっきりとお持ちのようでした。会長空席の状態が長引いているについて、いろいろの取り沙汰が流れ、その中には、会長がなかなか選定されないのは、実は、林屋先生は、御自分が会長になりたいのではないか、というような風評も流れ、そうした風評も林屋先生の耳にも入ってきていたのです。林屋先生は、そのようなことは全く考えておられないにもかかわらず、です。ま、しかし、考えてみれば、この種の”ゲスの勘ぐり”はよくあることですね。林屋先生のこの時の言葉はと、その後の会長選定の結果は、いつまでも私の頭の中に残っています。
 「協会の会長になり得る人は、心から京都のために尽くそうとしていただける人でないとね!」「東京に顔を向けている人ではね!」、と自薦他薦の方々になかなか同意されなかったのようなのです。ノーベル化学賞の福井謙一京都大学名誉教授が会長就任となったとき、林屋先生は、「どうですか!」と満足な表情を示しておられました。さすが、これ以上の適任者はないですね。それにしても、自己の名誉と、顔が京都よりも中央に向いている方々が多いのも困りものですね。


2.記念事業の概要
 
●1200年記念事業の概要  京都経済界の期待 しかし、バブルがはじけて景気低迷期に
 前項でも触れましたように、平安建都1200年記念事業が京都を挙げての取り組みになったことは、今川市長にとっては願ってもないことでした。多角的な都市整備事業の計画は、もはや高山井上市政時の単なる復活ではなくなったのです。
 1984年10月に、平安建都1200年記念事業推進協議会が、その基本理念と共に、記念事業構想を決定します。事業は、概ね、京都市と府と商工会議所が1994年前後10年間に実施するべき事業を集めたものです。最近、烏丸四条の前京都市産業会館の跡地に完成した、京都経済界の拠点としての京都経済センターは、京都商工会議所の1200年記念事業だったのです。1994年の建都1200年から実に20有余年もかかっての完成だったために、ほとんどの人は、これが建都1200年記念事業として構想されたものであったとはとても思っていなかったのではないでしょうか。
 では、府、市、会議所などによる平安建都1200年記念事業推進協議会が策定した、京都を挙げての記念事業とはどのようなものだったのでしょうか。
 「現代の京都は、ややもすれば、歴史の重みのなかに埋没し、過去の栄光が失われようとしている」との認識の上に立って、その憂うべき状況を克服することが、21世紀を前にした現代の「われわれの責務である。」との自覚のもとに、この平安建都1200年記念事業を21世紀京都への飛躍台となし、「未来の新しい世界に向かって飛翔」しようとする意思を示した記念事業の基本理念のもとに、5つの基本テーマをたてて諸事業をすすめるとともに、主な事業として、・記念事業、・関連事業、・特別記念事業を定め、その事業推進機関として、財団法人・平安建都1200年記念協会を設立することを決定します。そして、その記念協会は、平安建都1200年を9年後に控えた1985年7月に設立されたのです。
 主な事業としては、先にも述べましたように、府、市、会議所が建都1200年の年である1994年の前後10年間に検討されるべき事業を例示されたのでした。その「記念事業」の中には、京都市の「21世紀洛南新都市の建設」といったもの、「関連事業」の中には、京都市が、世界文化自由都市宣言に基づき推進していた国立の「日本文化研究所の創設」誘致や協会自身が記念事業として実施する「世界人権問題研究センターの設立」、そして、「特別記念事業」としては、国際条約に基づく「博覧会の開催」を掲げていたのですが、これが、林田知事と今川市長による府、市の綱引き状態を生んだことから、結局実現しないことになってしまいました。この当時京都を挙げて取り組んできた建都1200年記念事業ではありましたが、その後の関心も薄れ、建都1200年記念協会の公式記録はまとめられたものの、京都市関係の取り組みの経過はまとめられたものがないため、以下で少しその事業の概要を紹介しておきたいと思います。

>>平安建都一二〇〇年記念事業構想<<
 概略は、次の通りです。
<五つの基本テーマ>
1 新しいまちづくり―新世紀に向けてのまち―
(1) 21世紀タウンの建設
(2) 市街地の再生と整備
(3) 文化・学術・研究都市の建設推進
2 交通・情報通信網の整備―機能的で安全なまち―
(1) 広域幹線道路網等の整備
(2) 高速鉄道・市街地交通網等の整備
(3) 情報通信機能の充実
3 産業の振興―情報化時代の活力を生みだすまち
(1) 先端技術産業の振興
(2) 地場産業の振興
(3) 国際化への指向
4 生活環境と地域社会の整備―自然と社会環境に恵まれた快適なまち―
(1) 美しい都市景観の創造
(2) 都市基幹施設等の充実
(3) 明るい地域社会の確立
5 文化の継承・発展―文化の創造をになうまち―
(1) 文化学術機能の高度化
(2) 国際交流の推進

<主な事業>
〇記念事業
 京都市関係
 ・21世紀洛南新都市の建設
 ・岡崎公園の文化的再整備
 ・市民劇場の建設
 ・国際交流センターの建設
 京都府関係
 ・京都文化博物館の建設
 京都商工会議所関係
 ・京都経済センターの建設

<関連事業>
 京都市関係
 ・日本文化研究所の創設
 京都府市関係
 ・伝統行事・伝統芸能・文化財の保存・育成の強化
 京都府関係
 ・文化・学術・研究都市の建設推進(京阪奈丘陵)
 ・総合見本市会館の建設(パルスプラザ京都)
 JR、京都市関係
 ・京都駅の改築と京都駅・二条駅周辺の再開発
 記念協会の事業
 ・世界人権問題研究センターの設立

<特別記念事業>
 ・記念式典の開催
 ・博覧会の開催 (京都市を中心に府内一円を会場にした特別記念イベント)
 ・フェスティバル・カーニバル・シンポジウム等の開催

●記念式典など1994年の様相
 1993年の大晦日から94年の新年にかけて、平安建都1200年記念協会は、「カウントダウン&オープニングイベント」を実施し、いよいよ平安建都1200年の幕開けとなります。しかし、この1月6日には、京都市は「平成の京づくり」推進市政改革本部を設置しますが、これは、景気低迷のなかでの財政難で、その前年度にはマイナス10%シーリングを実施するなど、行財政改革に迫られていることに対する京都市の覚悟の幕開けでもあたのです。ですから、京都市をはじめ京都府や経済界も、互いに財源の捻出に苦しみながらも、であればこそなおさら、新たな飛躍を目指して、頑張ろうとしていたのでした。
 とはいいながら、この年は国政自体も大きく揺らいだ年なのです。4月には、長年の自民党政権を倒した細川護熙首相が退陣し、代わって羽田孜内閣が誕生するも、これも在任期間64日で退陣、55年体制では与野党で戦ってきた自民・社会連合にさきがけを加えた村山富市政権が誕生し、ようやく政局は安定することになるのですが、この政権がもとで、社会党はなくなり、55年体制はここに崩壊するのです。こうした政治の激動期ではあったのですが、中央の政局の落ち着きによって、京都と中央との関係は、良好状態を継続していたようです。
 この年の主な記念事業としては、まず、これも記念事業である、総事業費約520億円で建設途上の11.6ヘクタールの梅小路公園で、記念協会主催の「記念祝典」が6月6日に催され、11月8日にはメーンの記念式典が国立京都国際会館で開催されます。ちなみに、11月8日は、延暦13年すなわち1200年前の西暦794年に山背の国に新しい都を建設し、その国名を「山背」から「山城」に改めて、新京を「平安京」と名付けた日であったのです。この「平安京」という都の名前は、桓武天皇が命名する前に、当時の民が先に「平安京」と称して、新京を祝っていたという、まことに市民都市にふさわしい名前と命名だったといえます。このことは、『日本紀略』の「前編十三 桓武天皇」のところに記されているのです。その文章は、戦前刊行の『京都市史』「編年綱目第一巻」に掲載されています。
 さて、こうして平安建都1200年は諸事業が展開されていきます。主なものを列挙していきますと、
 5月には、18日に地上16階建ての京都ホテルが完成(開業7/10)、31日には、総理府の京都和風迎賓館建設の基本構想に関する「調査研究委員会」が最終報告書をまとめ、立地場所に京都御苑内の饗宴場跡地を示します。
 6月には、「記念祝典」の前後に、4〜12日に記念協会主催の「祝市祝座」が梅小路公園をいっぱいに使って、また8〜9日には。世界の賢人が集まった記念シンポジウム「平安会議(世界賢人会議)」が京都国際会館で開催。
 7月には、伏見観光協会が軸となった実行委員会による「伏見港開港400年祭」が27〜31日に。
 8月には、関西国際空港の開港式典が29日に行われ、9/4に開港。
 9月にはいると、23日に、関西学術研究都市の「街びらき」が、24日から翌月2日にかけて、「京都国際映画祭」が、第7回東京国際映画祭の京都大会として、今回限りの特別なものとして、26ヵ国から164作品の参加を得て行われます。22日から11月20日にかけて、第11回全国都市緑化きょうとフェア({緑イキイキkyoto'94)が、「『緑の文化』その伝統と創生」をテーマに、京都市、府と財・都市緑化基金が主催して、梅小路公園と「街びらき」された精華町の学研都市記念公園で開催されます。
 そして10月には、25日、京都和風迎賓館を京都御苑内に建設することが閣議で了解されました。これは、建都1200年の官民挙げての大きな目玉事業でした。
 いよいよ11月です。8日には、京都国際会館で記念式典が行われ、そこで、「平安宣言」が発せられるとともに、建都1100年以降、京都近代化事業に貢献した北垣国通や田辺朔郎などの直系縁者の顕彰などが行われました。また、この日には、記念郵便切手も発行されています。そしてまた、この月には、1989年に3%で導入された消費税が、新たに5%に引き上げるための税制改革関連法が国会で成立します。25日です。
 12月にはいると、1日に、府市トップ会談で、建都1200年記念協会の存続と記念イベントで継続可能なものの継続検討が合意されます。ここから建都1300年に向けての動きが具体化していきます。また、この日には記念協会の唯一の1200年記念の関連事業であり、林屋辰三郎先生肝入りの「世界人権問題研究センター」が開所します。そして、8日には平安建都1200年記念の記念切手が発行され、15日には、タイのブーケットで開催されていたユネスコの第18回世界遺産委員会で、17社寺・城からなる「古都京都の文化財」(京都市、宇治市、大津市)が「世界文化遺産」に登録されることが決まり、建都1200年に大きな花を添えることになりました。27日には、京都市が建都1200年記念イベントの経済波及効果を765億円との推計を発表しました。そして12月31日、平安建都1200年を締め括る「京都創生1200年クロージングイベント」が行われ、1200年の年は終わりを遂げます。事態は、「1300年に向かって」ということになります。
 *「世界文化遺産」に登録された「古都京都の文化財」の17社寺・城は以下の通りです。上賀茂神社、下鴨神社、金閣寺、銀閣寺、清水寺、東寺、醍醐寺、仁和寺、高山寺,龍安寺、天龍寺、西芳寺、西本願寺、二条城 宇治市・平等院、宇治上神社 大津市・延暦寺

3.京都市の平安建都1200年記念事業

●平安京と京都市
 平安建都1200年でいうところの「平安」は「平安京」すなわち1200年前に建設された京=都で、首都としての都市であったことをいいます。「都」は天皇のおわすところですが、平安京という都は、早くから、同時に民の居住する、民にとっての都市でもあったのです。歴史上典型的には、中世における「町衆」による「自治都市」ともいえる状況がそれを表していて、その延長上に、市民自治都市としての現代の京都市とその都市民としての京都市民があります。
 この点について、林屋辰三郎責任編集の『京都の歴史』全10巻は、古代から現代までの京都の歴史を、京都市民形成史として、現代の京都市と京都市民がいかに誕生して成長発展してきたかの視点で貫かれています。そこには、平安建都1200年を意義あらしめる事柄が、各時代、全巻にわたって明らかにされています。
 平安京の価値とそれを築いてきた平安京都市民の役割です。そして、各時代にわたって都市民は都市自治の精神を貫き、特に、明治維新後の激変の近代を乗り切ってきたのです。今、新たなる複雑な時代による危機に直面しているときにあって、その地盤沈下の危機意識を共有することによって、新たなる1300年に立ち向かおうとしたのです。、平安建都1200年記念事業は、都市・京都の京都を挙げての事業であると同時に、また国政上の事業でもあるのです。

●京都市の記念事業
 京都市の建都1200年に対する取り組みは、すでに述べたように、京都市基本構想の策定に始まります。以来、総務局内に設置された企画調整室がその事務局となってきたのでsが、いよいよ1200年がまじかになった1992年の4月に企画調整局内に「建都1200年事業推進室」が設置され、本格的かつ多方面にわたって作業が進められることになりました。この「1200年事業推進室」に対しては、京都市の1200年記念事業の目玉事業である美術館全館に及んだ特別展『甦る平安京』を中心として、歴史資料館も極めて親密な推進関係をもっていたのでした。

 そこで、京都市の記念事業をみてみると、「記念事業」としては、「21世紀洛南新都市の建設」と「市民劇場」や「国際交流センター」の建設があり、「関連事業」としては、「日本文化研究所の創設」が、また「特別記念事業」として「博覧会の開催」が挙がっています。
 「21世紀洛南新都市の建設」は、今川市長の肝いりのビッグプロジェクトだったのですが、その努力の甲斐もなく、北部開発と共に挫折することになります。「サイエンスタウン」と銘打たれたこの事業は、今川市長にとっては、まさしく京都市の1200年事業にふさわしいものではあったのですが、当初からことごとくうまくいかなかった事業で、その挫折と、記念博覧会自体もパビリオン方式をとらず、京都市を中心とした府内全域を会場にした、多様な記念イベントの開催方式になったのは、先に述べた通りです。また、北部周辺整備事業としての大見総合公園構想も、似たような経過をたどって挫折しました。
 「市民劇場の建設」は、すでに触れたように、世界文化自由都市宣言に基づき、1980年11月に出された第1次提案の中で、「日本文化研究所の創設」と共に示された事業で、これは、コンサートホールに姿を変えて、1995年10月に開館します。そしてこのコンサートホールは、田辺市長と荒巻知事との協議によって、市のコンサートホールは、府立大学の農場跡地に、府の京都勤労者総合福祉センターを含む「府民総合交流プラザ」は、市有地の交通局九条営業所用地にそれぞれ建設することで、いわゆる」府市協調でそれぞれの適地に実現したのでした。
 「日本文化研究所の創設」は、こうした京都を挙げての建都1200年記念の関連事業としての位置づけも得て、直後の中曽根首相と桑原武夫、今西錦司らとの懇談会によって、一気に国立の研究所として具体化していくのは既にみたところです。
 国際交流センターは、これも世界文化自由都市宣言に基づき提案されたもので、1989年9月に国際交流会館として、岡崎公園に隣接する粟田口の市長公舎と東山会館(市健康保険組合の施設)の跡地に開設されています。
 また、市民挙げての行事としては、「京都まつり」の創設がありました。各区ごとに、区の特徴と区民の創意を凝らした行列を繰りひろげたもので、この年11月6日に「御池通り」に1万人規模のパレードが展開されました。これには、各区の区民相談室が活躍したものです。「京都まつりは」、京都の祭りはずべからく伝統文化であるのに対して、いわば素人の気楽な参加しやすい、新しい祭りの創出にあるということで、当時の担当者は張り切っていましたね。しかし、各区の特徴を出そうとすると、結局その行き着く先は、歴史や伝統に帰らざるを得ないところがあり、このあたりが京都の贅沢なジレンマなのかもしれませんね。この「京都まつり」は、毎年開催されたのですが、3年後頃から「町衆フェスティバル」と一体化して2日間にするなど幅広い展開を試み、2004年頃には、さらに幅広く「京都文化祭典 キヨウト・アート・フェスティバル」に発展さそうとしたのですが、結局、2004年11月の第11回を最後に「打ち切り」となりました。主たる原因は、京都市の財源難、ということなのですが。
 この年には、このほかこの年に合わせた諸行事や事業が行われています。
3月には23日に、岡崎公園の地下駐車場が完成します。
  27日には、後財団法人化して「大学コンソーシアム京都」と発展した「京都・大学センター」が、京都所在の大学によって発足します。
4月には、25〜28日にかけて、世界歴史都市会議の第4回を再び京都で開催、会議参加都市にによる世界都市連盟が結成され、京都市がその事務局都市となり、世界歴史都市の永続化が図られます。
また、7月には、12日に、京都市の呼び掛けによる「健康文化都市協議会」の設立会議が京都市で開催され、田邊京都市長が会長に就任。
11月には11〜13日に、京都市によるウオークフェスティバル「平安京を巡る」が開催されています。これには、文遊回廊(ヒストリカルトレイル)などがありましたが、もう記憶が定かではありません。
 このように、さらにはもっと多くの行事や事業が繰り広げられ、不況下での記念事業ではありましたが、それなりににぎやかに活況を呈していたと思います。

4.「甦る平安京」展とその後の展開

●1200年記念特別展の開催
 平安建都1200年記念事業は、私も火付けの頃から深くかかわり、その後、市政調査会を店じまいして、歴史資料館の運営を司る管理職に就任したことから、当時重要な懸案となっていた『京都の歴史』全26巻の全巻完結をいよいよ目前にしてそのための業務に全力を上げつつ、建都1200年に関しても深くかかわることになっていたのです。そのかかわりの重要ないくつかについて、ここで多少触れさせていただきたいと思います。そのもっとも重要なものは、京都市にとっての平安建都12000年記念事業ののなかでもとりわけ重要な事業となった、特別記念展としての「甦る平安京」展です。この頃の建都1200年記念事業推進に係る諸々の動きは、今でも生々しくよみがえってきます。なんといっても、都市・京都にとって、100年に一度の最大の都市再生への一大イベントなのですから。そのため、この動きの中から、新たな人材の可能性の誕生とともに、その事業の大きさと重要性のゆえに、通常の業務では経験し得ない試練に押しつぶされる不幸な人材もあったのです。それゆえの衝突もありました。1200年という気の遠くなるような時間、そしてその100年ごとの周年事業を担うということには、やりがいと同時にそれだけの重圧があったのですね。
 この『甦る平安京』展は、1994年9月22日から10月23日まで、市立美術館全館に岡崎公園一帯も加えるなど極めて大規模なものでした。またその展示手法も、単なる静態的美術品の展示にとどまらず、歴史の復元も行う「歴史展示」、さらに行事・芸能による「動態展示」も加えるなど、展示そのものも、極めて先進的なものでした。そしてまた、そのことが準備過程で諸々の問題を引き起こすことになったりして、なかなかに大変なことだったのを思い起こします。

●記念特別展の経緯と概要
 こうした平安時代400年を総合的に展示し、1200年後の現在において、京都市の誕生とその展開を学ぼうとする企画はどこから誕生したのでしょうか。
 実は、これにも歴史資料館の長い経過があるのです。かって、戦前、皇紀2600年記念事業として、京都市史の編さん事業が試みられ、その出発点において展覧会が行われました。この編さん事業は、敗戦による民主化の時代を迎える中で、数巻で途絶します。ただ、これには、西田直二郎、中村直勝による京都大学の国史学が事実上総がかりでこの作業をになっていて、そのワーキングメンバーの中に、若き日の奈良本辰也や林屋辰三郎がいたのです。戦後1960年代半ばに、高山市政下で、八杉正文市長公室長主導で、市史編さん事業が改めて着手された時には、この奈良本辰也と林屋辰三郎がその事業を担うことになったのですが、そこには、こうした戦前からの京都大学の国史学の伝統があったのです。ただ、両氏は、戦後の民主化の流れのなかで、末川博総長の下での立命館大学日本史学の教授陣になっていたのですが。これは時代の波でしょう。これは、記念特別展の伏線です。
 1965年に着手された京都市史編さん事業は、1976年に本編全10巻を完成、史料編全16巻を建都1200年の1994年に完結するという歩みとなり、歴史資料館では、1990年から市政史編さん完結を記念する特別展を1994年に向けて全5回にわたる特別展「平安建都1200年に向けて」を開催することになり、その第5回、すなわち1994年には、1歴史資料館内ではなく、京都市を挙げて全市的に開催することが望ましいとの企画をたて、1990年に歴史資料館の評議員会でその企画書の承認を得、翌年には「建都1200年記念展覧会構想『甦る平安京』(仮題)」を作成、翌年の京都市予算編成では、企画調整局の1200年記念事業のなかに組み込まれます。そして、1992年3月、市の予算は市議会で可決されて、建都1200年記念事業の予算も確定します。この年4月1日には企画調整局内に建都1200年記念事業室も開設されて、建都1200ねん事業も本格稼働します。
 こうして、早速、4月6日には、記念特別展の構想と開催企画委員会の設置が決定され、5月には、まず村井康彦・国際日本文化研究センター教授を委員長とする模型製作員会がスタートし、次いで、第1回の開催企画委員会が、委員長に林屋辰三郎・京都大学名誉教授、委員長代行に薦田守弘・助役を充てて開催されたのです。さらに、7月には、林屋辰三郎企画委員長を委員長とする展示委員会が設置されて、京都市の平安建都1200年記念特別展『甦る平安京』の準備活動は本格的に進められることになったのです。そして、翌1993年には、4月に記念展覧会「甦る平安京」実行委員会が、これも企画委員会の林屋辰三郎委員長と薦田守弘委員長代行が、それぞれ委員長、委員長代行に就任してスタートし、1年後に迫った1200年に向かって、まさしく全力疾走で進められました。
 こうした企画推進体制は、京都市の市立芸術大学、市立美術館、文化財保護課、歴史資料館、埋蔵文化財調査センター、財・埋蔵文化愛研究所、考古資料館などの知識を結集し、外部の関係研究者の協力も得て、総力戦を展開していた思いでした。
 そこで、今一度歴史資料館の意図するところにもどって、『甦る平安京』展は、どういうものを目指していたのかについて明らかにしておきましょう。

●「甦る平安京」が目指したもの
 1990年11月にまとめられた、歴史資料館の企画書を基に解説しておきましょう。
・建設1200年の記念すべき年にふさわしい、平安時代の京都をテーマとする。
・具体的には、平安時代400年を総合的かつ各分野にわたって明らかにする。
・そのため、展示は、従来の固定的な美術工芸品の鑑賞に終わることなく、平安京400年を現代に甦らせることにつとめる「歴史展示」とする。
・「歴史展示」とは、平安時代400年を総合的に、できる限り現代に「甦らす」こと。
・それには、現存する美術工芸品にとどまらず、必要なものは復元模型を製作する。
・さらに、「もの」の展示だけではなく、事柄の展示、すなわち芸能などの「動態展示」も取り入れることにしました。平安神宮の前庭に夜間に繰り広げられた、その後若くして亡くなられた能楽師・野村耕介氏による「大田楽」は、まさしく圧巻そのものでした。
・そして圧巻は、千分の1の「京域模型」の制作でした。この京域模型は、平安京400年の主要な歴史的特徴を象徴的に具体化したものです。
 この東西11m、南北10mの巨大な平安京復元模型を展覧会の導入部に据え、そこから、テーマに従った各部の展示室に向かう設計となっていました。
 こうした、『甦る平安京』展の詳細は、1994年9月に、編集・発行、京都市で「平安建都1200年記念 甦る平安京」が発行されています。これは、歴史資料館の宇野日出夫・歴史研究員の手によるものです。 
 そして、この『甦る平安京』は、すでに見てきたように、30年に及ぶ「京都の歴史」全26巻編さんの集大成でもあったのです。

●展示の核に復元模型
 こうして、歴史展示を大々的に試みた記念展覧会は、復元模型を中心に据えました。まず、先に紹介しました「京域模型」、次に平安京への玄関となる「羅城門」にはじまり、「鳥羽離宮復元模型」、「法勝寺復元模型」、「舞楽殿復元模型」、そして「舞楽殿鴟尾」などです。それぞれに、模型製作委員会で検証を重ねながら制作されたのですが、とりわけ京域模型と羅城門の制作は、大変な作業となりました。
 少し解説しておきますと、まず法勝寺(ほっしょうじ)。院政期に今の岡崎公園一帯に6つの寺院があり、それを六勝寺といい、その中心をなす寺院が法性寺で、白河天皇が造営。そこには高さ約81mの八角九重塔があり、それも含めて復元されています。100分の1の模型。
 舞楽殿(ぶらくでん)。東西46m、南北23mの建物で、大嘗祭など国家的な饗宴が行われた。20分の1の復元模型。
 さて、ここで、京域模型と羅城門の制作過程について少しふれておきたいと思います。
 まず最初に、模型製作委員会が、1200年事業推進室が設置されてすぐの1992年5月に、村井康彦国際日本文化研究センター教授を委員長に、歴史、考古、古建築、歴史地理などを専門とする京都大学、同志社大学、京都産業大学、古代学協会などの名誉教授、教授、助教授ら総勢12名の研究者でもってスタートし、 京域模型の制作にあたっては、・周囲の山など平安京の立地条件が理解できるイメージを重視する ・時代は、400年程度の幅の中で考える、 ・模型の大きさは1000分の1とする ・平安宮は、平城京の場合とほぼ同じであり、制作の必要度は低く、今回は作らない という基本的な考え方を固めます。そして、大きさはほぼ10m四方として、北は上賀茂から南は九条、西は嵐山から東は清水寺とし、鳥羽・巨椋池周辺は別に作成するとしました。
 次に、それぞれ数名の研究者による部会ないし作業班を模型製作委員会に設け、これを進めることになりました。すなわち、1、京域、文献班 U、舞楽殿・法性寺 V、京外 W、羅城門 X、「市」(いち、これは最終的には実現しなかった)などです。製作期間は、ほぼ2年程度であり、この復元模型が、展覧会の歴史展示の核となる重要なものだっただけに、相当ハードなスケジュールとワーキングでした。

●羅城門復元と京都府建築工業協同組合専務理事の高瀬嘉一郎さん
 この羅城門は、京都府工業協同組合の専務兼理事長の部屋に、ほぼ壁一面といえるほどの大きな羅城門の絵が、いかにも遠い歴史の現実にいざなうような詞とともに、懸けられていました。専務理事高瀬嘉一さん。同氏は専務になる前は、主に都市計画畑を歩んだ京都市職員で、洛西ニュータウンを手掛けた人で、この時期には指定都市事務局長として、有意の活躍をされていて、大都市財源としての事務所事業所税創設には、それなりの功績のあった方でした。それが、家庭の事情で京都へ帰らざるを得なくなり、京都市を退職して、建築工業協同組合の専務理事を務められるようになったとは、ご本人の言です。同氏は歴史に対する造詣も深く、指定都市の『大都市制度史』(史料編)全3巻を編纂されています。同氏と私は親しかったものでしたから、たびたび建築工業興津組合の同氏を訪ねていて、、壁面の大きな羅城門の絵に気付き、これほどの絵を掲載するとは何か考えでもあるのですかという問いかけに、同氏は、平安京建設当時の羅城門に思いを馳せ、将来は羅城門を京都市のしかるべきところで復元したい、との思いを語られたのです。そして、当面は縮小した復元模型でもつくりたいものと語られたのでし。そこで、それなら思い切ってやってみようではないかということになり、私は、京都市サイドに働き掛け、高瀬さんは協同組合内を動かす、ということになったのです。
 1992年5月21日、高瀬専務理事は、建築技術の伝承のために、京都建築専門学校と共同で、羅城門復元制作にあたりたいとの協同組合の意向が示され、その翌日の模型製作委員会では、個別模型の一つとして、羅城門制作の作業班編成も、古建築の高橋康夫京都大学助教授を中心として編成されることとなります。そして、その後の歴史資料館や1200年事業推進室と協同組合との協議の進行の中で、単なる復元模型ではなく、技術伝承としてこれを行う場合、当初考えられていた25分の1の縮尺ではなく、10分の1の縮尺でなければ、現在使用している大工の道具類は使えず、技術伝承ができないことが明らかとなり、となると、その設計は、実物大の羅城門を制作する場合の設計と事実上同じ設計図が必要となることが判明。もはや模型製作の領域を超えていることが分かったのです。これはまた大変なことで、25分の1の設計と実物大の設計とでは、専門的には根本的に違うようなのです。そこで、これまでに100分の1復元模型を設計していた大林組の協力を得て、また、羅城門を映像でシュミレーションしていたNHKの設計図(文化財建築の権威である福山京都大学名誉教授監修)を借用したうえで、さらに大林組に20分の1の設計図の作成を願い、そのうえで、建築工業協同組合が京都建築専門学校に10分の1実施設計図の作成を依頼し、ようやくにして羅城門復元の制作が、協同組合の手によって、着手される。それは、すでに、『甦る平安京』展の開催1年前となっていたのです。また、この製作には、(宮)大工関係ばかりではなく、材木や指物師など建築かかる関連業界の協力と参加を得て、難しい初めての試みであるにもかかわらず、突貫作業で進められ、展覧会の直前、会場の美術館に無事運び込まれました。ただしかしです、そこには、あれほど熱意をもって羅城門復元に精力を傾注しておられた高瀬さんはおられなかったのです。その完成を見ることなく、その直前に個人となられていたのです。何とも言えない気持ちとある種の感慨にふけらざるをえませんでした。こうして、羅城門の復元への大きなステップは築かれ、一つのエピソードが生まれることになったのです。ここで、京都府建築工業京都同組合の福井理事長について一言、同氏の協同組合内における強いリーダーシップがなければ、この事業はならなかったでしょう。高瀬専務理事は、羅城門復元と協同組合における技術伝承に夢をもち、ついに、模型というよりは、将来の実物大復元への一里塚としての10分の1の縮尺復元の難作業を終えたところで他界され、私もこの段階で、諸々の調整作業から解放され、以後は、一瀉千里に作業が続けられるのですが、その中には、最低でも5,6千万円は必要となる事業費をどう調達するかの問題もあり、これには、1200年時魚推進室も、組織のインサイド、アウトサイドを問わす、また、建設省出身の内田局長のキャリアによる協力もあったようですが、何よりも、協同組合が、多分2千万円に上る組合債を発行されたのは素晴らしいことだったとおみます。これらその後のことは、私は離れていきましたので、詳しくはわかりません。
 こうして、羅城門の復元は、建都1200年における特別展『甦る平安京』としては、京域模型と並ぶ目玉模型の一つであったのですが、繰り返しますが、それは、模型ではなく縮尺復元建築物で、その10分の1の縮尺の意味は、それを基に、現物大の復元が可能となったのです。「10分の1」の意味は、そこにあるのです。20分の1以下では、あくまで模型の域を出ず、そこからは現物大の羅城門の復元は出来ないのです。そこに、高瀬専務理事を含む関係者の苦労があったのです。これは、模型製作会社ではできなかったことです。
 縮尺10分の1の復元羅城門は、2016年11月21日、京都駅北口の東詰めに設置されています。「明日の京都文化遺産プラットホーム」によって、いずれに日にか実物大の建造をめざして設置されたのです。
 また、京都アスニーには、「京都市平安京創生館」が開設され、そこには、「京域模型」をはじめ 、舞楽殿とそのしび、法性寺、鳥羽離宮などの復元模型が設置されています。 

●市立歴史博物館構想
 建都1200年記念特別展覧会『甦る平安京』は、京都の歴史の30年に及ぶ長い編さんのあゆみとその成果のうえに企画、実行されたものであることは先に述べた通りです。したがって、この『甦る平安京』展は、実は、本格的な京都市歴史博物館づくりへの大きく、また重要なステップだったのです。
 巨大な平安京域模型、実物の10分の1の羅城門の復元をはじめとする復元模型は、特別展開催後のそうした展望をもって制作されたもので、記念展覧会は、展覧会としては1回限りのものではあっても、展覧会そのものが歴史博物館づくりへの大きなステップとしての役割を担っていたのです。
 1993年2月の市会1200年特別委員会で、小林議員(公明党)の「多額の経費をかけて模型を作るが、その後はどうなるのか」という趣旨の質問に対して、内田企画調整局長が「その後の必要性は考えられるので、今後検討していきたい。その折には改めてご協力をお願いしたい」と答弁しているのですが、それが歴史博物館建設構想で、この建都1200年を機に、歴史博物館建設への機運はたしかに盛り上がりつつありました。
 そもそも歴史博物館構想は、市史編さんとともに当初から、編さん員会から幾たびかその必要性が指摘され、そして、その荷物を林屋先生が一貫して担ってこられたのです。そして、京都の歴史全26巻が遂に完結し、しかもその完結の日が建都1200年の年であったことから、ここに、京都の歴史の編さんがベースとなって、建都1200年とその記念事業としての特別展とともに、京都市歴史博物館構想具体化が一体的に進められることになったのです。『甦る平安京』展は、一過性の展覧会ではなく、来るべき歴史博物館のメーンとなる平安時代をくまなく展示する試みの場でもあったのです。ですから、京都の歴史に関わる多くの研究者がこの作業に全面的に協力していただけたものだと心得ていたのです。
 市立歴史博物館構想は、市立の歴史資料館、考古資料館、そして未設置の民俗資料館の3館鼎立の上に構想されるものと考えられていたのです。設置場所は、それにふさわしい都心部が求められていました。JR二条駅の元貨物ヤードの五角地形が求められてもいたのでした。
 ところが、機運が盛り上がってきたとはいえ、結局は市立歴史博物館は陽の目を見ることなく今日に及びました。なぜなんでしょうか。その点について、私の経験をもとにここで、その経緯をたどることにしましょう。そこには、梅原日文研名誉所長や、稲盛京商会長たちが登場します。問題を複雑化したのは、主にこの両者であったといえるでしょう。すなわち、歴史博物館構想には、結果として二つの流れが生じ、一つは林屋辰三郎先生の願いともなっていた長年の京都市史編さんのゴールとしての京都市立の京都市歴史博物館構想であり、もう一つは、京都市を超えた京都歴史都市博物館構想で、これは世界文化自由都市宣言の第2次提言の主眼ともなっているものです。前者は、村井康彦先生が京都市歴史資料館長に就任して、純行政ベースで進めていただいていたもので、後者は、梅原日文研所長とこれに加わった稲盛和夫京セラ会長が主導したものでした。

5.「市立歴史博物館構想」の経過をたどると

(1)市史編さんと歴史博物館の必要性
 歴史博物館建設構想に関しては、これまでに幾たびか触れてきました。そこで、ここでは、ある程度の一部始終について明らかにしておきたいと思いました。それは、一つには、京都市立の歴史博物館がそれだけ京都市にとって必要不可欠の重要な事業であること、今一つは、京都市の重要な政策の決定過程がよくわかること、行政の積み上げ、識者という方々の役割、そして市長の決断といったものが極めて鮮明に表れているからです。歴史博物館建設構想は、今は、国立のものを国に要求する形でいわば棚上げ状態で、京都市政の重要課題からは遠く忘れ去られた形となっています。これが、京都市の本当の実力なのかもしれませんが、私自身が深くかかわってきた事業であるだけに残念でなりません。全体像のすべては無理にしても、将来的に花開くような、小さくとも将来への核になり得るような事業展開はできるはずだと今も思っているのです。というようなことで、歴史博物館建設構想の経過を、必要な限りにおいて、順を追って記してみたいと思います。
 まずは、京都市史、すなわち京都の歴史の編さんとの関りです。
 京都市史の編さんは、戦前からの経緯があるものの、現在見るのは、1965年に着手され、1976年に完成した『京都の歴史』全10巻と、引き続いて編さんされ、平安建都1200年の年に完成を見た『資料 京都の歴史』全16巻、あわせて全26巻が、30年の歳月をかけて編さん、刊行が全うされたのです。この歴史の編さん過程で、編さん委員会から、折々に歴史博物館建設の必要性が指摘されてきていたのですが、収集史料が膨大になってきたことから、当面、収集史料の収蔵を目的とした歴史資料館の建設を急ぐ必要に迫られ、折よく、篤志家の山口玄洞氏が、苦労されている林屋辰三郎先生の役に立つのであればということで、かつて仏教の超党派的な普及伝道機関であって、閉ざされていた、仏教会の超党派的な普及教育機関であった山口仏教会館跡地の寄贈を京都市が受け、そこに、歴史資料館が建設されることになるのです。1982年10月のことです。そして、歴史博物館の建設は将来課題となったのです。ちなみに、京都の歴史は、旧市街地を軒並み資料調査に入り、その街の中に残された資料から、京都市民の歴史を明らかにしたところに最大の特徴があります。京都の歴史に関わる既存の資料からでも編さんするという安易な方法を取らず、京都市民の所蔵する資料を発掘することから編さんを始めるという、最も基本的にして苦労な道を歩んだのです。まさしく京都市民の歴史です。その結果、収集された資料は膨大で、次には更なる史料編の編さんの必要性が生まれ、行政区の歴史とその区の資料を1巻ずつに著した地域編11巻&全域編5巻の全16巻を新たに編さんすることになります。当初の『京都の歴史』全10巻(叙述編)が完成したのが1976年10月で、これに引き続いて『史料 京都の歴史』全16巻編さんに着手したのですが、この判断は舩橋求己市長によるものでした。またこのときには、歴史資料館と同時に歴史博物館建設問題もあり、これに対して舩橋市長は、横大路なら土地はいくらでも提供する、との考えを示していた、というようなこともありました。が、この時の林屋辰三郎先生の考え方は、当面は、収集史料の収蔵と編さん事務所を確保するために、歴史資料館を建設し、歴史博物館は、将来的な課題にしたいとの考えを示され、それに基づく編さん事務所としての歴史資料館が誕生したのです。ただ、その名称が「歴史資料館」という、総合的な名称となったために、何とも中途半端な施設としての位置づけとなってしまいました。けれどもその実態は、市史編さん所の美術館2階からの現在地への新築移転だったのです。なぜ、歴史資料館という名称になってしまったのでしょうね。
 ここから、京都市立の歴史博物館構想の立体的な考え方が構築されてくるのです。それはいわゆる三館鼎立の上での歴史博物館構想なのです。
 では、三館鼎立とは。三館とは、歴史、考古、民俗の各資料館です。この三つは、歴史の全貌を明らかにする上において、欠くことのできない核となるものです。京都の歴史は、あまりにも膨大であるため、それぞれの核となる資料を収集保存し、研究する資料館を建て、その上に、総合的な観覧に供する規模の大きな歴史博物館を建設しようという構想なのです。博物館のベースは、各資料館にあるのです。ただ、現在までのところ、考古関係では、1976年10月に財団法人・埋蔵文化財研究所が、また1979年11月に考古資料館が開設されていたものの、民俗資料館については、まだ設置がない状態で、したがって、民俗資料館については、歴史博物館内に包含する構想も考えられていたところです。民俗資料館がまだ設置されていなかったのには、そもそも文化財保護行政は府県と国中心の行政で、市町村行政には重きが置かれていなかったという根本的な問題もありました。ともあれ、こうした状況から、三館鼎立の上での京都市立の歴史博物館建設構想が、平安建都1200年に向かって考えられつつあったのです。

(2)建都1200年と『甦る平安京』展
 こうして、京都市立の歴史博物館建設構想は、徐々に進むのですが、目標は、平安建都1200年にしても、行政上は、やはり行政計画に位置付けられることが不可欠です。
 行政計画としては、やはり京都市基本構想に基づく京都市基本計画ということになります。田辺市政下の1993年3月策定の新京都市基本計画(10年計画)の重点施策である箱書き施策に「民俗資料館」とともに「京都市歴史博物館の整備」が掲げられます。そして、この歴史博物館は、「考古、歴史、民俗の3資料館のネットワーク」の上に「京都の歴史の体系的展示」を行うものとしています。
 なお、この新基本計画策定の1年前の1992年1月に、京都市観光基本計画「21世紀(2001年)の京都観光ビジョン」が策定されていますが、その中で、「参加型観光の推進」が提案されていて、「ハイテク京都歴史博物館においては、埋蔵文化財、民俗文化財、文献・美術品を総合的に調査研究する資料館を合わせもちたい」と歴史博物館構想が提起されています。さらにその数か月後の1992年6月には、歴史資料館において、「京都市歴史博物館の構想」及び「二条駅周辺における京都市歴史博物館の構想」が作成され、二条駅周辺整備事業へ名乗りを上げていたのです。さらに、21世紀グランドビジョンとして策定された新京都市基本構想の基本計画(2001-2010年)にも、「京都の歴史を総合的に物語る歴史博物館の整備」が掲げられています。

(3)建設構想策定への準備
  以上のように、歴史博物館建設構想も京都市の計画に位置付けられてきたことから、いよいよ、具体的な調査を始めることになります。
 京都市立歴史博物館の基本構想が、正式に策定されたのは、2000年2月ですが、そこに至るまでには、これも行政計画上の長い準備期間がありました。1993年度から95年度までの歴史資料館内に設置された基礎調査研究会による基礎的な調査研究、次いで1996年度から98年度までの構想策定にあたっての準備調査、これらはいずれも、村井康彦・国際日本文化研究センター名誉教授の指導のもとに進められたもので、その過程で、同名誉教授には、1997年4月に、歴史資料館長にも就任願っているのです。市立の歴史博物館建設構想という大事業を進めるために、村井先生にはあえて無理をお願いしたのを、そしてまた、それには林屋辰三郎先生にも決定的な役割をはたしていただいたのも、昨日のように思い出します。
 こうして、1997年3月には、桝本市長肝いりの「もっと元気に・京都アクションプラン」が策定され、そのなかで、「5つの京都元気策―4.文化が元気」中「2博物館や学術・文化施設の整備」の中で「@京都歴史博物館建設のための構想策定」が掲げられ、ようやく構想策定が公式に打ち出されることになったのです。そして、ついに1999年6月22日、各界の有識者と専門家による大規模な構想策定委員会が設置、発足し、その翌年に市長に答申が提出されました。が、問題は、場外における各界有識者の動きが、実ににぎやかであったことに翻弄されていくことにありました。実は、京都市立の歴史博物館建設構想は、こうした10年来の地道で、専門的な調査研究の上での構想をたてながら、この基本構想をたてた時点で、停滞してしまったのです。なぜなのか、そのことを少し丁寧に振り返っておきたいと思います。

(4)構想策定と実施計画策定準備
 それはさておき、今しばらく公式の基本構想の内容について少しふれながら、問題の所在を明らかにしておきましょう。
 すでにみてきたように、京都市立の歴史博物館建設構想は、京都市最初の基本構想に基づく京都市基本計画に基づき、1993年から95年にかけては毎年100万から200万円の調査費を受けて、基本的なあり方を探る調査研究を、さらに1996年から98年にかけては構想策定にあたっての具体的な論点整理を行い、そのうえで、1999年度に基本構想策定委員会を立ち上げて、基本構想を策定し市長に答申する、というように、行政上の公的な手順をきちっと踏んで市立歴史博物館建設の基本構想をまとめ上げたのです。そして、それに基づき、次にはいよいよ、建設のための基本計画を立てるべき段階に入り、2000年度から2001年度にかけて、基本計画策定のための準備研究に入りましたが、進行はそこまででした。ただ、当時の政府の緊急雇用創出対策の経費で、2001年から4年にかけて、「フィールド・ミュージアム情報提供システム」を整備し、京都全体をフィールド・ミュージアムとみなして、ネット上で、居ながらにして京都の歴史や遺跡を散歩し、学ぶことができる情報システムを確立して、歴史資料館のホームぺ―ジに掲載されています。これは、大変な情報量です。そしてこれは、京都市歴史博物館が建設された場合には、京都全体のフィールドの中核としての役割を果たしていくための情報センターとしてのシクミとなりうるものなのです。
 では、基本構想はどのようなものだったのでしょうか。
 基本構想策定当時、すなわち2000年3月に、基本構想のわかりやすい「概要」版が出されていましたので、それを参考に紹介しましょう。(「京都市歴史博物館(仮称)基本構想の概要」から)
 まず、基本構想は、6つのことを指摘しています。主語はすべて「京都市歴史資料館は」、です。
>1つは、「京都が自らの歴史を総合的に物語る新しいタイプの博物館です」
 これは、すなわち、「都市の記憶装置」としての博物館、京都という都市の誕生、成長、発展の姿を総合的に見せる都市史の博物館です。
>2つは、この博物館は、3つの開かれた顔をもっていることです。
 すはわち、この博物館は、博物館という建物の中に閉じこもらずに、いつも外に向かって開かれているということ、このことを一番大事にします。
 一つは、世界に向かって、二つには、地域に向かって、三つにはビジターに向かって、開かれていることです。
 「世界に開かれた顔」 世界からの情報を受け止めて市民に伝えると同時に、京都1200年の都市史の経験を世界に発信し、世界や全国から京都にやってくる人びとの京都市への入り口であり、文化観光拠点であると同時に、ここから京都全域へ導く魅力的な案内係でもあります。
 「地域に開かれた顔」 「フィールド・ミュージアム」です。1200年に及ぶ京都の歴史は、京都盆地のなかで幾重にも積み重なり、まちそのものが、常に時代の先端を走り続けてきた京都ならではの歴史の博物館ですから、京都市歴史博物館は、施設中心ではなく、京都全域を歴史の博物館、すなわち「フィールド・ミュージアム」とみなして、京都市歴史博物館は、その中核施設として、地域やまちの歴史や文化を紹介し、地域の活動との交流を積極的にはかります。
 「ビジターに開かれた顔」 来場者(ビジター)の視点に立った、誰もにわかりやすく、喜ばれる博物館づくりをすすめます。
>3つには、博物館の5つのはたらきです。
1.市民サービスの基礎となる研究活動を大切にする。
2.ビジターが楽しく体験できる展示や情報サービスの提供
3.地域と連携して、大切な歴史資料の収集・保存・活用を図る 
4.地域に対しても世界に対しても活発な交流と情報交換を行う
5.都市のにぎわいと響きあう魅力的な空間を演出する
>4つには、市民や観光客の利用に便利な都心立地です。
 都市史の博物館、フィールドミュージアムの中核施設、都市の活性化への寄与、歴史的に意味のある場所、そして市民や観光客の利便を考えれば、博物館建設の場所は当然のことながら都心立地ということになります。 
>5つと6つは、使命を果たすための柔軟な組織運営体制づくりと、そして、フィールドミュージアムの中核としての京都市歴史博物館の事業は、すでに始まっている、ということなのです。
 
 このような内容の基本構想を見れば、それは、これまでの調査研究の上に立って、極めて純粋に京都の歴史を捉えようとしてきたことがわかってもらえるものと思います。この京都市歴史博物館建設構想策定委員会は、村井康彦・市歴史資料館長を委員長に、坂上守男・京都新聞社会長と山田浩之・京都大名誉教授を委員長代行として、委員の総数31名という大規模なもので、顧問には、梅原猛氏が就任していました。委員は、歴史学の上田正昭、古建築の川上貢、建築学の西川幸治、宗教学の山折哲雄、後滋賀県知事となられた嘉田由紀子、考古学の樋口隆康氏らそうそうたる各界の権威と各分野における中堅、若手の研究者を網羅し、行政からも、薦田助役以下6名の関係局長が委員となっているのです。こうしたなかで、1999年から2000年にかけて練り上げられた京都市歴史資料館の建設基本構想は、それなりに重みのあるものでした。建都1200年の準備段階から、ほぼ10年に及ぶ調査研究の積み上げの成果が、そこにはいかんなく結実しているといえるのです。ただ、この基本構想を受け止めた桝本市長は、この段階では内心迷いを内包しているように見られたのです。その辺のことは、次の項であきらかになってくるでしょう。

●基本計画の検討
 2000年2月に京都市歴史博物館構想策定委員会から建設基本構想の答申を受けた京都市は、いよいよその建設に向かうことになります。まず、翌年2001年1月に策定された第2次の京都市基本計画(計画期間2001-2010年)に、「京都の歴史を総合的に物語る歴史博物館の整備」を掲げます。そして、建設のための基本計画の策定にかかります。2000年度から2001年度にかけては、その準備のための調査研究がすすめられ、また、2001年度からは、政府の緊急雇用創出対策を活用して、「フィールドミュージアム情報提供システムの整備」着手します。そのための石碑調査や、歴史年表と地域情報とのシステム化など具体的な事業が先行実施されます。しかし、建設のための建設基本計画は準備段階までで、基本計画は策定されないまま推移します。2003年6月には、京都創生懇談会による「国家戦略として京都を創生する」提言中に、「京都歴史博物館を国の施設として建設する」ことが掲げられたのです。

(5)世界文化自由都市宣言と京都を語る会

●ことの発端は世界文化自由都市の提案
 京都市歴史資料館建設構想は、行政的には、京都市歴史資料館で着々とその研究と準備を積み重ねてきたのですが、途中から、応援部隊が入ってきたのです。それを人物で見れば、主に、梅原猛氏と稲盛和夫氏の二人です。組織で見れば、世界文化自由都市推進委員会と『京都を語る会』及び商工会議所、ということになります。
 さて、世界文化自由都市宣言に基づく第2次提案です。ここから、何とも複雑な状況が生まれることになります。日本文化研究所創設誘致(後の日文研)など世界文化自由都市宣言に基づく当初の提案(第1次)が概ね実現のめどがついたことから、市は、当時策定しつつあった新京都市基本計画にあわせて、新たに第2次の提案を検討願うことにします。1993年頃のことです。ところが、推進委員会の方では、適当な案件がなかったため、京都市の方から、歴史博物館を内々に提示したのです。はたして梅原氏は、これに飛びつきます。国際日本文化研究センターのめどもついてきた同氏としては、次なる格好の課題となったのでしょう。京都市の示した歴史博物館とは異なる博物館が打ち出されようとするのです。それは、京都市にとってはまことに不都合なものでした。当時の私のメモをみると、いまでもその時の緊迫した状況が伝ってきます。問題の根源には、いくつかの点がありますが、その最大のものは、京都市サイドはあくまで京都市行政の範囲における事業を構想するのに対して、梅原氏は、無制限の前提で構想することにあります。
 さて、何が問題だったのかということです。第2次提案では、「京都のまち全体をいきた博物館」にしていくための「博物館群の創出」とその中核としての「京都歴史博物館」の建設が提案されました。京都のまち全体をいきた博物館とみなすフイールド・ミュージアム構想は、基本的には異存のないものなのですが、問題は「京都歴史都市博物館」なのです。これは、苦労の末の産物なのです。すなわち、京都市サイドでは、京都市立の歴史博物館なのですが、梅原氏サイドでは、大規模な国立の博物館を想定されていたのです。どのみち京都市はカネがないだろうから、国に要求するというものでした。発想の根本が決定的に違うのです。そうしたことから、「京都歴史都市博物館」とは、いかようにも解釈できる表現としての妥協の産物だったのです。ところが問題はさらに拡大していきます。さきに記した『京都を語る会』の場面です。ここで、さらに問題は拡散していきます。

●『京都を語る会』の本音は!
 『京都を語る会』は、京都市自治100周年記念事業として、有識者により京都への提言を自由に語ってもらう集まりで、梅原氏の発案で、京都市長がその場を設けたものです。そのきっかけは、桝本市長の鴨川歩道橋『ポン・デ・ザール』にあったのは既に述べた通りです。ところがです、梅原氏の本音は、その場を利用して、歴史博物館建設構想を、思惑通りに進めることにあったのです。そのため、『京都を語る会』の第2回会合のテーマは、「歴史博物館構想」でした。『京都を語る会』のテーマは、当然のこと梅原氏が主導で決められるのです。座長はもちろんのこと梅原氏で、副座長は元京大総長の西島安則名誉教授です。なんか、京都大学総長よりも梅原氏の方が偉い感じなのですね?
 ところで、梅原氏の方は、100年先の未来のためへの提言ということで、なかなかに気合が入っていたようでです。こうして今振り返って考えてみると、この数年前の平安建都1200年という、京都にとっての一大イベントに関しては、梅原氏は全くお呼びではなく。関係することがなかったのですね。ですから、この『京都を語る会』の冒頭のあいさつでは、建都1200年の記念事業に関しては、まったく評価をされておらず、この『京都を語る会』の場でこそ、という勢いでした。世の偉い人もそうでない人も、得てして、自分の関係している事案には前向きの評価ですが、そうでない事案に対しては否定的な態度をとる場合が多いようですね。かつて、世界歴史都市会議開催に貢献していただき、京響の復活にも尽力していただいた矢野暢京都大学教授に対してもそうした思いを抱くことがありました。京都市は結果として助かったのですが。今回の、梅原氏の場合、京都再生を掲げ、京都を挙げて取り組んできた建都1200年記念事業に、まったく関与することがなかったのですね。京都市歴史博物館建設問題は、建都1200年の課題だったのです。これは、同氏の内面に深く沈むものがあったのかもわかりません。ですから、建都1200年後の、自治100周年の『京都を語る会』、『京都創生懇談会』は、逆に同氏の独断場となったのでしょうか。それはともかく、いよいよその『京都を語る会』です。
 『京都を語る会』は、以下の日程で、テーマを設定して自由な意見交換がなされ、それを京都市長が京都市行政に生かしていくべきこととされていました。第1回は、全員の紹介を兼ねた自由な意見や思いの開陳で、次回以降はテーマ設定がなされていて、その最初の第2回のテーマが、「歴史博物館構想」だったのです。梅原氏の強い思いがここにも表れていました。
 1998.4.20 第1回 出席者の意見、見解の発表
 1998.6.25 第2回 歴史博物館構想
 1998.9.15 第3回 京の魅力と鴨川の橋 鴨川の架橋とそのデザイン
 1999.2.12 第4回 未来の都市像〜南と北
 1999.7.12 第5回 100年への提言

●無視された、行政が積み上げてきた経過
 さて、第2回会合の状況はどうだったのでしょうか。実は、この第2回会合が始まる前から、衝撃的な動きが、商工会議所の稲盛会頭から発せられていたのです。この『京都を語る会』は、1998年4月20日に第1回を開催しますが、その直後の4月28日、稲盛会頭は、突如として、「大京都歴史博物館建設構想」を観光の新拠点として発表したばかりか、その一月後には、市庁舎が南部に移転した跡地を歴史博物館の建設候補地としたいとの思いを発表されたのです。『京都を語る会』第2回会合の日は、その一月後の6月25日でしたから、それなりの大きな圧力にはなり得るのです。京都市の地道にして広範囲に及ぶ深い検討結果には一顧だにせずにすすむこうした動きは、本当は京都市にとっては不都合以外の何物でもないのですが・・・。
 この時期、桝本市長は1996年2月に初当選し、その年の12月に「もっと元気に京都アクションプラン」を策定、そのなかで、歴史博物館についても、いよいよ建設のための構想(基本構想)を策定することをそこに明記し、自らも積極的に進めようとしていた重要な時期でした。市会各派の動向も申し分なく、歴史博物館建設への機運が各方面から盛り上がってくるのはいいことなのですが、実は、この『京都を語る会』さらには『世界歴史都市推進委員会』における梅原氏と稲盛会頭の動きは、一般的な機運とは全く別の、極めて独善性に満ちた動きだったのです。市長や、市の上層部はこれに頭を悩ませます。
 京都市が長年温めてきた「歴史博物館構想」は極めて実際的な作業の中で、しかも当初は林屋辰三郎という歴史学の碩学によってすすめられ、そして今回の具体的な作業では、そうした作業の積み上げを心得たこれも歴史学者の村井康彦氏に基礎研究を委ね、ついで、さらにそれを進めるために歴史資料館長に就任願うことによって、具体化を図るところまできていたのです。1997年4月のことです。村井館長は、国際日本文化研究センター創設時に、梅原氏に懇請されて開設時の同センターの教授に就任されていて、両先生の関係には深いものがあるのです。というよりも、梅原氏には、村井先生に対して、その後にもかかわる恩があるはずなのです。しかしながら、歴史博物館をめぐる梅原氏と京都市との間に、村井館長までがかかわり、時には職を辞する覚悟までもって苦労を重ねられるようになります。私も、その渦中にいた一人でした。
 当時をふり返ってみると、まず第1陣は、世界文化自由都市宣言に基づく第2次提案です。1993年3月のことです。ここでは、先にも述べたように、この案は、京都市サイドから提起したものであるにもかかわらず、梅原氏は、それを大規模のものにして、それでは京都市が建設することができないであろうから、国にその設立を要請すればよい、との考え方に固執するのです。それでは、京都市がそれまで積み上げてきた、都市・京都市の主体的な都市型の歴史博物館ができないので、世界文化自由都市推進委員会の担当事務局や総務局が苦労して、とにかく両者の理解が可能なような形での、「京都歴史都市博物館」という表現が生まれたのです。1993年3月段階での提案骨子では「京都市歴史博物館」であったものが、1994年12月における正式の提案では「京都歴史都市博物館」と設立主体のあいまいな表現となっています。
 こうして、一般的にはこうした深い問題が内在していることは知られないまま、1996年2月の市長選挙で桝本市長が誕生します。そして、この年12月には桝本市長肝いりの行政計画「もっと元気に京都アクションプラン」が策定され、そこで、歴史博物館の建設構想を策定することが明記されます。ただ、その名称は「京都歴史都市博物館」だったのです。これは、梅原氏を刺激しないように、京都市が、市の主体性に基づいて整備する博物館ではあっても、「京都市」という名称は冠していなかったのです。けれども、京都市サイドの本音は、京都市立の「京都市歴史博物館」だったのです。そして、その策定作業は、そのために歴史資料館長に就任願った村井康彦国際日本文化研究センター名誉教授に託されたのです。こうして、京都市の歴史博物館建設構想は、本格的に、あるべき姿を求めて、幅広い中堅若手の優秀な研究者を集めて調査研究が進められるのですが、その過程に、今度は、『京都を語る会』がかかわってくるのです。京都市歴史博物館構想策定委員会による基本構想策定作業は、1999年6月から2000年2月にかけて行われます。これに対して『京都を語る会』は、1998年4月から1999年7月まで設置されています。そして、その前後に問題は大きくなるのでした。
 
●八角九重の塔:『平和の大塔』
 では、『京都を語る会』第2回会合の様子はどのようなものだったのでしょうか。第2弾です。まず会合の前兆として、第1回から第2回までの間に、先に見たように商工会議所の稲盛会頭による「大京都歴史博物館」建設構想が突如としてぶち上げられます。そして、「歴史博物館」をテーマとした第2回の当日です。
 当日は、京都市とすれば、この日までの京都の取組の状況を報告して、それに対する委員からの意見を頂戴するつもりのものなのです。そのため、京都市からは、薦田副市長から、京都市歴史博物館構想のそもそもの経過からの説明のうえで、村井歴史資料館長から、京都市歴史博物館構想の基本的な考え方や基本構想を策定していくにあたっての基本的なスタンスなどを、これまでの調査研究の成果として報告したのです。すなわち、京都市歴史博物館の基本的な考え方は、「21世紀京都の都市発展の核として−京都の歴史の過去・現在・未来を総合的に観覧でき、都市の品格を示す施設」であり、そのスタンスは、世界に開かれ、観光客・ビジターに開かれ、都市全域が歴史のフィールド・ミュージアムとして開かれ、京都市の歴史博物館はその中核としてのネットワーク・ミュージアムとなるもんのである、というのがその大要でした。しかし、会合では、こうした京都市サイドによる広く深い研究結果に対する質問などよりも、主だった方々の、びっくりするような大規模な歴史博物館構想が披歴される場となったのです。
 正確を期すために、この間の日程を明らかにしておきましょう。どうも私の記憶も怪しいところがありますので。『京都を語る会』第2回会合前後のことです。また、この時期に京都市歴史博物館建設構想(基本構想)の策定委員会がスタートします。
 まず、下記の日程を見ていただきましょう。

 『京都を語る会』前後の動向
<1998年>
11月9日 世界文化自由都市推進委員会 進行状況の説明(市長)
 <1999年>
4月20日 『京都を語る会』第1回会合
4月28日 稲盛会頭、観光の新拠点として「大京都歴史博物館」建設構想を明らかにする。
5月28日 稲盛会頭、「大歴史博物館」の候補地は、現市役所移転後の跡地に
6月4-17日 梅原氏に基本酵素策定委員会の顧問就任依頼とやり取り
6月22日 京都市歴史博物館建設構想策定委員会発足
6月25日 『京都を語る会』第2回会合 テーマ「歴史博物館構想」
6月22--2000年2月18日 京都市歴史杓物館構想策定委員会
7月12日『京都を語る会』第5回会合 八角九重の塔→平和の大塔
11月18日 稲盛会頭、市長と経済団体との懇談会の席上、「世界平和の塔」を歴史博物館に併設する考えを提案。2000.1.5新年の交歓会のあいさつで、「平和の大塔」建設構想を提唱
<2000年>
1月9日 梅原氏、京都新聞「天眼」で、八角九重の塔の併設、、仏教会との関係なども述べる。
2月18日「京都・大津・奈良」三商工会議所懇談会で、稲盛会頭が、「世界最大級木造建築物・平和の大塔」の建設を紹介
2月26日::桝本市長再選
2月28日 京都市歴史博物館基本構想を市長に答申
2月28日::稲盛会頭、商工会議所の2000年度事業計画基本方針案を発表。「平和の大塔」建設構想の検討も盛り込む。
9月8-27日 稲盛会頭の呼び掛けによる庁内検討会、「平和の大塔」懇話会

 まず第1は、『語る会』が始まる前年の1998年11月にはすでに世界文化自由都市推進委員会に市長が進捗状況を説明するべき状況となっっています。
 次は、商工会議所の稲盛会頭の動向です。1999年4月20日に『語る会』は始まり、次回6月25日のテーマは「歴史博物館構想」が確定しています。そこで、その間の4月28日に、突如として商工会議所の稲盛会頭が、「大京都歴史博物館」の建設構想をぶち上げ、その一月後に現市役所の南部移転後の跡地にその建設候補地とすることが望ましいとの見解を表明される。
 さらに6月にはいると、いよいよ、京都市サイドでは、基本構想の策定委員会を立ち上げるべき段階を迎え、その顧問にあえて梅原氏を迎え、委員会の策定作業の結果に異を唱えないようにとの配意を大切にしたのですが、その見解を強く持たれたのは、委員長に就任予定の村井康彦先生だったのです。先生は、辞任覚悟で臨まれていたのです。
 6月4日から17日までの間、京都市の首脳部が梅原氏の顧問就任要請で同氏を訪問して、そこで、同氏から、これまでの経過を無視した意向が出されることによって、市の首脳部は、市長の意向を確かめつつ、困難なやり取りをしたのです。梅原氏の意向は、稲盛会頭の資金援助の意向を背景として、仏教会に京都府を加えた、同氏と稲盛会頭、及び京都市による歴史博物館推進委員会を発足させ、そこで、基本構想を事実上固めよう、というものでした。これは、これから始められる、京都市サイドの京都市歴史博物館建設構想策定委員会の作業を事実上否定するものなのです。梅原氏と接触していた市の首脳部は、一方では市長と、他方では村井先生と相談し、結果、市長は、6月22日の市の構想策定委員会は予定通り行うとの裁断によって、また、村井先生もそれなりの覚悟をもって、策定委員会をリードし、また、25日の『語る会』に臨むという決意を示されたのです。結果、梅原氏はそれに異を唱えられることはなく、顧問就任も了解され、市の建設構想策定委員会は無事発足することができました。そうした状況が先にありながら、6月25日の『語る会』第2回会合を迎えます。
 第2回会合では、予定通り「歴史博物館構想」をテーマに、村井康彦歴史資料館長から、京都市立の京都市歴史博物館建設構想について説明があったうえで、自由なる意見交換がなされました。そこで、特に特徴的な意見は、経済界から、稲盛商工会議所会頭と村田村田機械会長からのものでした。稲盛会頭は、先に4月28日と5月28日にすでに記者発表していた内容に基づき、ここでも、南部開発の起爆剤としての京都市役所の南部移転と一体的に考えるべきだとの意見、さらに村田純一村田機械会長(後に商工会議所会頭に就任)からは、時代別に5館ほど造ってはどうかとの意見がでます。いったいどれほどの用地と建設、運営資金が要ると考えておられるのだろうかと、正直、あぜんとしました。このほか、京都の歴史には宗教や仏教が欠かせないという意見、それに対して、宗教を一堂に集めるのは難しいのではないかという慎重な意見などがありましたが、村井館長による京都市サイドの説明、地域に根差して、世界に開いていく、京都市立の都市史の博物館という提案の趣旨に対しては、かみ合うような意見交換はなかったと記憶しています。それぞれがバラバラの意見を述べるに終わっていて、『京都の語る会』の最終回で、どのように集約するかということになりました。
 しかし、問題は、思わぬステージに展開していくことになりました。7月12日の最終回、第5回会合のことです。この席上、村井館長が、あくまで仮定の話として、歴史博物館に、院政期にあった岡崎法勝寺の高さ約80mの「八角九重塔」が併設できるといいのですが、と一つの夢を語られたのですが、これが出席者の大方の賛同を得るところとなり、とりわけ、稲盛会頭をいたく刺激するところとなったのです。稲盛会頭の興味は、歴史博物館よりもこの「八角九重塔」に向かうこととなり、これを「平和の大塔」として取り組む意欲を示すことになります。この年の11月18日の例年の市長と経済団体代表との懇談会の席上で、稲盛会頭は、「世界平和の塔」を歴史博物館に併設する考えを提案、さらに翌年2000年1月5日の経済界の新年交歓会のあいさつでも、「平和の大塔」建設構想を提唱されるのです。そして、これを裏打ちするように、梅原氏は、1月9日付京都新聞『天眼』で、・京都のまち全体を生きた博物館として生かすための情報センターや歴史博物館の必要性とともに、木像建造物としての「八角九重の塔」をそのモニュメントとして併設することが、『京都を語る会』の結論であったという趣旨の一文を寄せられているのです。稲盛−梅原両氏の連携はまことに見事なものなのです。
 さらに続きます。稲盛会頭は本気です。2000年2月18日の京都・大津・奈良3都市の商工会議所懇談会で、「平和の大塔」の建設を紹介、そして、2月28日には、商工会議所の2000年度事業計画基本方針案に「平和の大塔」建設構想の検討を盛り込んだことを発表するのです。そして同氏は、京都市に働きかけ、同年9月6日から27日にかけて、一定の専門家を加えて、京都市と稲盛会頭との検討会を持つに至ります。同氏の意図は、歴史博物館は京都市で、「八角九重塔」は経済界で自らがこれに臨むということになったのだと思われました。そして、この直前には、市長から担当助役に、「平和の大塔」には、歴史博物館と一体の用地を探すようにとの意向が示されていたようで、そのための検討も行政内部では行われていたのです。しかし、京都市立の歴史博物館建設のための基本構想は、すでにこの年の2月28日に、村井館長を座長とする構想策定委員会から、市長に答申されているのです。いよいよ建設のための基本計画を策定するべき段階に入りつつあるのです。はたして、9月27日の市と稲盛会頭との検討会では、この時出席していた梅原氏からは、歴史博物館は国立で、「塔」は京都市が建設するべきだろうとの見解が示されます。稲盛会頭の見解は、京都市が企画立案し、民間は建設資金等で協力するという方式で、歴史博物館と併設であるかないかは問わない、立地場所は南部、というものでした。
 以上のような経緯をふまえていると、いったい何をどうしようとしているのかさえ分からなくなってくるのではないでしょうか。実に、市長を真ん中において、片や稲盛−梅原連合vs.片や京都市の首脳部というヤジロベエが左右に揺れているような状況なのです。 そこで、次に主要な問題点を整理してみたいと思います。

(6)問題の整理 設立主体を中心に
 以上の少しくどいような経過を見てくると、京都市の主体的な取り組みが、梅原氏が主導的にかかわるようになってから、京都市自身、ということは京都市長自身に迷いが生じ、そのスタンスが、市長を軸に揺れていくことがわかります。いったい何が問題だったのでしょうか。これは、自治体の政策決定のあり方の教訓ともなりますので、少しくここで考え、問題を整理することにいたしましょう。
 まず第1の問題は、設立主体の問題です。京都市立か国立か、という問題。或いは民間。
 第2は、設立趣旨の問題。京都の都市の歴史を明らかにするのか、京都に所在する歴史遺産を展示するのか。
 第3は、都心立地か、南部立地かの問題。これは、フィールドミュージアムにもかかわる。
 第4に、展示テーマの問題。宗教や平和など、特定テーマのクロースアップの是非。
 第5に、財政の問題。これは、設立主体の問題にも密接に関係する。
 第6に、歴史都市京都の特殊性の認識の仕方。国政と京都市政の自律性・主体性の問題。
京都市と近畿及び他都市との関係
 以上、ざっと6点ほどの問題があるように思われます。順を追って間接することにしましょう。
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 まず第1の設立主体の問題。これが、当初から表面に現れた大きな問題で、最初から最後まで、この問題に振り回されてきたように思います。
 いうまでもなく、設立主体は、歴史博物館を建設する主体ですから、これが国立であれば国が建設し、市立であれば京都市が建設します。それ自体至極当然のことです。そこで問題が生じるのは、国立であれば、その建設構想は国が国政上の必要性からそれを策定し、市立であれば、京都市が自らの意思で、その都市政策の必要上からそれを策定します。そこに、おのずと違いが生じるのですが、京都各界の指導層には、必ずしもそこのところが十分理解されていなかったようなのです。
 市立の趣旨は、京都という都市の成長発展の歴史を明らかにし(都市史、都市の記憶装置)、京都市域全域をフィールドミュージアムとして、歴史博物館をその中核施設とすることによって、京都の歴史を地域に、また世界に公開し、世界の都市発展に貢献しようというものなのですが、国立となると、まず、京都だけに限定した歴史博物館建設が許されるのかという問題があります。当時、国立の博物館としては、東京、奈良、京都に既にあり、新しい形での国立歴史博物館は、東北を守備範囲とした国立歴史民俗博物館が千葉県佐倉市にありました。その後九州の福岡県太宰府市に九州国立博物館が建設されたのみなのです。ちょっと考えて、こうした状況の中で、京都のみに国立の博物館が二つも許されるでしょうか。常識では無理ですね。もし京都に国立の歴史博物館を設ける場合は、その守備範囲は京都だけではなく、大阪や奈良はもちろん滋賀や和歌山、兵庫県など近畿圏ないし、関西圏をその守備範囲とする必要があるはずです。梅原氏は、世界文化自由都市推進委員会をはじめ、『京都を語る会』さらには京都創生懇談会の場を通して、一貫して国立の歴史博物館を国に要請するべきことを主張され、いったんは村井歴史資料館長が基本構想策定委員会の顧問につけて、京都市立の京都市歴史資料館建設構想策定作業の中に巻き込んだのですが、それでも、結局は、その策定作業そのものが事実上無視されるようになるのです。同氏は、大きなものをつくれ、しかし、京都市にはカネがないのだから、国に要請してつくればよい、という論法です。これには、同氏の、国際日本文化研究センターを国につくらせたという成功体験があり、その自信というよりも過信があるからだと思われます。国立のものを京都に誘致するのと、京都が自ら必要とするものを京都自身がつくるものとは、およそその中身は異なったものになります。京都市サイドが、「京都市歴史博物館」という名称を、梅原氏に配慮して「京都歴史博物館」というわかりにくい名称で表現するようになったのは、梅原氏への対応に苦慮していたからで、やむなく、一見して得体のしれないような表現となしたものなのです。
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 第2の設立趣旨の問題です。
 これは、京都市立の京都市歴史博物館構想では、京都の都市史の博物館として、京都の都市の発展のさまを、復元的な手法も駆使した新しい歴史展示を試みようとするもので、それは、地域に根差した、地域市民と連携したフィールドミュージアムの核ともなる博物館という明確な構想が、多くの専門家の参加によって年月をかけてつくりあげられています。これに反して、国立の場合には、設立の趣旨自体が明確ではなく、宗教博物館などのかなり個人の思い入れによる趣旨が述べられるのですが、国立、市立の別なく、公的な機関における宗教問題の扱いは複雑で、これには、『京都を語る会』においても、裏千家の若宗匠がその点を指摘していました。いずれにしても、設立主体が国の場合には、その守備範囲をどう固めるか、近畿圏、関西圏という近隣府県との関連の中で、そして、博物館の内容や効果についても、それは、国レベルで検討願うことになるのではないでしょうか。京都サイドから要請する場合の趣旨を、もっと深く広く検討する必要があります。近代的な法制度で形成されている現在の地方自治制のもとでは、京都の特性を国の施策で実施することには限界があることをわきまえる必要があります。
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 第3は、都心立地か、南部立地かの問題。これは、フィールドミュージアムにもかかわります。経済界は、大きな博物館を、南部開発の起爆剤として南部に立地させるという考え方と、市役所を南部に移転させて、その跡地に歴史博物館を建てるという考え方が示されていますが、経済界の関心は、南部開発にあるようです。もっとも、その主張は、経済界とはいっても、先端産業のリーダー層になるのでしょうけれども。
 これに対して、すでに繰り返し述べていますように、市立の京都市歴史博物館は、京都各地域をフィールドとするミュージアムの中核となる施設ですから、これは都心部立地を絶対条件とするのです。このように、立地場所を都心部にするか、南部にするかは、歴史博物館を、都市・京都の地域に根差した、地域と一体化した博物館とするのか、歴史的地域から離れた大きな箱物をつくるのかの本質にかかわることなのです。
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 第4に、展示テーマの問題。宗教や平和など、特定テーマのクロースアップの是非。
 第4の、博物館の性格に関わるテーマの問題です。宗教や平和の問題は、極めて重要な要素で、当然のこと、京都市立の歴史博物館でも取り上げることになるでしょう。ただしそれは、京都市の都市発展における、歴史の全体像の中で必要に応じてその一翼を占めることになるものです。ですから、宗教や平和の問題を主たるテーマとする博物館は、それはそれで大切ですが、それを公設の博物館のテーマとするには根本的に無理があります。結論的にいえば、そうしたテーマは、それは民間の自主的な活動として行われるべきものではないでしょうか。宗教の問題は複雑です。公権力が介入するべき領域のものではありません。平和の問題にしても、それを主テーマとするには、それ相当の自治体としての経過が必要なのではないでしょうか。
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 第5の財政の問題です。これは極めて重要で、いかなるアイデアも、それが財政的な裏打ちができなけらば、事業化することができません。京都市の悩ましいところはここにあります。そしてまた、財政問題は、設立主体の問題にも密接にかかわります。京都市は財政が弱いから、国に建ててもらえばいいというのは、あまりにも安易でずさんな考え方でしょう。すでに述べていますように、国家財政で博物館を建てれば、それは国の施設となります。京都市の財政が弱いからといっても、それでは趣旨が全く異なります。国際日本文化研究センターや、国立迎賓館の建設誘致とは全く次元の違う話ではないでしょうか。京都市自身が必要とする施設は、いかに貧弱なものになろうとも、自らの可能な範囲のものをつくるべきでしょう。そこに、国の援助や民間の寄付を求めるのと、設立主体を国にしてしまうのとは本質的に異なるものでしょう。しかし、歴史都市京都の本質的な問題の一つとして、現代の大都市でありながら、それが、同一地域における歴史遺産の積み上げの上に発展してきて、しかもそれこそが日本文化を神髄を形成してきたという、世界的にも稀有にして貴重な歴史都市は、日本国家としても重要で、しかもその維持にはひとり京都市のみでは到底可能なレベルを超えた財政が必要となってきていて、こうした認識が、桝本市政下で深まり、京都の維持発展を、国策として取り上げてほしいという考えがまとめ上げられてきたのです。ただ、そこで注意すべきは、近代法治国家の下では、地方自治体行政全般のあり方はともかく、その中での1自治体のみを重視する政策は、困難であるということです。そのことを可能とするには、極端にいえば、全国民の同意が必要なのです。国策というものは、狭い意味での国家の政策なのではなく、国民の支持を受けた上での政策でなければならないのです。すなわちこれは第6の、歴史都市京都の特殊性の認識の仕方に関わる問題なのです。国政と京都市政の自律性・主体性の問題、京都市と近畿及び他都市との関係に深くかかわってくる問題ではないでしょうか。京都が独善性に陥ることは戒めなければなりません。

(7)京都市歴史博物館は”夢?”か!

 以上みてきたように、京都市の「都市の記憶装置」としての歴史博物館建設構想は、長年の「京都の歴史」編さんとそこから芽生えた新しい「歴史展示」としての歴史博物館建設の必要性を自覚することによって、多くの研究者の協力のもとに十分な歳月を賭けて積み上げた結果として、また、平安建都1200年の機運の高まりの中で、多くの賛同者も得て、京都市議会各派からもその早期の整備が要望されるようになってきたのでした。そして、2000年2月の市長選挙では、桝本市長は公約の中に「日本文化の中心として1200年にわたる京都の文化的経験と蓄積を、世界共通の財産として21世紀に伝え、生かしていく本格的な京都市歴史博物館の建設計画を進めます」と明記します。そして先に、桝本市長から諮問されていた「京都市歴史博物館(仮称)基本構想」が2月28日に策定を終えて、桝本市長へ答申されます。この基本構想策定過程は、ちょうど世界文化自由都市の第2次提言とそれに続く『京都を語る会』が開催される時期に遭遇していたのです。梅原猛氏や稲盛和夫氏などによる、京都市が長年積み上げてきた市立の歴史博物館構想とはおよそ次元の異なる歴史博物館構想は、根本的に京都市行政の責任領域に治まるものではなく、また、結果として、京都市の策定してきた基本構想の作業そのものをないがしろにすることになるのです。両者は、人気のある「有識者」や実力経済人であるだけに、市長も動揺し、判断が揺れることになりました。
 結果は、行政として、行政計画に乗せながらも、結局は棚上げ状態となり、「夢」となっていったのです。京都市立の歴史博物館建設に向かって全力を傾注していただいてきた村井康彦歴史資料館長は、204年4月、京都市美術館館長に転任されることとなりました。こうして京都市立歴史博物館建設への道は閉ざされ、残念なことではありますが、それは京都市にとっても長く抱いてきた希望が”夢”に転化した瞬間でした。
 
 そして、歴史資料館のホームページに掲載されていた、「京都市歴史博物館(仮称)基本構想」もいつしかその姿を消していました。
 ただ、これは、元来”夢”なのではなく、れっきとした京都市行政の中で芽生え、そして、建設のための基本構想まで策定したものです。建設には機熟さず、ということになりましたが、この「京都市歴史博物館(仮称)基本構想」では、京都市にとっていかに歴史博物館が必要で、それがどういうものであるべきなのかを簡潔に、かつわかり安くまとめられています。心あれば、それをしっかりと読みかつ理解していただきたいものと考えています。京都市が本当に歴史都市であるならば、今こそ必要不可欠なものなのです。国立のものではなく、市立の、京都市自身の主体的なものとして。いつの日か、この「京都市歴史博物館(仮本称)基本構想」から、新たな機運が再び醸成されるであろうことを心から念願しています。この「基本構想」がある限り、いつの日か、村井館長を先頭にして、多くのこの作業に参画願った研究者の思いが花開く時が来るであろうことを夢見ているところです。日本を代表する歴史の京都が、歴史遺産の消費に終わることなく、新しい歴史の創造に向かうために!
 なお、ひとこと付け加えておきたいことがあります。仕事というものは、やはり組織に位置付けられていなければなりません。とはいいながら、組織さえあれば仕事は全うできるというものでもありません。まして、未来に向かって、教科書のない新たな領域に向かうときには、その組織に然るべき”ひと”がいなければなりません。この新しい領域を切り開くべき「歴史展示」としての「京都市歴史博物館建設構想」を進めるとき、このことがとりわけ必要なことでした。多くの適切な方々の共同作業ではありましたが、そのトップリーダー歴史資料館長、それに加えて、事務局の役割を担ってもらった、文化政策を専門としたシンクタンク「CDI」の研究者、この二人がまさに”ひと”でした。前者はいうまでもなく村井康彦・国際日本文化研究センター名誉教授、後者は文化政策を専門とするクリーターとして松野精氏でした。ここに、組織と”ひと”を得た、満足のいく策定作業ができたのでした。あえて、ここに触れざるを得ません。にもかかわらずという思いを捨てきれずに!

  第4節 デフレ下の市政運営

   1.行財政改革

  ●経済構造の変化
 1990年代は、戦後行政のあり方にたいする大きな転換点にさしかかていたようです。早くから、経済構造の転換、高度成長から安定成長へといわれながらも、容易に成長神話から脱することのできなかったわが国の経済も、G5のプラザ合意による円高とそれに起因した1980年代後半のバブルの発生と1990年代初頭におけるその崩壊、そして経済の低迷と1990年代後半からの深刻なデフレによって、否応なく経済構造の変化は生起することになったのです。それは、経済構造の変化ばかりか、社会や政治という生存に関わるあらゆる分野におよび、その進行は、あまり自覚的ではない形で、今もな続いているといえるのです。昨今の世界の社会経済的な状況を見ていると、その変化はまことに深刻なものといえるのです。今思えば、1990年代は、その入り口だったのでしょう。
 こうした状況から、1990年代は、財政の伸びが低いにもかかわらず、インフラ整備や福祉の拡充への需要は高い状況の中で、行財政の再構築の必要に迫られるようになり、行財政改革が、連続的に進められるようになったのです。

●国と市の行財政改革
 ここで、戦後の行財政改革を少しふり返ってみたいと思います。
 敗戦直後には、人員整理を中心とした行政整理がありました。1950年代後半には、財政再建計画下にありました。そして1960年代半ばには、戦後の本格的な都市整備をめざした行政改革が行われました。また、戦後比較的安定した時期ともいえる1970年代においても事務事業の再検討が行われます。そうして、1980年代にはいるといよいよ本格的な行革の時代にはいります。政府は、土光経団連会長に代表される第2臨調をはじめ、同時に地方にも地方行革を進めさせます。1990年代にはいると、バブル崩壊による景気停滞と、それに続くデフレの進行の中で、政府は橋本行革に入り、金融ビックバンをはじめとする省庁再編成や地方分権など、総合的な行政改革が試みられるようになります。21世紀にはいると、デフレは本格的なものとなり、デフレと分権改革下の小泉改革の時代となります。京都市の行財政改革も、基本的には、こうした国政レベルのあゆみに適合しながら歩んできたといえるのではないでしょうか。

●第2臨調からデフレ下の改革へ
 1970年代半ば、舩橋市政下での比較的安定していた時期に、庁内プロジェクトを組織して、事務事業の再検討をしたのが、現在に続く行政改革の走りだったのでしょうか。
 1980年代にはいると、国の第2次臨時行政調査会が、1981年に鈴木内閣の下で設置され、鈴木内閣退陣後は中曽根内閣がこれを引き継ぎ、土光−中曽根体制で、国の民営化が本格的にすすめられます。そして、地方も地方なりの行政改革が必要となります。
 この時期はちょうど今川市政の時期で、今川市長は、1982年2月に、木下稔助役を委員長とする「行財政効率化推進委員会」を設置し、1983年9月に、「行財政効率化の推進について」の最終答申をまとめます。
 1985年1月になると、「地方公共団体における行政改革推進の実施方針」を自治省が、地方公共団体に通知し、いわゆる「地方行革」が進められます。これに従い、京都市も、同年6月に今川市長を本部長とする庁内組織「京都市行財政改革推進本部」を発足させるとともに、馬場正雄・京都大学教授を座長とする「行政改革推進懇談会」を設置、12月には、「京都市行財政改革大綱」を策定します。そして翌年11月には、当該年度予算で約48億円の節減、次年度予算編成で事務費の一律3%カットなどの実施状況がまとめられ、さらに2年後の1988年11月には3か年の実績を、100億円の節減としてまとめています。
 さて、次は田辺市政下での改革です。
 この時には、国は臨時行政改革推進審議会の答申「国と地方の関係等に関する答申」を1989年12月に受け、同月に「国と地方の関係等に関する改革推進要綱」を閣議決定しています。これは、第二臨調による地方の行政改革ですが、地方の自主性を求めることと地方分権の促進とが、財政問題と表裏一体となって、その後の分権改革の限界となる問題をはらんだものでした。いずれにしても、地方は、自主的にも、ある種強制的にも行財政改革を進めることになるのです。公共施設の「公設民営化」もこの時期から促進されます。
 田辺市政の場合は、建都1200年記念を軸とした市政運営であったことから、『平成の京づくり』のための市政改革ということになります。1995年6月に「『平成の京づくり』推進のための市政改革大綱」が策定され、その実施状況は1997年4月に公表されています。

●橋本行革から小泉行革へ− デフレと分権下の行政改革
 1990年代後半は、21世紀へ希望を抱きつつも、内在するデフレと地方分権へのあゆみのなかでの行財政改革となります。国では、橋本行革の時代で、21世紀にはいると小泉行政改革となります。地方には分権と抱き合わせの「三位一体改革」が進められ、かえって地方の財政危機は深まることになりました。
 この時期の京都市政は、ちょうど1996年から桝本市政となり、橋本行革、小泉行革下のもとで、20世紀末から21世紀初頭のデフレ経済の苦しい時代をしのいでいくことになります。政治、経済環境は、自社連合による村山内閣の誕生からさらに橋本内閣、その過程での民主社会党と改称していた社会党の凋落、そして、再び自民党政権の復活、デフレの進行の中での金融危機など経済構造の激変過程における橋本行革の試みにはあまりにも無理があり、そのために橋本内閣は退陣することになります。こうした荒波の中で、桝本市政の行政改革は進められることになったのです。
 桝本市政の行革は、21世紀を目前にしていたために、「京都新世紀に向けた市政改革」となります。市長就任の翌年1997年4月、桝本市長は、総務局に行政改革課を設置、理財局に財政改革専任の理事を配置、さらに、市長の手元に、行政改革と地方分権の推進を担う企画監を設け、行政改革推進の体制を整え、はやくも12月には「京都新世紀に向けた市政改革行動計画−第1次市政改革行動計画・総論編」を策定します。さらに翌年1998年の11月には「京都新世紀に向けた市政改革行動計画−第1次推進計画」を策定します。そのうえで、1999年10月に「京都新世紀に向けた市政改革行動計画案」をまとめました。 21世紀に入ると、国は、小泉行革の時代に入り、そのもとで、2001年2月に「京都新世紀市政改革大綱(2001-5)」を策定し、この年10月にはついに、桝本市長は「財政非常事態」を宣言するに至ります。2001年の「市政改革大綱」は2003年度末で終了し、2004年度から5年間の行政改革について、外郭団体の改革と民間活力の導入などを柱とした、新たな「京都市市政改革実行プラン(2004-8)」を策定し、実行していくことになります。
 このように、1990年代から21世紀初頭にかけての京都市政は、まさに、行財政改革に次ぐ行財政改革の連続で、まったくゆとりのもてない時期が続くことになります。そしてまた、この時期の行財政改革は、中曽根改革以降、財源不足を背景とした中での地方分権改革が進められ、1990年代の自民党の凋落と連合の時代を経て、再び自民党政権が復活する過程で、ひとたびはすすめられた地方分権への期待も、結局は、国の財政負担軽減への役割を負わせられることとなり、地方と国との関係を対等なものとした地方分権一括法の制定、施行を得ながらも、結局のところは、地方交付税をはじめとした財政コントロールと相変わらずの各省庁の行政指導を通して、地方はコントロールされている実態は、今日に至るまで変わることなく続いているのです。

  2.大区役所制
 
●自治体内の分権改革 
 地方分権改革の流れの中で、市役所内の分権改革として、市民参加の基礎的な条件で、、市民の最も身近な日常的な行政組織といえる区役所機能の拡充が、桝本市政の中で大胆に実施されます。区役所の行政機能の拡充は時代の必然的な要請とも考えられるようになってきていました。行政区レベルで実施することが可能な行政事務は、区の権限で実施するということなのです。この、自治体内における分権改革は、新たな課題を提起することになります。
 従来の区行政は、税や社会福祉など、市民が行政に直接かかわることのある窓口行政に限られてきていました。しかし、そうした区行政のあり方は、住民参加が進展する中で、政令指定都市内では、比較的早くから区行政の拡充と地位の向上が施行されてきたいました。しかし、京都市に関しては、他都市とはまた異なった歩みをしてきましたし、また、市政の中における区政の位置もまた異なったものでした。それは、京都市政における区政の位置は、他都市と場合よりも高いものがあったのです。京都市では早くから区長は局長級で、局長と同等の位置づけであったのに対して、他の政令市では、局長よりも1ランク下位の位置づけであったようなのです。そこで、京都市における区政組織の変遷を少したどってみましょう。
 私の知る限り、かつて京都市の区役所には、土木課と農政課がありました。また、戦後の民主化組織としての農業委員会は区ごとに組織され、その事務局は区におかれ、区の農政課長が農業委員会事務局長を兼務していました。しかし、区土木課は1964年4月に廃止され、土木局所管の土木事務所となり、区農政課は、1981年4月に廃止されて、この年に新設された経済局農林振興室所管の農業事務所となりました。いずれも、これは、区ごとの施策実施は、広域的な視点からの事業実施に対しては有効ではないという実態に基づく考え方からでした。土木課に関しては、私はかかわりをもっていなかったものの、農政課に関しては、深くかかわってきていたのは、先に述べてきたとおりです。

●区役所の役割と改革の流れ
 区役所は、政令指定都市に設置されるものですね。それは、政令指定都市が、大都市であるがゆえによるものですね。広域的な都市の中で、一つの市役所のままでは、市民の日常生活面でのかかわりにおいて、不便であるがなために、これを小単位に分割して、住民と行政との互いの関係をより近く便利にするものだといえるでしょう。とはいえ、都市は、たとえ広域的な地域によって成り立っているとはいえ、これを分割すれば、一つの都市ではなくなります。そこで、大都市として、都市全体のありようを維持しつつ、市民・住民との日常生活面での便宜において、これを一定の地域分割することによって、大都市としての維持発展と住民の日常生活の維持を全うしようとするものです。そこで、考えられるのは、行政区の大きさです。小さければ小さいほど、住民の日常生活に近づきます。しかし、そうなると無数の行政区が生まれる結果、かえって非効率ともなります。戦後まもなくまで、私が幼児であったころまでは、豆区役所というものがありましたが、これなどは、米をはじめとする生活必需品の配給制というものもあったためなのでしょう。社会が落ちついてくると同時、やがて区役所に吸収されていきます。こうして、行政区というものは、大きすぎず、小さすぎず、都市を分割しながらも、その地域なりの地域一体性のような共通性を持ちうるものとしてと同時に、規模として、一定の「適正規模」が求められてきていたのです。市民の日常的な近接性と大都市のなかでの有機的な地域構成体の一翼を占めるのです。これは、都市の歴史的な歩みの中で、それなりに形成されてくるものでもあります。
 この行政区の範囲や規模は、主として人口規模によって考えられてきました。人口が大きくなりすぎると、分区に、小さくなりすぎると合区という区の統合が課題となります。これまでの京都市では、戦後経済発展による人口増加によって、分区の経験はあるものの、人口減少区の統廃合は、それなりの課題として認識されつつも、これはなかなか難しい問題で、いまだ経験はありません。大阪では困難な合区も経験していますが。
 さて、では行政区の適正規模は、どれほどのものなのでしょうか。それは、経験的に、概ね10万から15万人程度の人口規模であろうと認識されてきたようです。
 そこで、まず、京都市における分区の歩みを振り返ってみることにしましょう。
 京都市は、近代的な地方自治行政体として明治初年に誕生した時には上京と下京の2区で、この時にはまだ行政体としての京都市はなかった。すなわち、京都市では、市の誕生より先に上京と下京の2区が誕生していたということはさておき、明治22年に京都市が誕生した時には、この上京、下京の2区であったものが、都市の拡大発展につれて、上京下京が上京、中京、左京、東山、下京、右京、さらにこれに伏見区が加わり、すでに戦前の段階で7区となっていました。そして、戦後復興と周辺市町村の吸収合併による拡大発展により、昭和30年には北と南区を増設、昭和51年には山科と西京区を増設して、今日見る11区の構成となったのです。伏見区は、一時期には人口規模30万人近くになっていて、人口規模とその地域的特性などから分区することが検討されたものの、結局は実現せず、その後の人口増加の停滞などから、いまやそれも過去のこととなってしまっています。
 このところ、大阪市では、東京都に準じた都政を大阪にも導入したいということで、大変な問題となっていました。その大阪都都構想の主たるメリットが、「二重行政」の解消というように主張されていたようなのですが、都市の歴史は、それほど簡単なものではないでしょう。一つの都市としての長い歴史があり、行政組織としては、都市内にいくつかの行政区を置いているのですが、それは、人口規模とそれぞれの地域特性とを勘案した上での地域区画であり、行政区として一定の独立した行政を行いながらも、都市としての全体像の一翼を構成しているのです。行政区といえども、あくまで都市全体の中の有機的構成体なのです。行政区にいかに権限を付与したとしても、それは一つの都市自治体ではありえないといえるでしょう。ま、ここではあまりこのことについては踏み込まないことにいたしますが・・・。
 ここで考えるべき課題は、行政区の役割は、住民の日常生活に関わる仕事と同時にこれと不離一体の地域住民としての住民参加、そして身近なまちづくりなどの仕事ということになるのではないかということです。大区役所制の問題はこうした文脈で見ていく必要があるように思います。

●大区役所制の実現と課題
 区役所の業務には二つないし三つの流れがあります。一つは、住民に直接かかわる業務で、これは昔の言い方でいうと、戸籍や住所登録、税など住民管理に関わる仕事。二つには、住民自治にかかる地域住民組織との関係。三つには、まちづくりなど比較的身近な都市整備に関する仕事。ということになるでしょう。とはいいながら、それぞれに、区役所の仕事は標準化された仕組みのなかでの実施部門であり、自ら企画するレベルのものではありません。それは、各行政区が、自治体として独立しているのではなく、一つの都市自治体のそれぞれ部分を構成し、他の行政区と同一のレベルの行政を進める必要があるからですね。ですから、基準となる元の仕事は、本庁の各セクションがその企画調整を担うことになるのです。この権限をいくばくかでも行政区に移譲することはそうたやすいことではなりません。しかし、大区役所制という以上は、そこに手をつけざるを得ないわけです。
 今一つ、区長の位置と役割です。区長は、行政組織における機関の一つです。それだけであれば、本庁各局長よりも下位の位置づけをされてきた他の政令都市の例でいいわけですが、京都市の場合には、同時に、京都市域の中における、一定の行政区域を代表する役割もあるものと考え、これは、その行政区におけるいわば「小型の市長」であるとの考え方もあったようなのです。このあたりが、京都市における区長の位置づけの高さに影響を持ってきていたのですが、はたして、大区役所制ともなれば、区長が区民を代表する側面がクローズアップされてくるのですね。
 もう一つ、最もわかりやすいものとしては、局系列の事業所で、必要なものを区に移管するというケースです。これには、先に述べた土木や農政とは逆に福祉関係、衛生関係などの区への吸収という問題があります。大区役所制へのあゆみはまずここから始まったのです。
 さて、そこで具体的に見ていきましょう。
 区役所の改革で最初に手を付けたのは、窓口の一元化にともな区役所業務の機能的一体化です。1964年7月に中京区役所の朱雀支所がそのためのモデル庁舎として改築されたのを最初とします。そしてこの窓口一元化の動きは、その後、福祉事務所や保健所をも含む総合庁舎化へと発展し、庁舎の新築や改築と併せて全区に及び、従来区行政の外にあった福祉事務所や保健所を同一の庁舎に包み込むことになったのです。これが、ついに組織の統合に及ぶことになるのです。福祉事務所の業務は区の住民登録や税、年金などの業務と密接であるし、福祉の業務は衛生業務とこれまた密接に関係しているのです。と同時に、ひとたびは行政区ごとよりも全市的に企画実施した方が実効性があるとの考えから、土木関係の事業を区から切り離したものの、住民参加への機運の高まりと全市的な都市整備の進展の中で、地域の特性を地域自らが築くという考えが高まり、先に述べた、区を代表する区長の手元で、そのための一定の企画能力を持つ体制が考えられるようになったのです。
 1986年4月にそれまでの区助役が副区長にその名称を変えます。これは、区助役が区長を内部的に補佐するだけではなく、必要に応じて区長に代わって区を代表する意味をもつことになるのです。区が、広報・広聴を充実させ、住民団体との関係をたかめてきたことがその背景にあったのでしょう。
 以上のような歩みを背景として、1985年4月、田辺市長のもとで、区を単なる市民の窓口業務としての行政機関から、地域の総合的な行政機関としての充実を図るために、副区長を2人制にします。分担は、総務課を吸収した地域振興室担当と、市民窓口課担当です。そしていよいよ、分権化の時代を背景に、桝本市長になって大区役所制へ踏み出すことになります。桝本市長就任の翌年1997年4月、大区役所制導入の第1弾として、福祉事務所を区福祉部として区役所に組み入れ、担当副区長を新設して、副区長は3人制となります。そしてその翌年4月には保健所を区保健部として組み入れて、副区長は4人となります。こうした体制整備の上で、21世紀から始まる新しい京都市基本構想では、行政区ごとの基本計画も策定されることとなり、1999年には策定は完了するのです。その策定過程も含めて、地域の総合的な行政機関化はこうして大きく前進することになります。

●大区役所制再考
 ここで、今少し、行政区と都市行政全体との関係について考えてみたいと思います。
 行政区は、先にも触れたように、まず第一義的には、住民の諸手続きにかかる、住民の便宜を考えた行政組織です。そしてこれに、住民自治にかかる、各種住民の地縁的組織とのこれも日常的な関係をもつ組織です。そしてこれに、その時代の状況に対応しつつ、行政区内の小規模の都市整備など地域の特性にかかる事業を、その地域の住民、すなわち区民とともに考え、実行していく仕事が加わるのです。とはいいながら、都市行政は、都市全域、さらには近接自治体はもちろん、国土全体のなかでのあり方を考える中でのまちづくりをはじめとする事業を考え、実行していくものです。ですから、行政区の第一義的な住民の諸手続きにかかる仕事以外の業務は、都市全域の業務と不離一体のものなのです。行政区に大区役所制を導入しても、行政区自体は独立した自治体にはなりえないものですね。あくまで、都市全体のなかでの有機的な構成体なのです。ですから、一定の程度までの自律的な都市行政の一部を担うことは可能ではあっても、それは住民参加によるその地域の企画調整までであって、その事業実施、例えば道路や下水道整備などの事業実施部門まで抱えるとなると極めて非効率な事態を生むことになります。
 行政区は、あくまで住民の日常生活上の便宜のために、人口規模などを考慮しながら、その時代時代に適合して分割しまたは統合するものですが。都市は、そうしたものを含みながらも長い歴史的な蓄積の上で、地縁的、社会的、自然的、経済的な条件などある種人為的な条件を越えて、住民の営為の結果として自然的に形成されてくるものでもあるのです。
 かつて京都は、1200年以前に都として、平安京が建設されました。それは、「官都」ともいうべきものでした。それが数百年の歩みの中で、概ね堀川以東のまちとなり、まちの性格も庶民が住み、働くまちへと変貌し、しかも京都のまちは、上京と下京という二つのまちから構成されるものとなりました。上京は、御所を中心とした役所街と西陣、下京は商人を中心とした民間人のまち、というように。この時代の自立、自衛の時代の住民たちが「町衆」と称されてきたのです。その伝統は近世を経て近代にも受け継がれ、京都市が誕生する前に、先に上京、下京の2区が誕生していたのは先に見た通りです。このように、都市そのものは、軽々に分割することはできませんが、行政上と住民の便宜のための御製の仕組みとしての行政区による分割は、都市行政総体を崩すものとはなりません。しかし、行政区が、都市自治体として自立することは、基本的には不可能でしょう。大阪都構想は、行政区を一定の自治体に格上げし、大阪市の行政機能を都とした大阪府が代行するものですが、まず、特別区が、どこまで都市自治体たりうるのか、という問題とともに、大阪都となる大阪府の行政領域が、大阪市の領域を超えているために、基礎的な自治体である都市自治体としての大阪市の行政領域をとどめる自治体は消滅するのです。地方自治行政上は、ここが大問題なのですね。大阪市を行政領域とする責任体制は、もはやどこにもないのです。ちなみに、府県は、戦前までは、国の地方組織であって、知事は国の地方長官だったのです。こうした国の統治機関としての府県の性格は現在にもその影を宿していて、国の統治は都道府県を通して今も続いているのです。ですから、大都市行政をなくして、都の行政がそれを担うということは、ちょっとそれは違うのではないかということになるのです。
 さらにまた、経済界の面々にとっては、実のところ、地方自治の必要性に関してはあまり関心がないのです。経済活動の効率性からすると、地域自治は「不都合」ですらあるという認識です。京都市ではまた、かつて府知事は革新系の蜷川虎三、京都市長は保守系の高山義三と、いずれも圧倒的な人気を誇った首長の下で長らくやってきました。これは、一つの立場からすれば不都合かつ非効率なことなのでしょう。けれどもこれは、民主主義のための、チェック・アンド・バランスで、市民、府民はそのことを選択してきたのです。政治が、一面に偏り、過ちに陥らないために、こうしたチエックアンドバランスは、あらゆる面で必要なのではないでしょうか。効率一辺倒の時代に進みつつある今日こそ、こうした考え方が大切なものとおもわれるのですが。

  3.行政組織の改編

●行政組織の分散と統合
 市の行政組織、すなわち局の数が最大となったのは、京都市が政令指定都市となり、京都府から民生や都市計画など18項目の事務移譲とそれにかかる職員の移管を受け、1958年4月に大規模な組織改正を行ったことが、戦後の歩みの中で大きな画期となったようです。ちょうどこの時に、私は京都市役所に入植し、この時に誕生した農政局の庶務課庶務課庶務係に配属されたのです。この時には、同時に、商工局や文化局、観光局も開設されました。住宅局もこの時でした。それまでの6局2部1室体制から、一気に11局1部3室体制に拡大したのです。そして、1960年7月には13局1部3室に、そして1962年4月には14局1部2室となり、これが京都市における組織の最大の時期となり、1965年2月に、市行政の近代化を図るための行政改革の一環として、トップマネージメントの導入とともに、拡大してきた行政組織も11局1部体制とまとめ上げられ、以後の京都市はこれを基礎として多少の増減を繰り返してきたといえます。その場合の事業は、概ね多様化した市行政を統括調整する企画調整部門の役割の活用いかんにかかわるものであったといえます。そしてこれを大きく変えたのが、デフレ下の組織改革です。いうまでもなく、経済の高度成長と都市の拡大発展も一段落し、組織の縮小が課題となる一方、行政課題も局ごとの縦割り領域を超えた横断的かつ複雑な課題が多くなり、組織横断的なプロジェクトが多用されるようになります。こうして、いったん細分化してきた組織が、再びまとめられるようになりました。1990年代後半はまさしくそうした時代でした。そしてその前に、かつては、局の下には課が配置されていたのですが、1986年4月、局の下に部が設置され、課は部の下に編成されるようになりました。そのうえで、1995年4月の機構改革で、組織は大きくまとめあげられるのです。これは、田辺市長の置き土産とも言え、桝本新市長はその体制の上で、実行に臨むことになったのです。では、この時の組織改革はどのようなものだったのでしょうか。
 1995年4月、文化観光局をなくして、新たな文化市民局と産業観光局に再編成するとともに、都市づくり4局を、都市計画局、都市住環境局、都市建設局の3局に再整備するほか、この時同時に、区役所の副区長2名体制を整えて地域行政の総合化への1歩を踏み出しました。
 こうして、行政組織は大きくまとめられるようになるのですが、それは、局長の所管する事務が大きくなるため、結局、局の中に、局長級の○○担当局長や、その後、局から独立した○○政策監といった職を設け、行政改革による局の統廃合は、実態的には難しい実情を示すことになります。局の統廃合により、局長の抱える所管事務は拡大し、局長の役割は、事務の統括者としての位置を強めることになります。担当局長は、局長級として一定の事務を所管し、企画政策監は、市長・副市長のスタッフとして一定の事務を所管する、ということで、組織の簡素化が逆に人事の複雑化になっているのですが、これは、市職員の職位の向上のためにもやむを得ないものなのでしょう。ただ、こうした状況は、トップマネージメントのより一層の向上を必要とするのでしょう。

●総合企画調整機能の実現
 トップマネージメントにはいる前に、トップマネージメントの基盤となる「企画調整機能」について、先にふり返っておきたいと思います。この機能は、実は、トップマネージメントを確保するための必須条件となるもので、大変重要なものですから。トップのリーダーシップとは、トップが独断で決断し、突如として何か新しい施策を打ち出してその実行を指示するものではありません。トップの政策判断も、それは政策形成過程を明らかにするものでなければなりません。
 すでにみてきたことではありますが、今川市長は、トップのリーダーシップとは、とにかく自分が判断することだという短絡した考えに陥って失敗したケースでした。今、政府で、安倍前政権の時や菅現政権においても、総理指示や、突如とした総理からの政策発表や指示が出されていますが、これらなども、その政策形成過程が一向に明らかではありません。どのようにしてそういう政策が発想され、どういう手順を踏んで一国の政策になっていくのかです。すべては総理指示では、これはリーダーシップ性でも何でもありません。
 リーダーシップとは、必要なセクションを動かし、期待に値する成果を生みだすように仕向ける指導力のことなのです。指示に従うか否かでは、それは独裁政治そのものです。
 というようなことで、まずここでは、企画調整機能のあゆみについて振り返っておきましょう。
 戦後京都市における企画機能は、以下のような歩みとして今日に至っています。
 まず、1960年7月における「企画室」の設置です。これは、戦後財政の窮乏化による財政再建計画が1956年から始まりますが、経済の高度成長にも助けられて、7年間の計画が6年に繰り上げ完了するというように順調に進んだことから、京都市でも、ようやくにして本格的な都市整備を構想する段階に来たということから、戦後京都市の企画行政を築いてきた記述の斎藤正によって組織開設に至り、2年後の1962年4月、折からの第1次全国総合開発計画と近畿圏整備の動きに呼応して企画局に格上げ、これが京都市の総合計画「京都市総合計画試案」の策定を担ったのでした。その後、建設省から招いた人材によってハードプランニング中心の長期開発計画が策定されますが、そのセクションは、企画局から計画局に移るのです。ただ、この段階では、1966年1月に井上市長が急逝したことによる市長選挙で、2月に革新市長が誕生したことから、その計画はボツとなったのでした。
 次は、1968年4月の調査室の設置となりますが、その前に、過渡的な一時期がありました。 富井市政になって、井上前市政下の「長期開発計画案」は否定され、代わって富井市政下での新たな「まちづくり構想」が策定されるその担当セクションは、必ずしも十分な準備と備えの中で行われたものとはいえなかったようです。長期開発計画策定を担っていた計画局は都市開発局に改編され、そこで、新たなまちづくり構想が策定されたのです。この組織はその後開発局を別に設け、都市計画局に改組されるのです。「まちづくり構想―20年後の京都」は1969年4月に策定されました。ただ、ハードプランニング中心
の都市整備構想は、市政全般に及ぶ企画調整を必要としませんでした。市政全般を、革新市政という新しい行政体として市政をすすめていく中枢セクションとしては、新たに調査室が設けられたのでした。しかし、この組織が、市長直属なのか助役管轄なのかが不明確なままに推移したのが実態だったようで、課長クラスの担当者が、それぞれ自由にふるまっていたのを記憶しています。ただ、この組織も、舩橋市政になって、廃止されました。舩橋市長は、既存の縦割り組織を活用することに長けていて、横断的な統括組織を必要とはしていなかったからです。こうした舩橋市政ですが、まちづくり構想の見直しの過程で、企画調整組織が誕生してくることになりました
 まず、1977年4月、都市計画局庶務課を企画課に改組、その2年後には、新に始まった京都市基本構想策定のために、その専任の組織としての企画課としするも、さらにその翌年の1980年4月には、都市計画局を計画局に編成替えし、企画課を企画室に格上げすることになります。同時にこの時に、総務局に調査課と文書課からなる調整室を設置し、若干の調整機能を持たせることになりました。京都市基本構想は1983年にその策定を終え、企画調整組織もこれに伴い再編成されます。
 1985年3月、総務局に企画調整室が設置され、ここで、折からの建都1200年記念事業を担うことになると同時に、まちづくり構想策定時には、その進行管理を担う組織がなかった反省の上に立って、今般の京都市基本構想・基本計画の進行管理を行うことになったのです。そして、計画局の企画室は都市企画室なります。計画局はその後1990年4月に元の都市計画局にもどりました。そしてこの時に、田辺市長による新基本計画の策定を担う、企画調整局が設置されることになります。そしてまた、桝本市長による21世紀からの新たな第2次の京都市基本構想策定を担う総合企画局が1997年1月に設置され、ここに21世紀グランドビジョンが策定されたのです。
 こう見てくると、京都市の企画調整機能は、基本構想・基本計画の策定とその進行管理のために折々の市長と折々の節目で多少の再編成をされながらも続く時代となったようなのですが、それだけ、市行政の進め方が、計画的、体系的になってきているといえるのでしょう。

●トップマネージメントへの期待と条件
 さてそうなると、市行政のトップはどうなのかという問題です。いわゆるトップマネージメント自体の計画的、体系性の問題です。
 1964年11月、高山市政終盤に、「助役会」が設けられます。それまでは、市長を補佐する助役が、それぞれ市の事務を分担して執行していたのですが、もちろん必要に応じて、市長、助役、関係局長を交えた会議は行われていたものの、組織的に位置付けられた「会議」というものではありませんでした。それが、1962年3月の財政再建計画完了後の、あらたな京都市の飛躍に備えての市政の近代化のための行政改革の一環として、トップマネージメントを確立するために、はじめて「助役会」なるものが設置されたのです。メンバーは、市長、助役、収入役に財政や人事、市会、企画調整などを担当する管理部門の局長らに、議案に関係する局長を加えた構成です。この形態は、その後ずーっと続くのです。これが代わるのが桝本市長になってでした。
 1996年4月、就任直後の桝本市長は、先述したように、助役の呼称を副市長とすると同時に、助役会を「政策推進会議」に変更しました。この時に、田辺市長のときの1993年3月に、新京都市基本計画を計画的に推進するために、市長、助役、関係局長等の構成で設置された「企画推進会議」は存続させ、その名称を「企画調整会議」に改めました。その後、2004年4月には、「都市経営戦略会議」を最高意思決定機関として新たに設置、その下に副市長を議長とする「都市経営調整会議」などを設け、新たな都市経営政策を進めるためのトップマネージメントの強化を図ります。そしてさらに、門川市長誕生翌年の2009年4月、「都市経営戦略会議」は「未来まちづくり戦略会議」へと改組されます。
 こうしてみてきますと、トップマネージメントとしての京都市の最高意思決定機関は、1990年代に入って、市長が代わるごとにその名称が代わってきているのがわかります。それは、京都市基本構想・基本計画とその実施計画の作成実施を基調としながら、時々の市長の基本戦略のようなものをそこに表そうとしているからでしょう。そこで、では、トップマネージメントとはいったい何なんだろうか、ということを、ここで考えてみたいと思います。
 地方自治法では、都市の自治体には、市長の補助機関として、議会の同意を得て副市長(かつては助役)を設置すると規定されていて、その数は自治体が自由に決めることができることになっている。京都市の場合は、過去1人から3名で、最近では、2名が京都市内部から、1名は、国土交通省(元建設省)と総務省(元自治省)出身者が交互に任命されています。この3名の副市長は、かつては第1助役、第2助役・・・とそれなりの順位があったようですが、現在では建前としては全員同列で、それぞれ、担当部署をもち、その担当部署からの相談を受けて、または指示して、市長と相談しながら市長の権限を、分任して執行しています。この市長と副市長の体制が、市のトップマネージメントです。かつての助役会でのこともよく聞かされてきたことですが、この助役ごとにそれぞれ持ち分があるため、その部分については、お互いにできるだけ干渉しないようにしてきているので、この縦割りの人ごとの持ち分を決めている限り、そこに組織をかぶせても、なかなかその殻を破ることは難しいのです。各セクションにまたがる横断的な仕事が増えることにより、縦割り行政の弊害が叫ばれるようになってはきているものの、この骨格はそう容易に崩れるものではありません。この問題の解決は、組織論とは別に、それに対応する人間、”人”の問題があるのです。トップマネージメントというものは、組織の装いだけでは不十分で、見識と責任あるトップの人物の存在が必要なのです。すなわち、どういう人物を登用するかが組織論以上に重要なのです。”人には組織”、”組織には人”が必要です。そして、より上位の職になればなるほど、組織よりも”人”の方がより重要となってくるのではないかと考えられるのです。

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終章 21世紀を迎えて