第3章 1980年代(昭和56-平成2年)

国などの動き
 1980年代は、81年の第2臨調に始まる戦後総決算といわれた行政改革に始まり、85年先進5カ国の為替安定化に対するプラザ合意による80年代後半の急激な円高による土地、株、資産などのバブルの発生、他方での89年のベルリンの壁の崩壊など内外の激動に見舞われる。東京一極集中が健二化するのもこの時期です。東京ディズニーランドがオープンするのが83年、電電公社が民営化するのが85年、国鉄民営化によるJR4社が発足するのが87年で、この年には全国総合開発計画は第4次を迎えます。そして、89年4月に消費税が導入されます。中曽根内閣は82年11月に誕生しますが、ここでもって先に就任していた、イギリスのサッチャー首相(79年5月)、アメリカのレーガン大統領(81年1月)の三者がそろうことになります。
 また1980年代は、地方にとっては最盛期には全国百数十都市にも達していた革新自治体も減少に転じ、代わって地方の元気は、都市から府県へと移行していくことになります。いわゆる「地方の時代」は、府県の時代でもあったのであり、基礎的自治体の低迷がわが国の地方自治にとっての問題となります。また、この時期には情報公開が重要な課題となってきます。京都府では、84年4月には林田知事に代わって、荒巻知事が就任し、府市との関係はいわば純行政ペースでの関係となっていくことになります。

京都市の動き
 この時期、1980年代の京都市は、舩橋市長の病気辞任により、81年8月に今川市長が就任、89年8月に田辺市長が就任するというように、概ね今川市政下にあります。
 舩橋市政の最終盤、80年には市立芸術大学の学舎が大枝沓掛に完成、京都で始めての地下街が京都駅前に「ポルタ」としてオープン、翌81年には社会教育総合センターとこれも初の市立中央図書館が開館、そして待望の地下鉄烏丸線が開業します。
 舩橋市政を継承した今川市長は、舩橋市長が大胆な問題提起をしていた空き缶問題について、市長就任直後に空き缶条例を制定する一方、百万本植樹運動を達成します。82年には府市協調による「子ども文化会館」が完成し、「婦人問題解決のための京都市行動計画」を策定、83年にはこれも舩橋市長の下で進められてきた初の京都市基本構想が市議会で可決されて、長期間にわたった策定作業を完成させます。84年には京都駅南口再開発ビル「アバンティ」がオープン、旧市長公舎跡での「京都市公館の開設、京都駅南における「国際伝統工芸博・京都」の開催、平安建都1200年記念事業の決定と続きます。しかし、81年1月古都保存協力税の市議会可決と同時に発覚した土地改良事業をめぐる幹部職員の汚職事件は、古都税問題での仏教会との軋轢と合せて、市政の混乱と停滞を招くことのなります。
 80年代後半はそうした市政の混乱停滞を抱えつつ、他方でバブルの影響を受けつつも、85年自転車放置防止条例の制定、87年市民栄誉賞と国際交流賞の創設、そして、古都税条例を廃止し、同年11月、第1回世界歴史都市会議を京都市で開催し、事実上これでもって今川市政の幕引きとなります。この87年には、初の地域文化センター「東部文化会館」が山科にオープン、世界文化自由都市宣言による提案の一つである国際日本文化研究センターが発足します。88年には総合設計制度の実施、住民基本台帳のオンラインシステム(電算化)がスタートします。そして89年には市制100周年記念事業が実施されます。

第1節 舩橋市政から今川市政へ
    

 1976年(昭51)に市政調査会事務局長に就任以来1988年に市政調査会を閉会するまでの期間にほぼ相当する時期。閉会した市政調査会は、京都市に移管され、1989年(平元)3月京都市市政調査研究会として総務局の所管となり、筆者は引き続きその事務局を預かるも、翌1990年(平2)6月、事務局は企画調整局活性化推進室都市政策課に移り、筆者は最終的に退任する。

 1.舩橋市政の継承

●舩橋市長の倒病から今川市長誕生への日程
 舩橋市政から今川市政への移行は、ある意味で淡々と進んだといえます。その様子は、舩橋市長の倒病から今川市長誕生までの日程を見れば理解でするでしょう。そこで、当時の私のメモをここに掲載します。社会党がいち早く推薦決定してことに、オール与党体制を性格が表れているといえましょう。
 <1981年>
  5月6日::舩橋市長、くも膜下出血で倒れる
  5月15日::入院2カ月の必要を発表
  7月4日::市長、辞任の意向表明
  7月5日::各党とも協議
      社会党、今川市長職務代理を後継者に推薦することを決定
  7月6日::市長、市会議長に辞表提出
      各党出馬要請:社会党、公明党、共産党、自民党
  7月7日::市労連、今川氏に出馬要請
  7月13日::市選挙管理委員会、市長選挙日程を決定 告示8/10 投開票日8/30
  7月26日::舩橋市長失職
  7月27日::今川市長職務代理者、立候補決意表明
  7月29日::今川支持を決定 民社党、京都社民連
  8月11日::6党相乗りの無風批判で、新自由クラブの元代議士・加地和氏が立候補し、 対立選挙に
  8月30日::今川正彦市長誕生

●舩橋市政の仕上げ
 今川市長は、舩橋市長の大番頭であったため、突如として病に倒れた舩橋市長の遺志をひきつぐのは至極当然のことであったに違いありません。しかし、くも膜下出血で倒れた舩橋市長の明確な意思は本当はわかりにくいものであったに違いありません。そこのところについて、舩橋市長は明確な意思をもって今川助役の手を握った、ということで、後継者選びは落ち着くことになります。本当のところはどうだったのでしょうね。
 いずれにしても、オール与党体制による舩橋市政と同様の市政が継続することになり、舩橋市政の基本的な政策の仕上げが最初の仕事になります。そして、今川市政としての独自性の発揮はそののちということになります。
 そこで、まずは、舩橋市政の重要政策でやり残したところについて、その仕上げをすることになります。
 舩橋市政が油の乗り切ったところでの突然の終えんのため、重要施策についてもその結末をまとめ上げる直前でストップすることになります。ですから、舩橋市長の後継者としては、まず舩橋市長が力を入れてきた重要施策を仕上げることが最初の仕事となります。そののちに、自らの意図する「まちづくりの今川」の本領発揮に向かうのです。
 舩橋市政の重要施策で未解決ないし仕上げを要するものは、象徴的には、すでにこれまでから取り上げてきた「京都市基本構想策定」と「空きかん条例問題」、それに「福祉市政の仕上げ」ということになります。
 まず「空きかん条例」問題は、舩橋市長が倒病してのち、舩橋市長職務代理の手で、無理な対決は避け、企業サイドとの共同行動の可能なレベルでの収束をはかる方向で、5月の段階で条例案の大綱を取りまとめ、食品容器環境美化協議会など全国の空きかん関係団体とも合意を形成し、行政としての具体的な歩み出しに向かうことになりました。その歩みは次の通りです。
1981年 9月12日::「京都市飲料容器等の散乱の防止及び再資源化の促進に関する条例」案を発表し、市議会に送付
  10月9日::市議会、全会一致で可決、成立
1982年1月27日::条例に基づく「京都市飲料容器対策審議会」設置 
    6月14日::上記審議会「総合施策の策定及び散乱防止重点地域の指定について」答申
    8月10日::「京都市環境美化事業団」設立 10/1事業実施
 こうして、全国を沸かした空き缶問題は、デポジット制は将来的な課題として残したものの、環境美化と再資源化という画期的な問題解決へ大きな歩み出しをすることになりました。なお、全国的には、関東方面の自治体で、なおデポジット制に挑戦する動きは続くことになる、というように、この問題での京都市の投げかけは本当に大きなものがありました。

 次に、京都市基本構想・基本計画の策定です。これも、概ね舩橋市政下で作業が進められ、今川市政になって最終的にまとめられました。井上市政下での「長期開発計画」、富井市政下での「まちづくり構想−20年後の京都」、舩橋市政下での「まちづくり構想の見直し」と世界文化自由都市宣言を契機とする「京都市基本構想・基本計画」策定作業の上に、京都市として初めての自治体の基本構想・計画が最終的に策定されたのです。基本計画は、20年スパンでの見通しの下での自治体の将来像、基本計画では、10年スパンでの実施計画を策定し、自治体運営を、将来的な見通しの下に、総合的かつ計画的に執行していこうとするもので、成り行き任せや、恣意的な運営を避けようとするものです。
 策定に至る日程は、次のようです。
  1982年8月25日::市基本構想調査研究会が京都市基本構想案(審議会への諮問案)を取りまとめ、発表 
    9月 2日:: 京都市基本構想審議会を設置 会長・米谷栄治京都大名誉教授 基本構想案を諮問
1983年3月11日::京都市基本構想審議会 京都市基本構想案を市長に答申     7月26日::市会において京都市基本構想を可決 8月-  ::基本構想調査研究会「基本計画」策定作業開始 市民提案も募集 
1984年7月21日::京都市基本計画骨子を発表 
1985年5月 8日::「京都市基本計画」発表 

 そして、次には福祉市政の仕上げです。
これは多分に理念的なものと考えられます。福祉の総合的な政策体系は既に舩橋市政で出来上がっていますから、ある意味でその完成形態を見ることなく突如として倒れた、そうした福祉の舩橋市政の継承者として、福祉市政の仕上げという構え方となったのでしょう。1980年代に入るや、国、地方にわたる行政改革が進められる中で、福祉と公務員給与がそのターゲットになるなど、福祉を取り巻く環境の厳しさが増してくるという状況のなかで、一方では残された課題の、他方では新しい政策需要に応えつつ、全体としての福祉市政の維持発展をめざして、まずは、着実に歩んでいったといえるでしょう。
 そして、この福祉市政の仕上げは、もう一つの意味がありました。それは、舩橋市政の継承者ではあるけれども、今川市長の持ち味、すなわちその本分は、まちづくりにあることです。ですから、「福祉の舩橋」から「まちづくりの今川」への展開が必要となってきていたのです。ですから、舩橋市政の「福祉市政」を継承しつつ、その仕上げによって一定のけじめをつけて、市政の看板としては「まちづくり」が今川市政の看板となるはずでした。
 もっとも、舩橋市政もまちづくりをしなかったのではなく、その2期目以降は、「福祉のまちづくり」として、福祉に係るインフラ整備を重要視するようになってきていたのであり、「福祉」から「まちづくり」は、それなりの流れにあったのではないかと考えています。

●舩橋市政の継承課題 当時の捉え方
 今、手元にその当時の捉え方を示す一文、「舩橋市政の継承課題を考える」があります。京都市政調査会会報に掲載したものです。今見ても要領を得ていると思われるので、その主要部分を参考までに掲載します。同会報は1981年7月発行の第35号です。筆者は私です。

  闘病二か月にして、舩橋市長は、七月六日、遂に辞表を提出するところとなった。昭和四六年二月二六日、公選第五代の市長に就任し、富井市政を継承して以来一〇年、それは丁度、日本の高度成長経済が行きづまりを見せた時期に遭遇したわけであるが、それだけに厳しい環境下にありながら、特質のある舩橋市政を築いてきた。今、その病いの一日も早い回復を願いつつも、併せて、舩橋市政の継承課題を考えることが、 一〇年の労苦に応えることではないかと考えるところである。
 舩橋市政の特徴は、何といってもその福祉政策にあった。福祉の風土づくりにはじまり、いわゆる福祉体系(「市民の健康と福祉に関する総合政策体系のあり方」)の完成は、「福祉の舩橋」として、全国的に注目されたところである。しかし、単にそれだけではなく、まちづくりにおいてもその能力を発揮した。富井市政下で企画された洛西ニユータウンや地下鉄鳥丸線は、いずれも舩橋市政の下で、着手され、完成をみたのである。舩橋市政は決して、狭義の「福祉の松橋」市政ではなく、「人間尊重、市民本位」の精神でもって、 ハード、ソフトの両面を含む総合的な市政の展開をめざしたものであった。
 舩橋市政は、概略二期に区分することが可能かも知れない。政治的には、五党推薦となった昭和五〇年の再選以前と以降とで区分することが可能であるが、行政的には、再選期の半ば頃をもって、前期と後期にわけることが可能であろう。後期の特徴は、「福祉の舩橋」を超えて発展しようとした時期であり、それを象徴するのが、昭和五三年一〇月一五日に発せられた「世界文化自由都市宣言」であった。それは高度成長経済が行きづまり、経済が停迷期にはいったという環境的条件もさることながら、高度成長に対する抵抗的な都市づくりから、未来にむかう都市づくりをめざそうとするものであっ
た。そこには、 二つの問題が存在する。 一つは、大都市の都心部の荒廃化に対しては、守りではなく、積極的な攻めの都市政策が必要となってきたこと、二つには、市民生活は、次には、文化を要求するものであること、とりわけ京都にあっては、生活に文化が不可欠であり、歴史的文化を軸とした常に新たな文化創造が要求されることである。
 人間都市をベースに、歴史的な文化都市を頂点とした、 ハードとソフトを含む総合的な都市政策の樹立、 それが、世界文化自由都市宣言とそれに端をはっした「京都市基本構想」策定作業にほかならない。しかし、そこで必要となる基本的な問題は、そうした総合的な都市政策をすすめる主体形成の問題である。だれが、どのようにそれをすすめるのか、そこに、市民参加とそれに呼応する行政体制のあり方がある。「空きかん」問題は、或る点でそこにつながるものであつた。
(以下略) (山添)

●世界歴史都市会議←世界文化自由都市
 世界歴史都市会議は、1985年9月27日、今川市長の提唱に始まります。この時期、今川市長は再選を果たした直後で、後述の古都税のいわゆる「西山問題」に揺れ始めるころです。この歴史都市会議が、どのような経過をもって登場することになったのかについては、残念ながら私は知りませんでした。しかし、世界歴史都市会議は、次のような意味をもっていました。 
 まず、古都税を収束させるきっかけとなすことです。市政を揺るがすことになった古都税紛争を終結させ、今川市政の体制を整えるきっかけとなし、「まちづくりの今川市政」に早くスイッチしていきたい思いがあります。世界文化自由都市宣言の趣旨にもかない、また、平安建都1200年の記念事業としてもふさわしいものであることに大方の異論はなかったでしょう。で、あればあるほど、その直前の市長選挙の公約にも、また、その年の新春の抱負などにもなかったこれほどの大きなイベントへの考えが、選挙後ひと月で打ち出されることに対する意外感は、当時強く抱いていました。しかし、その3か月後の12月10日には、早くも「企画委員会」を設置し、翌年2月24日には開催のテーマや日程、招聘都市を確定し、3月31日には基本構想を市長に答申するというように、とんとん拍子に事は運んでいました。そして、世界歴史都市会議は、1987年11月18日から20日にかけて、国立京都国際会館で、参加25都市でもって開催、次回フィレンツェで開催と、継続開催することになりました。大成功ですね。
 今川市長は、この歴史都市会議を起死回生のイベントとして成功させ、その勢いで、3期目もめざして、いよいよ「まちづくりの今川市政」に邁進したかったと思われ、その執念も見せていたが、結局、各党が今川離れをすることにより、歴史都市会議が引退の花道になったのです。
 ここでひとこと付け加えておきたいことがあります。それは矢野暢京都大学教授のことです。同氏の世界歴史都市会議への活用については要を得た人選との高い評価がありました。京都市としても未経験の世界への活動について、ノーベル財団との関係もあった同氏の寄与するところは大きかったといえます。この同氏は、また音楽への造詣も深く、京響への指揮を執ることもあり、経営の危機にあった京都市交響楽団へのこれ以上はないテコ入れをするところとなり、京都市交響楽団の再生とそのホームグランドとしての音楽専用ホール、すなわち京都市コンサートホール開設への功労者となったのです。京響は、その創設以来、一貫して経営の危機にあり、楽団員のたえざる努力があったものの、その打開は困難だったのです。私も、常任指揮者の政治性とも関係して楽団が揺れ、京響のあり方が問題化していた当時、楽団員の方々とその打開策を検討したことがあるだけに、ある種感無量の気持ちをもってその推移を眺めていました。政策というものが具体化するときの条件のようなものが、良し悪しは別にしてあるものだな、ということです。

 2.今川市政の体制=スタートからの躓き

●三役と三局長
 今川市長は、おそらく本音の部分では、京都市の体質、特に土着的な利害関係には合わなかったのではないかと思われます。ですから、逆に、それに抵抗や対抗することなく、大体においてなんでも聞いて、それに応えるということで、大方の好意的な評価を得ていたのではないかと思っています。物分かりのいい、なんでも応じてくれるいい人という、助役までの今川市長と、自分が最高の責任者となったときの今川市長は、その辺のことが根本的な問題としてあったのでしょう。しかし、すでに先にも触れていたように、野心は、若いころから結構あったようで、内に秘めた市長になることへの意欲はけっこう強いものがあったであろうことは推測されました。
 こうした今川市長は、自らが直接的な形で地元利害と衝突することは望まず、助役人事でそうした新たな関係を構築しようとしたのですが、その試みはうまくいかなかったようなのです。今川市長は、助役人事において、建設省からの人材を導入しようとしたもののそれは潰され、結局、助役人事は、地元利害そのものの体制となります。すなわち、3助役体制を敷いたものの、その顔触れは、今川市長よりも、それぞれの自分なりのスタンスで行政を進めようとする顔ぶれでした。すなはち、木下稔、城守昌二、奥野康夫の3名でした。木下助役は経済・政治関係で独自の世界をもち、城守助役は教育畑ベースに新たに市長部局に進出、奥野助役は庁内人事を掌握して、しかも城守、奥野両助役は連携しているというもっぱらのの評価でした。しかし、この両者の関係も、いよいよ権力奪取が近づいてくるとなかなかに微妙で、その違いも後には鮮明になってくるのですが。
 助役体制で、自らの意思を貫けなかった今川市長は、スタートにおいて半ば挫折したともみることができますが、今川市長自身は、ここでもうひと頑張りします。すなわち、中枢部の局長の配置で、自らの意思を貫くことになりました。すなわち、職員局長に清水武彦清掃局長、総務局長に東和男民生局長、そして城守助役の牙城である教育委員会の教育長に高橋清東山区長を充てるというように、いわゆる今川親衛隊三羽烏を配置したとの評価でありましたし、その当時、私もそのように思っていました。そして、この三羽烏は、今川市長の体質とは別に、どちらかといえば、左翼的な評価のかたがたであり、しかもその共通するところは、今川市長が都市計画局長であった当時の部下であったということでした。そして、この3人は、それぞれに独自のスタンスを持っていて、どう見ても今川親衛隊とは思えないのですが、今川市長は、長い京都市務めの割には、自らの守備隊を持つことなく、逆に言えば、誰かをガードすることのないかたで、いざとなると逃げてしまうという評価で、そのため、たいがいはほどほどの関係をもっているに過ぎなかった、といういうようなことが徐々にわかってきました。今川市長の有力な味方だと思っている人に、思い切って本当のところを突っ込んで話すと、たいがいの場合、以上のような評価であったのです。
 ここで、教育委員会について少しふれておきますと、富井革新市政成立以降、教育委員会は、それまでの高山市政下でのスタンスを踏襲し、独自の城を築いてきていました。そしてついに、教育長から助役をだすところにまで来たのですが、その代わりに教育長には市長部局からの、それも行政の筋を大切に考える従来の教育委員会にとっては決してありがたいとはいえない人物ではなかったかと思われる人物を教育長に迎えることになったのです。その新教育長の高橋清氏は、高山市長が、近代的な市役所とそれを担う有能な将来の幹部職員として期待をかけていた公務員法に基づく最初の競争試験採用者でした。そのため、同氏は若くして主計課長となるも、井上市政のもとで計画局管理課長となって長期開発計画にかかわり、その直後の革新市政下での「まちづくり構想」への転換を担当する計画局企画課長長に就任し、ここで計画局長であった今川市長とかかわることになります。
ここで注目すべきは、高山市政下で市行政の中核を担う存在に育ち始めてきた試験採用の1期生たちは、市長が代わり、保守から革新市政に転換する中で、権力中枢から排除されていくことが見られることです。こうした革新市政の負の側面として近代的な行政官僚の形成への途絶にあいながらも、結局人材不足から、徐々に試験採用者の復活が見られるようになるのですが、その間のロスには本当に惜しいものがあります。
 さて、教育委員会ですが、そうした京都市の最高のエースを迎え入れることになったのですが、実は、教育委員会は盤石だったのです。ある実力者いわく、「教育長は誰でもいいんだ。教育委員会はすでに盤石だ」と自信に満ちた言を述べるのです。
 こうして、3助役と3局長の人選は、かみ合わせも悪く、そこに市長のリーダーシップ性をうかがわせる理念的なものは感じられなかったのです。まさしく、今川市政は、スタート時点ですでに、自らの意図する市政推進の体制を確立することに失敗していたのでした。

●建設省からの人材導入
 だがしかしです、今川市長は結構しぶとい人で、スタート時点で自らの庁内執行体制を確立することができなかったとはいえ、任期の半ばに、建設省からの人材投入は成功します。1984年3月末の人事異動で、都市計画局長に建設省から木下博夫氏を迎えたのです。この建設省からの人材導入は、古都税や同和行政で揺れていた状況の中にあって、今川市長ははたして再選に臨んでくれるだろうかという大方の見方とは異なり、今川市長自身は再選の意欲をもって、エース級の人材を投入してほしいと建設省に打診していたのでした。その後の都市整備に係る展開状況を見るにつけ、この人事の大きさに感心しているところです。
 ただ、当時は、私と市政の問題状況を共有している職員たちでさえ、中央からの人材は不要だ、人材は地元京都だけで充分足りているという認識と対応でした。けれども、建設省からの木下局長は、のち、後輩の内田俊一氏を京都市に送り、両氏でもって、京都市の都市整備を進めることになります。そしてこの路線は、市長が代わっても、田辺、桝本市政へと引き継がれていくことになるのです。

 3.同和行政のゆがみ

●職員汚職の発生 鳥居事件
 これは本当に衝撃的でした。古都税条例が市議会で即決されたのが1983年1月の18日、その翌日には市幹部職員の公金詐取疑惑の情報が流れるや、20日に元住宅局改良事業室長の鳥居茂右京区長ほか1名が逮捕されたのです。改良事業室というのは、当時、同和地区の住環境改善整備を担当していた組織です。おそらく京都府警では、古都税条例をめぐる問題に対する影響を避けるために、逮捕の時期を考えたのであろうことは明らかでしょう。
 住宅改良事業にかかる公金詐取事件は、京都市の同和行政の根幹を揺るがす大事件で、古都税をめぐる騒動と同和行政をめぐる職員汚職事件の問題が同時並行的に進行し、スタートした今川市政は、その根底を揺るがすことになりました。
 鳥居元改良事業室長は、評判からは、競馬の馬主となっているぐらいの資産家で、カネに不自由しているような人物ではないにもかかわらず、何のために公金を詐取したのか、ということです。本人からは、逆に、京都市に、同和行政経費の立て替え金の返還を求める訴えを起こしているのです。そして、公判中の1987年2月、同氏は死亡し、真相は闇のままに終わるのです。
 問題の深刻さは、この鳥居事件に終わらず、さらに続くところにありました。1986年8月に再び、鳥居の後に改良事業室長であった亀田寿・文化観光局国体室長が詐欺容疑で書類送検されたのです。さらに鳥居事件以前の改良事業室の暴力団が絡む公金詐取事件も明らかになります。こうなると、これはもはや個人の問題ではなく、同和行政と部落解放運動活動家全てを覆う体質上の問題となってくるのです。何が問題であったのかについて、ここでは、主に京都市行政の体質上の問題を考えてみたいと思います。

●先進的であった京都でなぜ!
 いまさらいうまでもなく、京都市では、運動団体、市行政ともに全国の先進地でした。では、なぜにそこで、部落の居住環境を改善する住宅改良事業を舞台にこうした公金詐取のような事態が発生するようになったのでしょうか。ではなぜ、舩橋市政ではなく、今川市政になってこうした事件が噴出するようになったのか。こうした点について考えてみる必要がありますし、当時そうしたことを考えていました。
 これには、京都市レベルにおける問題と、全国的なレベルにおける問題との両方が作用しているのでしょう。
 全国的なレベルでは、やはり同和対策特別措置法の制定実施以降、やはり、事業実施に伴う利権の発生が重要な問題としてあり、この種の問題が、京都市でも、住宅改良事業に伴う特に用地買収や移転補償に絡んで発生したのです。
 今一つ、京都市レベルの問題としては、舩橋市政と今川市政との根本的な違いという問題とともに、それらを超えた、かつての京都市行政と運動団体活動家との関係、運動団体の分裂といった問題もあり、これらが大きな要素として考えられるのです。以下で、こうした京都市政上における問題について述べてみたいと思います。それほど単純化して述べられることではありませんが、できる限りわかりやすく今後の教訓になるようなかたちで述べてみたいと思います。

●運動指導者と行政職員の関係の変化
 特別措置法が制定された当時、多少親しくさせていただいていた部落解放同盟中央本部の副委員長が、いみじくも、京都の難しさについて、京都は全国的な傾向とは異なり特別ですからね、という趣旨のことを私に語っていただいていたのを、今も覚えています。
 京都の難しさは、その先進性を担っているが故の苦労をベースにして、その後の運動団体がその進め方で二つに分かれ、しかも全国中央本部の委員長まで就任した京都と全国の部落解放運動草創期からのリーダーが、分派的な位置に立つような様相も生じるなど、運動の複雑さが、他の都市などとは全く違うのです。部落解放運動は、あくまで地域住民の差別改善をめざす住民組織で、政治団体ではありませんが、現実には、当時の社会党と共産党との関係の取り方での対立が生じていたのです。けれども、全国的に見れば、社共ががっぷり組んだ政治状況にある自治体はごくわずかで、この種の矛盾はほとんどなかったのです。
 今一つは、運動活動家と同和行政担当職員の変化があるのでしょう。戦前戦中を通して、京都市では、この両者は問題意識を共有しながら、理論的にも学習を深めて共に成長して来ていました。地域や活動家から現実を学びながらも、行政職員が能動的にむしろ指導してきていた面もあったようですが、こうした実態や関係がやはり徐々に薄れてきていたのです。戦前の社会課から戦後多くの京都市行政全般のトップリーダーが排出したような状況は徐々に低下してきます。とはいえ、舩橋市長はそうした中で育ってきた戦後のリーダー層の一人だったのです。
 特別措置法以前の同和行政は、おおむねこうした風潮や精神状況の中にあったといえますが、特別措置法以降、住宅改良事業の急激な増加は、部落解放という理念的な価値よりも、現実の具体的事業をどう処理していくかという状況に関係職員を置いていくことになりました。多分に左翼的傾向の強かった戦前の社会課時代から、国の予算的裏付けをもった具体的な事業を進める段階で、そうした事業推進を担うことを使命とする運動体の活動家とそれに呼応した京都市職員が量的にも拡大してきたのです。部落解放の理念を互いに共有してきた段階から、自らに課せられた事業遂行の任務に追われる新たな職員層とそれを追う運動活動家という新たな関係の発生です。そして、現実の用地買収は、理念よりも実際的な買収行為に最大の問題関心が移り、市行政の一般事務職員では、容易に自信を持った対応が難しいのです。そこに、反社会的な人物の介入などが、差別性などを利用して介入するなど、複雑性も深まります。
 こうした変化に、京都市はどのように対応しようとし、どのように効果をあげてきたのでしょうか。

●舩橋市政下での試みと今川市政下での変化
 舩橋市政下では、こうした状況を理解したうえでの対応が進められてきていたのではないかと思われる節がありましたが、残念ながらそれは具体的な姿を見せる前に市長自身が倒れ、そして、結論的に言えば、もっともこうした問題を苦手とした今川市政となることによって、問題が噴出したといえるのではないかと思われるのです。
 舩橋市政下では、テーブルを同じくしなかった運動団体と、京都新聞社の協力も得て、同一のテーブルに招き、懇談するための作業が進行していたようなのです。当時、神戸市では対立する運動団体との共通のテーブルでの協議の場がすでに設けられていて、京都市でも、これと同種の試みが内々で進められていたのです。
 また、庁内体制についても、実は、運動体との連携を可能とする人材登用がかなり計画的に進められていた節もありました。各局次長クラスにはその兆しが見えていました。そしてまた、京都市関係の職員労働組合の執行部構成に関しても、路線の異なる部落解放運動の活動家を包み込んだ状況が生まれつつあり、また労働組合の中でもそれなりの位置を占めるようになってきていたのです。こうして、市行政と運動体との有機的な連携によって、新しい特別措置法下での部落解放と事業の円滑な推進を図る方向が志向されつつあったといえるでしょう。
 さて、そこでです。今川市長の誕生です。今川市長の誕生による新たな庁内体制への変化と同市長のリーダーシップ性の弱さから、舩橋市長のもとで進められてきた庁内体制は緩み解体してきます。そこには理念的なものは見えなかったのです。いきおい、運動体と市長との信頼関係は崩れていくのが目に見えるようでした。鳥居事件はこうした状況の中で顕在化したのでした。これをどう見るかは、それぞれの立場や思いによって異なるものがあるとは思いますが、状況としてはこうしたものでした。ですから、舩橋市政が続いていたとすれば、事態はどのようになっていたのかは、興味のあるところです。事態は舩橋市政下で進行していたとはいえ、ひょっとして、事件は顕在化しなかったかもしれなかったのではとの思いがありました。庁内体制における見えない理念と緩みは、結果として、職員個々人の個別的行動にその責任がかぶさってくるのです。

●組織よりも個人に
 同和行政の具体的な歩みや事件それ自体の問題は、いろんなところで明らかにされておりますから、ここでは、行政サイドのなにがもっとも根本的な問題であったのかについて、ふり返ってみたいと思います。それは、同和行政に関わらず、今後の行政全般においても参考になることと考えるからです。それは、組織と個人との関係の問題です。
 問題をわかりやすくするために、結論を先に出しておこうと思います。部落問題、部落解放、行政的に言えば「同和行政」の行政の上での最大の問題、或いは問題の根源は、京都市の行政体が、組織としての一体性をもたず、問題を職員の個人責任にしてしまっていたことにあります。同和行政に関わらず、行政というものは職員個人の任意性に委ねられたものではないはずです。行政体、行政組織としての政策理念と方針のもとに職員は組織的な連携を図りながら具体的な施策を練り上げていきますが、その作業のベースには他方における対象市民の具体的な様相や市民的要求などを当然把握するものです。すなわち、職員個人個人の創造的、自主的な努力はあるにしても、それは、行政体、行政組織としての理念や政策の裏付けのもとにあるはずなのです。が、こと同和行政に関しては、当時、個人責任あって組織責任が忘れられたような様相を呈していたのです。地域地域の住民を背景とした大衆的な糾弾交渉が激しかったということもありますが、それを行政組織として受けるよりも、行政職員個々人が受けることにより、個々の行政職員が厳しい糾弾にさらされるというような状況にあり、そのことが、結果として、職員個々人が運動体の活動家との関係を構築することによる解決策を見出さざるを得ない現実を生み出すことになっていました。
 京都市には、以前は、民生局福利課に同和係があり、その後同和行政の拡充とともに同和対策室が生まれ、これが同和行政の専任組織として、同和地区住民や運動体との関係を担うと同時に、庁内的には、同和対策事業の拡充による他部局への情報伝達やある種指導的な立場に立つことにより、市行政全体の同和行政の統一的な施策展開を可能ならしめるはずのものだったのですが、現実はなかなかそのようには機能していなかったのです。
 行政体としては、同和行政全体の整合性を図りつつ、個々の職員に多少問題認識の深さに凹凸があったとしても、行政総体として同和行政を遂行することにより部落住民への改善要求にこたえていくべきものなのです。もっとも、指摘されてきた行政自身の差別性には職員個々人の問題も当然ありますが、それも、最終的には個々の職員に責任を負わせるのではなく、その責任は行政体自身にあるのです。こうした傾向は、先に述べた、オール与党体制下での、市議会議員と行政職員との関係にも似たものがありますね。ということは、こうした傾向は、比較的自由にしてきた舩橋市政の庁内体制のなかで徐々に進行してきていたのかもしれません。
 行政職員は、ある種正義のためにはひとりになっても上司や外部の関与に対して抵抗することが可能なだけの身分上の法的な裏付けを与えられています。とはいえ、仕事の基本は、行政体の一員として行うのであって、個人の責任分野があるにしても最終的には行政体として、さらに言えば最終的には市長の責任に帰着するのです。ところが、現実には一人ひとりの職員個々人に責任が帰着し、組織全体は責任追及を免れるのです。同和行政上における公金詐取事件の多くは、個々人が窮余の策として講じざるを得なくなった結果であり、そこまで追い込まれるのには、庁内的な支援体制のなさもあるのです。
 私の身近な人の例を二つ紹介してみましょう。
 一人は、労働組合の闘士でした。私もその人から指導を受けていました。農林技術者で真っ直ぐな人でした。京都市職員組合の書記長、さらには自治労京都府本部の副委員長までやってきた人で、部落解放運動にも深い理解があり、職場復帰にあたって自ら望んで同和行政のセクションに入りました。たしか改良事業室だったと思いますが、結局初期の正義感は生かされることなく、挫折することになりました。今一人、これは一人や二人ではなく、多くの場合がそうであったのですが、活動家との付き合いで相当のカネを使うことになり、甚だしい時には給料の大半を飲み代に使う羽目になっていたとのことです。夜、飲み屋から自宅に事実上の呼び出しの電話がかかってくるのです。こうした、いわば本道ではない活動家との付き合いを全うすることができない職員は、個人として糾弾にさらされ、それに対する行政体としての支援体制はないのです。ところがそうした状況のなかで、運動団体との窓口役を担っている職員の中には、自分の影響下に帰属する職員には活動家との間に理解を成立させ、影響下にはいらない職員は孤立させるということにより、庁内における影響力を高める管理職も出てくるということも起こってきていたのです。そして、そうした傾向を生んだ一つの土壌に、一説には、労政を除く、いわゆる人事係の系列以外の職員は、すべて、一度は同和行政の洗礼を受けなければならないという現実があったのです。それは、すべての職員は同和行政の職務に携わり、その洗礼を通過したうえで、一般行政の適正な分野で出世していくという構図が出来上がっていったようなのです。こうした状況をどう見るかはなかなかに難しいことですが、同和問題が、庁内における支配体制形成の道具に使われた面も否定できないのです。例えば、同和局構想なるものもあったようですが、仮に同和局が誕生すれば、同和局長は助役以上の実質的な力を持つことになる恐れもあり、同和局構想を主張している人物も多分にそのことを意識しているということなどがあり、結局、京都市においては同和局は実現することはありませんでした。これらの意味するところをよく考える必要があるでしょう。

●同和行政のあり方への反省へ
 以上のようなことを述べてくると、同和行政の根幹は、京都市行政体が一つのチームとして、同和問題解決への認識と理念、方向性を共有し、個人プレーとしてではなく、チームとしての施策の実行をしていかなければならないことがわかるはずで、この点が京都市同和行政のもっとも大切な反省点であると思います。私の経験からも、文化財保護課の係長であったとき、地域の集団交渉に、課長が病気休暇であったために代理出席したときの経験、すなわち、市側の交渉メンバーは管理職であるのですが、係長の私とのある種のやり取りにらちが明かず、運動体のリーダーが、私に「研修だ!」といって、私とのやり取りを終わりにしたケース。すなわち、市の交渉メンバーの職員に対して、交渉がはかどらないからといって、運動体側が研修を行うというのです。翌日、私はそれなりの覚悟をもって運動体の事務局にその幹部を訪ねることにしたのですが、ただ、交渉の相手側の運動体が、市の責任をもった幹部職員を研修するということは本来あり得ないことなので、これを実際のその時の交渉メンバーの責任者であった文化観光局の次長に、「運動体の研修に行くがいいんですね!」、と念のために行政責任上の対応を確かめたのですが、「行ってくれるか、ご苦労さん」という返事で、そこには行政上の組織責任者としての自覚や適格性はなかったのです。結局、代理出席した管理職ではない私が、まったく個人責任において運動体に対することになったのです。当時、私にも、私なりの経験と全国的な活動家とのつながりもあったために、それなりのプライドがありました。どういう展開になろうとも、正攻法で対処する覚悟で行ったのですが、結果は肩透かしでした。昨夜は、地区住民を背景とした集団交渉なので、「ああいう対処の仕方をせざるを得なかった」というものでした。そのリーダーは、もともとそれなりの見識も有している方だったので、二人で共通の話題を交換して帰ることになったのですが、これまでから、ある種の修羅場を経験してきていたからいいようなものの、そうした経験のない職員であれば、こうした過程を通して、運動体ないしその活動家の軍門に下って、本来的な部落住民と行政との関係が見失われていくことになるのです。そこには、人間としての人格が破壊され、病気休職に陥る職員も出るようになりました。
 ここで、当時の私の問題整理メモを紹介しましょう。
 @鳥居事件とその後の同種の事件では、公金詐取とはいえ、個人の着服はなく、職務遂行のために行われていた。鳥居事件では、公判中に本人が死亡したために本人の着服の有無は不明となったものの、本人からは逆に京都市に自腹を切って立て替えていた分の返還の訴えが京都地裁に出されていた。
 Aこうした住宅改良事業における用地買収や移転補償をめぐる不明瞭な会計処理に対して、暴力団関係者の関与も絡むというきわどい事件も発生していた。
 Bその後、民生局内における「架空接待」疑惑問題が発生する。つまり接遇費を水増し請求して、ときにはそれをプールして、融通の利きやすい形で、業務遂行のために然るべく接遇を行うもので、会計処理上の問題はあるが、個人の着服は認められなかった。
 Cこうした不正常な同和行政のあり方は、行政自身の規律と運動体との交渉や関係の正常なあり方が模索され、田辺市政、桝本市政と続く中で、改善されていく。
 D同和対策特別措置法とそれに続く延長法のもとで、地区改善事業費は京都市においても1970年代に入って伸長するが、とりわけ1980年代での規模はおおきく、1993年から翌94年をピークに以後減少し、こうした事件の温床ともなった地区改善事業もその目的をはたして収束に向かうことにより、同和行政そのものが転機を迎えることになった。
 Eまた、部落解放同盟などの運動組織も、以前は、部落差別を他の差別とは全く違う差別であるという違いの面を強調していたが、人権の共通性を重視した反差別国際運動にも力を入れるようになり1990年代の後半には、階級闘争史観の強かった路線から人権・環境・福祉を前面にだしたソフト路線に転換する。
 F他方、過度な同和行政の突出したありかたに関して、たしか福岡県などの首長選挙で、解放同盟の支持を受けた候補者が落選するという事態も生まれるようになり、同和行政そのものも市民の支持の下で進めなければならないという反省期に入ってきていた。
 G地区改善というハードな事業としての同和行政は、特別法に基づく特別施策としては、こうした流れの中で終結に向かい、1990年代の終わりごろには、同和行政の終結宣言をする自治体も出てくるようになる。
 Hこうして、京都市の場合も、桝本市政下で、特別施策としての同和行政は終結することになったのです。
 I差別の実態としての劣悪な地域生活環境と就職差別に対する取り組みは、教育改善と併せて急速に進んできたとはいえ、精神的な分野での差別は容易には改善が図れない。特別施策としての同和行政の終結が、同和行政そのものの後退をもたらせてはならない。同和行政は、より質の高い部落差別改善への行政へと行政そのものを高めていく必要性がある。以前に、糾弾交渉のあり方を改めることになったときに感じたのは、行政というものは、或いは役人というものは、対応を緩めれば、緊張感や真剣みそのものが減退する危険性があることであり、今後は、行政自身が自らの研鑽によって、同和行政を部落解放行政の領域にまで高めてほしいものだということでした。
<参考資料>
・1983.3.23 京都市不動産取得問題調査検討委員会(委員長・奥野助役)「報告書」
・1983.4.26 監査委員による「特別監査結果報告書」(市長からの要請に基づく監査)
・1983.4.28 市会百条委員会による「委員会報告」(委員長・木俣秋水議員)
・1983.5.7 「京都市用地事務取扱規定」定める

●その後の主な不祥事
 鳥居事件の激震後も、大地震後の余震のようなものが続きます。1986年4月、やはり、改良事業室関係で、暴力団からみの公金詐取事件で改良事業室事業第一課長が逮捕されます。もっともこれは、鳥居逮捕以前の1982年ごろの事件でした。また、1986年8月には、鳥居元改良事業室長の後任となっていた元改良事業室長の亀田寿文化観光局国体室長が詐欺容疑による捜査を受けていたことから、市は同室長を諭旨免職とします。府警は、結局書類送検しますが、第一事業課長の場合と共に、不正支出はあったものの、個人的着服はなかったということです。
 同和行政をめぐっては、そのほかにも、1986年12月には民生局における架空接待問題による不正支出が明らかになり、これには、住民監査請求からさらに住民訴訟に発展し、幾人かの京都市の幹部職員が「違法支出金」の返還請求を受けることになります。
 こうして、1986年には、地区改善事業における用地買収のあり方を巡って、「臨時不動産取得審理会」を市の付属機関として設置することになります。11月25日市議会が、その設置条例を可決し、12月24日に設置、1987年から活動を開始します。1988年7月28日に41件の未解決事案の処理を巡る第1次答申、そして1989年12月1日には今後のあり方での最終答申を、当選直後の田辺市長に提出するに至り、地区改善事業にかかる用地買収の適正化が図られることになります。
 ところが、京都市の不祥事は、同和行政のみではありませんでした。
 田辺市長誕生頃の京都は、バブル下での土地の買い占めなどの真っ最中で、京都周辺の山々がゴルフ場予定地として買い占められるような状況下にあり、田辺市長はその波に抗して景観を守りながらもその波に飲み込まれていくことになります。いわゆるポンポン山問題です。後にまた述べますが、これは気の毒でなりません。
 さらに、桝本市長誕生の翌年、1997年の11月、建設局の土木部長が逮捕されます。これは、地下鉄東西線建設に関連した、御池地下駐車場建設に絡む1993年11月から1997年6月にかけての収賄容疑です。
 また、今川市長の古都税に係る不動産屋との不透明なやり取りも、市長自身による不祥事といえるでしょう。こうしてみると、不祥事に対する京都市の甘さのような緩みを感じざるを得なくなりますね。

<参考資料>
臨時不動産取得審理会
 1988.7.28 「過去の契約に原因を持つ未解決事案の処理に関する方針についての答申及び意見」
 1989.12.01 「今後の買収に当たっての補償の在り方についての答申」


 4.市制100周年記念事業

●京都市の誕生と「独立自治」の実現
 さて、話は変わりますが、近代的な都市制度としての京都市は、明治22年(1889)4月1日に生まれました。当時制定された法律「市制町村制」に基づくものです。ただ、この法律と同時に施行された「市制中東京市京都市大阪市ニ特例ヲ設クルノ件」によって、東京、大阪とともに、京都市は、市は誕生し、市議会は設置されたものの、固有の市長とその事務職員を置くことができなかったのです。このことはすでにご承知の通りです。この「市制特例」は、9年後の明治31年(1898)10月15日に撤廃され、ようやくにして専任の京都市長とその下での京都府から独立した行政組織を持つことができ、市庁舎を開庁したのです。その場所は、先に遷都1100年時に建設していた市議事堂内でした。当時の京都市は、これを独立自治の実現として祝ったものでした。
 こうしたことから、高山市長は、京都市誕生よりも、専任の京都市長とその下での京都府から独立した行政組織、そして市庁舎を実現した日を重視し、この日を京都市の自治が確保できた日として、10月15日を自治記念日に制定していたのです。すなわち1958年10月15日を自治60周年記念日としてスタートしたのです。こうしたことから、以後京都市では、京都市誕生よりも、自治独立の日を重視した考え方が踏襲されてきていました。もちろん、これは、全国的には例外でした。

●今川市長の指摘「市制100年は!」
 そこで、建都1200年当時も、1998年には自治100周年を祝い、建都1200年から自治100周年、そして21世紀へという京都発展への展開を考えていたのが、我々でした。ですから、市制100周年に対するイベント事業も予算要求もなかったのですが、予算の市長査定の段階で、今川市長から、市制100周年はどうするのかという問いかけがあり、この今川市長の意向によって、急遽、市制100周年記念事業は企画、実施されることになったのです。したがって、この市制100周年記念事業は、今川市長の広く全国的な視野の中から生まれたものでした。
 そこで改めて考えてみれば、自治実現はもちろん大切ですが、市の誕生は、それ以上に大切なことなのですね。既成の考え方、自治という心地よい言葉にとらわれすぎていたことを反省させられたのでした。そしてまた、専任の市長が誕生するまでの京都市には、果たして自治はなかったのかということにも思いは走ります。というのも、専任の市長はなかったにしても、参事会という合議制の執行機関があり、市長を兼ねていた府知事も、その議長としての立場でした。そして参事会のメンバーは、概ね有力市会議員が選出されていたために、実際には、自治的運営はかなりはたされていたというべきだろうと思うのです。この合議制執行機関としての参事会は、市議会と執行機関との関係が密であり、有力市会議員が市政執行上の責任を有していたのです。遷都1100年記念事業はその時の産物なのです。
 のちの時代になって、市長にリーダーシップ性の高い人物が得られなくなり、市政そのものが漂浪するような状況がみられるようになると、この市議会も参事会制を通して責任を共有するありかたの方が住民自治にかなうのではないかとすら思われるのです。こうしたことから、「自治記念日」にのみ重きを置く捉え方に対して、京都市誕生とその時の自治的活動に対しても十分な思いを持つことが望まれるのではないでしょうか。
 今川市長に1本取られた思いをもった次第でした。
<参考>
 1987年11月27日;「京都市市制100周年記念事業推進懇談会」(座長・天野光三京大教授)、「京都市市制100周年記念事業について(提言)」を提出 
 1989年4月1日 京都市、市制100周年記念式典。於・京都会館   4月14日 市民まつり「京都INGS」 於・岡崎公園 参加者70万人 

第2節 古都税と市議会オール与党体制の終えん

>>簡単な経過<<
 古都税、すなわち古都保存協力税というのは、「法定外普通税」で、自治大臣(現在は総務大臣)の許可を必要する。文化遺産の多い京都市では、その維持保存のために高山市政下で、財政再掲計画中に文化観光施設税「略称・文観税」として実施したものを前例とし、平安建都1200年を前にした今川市政下で、同種の税を実施したが、途中で挫折した。拝観料を徴収する主要な観光社寺を特別徴収義務者として、その文化財鑑賞者から税を徴収するもの。 税額は、鑑賞者1人1回につき、文観税では10円、古都税では50円。両税とも、仏教会の激しい反対にあうも、高山市政下では最終合意に達して実施、今川市政下では挫折することになった。
 なお、拝観社寺の仏像などは、信仰の対象ではあるものの、他方では文化財として行政サイドからの修理補助金等が出されており、かつ画一的な拝観料が徴収されていることから、これを鑑賞対象物としてとらえて、その鑑賞者に税を課すもの。

<高山市政下の文観税のあらまし>
 高山市政下の1956年に実施した文化観光施設税は、主として京都会館整備費に充てるために設けられ、その期間が終了した時点で、今度は、主として文化財保護の財源確保のために文化保護特別税として実施。この時の最終決着に当たって、高山市長と11寺院との間で、「文化保護特別税の期限は、本条例適用の日から五年限りとし、期限後において、この種の税はいかなる名目においても新設または延長しない」との覚書を交わす。そして、古都税では、この覚書を巡って紛糾することになる。
 なお文化保護特別税は、1969年に期限を終えるが、それに続き、同年から財団法人・京都市文化観光資源保護財団をナショナルトラストとして設立し、祇園祭、葵祭など京都三大祭・四大事業への助成や、未指定文化財への修理補助事業などを行っている。
・文化観光施設税 1956.8.17市議会可決 1956.9.29自治大臣許可
         税の適用期間 1956.10.13〜1964.4.12 7年6月
税創設の目的 文化観光施設の整備(主として京都会館建設)
         課税対象 文化観光財の鑑賞
         徴収税額 6億6275万円
・文化保護特別税 1964.3.27市議会可決 1964.6.5自治大臣許可
         税の適用期間 1964.9.1〜1969.8.3 5年
税創設の目的 京の文化、伝統を守るための施策推進
         徴収税額 7億188万円
<今川市政下の古都税の経過>
 1982年7月、市と仏教会が非公式に接触しているとのマスコミのスクープ記事から始まり、仏教会の反対でまとまらないまま、翌年の1月に市議会に提案、即決。1985年4月に自治大臣の許可が下りるも仏教会との対立は続いたままの状態で7月には実施に入る。これに対して仏教会側は無料拝観に突入。そして、この年の市長選挙の直前のいわゆる「8・8和解」。そしてその後の決裂と不動産業者の関与した市長との密約の暴露などかなりハチャメチャの展開となる。こうしたことから、奥田東元京大総長らのあっせん者会議もついにあっせんを打ち切ることになる。こうした状況のもとで、今川市長に対するリコール運動の動きも出るが、膠着状態は続き、1987年4月には市議会議員選挙もあり、選挙後の市議会には、古都税問題解決への動きも生じ、市長サイドも古都税廃止による収束にむかい、仏教会と合意の上、この年の10月17日に市議会で、古都税条例を1988年3月31日でもって廃止する条例を可決し、5年に及ぶ古都税騒動は漸くにしておさまった。
<古都税のあらまし>
古都保存協力税 1983.1.18市議会可決 1985.4.10自治大臣許可
古都税条例廃止条例 1987.10.17市議会可決(当初10年を1988.3.31に短縮)
税の適用期間 1985.7.10〜1988.3.31 2年9月
        税創設の目的 歴史的、文化的な資産の保存、整備等
        徴収税額 15億2793万円

<当時の記録(参考)>
   『京都市政調査会報』から 山添敏文筆  京都府京都歴彩館にあり
・62号1986.9「古都保存協力税―その記録と解説(上)」
・63・64号1987.1「古都保存協力税―その記録と解説(下)」
・68号1987.9「古都税条例最終処理をめぐる評価問題―しんぶん紙上にみる諸相」
・69・70号1988.1「古都保存協力税―その後の経過と総括への試み(上)」
・71号1988.3「古都保存協力税―その後の経過と総括への試み(下)」

 1.生かされなかった文観税の経過

●認識の甘さと初動のミス
 古都税に関しては、際限のないほどの問題がありますが、すでに多くの論述もあり、また私もいろいろ記述してもいますから、ここではエッセンスのみをできるだけわかりやすく述べてみたいと思います。
 古都税をなぜやったのかという問題はそれとして、なぜにあそこまでに大きな問題、すなわち「古都を揺るがす」大問題に発展したのかが、一番最初の問題でしょう。
 実は、かつての文観税のようなものをそろそろまた実施してもいいのではないだろうかということを、理財局の親しい人に言っていたのですが、ちょうどその頃に、市議会で、公明党の議員からもそうした趣旨の質問が市長に出されたりしていたのです。なぜに、ということですが、それは京都市の財政事情と、文化財保護のための財政とそれを観光客に求めることの必要性からです。もちろん、かつての文観税の時の騒動やそれを実施するときの市長と社寺との約束事などは承知の上でのことです。当時と比較して、社寺経営が観光に依存する度合いははるかに多額になってきていて、簡単に拝観ストなどできない状況になっているとも判断していたのです。ですが、実際やるとしたら、それを必要とする論拠を明確にし、十分慎重な手順を踏んで、社寺側の意向を尊重しつつ進めなければならないのは当然のことです。が、実はそれと真逆のやり方となったのです。
 その当時、理財局長は、管理中枢部門にまだ深い経験はないけれども、建設局次長としてそれなりにならしてきた人物であり、また、担当助役は前教育長であったがために、財務や文化観光関係は全くの素人でした。ために、それまでの市役所庁内に蓄積されていた経験をほとんど知るところなく、自らの実行力を信じて突き進んだようなのです。けれども、相手は、この2人の手におえる相手ではありませんでした。こうしたやり方は、高山市長が文観税を実施するときの慎重かつ広範囲の手法の展開、市役所のもてる能力と、自分自身の出るべき場面を心得たやり方と比べ、本当にお粗末なものだったといわざるを得ないでしょう。いずれにしても、過去の経過や相手の状況をあまりにも知らなさすぎていたのです。

●担当助役と市長とのズレ
 次の問題は、担当助役と市長とのズレ、コミュニケーションの不足でした。過去の文観税の経緯を見れば、これは京都全体を揺るがす大問題に発展する可能性があるのは明らかです。にもかかわらず、市長と担当助役との間で、どれほど問題のすり合わせを行い、両者それぞれの出るべきところを互いに調整していたのかは疑問なしとしないのです。そして、結果的に、城守助役と原理財局長の独走のような形で問題はスタートしました。
 この二人に共通するところのものに、好き嫌いや、敵味方がはっきりするところがあったように見受けていたのですが、はたして、前の文観税の時のキーとなる寺院であった清水寺が、、事前の意思疎通のいわば打診、調整の会合から外れていたのです。京都を代表する有力社寺をいくら多数集めても、こうした問題に対する清水寺の比重は、1寺院であっても京都の社寺全体の半分にも及ぶ重みを持っているというところに思い至らなかったのです。他方、今川市長の方も、京都の実際上の情報について、自らの情報網をもっているようには見られなかったのです。こうしたことが、この問題に対する初動の躓きを引き起こすことになります。

●おそすぎた認識
 着手時点での、過去の経緯と問題の所在についての認識がどうもないのではないかと思った私は、理財局の気心のある幹部の一人にそのことを言い、必要なら、当時の理財局次長で文観税に関与し、後に文観税についての経緯を取りまとめていた斎藤正氏に市長、助役以下関係幹部が話を聞くための労をとってもいいよ、と働き掛けた結果、その場は成立したのです。これには、私がその斎藤正氏と親しく、また、私自身、文観税問題の社寺側の窓口であった清水寺の森執事長とも接触があって同氏からそれなりの信頼を得ていたことから、本当に心配をしていたのです。しかし、結果として、この試みは成功しませんでした。
 市長以下に対する説明の場が済んだ後で、同氏に結果はどうでしたかと聞いたのですが、同氏は、もはや遅すぎて、手の打ちようがないとの答えでした。誠に残念な思いでした。
 認識不足で、加えて市長と助役以下との間にズレをもったまま、しかも、社寺側との調整の勘所の相手をはずして進めてしまっていたのです。最強の相手である清水寺と対立するような形で着手してしまった溝は埋めることができず。社寺側にも、京都市寄りの社寺と清水寺側との内部対立が生じ、それに仏教会事務局の純粋な僧たちとの違いも加わり、収拾のつかいない状況が生まれることになったのでした。
 なお、京都における仏教界関係の組織としては、「京都仏教会」のほか、文化財の維持保存を目的とした「京都古文化保存協会」があります。また、文観税に関わってきた有力観光寺院による六親会という集まりがあります。六親会は、金閣寺、銀閣寺、清水寺、妙法院、苔寺、竜安寺の6寺院で構成されていて、そのもっとも代表格となるのが清水寺でしたが、古都税の第一着手が、この清水寺を欠いた中での六親会と接触したところに、決定的な認識の甘さがあったのです。ついで、交渉の相手を仏教会としたことです。仏教会は、あくまで宗教団体です。せっかく文化財の維持保存を目的として、文観税を契機に設立された古文化保存協会があるにもかかわらず、この団体との折衝とはならなかったことが第二の根本的な問題だったのです。
 ただ、詳細に見れば、当時、古文化保存協会の理事長は西芳寺、いわゆる苔寺の藤田价浩貫主で、私も一度同席したことがありますが、高級なスーツとネクタイをピシッと着用した現代的な紳士然とした姿に象徴されるように、極めて経営感覚に優れた人で、当時、苔寺の庭園内に塔を建設したいという意向をもっておられたという。こういうこともあったのでしょうか、行政には協力的で、古都税に関しても賛成の意を示しておられた。そのことが、清水寺をはじめとした有力観光寺院の反発を買い、両者は対立関係となり、藤田理事長の職務停止仮処分問題にまで発展するのです。こうしたことが、古都保存協会を、古都税の窓口にすることのできなかった状況を生んだということも、京都市にとっては不幸なことでした。苔寺は、古都税にかかるこうした動きから、以後、観光寺院から脱して、古都税の対象とならない写経など信仰を旨とした寺院となり、局外に出て今日に至っています。

 2.市長のリーダーシップの弱さ

●当初から
 ではなぜ、こうした状況が生まれたのでしょうか。市役所の中には、いろんなところ、いろんなセクションに貴重な経験や情報が残っています。しかし、市長、助役共に、そうした市役所内部のもてる資源を活用するような意欲も、また庁内における信頼性もなかったのです。
 その根本原因を考えてみますと、今川市政のまとまりが、そのスタート時点からなかったところにあります。すでに見てきたように、今川市長が舩橋市長の後継者となったのはいいけれども、市長としての今川市長の人望とリーダーシップ性が弱く、加えて、今川市長の意図する助役体制がつくれなかったところに問題は帰着します。事程左様に、市長と助役は、三者三様どころか、四者四様にそれぞれが功名を上げるために走りだしていたのです。

●一体的でなかったトップの体制
 このことは、市長を頂点として、三助役と管理中枢の三局長のチームワークが成立していなかったことを示しています。当初の段階では、担当助役と担当局長以外は、ほとんど我関せずの態でした。そして、行き詰まってから、おそらく市長からの要請があたのでしょう、それぞれにそれなりの動きがみられたものの、真剣みは見られませんでした。しかし、この段階では、私に対しても相談が入るようになったものの、問題認識のテンポと深刻さに弱く、もはや「遅すぎる」レベルの感覚でした。そうした中で、ひとり、木下助役は走ります。この人はやはり仕事が大好きなのです。おれの出番だということになったのですが、向かうところが政治的でした。すなわち、古都税に反対する共産党との対決に向かったのです。このことは、またあとでふれることにします。

●市長が出る幕を間違える
 こうした、京都市最高幹部の一体性の無さは、次には、今川市長が出るべきタイミングと場面を間違え、助役以下とチグハグになっていたということです。
 高山市長の時を例にとると、いざやるということになると、まず市長自身が市民の前でその方向性を明らかにします。ところが、今川市長の場合は、スタート時点では市長の姿は前面には出なかったのです。そして、問題がこじれてしまった段階で、助役以下と調整することなく市長が前面に出てしまったために、問題はさらににっちもしゃっちもいかなくなり、社寺側との関係ばかりか、行政体内部自体が動揺するような事態を生むことになってしまったのです。その間に、仏教会の内部も動揺してくることになり、この両者の関係の中で、不動産会社の西山社長と市長との闇取引まがいの事態を生むことになりました。

●西山社長との関係
 不動産会社の西山社長がこうした場面に登場するにはそれなりの時代背景があります。
 京都の市街地開発もすでにその余地はなく、残されたところは、社寺境内地となっていて、市中にある経営難の中小社寺は、その土地を売ることによって、郊外地に移転するとともに当面の経営難を回避する動きがみられるようになり、特に、四条から北の裏寺町などの社寺は、不動産屋のターゲットになっていました。西山社長は、そうした社寺専門の不動産屋であったがために、仏教会の一部の層と親しく、経営問題や交渉能力に長けていない僧侶に食い込んでいったのでしょう。仏教会サイドのエージェントとして今川市長と接触し、今川市長もこれに乗せられて独走してしまったのです。そこには、法的な問題や行政手続き上の問題などは飛んでしまっていたのです。今川市長のリーダーシップの弱さが指摘されてきたことに対して、今川市長は、リーダーシップと決断を下すこととを短絡的に理解し、手順を踏まずに、市長個人が独走してしまったのです。そのため、機関としての市長と、市長である今川個人との関係が問われることになったのです。

 3.政争の具に

●共産党はずしの動き
 今川市長の再選のための市長選挙は、古都税騒動の真っただ中で行われました。そして、その過程で、今川市長は、再選出馬への意向を表明した市議会本会議で、重要案件に対する共産党の態度に遺憾表明を行ったのです。1985年6月25日のことでした。これを受けて共産党市会議員団は、ついに今川市長に対する訣別の談話を発表し、ここに、オール与党体制は終えんしたのです。
 こうした今川市長の共産党に対する遺憾表明は、自民党の強いプッシュによるものでした。市会の古都税に対する役割は、行政サイドが市会と十分調整する以前に走ってしまったためか、高山市政下の「文観税」の時のような積極的な調整役を果たすことはなかったのですが、はたして、この古都税問題を共産党切りの道具にすることになりました。

●共産党の粘りはあったものの
 しかし、これに対する共産党の粘りはなかなかのものでした。先にも述べました、木下助役の動きもこの線上にあります。時期については忘れましたが、古都税問題が行き詰まりだした1984年から85年にかけての頃だったと思います。それまで古都税は、担当助役である城守助役と原理財局長の仕事として、他の助役をはじめとする市役所の他のセクションは様子見をしていたのですが、いよいよ行き詰まってくるにおいて、今川市長は他の助役をはじめとする全庁的な取り組みを求めるようになり、これに真っ先に動き出したのは、やはり仕事師の木下助役であったようです。よし!というわけでしょうか、一貫して反対をしている共産党に対して、同党の三宅市議団長を呼んで、反対を続けるのであれば、市長との関係を考えなければならないと、共産党市議団を、市長与党から外すという意向を突き付けたようなのです。さもありなんです。で、そこで共産党市議団は、京都市労連をはじめとする主な関係先に、木下助役の共産党切りはけしからん、という趣旨を訴えて回ったのです。たまたま私はその場に出くわして、直接目撃しました。
 共産党市議団の趣旨は、今川市長の与党として共産党は市長を支えている、たまたま一つの政策で対立があったとしても、政策全般で対立しているわけではないにもかかわらず、一つの政策でもって共産党を与党から切ることは許されるものではない、というものでした。与党であっても、個々の政策で対立することはあるものだ、というものでした。共産党としては、古都税で対立しても、野党になることは全く考えていなかったのです。ですから、自民党と市長サイドの動きによって、無理やり共産党を野党に追いやった、その材料に古都税が使われたというのが真相でしょう。そして、ここに1975年以来、ちょうど10年間続いたオール与党体制は終わることになったのです。
 ここで注目すべきことの一つに、共産党と仏教会との関係は、蜷川府政下における
高山市政下の「文観税」の時は、清水寺―蜷川知事―共産党と深い結びつきがあったのですが、今回の古都税の時には、仏教会自身が不動産会社を仲介人に立てたように、京都市とのやり取りに傾斜したために、共産党と仏教会とは、前回のような関係にはならなかったようなのです。

 4.古都税騒動の余波と余韻

●仏教会の分裂
 古都税問題は、一方で今川市長をはじめとした京都市行政に市民の深い行政不信をもたらせたのですが、他方で、仏教界にも深い亀裂を負わすことになりました。
 古都税への社寺サイドの対応のなかで、古文化保存協会と仏教会の対立が生じたことは先に述べました。ただそれは、すぐれて苔寺対清水寺など他の有力観光社寺との対立でしたが。とこらが、仏教会自体が、その後の進展の中で、その対応の仕方をめぐって内部分裂の方向に向かうのです。まず、事務局と清水寺などの有力寺院、さらには清水寺自身の内部対立、そして有力観光寺院と東西本願寺などとの対立と仏教会組織の分裂にまで、及ぶことになります。
 古都税問題が勃発した直後の1983年2月、京都の仏教会を代表する大西良慶清水寺貫主がなくなります。このことも、結果として大きな要素となったのかもしれません。代わって、清水寺の貫主となった松本大円師が1984年5月にそれまでの小林忍戎知恩院執事長辞任による京都府・市仏教会の理事長に就任します。そして、1985年4月には京都府、市両仏教会は統合して京都仏教会となり、その会長に東伏見慈洽青蓮院門主が就きます。この東伏見青蓮院門主は昭和天皇后すなわち香淳皇后の弟です。理事長は松本大円門主が引き続くのですが、この両仏教会の統合を機に、仏教会の運営は有力観光寺院による古都税シフトとなります。しかも、この時期、市長選挙にからむ古都税のやり取りが、一部の執行部先導で、不動産業の西山正彦社長の関与によってすすめられ、今川市長と密約の取引をし、そのことが表ざたになって、市と仏教会が泥仕合のような様相を呈してくるのです。
 こうしたことから、一部古都税に対する最強固派による仏教会の運営と、不動産業者を関与させるやり方にたいして、宗教界としてあるまじきこととの反発が大きくなり、仏教会事務局長以下事務局員の総辞職、東西両本願寺をはじめとする仏教会からの多くの寺院が退会するようになり、ついに、1986年3月21日、新しい仏教会である「京都府仏教連合会」が結成されるに至るのです。これには、仏教会の市内8支部長会が積極的な動きを見せ、東西両本願寺、知恩院、妙心寺、智積院の5本山と京都日蓮聖人門下連合会など多くの寺院が参加したのです。加入寺院数753カ寺、うち本山は22カ寺に及びました。また、清水寺自体も、古都税に反対しつつも寺院は開門するべきではないと考える松本大円貫主と仏教会の古都税シフトに邁進する若い大西信興執事長らとの間で対立が生じ、1985年4月にいたって、松本大円貫主は統合直後の仏教会の理事長を辞任するという事態になり、その後、清水寺は、松本大円貫主解任騒動に発展するのです。
 このように、仏教会は、古都税シフトの仏教会と、新たな京都府仏教連合会とに分裂するという、まことに深い傷を負うことになりました。

●市長リコールの動きと「市民の眼」
 古都税問題の無様な進行は、市長と担当助役、さらには行政体の秩序そのものにも動揺をもたらしましたが、市民サイドからも今川市長のあり方に強い疑念が生じ、ついには、今川市長に対するリコールへの動きとなってきます。
 仏教会自身も、仏教界全体の意向から離れて、一部観光寺院による独善的な運営が、不動産会社社長と結びつくという信じられないような状況から、ついには分裂するという被害を受けますが、その折に仏教会を脱退した、嵯峨野の常寂光寺の長尾憲影住職と、折田泰宏弁護士らが1986年4月「古都税を考える市民の会」を結成し,そして、8月30日に「市長リコール対策本部」を設置するに至りました。この会は、後に「市民の目」として、御池通りの市役所庁舎の南向かいの本能寺文化会館3階の事務所で、市役所に面した窓に、大きな眼を、市役所に向かって貼っていたものです。
 こうした動きは、思わぬ人にも心配をかけることになりました。それは、先にも触れたかの知れませんが、庁内誌『現代人』(主に京都市役所庁内向けで、管理職を対象に頒布していた民間の月刊誌)の関・編集主幹が、私に、「今川幕府の討幕運動をしませんか!」と誘いをかけてきたのです。その意図は極めて純粋で、京都市のような国際的な文化観光都市で、市長リコールのようなことは絶対に起こしてはならない、というのです。したがって、リコールが起こる前に、今川市長を倒さなければならない、ということなのです。『現代人』といえば、市役所庁内のあらさがしのようなことを掻き立てて、それをてこに逆に庁内の実力者と昵懇になるというように、あまり信用のならない面が強くあったようなのですが、それが、だんだんと正論を吐くことが多くなり、ついには「今川幕府討幕」論にまで至ったのです。これは、京都市政の問題状況が噴出する中で、ついにこうした雑誌までもが、京都市政の現状と行く末を心配するような状況に追い込んでいったのでしょうね。もちろん私の立場からして、そのことは断りましたが、事態は本当に深刻になっていたのですね。
 リコール運動は、最終的には実施されることはなかったのですが、その直前までいっていたのでした。リコールするには十分な条件が整わないと判断した「古都税を考える市民の会」は、1987年6月12日、同会をグループ「市民の目」と改称し、継続した市民運動を進めていくことになりました。同会は雑誌「市民の目」を長らく刊行していました。

●寺社観光から「まちなか」の観光へ−平安建都1200年につなぐ
 それから、古都税紛争では、悪いことばかりではなく、結構後につながるいい面も生まれました。それは、それまでの、いわば寺社観光、それも有名社寺一辺倒への依存から、それを脱して、京都そのものを見せるという、新たな観光の開発です。歴史の京都といっても、それを、ほとんど寺社観光をもってやっていた従来のあり方から脱し、1200年の都市・京都そのものを見せようとするものです。その手始めに、京都の街中を積極的に見せる試みが始まります。これは、仏教会による拝観停止などの動きが起爆剤となったもので、この後の京都観光に対する積極的な意味をもってくることになります。碁盤目状の京都の街中は、1200年の歴史文化の集積そのもので、京都の町全体を博物館に見なすといった、1200年記念事業への動きや、その後の「あるくまち京都」にも結び付いていくことになりました。

●高さ規制 京都ホテルと京都駅舎
 1987年10月に古都税の廃止条例が市議会で可決されたことにより、古都税騒動は決着したのですが、その3年後の1990年の秋、まだ戦いのエネルギーにあふれていた仏教会は、今度は、京都の景観問題にその鉾先を向けることになります。これは、田辺市政になってからのことになりますが、ことのついでに、ここで少し触れておきましょう。 
 古都税が廃止された1987年の翌年、すなわち1988年4月に、京都市は総合設計制度の導入を決定します。そして、建都1200年を前に、京都ホテルや京都駅舎高層化の改築がが課題となってくるのです。そうした動きに対して、仏教会は、1990年の11月9日にいたって、古都の景観を守るために、JR京都駅や京都ホテルの高層化計画に反対の態度を決め、12月19日に田辺市長に景観保全の申し入れを行うのです。ここから、特に、京都ホテルの高層化に対して、同ホテルの宿泊者に対する拝観拒否や、工事差し止めの仮処分、さらには、総合設計制度導入による許可処分の取り消しなどを求める訴えなど法廷闘争なども展開することになります。これらの法廷闘争は、いずれも却下されるのですが、そうした紛争は数年に及ぶことになり、1995年9月ころには仏教会も法廷闘争はあきらめるようになります。そして、1996年2月には市長が田辺朋之から新たに桝本頼兼に代わり、仏教会と市がともに歩み寄りを求める機運が生じ、稲盛和夫京都商工会議所会頭の仲介もあり、1999年5月に市と仏教会のトップ会談を行うにいたるのです。これにより、仏教会は、京都ホテル高層化に反対する運動をおさめ、他方京都市は、事実上以後の高層化はないとの課題を負うことになるのです。そして、その後は、市と経済界と仏教会は、一体となって、二条城築城400年記念事業や、祗園・白川の夜桜ライトアップ、また「花灯路」開催などの事業を協同して行うようになったのです。
 仏教会は、「京都の観光客が減少したのは仏教会にも責任がある」と反省し、「行政、経済界と協力し、室町時代に築かれた精神文化を生かして、観光振興の行動を主したい」(1999.6.23有馬頼底理事長)との考えを示すに至っていました。

>>総合設計制度の適用第1号は鞍馬口病院<<
 建築基準法で、公開空地を設けることにより、容積率を緩和する制度であるが、京都市の場合は、高さ規制があるため、高さを緩和する制度。公開空地の取り方によって、高さ20mのところ上限31mまで、31mのところは45mまで、45mのところは60mまで認めることができる。この制度の初適用は、社会保険京都病院(旧健康保険鞍馬口病院)西館で、1990年10月に完成しているが、ほとんど問題となることはなかった。京都ホテルは2例目となる。
 JR京都駅舎の改築は、都市計画法上の「特定街区」制度の適用によって、60mに緩和したもの。1992年10月、市都市計画審議会、翌11月府都市計画地方審議会で承認される。

●そもそも なぜ古都税が必要だったのか―京都の都市性格
 さて、それでは、そもそもなぜ「古都税」のようなものが必要だったのでしょうか。そのことを考えることが大切です。
 戦後復興過程での京都市財政は、赤字の拡大過程にあり、その累積赤字の解消のため、ついに1955年に財政再建団体となります。この時に、文化観光施設税を実施し、文化施設と文化財保護の財源を確保しようとしました。1958年に財政再建計画を終えたのち、若干の期間は、経済の高度成長に助けられて比較的ましな財政運営下にありましたが、それもつかの間、1970年代に入って再び財政困窮に陥り、以後現在に至るまで、財政困難との葛藤の中での市政運営が続いているのです。京都市政と財政困窮は切っても切れない関係ともいえるでしょう。その原因の一つに、京都市の都市性格があります。それはすなわち、歴史的文化遺産の都市からくるものです。
 日本を代表する歴史的文化遺産を多く擁することは、都市にとってこの上ない有利な条件なのですが、他方で、その維持に膨大な経費を必要とするのです。観光客の数が増えれば増えるほど文化遺産の維持保全にはより多くの経費を必要とします。そして、京都のように、都市そのものが歴史的文化遺産である場合、その都市の維持保全には、新たな都市建設以上にその経費は掛かるだけでなく、都市生活もかなりの制約下に置かれるのです。
 こうしたことから、現在の府県重視と全国一律的な都市財政のあり方だけでは、なかなか京都市の財政需要に応えることはできないのです。古都税は、そのための問題提起の一端ではあったのです。
 また、仏教会の都市に対する寄与の仕方の問題もあります。現代都市の中に所在する歴史的な寺社は、宗教団体ではあったとしても、都市に立地する以上はその都市への一定の寄与を果たさなければ、都市そのものが維持できなくなるのです。いかにして、都市と歴史的な寺社とが共存共栄していくか、そのあり方を見出すことも必要でしょう。古都税は、こうしたことへの問題提起でもあったのです。歴史的な文化遺産としての寺社の建物や、また信仰対象そのものとしての仏像なども、それを文化財として、その限りでは信仰対象物とは違った側面でそれをとらえることによって、国民の宝として修理助成も行っています。これは、見方によっては、宗教活動への便益の供与にあたるという意見もあり得るのですが、そうした非生産的な議論は幸いにして起こっていません。
 さてそこで必要なことは、京都の都市は、京都市民だけではなく、国家、国民との協同によって経営していく必要があるということ、また、仏教会を中心とした寺社関係も、京都の都市経営への一定の寄与を図る必要があるのではないかということです。かつての文観税と今回の古都税は、こうした問題を提起しているものと考えられるのです。

第3節 都市建設への本格的始動

1.まちづくりの今川

●高山井上市長時代の計画が蘇る? ・都市整備、長期開発計画の復活
 今川市長は、急な病に倒れた舩橋市長の後継者として、急遽市長選挙に出馬することになったため、その基本政策は、富井―舩橋市政を継承するものでした。したがって、一期目の政策は、福祉政策と人間都市づくりを継承するもので、都市整備を前面に出すものではありませんでした。しかし、舩橋市政で着手した、京都市基本構想・基本計画の策定と平安建都1200年記念事業の取り組みは、まさしく21世紀へ向かう京都市の都市整備そのものであったといえます。そのため、2期目には、「まちづくりの今川」が強く出てくることになります。
 そうすると、富井―舩橋と2代にわたった革新市政では、福祉や都市問題解決解決などソフト施策重視であったことから、「まちづくりの今川」というハード施策重視の市政への転換が図られることに対して、庁内雀は、葬られていた高山・井上市長時代の計画が、亡霊のようによみがえってきている、と評する向きも出てくるのです。まことにうまく言うものですが、これは??!!というところでしょうか。いずれにしても、今川市長は、1960年に都市計画局長として京都市に採用されて以来、一貫して都市計画畑を歩み、1969年には技監となり、その2年後の1971年には舩橋市長のもとで筆頭助役に就いたのです。そして10年後、市長になった今川正彦は、満を持して、「まちづくりの今川」市政を歩むのです。しかし、一期目は、舩橋市政の継承とその仕上げだけではなく、古都税問題で苦しむことになり、二期目はその苦しみの最中に迎えつつも、ついに「まちづくりの今川」の本領を発揮していくことになります。

●基本構想・基本計画の策定、建都1200年記念事業
 世界文化自由都市宣言を契機とする京都市基本構想の策定作業は、また、その過程で登場してきた平安建都1200年記念事業への取り組みは、今川市長にとっては願ってもないことであったものと思われます。21世紀への京都の都市づくりを真正面からとらえるこの二つの大事業には、心躍るものがあったのではないでしょうか。
 世界文化自由都市宣言を京都市のめざすべき都市理念として掲げた京都市の初の京都市基本構想・基本計画は、1994年に迎えるべき平安建都1200年を、都市京都にとって、100年周期の一大記念イベントの時期としてとらえ、そのタイトルを「平安建都1200年に臨む」としたのです。そして、この平安建都1200年記念事業は、京都府、京都商工会議所も巻き込んだ、全京都としての京都活性化策を講じるべきものとなったのです。ここには、古都税問題での陰はなかったといえるでしょう。
 
●「まちづくり」への意欲 建設省からの人材投入
 さて、そうなると庁内の執行体制の問題があります。基本構想の策定では、今川市長との関係も良好で、住宅、都市計画の専門家として信頼の高い望月秀祐都市計画局長が計画局長としてその任にあったのですが、加えて、建設省から、省としての有能な人材を導入することに成功したのです。そのための建設省への折衝は、早くも一期目の中ごろから行っていたようなのは、すでに触れたところです。この人材、すなわち木下博夫氏は、都市計画局長として、1984年3月に採用され、1987年6月からは助役に就任することになります。そして2年後の1989年8月に建設省に帰ることになります。そしてその後は、自らにかわる内田俊一氏を企画調整室長に送り出してくれるのです。この内田氏はその翌年には企画調整局長となり、そして1993年10月には助役に就任し、2年後の1995年5月に建設省へ帰るのです。この建設省からの2人の人材は、実に優秀であったばかりではなく、京都市のために実に尽くしてくれていたのです。京都市を、国からの上から目線ではなく、京都市それ自体の目線に立って対応していたように思われました。
 不況から一転バブルが発生し、そしてデフレに転じていく時期に、この両者は、21世紀に向かう京都市の都市整備の基礎を築いていったといえるでしょう。部分部分では問題もあったにしても、全体としては、この両者による都市整備が、今川→田辺→桝本の市政を貫いていくことになります。
 しかし、庁内におけるこの両者に対する京都市職員の対応は、決して温かいものではありませんでした。むしろ冷たかったといえるでしょう。「国に人材を求めなければならないほど京都市には人材はいないのか」「人材は京都市で充分足りている」というようなことなのです。これは、他方で、古都税の時に、理財局財務部長に自治省から人材を導入した時も同様でした。柳原瑛氏で、実は同氏に対しては、同氏はたしか慶応大学出身で、その同学が京都市のユニークな職員としていたのです。やはり、庁内でのコミュニケーションが少ないので、一度会ってもらえないかということで、親しく会ったことがあります。氏はその後、1984年から86年にかけて理財局長に就任し、古都税をはじめとした市と自治省との橋渡し役をよく務めていたようです。また、建設省からの両氏には、市の職員が敬遠気味であったことから、私は積極的に会いに行くことにしていました。そうした中で、今でも記憶に残るのは、木下氏が、「国の役人は、みな京都市のために役立ちたいと思っている」ということと、都市計画局長として「局内の若手係長クラスに期待を持って接している」ということを言っておられたことです。こうした言葉は、「内向き」の京都市職員として恥ずかしく、また、京都市へきて数カ月にしてすでに京都市の体質を見抜いておられるなという思いをもちました。若手に期待しているということは、管理職にはもはや期待が持てないということの裏返しですから。
 木下博夫氏で記憶に残るのは、大阪ガス跡地のリサーチパーク実現への努力、都心部の空洞化現象に対して、大学や事業所をの流出に対する対策、世界歴史都市会議開催に合わせて、国連の地域開発センターの「大都市の保全と開発」国際専門家会議開催を誘致したこと、そして「阪神高速道路公団」を「京阪神高速道路公団」に改組して高速道路構想をたてたことなどです。また、大学や事業所の流出問題で、大学問題対策委員会や事業所問題対策委員会を庁内に設けてその対策に着手したのも記憶に残っています。とりわけ、大学問題の対策は、後に、内田氏がこれを継承し、市内に立地する大学の共同研究機関としての「大学コンソーシアム京都」に結実していきます。

●世界歴史都市会議の開催
 この辺で、世界歴史都市会議について、やはり触れておくことにしましょう。これに関しては、私はあまり関わっていないので、私自身としてはそう述べることはないのですが、今川市長は、おそらくこれに市長としての全精力を傾けていたであろうことは想像に難くなく、また、これが市長退陣の花道にもなったのですから、しかも、世界文化自由都市としての世界への働きかけにはこれほどのものはなく、また、以来、継続して世界の各地でも開催されるようになり、実に意義深いものとなっています。また、その取り組みでも、世界文化自由都市推進懇談会の桑原武夫と梅原猛もそのけん引役となるなど、水準の高いものとなったといえるでしょう。

 世界歴史都市会議の取り組みの概略は次の通りです。
1985.9.27::今川市長、「世界歴史都市会議」1987年秋開催の提唱を記者会見で発表。
1985.12.13::桑原武夫、梅原猛らを委員とする「企画委員会」を設置 以後、梅原猛は国際日本文化研究センター設立準備に専念するため退任
1986.3.31::企画委員会、「基本構想」を市長に提言 
1986.4.1::総務局内に歴史都市会議準備室を設置
1986.5.29::世界歴史都市会議の参加招請状を32か国,35都市へ発送 10/12ハノイ(ベトナム)、カトマンズ(ネパール)を追加
1986.7.28::世界歴史都市会議企画実行委員会設置  委員長・奥野助役 副委員長・西川幸治京大教授 
1986.10.6::各界代表による世界歴史都市会議推進協議会設立総会 会長・今川市長
1987年
1987.1.19::「世界歴史都市博」記念テレホンカード発売 1枚千円 千枚
1987.9.29::-10.5 世界歴史都市会議記念宝くじ発売
1987.10.22::市職員152人による世界歴史都市会議「運営本部」運営本部を設置
1987.11.14::-17世界歴史都市会議のプレ会議として「大都市の保全と開発」国際専門家会議を開催 主催・京都市、国連地域開発センター 国土庁特別協力 
1987.11.14::-23 「世界歴史都市ランド」開催 於・岡崎勧業館 
1987.11.18::世界歴史都市会議記念切手を発行
1987.11.18::-20「世界歴史都市会議」開催 会場・国立京都国際会館 テーマ:「21世紀における歴史都市‐伝統と創生‐」 参加・25都市(24カ国) 次回開催都市・フィレンツェ 世界歴史都市会議協議会設置(事務局は京都市)
 次回第2回は、1988年6月にイタリア・フィレンツェで、第3回は1991年10月にスペインのバルセロナ・ヘローナ両市で、そして、1994年には4月に再び京都市で開催し、参加全都市による世界歴史都市連盟を発足させ、その事務局は京都市が担うことになりました。
 以後は、概ね隔年ごとに開催され、今日に至っています。

2.まちづくりへの挑戦

●舩橋市政末期から始まる都市整備への挑戦

 今川市長は、誕生直後から古都税と同和対策の試練を受けて市政運営そのものが停滞しかねない状況の中で、早くも「まちづくりの今川」を始動させますが、その元は、舩橋市政の末期に芽生えていたといえるでしょう。市長になると同時に、苦しみながらも果敢に進めていたといえるでしょう。最初にそのまちづくりの諸事業をリストアップすると、次のように実に多くに及んでいます。以下は、繰り広げられ、或いは繰り広げられようとしたビッグプロジェクトの一覧です。当時の私のメモにありました。そして、これらのほとんどは、平安建都1200記念事業に位置づけて実施されていったのです。

  繰り広げられるビッグプロジェクト 一覧
1.地下鉄建設とそのターミナル開発
 地下鉄烏丸線の南北延伸計画 北大路ターミナルビル開発
 地下鉄東西線の建設計画
 地下鉄ターミナル開発 JR京都駅南口 JR二条駅前周辺整備、御池地下街、京阪三条            駅前再整備、JR山科駅前再開発、醍醐再生プロジェクト
2.JR山陰線高架化と周辺整備
 JR山陰線高架化工事
 JR丹波口駅周辺整備  大阪ガス跡地利用―京都リサーチパーク
3.幹線道路の拡幅
 京阪地下化と川端通拡幅
 堀川通の拡幅整備(堀川の暗渠化)
4.高速道路の整備構想
  都市高速道路の市内への導入計画
5.南北ビッグプロジェクトの夢と挫折
 大見総合公園(北部周辺整備事業)
 洛南新都市構想

 こうしてみてくると、今川市政で構想し、或いは着手した都市整備事業が、その後の各市長にも継承され、展開していったのがわかります。その主なものを次に見ていくことにしましょう。


●地下鉄建設とターミナル開発
 市営地下鉄は、その当初の動機は何であれ、とにもかくにも南北の基軸となる京都駅から北大路駅間の烏丸線が舩橋市長が入院した直後、同じ月の1881年5月29日に重点整備区間として開業します。これによって、京都市の基幹交通機関は市営地下鉄となり、大都市としては遅ればせながらも、順次敷設網を拡充していいくことになります。とはいっても、地下鉄建設財源は、ただでさえ不自由な京都市の財政を、以後、圧迫し続けていくことになります。それはともかく、今川市政では、この烏丸線の南北延伸と東西線の開通、そして、その各ターミナル開発が課題となってくるのです。そして、この時期、国鉄民営化後のJRによる旧来の貨物ヤードの売却による再編成にも関連して、ターミナル開発は多面的に試みられることになります。そして、これらの地下鉄延伸と各ターミナル開発は、京都市の基幹的な事業として、田辺、そして桝本市政に引き継がれていくことになります。
 まず、地下鉄の延伸と新線の建設です。
 地下鉄の延伸では、烏丸線の南北の延伸で、北進は宝ヶ池の国際会館まで、南進は伏見区竹田の近鉄京都線との接合まで。新線では、東西線の建設で、西は、いずれは洛西ニュータウンから長岡までを想定しつつも、当面は二条駅まで、東は醍醐までで、これでどうにか京都市の地下鉄も、地下鉄網とまではいかないまでも、何とか十文字にはなってくるのです。
 そして、地下鉄とJRとの接合する主要ターミナルを中心としたターミナル開発としては、まず烏丸線の京都駅と北大路 そして、東西線の開設に合わせて二条駅周辺、御池地下街、山科駅前、醍醐といったところが計画されていくのですが、東西線の準備は今川市政に始まり、今川市長退任直後の1989年11月8日に工事は起工されます。そのため、東西線建設に伴うターミナル開発は、田辺市政がこれを担うことになるのです。
 ちなみに、今川市政における地下鉄烏丸線の南北延伸と東西線新設の状況は次の通りです。
 烏丸線延伸
  南進:1988年6月11日::京都―竹田間営業開始
  北進:1986年5月7日::北大路―北山間工事着手 1990年1月24日::開通
東西線
  1988年7月14日::醍醐―二条駅間、事業免許下りる 1989年11月8日::起工式

●.堀川通と川端通(京阪の地下化)
 今川市長が、建設省から木下博夫を迎え、特に道路整備や拠点開発に取り組むのですが、それらが形を成してくるのには時間がかかるもので、その後の田辺、桝本市長もその路線を踏襲して具体化していきます。それで、ここでは、あまり個々の事業に触れることはしないでおきましょう。そこで、今川市長の実施した事業で、当時印象的だったものについて、若干触れておきたいと思います。
 もともと、京都の都心部近くの道路は、これといった基幹道路は東西の横の軸、南北の立ての軸ともに、決め手になるものがありませんでした。かろうじて南北の堀川通が戦後、疎開跡地の整備で何とか基幹的な道路の状況を呈していた程度でした。横軸の御池通は、これも戦後疎開跡地の整備で拡幅されたもののそれは短いもので、基本的には市電撤去の跡地整備で、何とか都市内自動車交通に対応していたために、都心部の自動車交通は常に飽和状態でした。また、横軸の国道1号線となった五条通にしても、京阪電鉄との平面交差によって、京阪五条の踏切は常に下がりいっぱなして渋滞していたのです。そのため、まずは可能な南北軸で堀川通と川端通の拡幅整備が今川市政下ですすめられ、また、川端通は、疏水の暗渠化と京阪地下化によって、これを実現し、都市内交通路と市外への高速道路とのスムーズな接続を可能としようとしたものでした。
 これには、堀川道路の拡幅には、二条城以南の堀川や川端通の疏水(鴨川運河)の暗渠化に対する反対はあったものの、その整備によって、南北の基軸線が確保されるとともに、国道1号線の五条バイパスの実現と相まって、五条通は通貨交通路としての役割を果たせるようになったといえるでしょう。当時そのように思っていました。
 京阪電鉄は、これとあわせて、三条から出町柳までの地下鉄鴨東線を敷設し、同時に叡山電鉄を傘下におさめ、大阪から京阪三条を経て出町柳までの直通を実現し、さらに乗り換えるものの、叡山電鉄の八瀬や鞍馬線にも接続するようになったのです。
 地下鉄鴨東線は、もともと京都市が敷設権を持っていたもので、これを都市交通確保のために京阪電鉄に譲り渡したものです。京阪本線の地下化工事(三条―東福寺)は、1979年3月に着工し、1987年5月に開通、三条から出町柳の地下鉄鴨東線工事は1984年11月に着工し、1989年5月に開通しています。
 このほか、国鉄民営化による梅小路や二条駅などJR貨物ヤードの売却跡地の整備、山陰線の複線電化と高架化、近鉄京都線の高架などによる立体交差の実現など各種のインフラ改善への動きは、今川―田辺―桝本市政へと受け継がれ具体化していくことになるのですが、それらの概要は、田辺市政の辺りでその概略をまとめてみることにしましょうか。
 それから、これは民間の開発事業ですが、JR丹波口駅近くのリサーチパークのことです。これは、後でも述べることになりますが、建都1200年記念事業として博覧会を行うについて、林田府知事と今川市長とが、片や京阪奈丘陵での学術文化都市建設の予定地で、片や今川市長の洛南サイエンスタウンの基盤整備にと互いにその開催場所をめぐって譲らず、結局博覧会の開設は実現できなかったのですが、それでも京阪奈丘陵における学研都市づくりは進行します。けれども、今川市長の洛南サイエンスタウン構想は挫折します。そうした中で、当時、海のものとも山のものともわからなかったリサーチパークが、その後着々と成長し、小さなスケールではあっても京都市内における先端技術研究のまとまりのいいセンターになっていることです。京都市や京都府の研究所もそこに移転して、官民協同の先端的な研究ゾーンとなっています。この大阪ガスの五条工場の跡地の開発には、今川市長が建設省からトレードした木下都市計画局長が協力していたことを思い出します。
 ちなみに、京都市は、JR丹波口駅周辺を新たな学術研究ゾーンとして位置付けますが、大阪ガスはこれに呼応して、1987年12月に同社の旧京都製造所跡地を、内外の新分野研究所や先端的ベンチャー企業を誘致したリサーチパークとして再開発する全体構想を明らかにします。
 この時期にはまた、大学や事業所の流出問題に対して、庁内に木下都市計画局長を委員長ないし座長とした庁内組織「大学問題対策委員会」(1985.11)や「事業所問題対策委員会」(1986.8)、さらには「土地問題対策連絡会議」(1988.2)を設け、1986年5月には「大学の整備充実に向けた取り組み」を、1988年2月には総合設計制度導入を盛り込んだ「当面の土地対策」を取りまとめています。大学対策では、その後の大学コンソーシアム京都結成へと結実していきました。


3.平安建都1200年と京都の活性化  京都市基本構想から建都1200年へ

●夢と挫折 サイエンスタウン=洛南新都市と北部開発
 先に、今川市長の思いを指摘しておきましょう。当初、必ずしも建都1200年というものがしっくりとは理解できていなかった今川市長ではありましたが、それが、成る程とわかるや、これは使えるとなったようなのです。それが、巨椋池北端・向島地区における「洛南サイエンスタウン」の建設でした。そして、これに加えて、もともとは、舩橋市長が打ち出していた北部における「大見総合公園」建設構想だったのです。ですから、今川市長にとっては、これこそが平安建都1200年記念事業として、京都市100年の体系だったのでしょう。ただ、この京都北部と南部の開発は、いずれも行政内部での十分な検討を経ずして、北部は舩橋市長の、南部は今川市長の初夢のような形で唐突に新聞紙上に出されたのであったために、行政内部になかなか根付かなかったところにそもそもの問題があったのかもしれません。古都税の時に露呈したような、トップの指導力、リーダーシップの取り方が最後まで理解できなかったところに、今川市長の最大の問題性があったのかもわかりません。
 ともあれ、京都の北部と南部の開発問題が、京都市の平安建都1200年記念事業の最大の目玉であったのは間違いなかったのです。そして、そのための国際条約に基づく博覧会の開設、それは、遷都1100年祭の時の第4回内国博覧会の開設とのその後の京都近代を代表する岡崎公園建設の状況を思い浮かべられていたのかもしれません。しかし、この新たな未来への都市づくりのための博覧会の開催をめぐっては、当時、京阪奈丘陵で進められていた関西経済界挙げての学術文化都市の建設が、京都府にとっての重要課題としてあり、林田知事はその基盤整備のためにこれも博覧会の開催を必要と考えていたために、博覧会の場所をめぐって、京阪奈丘陵にするか、向島地区にするかで、林田知事と今川市長との間で綱引きとなり、両者ともに引き下がらなかったために、結局博覧会開設はつぶれるのです。折角、博覧会の開催が、平安建都1200年記念協会の特別記念事業として、建都1200の目玉事業とされていたにもかかわらず、です。田辺市長になって直後の1990年3月7日、記念協会は、記念博覧会について、従来のパビリオン方式を見直し、京都市を中心とした府内全域を会場にした特別記念イベントを開催するように方針を転換したのはこのことなのです。これによって、洛南サイエンスタウンの基盤整備事業ができなくなり、洛南サイエンスタウン建設事業はここに挫折することになったのです。

●100年に一度の京都再生策 宣言→基本構想→建都1200年  京都の一大イベント
 西暦2000年が射程距離に入ってくると、ちょうど基本構想・基本計画の見直し期にさしかかっていた各自治体は、21世紀構想を検討するようになってきていました。そうした時期に、京都市は基本構想を初めて策定することになり、その主軸に「平安建都1200年」を据えることになったのです。
 100年前の明治中後期の1895年に、京都市は「平安遷都1100年記念祭」を挙行しています。この時期、京都は、明治維新で、天皇が東京へ移り、事実上の東京遷都が行われたことによって、著しく衰微したため、その近代的復興に努めている途上に「遷都1100年」を迎えたのです。すでに琵琶湖疏水は完成していて、さらに産業復興を目指す過程であったために、明治政府による「内国勧業博覧会」を岡崎地区に誘致し、そこに平安神宮をも兼営したことにより、同地区は、京都の近代化を象徴する文化産業地区として、今日に続いていますね。この時期、京都は、東京や大阪より以上に日本を代表する工業都市ではあったのです。後に市庁舎にもなる市会議事堂ができたのもこの時期なのです。
 そして、21世紀を前にした現代、戦後経済の高度成長期を過ぎたころから京都の都市と経済の地盤沈下が顕在化し、その回復と活性化が重要な課題となってき状況は、まさに100年前の「平安遷都1100年蔡」の時期と酷似していたのです。

●建都1200年の火付け人 「京都の歴史」の役割
 では、「建都1200年記念事業」構想はどのようにして誕生したのでしょうか。これには、火付け人がいたのです。
 責任編集者・林屋辰三郎による京都市編『京都の歴史』第9巻「世界の京都」は、1976年3月に刊行されましたが、その叙述の最終は、古都の箴言(シンゲン)」として、次のように結ばれています。
  「今日の時点よりおよそ二十年、古都千二百年がめぐりくる。現在までのところ、こうした意識は希薄であるし、話題にさえなったことはない。だが、先人である京都市民が、この歴史意識の支えによって、京都の展望を模索し、回復の糸口を探り出し、古都を再生させたことは、右に述べたとおりである。果たして古都千二百年が、何を命題として迎えられるかは問わないとしても、京都の未来像を築きあげる、歴史的な機会になることは疑いないし、また、その意志をもたなければならないことも確かなのである。」
 これの執筆者は森谷尅久氏です。この時期、京都市基本構想の策定も課題となりつつあり、同氏は、京都の歴史の締めくくりに提起していた、京都1200年の歴史的な時期をどう迎えていくかについての思いを強め、私もその相談にあずかる中で、ちょうど同氏が市政調査会の常務理事、私が事務局長であったことから、これを、市政調査会の場で訴え、その反応を見てみようと考え、市政調査会の「10人委員会」や理事会で、その講演を行ったことが、建都1200年問題が議論の俎上にのった最初ではなかったかと思います。
 その後、1980年ごろになると、経済界からも反応があり、当初戸惑いもあった基本構想策定の調査研究委員会や、今川市長もこれを積極的にとらえることになり、1980年6月には、基調テーマのサブフレーズとすることが確定するのです。すなわち「伝統を生かし創造をつづける都市・京都―建都1200年をのぞむ市民のまちづくり」なのです。ちなみに、京都経済同友会は、1983年3月に「建都120年京都活力化への提言―京都は甦るか」を政策提言していますが、その2年後に、その提言の「PART2」を再度提案しています。
<参考資料>市政調査会報
・『建都千百年と千二百年記念事業構想の歴史的意義について』森谷 no.43・44 1983.9
・『平安建都一二〇〇年について』森谷 no.56・57 1985.11

●「平安建都」の意味 林屋辰三郎先生 
 それでは次に、なぜ「建都」なのかということです。「遷都」では、天皇の都遷りとなり、今の時代にはふさわしくありません。京都という都市が、新たに建てられて、以来都市民の都市として発展してきて1200年、ということです。これについて、火付け役の森谷尅久氏は、そのための「建都」は造語である、との説明をしていました。そこで、ある時、そのことを、林屋先生に話してみたのです。すると、先生は、「建都」が造語であるということに対して、大変遺憾の意を示されたのです。「建都」は当時の資料に明確に出ているということなのです。そこで、すでに高齢で、病にも苛まされてきていた先生ではありましたけれども、「平安建都」について、明確な根拠を示す必要性を考えられ、読売新聞に、3回の連載文をしたためられました。これは、先生の最後のまとまった文章となったのではなかったかと思います。さすがに、資料を読み込むことによって史実を明らかにしてこられた林屋辰三郎先生ならではの文章です。森谷さんとの違いがあまりにも歴然ではありました。
 平安京より先に長岡の地に建設が試みられたもののこれが途中で挫折し、そのうえでさらに「山背盆地」の奥に平安京が建設されることになったのは既に承知の通りです。この、山背盆地における都づくりは、「仏教国家」として僧侶の腐敗が顕著となっていた奈良の都から離れて、山背の地に新たな都を建てようとしたものなのです。この単なる「遷都」ではない、山背の地に新たに都を建てるという「建都」は、桓武天皇の強い意志によるもので、「建都」は現在の造語ではないのです。
 この「山背建都」の実現によって、「山背」は「山城」に改められ、しかも、この都の名は、その当時、庶民の歌った言葉によって「平安京」と名付けられたのです。この「平安京」という名称は、いわば庶民による命名だったのです。そして、この山城盆地に平安京を建設することができたのは、この地に先住していた渡来人たちが、その先進的技術でもってその基盤を築いていたからであったのです。こうして、以後、1200年に及ぶ歴史を歩むことになった平安京の建設、すなわち「平安建都」は実現したのです。
 以上、うまく記すことができませんでしたが、できれば、林屋先生の論考を読んでいただくことをお勧めします。それは、建都1200年の年の1994年3月17,18,19日の読売新聞夕刊で、「京都の千二百年 山背の建都」と題して上中下の3回にわたって掲載されたものです。上は「延暦は末法か」、中は「水陸の便を求めて」、下は「基盤築いた渡来人」です。


 第4節 今川市政から田辺市政へ

1.今川市長の挫折と激烈な市長選挙

●今川市長の引退
 今川市長は、古都税問題、特に市長再選時の選挙をめぐる不動産業者西山社長との闇取引まがいのやり取り、さらに鳥居問題に代表される同和行政の不祥事に対する指導力のなさ、こうした市長としてのリーダーシップの欠如と政治責任から、三期目はない、ということは、本人の思いとは別に、はやくから既定の事実となっていたと思います。ために、世界歴都市会議の開催は、今川市長の花道と受け止められていました。世界歴史都市会議は、1987年11月に開催、その1年半後の1989年4月に市制100周年記念事業を全うし、その年8月の市長選挙には出馬しなかったのです、というよりも出馬はできなかったのです。この市長選挙は、以後の市長選挙も含めて、例のない、またまとまりのない激烈な選挙となりました。

●激動の時代背景
 それには、京都市政の事情をこえた、世界と我が国の激動の波が押し寄せてきていたことも、根底において強い影響がありました。単に、今川市長の市政運営のあり方がどうのこうのという以上に、京都市政そのものがそうした大きな時代背景にある意味翻弄されてきたのです。
 戦後の京都市政をめぐる政治情勢は、その当初は別にして、高山・井上市政は、強い自民党に民社党が加わった与党に対して社会党と共産党が挑む構図が続いた後、富井・舩橋市政は社会・共産党に公明党が加わった与党体制にさらに自民党、民社党も加わるオールう与党体制が成立し、社会党を主軸とした市政運営が続くことになったものの、今川市政下での古都税問題の展開過程での共産党切りによって、共産党を除くオール与党体制が成立するのです。いわば、こうした平和な政治状況は、1980年代末期には吹き飛んでしまっていたのです。
 世界は、ソ連のペレストロイカに続くベルリンの壁崩壊からソ連邦の解体は、戦後定着していた冷戦構造をなくし、新たな多極化への不安定な道を歩むことになります。そしてこの時期、特に市長選挙の行われる1989年、我が国では4月に消費税の創設があり、加えてリクルート疑惑による政治不信によって6月には竹下内閣が崩壊し、直後7月23日の参院選挙では自民党が大敗し、以後自民党の凋落と社会党の躍進が、保革逆転の可能性を内包しつつ、政治は多党化現象の激動、流動化状況を呈するようになります。そしてまた、市政において大きな影響をもってきていた労働組合に関しても、労働戦線統一問題が具体化し、これも、共産党支持組織を除く、従来の総評、同盟、中立などのナショナルセンターを一本化した「連合」が成立し、ここでも、共産党支持組織は、統一労組懇を別のナショナルセンターとして成立します。こうして、京都市政での、社共体制による革新市政というものは成立しにくくなってきています。こうしたなかで、新たに、社会党、民社党、公明党の中道勢力のまとまりが芽生え、新たな労働組合のまとまりとしての連合京都がそれを支え、京都市政及び京都政治の主導権を確保し、左右どちらにも偏らない新たな政治状況が生まれようとしていたといえるのです。この中道勢力による一定程度のまとまりは、参議院選挙の京都地方区に具体的な姿を見せ、その状況は今日に至るまでそれなりに継続している部分もあるのです。このように、京都政治の大きな分岐点、それはちょうど今川市政から田辺市政へと転換する市長選挙の底流にあったのです。

●激烈な市長選挙
 今川市長二期目の任期満了に伴う市長選挙は、1989年の8月12日告示、同月8月27日投開票で、執行されました。この市長選挙を前にして、各政党は共に、現職であった今川市長の担ぎ出しをせず、庁外候補を模索するのです。それは、市政の刷新が最重要の課題となっていたからです。他方で、この年は国政レベルでも激動の年であり、直前の7月23日執行の参議院選挙で、自民党が大敗し、社会党が躍進、京都地方区の得票数では社会党18万票に対して、自民党は14万票、共産党が12万票となり、社会党が圧勝、自民党が凋落し、共産党は一応それなりの健在を示すのです。
 こうした背景のもとで、今川市長自身がまだ何らかの形であれ態度を明らかにしていない段階で、選挙の前年1988年6月における自民党を皮切りに、各政党とも、現職や庁内ではない「清新な」人材を求める決定をし、ここに、今川市長の立候補の可能性は事実上なくなたといえます。しかし、同和行政の刷新や庁内状況の立て直しを課題とする難局の京都市政に対する、庁外の市長候補はなかなか見出すことは困難ではあったのです。こうしたことから、連合京都が、社公民の統一候補を前提に、助役の奥野康夫を候補者として
推す一幕もあったのですが、結局各党ともに独自の動きをした結果、こうした庁内候補はなくなり、こんどは、政党とは全く無関係な形で、元助役で、教育行政のベテランでであった城守昌二元教育長が、立候補するということが起こったのです。
 最終的に候補者は、京都府医師会長の田辺朋之氏、「山鉾町の町並みと担い手を守る会」会長の木村万平氏、四条病院院長の中野進氏、そして、元教育長の城守昌氏を主要4候補として選挙戦は闘われたのです。各候補ともに無所属ですが、田辺候補には公明、民社が推薦、自民が支持、木村候補には共産が推薦、中野候補には社会、社民連が推薦、城守候補には、政党の支持、推薦はありませんでしたが、それなりの関係はあったようです。
 ここで注目されるのは、田辺候補には自民党が表立って前面に出なかったことと、社会党が、国政選挙における圧倒的な追い風がありながらも、低迷してきた京都の社会党の復活にはならなかったことでしょう。実質的には社会党単独による医師からの候補者擁立ではあったものの、同じ医師の医師会長の田辺候補に惨敗したといえるでしょう。得票数は、田辺候補のちょうど半分に過ぎなかったのです。そして、共産党推薦の木村候補は、実に321票という微少差で田辺候補に惜敗したのです。実際のところ、どう転ぶかわからない選挙だったのでしょう。そして特徴的なのは、社会党推薦候補者の惨敗と、元教育長の城守候補が、政党の背景なしで、5万票を獲得するなどの善戦をしたことで、これが、その後の教育委員会出身者の市長出現の基盤となったものだと思います。5万票といえば、巷間言われてきた、市役所の御池選対の票数と変わらないものであったのですね。城守氏は、今川市政スタート時点で助役となり、古都税を担当し、推進したものの、今川市長とはそれぞれ別の動きとなり、結局任期1期で、市長部局には十分なじまないままに退任していたのでした。ですから、元助役というよりは、元教育長というのが実態を表していると思います。この段階での教育委員会は、城守氏が築きあげてきたものですから。
 投票結果は、次の通りです。
  投票率 40.60% 投票総数 430,707 有効投票数 426,969
  当選 田辺 朋之 148,836
     木村 万平 148,515
     中野  進  73,035
  城守 昌二  50,493
     その他の候補 6,100

2.田辺市長の庁内体制

●基盤の弱い田辺市政
 激戦を制した田辺市長ではあったのですが。その市長としての政治基盤は弱いものであったといえます。それまで、市政の主導権を握っていると自認してきた社会党が惨敗して市政与党の座から滑り落ち、自民党低落状況の中で共産党候補と本当に紙一重の差で勝ったに過ぎない田辺市長であってみれば、その市政運営の主導権確立には苦労があったものと思われました。
 そこで、田辺市政の運営基盤の弱さを整理すると次のようなことが考えられます。
 先ず第1に、与党である第1党の自民党は、自民党批判の激しい中で、選挙の前面に出ず、十分な主導権をもっていなかったこと。また、医師会が田辺会長を担ぐにあたっては、特定政党の支持ではなく、共産党を除くすべての党の支持による市長となることを目指していたものの、それが実現しなかったこと。
 第2に、田辺市長には、市政運営にあたっての予めの知見があったようには見えず、「市政の刷新」を掲げて当選しながらも、既存の市役所の庁内体制に依存する以外に方途がなかったこと。
 第3に、田辺朋之という人その人が、政治行政の渦中でリーダーシップを行使していくには、あまりにも人物として「良い人」であり過ぎたことです。これは、私なりの接触の中で強く感じていました。海千山千の世界を統御していくには、心の純粋性は大切にしつつも、駆け引きを含めて、それに負けないだけの、この世界でのキャリアを身に着けていなければならないのです。ましてや、市政の刷新が最重要課題となっているときなのですから。 
 さて、ここで見えざるパワーについて少しく触れておきましょう。舩橋、今川市政と山段氏との関係については先にふれていましたが、ここでは、その変化について触れておくことが適当ではないかと考えるからです。舩橋市長の応援と今川市政へのそれなりの関与は、表立ったものではないものの、市役所幹部職員の退職後の就職あっせんのような形ですすめられ、また、選挙時には、OBを組織した選挙母体を軸に据えるなど、オール与党体制づくりの核を作り上げていたのですが、今川市政の終えんによって、この構図は変わってくるのです。これは、一説には、ということですが、田辺市長の誕生は、これまで影響力を持っていた山段氏の影響力低下と、他方、京都府副知事から衆議院議員に当選し徐々にその力量を発揮してきていた野中広務議員との手打ちによるものだということです。考えてみれば、成る程あり得ない話ではなさそうですね。従来、京都における自民党の国会議員には、京都北部の前尾茂三郎という大物、また、京都市内の中心部では田中伊三次という名物代議士などがおられたものの、京都市政に対してそう影響力をもとうとはされていなかったようなのです。だいたいが、府下・郡部の政治家は、京都市政との関りは薄く、一区の政治家が深いかかわりを持つものの、田中代議士は、そうした面では極めて蛋白な政治家でした。そして、谷垣専一(貞一氏の父)代議士を含む3人の大物代議士が去り、変わって野中、谷垣、伊吹の3人が登場してくるのです。1983年のことです。ですが、肝心の1区の伊吹代議士はあまり地元に対する関心は強くなさそうで、これまでなら、2区の代議士は、右京や伏見は選挙地盤であるのもかかわらず、京都市政に対するかかわり方はそう深いものではなかったのですが、野中氏は、地元に対する面倒見がよく、京都市政全般にに対しても協力的であったようなのです。そのために、京都市政に対しても徐々に影響力を持つようになってきていたのです。今川市政が行き詰まり、新たな市政を模索する中で、この両者の力の均衡が田辺市長誕生につながったということです。田辺市長個人は政党の背景もなく、医師会会長でもあり、オール体制を継続でき得る格好の人物だったのです。ただ、誤算は社会党が単独での独走をしてしまったことですね。でも、この選挙に惨敗した社会党は、以後、自公民の支持態勢の中に徐々に加わっていき、新たな、共産党を除くオール体制を築くことになりますが、今回は、社会党は遅れてきた一員であり、これまでのような主軸たりえない存在となるのです。
 こうして、以後の京都市政は、山段、野中両氏の緩やかな影響力を受けながら、やがて山段の凋落と共に野中氏の影響のもとに置かれることになるのです。しかし、それは、支配されるというような関係ではなく、国政との関係でサポート願うという関係となってくるのです。こうして、巷間言われてきた「闇の帝王」の支配から脱した新たな京都市政が始まるのです。田辺市長選挙は、まさしくその分岐点であったのです。さらに、ひとこと庁内の政治状況に触れておくと、今回の選挙では、庁内の御池選対は、奥野助役の出馬がなかったことから、結局、旧来の市政の体制を継続するために、その趣旨で医師会が働き掛けた田辺候補で動いたという話です。


●既存の庁内体制の上で
 助役の体制を見ると市政の傾向がよくわかります。富井市長が誕生した時には、助役は舩橋求己助役1人体制でした。富井市長と舩橋助役の体質が合わなかったにもかかわらずです。ですから、これはこれで、当時の情勢をよく表していたのです。そして舩橋市政になりますと、やがて、今度は助役3人体制となります。富井市政の時には、自らが1人助役体制を主張していたにもかかわらずです。舩橋市長は、助役の時には、自分1人に庁内体制が集中するように努め、市長になっては、助役を通して庁内をコントロールしていたのです。そして今川市政です。ここでは、最初から助役3人体制を取り、それは3者3様、市長を入れて4者4様の庁内状態があったのです。そのなかで、市長との対立から、城守昌二助役が去り、次に木下稔助役が、建都1200年記念協会の理事長に専任となることにより助役を去り、ここに再び奥野助役1人体制が生まれます。1985年12月から87年6月、建設省出身の木下博夫助役が誕生するまでの間です。ここで、奥野康夫助役と中谷佑一職員局長による、人事畑による庁内体制がある意味で完成することになります。
 そこで、田辺市長の誕生です。田辺市長誕生時の総務局長は薦田守弘氏で、これまでの庁内覇権争いにはある種無縁の人柄でした。田辺市長と薦田局長との人柄の相似形があったのでしょう、最初の助役選任はこの薦田局長となったのです。この段階で、奥野助役は任期満了で退任し、新たに開設された京都市国際交流会館の専務理事に就任することになります。そして、長年人事畑にあって、庁内体制を整えてきた中谷佑一局長は、民生局長に転任となり、ここに庁内の体制は新たな段階に入ることになります。ただし、残念なことに、それは従来の秩序が崩れつつも、新しい秩序が必ずしも生まれる状況ではなかったことです。ある種の見方からすれば、庁内体制は、奥野体制から薦田体制へと移行したのですが、薦田体制は、その人柄からいっても「体制」といえるものではなかったことです。奥野体制はそれなりに崩れていくのですが、新たな、田辺市政の有意の体制は築かれなかったといえるのです。こうしたことから、庁内の政策調整は、次の課題となってくるのです。
 すなわち次の問題は、庁内の政策調整の問題です。これまでは、市長自身がそれなりに行政のベテランであったために、ことさらに政策調整を行うセクションを必要としてこなかった面が無きにしも非ずだったのですが、京都市政の全くの素人で、しかも、富井市長の時のように、自らが政策集団を用意していたという背景もなかったために、庁内の政策形成とその調整には、それなりの組織を必要としたのです。すなわち。企画調整組織の創設です。
 ここで、富井市政以来の政策調整組織について、端的な整理をしてみましょう。
  <各市政と総合企画調整機能>
高山:企画局
    富井:調査室、政策的秘書課体制
    舩橋:庁内縦割り組織の活用
    今川:まとまりを欠くリーダーシップ体制 市長と三助役それぞれに
    田辺:企画調整局の設置  庁内の総合政策調整機能を組織的に担う
 若干の解説をしておきましょう。
 高山市政の時には、各セクションに、それに適したリーダーシップ性の高い幹部職員がいて、それを高山市長がうまく統御していて、企画調整についても、その専門性の高い見識を持った人材がいて、自らは一歩引いた心得でもって全般的な企画調整機能をはたしていたようです。
 富井市政下では、高山市政下で構築されてきていた庁内体制の変革が課題であり、これを市民運動との提携で果たそうとしたために、市長直結の調査室と政策的秘書課体制を設置したものの、市長と一人助役との微妙はスタンスの違いからその機能は十分なものとはいえなかったようです。
 舩橋市政では、行政のベテランを自認している舩橋市長は、行政組織と庁内体質を熟知していることから、ことさらに企画調整的な組織機能を必要としなかったため、調査室も廃止し、既存の縦割りの行政組織の上に乗った行政運営を行っていたのです。
 今川市政では、行政職員との関係、とりわけ象徴的には3助役との関係がちぐはぐで、庁内のリーダーシップ体制が機能していなかったのです。
 そして、再び外部からの市長となって、田辺市長は、総合的な企画調整組織を必要とするに至ったのです。

●建設省人材に依存 「保存か開発か」の二律背反からの脱皮
 今川市長は、望月計画局長(後技監)と連携して、長年都市計画行政を進めてきていたのですが、基本構想策定後は、いよいよ具体的な事業の実施を総合的に進めていくことが課題となってくるのです。そこで、望月秀祐技監に続く人材の確保と、事業を進めていくにあたっての建設省との関係などを考えると、今川市長の出身官庁である、建設省からの人材の登用を必要とし、木下博夫氏を都市計画局長として迎えることになります。同氏は、1987年6月から助役となり、89年8月に建設省に帰るのですが、その代わりに内田俊一氏を導入してくれたのです。これは、ちょうど田辺市長誕生時のことです。内田氏は、当初総務局内の企画調整室長に就任し、1991年4月から83年10月にかけて企画調整局長となり、そして93年10月から95年5月こかけて助役となり、田辺市政下での約5年にわたって京都市に在職するのです。そしてこの両氏が、1980年代後半から90年代を通しての京都市の都市整備の基本的な路線を引くことになったのです。京都市政の行政体質に対しては、市政刷新を主張してきていた田辺氏市長ではあったのですが、まちづくり、都市整備に関しては、基本的には、今川市政下で導入した建設省からの人材に依存していたのでした。この両者は、中央省庁からの人材のいい面を現していたのではなかったかと思います。
 戦後京都の本格的な都市整備は、財政難や諸種の変遷を経て、市政運営上多くの問題を有していた今川市政下で初めて着手されることになります。今川市政そのもは、古都税問題による市政の混乱によって否定的な面が強いのですが、世界歴史都市会議と本格的な都市整備に関しては、以後の市政の根幹にかかわる重要な基礎的条件を整えてくれたのです。
 時あたかも、1980年代後半は、土地バブルが急進し、京都もその買い占めに翻弄されることになりますが、今度は90年代にはいるやそのバブルが崩壊するという、いかにも都市整備上の難局に遭遇していたのです。しかも、歴史的文化遺産の宝庫としての京都といえども、やはり新しい時代の中で生きていくための成長を常に試みていかなければならないのです。都市の凍結保存は許されません。そしてそのための財源は、ひとり京都市のみで確保できるものではなく、日本を代表する歴史遺産の維持には国民的、国家的な協力が必要なのです。建設省からの木下―内田ラインは、こうした京都市の基本的な課題に対応する条件を備えた人材だったといえるのです。「国の役人は、みな、京都の役に立ちたいと思っているのです」という国の役人の素直な思いを、京都市が活用しないということはないでしょう。長年、「保存か開発か」という二律背反的な矛盾に悩んできた京都市のそれまでの捉え方に対して、「歴史的ストックと調和した都市開発」という両者の創造的なとらえ方を提示したのは、その代表例といえるでしょう。これは、内田俊一氏が企画調整局長のときに国土庁の大都市圏整備局を動かして行った調査「歴史的ストックと調和した都市開発方策のあり方に関する調査報告書」(1993.3)にその考え方が整理されて提案されています。これは、以後の京都市の都市整備の基調となる考え方となるのです。

 3..健康都市構想と土地利用の見直し

●田辺市政の二本柱
 田辺市政による京都市政の刷新には特にみるべきものはありませんでした。すでに見たように、既存の京都市の行政体質に対して、外部的な圧力による激変はもたらされることなく、既存の庁内の人的資源の中で、新たな可能性が模索された程度でした。新たな可能性より、むしろ従来の秩序が崩れていく状況の方が目立ったという方がよかったのかもしれません。
 それはそれとして、田辺市政の特徴は、医師としての田辺市長の特性からの「健康都市づくり」とこの時代の特性からくる「土地利用のありかた」の二本柱であったといえます。そして、京都市政の重要課題として、府と商工会議所の三者が一体となって21世紀をめざす「平安建都1200年記念事業」がいよいよ佳境にはいってきていました。
 そして、京都市基本構想の基本計画の改定期が訪れつつあったこともあり、この健康都市構想と土地利用の見直しが、新たな基本計画の主軸となってくるのです。
 さて、そこで、少し視点を変えて、田辺市政のこの二本柱は一体だれが演出したのでしょうか。実は、これが私にはよくわからないのです。庁外にこうした政策ブレーンがいた訳でもなく、また、市役所の刷新を掲げて誕生した直後の田辺市政に庁内ブレーンが誕生するにはまだ早すぎるからです。とはいえ、医師会肝いりの医師会長の市長であってみれば、「健康・福祉・医療」を重視した政策は当然理解できます。が、これを「都市づくり」にまで高めたのは一体どこの知恵なのだろうか、ということです。
 そこで考慮されるのは、田辺市長は、もともとは、古都税問題など今川市長の個人的な色彩の市政に関しては刷新を掲げていたものの、市政運営の根幹である共産党を除くオール与党体制に関しては、それを踏襲する考えから医師会が動き、実現したものです。ですから、行政施策それ自体は、市役所庁内の能力を活用しようとするものであったといえ、特に庁外からの政策ブレーンの導入は考えられていなかったのです。
 ということから、「土地利用」に関しては、建設省からの人材に依存し、健康や福祉をはじめとするその他の政策は、従来からの市役所庁内の能力を活用したのだと言えるでしょう。そして、庁内ブレーンは、特定する個人ではなく、そのセクションの人材の能力に依存することになったのでしょう。

●健康都市構想
 田辺市長は、市長選挙立候補に当たって、他の候補者と同様に「市政の刷新」と市民との対話の重視を掲げていたのですが、医師出身の市長候補らしく、市政の政策の要には「医療、健康、福祉」を据えることを訴えていたのです。これは、ある意味、医師であり、京都府医師会長であった富井市長が、「暮らしと健康を守る」市政を基調としたのと同様で、同じく医師であり京都府医師会長である田辺候補の相似形を感じていました。そして、二人とも、医師会の推薦によったのです。そして、この「医療、福祉」の重視はまた、京都市の土壌にもよくあっていたのだと思います。ただ、田辺市政では、この「医療、健康、福祉」は、単なるソフト行政にとどまらず、都市づくりそのものに発展させるのです。「健康を尺度とした」都市づくり、それが「健康都市づくり」でした。
 こうして、就任後の田辺市長は、これを「健康都市構想」にまとめ上げるのです。
 まず、市長就任直後の翌年1990年正月2日の京都新聞に「田辺市長、21世紀に向けた新しい町づくりとして『京都健康都市構想』を策定することをこの日までに決める」と大々的に表明、そして、3月14日には、企画調整局新設などの機構改革への条例改正案を市議会に提案、その議決を経て4月1日に企画調整局と市民局を新設、職員局を廃止して総務局に統合するなどの機構改革と人事異動を実施し、健康都市づくりへの庁内体制を整えます。
 企画調整局では、健康都市構想と新たな京都市基本計画の策定が主要な任務で、そのため、それまでの計画局は、かつてのハード部門の局として、都市計画局に戻ることになりました。こうして、この年7月には、学識者による「京都市健康都市構想懇談会」設置し、翌年、1991年5月に「中間報告」を得、11月14日に至って「最終答申」を得るのですが、その間、1990年11月2日、「健康都市・京都を考える市民100人懇談会」を発足させ、翌年1991年7月には、早くも健康都市づくりの目玉事業といえる「京都市健康増進センター」建設工事の起工式を行うに至っています。このセンターは、「ヘルスピア21」として、1993年7月21日に、南区の元京都市工業試験場跡地で開設され、健康都市構想を推進する中核施設としての役割を期待されるのです。
 健康都市構想を進める体制としては、1992年4月に庁内組織として、田辺市長を本部長とする「京都市健康都市づくり推進本部」を設置する一方、 10月には「健康都市づくり市民会議」も発足させ、市民と行政とが一体となって健康都市づくりに向かうのです。
 なお、現在毎年3月に行われている京都マラソンは、こうした中から生まれたものです。最初はハーフマラソンで、建都1200年記念事業として、「健康都市京都国際市民マラソンハーフマラソン」と銘打って実施され、そして毎年開催されるとともに、2012からフルマラソンとしての「京都マラソン」として発展してきたのです。

●土地利用計画・田辺試案
 田辺市政の政策的な柱は、健康都市構想と土地利用計画の二つであることは既に述べた通りで、ここでは、土地利用計画について少しの述べてみたいと思います。
 田辺市長の誕生は、ちょうど土地バブルの波が京都にも押し寄せてきたときに当たり、この土地対策が否応なく、重要課題となってきたのです。しかし、この政策は、今川市政からの政策の批判の上からではなく、今川市長が導入した建設省からの人材に負うことによってすすめられるのです。政策の基調は、今川市政からの継続であったといえるでしょう。そしてまた、田辺市長の周辺にはこうした土地利用に係る政策集団はもともと存在せず、こうしたことから、逆に田辺市長の存在を、医療や健康分野だけではなく時の重要な課題に対応できるリーダーシップ性を示すために、「田辺試案」なるものを発表し、それをたたき台として、市民や審議会での議論を喚起したのです。こうした方式は、誰が演出したのでしょうね。当時私は、「エッ!」という感じで受け止めていました。こうしたことさらの市長の演出は、これまでの私の知り得る庁内の人材からは考えられなかったからです。と同時に、市長試案の意味するところが庁内、庁外にどのように理解されていたのかも知らないままに、気になりつつ今日にまで来てしまいました。
 「伝統と創造の調和したまちづくり推進のための土地利用についての試案」(田辺試案)は、市長就任1年半後の1991年1月21日に発表されました。これら、土地利用計画の見直しに関しては、次節で改めて述べることにいたしましょう。

第5節 バブルとその崩壊過程の田辺市政

 1.バブルとその崩壊に翻弄された市政

●土地バブル下の田辺市政の誕生
 田辺市政は、その発足当初から、地価の上昇とそれによる京都の買い占めに翻弄されることになります。これは、「健康都市構想」に基づく、「都市の健康」を目指した田辺市長の志とは逆の時代の流れに直面することになったのです。
 1985年9月の先進5か国による「プラザ合意」による対ドル円高の誘導は、80年代後半におけるカネ余り現象が生じ、その余剰資金が証券や土地などの不動産に向かい、やがてそれは、土地の買い占めに向かうことになります。その波は、そのころすでに一極集中が問題となっていた東京都とその周辺でまず起こり、やがてそうした状況への適応に遅れていた京都にも向かうことになりす。土地の買い占めとその上物としてのマンション建設の波はすざまじく、今日のインバウンド効果による民泊やホテルなどの建設ラッシュに似かよったものでした。京都には遅れて押し寄せてきただけに、その波はすさまじいもので、京都の買い占めとさえ言われたのです。都心部におけるペンシルビルの林立もその時に起こったものでした。まさしくそれは、歴史都市京都の破壊となるものでした。そうした現象の一番の問題は、土地取引が投機の対象となったことでした。土地は、本来、住民の生活や、企業活動のうえで、安定したものでなければならないので、政府の方でもそのための対策が取られることになり、それを受けて、京都市でもそのための対策を講じていくことになるのです。
 まず、1987年10月12日、政府の臨時行政改革推進審議会(新行革審)は、東京を中心とした大都市圏における地価高騰に対して、「当面の地価等土地対策に関する答申」をまとめ中曽根首相に提出、これを受けた政府は、即同月に「緊急土地対策要綱」を閣議決定します。こうした政府の動きに呼応する形で、京都市では、都心部における地価高騰に対して、翌月の11月12日に木下博夫助役を委員長とする、庁内プロジェクトチーム「京都市土地対策検討委員会」を設置し、翌年1988年2月、「市土地問題対策連絡会議」(座長・木下博夫助役)で、「当面の土地対策について」をまとめす。そして、地価の値上がりに歯止めをかけるため、国土利用計画法に基き、小規模な土地取引でも届け出を義務付ける監視区域の指定に踏み切る方針を明らかにするとともに、建築基準法に基く総合設計制度を導入することも明らかにします。こうして1988年2月に「市土地利用審査会」に諮問、その答申を得て、4月1日に指定するに至るのです。指定の範囲は、中京、下京、東山区の市街化区域で、指定期間は5年間でした。「総合設計制度」は同時に実施されました。
  
●地価監視強化の進行
 1988年4月に実施された地価監視区域ではありますが、この年10月には、その範囲を上京全域と北、左京両区の市街化区域部分にも拡大し、さらに翌年の1989年4月、新たに山科、南、右京、西京、伏見の5区の市街化区域に指定、土地取引に届出が必要な監視区域を市の市街化区域全域に拡大するに至りました。こうした、急激な地価高騰とそれに対する行政の監視機能強化が進められているさなかに、田辺市長は誕生したのです。ある意味、古都税どころではない、古都の乱開発が進行しつつある真っただ中であったといえるのです。
 田辺市長の誕生は、1989年8月27日当選、30日就任、9月1日初登庁ですが、早くも、9月20日には地価監視区域のうちの中心区域6区の対象届け出面積を、現行300uを100uに引き下げる諮問を市土地利用審査会に諮問、その答申を得て11月1日に北、上、左、中、東、下京の6行政区の市街化区域を対象区域として実施するのです。実に地価上昇の真っただ中での市長就任であったといえます。
 問題は、こうした状況から発生することになります。
 東京を中心とした関東方面での買い占めよりも遅れてやってきた京都の買い占めは、遅れてきた分、一気に加速することになります、都心部にペンシルビルやワンルームマンションが建つのもこの時期で、都心部で、最後に残された優良空地としての寺院境内地に不動産屋が進出し、その一部が、古都税問題に絡んできたのもこうした動きの中にあったのです。京都駅北東方面の広大な空き地が今なおあるのも、その頃の買い占め競争で手の付けられなくなった部分の遺産ではあるのです。そしてついに、京都を取り巻く周辺の山にまでその買い占めの手は及んでくることになり、そのうちの一つ、高槻市との境界にある「ポンポン山」で、田辺市長は絡まれてしまうのです。まことに気の毒なことだったと思います。
 また、ついでに付言しますと、昨今の文化庁京都移転など若干の首都機能の地方移転が具体化しつつありますが、その走りが、やはりこの時ににあるのです。東京一極集中と買い占めの横行から、1988年1月、政府は、一省庁一機関の移転を進めるための基本方針を、土地対策関係閣僚会議と閣議で決定するのですが、その数日前の自民党の首都機能移転調査会(会長・金丸信副会長)では、皇居の移転は検討対象からはずすことを申し合わせていました。

2.ゴルフ場開発問題

●大文字山麓
 京都の景観は、街中やその周辺における社寺境内地などとともに、京都盆地を囲む東山をはじめとする周囲の山々によっても形成されていますが、今回の乱開発では、その山々でのゴルフ場建設の動きが活発となったのです。その代表例が、京都の景観の代表例でもあります大文字山山麓におけるゴルフ場建設問題と、田辺市長に大変な影響を与えたポンポン山ゴルフ場建設問題なのです。
 まず、大文字山麓における建設問題は、田辺市長誕生の前年1988年11月、地元住民らによる「大文字山ゴルフ場建設に反対する会」が結成されて反対運動が組織化されるのですが、田辺市長の誕生によって、その直後の1989年12月に、その開発業者が計画を断念することが京都市に伝えられることによって、この一件は終わることになりました。噂では、この建設業者と市のある幹部とは親しい関係がったと云々というものがありました。もしそうなら、そのことがゴルフ場抑制の市の意向とうまくかみ合ったのでしょう。
 京都市は、こうしたゴルフ場建設による周囲の山々の景観破壊を阻止するため、この事件を契機に、翌年1990年8月に、「京都市ゴルフ場等の建設事業に関する指導要綱」を制定します。

●ポンポン山でつまづく
 この事件は、田辺市長が、多額の損害を京都市に与えたということで、その損害額の返還を求められたものです。一連の経過を当時見守っていたものとして、こうした裁判の判決に釈然としない思いをもっています。そこで、当時の私のメモから、若干の経緯を記してみたいと思ます。
 京都市南西部の高槻市との境界にあるポンポン山には、ちょうど京都市がゴルフ場建設に関する要綱を制定したころにその動きがあり、それに対して高槻市の住民団体が「ポンポン山・大原野ゴルフ場に反対する会」が結成され、1990年6月には高槻市議会が「樫田地区隣接地でのゴルフ場建設計画に反対する決議」を全会一致で可決するのです。そして、建設業者の池尻興産は、制定された直後の京都市の指導要綱に基づく事業計画概要書をこの年10月に提出して、京都市との事前協議が開始されます。業者側は、計画概要書をいったん取り下げ、設計変更をしたうえ、翌1991年4月に再提出します。こうした動きのなかで、一方で地元の2自治会が業者側と協定書を締結することがある反面、他方で京都市側の住民らが「ポンポン山ゴルフ場建設に反対する会」を結成し、京都市議会でも追及が行われます。京都市は、事前協議の過程での作業として、京都市長から高槻市長に対して意見照会も行われます。高槻市側では、簡易水道の取水源に影響を受けること、近接地区に「緑の村」の整備を行っているなどの事情があり、地元の強い反対とともに高槻市長サイドからも、京都市側の慎重な対処を求められていたのです。1991年10月には高槻市議会が再度決議を行います。
 こうした動きの中で京都市は腹を固め、2助役、3局長による「市ゴルフ場等建設審査委員会」で、1992年3月にポンポン山ゴルフ場を不許可にする見解をまとめます。その理由は、@建設に伴う土砂の移動量が多いA予定地近くにある簡易水道の取水源の水質、水量に大きな支障を与えるB高槻市の条例で保護植物に指定されているムカシトンボ、カジカガエルなどに影響を及ぼすC高槻市から「慎重対処」を求める意見書が提出されているDその他三山の保全や、健康都市構想の趣旨等 というものでした。

●簡易裁判所による「調停に代わる決定」!
 これに対して、開発業者である池尻興産は、即刻、京都市に対して総額80億円の損害賠償を求める調停を京都簡易裁判所に申し立てます。対する京都市は、損害賠償は認めず、景観保全と地域振興のために、正当な価格の範囲内であれば買取に応じる意向を示しますが、金額で折り合わず、調停は成立しないと判断した裁判所は、5月13日、京都市サイドの鑑定士による評価額で京都市が買い取ることを求める「調停に代わる決定」を下します。これを受けた京都市は、急遽開催中の5月市議会にポンポン山ゴルフ場予定地の買取とその経費約47億5700万円の補正予算案を提案し、5月26日に共産党を除く多数で可決されます。建設業者側も最終的に異議の申し立てを行わず、簡裁による「調停に代わる決定」は発効したのです。これにより京都市は同地を買い取りました。金額は約47億5600万円でした。こうして京都市は、同地の活用について早速、翌月6月23日から市民意見からのアイデア募集を開始します。そして、この市民からのアイデアをもとに1997年4月には「大原野森林公園」整備構想をまとめ、2000年4月27日に公園が完成、今に至るまで、「自然そのものが公園」という、自然公園として現在に至るまで市民に親しまれています。そしてまた、こうしたゴルフ場建設問題に苦労した京都市は、ゴルフ場建設問題に関する指導要綱について、これを改定し、全面禁止の要綱、すなわち「京都市運動施設等及びゴルフ場の建設事業に関する指導要綱」を制定施行します。1993年10月1日のことです。
 ところがです、このポンポン山ゴルフ場予定地の買取をめぐって、これを「法外な高額」だとして反対運動がおこり、係争事件に発展するのです。京都簡裁による「調停に代わる決定」に基づき買取を行った翌年の1993年1月、「ポンポン山ゴルフ場予定地買収疑惑を追及する市民の会」が結成され、同会は5月20日に、田辺市長と開発業者に対し、適正価格との差額約43億5千万円を京都市に返還するよう求める訴えを京都地裁に起こします。京都地裁は、2001年1月31日に、田辺朋之前市長に対し、約4億6800万円の返還を命じる判決を下します。さらに2003年2月6日の大阪高裁の控訴審では、適正価格を約21億円と算定し、この時期にはすでに亡くなられていた故田辺前市長に対し約26億1千万円の返還を命じる判決を下しました。そして、2005年9月15日の最高裁では、田辺前市長側の上告を受理しない決定がなされ、26億1千万円の返還を命じた2審大阪高裁の判決が確定するのです。
 ここで、裁判関係の素人である私には理解できないのは、簡易裁判所による「調停に代わる決定」とはいったい何なんだということです。その決定に対して両者が異議申し立てを行わないことにより、それは「発効」したのであり、それは、法的にはなんらの意味をも持たないものなのだろうか、ということなのです。京都簡裁のこの「決定」がなされなかったならば、本件買収事案は成立していなかったのです。今回の買収額には、京都簡裁の責任はないのだろうかということです。この点に関する解説は残念ながら今日に至るまで不勉強にして眼にしていません。まして、田辺市長は故人となっていて、ご遺族の方には大変痛ましい状況を生んでいます。しかも、私の知る限り、田辺市長は、自らの利益のためにポンポン山の買収をはかられたのではないことは明らかなのです。もし、今回の一連の裁判が正しいのであれば、いったい誰が田辺市長を貶めたのでしょうか。当時の事情を知る誰かの本当の説明を聞きたいものですが…。これをお読みいただいた後の心ある誰かが、このポンポン山ゴルフ場事件の一連の経過の真実を解き明かしていただくことを念願しています。自らの利益を考えていない、京都市と京都市民のために全力を傾注されていた市長の成り行きとしてはあまりにも理不尽な結末ではないでしょうか。無念です。
 繰り返しますが、京都市大原野森林公園は、自然公園として、今も市民の憩いの場を提供しています。田辺市長は、それだけではなく、今や京都や近隣の市民にとってなくてはならない梅小路公園も、当時はまことに大胆な判断で、都心部の自然公園として、平安建都1200年記念事業に位置付けて、第11回全国都市緑化フェアを誘致して整備されていたのです。
 これに関し、共産党サイドでは、金丸信元自民党副総裁の金丸系企業の絡んだ不当な裏金づくりに利用されたものとし、京都簡裁による調停の基礎となった京都市サイドの鑑定額そのものが、金丸系企業の役員によるもので、意図的に高額の鑑定をしたものだとして、『京都民報』で一貫して指摘しています。こうした、金丸系企業と京都市との関係は、元来ないのですが、この時の自治省出身の佐藤達三助役が金丸元副総裁と関係があることから生じたものとの見方があるのです。この佐藤助役は、野中広務代議士と両氏が京都府に在職していた当時からの付き合いで、また野中代議士は、自治大臣でもあったことから、佐藤助役は、野中代議士の意向によって自治省から京都市助役に出向したものとの見方があったのです。そしてまた、当然のこととして、野中代議士と金丸元自民党副総裁との関係もあるのです。こうした図式がはたしてポンポン山の跡地買収に作用していたのかどうかも大きな問題でしょう。しかしです、そうした事情がどうあれ、「調停に代わる決定」を下した、京都簡易裁判所の責任はどうなるのでしょうか、そのことが問われないことはまことに不思議な気がします。そして、こうした形での京都市の歴史にとっての汚点について、当時の関係者が黙していることに対しても、不審な気持ちを禁じえません。あくまで、田辺元市長は被害者で、加害者ではないのですから。

>>>よばなし・余話し<<<
   中央省庁からの助役・副市長 −国土交通(建設)省と総務(自治)省

 副市長という呼称は、従来は「助役」という呼称であったものを、より職務の内容を明確化するために、2007年4月1日の地方自治法改正で実現したものです。京都市の場合は、これに先行して、桝本市政下の1996年4月1日からこの呼称を使うようになりました。最初の副市長は、薦田守弘、北里敏明、中谷佑一の3名でした。
 ところで、現在は、副市長のうち1名は、国土交通省と総務省からの人材がほぼ2年交代で就任しています。これは、今川市長から田辺市長の時にかけて始まります。
 戦後の市政の中で、高山市長の時にも自治庁やジャーナリストの登用はありましたが、それらは一過性のものでした。また、市の幹部に省庁からの人材を導入してきてはいましたが、登用に当たっては、意のある幹部による意見の聴取なども行っていたようで、あくまで人材それ自体の検討の上で導入していたようなのです。ですが、天下り人事に反対する革新市長の誕生で、そうした省庁からの人材導入は途絶し、次に復活したのは、今川市長による建設省からの人材導入でした。それが木下博夫氏です。また、古都税問題の頃には、自治省からの人材を理財局次長に迎え入れ、のち理財局長にもなり、自治省と京都市との橋渡し役としてよく務めてくれていた真面目な方でしたが、助役に就任することなく自治省に帰っていきます。
 さて、木下博夫氏ですが、同氏については既に述べてきている通り、都市計画局長として迎え入れ、後、1987年6月から89年8月まで助役に就任して、田辺市長の就任時に建設省にもどっています。代わって、内田俊一氏を建設省から部長級で迎え入れ、建設省の人材による協力体制は途切れることなく続きます。そして、田辺市政のもとで、当初は薦田守弘助役1人の体制でしたが、1991年3月になって自治省から佐藤達三氏を迎え、同氏は2年後の93年10月に自治省に帰っていき、代わってこの時から2年後の95年5月まで建設省からの内田俊一氏が企画調整局長から助役に就任します。そして、その後には自治省からの北里敏明氏が、その3年後には建設省からの増田俊一氏が、というように自治省(総務省)と建設省(国土交通省)からの人材が2年交代で助役(副市長)に就任し、助役に就任していない2年間は、部長級への人材を迎えて、両省との関係を継続させる体制となっています。こうして、両省と京都市との関係は、両省の人材を通して良好に進むように組織的に進められていることが特徴であるといえます。ただし、この滑り出しの時点での、佐藤助役の導入は、組織的というよりは、野中代議士による影響のもとで実現したものであったようです。

●梅小路公園と都市緑化、景観行政
 しかし、田辺市政は、土地バブルとその崩壊過程で翻弄されていたばかりではなかったのです。そうした、土地バブルのなかで緑の荒廃状況の中にありながらも、都市緑化と景観保全への手立てを打ってきていましたし、それらは京都市の都市景観行政の歩みの中でも特筆されるべきものであったといえます。
 ゴルフ場開発を不許可にして、その跡地に、自然公園としての大原野森林公園を整備しただけではなく、梅小路の旧国鉄の貨物ヤード跡地を買い取り、それを建都1200年記念事業として、広大な都市公園に整備したのです。JRから苦労をして確保した都市内における広大な土地を、公園にするなどもったいなくて、私などはなかなか理解できなかったのですが、本当によく踏み切ったものだと思います。
 実は、旧国鉄清算事業団による旧貨物ヤードの売却に応じて、これを京都市が買収して、建都1200年の記念公園にしようという考えは、今川市政の末期にまとまってきていたようなのです。 1月3日の京都新聞で、旧 国鉄・梅小路貨物駅用地(約11ヘクタール)の整備基本構想を京都市が固めた、との報道がります。これは、木下博夫助役と今川市長サイドとの仕事だったのでしょう。田辺市長は、そうした動きを継承し、1991年10月に市都市計画審議会に「梅小路公園」計画を提案して承認を受ける。こうした京都市の動きに応じて国鉄清算事業団は、その資産処分審議会で12月19日、京都市への売却を決定するに至ります。また、こうした動きを受けて、京都府の都市計画地方審議会でも、梅小路貨物駅跡地を京都市の「梅小路公園」とする都市計画決定を承認し、ここに10.5ヘクタールという広い土地が京都市の買収するところとなり、平安建都1200年記念事業としての記念公園の整備が実現することになったのです。その広さは、実にもったいないものでした。しかし、この空間をたっぷりとった公園が、後々まで有効な働きをすることになったのです。
 この公園は、平安建都1200年の記念公園として、ここで、6月6日の祝典「祝市祝座」を行うべく整備することになるのですが、同時にこの公園を会場とした都市緑化のシンボル事業として、「第11回全国都市緑化フェア」(9/23~11/20)を誘致し、後、公園の運営主体として翌年1996年4月に財団法人京都市都市緑化協会を設立するに至ります。 この過程で、1993年2月には「都市緑化基本計画」を策定しています。
 こうした、梅小路公園の整備に係る都市緑化の動きのほか、次に紹介するような、いくつかの注目すべき事業がありました。
 一つは乱開発に係る事業です。まず、比叡山中すなわち大文字山ろくの乱開発事件です。
これは、京都市の所有するため池の違法な埋め立てを含む大文字山麓の違法乱開発に対して、告訴や、行政代執行を行ったものですが、当時これに関わっていた風致課の職員2名が、市の立ち入り調査の実施日程を相手側の業者に事前に漏らしたとして逮捕され、京都地裁の有罪判決を受けるという思わぬ事態も生んだものです。この逮捕事件に対しては、京都市は一貫して職員の正当性を主張して職員を擁護し、結局大阪高裁の2審で「調査日時が秘密に当たるかどうかについて、一審は十分に審理していない」として一審の判決を破棄して差し戻し、無罪判決に至るのです。京都市が、秘密事項ではないとしているものを、警察サイドが相手側に漏らしたことは地方公務員法上の守秘義務違反だとして逮捕、起訴すること自体が、どうも釈然としない事件でした。乱開発事件そのものは、1991年11月11日に佐藤助役を本部長とする行政代執行実施本部を427人の職員で設置し、その翌々日から行政代執行に着手しています。この代執行は、3年後の1994年9月までに5回にわたって行われていました。また、これに関連して、1992年2月には、市有地の原状回復と土地の明け渡しを求めていた訴訟に対し、京都地裁は、市の訴えを全面的に認め、建設業者に対し原状回復などを命じる判決を出しています。
 今一つには、吉田山の緑地指定があります。これは、歴史的にも重要な景観をなしてきた吉田山にも開発の波が押し寄せ、マンション開発が計画され、これを阻止するために京都市が、そのマンション用地を買い上げ、しかも吉田山そのものを緑地指定したものです。市都市計画審議会は、1993年10月に吉田山の緑地指定を承認します。また、この時には同時に、鴨川緑地の大幅拡大なども承認されています。
 さらに、ふるさと森都市構想(1990年5月)や市街地景観条例の全部改正、自然景観保全条例の制定(1995年3月)など、都市緑化と景観保全に意欲的に取り組んでいたのが印象的でした。

>>> よばなし・余話し<<<
    歴史の中の「京都三山」

 京都といえば、ほとんどの場合歴史に関わることである場合が多い。京都三山といった場合、今では多くの人は、北山、東山、西山を指していると思っているのでしょう。けれどもこと京都において、京都三山と、「京都」を冠していうときは、歴史的な意味での京都の三山を称するものなのです。それは、東の吉田山、西の双ヶ丘、そしてこれこそ外すことのできない北の船岡山で、京都で三山といえば、まずこれが念頭に浮かぶはずなのですが・・・。
 実は、林屋辰三郎先生と平安建都1200年や京都市歴史博物館構想などについていろいろ相談をさせていただいていた頃の話です。京都市の土地利用計画に関して、行政サイドで京都の三山がよく取り沙汰されていたことに関して、林屋先生は、京都で三山といえば、京都盆地を囲む周囲の山並みではなく、京都盆地の中の、京都の歴史に関わってきた山、それは丘といった方がいいのかもしれませんが、それなのです。そのことが全く意識されることなく、三山といえば、周囲の山並みに向かう今日の意識に寂しさを感じられていたのです。
 北の船岡山は、平安京造営の都市計画上もっとも重要な起点となる「山」で、船岡山を朱雀大路という南北の中心軸としたのは周知のところです。今でも、船岡山の神聖な岩場(磐)に立つと京都市街を一望できるのです。また、吉田山には、吉田神社があり、双ヶ岡には徒然草で知られている吉田兼好法師の草庵があり、この左右の吉田山(神楽が岡)と双ヶ岡が、平安京の東西の基軸となったという説もあるぐらい、都の歩みの中にあった山(丘)なのです。汲めども尽きぬ京都の歴史を内包している「三山」なのです。ちなみに、双ヶ岡は、早くに用地買収の上に史跡保全がなされ、吉田山は先の乱開発ブームによる破壊から守るために緑地指定がなされたのですが、船岡山は、これが大徳寺所有地であることも関係してか、いまだに手付かずの状況下にあります。

3.土地利用計画の見直し

●田辺試案 
 田辺市長が市長に就任して1年半後の1991年1月21日、土地利用に関する「田辺試案」なるものが発表されました。当該文書の正式名称は、「伝統と創造の調和したまちづくり推進のための土地利用についての試案」です。この時期、土地バブルの真っ最中で、地価やその過剰な取引で大わらわの時期でした。それだけにタイミングとしては適切だったのですが、「田辺試案」と市長の個人名を冠したありかたにびっくりしたのです。それまで医師であり、「健康」を掲げて登場してこられてまだ1年は、個人的にはまだとてもそうした段階にはないと思っていただけに、”エ!”と思ったのです。それと同時に、こうした文書に個人名を冠するということがはたして適切なのか、という思いもあったのです。決して、市長個人の作業ではないのですから。いかにリーダーシップの強い市長であっても、それは個人の作業ではないのですから。しかし、これは、田辺市長の当面する、しかも京都将来に大きな影響を及ぼす土地利用のあり方への田辺市長の並々ならぬ決意を示すものとして、事務当局が知恵を絞ったものだったのでしょう。と、私自身を納得させていたものです。この作業は、内田俊一企画調整室長の仕事だったのでしょうけれども、この演出は誰が主導したのかについては、私は知りえていませんでした。いずれにしても、このような市長名を冠した文書は、それまでの市政の歩みの中では初めてのものであったのではないでしょうか。
 こうした思い入れはその後の田辺市政の基本姿勢に強く表れます。すなわち、健康は、単に市民の心身の健康という医療・福祉の領域だけではなく、都市そのものの健康に発展していったのです。「健康都市構想」すなわち「『健康』を尺度としたまちづくり」なのです。

●歴史的ストックと調和した都市開発
 では、「田辺試案」はどのようなものだったのでしょうか。地価高騰下での京都市の土地対策は、今川市政末期の1988年3月に木下博夫助役主導のもとに、「当面の土地対策について」をまとめますが、ここで、京都市は、総合設計制度の導入を打ち出しました。こうした背景をもちつつ、田辺市長になっても、地価高騰による土地対策を求められる中で、京都市としては、従来からの北部保存、南部開発の基本的な考え方をベースにそれをより発展させる土地利用の考え方を取りまとめるに至りました。1991年1月21日のことです。これが、土地利用に関する「田辺試案」なのです。
 この「田辺試案」の特徴は、北部と南部との間に「緩衝地帯」を設けたこと、次いで、保存と開発という宿命的な矛盾から、歴史的ストックと調和したまちづくり、すなわち伝統と創造の調和という発展的なものに京都をとらえ直そうとしたことです。
 そして、この年1991年の5月に「市土地利用及び景観対策についてのまちづくり審議会」を設置し、11月7日に第1次答申、翌年4月9日に第2に答申を得ることになります。その内容は、概ね田辺試案を肯定するものでした。基本的な趣旨は次の通りです。
 京都市を三つの地域においてその特徴をとらえ、その3地域の基本的なあり方を提示しています。
 まず第1は、「自然・歴史的景観保全地域」(周縁部)、第2は、「調和を基調とする都心再生地域」(北部都心地域)、第3は、「新しい都市機能集積地域」(南部開発地域)です。そして、第2と第3の地域の接するところ、すなわち京都駅南の一定のゾーンを「バッファーゾーン」として、緩衝地帯を設けるというものです。この方向付けによって、大学や工場・事業所、さらには人口の流出に歯止めをかけ、さらには先端産業の集積をもめざす新しい都市機能の形成をも図ろうとするのです。工場棟制限法の緩和ないし撤廃をも求めようとしているのです。こうして課題は、新たな基本計画の策定へと向かいます。

4.京都市基本計画の見直し 審議会にかける

●基本計画の繰り上げ改定
 京都市の基本構想は、先にも触れましたように1983年7月に、10年のスパンを目安とする基本計画は1985年5月に策定されました。基本構想は、京都市という自治団体の意思を表すものですから、これは市議会の議決を必要とします。その自治体の基本構想に基づいた基本計画は、市長の手によって概ね「10年計画」として作成されます。したがって、その改定時期は1994年ということになります。しかし、この計画のちょうど半ばで市長が代わり、市長の基本的な市政運営の理念も変わったのです。そこで、新市長である田辺市政下での基本計画のあり方が問題となります。ここで、自治体の基本構想・基本計画の実施過程での矛盾が生じることになります。
 本来、基本計画は、自治体の基本構想を受けて、それを具体化したものですから、基本的には、市政にその実施義務を課すもので、市長が交代しても拘束するものであるといえます。しかし、市長の政策課題が大きく変わる場合には、市長の政策と「基本計画」とに矛盾が生じる可能性があるのです。しかも「基本計画」は市長が作成するものです。ですから、「基本計画」は、自治体の「基本構想」を受けたものとはいえ、新しい市長の政策に適合したものに改定されることになります。となると、「基本計画」の計画期間10年とはいったい何なのかということになります。ここのところが、自治体の「基本構想」、「基本計画」の矛盾点として残ります。
 この点について、田辺市政では、「基本構想」についてはなぶらずに、「基本計画」のみを改定することにしたのです。ある意味で、常識的といえば常識的なのかもしれませんね。

●健康都市構想と土地利用計画
 田辺市長の最も重要な政策課題は、いうまでもなく「健康都市づくり」です。そして今一つは、折から直面している土地バブルとそれによる乱開発から京都を守り、「伝統と創造の調和したまちづくり」を推進することです。したがって、この二つの構想・計画を、京都市基本計画見直しの柱として、これに基づく基本計画の改定作業に着手するのです。
 「健康都市構想」は1991年11月に策定され、土地利用のあり方については、1991年1月に田辺試案、同年11月に「市土地利用及び景観対策についてのまちづくり審議会」の第一次答申、翌年1992年4月に第2次の答申を得てまとめられ、これを主軸とした「市基本計画」の策定作業が進められるのです。
 新京都市基本計画の策定作業は、1992年1月、市長が主宰する助役、収入役をメンバーとする「企画会議」を設置し、2月には、2000年までの市政の基本方向を示す「新基本計画」の策定方針を発表し、6月には審議会を設置、10月の第5回審議会では、早くも「新京都市基本計画」の素案を発表するといったようにとんとん拍子で策定作業は進められ、翌年1993年4月には「平成の京(みやこ)づくり―文化首都の中核をめざして」と題する新京都市基本計画が審議会によって答申されるに至るのです。

●京都市の審議会による策定作業として
 こうして策定された新京都市基本計画ですが、今川市政下での第1次の基本計画では、今川市長のもとで設置された京都市基本構想調査研究会が、基本構想策定にあたっての基礎的な作業を行っていてだけではなく、基本構想策定後も存置され、引き続いて基本計画の策定も行ったのです。それに対して、田辺市政下での新たな第2次の基本計画では、審議会条例を制定して、条例に基づく審議会によって策定作業を行い、その答申を受けて京都市の新たな基本計画の策定としたことが特筆されることといえるでしょう。
 「京都市基本構想」は、京都市という自治体の、団体としての将来構想ですから、その策定は、京都市という自治団体が行います。京都市長は、その事務作業を担うにすぎません。それに対して、「京都市基本計画」は、京都市という自治団体の示す「将来構想」を受けて、それを実行するための具体化の計画を作成することであり、これは市長が責任をもって策定することになるのです。ですから、第1次の基本計画では、基本構想の調査研究を行ってきた学識者と行政職員とによる調査研究会を存置させて、そこがその策定を行ったのです。しかし、田辺市政による基本計画の策定には、一つの問題がありました。それは、第1次の基本計画と同様に、続く第2次の基本計画も、「基本構想」の具体化計画であることです。しかし、第1次の基本計画実施途中で誕生した田辺市政は、田辺市長が市長に当選する上での選挙公約があり、この選挙公約を実行する必要があります。その選挙公約の基本的なところが「健康都市構想」と「土地利用計画」だったのです。したがって、第2次の「新京都市基本計画」では、「京都市基本構想」の具体化に、この新たに誕生した田辺市長の基本政策を加え、ミックスしたものとなったのです。
 そこで考えてみますと、「基本計画」は、京都市という自治団体の「基本構想」の実施計画です。ですから、その途中で市長が交代しても、新しい市長の政策も、その拘束を受けます。そして、「基本構想」はおおむね20年程度の構想、「基本計画」はおおむね10年程度の計画とされています。これは、市長の任期を考慮したものではありません。ですから、市長が交代した時には、やはり新しい市長の政策が重視される必要があり、結局、「基本構想」の改定まではいかなくとも、「基本計画」は改定されることになるのでしょう。そこで、基本計画の改定作業にもその重みが生じ、そこで、多分、審議会設置という、審議会による基本計画策定作業という考え方が生じたのではないかと当時、考え、受け止めていました。審議会は、京都市という自治団体の設置機関で、基本計画は、こうした機関によらずとも、市長の執行責任によって策定や改定はできるのですが。
 1983.7 京都市基本構想、市議会で可決
 1985.5 京都市基本計画策定
 1989.8 田邊朋之市長誕生
 1992.1 市長主宰の「新京都市基本計画企画会議」庁内に設置
 1992.6 新京都市基本計画審議会設置
 1993.3 新京都市基本計画審議会、答申(新基本計画策定)



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第4章 1990年代(平3‐12)

国などの動き
 1990年代は、ベルリンの壁崩壊後、90年10月に東西ドイツの統一がなり、その翌年にはソ連邦が消滅し、戦後の世界史を形作ってきた東西冷戦構造が解体し、世界は新たな枠組みを模索する段階にはいります。また91年には湾岸戦争が生じ、中東地域の不安定化とそれによる石油資源問題が、現在に続く大きな問題として横たわることになります。
 また、経済問題では、1989年から90年にかけて、貿易不均衡の是正を目的とした日米構造協議が行われ、以後、アメリカの日本に対する経済構造改革への攻勢が強まることになります。そして、96年のクリントン大統領の就任後は、アメリカの対日経済攻勢はさらに強くなります。
 国内では、こうした世界情勢の影響も受け、自民党内閣が倒れ、93年には細川連立内閣の誕生となりますが、遂に長年日本の政治を形作ってきた55年体制そのものが崩壊することになります。最大野党であった社会党が遂に消滅することになりました。90年代に入ってのバブルの崩壊は、その後の景気を長期にわたって低迷さすことになると同時に、住専処理問題や公務員汚職問題を顕在化させ、経済財政の立て直しのための行政改革が課題となってきます。加えて、95年の阪神淡路大震災は、地方自治に深く関わる、わが国におけるボランティア活動の本格的な幕開けとなりました。
 
 京都市の動き
 1990年代の京都市は、その前半は田辺市長、後半は田辺市政を継承する桝本市長による市政運営となります。
 田辺市長誕生直後の1989年には京阪鴨東線の三条−出町柳駅間が開通、また、同和対策事業にかかる臨時不動産取得審理会の最終答申があります。しかし、なんと言っても田辺市長は、就任早々からバブルとその崩壊のなかでの市政運営を余儀なくされます。90年には「ゴルフ場等の建設事業に関する指導要綱」が制定され、91年には比叡山中乱開発事件で代執行が行われます。田辺市長の基本政策は、91年に健康都市構想を策定し、その翌年にはその政策を推進する健康都市づくり市民会議を発足させ、さらにその翌年の93年には新京都市基本計画「平成の都づくり−文化首都の中核をめざして」を策定するとともに、田辺市長の本分とも言うべき「保健医療計画」を策定するとともに、健康増進センター「ヘルスピア21」を開設する一方、「京都・大学センター」を発足させます。そして、1994年には、平安建都1200年記念の年を迎えます。この年には、「古都京都の文化財」が世界文化遺産に登録され、また、第11回全国都市緑化フェアーが梅小路公園で開催されます。
平安建都1200年記念協会による世界人権問題研究センターもこの年に開所します。そしてその翌年には、世界文化自由都市宣言による提案を受けた京都コンサートホール完成し、「平成の京づくり推進のための施政改革大綱」が策定され、行財政改革が推進されることになります。
 1996年2月、田辺市政を継承した桝本市長が市長に就任、市政の基本指針は「健康都市」から「元気都市」へとそのステージをアップします。97年には建都1200年記念事業としての京都駅新駅舎が完成します。また、この年には、市営地下鉄では烏丸線が宝ヶ池国立京都国際会館まで延伸、東西線の開業とともに、それにあわせた御池、山科、醍醐などターミナル施設の開業が翌年にかけてみられます。地下鉄東西線は、99年に宇治市六地蔵への延伸工事に着工しています。
 また、97年には、COP3(気候変動枠組み条約第3回締約国会議)が京都で開催されるほか、京都市では福祉事務所を区役所に統合して大区役所制へ歩みだします。国際化推進大綱を策定するのもこの年です。そして、翌98年には自治百周年記念式典を行うものの、同時に「京都新世紀に向けた市政改革行動計画・第1次推進計画」を策定せざるをえなくなります。20世紀最後の99年には、市と京都仏教会との和解もあり、「華やぎと安らぎ」をうたった21世紀京都市がめざすべき新たな基本構想「21世紀グランドビジョン」が策定されます。

 


第5章 21世紀を迎えて

国などの動き
 夢を開こうとした21世紀は、地方分権整備法の施行など地方自治にとっての新しい時代展望の希望を抱かせるものであったのかもしてませんでしたが、容易に立て直せない国と地方の財政と経済によって、その期待に応えるような事態にならない状況の中にあって、2001年9月の米同時多発テロの発生は、世界とわが国の甘い環境を一気に吹き飛ばすものとなりました。アメリカの世界戦略の動揺と、デフレの進行の中における小泉構造改革は、以後のわが国の政治経済環境を規定するものとなったといえるのではないでしょうか。
 2年に日本郵政公社が発足するものの、4年後の6年には民営化準備にための日本郵政株式会社が発足し、順次民営化が実施されます。また、05年には道路公団の民営化も実施され、ペイオフ全面解禁も実施されました。4年に施行された個人情報保護法の施行も地方行政にとって大きな課題となります。
 地方自治に関しては、地方分権整備法の施行と小泉内閣による構造改革のなかで、公共施設の管理運営の民間委託(03年.7月)や地方独立法人法の施行(4年4月)など行政の仕組みも徐々に変わってきます。そして、「三位一体改革」下の市政運営に苦労していくことになります。
 京都府では、自治省出身の山田啓二副知事が荒巻知事の後継者として知事に就任し、府政は継承されます。

京都市の動き
 2000年の幕開けの2月、桝本市長は再選され、さらに2004年に三選の後、その任期を全うして引退し、2008年にはその後継者として、同じく教育長であった門川大作が市長に就任します。
 2000年には東部山間埋立処分地「エコランド音羽の杜」の共用開始、大学のまち交流センター「キャンパスプラザ京都」のオープン、その翌年には先に策定されていた21世紀グランドビジョンに基づくその10年計画としての「京都市基本計画・区基本計画」の策定、さらに観光5千万人構想を打ち出した「観光振興推進計画」も発表されますが、その直後には、逼迫する財政事情の中で市長が「財政非常事態宣言」出すにいたります。そうした中でも、3年6月には京都創生懇談会が「国家戦略としての京都創生」を提言し、これが、21世紀を展望した京都市の進むべき指針となってきました。
 20005年、46年ぶりの編入合併で、京北町を編入し、京北町の面積216.68km2を加えた市域面積は827.90km2に達しました。人口も・・・
 概ね2005年頃までの主な事業をたどってみると、次のようなものが注目されます。