第2章 昭和40年代から50年代前半(1965‐80)

国などの動き
 この時期、わが国の重化学工業の発展に伴う都市化現象の拡大による都市問題の発生は、遂に東京都にも美濃部革新自治体を誕生させ、大都市部を中心に革新自治体が急増します。昭和38年の第5回統一地方選挙で、横浜市の飛鳥田一雄をはじめ大阪市の中馬馨など十数都市で革新市長が当選します。さらに昭和42年に第6回統一地方選挙では、東京都で美濃部亮吉が当選して革新都政が誕生したほか多数の革新市長が当選し、革新市長は40数名を数えるまでになります。
 そうした中で、昭和42年には公害対策基本法の制定、住民基本台帳制度の発足、翌43年には新都市計画法の制定、そして昭和44年には新全国総合開発計画が樹立され、また同和対策事業特別措置法も制定されます。昭和45年には大阪万国博覧会が開催され、わが国の経済発展も頂点に達しますが、この年は日米安全保障条約の改定期にあたっていて、いわゆる70年安保の激動の年ともなります。その翌年の46年にはドルショックがあり、その2年後には円が変動為替相場に移行しますが、その直後にオイルショックに襲われ、日本経済は試練に遭遇します。47年には沖縄が返還される一方で、日中共同声明も発せられ、昭和53年には日中平和友好条約の調印を見ます。昭和47年はいわゆる田中角栄による日本列島改造論が打ち上げられた年ですが、昭和49年には国土利用計画法が施行され、いよいよ経済構造の転換期を迎えることになり、昭和52年には全国総合開発計画も第3次を迎えることになります。この昭和52年には全国革新市長会をリードしてきた飛鳥田横浜市長が社会党の委員長に就任しますが、これが社会党と革新自治体低迷への兆しとなります。70年安保後の成田闘争で揺れた成田空港の開港は昭和53年でした。また、国際的には、先進国首脳会議、いわゆるサミットは昭和50年、5カ国から始まります。この年には、ニューヨーク市の財政危機が世界を驚かせました。さらにこの年には、国際婦人年世界会議のメキシコ宣言が出されました。

京都市の動き
 この時期の京都市政は、高山・井上市長の時期を保守市政としますと、革新市政の時期といえるでしょう。ただし、昭和50年頃からは、そうでありながらもオール与党の時代となります。昭和42年に就任した富井市長は、市民との直接対話を重視し、市・区民相談室を抜本的に拡充し、「ちびっこひろば」と交通災害共済を市民運動として展開しようとします。昭和42年に最初の区役所の総合庁舎として南区総合庁舎が完成します。また、この年には国道1号線東山バイパスが完成するほか交通事業再建計画が自治大臣の許可を受けます。最新の設備による北清掃工場の完成が昭和43年、市立芸術大学の設置がその翌年にあります。この昭和44年には「まちづくり構想−20年後の京都」の策定、洛西ニュータウンの都市計画決定、文観税の終了にあたっての文化観光資源保護財団の設立などがあります。昭和50年になると市電伏見・稲荷線廃止があり、大型ごみ無料収集開始、四条ひろば、いわゆる歩行者天国の初の実施があります。
 昭和46年舩橋市長の就任後は、その直後に「京の木と花」が決められ、市街地景観条例が制定されます。そして、「公害のない緑豊かな住みよいまちづくり」の市民運動が開始され。百万本植樹運動がスタートします。またこの年には、市街化地域、市街化調整地域などの新都市計画法に基づく線引きが決定します。昭和48年には敬老乗車証による市電市バスの無料化実施、マイカー観光拒否宣言があり、その翌年には老人医療の無料化が実施されます。また、この年には、京都の働きかけによる伝統産業振興法が制定され、伝統産業振興に新たな光が当てられるほか、市役所新庁舎の完成、初の社会主義国の姉妹都市として西安との姉妹都市盟約の締結がありました。そしてその翌年の昭和50年の舩橋市長再選で、市議会はいわゆるオール与党となります。そして舩橋市政は、福祉都市の建設を目指すことになります。昭和51年に「健康と福祉に関する総合政策体系のあり方」が策定され、これは全国革新市長会のモデルともなります。昭和51年には東山、右京両区の分区で、山科、西京両区の設置があり、昭和58年には遂に市電事業の廃止となりますが、同年10月に世界文化自由都市宣言を発します。この年、銅陀・柳池中学校統合条例が難産の上成立し、私立学校統廃合の最初となります。またこの年には、京都府の知事が革新の蜷川虎三から自民党の林田悠紀夫に交代、府市の関係が好転する方向となりました。
新しい時代に即応した施策としては、昭和51年に消費者センター開設、54年女性行政の本格的な開始、54年の公害センター開設などがあります。
 なお、京都市の人口は、昭和40年に1,365,007人、昭和50年には1,461,059人と伸びていきますが、その後の伸びは鈍化していきます。他方、都心部の人口減少が昭和30年代の半ば頃から徐々に進行していくことになります。



 第1節 革新市長の誕生と都市問題への対応
     

 筆者は、京都市職員労働組合の常任執行委員(専従)として、富井市長誕生の運動に参画。1968年(昭43)夏から地方自治研究活動の責任者として、富井市政への参画と全国の自治体労働者の組合である自治労の自治研活動にも深く関わる。
 1971年(昭46)2月には、富井市政を継承する舩橋市長誕生のため、京都市労連の選挙対策メンバーの1員となるも、翌年9月には経済局に職場復帰し、以後1976年(昭51)まで、調査係、新設の伝統産業課、文化観光局文化財保護課に従事する。
 1971年(昭51)5月からは、京都市史編さん所に所属しつつ、京都市政調査会事務局長として、京都市政にかかるシンクタンクの活動を担うことになる。

 
●井上市長の急逝と革新市長の誕生
 井上清一市長は、市長就任後1年で急逝したため、京都市政の歴史の中での「井上市政」というべき時代を築くことなく終わりました。そして、市長在任のわずか1年の間には、国立京都国際会館の開館をはじめとして、山ノ内浄水場の完成や長期開発計画の審議会答申など、高山市政最後の重要な事業が完成します。そのため、井上市政は、結局のところ高山市政に継続する市政ととし認識せざるを得ないことになります。けれども、前章でも触れましたように、井上市政には、高山市政とはまた異なった、高山市政のもとで培われつつあった近代的な京都市政の基盤の上に立った、市民の動向に感応する新しい時代への可能性をもっていたのではないかと思えてなりません。就任直後の昭和41年4月に市・区民相談室を設置したのがその予兆だったのでしょうか!
 ともあれ、井上市長急逝による市長選挙は激烈なものでした。井上市長は、正月の消防の出初式で倒れます。そして1月8日に急逝。その日かその翌日だったか、この非常事態のもとで京都市職労は常任執行員会を開催していましたが、そこへ、富井清京都府医師会長の側近としての役割を果たすことになる京都府保険医協会の事務局長であった小井実氏が来訪、富井清は今は健康であり、市長選に出馬の意向をもっている、京都市職労の支援を得たいとの要請がありました。このときの市職労常任執行委員会には、私もその一員として出席していました。私の役割は教宣部長で、この執行委員会で事実上の富井市長候補担ぎ出しが固まったのを機に、早速組合のニュース、タブロイド版の一面の半分に井上市長急逝への哀悼文、右半分には組合員向けの「さー、市長選挙だ!」という趣旨の檄文を掲載したのを覚えています。富井清市長候補は、こうして市職労から京都市関係の労働組合の連合体である京都市労連で、さらには府市民団体協議会、社会党、共産党などの革新政党の間でその擁立が固まり、保守サイドの候補、それは、高山市長の側近で京都市政の近代化につとめてきた八杉正文との保革一騎打ちの選挙となりました。突如としてふってわいた市長選挙に対して、革新側がいち早く富井候補にまとまったのは、前回の市長選挙で、社共それぞれに候補を立てて、無残な敗北に見舞われた挫折感が強く、その反動で、社共統一候補が実現したのでした。また、それには富井候補のキャラクターが寄与するところも大きかったようです。そしてまた、京都府医師会は、京都府医師連盟という強力な選挙組織を有し、またその別働隊とも言える京都府保険医協会は、蜷川虎三京都府知事の選挙組織の中核でもあり、このことにより、富井選挙態勢は、京都市長選挙と京都府知事選挙の両方の態勢が合体したものであったともいえたのです。この選挙態勢は、以後の市政運営にも大きな影響を持ってくることになります。
 選挙は激烈を極め、京都市職労は富井陣営の中核を担う意識で組織の総力を挙げて選挙戦を戦います。私も、小規模な選挙集会で、富井候補の応援演説をしました。無我夢中だったことを覚えています。演説の中身は、八杉候補の長期開発計画批判でした。今思えば、恥ずかしい限りです。激戦の末、革新陣営、すなわち富井候補が勝利します。投票率は53.75%。京都市長選挙で50%の投票率を超えたのは、戦後市長公選制が実施された最初の昭和22年と昭和25年の高山市長初当選と次の再選時以来のことです。その後も昭和46年の保革対決で舩橋市長が当選した時が最高の59%でしたが、これら以外は全て50%に達していません。京都市では、保革それぞれ統一候補による激突の場合には、投票率も50%を超え、しかも革新候補が当選するケースが多いのです。

●長期開発計画案の挫折 開発計画から都市問題へ
 革新市政の誕生は、政治的にはいろいろあるでしょうけれども、京都の都市にとって最大の問題は、高山市政の後期、財政再建団体から脱し、漸く戦後京都の本格的な都市整備を行うための「長期開発計画」を挫折させたことが最大のことではなかったかと思います。富井陣営の市政政策づくりには、京都市職労が大きな役割を果たしたのですが、その京都市職労の「長期開発計画」に対するとらえ方は、京都盆地を破壊する開発計画である、との評価で、歴史的な京都の都市と自然環境の破壊を許してはならないとの主張によって誕生した富井市政はこの計画をお蔵入りさせることになります。すなわち、選挙における都市政策の争点は、高度経済成長にのっとった開発計画か、それとも都市開発を抑制し、生活環境を重視した都市づくりか、となり、結果、都市開発は否定されることになったのです。では、本当のところはどうなんでしょう。
 高山市政で十分な時間をかけて熟成させてきた戦後京都の本格的な都市整備構想は、井上市政になって、審議会にかけられ、約1年間に及ぶ審議によって、昭和42年1月に答申が出されました。この答申を受けた井上市長が急逝し、代わって市長に就任した富井市長は、これを棚上げにしたのです。そして、富井市長のもとで、新たに「都市は人間の住むところ」とする都市整備構想をまとめます。これが、「まちづくり構想―20年後の京都」
です。
 今一度振り返りますと、戦後京都市の企画行政を築いた斎藤正氏が、企画室長−企画局長と歩むなかで、京都市の総合計画である「京都市総合計画試案」を策定し、そのベースの上で、建設省からこられた島村忠男計画局長のもとで「京都市長期開発計画(案)」が策定されます。斎藤正氏は、建設省からの島村忠男氏に対して、ハードプランニング中心の計画にすればいいのではないかと進言したとのことでありました。そこで、組織も企画局から計画局に衣替えすることになったのです。これは高山市長の最晩年から井上市長への移行期でした。こうした経過の長期開発計画でしたから、ハードプランニングとはいっても、そこには、総合行政としての素地が存在していたのです。ただ、政治対決の場では、そうしたことは捨象され、一面的な開発計画としての批判を受けて、結果的に挫折することになったのです。
 富井革新市長の誕生は、したがって長期開発計画を否定することになるわけですが、現実には、継承すべき事業は継承することになります。富井市長になって、長期開発計画は棚上げされ、新たな都市整備構想が検討されることになります。そしてその組織も都市開発局となって、今川正彦局長のもとで、企画課が置かれます。ではこのときの人事構成はどうだったかといえば、やはり高山市政のもとでそれを支えてきた人材が中心で、富井市政を支え、推進する人材はまだ育ってきていない段階であり、状況は複雑でした。そして、昭和43年に「中間報告」を出して、市民の意見を受けた後、翌昭和44年に「まちづくり構想」がまとめられました。この「まちづくり構想」副題にありましたように、20年後の京都市の姿を想定して、都市問題を解決し、人間生活を全うする理念の高い構想ではあったのですが、それはあくまで構想どまりのもので、実施に向けての計画が担保されたものではありませんでした。そして、これもまたハード面中心の構想でした。なお、この構想には、洛西ニュータウンの建設をはじめとして、地下鉄構想や高速道路網など都市構想のベースにおいては多分に前市政の長期開発計画案の考え方を踏襲している面があったようです。これは、一時的な政治対決でのやり取りは別にして、当時の経済の高度成長下における京都市の都市性格からすれば、ある程度うなずけることなのですね。
 ただ、構想はそうだとしても、「見える建設よりも、見えない建設」をうたった蜷川虎三府政との関係もあり、結果として都市整備構想は停滞することになります。折角の高い理念に基づく「まちづくり構想」ではあったのですが、この構想を計画化し、その実現を図っていくための推進組織や財政的な裏付けの検討がなされないまま、富井市政は1期で終わることになりました。その反省は、後の京都市基本構想策定作業の中で十分生かされていくことになります。
 それにしても、選挙戦は激しいものでした。多分に終戦直後の雰囲気や熱気がまだ続いていたのでしょう。選挙戦をけん引していた闘士たちは、終戦直後からの体験者が中心でした。加えてその激しさは、保革の全面対決だったところにありました。高山市政下では、革新の蜷川府政と保守の高山市政が併立していて、しかも高山市長自身は、保守化革新かで割り切れないリベラルな面が強く、また、蜷川知事も自民党の支持を受けていた時期もあるなど、なかなか一面的には判断のできないところがあったのです。ところが、富井選挙では、蜷川選対と社共が一体となって、府市一体の革新選挙体制と保守陣営との文字通り保革一騎打ちとなったのです。すでに、大都市部、中でも京都市では、自民党は3分の1政党でしかなく、絶対的な支配力は失っていました。そのため、社共が一体として選挙態勢に取り組んだ場合には、しかもそれに蜷川知事の勢力が加わった場合には、全く余談の許さない状況となっていたのです。富井市長は激戦の末勝利します。加えて、富井市政を継承した舩橋求己市長は、根っからの役人で市民に知られた存在ではなかったにもかかわらず、知名度の高い自民・民社連合の永末栄一民社党代議士に勝利します。このときの選挙戦は、「ニナ川に舩橋かけて、府市協調」の旗を掲げ、オレンジマークの各戸頒布など、文字通り全市を巻き込みましたし、保守陣営も、「反共市民連合」を結成するなど、互いに組織選を展開したのです。いずれの側に立つにしても、この時期京都は燃えていました。全国からの支援が来ると同時に、こうした選挙戦の手法と熱気は、また全国に波及していきました。私も、舩橋選挙態勢の市労連指導部の一員としてその渦中にあって、勝ち目のない人物を掲げての文字通りの組織選のフル稼働による勝利は、本当に我がことのようにうれしかったのを覚えています。こうした選挙は、市役所内のやる気の高まりとその反面のおごりへの傾斜の両面が生じることになります。


●社共体制の中での共産党の伸張
 富井革新市政は、1年前の市長選挙の惨敗の教訓から、17年前の社共統一選挙を呼び覚ますことになったのですが、これは、井上市長の急逝という偶然がもたらした結果だったのではなかったかと思います。それほど、社共共闘というものは生易しいものではないのですね。革新陣営としては、まさに天から降って沸いた大きなチャンスでした。それだけに、勝つ、ということが全ての共闘で、当初から、市長選挙勝利後の市政運営の約束事が定められていたのではありませんでした。市長選後の市政運営は、まさに成り行きだったと思います。そこでどういう問題が生じたのでしょうか。
 市政運営の主導権をどちらがとるかということですが、これは、市議会運営を中心に考えると、共産党を軸にまわすことができませんから、当然社会党がその役割を担うことになります。その場合、議会運営には当然妥協がつきもので、妥協することは、革新性を弱めることになります。或いは、保守陣営に屈服する場合もあるわけです。そこで、社共の間に矛盾が生じることになります。共産党は原則を貫き、社会党は富井市長を議会運営から守るための妥協を重ねることになります。こうなると、行き着く先は見えてきます。
 共産党は、地域活動に優れ、議会対策よりも市民運動に力がはいり、その市民運動と市長とを結びつけるために、結果として共産党支持勢力が拡大し、市議会における共産党議員の数が急増します。これに反して、社会党のほうは、市議会少数与党の中で、市長を守るために苦労を続けるにもかかわらず、その妥協の姿は芳しいものではないために、市会議員の数は減ることになります。これは、社共体制の決定的な矛盾です。この矛盾は、社共で勝つということと一体的な関係にあるために、決定的な社共体制の解体にまで行かずに、くすぶり続けることになります。ただ、富井市長の勝利は、社共の統一というだけではなく、京都府医師会長という立場、さらには富井清独特の保守層をも引き付ける文化人としての人物によるところも大きく、その誠実でおおらかな人柄が、社共の矛盾を超えるものであったと思っていました。しかし、この社共の矛盾には解決しがたい矛盾が存在します。

●府市対立から府市協調へ
 高山市長と蜷川知事とは、両雄並び立たずの典型例だったでしょう。その府市関係が、富井市長の誕生によって、府市協調路線に一変するのです。その原因は、富井市長の選挙態勢にありました。
 富井市長の選挙体制の核は、社共の共闘にありますが、他方では、蜷川選対との共闘でもありました。府市民団体協議会が、富井市長自身の選挙地盤でありますが、これは蜷川選対組織そのものでした。これに対して、京都市サイドの選挙地盤は、市役所をはじめ交通局、水道局などの労働組合で構成された京都市労連でした。こうして、富井市長の選挙体制は、政党、労働組合、市民団体ともに、府市関係の協調の中で生まれたものといえ、それがゆえに、富井市長誕生そのものが、府市協調体制であったといえました。その組織の実態については、第2節で触れることにします。
 
●市民直結の市政へ
 富井革新市政の主軸は、なんといっても「市民直結の市政」だったと思います。市長が、市民に直接語りかけ、また、市民からも市長に直接ものを言う場を設けました。小規模の市民と市長の語り合う場は年間百回は超えていました。また、市長と市民が直接語り合う方式だけではなく、行政の仕組みとして、市民と行政とが交わり、また市民の声が反映される方式が工夫されます。それには区役所の重視や、行政の進め方における現場重視の考え方が導入されます。
 まず、市区民相談室の抜本的拡充です。これには、高山市長誕生時の区広聴室、井上市長時の市・区民相談室の設置などの先行事例がありますが、富井市長時のそれは、市民の市政への直接参加を目指すものであっただけに、本気度が違っていました。それは、市民相談の受け付け所ではなく、市民と行政とが結びつくための組織であったのです。したがって、市民相談室及び区民相談室はともに局次長クラスの力のある組織でした。区民相談室は、地域の住民組織とも結びつき、また市民要望は、時には市会議員の口利きよりははるかに迅速に実現する場合もあったようで、これが、特に保守系の議員を刺激し、区民相談室の機能縮小は、自民党議員団の以後の要求となってきます。
 次に、市行政全般の進め方で、これは、高山市政晩年には、「中央集権的」な批判もあったことから、できる限り局ごとの自主性を重んじ、局では、関係市民とできる限り対話を重視して市民本位の施策を樹立推進していくことが試みられましたが、これは後に、「局自治主義」に陥って、市政全体の統一性や整合性に問題が生じることにもなります。なかなか、いいと思ってやったことでも、実際やってみると他面の問題が生じるなど、政策というものは簡単ではないということがあります。
 いずれにしても、この市民直結の市政は、市議会という代議制のあり方との関係が整理されていない中では、議会、議員の立場がないがしろにされかねない危機感を議員サイドにもたらせ、市議会と市長との対立点となります。しかし、当時の地方自治の課題に都市がアタックしていくためには、こうした市長の強いリーダーシップ制が求められていたのではなかったかと思っていました。

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      「開かれた市政」

 市役所を市民に開かれたものにする、ということが、富井市長の市政改革の中軸をなしていましたが、そのなかでの特に政治的な焦点となったものに、「市政白書」問題と「道路舗装計画の公表」を挙げることができます。

 <「市政白書」問題>
 京都市は、市民生活の実態と市政の水準を明らかにすることによって、市民の暮らしと健康を高める市政を、市民とともに推進していくために、富井市長2年目から市政白書を発行する。昭和43年版の「図で見る 市民のくらしと市政」は、まだ役所の文体で比較的おとなしい内容だったが、その2年後の昭和45年版の「市民のくらしと市政」はサブタイトルに「<人間>をとりもどすために」とあるように、極めて意欲的な内容と記述であったために、自民党市会議員団から、政治的偏向の強いものとして、発行の中止を迫られた。この白書は、富井市長になって新設された「行政研修所」が編集し、B5判で200ページを超えるもので、発行は、自治記念日の10月15日。有料頒布であったが、自民党の抗議により、増刷ができなくなり、代わって、京都市職員労働組合連合会が、自民党の圧力を抗議し、「民主市政推進のために−’70市政白書をめぐって−」を発行した。その内容は、学識者の市政白書への支援や自民党の干渉批判などを資料として加えた上で、「市政白書」の全文を掲載した。特に学識者の見解では、13名の大学教授が署名者代表となった「声明書」は、当時の状況をよく伝えるものといえる。多くは、左翼系の学者であった。

 <道路舗装計画の公表>
 開かれた市役所の柱の主軸は、市長、市役所と市民との直接交流であり、もう一つの柱が今で言う情報公開である。市民生活に直結した事業での情報公開の最たるものに、道路舗装計画の公表があった。当時、今のようにあらゆる小道まで道路舗装が当たり前のようになされていたのではなく、大きな道路はともかく、生活道路の多くはまだ未舗装で、雨が降れば泥んこ道になり、サラリーマンも長靴や雨靴を必要としていた。なので、生活道路の舗装工事は、予算の可能な範囲で順次進められていたのであるが、それには、地元の要望を受けた市会議員の口利きがそれなりの役割を果たしていた。市会議員にすれば、地元の御用聞きの最たるものであったといえる。その舗装道路の舗装計画を公表してしまったのであるから、市会議員の口利きを必要としなくなったのである。しかも、区民相談室の拡充で、市民の要望などは、市会議員を介さなくとも直接区民相談室を通して関係各局の部署と調整できるので、これには、市会議員の怒りを買うことになったのですが、これなどは、革新市政の象徴的な仕事といえよう。


●「暮らしと健康」が施策の精神
 富井市長が京都府医師会会長であったことから、医師出身の市長らしく、市民の健康と暮らしを高める、細やかな施策を市政の重点としました。これはまた、後の同じく医師会長出身の田辺市長が、自身の持ち味である健康を主軸とした市政の推進を図ったのも、同じ趣旨であったといえるでしょう。
 老人無料健康診断、インフルエンザ予防接種の無料化、保健所における健康相談室の設置、心身障害者扶養共済制度の実施、日本脳炎予防接種の中学生以下半額や老人無料化、伝染病患者の入院無料化、義務教育の父母負担の軽減などなど・・・・無数ともいえますね。
 その中で、注目されるのに、ちびっこ広場づくりと交通災害共済制度及び国保会計への一般会計からの繰り出しがあります。ちびっこ広場づくりは、横浜市が飛鳥田市長の発想で、子どもでも、発育の段階に応じて必要とするフィールドの大きさや使用の仕方が異なり、幼児の段階では小さな面積が適当で、これを地域地域のお母さん方につくり運営してもらう市民運動として展開していたものに学んだものです。これには拡充された区役所の区民相談室がその推進役となります。また、交通災害共済制度は、交通事故が多発してきた中で、市民全員が1日1円年365円の掛け金で制度の恩恵を受けるようにしたもので、これも市民運動として、区民相談室が展開しました。それはそれで、市民運動と京都市との直接的な関係が深まることでよかったのですが、現実には、これらの運動が、各区役所間の競争になってきてしまったのはいただけないことでした。
 市役所本庁舎の3階中央に第一応接室があります。市長室に隣接した庁舎の中でも一番大切な、外国からの賓客を市長が迎える空間です。ただ、京都市では、財政上の制約からも、他都市のような新たに十分な庁舎を建設することがなかったために、この第一応接室は、市の幹部会をはじめ各種会議に使用するだけではなく、荒々しい労使の団体交渉もこの部屋で行われてきたのです。ですから、各区の区長が集まる区長会もこの空間で行われています。この部屋には中央に衝立で仕切りがあり、一方ではいわゆる応接セットによる応接室らしい空間、他方では会議のための大テーブルが置かれ、30名ほどの会議ができるようになっています。実は、その仕切りの衝立にグラフが掲示されていたのです。各区毎のちびっこ広場設置数と交通災害共済の市民の加入数の棒グラフです。結局、折角の進取的な革新市政とはいっても、区役所間の競争をあおるようなことをなぜするのかと、当時、第一応接室に入るたびに憤りのようなものを感じたのを覚えています。安っぽい役人根性があるのですね。もっともらしい理屈をつけていたのでしょうけれども、区毎にそれぞれ事情がある筈なのに、事業実績を高めるために、本庁の区民相談室がこうしたものを掲示していたのでしょう。
 それから、国民健康保険財政の問題です。当時も今も、どうしても釈然としないのは、高山市長と富井市長のこれに対する評価の問題です。高山市長は、国民健康保険制度の発足以来、京都市のこれに対する事務費の赤字が膨らんできたことに対して、これは、国の事業であるから、その赤字は国が解消するべきであるとして、その赤字を市が補填することなく累積赤字として計上したままにしてきていたのです。これに対して、医師出身の富井市長は、結局市の一般会計から補填して解消します。地方自治の立場からすれば、どちらが革新市政か判らないことになります。実は、この国保会計をめぐっては、府と市、すなわち蜷川知事と高山市長、そして府医師会との政治的な関係が生じていましたが、それはまた、別のところで述べましょう。

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   <私見>
  政党の変遷−当時の政党

  昨今の政党は、自民、公明、共産の3党を除き目まぐるしく変遷し、その軌跡をたどるのはなかなかに骨の折れるしごとといえます。しかし、1955年から1990年頃までの半世紀近くは政党は安定していて、政治はわかりやすかったし、社会の状態もある意味ではそれなりに政治に反映されていたように思います。ですから、その時代に生きてきた筆者などは、どうしても政党や政治の状況をその当時の政党を基準にして考察してしまうことが多いのです。ですから、自民や社会、共産、公明といった構図をいまだにあたかも当然のように使ってしまうことになりますから、ここで、あらかじめ政党の変遷について、今の若い方々のために若干の解説をしておきたいと思います。

  <55年体制とは>
 第2次世界大戦の敗戦後10年経った1955年(昭和30年)、戦後の動乱期もおさまり、国家としての独立もはたし、保革の激しい対立状況は継続しつつも、それなりに安定した政党の状況が生まれます。それを55年体制というわけです。
 その55年体制は、まずそれまで左右両派に分かれていた社会党が一本化し、それに触発されて保守政党も自由民主党に一本化し、これでもって世界でもまれな、民主主義国家における政権交代のない自民党による長期安定政権が成立します。自民党は永遠の政権党であり、社会党はそれに抵抗する永遠の抵抗野党なのです。そして、憲法改正を党是とする自民党は国会で3分の2近くの勢力を持つものの今一歩憲法改正の発議を可能とする議席に届かず、民主憲法を擁護し憲法改正阻止を党是とする社会党などの野党は3分の1の勢力を後退させることはなかったのです。
 1955年は、この時期から経済の高度成長は進行しだします。そうした中で、社会党は再び民主社会党と社会党に分かれ、また、その後宗教活動団体である創価学会を基盤とする公明党が新たに誕生し、これに戦前の非合法団体時代からの共産党を加えて政党の基本的な構図は固まります。野党の中の多数派である社会党には終戦直後の階級闘争的な考え方の流れを内包していて、その支持基盤は、概ねサラリーマン・勤労者層ということです。これに対する民社党は議会主義の政党で、基幹産業や大企業の従業員及び中小企業者などを支持基盤としています。公明党は、都市部を中心とした、都市の底辺層をその支持基盤としていて、生活向上や平和擁護などを重視しており、共産党も都市部の労働者や小零細企業者層をその支持基盤としていて、野党の中も、互いの支持基盤を同じくするところなどもあり、野党内の競争関係の激しさもあり、絶対的な政権党に対して、少数の野党が一本化することの難しさがあったわけです。

 <地方議会の政党>
 こうした国政レベルにおける政党の勢力図は、地方レベルではどうなっているのでしょうか。地方議会では、都市部を除き、議会の政党化はあまり進行せず、最大の勢力は、無所属議員なのです、ただし、この無所属議員はおおむね国政レベルでは保守政党である自民党の支持基盤となります。そして、公明党や共産党、民社党などは都市型政党ですから、地方での勢力は少なく、社会党が概ね最左派ということになり、社会党が共産党的な位置を占めるような地方も多かったということはよく耳にしました。
 こうなると、都市部、なかんずく大都市部の政党の状況は、全国的な視点から見るとかなり特殊なものだったのです。しかし、都市部の政治状況は、高度成長経済と太平洋ベルト地帯を中心とした重化学工業化の波の中で、日本列島における都市部が拡大発展していくことになり、これが、新たな政治の波を引き起こすことになるのです。
 大都市部の政党でも、自民党が最大与党であることに違いはないのですが、その勢力はおおむね3分の1程度です。残り3分の2を国政野党の社会党、民社党、公明党、共産党が占めることになるのですが、野党同志の歩調よりも自民党との歩調に適合する政党として民社党や公明党があり、社会党を中心とした地方議会の運営には至らないのです。しかし、1960年代における都市部の発展は、新たに社会党を中心とした革新自治体を輩出することになり、ここに戦後初めて自治体問題が国政上の重要な課題となるのです。

 <京都の革新性>
 こうした都市部における政党状況の中でも、京都市の場合はさらに特徴的な違いがあります。それは、共産党勢力の強さです。共産党は、典型的な都市型政党ですから、もちろん東京などにもそれなりの勢力を持っていて、美濃部革新東京都知事の誕生にも大きな役割を果たすことになりますが、京都の場合にはさらに強いものがありました。
 京都では、戦後早くも1950年に、京都市長に高山義三、府知事に蜷川虎三の両革新首長を誕生させており、その原動力には社共の共同選挙体制がありました。高山市長は間もなく保守に転向したのですが、蜷川知事は、1978年に引退するまでの7期28年に及ぶ長期間、概ね革新性を貫き、主たる支持政党を社共としますが、実態的には共産党との親和性が強かったのです。蜷川長期政権を支えた社共の関係は複雑で、特に社会党では、容共派と目される勢力とそうでない勢力とが対立し、これが、社共の関係を複雑にするのです。しかし、京都市の周辺区と府会議員はおおむね容共派でかつ蜷川与党であり、都心部の社会党はおおむねそうでなく、蜷川府政ともある種の距離感がありました。国政レベルとは違って、都市部、中でも京都の場合は、自民党単独では社共連合軍に勝つことはむずかしく、民社党と組むことによってようやく社共を上回ることことができるのです。しかし、社共の統一選挙体制は、主として社会党の事情からなかなか組むことができす、また、高山市長の市民の支持の強さからも、保守転向後の高山市長に打ち勝つことができなかったのです。しかし、高山市長引退後の選挙では、井上市長急逝による1967年の市長選挙で、社共共同の選挙体制を組むことにより、自民、民社連合に打ち勝ち、17年ぶりに再び革新市長を誕生させます。このことは、社会党と共産との間に対立と融和の織りなす複雑な関係があるとはいえ、ひとたび選挙で統一すれば勝利するという、神話を生むことになりました。そして、そのことは、舩橋市長選挙でも証明され、以後オール与党体制のなかでもその力は働いていくことになります。
 共産党を加えた選挙体制で革新首長を実現した場合、当初は社会党が主導権を取りますが、概ねその運営の中では、共産党が勢力を拡大し、社会党の議員数は漸減していく傾向にあります。その原因は、共産党は議会外の対市民への活動に重きをおき、社会党の場合には行政運営への関与に活動の重きをおくというような違いがあるからでしょう。共産党は、革新市政の対市民的な成果を活用し、社会党は、その運営の難しさに苦労することになるからでしょう。
 そこで京都における共産党勢力の大きさの原因です。一口に言って、それは蜷川知事の影響力があったからといえるのですが、今ひとつ、京都大学をはじめとする京都における大学や文化人の進歩性による影響もまた大きなものであったといえるでしょう。とはいえ、それだけでは京都における共産党の支持基盤の大きさは理解できません。そこには実態的な影響力を持つ二つの大きな活動がありました。ひとつは「民主商工会」(民商)、今ひとつは「民医連」(全日本民主医療機関連合会)の活動です。蜷川府政の時代におけるかつての民商の活動は活発で、かつ影響力が強く、蜷川府政とも呼応して、京都における伝統産業やその他の小零細企業の相談窓口として、税金対策などにも大きな役割を果たしていました。一説には、「民商に入ればビルが建つ」との噂がたつほどの実態的な影響力を有していたのです。また、民医連は、あくまで患者の立場に立った医療として、今に至るもそれなりの存在感を持っています。そして、近年では「生活協同組合」の活動にも熱心です。こうした地域住民に対する実態的な活動の活発さが、他の都市では見られない、京都における共産党の勢力の大きさを築いているものと考えられるのです。
 京都市議会では、今や、自民党と共産党とが二大勢力であり、その間に公明党やかつての社会党、民社党、その他の流れの勢力があるという構図となっています。

 <55年体制の解体>
 55年体制は、政権党の保守は自民、野党の革新は社会の対立を基本形にしています。しかし、その後の経済構造の変化や自由化・規制緩和・官業の民営化などの流れの中で、その構図は激変することになります。まず労働界の変化です。かつての公営企業体(3公社5現業)の労働組合は総評の主力部隊として社会党の支持基盤をなしており、民間大企業の労働組合は民社党の支持基盤となっていたのですが、ここに二つの大きな変化が生じます。一つは国鉄や電電公社などが民営化によってJRやNTTなどに、特にJRは全国土一本の国鉄からブロックごとに分割されるなどによって、かつての総評の主力部隊がその戦線から脱落していくことのなります。そうした流れの時に、二つ目の変化です。それは、鉄鋼労連や民間の基幹産業部門の労働界からの労働戦線統一の具体化が実現してきたことです。これは、労働運動を政治活動から距離を置いたものとし、労働運動本来の活動にしていこうというもので、最終的には共産党系の労働組合を分離し、社会党と民社党の支持基盤となる新たな労働組合のナショナルセンターとしの「日本労働組合総連合会」(連合)が誕生します。共産党系は「全国労働組合総連合」(全労連)を組織しました。こうした労働界の変化によって社会党の支持基盤は大きく揺らぐことになります。
 ただ、政治と距離を置く労働界の変化とは裏腹に、この直後の1990年代に入っての政治の再編成、日本政治にの連合政権の時代が来ることにより、労働界は逆に政治に深入りしてしまうことになります。そして、社会党の支持基盤の希薄化、労働組合の政治への深入りとその失敗、さらに東西冷戦構造の終えんなどにより、自民党と対をなしていた55年体制の一方の政党である社会党は解体してなくなり、以後、自民、公明、共産の3党以外は、その変遷を繰り返して今日に至るのです。曰くリベラル、曰く保守云々の政党が離合集散し、政権党である自民党に対する野党を構成するものの、その対立軸は不明確で、55年体制後の我が国の安定した政治状況が容易には見通せない時代となっています。社会党が消滅し、その後継政党ともいうべき社民党がきわめてマイナーな政党となっている今、自民党との明確な対立軸を示し得ているのは共産党のみであるというのも、現在の共産党の強さとなっているのでしょうね。

 <自治体政治への影響>
 こうした国政をめぐる政党の変化の流れは、自治体運営にも波及します。1960から70年代における革新自治体の時代は、国家レベルの公共投資型の自民党運営に対して、都市における人間性の回復、生活・福祉重視の対立軸を有していましたけれども、今日の自治体運営における対立軸は、それがあるのかないのかさえもあまりわかっておりません。これが、はたして「成熟社会」の姿なのでしょうか。自治体経営とは一体何なのかが改めて問われている時代となってきているのではないでしょうか。
 国民、市民にとって、どの政党がどの層の利害を代表しているのか、かつては明瞭だったのですが、今は、その根本のところが不明瞭となってきているのです。一部の政党を除き、すべての政党が保守であり、リベラルであるということは、政党は、国民の利害をどう代表するかということには応えていないのではないでしょうか。自らの支持基盤によってではなく、政権への関与をめぐって四分五列しているところからは、明日を見通すことは困難です。…ちょっと短絡的で、しかも書きすぎたようですが…・ま、私見ですのでどうかお許しを。
 ちなみに、今の政党をかつての政党に照らし合わせてみてみると以下の通りです。
 自由民主党 = 自由民主党  保守政党でニューライトやリベラルも含む
 公明党   = 公明党 庶民を代表 与党と協調
 共産党   = 一貫した左翼政党 日本の国情に特化した共産主義か?
 立憲民主党 = ←旧民主党、旧社会党、旧民主党、元自民党、新勢力 
 国民民主党 = ←旧民主党、元自民党、新勢力
 日本維新の会= ←大阪維新の会、元自民党
 希望の党  = ←小池党 元自民党、その他
 社会民主党 = ←旧社会党
 自由党 = ←元自民党
 その他

 

 


 第2節 富井市政の市政運営メカニズム

●選挙母体 
富井市長の選挙母体は、社共両党と京都地評及び京都市労連を中核とする「全京都市民会議」で、これには、他に個人営業のような政党であった民主革新会議と府市民団体協議会及び医師会の政治団体である府医師連盟の7団体で構成されていた。
 対する八杉候補の陣営では、今日からすれば何とも時代錯誤のような気のする「反共市民同盟」が選挙母体で、これには、当時であってさえ、そんなことでいけるのかなと、私は相手陣営をいぶかっていたのを覚えていました。しかし、私より高年齢の当時の指導者たちや一般市民からすれば、戦中から戦後にかけての共産党アレルギーが強く残っていたのでしょう。
 府市民団体協議会は、主に府が許認可権を持つ関連団体で、蜷川知事の選挙組織でした。京都府職員の労働組合がその構成員であったかどうかは忘れましたが、府職労と教職員組合も強力な組織で、これらの組織も市長選挙に全面的に協力していました。すなわち、京都市長選挙に、蜷川知事の選挙組織も全面的に協力したのです。
 これに加えて、富井市長自身の文化人としての幅広さがありました。狭い革新性をはるかに越えた、京都の伝統文化との深いかかわりが、人間としての富井清の人気を支えていました。自らも、都山流尺八の名手でした。人物の外形を比べると、八杉候補が革新で、富井候補が保守のような感じがあったともいえそうですね。

●富井市長の権力構造
 富井市長を待ち受けていたのは、4期16年に及んだ高山市政とそれを継承した1年間の井上市政、すなわち17年間の保守市政でした。市議会では少数与党、市役所内は保守市政下で構築された組織と人材、こうしたなかで、富井革新市長はどのように市長としての権力基盤を築いたのでしょうか。その重要な一つは、市民の支持によって市長に就任したことから、富井市長自身が市民と直接接する機会を最大限確保し、市民の支持を力の源泉として市政を運営すること、二つには、選挙で役割を果たした支持団体の応援を仰ぐこと、そして三つ目には蜷川知事と知事の支援団体の支援を受けることであったと思います。
そして、それら三つの要素は互いに絡み合って富井市長の権力構造を築いていくことになります。ただ、社会党と共産党との関係は複雑で、富井市長の権力構造の多面性を形づくることになったと見ていいのではないでしょうか。
 富井市長の選挙組織「全京都市民会議」は、政党以外は、京都地評、府医師連盟、府市民団体協議会、市労連の4団体で、この市長選挙4団体が、陰に陽に富井市長を支援し支える役割を果たします。ただ、権力基盤ではあっても、政党以外の4団体は、市労連以外は必ずしも京都市政の諸問題を理解しているわけではなく、政治問題化している要件、例えば市電の再建問題や特別職報酬問題などでは、大きな役割をはたすものの、個々の市政政策などは結局当事者である市労連が重要な役割を担うことになります。そして、市労連といっても、政策全般の問題は、市長部局を中心とした京都市職労が担うことになるのです。そこで、市役所内における労働組合、特に市職員労働組合の役割が重要視されてくることになりました。

●市議会少数与党 市議会の攻防
 富井市長は、市長選挙では市民の多数派に支持されて当選したとはいえ、市議会では与党は少数で、市長就任当初から野党に苦しめられることになりました。最も重要な本格予算案が通らないのです。結局、初年度の予算は、暫定予算を組んだ上、一部予算の修正可決で成立するという苦渋をなめます。そして、予算をめぐっては毎年修正されるのですが、3年目の予算では、例年地方交付税については高山市政以来、前年度実績を当初予算化し、その後の伸びは5月市会以降の補正財源に充てていたのですが、自民党はこれを当該年度の伸びを見込んで当初予算に増額修正してしまうことになります。これは必要とする歳出があってのことではなく、要するに予算修正が目的であったのです。そのため、私の関係していた経済局の中小企業関係予算が行政サイドでの予算要求があったわけでもないのに、市会サイドから予算が増額されてきたので、結構なことだと当該職場ではいいあっていたことを覚えています。
 **市長選挙が2月であったため、当時は、市長選挙の年では、前任市長は旧年度で終わるため、義務的経費などを中心とした骨格予算を編成し、新年度からの政策的経費などの予算は新任の市長による編成としていた。
 市会の構成は、与野党の関係で見ると、与党は社会党と共産党、野党は自民党と民社党、中間が公明党という構成です。市長選挙直後の市会議員選挙結果の議席数で見ると、市会定数72、社会13、共産12で、与党は25です。これに対して野党は自民28、民社9で37です。圧倒的に野党が上回っています。しかし、是々非々の公明党10を与党に加えると与党は35で、野党との差は2議席となります。このうち自民党が議長となっていますから、採決では公明党が市長提案に賛成すれば、差は1となりきわどい関係になります。
 公明党は、市長との関係も良好で、市長サイドでは、多数派工作として、民社党の一部議員の取り込み工作を進めることなり、これが一定程度効を奏しはじめます。冨氏市政の4年目だったでしょうか、委員会採決では野党多数によって市長提案が否決されるのですが、これが、市会本会議では、民社党議員1名の造反と1名の病気(仮病!)欠席によって逆転して原案が採択されるのです。こうした状況からも、富井市長の圧倒的な人気から、2期目に入れば、富井市長のリーダーシップが発揮できるとの思いがありましたし、それに向かって自重しながら、今後にかける市政運営が図られていました。が、土壇場で、市長自身が病に倒れることによって、当初の思いとは違った方向に市政の舵取りは進むことになりました。


●庁内権力体制
 当然のこと、庁内権力体制は市長自身のリーダーシップ性にあるわけですが、富井市長自身は、自らのリーダーシップによって庁内体制を築くにはまだまだ政治の素人で、また、これまでの京都市政の内部問題をほとんど知るような状況にはありませんでした。そのため、与党である社共の影響、それとの関連性を持ちながらの市職員の労働組合、さらには富井市長の支持母体である保険医協会などが具体的な関与をすることになります。
 まず第一は、富井市長の実質的な側近を用いたこと。富井市長の出身組織である京都府保険医協会事務局長の小井実です。これは、市長が用いたというよりも、小井氏自身が自分で役割を背負っていたというべきだったのかもわかりません。当初彼は、市長特別秘書たるべく、その机を市長室に持ち込んだという驚くべき行動力の持ち主でした。しかし、これはすぐに自民党など市議会野党の攻撃にさらされ、撤退することになりました。しかし、その後も、市役所の外にいながらにして、市長側近の第一号実力者として、彼を通さないことには物事が進まないといわれ、いわゆる小井詣でが行われていました。市役所の権力が実質的に庁外の人物に握られるような事態を生んだのです。
 第二は、社会党の実力者、これが表に見える庁内権力の構築者であったのでしょう。共産党は、市民運動に関心が高く、庁内の権力形成にはあまり影響力を発揮しませんでした。そこで、その実力者とは、山科区を選挙地盤とする竹村幸雄市会議員(後、国会議員に)です。それよりも市会議員としては先輩となる左京区の末本徹夫は、自分の人脈を登用することには結構積極的でしたが、京都市政の基本動向に関わる人事形成には疎かったようです。したがって、庁内権力の形成は、竹村幸雄が主導することになります。その最たるものが舩橋助役の登用です。なぜか私は、竹村幸雄が衆議院議員になってから、同氏との関係が密になり、よく接待を受けたりもしました。そうした折に、氏は、富井市長誕生直後、舩橋求己がたまたま水道局長も退任してフリーであったことが好都合で、彼を助役に登用するべく富井市長に薦めたのだということを話してくれたものでした。これは本当のことのように思いました。

  こうした市会議員の庁内人事への影響力は、実は、財政再建計画下の長期アルバイト雇用とその後の正規職員化が大きく預かっていました。臨時職員には採用試験というものはなく、京都市政に関係している有力者の紹介によるものが多く、また、当時は、区役所と市役所にはそれぞれの人事的な領域があり、区役所の支所や出張所では現地採用の職員も結構多かったのです。これが、有力市会議員の紹介による職員採用となり、その職員は、選挙では、その市会議員のために活動することになる。自民党から社会党に至るまで。共産党以外はこうした傾向がありました。年齢的には、筆者を前後する世代がそうで、その後の世代は、競争試験合格者が中心となるため、市会議員と職員との関係も合理的なものとなってきます。

●はじめに人事ありき
 当時、革新市長が誕生した都市では、いずれも長い保守市政の中で築かれた庁内組織の中へ、市長一人が落下傘で飛び降りたような状態で、市長がリーダーシップを発揮することに苦労していました。それまでの市長によって築かれていた庁内組織は、容易なことでは新しい市長の思うようには動かないのです。新しい市長への協力者は、市長当選に寄与した職員労働組合と若手職員が中心となって、幹部職員の協力者はなかなか少ないのが実態でした。革新系は、国政では少数野党で、与党自民党にははるかに及ばない政党をバックにして誕生した革新市長が、果たしてどれほどの市政運営をなしうるかはまさにお手並み拝見で、幹部職員たちは明らかに様子見に徹しているのが通常でした。その状態を動かすのは、やはり人事権の行使でした。中央も地方も、役人は人事に弱いのです。地位は欲しいが、必ずしも新市長に全面的に従うわけではない、いわゆる面従腹背なのです。そこで、いかに的確かつ勘所を得た人事を行うかが重要になってきます。
 「はじめに人事ありき」これは当時の革新市長共通の課題で、革新市長会の綱領にも明記されていました。これに関し、富井市長は、ある程度は成功し、ある程度は行き詰まったといえます。
 ただ、人事に関して総括的に言えることは、高山市政の中期ごろから導入し、育成してきた選抜試験によって採用してきた近代的なキャリア職員が、この革新市政によってひと頓挫したことは、その後の市政運営を考えた場合、相当な損失であったと思われたことです。かわって、在来型の経験重視の人材登用が始まり、これには与党の政治家や労働組合との関係がでてくることになりました。

●政策的秘書課体制
 さて、富井市長は、就任直後の3月市議会は、助役を初め旧体制で臨まざるを得なかった。ただ、ここで特筆すべきは、収入役が、井上市長のもとで収入役になったので、新市長に従うことはできない。という考えから収入役を自ら辞任したことです。この人物、宮本正雄氏は、京都市の戦後観光行政を築いた、筋目のしっかりした人でした。この身の処し方は、保守、革新の立場を超えて、立派で、尊敬に値する人だと考えていました。代わって就任したのは、主として監査畑のベテランで、中立的な人物が就任することになりました。岡本文之氏です。助役は旧体制から引継ぎ、富井市長による新助役は、舩橋求己が就任することになります。いずれも6月市議会で承認を受けて就任します。そして7月には、富井市長の事務局体制も人事異動と組織改正全般の中で一応確立しますが、これには2段構えで行われました。1段目はこの7月に条例改正を必要としない範囲での機構改革と共に、2段目は翌年昭和43年4月、局レベルの条例改正による機構改革と併せて実施されました。この1段目と2段目との間はなかなか複雑だったようです。この4月には高山・井上市長の時期から継続していた福武昇助役は退任し、助役は舩橋求己1人となりました。この舩橋助役を巡っては、極めて複雑な状況が生まれます。
 まず、富井市長就任直後の市長の事務局体制としては、第1段階で、秘書課体制が一応確立されました。
 この時の秘書課体制は、市長秘書としての役割にとどまらず、市長の事務局としての政策的な役割も担うものとして確立されたものでした。政策的な仕事も含む秘書課であったのです。そのために、その後今川市長のもとで職員局長や経済局長を務めた清水武彦氏を秘書課長に、秘書係長にも政策的な判断のできうる職員を充てる一方、2名の政策担当主幹を配置していました。その人選は、秘書課長が、民生畑でかつ元京都市職員組合の書記長であった人物であると同時に、社共の競合する中にあって、一部無党派活動家の集まりであった「土曜会」のメンバーが、事実上キャスティングボートを握ったとも評されていました。実は、ある元組合の委員長から、筆者も土曜会への参加を誘われたことがありましたが、その人を信用していなかったので断っていたという経過もありました。
 この時期には、条例改正を必要としない範囲での、市長の直接的な政策セクションとして、市・区民相談室の抜本的拡充と併せて、内部的には能率課を廃して、行政研修所を設置しています。市民の市政参加と職員の自発的研修体制をめざしたものであったのでしょう。

●富井市長と舩橋助役の微妙な関係
 第2段階では、条例改正による調査室とともに、人事部門のみで1局を独立させた職員局、さらに前市政の計画局を衣替えさせた都市開発局が新設されます。ここで、注目すべきは調査室で、その室長は、舩橋助役が兼務(事務取り扱い)することになります。調査室の役割は、富井市長の下で、庁内体制全般の連絡調整機能を担うことです。ここで、第1段階で誕生した政策的秘書課体制と舩橋助役の指揮下にある調査室との二元的なリーダーシップ体制という、ある種矛盾した仕組みが出来上がったのです。富井市政の権力体制のこれが現実の姿であったといえます。
 なぜ、二元的であったのか。その説明をしましょう。
 政策的秘書課体制は、富井革新市政の推進に意欲的な市長の補佐機関であったのですが、現実に京都市政全般の政策調整を行い、体外的にもそれを発信するのは調査室ということになります。そして、肝心なことは、舩橋助役が調査室長を兼ねたことです。この舩橋助役の評価がなかなかに難しかったのです。当時、水道局長を退任し、無職の状態にあった舩橋求己を富井市長の助役に推したのは、社会党の竹村幸雄でした。革新市政を実現させた中軸の政党である社会党の最大の実力者の勢力には大変なものがありました。その同氏が推した舩橋助役は、その意味では、富井革新市政の屋台骨を担うにふさわしい人物ということになるのですが、これが、なかなかに微妙なのでした。そもそも、舩橋助役は、民生育ちで、部落解放同盟のリーダーであった朝田善之助氏とも親しく、革新的な土壌の中で育ってきたとはいえ、元来政治的な人物ではなかったようです。それでいて、腹は据わっていて、ある種行政の筋のようなものを持っていて、体質的には保守的で自民党に近いとも評されていたのです。
 竹村幸雄は社会党の有力市議で、国会議員になるのですが、その竹村幸雄が推した舩橋助役が、むしろ保守的体質であったということは、竹村氏自身も行動力はあるものの結構大雑把ではあったのです。同氏は、よく私を前にして、舩橋を助役に付けたのは自分だといっていたのです。そこで、庁内権力の構図は、竹村幸雄や末本徹夫などの社会党市議団、富井市長とその側近の秘書課体制、舩橋助役とそのもとにおける調査室、そして中庸を得た人事部門に分かれていたといえます。その人事部門では、後に助役になる奥野康夫氏が人事課長に就任し、富井市長の新任も得て、なかなかに巧みな人事を行い、後に、その下で育った中谷祐一氏(同氏も後に副市長になる)とともに、奥野−中谷ラインでもって庁内に奥野体制を築くことになります。
 それはさておき、舩橋助役が調査室長を兼務したとはいえ、その実務を仕切る課長や係長級の職員には、富井市政推進を背負った人材が配置されていた。それまで秘書課内に設置されていた2名の政策担当主幹は調査室主幹に配置換えし、市長に直結した政策的秘書課時代と同様の活動を続けることになります。
 実は、私も農政改革のために、この政策担当主幹を通して富井市長に対して直接レクチャーしたのを思い出します。そして、そのための改革的な人事異動については、奥野人事課長のバックアップを得て一定程度実現することができたのです。ただ、それが不完全に終わったのは、舩橋助役の抵抗があったということで、ならば次には抵抗させないぞ、という決意で、単独で舩橋助役に面会して、農業ボス支配下の農林行政の実情を説明したのも懐かしい思い出です。

●幻の上田作之助助役=1人助役の体制に
 それから、舩橋助役は、自らが助役に就任するや、他に上田作之助元経済局長が候補として挙がっていたことに対して、助役は1人で十分だといって、それを拒絶し、上田助役の誕生は幻となって消えるのでした。ある話によると、早い時期に上田助役就任の打診が行われていたのですが、上田元経済局長は、そのときすでに龍谷大学の教授に就任していて、学生の募集はそのことを前提に行われているので、4月からの龍大退職は無責任となるため、せめて秋以降にということで、富井市長就任当初の助役就任は断られていたようなのです。そこで、先に舩橋助役が誕生したのですが、舩橋助役は自分ひとりで十分だということで、上田助役誕生はなくなりました。このことは、富井市政のスタンスの取り方に大きく作用したと思います。それは、蜷川府政や共産党との関係も良好な富井市長とそうではない舩橋助役とのずれが、日常的に存在し、それでいて舩橋助役の肝の据わった仕事ぶりは、庁内を複雑にしていきます。あるときには、気に入らないということで、人事異動の決裁文書を富井市長に投げつけたというようなことも耳にしたことがありました。ことの真相はともかく、日頃ゆったりと構えている舩橋助役の太っ腹の激しい一面を現す逸話といえるでしょう。
 当時の私は、富井市長を実現させた労働組合の本部役員の1人として、当然のこと富井市長に直結して、市役所を改革するべき立場にあったのですが、この舩橋助役とも妙にそりの合うところがあったような気がしていました。後のことですが、舩橋市長は、京都会館でイベント等があって、当時京都会館内にあった文化観光局の文化財保護課にいた私のところへ来て、その時間まちで気さくな雑談をしてくれていたのを今でも懐かしく思い出します。
 いずれにしても、舩橋求己の助役の就任は、富井革新市政を推進する面と、それにブレーキをかける面との両面があったといえたのでしょうか。

●馘首三役の職場復帰
 労働組合との関係では、市行政を進めていくにおいて、労働組合と協調する人材をできる限り登用していくことになりますが、より直接的には、1967年10月に高山市長四選目に馘首された三役の復権を図ったことが特徴的でした。三氏はいずれも職場復帰をはたし、委員長であった松井巌氏は開発局の主幹に、副委員長であった三谷直氏は勤労市民室長に、書記長であった遠藤晃氏は行政研修所の主査に就任しました。松井巌氏は、その後市史編さん所長となり、このことがさらに後に、私が市史編さん所へ行くことの起因となるのですが、それはともかくとして、三者共に、適材適所であったと思います。遠藤氏はのち、立命館大学の教授に転身ますが、松井氏と三谷氏はそれぞれ役どころを得て、役所人生を全うされました。

●組合の市政参加 
 革新市政の推進にとって欠かせないのはやはり職員労働組合の果たす役割でしょう。
 それまでの保守市政に対する職員労働組合のスタンスは、庁内の抵抗勢力であると同時に、庁外では、市民と結びついた市民運動勢力でした。それが、自らの運動によって革新市長を誕生させた職員労働組合は、革新市政推進においては、抵抗勢力ではなくその推進組織の一翼を担うことになったのです。
 具体的には、市長選挙を担った主要30団体の中核として、市長の選出母体である府市民団体協議会とともに、富井市政の推進支援活動を担うと共に、庁内的には、革新市政推進を可能とする庁内体制の構築と市民要望に応え得る行政づくりへの活動でした。
 これには、地方公務員労働者の組合の活動として、本来の賃金、労働条件の改善とは別に自治研活動というものがあります。自治研活動というのは、地方自治研究活動の略称ですが、「地方自治を住民の手に」をスローガンに、全国津々浦々にまで及ぶ自治体職員の活動を元に、当時は毎年、その成果を持ち寄って、十数の行政分野ごと分科会を設ける全国集会を開催し、地方自治の課題と展望を見出し、再び各自治体の活動に生かしていく、民間の労働組合では考えられない、使命感を担った活動なのです。
 京都市職員労働組合は、大都市の組合であるだけではなく、京都が伝統的に革新的な運動に優れてきていたということから、この全国的な自治研活動においても、それなりの存在感をもっていました。
 そこで、自らの運動としても、富井市政の誕生を期に、市民の参加を得た自治研京都集会を30ほどの分科会でもって開催するなど、市民参加の市政を実現するべく、一大活動を展開します。その推進者が、先に述べた遠藤晃・元書記長でした。その手法は、多分に戦後市役所進歩派の手法であった、市民運動と呼応した市政運営をめざしていたのではないかったかと思われました。市役所共産党勢力のリーダーでもありました。富井市政2年目において、実は私が、その京都市職員労働組合の自治研活動の責任者となったのです。遠藤氏の後継者となったのです。富井市政になって、労働組合も、社共で主導権争いをしている場合ではないということで、社共連合執行部となっていました。余談ですが、これをマージャン言葉で「ホンイツ」執行部といいます。これに対して、社共、どちらか一色の執行部を「チンイツ」といいます。
 私は、どちらかといえば、責任を他に求めるよりは、自らの内に考えるほうなので、市役所の外部へ出て行く方式では、市民の要求に応えることは困難になっていくのではないかと考え、実際、市民の中に出て行く職員自身は、自らの仕事の中でどれだけ市民に応えるだけの仕事を行っているかが問われだしていたのです。そこで、市民の中に出て職員を、今度は市民的な課題を担って、市役所の中でどれだけ、その課題実現に自らの仕事を深めていくかに運動課題を設定しなおし、改めて、市職員としての役割の認識と力量の向上に努めることを求めることにしました。市民参加による自治研京都集会は行いましたが、その分科会は3分の1ほどに集約し、市民運動から、自らの役割を高める方向に舵を切り替え、この方向性は以後も踏襲することにしました。革新市政では、市民的な課題は、それを市民団体と一緒になって市に要請し、行政を攻めるのではなく、自らが行政内部にあってその課題実現に努力することが要求されるのです。
 そのため、舩橋市政になって1年目ですが、革新市政を担う労働組合として、果たしてこれでいいのか、ということをモチーフとした自治研活動家7,80人による研究集会を泊りがけで開催し、私自身も本腰を入れようとしていたのですが、そうした直後、労働組合としての根本の考え方に三役と見解が相容れず、急きょ辞任することになります。私の革新市政における運動はこれによって途絶します。私の後任には、私と意の通じる人物が就任することになりますが、こうした過渡期の運動にはやはり人物が変わるとその勘所を逃すことになります。このことは、以後、私の中で、生き方の問題として忸怩たる思いを抱き続けることになりました。

●教育委員会の位置
 ここで、革新市政における教育委員会の位置について少し触れておきたいと思います。市長の事務部局である市長部局だけではなく、交通や水道局なども含めて、行政各セクションは曲がりなりにも富井市長のもとで革新市政推進の立場をとることになるわけですが、教育委員会は、それまでの保守市政下でのスタンスのままで、革新市政への転換をしなかったのです。そういう意味では、教育委員会は、富井革新市政の中での別世界のような感じがありました。私なども、当時はそれを政治的に捉えて、教育委員会は、保守市政の立場を守り、革新市政に抵抗するものと見ていました。しかし、よく考えてみると、それには次に述べるそれなりの理由が存在していたのでしょう。ただ、こうした教育委員会の体質は、城守*教育長の資質によるものと見られていて、以後長く教育委員会と城守教育長と市長部局との関係はしっくり行かない状態が続くことになります。
 で、教育委員会の特殊な位置は、一つには教育委員会は、市長とは別の行政機関であること、今一つは、城守教育長なりの行政の筋が存在していること、三つには府の蜷川教育委員会と京都市教育委員会は対立関係にあったこと、などからきていたものと思われます。
特に城守教育長は、高山市政下で、大物教育長であった大橋俊有に行政の筋というものを徹底的に鍛えられてきたようなのです。本人にすれば、政治的に右往左往するほうが行政では許されないとの信念を貫いたのでしょう。後年、市長部局からは嫌われていた同氏とは、私は意外とよく意思疎通ができ、結構好感をもって互いを見ていたようです。


3.主な政策課題等

 ●富井市政の主要な政策課題
 富井市政は、京都市政を市民に直結したものとするために、市長と市民との直接対話をすすめ、市役所を開いたものにしていくために全力を挙げていました。とはいえ、具体的な事業や政策は、市役所を開くと同時に、都市そのものを市民のものにしていくために、従来のものを見直し、また新たなものを打ち出す必要があります。そこで、こうした視点からの富井市政による主な政策課題を集約的に以下で取り上げておきたいと思います。
 まず、市長選挙でも最大の争点となった、都市開発の問題です。高山市政下で、漸くにして財政再建計画を達成し、経済の高度成長期ににも遭遇して、戦後初めての本格的な京都市の都市整備構想を否定した富井市政は、新たな「まちづくり構想」を策定します。これは、まだ具体的な事業計画に至らない、多分に理念的な構想で、「都市を人間の住むところ」として、都市化の進展によって発生してきた都市問題を解決することを主軸としたものでした。人間・市民が主役のまちづくりが基本的なテーゼなのです。このような視点が、都市整備や都市問題への対応姿勢に貫かれるのですが、問題は容易ではありません。
 まず、前市政から継続する市電市バスの経営難への対処です。これは、市民の足を守るとしながらも、少数与党の政治状況の中で実に苦労を重ねながら経営再建に努めるものの、市電撤去や料金値上げを進めざるを得ず、将来の交通体系として地下鉄の導入を検討課題とすることになります。この問題は、発足直後の富井市政の最大の難問であったのではないでしょうか。このときに、市長選挙後の支持団体の再結集が30団体としてまとまりを見せてきます。
 このほか、洛西ニュータウンの建設、公害対策、人間都市の実現への四条ひろばなどの歩行者天国、陸橋の建設、市民運動としての「ちびっこ広場」や全市民を対象とした交通災害共済、さらにはごみの定期収集と大型ごみの収集などを挙げることができます。いずれも市民生活を大切にしようとする事業です。また、文観税が終わることから、新たにナショナルトラストとしての文化観光資源保護財団の創設もありました。
 そしてなんと言っても、医師としての富井市長自身の持ち味である、市民の健康を守り高める政策です。インフルエンザ予防接種の無料化や老人の無料健康検診の実施など細やかな施策が実施されていきます。また、教育費父母負担の権限策も講じられ、教育委員会における教員の給与問題では知事・市長会談で円満に解決しています。
 こうした施策の実施を進めながらも、以下のように、富井市政の発足以来の重要な事件の展開は、4年間にわたって続きます。まさに試練の連続でした。以下の展開は、当時の私のメモによるものです。

●主要な事件の展開
 富井市政の主要な事件の展開を時系列で表示
@ 富井市長の初市会 昭和42年3月 市長の政治姿勢追求 年間(骨格)予算年度内成立せず、暫定予算を組む
A 4月統一地方選挙で、市会改選 社共が共に伸びるも市会勢力関係に変化なし
B 5月市会 改選後の市会の役員選出 助役人事 
C 第1回本格予算審議 6月市会 広報関係減額修正
D 8月人事 
E 交通財政再建 昭和42年5月及び10月市会で交通事業対策審議会条例案と交通事業再建計画案を否決 同年11月市会で新再建計画案を可決 同11月21日自治大臣承認
F 水道料金値上げ問題 昭和43年3月市会 上下水道財政再建計画 浸水防除対策
G 第1回民主府市政推進・自治研京都集会 昭和43.2 第2回 昭和44.5 第3回 昭和45.7
H 特別職歳費値上げ問題 昭和43.3市会可決 直接請求起こる
I 交通対策審議会答申(将来の交通体系) 昭和43.3審議会設置 昭和44.1答申
J 国保料値上げ問題 国保会計への大幅繰り出し 昭和43.11国保市会 昭和44.1.17修正可決
K まちづくり構想 昭和43年4月中間報告 昭和44年4月策定
L 京響外山問題 昭和45.1市京響調査会「京響の組織運営改善について」答申
N 府知事選 昭和45年4月 蜷川虎三知事圧勝
M 予算増額修正問題 昭和45.3
N 府知事選 昭和45.4蜷川虎三知事圧勝
O 第1回住民議会 昭和45.9.6
P 市政白書「市民のくらしと市政」問題 昭和45年10月
Q 富井市長倒病と動向

 富井市長誕生から4年間のあゆみは、保革対立の激しい当時、また少数勢力の革新首長がはたしてうまく自治体を運営できるのであろうかと危惧されていた当時であるだけに、なかなか激動的でありました。そして、富井市長はついに病に倒れ、2期目への圧倒的な期待を抱かせながらも1期でもって幕を閉じることになります。
 当時、私は、組合の常任役員で、しかも組合の京都市政の政策に関する責任者の役割を担っていたために、年齢的には20代後半で若かったものの、富井市政の4年間の内容は熟知していました。それで、当時、富井市政の4年間の歩みは、次の18項目に集約されると理解していました。私にとっては、それらは自明の事柄で、いつでも解説し、また記述できるものでした。そのためか、そのうちにと思いつつも、結局今日に至るまで、それを記述することがないままにきてしまいました。そして、いまになれば、その内容のほとんどが記憶から消えてしまって、もはや各項目の一つ一つを記述することができなくなってしまいました。でも、当時渦中にいた者としての認識は、極めて重要で、ここにその項目を掲載し、今後、富井市政を研究しようとする人たちの参考に供しようと思いました。富井市政研究の糸口にしていただければと思います。
 ただ、メモ書きは最初に掲載した通りですが、以下に若干の説明はしておきたいと思います。

1.@〜Dは、富井市政滑り出しに当たっての状況です。
 @は、富井市長就任直後の初市会ですが、井上市長の急逝により、新年度予算がまだ確定していなかったために、とりあえず6月までの暫定予算を提案してしのぐことになりますが、この初市会では、富井市長の政治姿勢が厳しく問われることになります。
 Aは、この4月15日に市会議員選挙があり、定数72人中、社会、共産両党の議席数は25で、与党勢力は圧倒的に少数のままでした。
 Bは、市会改選後の初市会で、この市会では、交通事業再建のための市長の私的諮問機関としての京都市交通対策審議会条例案が否決され、また富井市長の下での新助役も決定できなかったのです。
 C6月市会では、富井市長初の本格予算が提案されるも、広報関係予算が減額修正されました。また、この市会で漸く新助役が同意されます。それが、舩橋助役です。
 なお、以後、毎年の京都市予算に対する市議会の対応は、広報予算を中心に修正されるのですが、昭和45年では増額修正となります。予算の収入見込みを増額するという、本来考えられない事態がうまれます(M)。
 Dこれでいよいよ富井市政の歩み出しがはじめられることになります。7月24日市・区民相談室の抜本的拡充などの組織改正と思い切った人事異動が行われました。が、この時点での正確な時期は、4月、7月、8月のどの時点かは、今になると記憶がなくわかりません。が、この時期の人事異動は、市政の転換に当たってかなり大胆で、庁内にショッキングであったようです。ただ、条例に基づく局レベルの改革は議会の可決を必要とするため、これは翌年に回し、昭和43年4月に、調査室、職員局、都市開発局の新設を行いました。

2..次は、高山、井上市政から続く、都市問題やその他の対応です。
 E、F、Iは、京都の都市化の進展の中で、特にモータリゼーションによって市電事業が困難になってきていることからの市電存廃問題への対応や、上下水道事業の再建、浸水防除対策の必要性などによる値上げ問題など前市政からその対応に迫られていた問題への緊急的な対応に迫られるも、今回は保革攻守立場を変えて困難に直面しつつ対応していくことになります。
 E交通財政再建計画は、前年7月に改正された地方公営企業法に基づくもので、9月臨時市会で否決されるものの、11月には市電料金値上げと共に可決されます。そして翌年になって、Iの交通対策審議会の設置にこぎつけ、地下鉄建設の答申なども行うことになります。この難局に対応するため、美濃部東京都知事をはじめとする6大都市首長懇談会が交通問題を中心課題として京都で開催されます。
 Kは、高山・井上市政で策定されてきた、「長期開発計画」に代わる都市整備構想として新たに「まちづくり構想−20年後の京都」を策定したことです。策定に当たっては、昭和43年4月に中間発表を行って市民意見を求めた上で、翌44年4月に策定しました。
 その他の問題としては、Hの特別職歳費の引き上げ問題とJの国保料値上げ問題がありました。
 Hは、昭和43年3月に可決されます。しかし、それに対する反対運動が起こり、翌44年2月には直接請求が市会に提出されることになります、これは否決されます。
 Jは、高山市政下から引き続く問題で、国民健康保険制度ができて以来の赤字問題への対処の仕方で、国保会計の赤字が棚上げになってきていた問題を、富井市長のもとで、一般会計からの大幅な繰り入れによって解決することになりました。以後、国保の赤字は一般会計からの繰り入れが常道となります。

3.は政治運動など、その他の問題です。
 Gは、京都市職員労働組合が、富井市政推進勢力の中核的役割を果たすために市民参加を呼びかけて「地方自治を住民の手に」を掲げた京都市政全分野に渡る研究活動で、昭和43年2月の第1回集会では1600人の参加を得ました。以後毎年開催。2回目以降は「市政を市民の手に」を掲げ、名称も「民主市政推進・自治研京都集会」となり、京都市政にターゲットを絞ることになります。
 この時期、富井選挙体制が、蜷川選挙体制とも一体化して勝利し、その勢いで、蜷川府政支持勢力と富井市政支持勢力とが一体化した動きが進行していました。Oの住民議会はその延長線上にあります。ただ、住民議会開催の前日に富井市長が倒病し、住民議会には蜷川知事のみの出席となりました。なぜかこのときの記憶が私にはありません。住民議会はこれ1回で終わります。
 N昭和45年4月の府知事選挙は、蜷川知事が推薦し、その選挙母体の全面的な協力で勝利した京都市長選挙の勢いをもって、新たに「明るい民主府政をすすめる会」に市長選挙の勢力も結集し、オレンジマークも使った大変な選挙でもって保守候補に圧勝します。そして、この選挙組織は、翌年の市長選挙では「明るい民主市政をすすめる会」となって、自民・民社連合の知名度の高い永末英一候補(参議院議員)に、無名で地味な舩橋求己前助役を富井市長の後継者として当選させることになりました。
 Lの京響の外山問題です。これは、革新市政が進行する途上に生じた、指揮者の政治的指向性の噴出という偶発的な問題で、これを機に、京響それ自体の在り方の問題に発展しました。京響は、その誕生当初から、京都市が財政再建計画途上で、必ずしも財政的に十分な状況にはなかったため、この頃には、経営基盤と共に京響の存在そのものを問うべき状況にあり、また他方では、京響の楽団員の待遇の不十分さも顕在化してきていました。そこで、昭和44年6月に「京都市交響楽団調査委員会」が設置され、翌年1月に答申が出されたものです。現在、京都市コンサートホールをホームグラウンドとする安定した自治体の交響楽団として活躍している京響は、こうした存廃の危機をしのいできた基盤の上に成り立ってきたのです。もっとも、危機は、その後20年ほどたって再び訪れますが、そのときには、京都大学の矢野教授にも助けられ、今日の姿に発展させてきました。
 P市政白書、これは、京都市政と市政をめぐる諸問題をわかりやすく市民に提供していくという作業で、当時の政治状況から反自民的な傾向がでてきているために、自民党サイドからの猛烈な反発を受けて頓挫することになります。その状況は、本章1節の「余話」にしたためました。なお、こうした冊子として市民に市政の諸問題を提供するという仕方は、舩橋施政下でも継続することになりますが、こうした政治の渦中に入ることはありませんでした。

3.富井市長倒病を考える
 Q富井市長倒病と動向です。富井市長は、体質的には、循環器系統の弱点を持っておられたようですが、市長選挙に打って出るときには、その参謀役の保険医協会事務局長の市井氏が、「今は身体は健康で元気です」と言っていたように、選挙とその後の市民との対話市政はエネルギッシュにこなしてこられていました。そして当時、富井市長を支えてきた組織や私たちも、本当は、市長の激務の状況について、我がことのようには認識していなかったようなのです。
 その激務の状況の一端を示しましょう。「市民直結の市政」をめざす富井市長としては、まず、市長と市民との直接対話を重視します。また、市長室を開いたものとします。革新市政として、市政全般の大転換を市議会での圧倒的な劣勢のなかで進めることでさえ大変なことなのに、市長自身が、市民の前に全面に出て、市民との大小の対話を繰り広げていったのです。その回数は年間百数十回にも及んだでしょうか。加えて、市長室を開いたということ、これには、市長室前の秘書課長室に入ったところに、市長の日程台帳が置かれていて、私なども、よくそれを見に行ったものです。誰が、何時、市長に合うことになっているかが、誰にもわかるのです。したがって、私なども、空いているところを自分で探して、そこで会う事にしたことなどもあったのです。ということで、市民との直接対話だけではなく、こうした、市長室を訪れる市長の支持者たちなどとも誰彼となく会われていて、本当にゆとりのない日程でした。市長室のはす向かいにある3階中央のトイレに入るとき、「その窓から見える山並みを見るときが、唯一ホッとするときだ」とは、よく言っておられたことでした。こうした休むひまなき激務が。富井市長を闘病に至らしめたのであり、それは、市長側近を含め、市長の支援団体関係者たちの責任であったといえます。私自身も後に、至らなかったことを深く反省したところです。ですから、前市長の井上清一、後継者の舩橋求己と、京都市長が三代に渡って病に倒れ亡くなられた当時、京都市長の職は激務なのではないかという論評が現われましたが、富井市長のみがそうであって、前後の市長は、体質からきたものであろうと私はおもっていました。とはいっても、京都市長の職が、外部から見られる以上に激務であるのは確かですが。

 こうして富井市政の4年間を顧みると、次のようにその展開を見ることができるのではないでしょうか。
 ・市議会での圧倒的な野党勢力に苦労し、予算修正にあいつつも、何とかしのぎつつ、行政推進体制を確立する時期。
 ・都市基盤にかかる前市政からの重要課題を、苦労しつつ解決していく時期。
 ・市民との直接対話や、市民参加型の革新市政を着手していく時期
 ・蜷川府政との協調と支持勢力とによる府市推進体制確立への活動。
 ・市議会与党の勢力拡大への工作をすすめ、富井市長の人間的な人柄も大きく寄与して、公明党の是々非々化や民社党の切り崩しにより、最終的には逆転するところまできていた。富井市政は、「二期目になれば」との期待の上に進められるようになっていた。

 ●大都市連携のはじまり
 横浜市に飛鳥田革新市長が誕生したのは1963年、その4年後の1967年の2月に京都市で革新市長が、4月に東京都で美濃部革新都知事が誕生します。こうした中で、全国の大都市が、都市問題を抱えてその解決のために結束して国に問題提起をしていくことになります。
 美濃部都知事誕生直後の1967年6月、京都で、東京、横浜、名古屋、神戸の首長が集まって、大都市首長会議を開催し、主として各都市共通の交通問題を議論し、京都市のバックアップすることになります。また、飛鳥田横浜市長の呼びかけによる全国革新市長会は1964年に結成されていましたが、それの西日本版としての西日本都市問題会議が1968年8月に京都で結成され、京都市長がその会長となります。こうして、この時期の革新市長は、全国的な連携によって、地方自治を国政上の重要な課題に持ち上げていき、交通問題や、超過負担問題などでそれなりの成果を挙げていくことになります。

>>>よばなし・余話し<<<
  富井市政 富井革新市政 革新市政

ここで、富井市長が就任していた期間の京都市政を指して、三つの呼称を使用しています。極めて適当ですが。すなわち、個人名を冠した「富井市政」、革新勢力から選出された市長によるという意味で「富井革新市政」、さらに個人名をかぶせずに単に「革新市政」です。
 これは、本当は極めて意味のあることなのです。個人名を冠する富井市政という言い方は、行政組織の頂点の機関に就任したからといって、果たして市政の総体が個人名で現すだけの内実を備えているかという問題があります。次に、富井革新市政という言い方、これは、革新勢力の代表として市長に就任し、その主張のもとで市政運営を行っているという意味で、市長の立場を明確にした呼称です。そして、個人名を冠さず、ただ単に革新市政という言い方は、革新市長の場合、市長個人の持ち味は主たるものではなく付随的なものという理解の上にあるものといえまず。
 さて、市長は、京都市の場合当時、約2万人の職員を擁するマンモス組織の頂点に位置する「機関」です。この「機関」の職分は法律で定められていて、好き勝手に何でも、時所を選ばずに行っていいものではありません。あくまで、市長という機関の役割を全うすることがその任務です。他方で市議会があり、市長と市議会の審議の結果として京都市政の全体像は構築されるのです。京都市という自治体を代表するのは議会です。市長はその執行機関の代表者で、京都市政という場合、執行機関の様相をのみいうことになるのでしょうか。考えれば考えるほど、なかなかに難しいことになります。
 個人の役割を重視すれば、問題なく富井市政でいいんですが、富井市長を市長たらしめている勢力からすれば、その勢力の一員としての代表者に過ぎないことになります。私は当時、個人名を冠した市政などありえないという考えのもとにありました。行政組織の働き、保守市政から革新市政への転換を図るべく努力しているあらゆる分野の面々、そうした面々の努力の総和として、富井市政は存在していると考えていました。機関としての側面を極めて重視していたのです。こうした考え方は、行政の私物化を招かないために、今もなお重要な考え方のように思っています。が、同時に、組織における個人の役割もまた重要で、この点に関しては、いずれかの文脈のなかで触れてみたいと思います。 

  ちびっこ広場

 富井市長になって、市民運動を市政に取り入れるために、鳴り物入りで取り入れられた目玉事業。1日1円、年360円の交通災害共済事業とともに進められた。この事業を巡っては、趣旨の良さと進めかたの限界のようなものがあった。
 この事業は、もともとは横浜の飛鳥田市長の政策を導入したもの。しかし、飛鳥田市長の、こどもの発育段階に応じた施策の必要性の理解からきた、よちよち歩きの幼児とその母親に対する施策の内実がおろそかになり、とにかく数をつくることに精力を傾注することになるという弊害が生じた。
 たとえば、市役所3階の幹部会や区長会などが開かれる第一応接室には、ちびっ子広場と交通災害共済加入者数の区毎の達成数のグラフが掲示されていた。まさに区毎に競い合うような状況がつくられていたのであり、内実を置き去りにした数の競い合いという弊害が生じていた。これなどは、役所や役人の陥りやすい弊害で、富井市政には、こうした未熟な面も存在した。

 

 

  第3節 富井市政から舩橋市政へ

1.富井体制の継承

●富井市政の圧倒的人気
 いやホント、富井市長の人気は大変なものでした。革新市長とはいっても、その穏やかな人柄で、柔らかに市民に直接語り掛ける姿は、政治的な対決面を大いに緩和させるものがありました。 大体、市長選挙で二期目は強いのが一般的ですが、この圧倒的な人気によって、二期目の当選はほとんど間違いのないものと思われていました。そのため、富井市長倒病後の保革激突の市長選挙では、保守候補の永末候補ですら、富井市政の継承を言わざるを得なかったのです。本当に、富井市長惜しむべし、です。
 ところで、予期しない富井市長の倒病によって、その後継者選びは実は大変でした。富井市長を補佐すべき舩橋助役は、むしろ富井市政のブレーキ役となっていたとの評価があり、特に共産党支持層にそうした見方が強かったのです。加えて、一時は、半ば病気を癒えた富井市長自身が二期目出馬への強い意欲を示すなど混乱した状態も生まれました。けれども、富井市長の出馬は現実には無理であり、しかも市長選挙への人選は急を要します。
結局、他に適当な候補者はなく、1人助役として富井市長を支えてきた舩橋助役がその継承者になることが最も大義名分にかなうのであり、しかも、これを社会党が強く押し、結局共産党もそれに同意することになるのですが、この時に期せずして示された共産党の組織力には舌を巻くものがありました。それまで、舩橋助役を後継者に選ぶことに反対していた共産党支持勢力は、共産党が同意するや否や一夜にして舩橋支持に変わったのです。
これなど、社会党勢力ではとてもまねのできないものですね。もちろん、蜷川知事も同意することになります。が、表面からは過ぎ去ったこうした内情は、以後の市政運営の中でくすぶっていくことになります。

●市長選挙は富井市長の選挙体制で
 舩橋市長誕生の選挙体制は、基本的には富井市長の選挙体制によって担がれたものでした。ただ、前回は、戦後の統一戦線的なイメージを持った全京都市民会議であったものが、今回は、前年の蜷川府知事選挙で、富井京都市長実現の余勢をもって、明るい民主府政をすすめる会が誕生したこともあって、民主府・市政をともにすすめるという新しい時代への衣替えを行い、「明るい民主市政をすすめる会」に発展しました。
 その原動力は、社共と京都市労連と医師会、京都総評で、それに加えて蜷川知事をはじめとする京都府の選挙マシーンが一体となったもので、候補者が誰であれ、富井市長の人気を基盤としたその組織力で当選を実現する力があったものと考えられました。高山市長の時代は、蜷川知事と互いにそりが合わず、府市の関係はギクシャクしていましたが、富井市長に対する蜷川知事は、自身が後見人のような気分であったのでしょう。そのため、京都府市が提携して民主府市政をすすめていくことはうれしかったのではなかったかと思われました。
 市長候補者としての舩橋求己は、朴訥とした、まったく選挙向きのタイプでなく、社会党の竹村幸雄が振り付けを指導していたけれども、とてもではないけれども多くの人気を得ることのできるような状況ではありませんでした。これども、逆に、私らからすれば、演説の口調や身振りが下手であればあるほど、その素朴な賢明さに痛く好感をもったというようなことでした。
 本題で考えれば、富井市政4年間で築かれた圧倒的な富井市長に対する人気とその選挙体制によって、市民党を名乗った民社党代議士の永末英一に打ち勝ったのです。それは、舩橋候補自身の力ではなく、文字通り、富井市長の選挙体制という組織力によるものでした。そこには、舩橋市長の個性は埋没し、あるいは埋没させられていました。また、舩橋市長自身もそのことはよく理解していたはずでした。この選挙における自民、民社党サイドの敗北には相当なショック感があったものと思います。
 これによって誕生した市長は、単なる舩橋求己市長ではなく、あくまで富井市長の後継者として富井市政を継承するべき富井市長後継者としての舩橋市長であったのでした。ですから、この状況は、時とともに変遷していくことになります。というよりも、選挙後には早くも微妙な変化が生まれてくることになります。

2.戦闘態勢から徐々に融和状況に

●看板は革新−「反自民」の微妙な変化
 社共プラス蜷川知事による自民・民社連合に対する戦闘モードによって誕生した舩橋京都市長ではありましたが、そうした政治体制を受け入れながらも、富井市長の時とは明らかに違った手法をとることになります。その最たるものは市民運動との関係の取り方に現れました。、富井市政では政治的な基調であった「反自民」の看板を継承しつつも、市民との関係では、直接民主主義的な手法ではなく、行政と市民とが、共に市民生活上の問題に対処していくという手法をとることになります。これに対しては、市民運動を進めているとはいっても、多分に革新性を薄めようとしているのではないかと、その当時は思ったりしていました。
 また、京都府、或いは蜷川知事との関係は、これまた選挙が済むと微妙な距離が出てくることになります。選挙では、「蜷川に、舩橋架けて府市協調」とまでその蜜月ぶりをアピールしていたにもかかわらず、選挙が済むと、蜷川知事は、「京都市長が誰かは知らん…」といい、他方、舩橋市長のほうは、京都市政の都市問題を解決していくためには、府県からの権限の委譲を必要とする「大都市問題」を考える必要がある、とそれぞれの議会で答弁するようになりました。明らかに、知事と市長の間には距離ができてくるのです。

●舩橋市政の個性
 こうして、富井市長の圧倒的な人気と蜷川知事との蜜月ぶりによって誕生した舩橋市政であったのですが、やはり、誕生後は、舩橋市長の個性がにじみ出てきます。その一つは、先に挙げた「反自民」の政治姿勢で、今ひとつは、蜷川知事との距離感、さらには、市民運動との関係、そして行政のベテランとしての市政運営であるといえるのでしょう。
 蜷川知事と舩橋市長とは、人物的には互いに相いれない関係にあるといえます。政治的劇場的効果を狙う蜷川知事に対して、舩橋市長は政治性の少ない堅実な行政マンで、この二人が選挙のさなかに「蜜月ぶり」を演出していたことこそ、二人ともよく辛抱したものといえます。加えて、府市の関係は、府内の大都市と府政との関係として、制度的にもなかなかに協調しにくい面があります。

●舩橋・蜷川と府市関係
 戦後民主国家として生まれ変わった日本国家ではあったとしても、府県は国家の基本的な統治機構の基盤です。ですから、いかに政府に逆らう蜷川京都府政とはいえ、国家として京都府政をないがしろにすることはできません。政府の地方行政は、府県政を通して執行されていくのです。そこで、二つの面白い現象が生じます。
 一つは、蜷川知事が反政府的な言論をいかに展開しようとも、府の行政は、現実の国政との関係では他の府県と同様、国の行政に従順に従った行政執行となり、現実には「革新府政」とはいえないのです。つまり、京都市政は、京都府を介して国政との関係を持つことになります。ここから、次の問題が生じます。
 すなわち、いま一つの面白い問題は、国政にしても、蜷川城を介して京都府下を統治することは面白いことではなく、また、必ずしも意のあるところが的確にいかないこともあるでしょう。また、京都市は、国政としても重要です。そこで、京都市と政府各省とが、府を介さないで直接実質的なやり取りをすることになります。京都府は後に形式的に経由させるのです。が、やはり蜷川京都府政は、政府サイドとしても非常に気になる存在で、京都市サイドの職員に対して、常に蜷川京都府政の情報を聞きたいということになります。筆者なども、通産省へ幾度か行ったことがありましたが、この蜷川府政の動向にかかわる話を土産にもっていったことが大変役に立ちました。妙なことですが、とはいえ政治的には当然のことなのですが、京都府政が蜷川府政であったおかげで、京都市の株が上がっていたのです。府との難しさとは別に、国との関係ではありがたかったという面もありました。

●「市民参加」から「市民ぐるみ運動」へ
 舩橋市長の個性もあって、富井市政下での革新性とでもいうべきものが、徐々にゆるやかになり、それに伴って市議会における野党もまたその抵抗姿勢を緩めていくことになります。その革新性は、「反自民」、直接民主主義的手法、庁内体制や行政の進め方で考察することができます。
 まず、「反自民」の政治姿勢は、自民党の中央集権的な政策に対する反対に、直接民主主義的手法に対しては、「市民ぐるみ運動」に、行政の進め方に関しては、特に管理中枢機能を重視することなく、各セクションの自主性に委ね、それを市長が統括するという、行政のベテランとしての能力を発揮しました。
 特に、市民運動や市民との直接的な結びつきに関しては、その窓口となっていた区民相談室の役割が絶えず市議会での問題となっていて、その役割が、徐々に低下していくことになります。
 また、舩橋市長の大々的な市民とのかかわりについては、公害問題や都市緑化問題において、市長の基本姿勢となる「人間尊重、市民本位の市政」、「公害のない緑ゆたかな住みよいまちづくり」をすすめるために、市長就任直後の1971年9月に「公害のない緑ゆたかな住みよいまちづくり市民ぐるみ運動」を発足させます。その中のシンボル的な事業が「百万本植樹運動」で、これは今川市長就任直後、ちょうど10年後の1981年10月に達成されています。
 また、インフラなど都市整備に関しては、富井市政下では積極的ではなかったけれども、これも、「福祉面と一体の住みよいまちづくり」として、福祉に関連付けたインフラ投資を拡大していきます。
 このように、舩橋市長は、富井市政を継承しつつも、その路線を忠実に走りつつ、その走りながらのなかで、徐々に軌道修正をしていったのです。
 これは、市長選挙ではもはや勝ち目のなくなってきていた自民、民社連合にとって、与党化への地盤が形成されることになります。

●市議会オール与党体制へ
 自民党というのは、元来野党的な政党ではありません。ましてや地方においてはそうです。ですから、それなりの利害が反映されてくるのであれば、あえて野党として政治的に対立することを得策とせず、与党になることによって政権を取り込んでいこうとするのでしょう。自民党のそうした体質と、先に見た舩橋市長の市政運営のあり方から、市議会のオール与党体制は形成されていくことになりました。そして、舩橋市長の再選においては、オール与党下の選挙となります。1975年2月です。対立候補はなくなり、事実上の信任投票となります。したがって投票率も19.50%と恐ろしく低迷します。そしてこれは、次回の1979年2月の選挙でも同様で、投票率はさらに下がり16.13%となります。
 ただ、オール与党とはいっても、各政党との関係は一様ではなく、社会党は、舩橋市長を誕生させた党として、舩橋市政の中心的な立場に立ち、民社、公明とともに中道勢力を形成、そして、その左右に自民党と共産党を加えて全体のバランスをとることになります。いわゆる京の五色豆はこうしてできあがります。これは、舩橋市長を頂点とした京都の政治の有機的な形態で、ここでは、京都府との関係は主要なテーマではもはやありません。
 富井市政の中で、必ずしも十分な位置を占めていたとはいえなかった舩橋助役が、予期せぬ偶然から社共体制でその後継者に担ぎ上げられや、2期目には、自らが主体となって、各政党の支持を得、ついに、京都市政の頂点に立つことになる、考えてみれば大変な能力ではないでしょうか。ここで、ひとつの重要な指摘をしておけば、自民党の支持を得た市長に対して、変わらぬ与党としての支持を続けたその政治的粘り腰を当時ある種の感慨を持ってみていました。五色豆の決め手は共産党にこそあったのだと思います。この点に関しては、古都税問題のときに明らかになります。
 では、その功罪はどうだったのでしょうか。以下で、この点を意識して振り返っていきたいと思います。

3.市議会オール体制の問題

 市議会オール与党化した場合には、いったい何が問題となってくるのでしょうか。先の富井革新市政における市議会少数与党下での政治的激突状態から一転、市議会オール与党のもとでの無風議会が出現したのです。これは、市長と議会との関係でいえば、市長が議会に圧勝したものだといえるでしょう。各議員は与党であるがゆえに、それぞれに自らの力量に応じた政策への関与と応分の配分を得ることができるのです。こうした状況から、どうした問題が生じるのでしょうか。
 ・本質的な議論がなくなってくる ・議員が行政過程に関与してくる(・議員個々に政治を行う) ・行政職員も個々に政治的行動をとるようになる ・市長と議会の対立はなくなり市長が京都市政治の頂点に立つ(親父としての舩橋市長) ・インフォーマルな影響力が生じてきた ・竹村幸雄の消長と庁内権力者の変動 これらが一応問題として考えられます。

●議論がなくなる
 市議会がオール与党化すると、市長をめぐる党派間の問題は、対立よりもリーダーシップ争いのようになってきます。互いにどれだけ市長を取り込むことができるかの綱引きのような形となってきます。そうなりますと、党派間の対立は弱まり、そのことによって、次には、議員個々人が市長との関係を重視するようになります。こうして、市の政策は、市議会各会派の意向を取り入れながら市長がそれを作成し、そしてその実施をめぐっては議員個々人との関係に配慮しつつそれを執行していくということになるわけです。こうなると、市長が打ち出す政策に対して根本的な反論はなくなり、勢い議論がなくなってくる。こうして、市会運営は安定してくるものの、活性化はなくなって沈滞してきます。そして、根本的な反論を行うことはできづらくなってくるのです。
 これに反して、後年、共産党が野党になったときには、これで議論は活性化するだろうといわれたものでしたが、ふたを開けてみれば、また逆の意味でより活性化が抑制されてしまいましたが、その点についてはまたのちに触れることにいたしましょう。

●議員の行政過程への関与
 行政のベテランであった舩橋市長は、既存の行政組織とそれを担う職員を信頼して、通常の行政は、トップダウンではなくボトムアップ方式をとっていました。富井市長の場合と違って、市長自身が主な幹部職員と行政組織の役割は理解していたので、ことさらにそれらを統括する企画調整機能などは必要としなかったのです。これは、のちに医師会長であった田辺市長が外部から京都市に乗り込んできたときに、総合企画調整機能を必要としたことを考えれば、人と組織との関係が理解できようというものです。
 さて、問題は、こうした市長の庁内体制の実際と、市議会オール与党体制による議会の動きの中で、どのような問題が生じることになったかということです。
 結論からいいますと、個々の議員が、会派としての組織的な活動としてではなく、議員それぞれの思いで、行政過程に関与してくるようになり、行政職員のほうでも、議員との関係で問題を調整し、市長の段階では、行政サイドにおいても、議会サイドにおいても問題はすでに解決済みとなってくるのです。
 行政体は、組織として意思を形成し、組織として行動するときには強い力を発揮しますが、個々の職員として単独で行動するときには極めて弱いものです。こうして、個々の行政職員が、個々の議員の働きかけに応じて施策や事業の実施を行う状況となると、当時、私などは、行政は議会に支配されるようになてしまったと思ったりしていました。

●主導権は議会に、或いは市長に!
 これについて、ある時、もう亡くなられたが、長年市政記者をやってこられた京都新聞の親しい方と意見交換したのです。同氏は、私とは全く逆の見方をしておられたのです。いわく、市議会は市長に支配されてしまっている、というのです。私は一瞬「え!」と思いましたが、その見方には、さすがだと思いました。しかし、同時に、行政職員の多くが、個々の議員とのやり取りで苦労をしている状況もまた事実なので、問題には両面があったのです。この場合の職員の苦労は大変なものなのです。
 そこでもう一度、市長の立場に立ってみると、職員と議員とが絡み合った市政運営をしてくると、市長はその上に立つことになり、議会は行政に取り込まれていくことになるのです。こうして、個々の行政職員が個々の議員との関係の政治を行う集合体が出来上がるわけですが、この場合の個別行政職員の苦労は並大抵のことではありません。が、他方では、これにうまく乗っていく職員もまた生まれてくるのですね。

●オヤジとしての舩橋市長
 ただ、ここで言っておくとすると、舩橋市長は、決して無責任に職員に行政上の責任を転嫁していたのではないということです。舩橋市長は、腹の座った責任を回避しない性格の持ち主で、職員にできることは職員に任せ、その責任はいつでも被るという懐の深いところがあり、それが、結果的に行政と市議会との癒着構造を生んでしまったのです。その責任はどこにあったのでしょうか。
 このことに関しては、助役や局長、或いは課長など、それぞれのセクションの責任者がどれだけ行政的な公正性をわきまえていたかという問題に深くかかわります。少なくとも、助役や管理関係の局長などは、市長の考える市政運営やそのあり方についての基本的なデッサンについての根本的な検討を行う必要性があったのですが、実態は、どうも互いの出世競争によってそういうことにはならなかったようです。
 舩橋市長は、おおざっぱといえばおおざっぱで、自らの手法が結果として負の効果を招きかねないというようなことをあまり考えるタイプではなく、下から問題があがってくればそれを受け止め、その責任を受け止めるだけの度量があり、京都市行政体の親父としておさまっていたと見ることができました。ただ、見識を持って部下をリードするタイプではなかったようです。
 そして、ことの是非はさておいて、激流の中の富井市政を引き継いだ舩橋市政は、一転、凪のような市政へと変わっていったのです。

●インフォーマルな影響力
 ただ、こうしたオール与党体制の中にあって、注目すべき二つの流れがりました。
一つは、二期目にあたっての「世界文化自由都市宣言」と三期目にあたっての、文明への挑戦としての「空き缶条例問題」、これらはどう見ても舩橋市長個人の発想とは考えられなかったことです。これらはいずれも行政の中で検討され熟成されてきたものではなく、何らかの背景があって突如として舩橋市長自身から発信されてきたもので、そこには何らかの背景があったはずです。この表に現れなかった何らかの政策的背景はどこにあったのでしょうか。
 今一つは、社会党の竹村幸雄の消長の問題です。竹村は、社会党市議団のなかの実力者で、のち代議士になります。その竹村幸雄は、舩橋市長実現の最大の功労者でしょう。そして、市役所庁内への影響力は強く、富井市長の時の府市民団体協議会の市井事務局長の影響がなくなった今、同氏の人脈とともにその影響力は大変なものでした。しかし、舩橋市長は、庁内人事で、民生畑出身の右城孝住宅局長を職員局長に登用しますが、この右城局長は、同和行政にも堪能で、共産党との関係もそれなりに有するつわもので、庁内における竹村幸雄の影響力を抑制することになります。その手法は極めて大胆で、当時職員労働組合で主導権を有していた社会党を分裂させ、共産党と自民党系の同和運動団体の活動家とを連携させ、社会党系を弱体化しようとしますが、これが効果を発揮します。これを契機に、労働組合の主導権が社会党系から共産党系に移行していくことになります。そして、それをてこに、庁内の主導権は、竹村幸雄から右城局長に移行していくことになります。
 ところがです、その新たな実力者になりつつあった右城職員局長は、上田建設問題で取りざたされ、事実上失脚していき、そのあとの職員局長に、かつて富井市長に重用された奥野康夫氏が就任します。そして、奥野氏は、職員局長として舩橋市長を支え、今川市長の下では長く助役を務めるのですが、それには、人事畑一筋に歩んできた中谷佑一氏が重要な役割を果たし、奥野―中谷体制を築くことになりました。中谷氏は、実務にも長けた苦労人でしたが、晩年は体調のこともあり、気の毒な思いで見ていたのです。ただ、桝本市長になって副市長に就任したときには、特別施策としての同和行政終結をめざす市長方針の下で、直接的な矢面に立って苦労された功労者です。

4.同和行政の展開

●同対審答申・特別措置法と行政の拡充
 国策を求める部落解放運動の全国的な展開によって、同和対策審議会の答申が昭和41年に出され、昭和44年に至って同和対策特別措置法が制定されます。
 京都市の同和行政は、京都が部落解放運動の先進地であったこととも関係して、行政的にも先進的なものであったといえます。高山市長誕生直後の昭和26年、いわゆる「オールロマンス事件」での運動団体による差別の実態の追及によって、その解決には行政が役割をはたさなければならない、ということを明らかにして以降、京都市行政の中で、同和行政は重要な位置を占めてきました。また、戦前の社会課時代からも、その社会政策の先進性とともに、同和問題に対する認識の深い行政職員が多かったといえます。
 そしてまた、京都市職員の中にも同和地域出身者は多く、特に清掃や土木、また交通局や水道局などの現場部門には多かったといえます。こうしたことが、同和問題が重要な課題として認識されてきたばかりでなく、京都市行政自体の中にもこの課題に対処していく重要な能力を形成させてきていました。いわゆる、「民生閥」といわれる民生行政出身職員のこの分野における能力の強さです。すなわち、京都市政において同和問題は、庁内問題でもあったのです。
 それはともかく、特別措置法に基づく住環境整備事業の展開は、自治体行政の事業拡充をもたらせ、京都市の担当組織も大きく拡充していくことになりました。
 同和地区の住環境整備の主軸はいうまでもなく住宅改良事業ですが、これには、京都市の場合、特別措置法が制定される2年前にすでに2課体制の改良事業室が住宅局内に設けられていましたが、これが、法制定直後の1973年には4課体制に、さらにその翌年には5課体制、79年には6課体制に拡充されます。また、民生局内の同和行政担当組織である福利課は、1973年には2課体制の同和対策室に、さらに、76年には3課体制、85年には6課体制となります。そして、この拡充した改良事業室が、汚職の温床となってしまいましたす。

●行政闘争の展開と行政の苦悩
 国の同和対策事業特別措置法による同和行政の推進は、部落問題解決への大きな道筋となるわけですが、その推進に当たっては、各自治体への運動体による行政闘争が全国的に活発となります。そして、それに応えるかたちで自治体行政も拡充していくことになりますが、同時に自治体行政と自治体職員の苦悩も始まります。ということで、ここでは、同和行政の内容を述べるのではなく、同和行政の展開に伴う、京都市政とその職員の苦悩を述べることにします。
 さて、手元にある舩橋市政以降の不祥事のリストを見ると、次のようなものがあります。
 ・1975年の上田建設による土地転がし問題 <舩橋市政下>
 ・1976年の向島流通センター構想をめぐる不祥事<舩橋市政下>
 ・1983年の鳥居元改良事業室長の公金詐取事件 <今川市政下>
 ・1986年の改良事業室長による公金詐取事件 <今川市政下>
 ・1987年の道路舗装工事をめぐる談合疑惑事件 <今川市政下>
 ・1990年の比叡山中乱開発問題 <田辺市政下>
 ・1992年のポンポン山ゴルフ場問題 <田辺市政下>
 ・1997年の御池地下駐車場建設汚職事件 <桝本市政下>

 他にもありますが、世間をにぎわした不祥事としてはざっとこのような状況です。このうち、今川市政下の住宅局改良事業室長の二つの事件は、同和行政の基本にかかわる事件で、特に、1983年の鳥居元改良事業室長の逮捕は、古都保存協力税条例が、市議会で即決可決された翌日にあったということで、まことに衝撃的でした。では、なぜこのような事件が起こったのでしょうか。
 特別措置法施行後の運動団体による行政闘争は、広くかつし烈なものでした。それまでの同和行政は、いかに京都市の同和行政が先進的であったとはいえ、同和行政は、同和担当部門の仕事で、京都市政全領域にかかわるものではありませんでした。と同時、特別措置法の施行では、差別の生活実態を改善する住環境の整備というハード事業が中心となったために、ここに住居や用地の買収による新たな改良住宅の建設が重点課題となり、これによる差別の実態的な基盤が改善される一方、用地買収をめぐる利権的な問題も発生することになりました。運動体のなかにも、あらたなそうした状況の下での、従来とは違った活動家も生まれることになります。こうした状況下で、行政と市の職員はどのように対応していったのでしょうか。この場合、市政の深い部分である種の安心感のようなものがあったのは、舩橋市長の存在でした。同市長は、若いころには、朝田善之助氏とも、起居を共にしていたという話を聞きました。戦前戦後にかけて、朝田氏は京都市社会課の嘱託でもあったので、当時の同課の関係者は、朝田氏や同和問題にはかかわるところが多かったのでしょう。

●同和行政と庁内状況
 さて、こうしたことから、行政は、まず、運動体との交渉を受けることになります。交渉は、部落の地域ごとに、地元住民を背景に行政各部門が交渉に立つことになります。私も係長時代、課長が病気だったために、代理で出席し、厳しい追及を受けた経験があります。 
 行政や職員の状況を振り返ってみると、次のような状況を指摘することができます。
1. 同和行政が、従来の所管部局のみの仕事から、全市的な仕事になった。
2..行政組織と職員個人との関係が難しくなってきた。
3.同和行政進展に応じた新たな権力体制が生まれつつあった。
4.市の労働組合の力関係にも変化が生じてきていた。
5.舩橋市政の権力構図の複雑さの一端にもかかわりがあった。

●組織体としての市行政と職員のあり方
 まず、同和行政は、従来は同和対策関係部門のみの担当であったものが、市行政すべての部門においてもこれを担うことになりました。そして、同和行政を進めることは、当然市行政として、京都市が組織的に行うわけですが、同時に行政を担う職員個人の対応も問われることになり、この個人と組織との関係が大きな問題として生じてくることになります。
 かつて「業務用」という言葉がありました。魂を入れることなくただ単に「業務」としてこなすという意味で、同和行政に対する行政職員の消極的姿勢を批判するために使われていました。しかし、公務員の業務遂行は、市民、国民への使命感によって貫かれるものでもあるわけで、問題は単純ではありません。業務であるからこそ身命を賭して頑張ることもあるわけです。公務員は「全体の奉仕者」として、「公共の利益」」のために「全力を挙げて…職務に専念」すべく義務付けられ、宣誓までしているのです。
 運動体による行政糾弾交渉の中で、必ず交渉メンバーである課長級以上の管理職は、個人個人の認識を追及されてきます。その場合、その交渉において、交渉を受ける京都市サイドが、市としてどれだけ組織的に対応できていたかは大きな疑問の中にありました。同和行政を進めるにしろ、交渉に臨むにしろ、それは、市行政として市の行政組織が責任をもって対応するもので、いかに管理職たちであっても、それは個人ではないのですが、ここのところの同和行政のあり方が、きわめて不明確で、運動体の追及の仕方とも相まって、結局のところ職員個人の問題に還元されてしまっている面が多かったのです。
 同和行政の推進は、他の行政分野とも同じく、行政体の組織的な対応によってすすめられるものでなければならないにもかかわらず、これが、多分に個人の認識ややる気の問題に還元されていき、このことが、職員個々人を苦しめ、挫折感にさいなまれる者も多かったのです。
 そして、このことが同時に、運動体と行政、ないし個々の職員との関係にも影響を持ってくることになります。職員の責務は、行政から発せられるのであって、職員が職務を的確に判断し、執行していくことに関しては、行政体自身が指導し、管理していくべきものです。運動体との交渉は、あくまで職員個々人ではなく、行政体全体としてそれを受け対応すべきなのですが、結果として、職員個人の責任が問われるような傾向を生んでいたことは、大いに問題があるところでした。このことは、一同和行政に関することだけではなく、広く、市行政全般においていえることです。したがって、職務の個人的傾向に関しては、大きな教訓を投げかけるもので、こうしたことは、今でも心すべきことなのです。

●運動体と行政との関係
 部落解放同盟は、同和対策事業特別措置法の評価をめぐって、共産党系の新たな運動団体と事実上分裂するのですが、しかし、部落住民の唯一の代表組織であるとする部落解放同盟は、行政交渉の窓口は部落解放同盟のみであるとするいわゆる「窓口一元化」を全国的に実行します。とはいえ、京都においては、共産党系の運動団体である全解連(全国部落解放連合会 前身:部落解放同盟正常化連合会)の勢力も厳然として影響力を持っていて、行政的にこれを無視することはできません。また、京都市の場合、民生部門における職員労働組合も、共産党系の勢力が強いという伝統があり、現場の職員にはその影響も強く、現実対応は建前の部分と実際上の部分とが複雑に交錯していました。したがって、正面から部落解放同盟の交渉を受ける管理職の苦労は大変なものでした。
 建前はどうあれ、部落住民の全体を考えるとき、解放同盟のみとの交渉で問題を解決することができないので、現実を踏まえ、両運動団体が行政との同一テーブルに就くことが必要であり、舩橋市政の晩年には、京都新聞社の協力も得て、非公式にその準備が進められたということを聞いたことがありました。これは、舩橋市政であればこそ可能であったことなのです。しかし、舩橋市長が病に倒れたことにより、こうした現実対応への試みは途絶し、今川市政下での問題の噴出へと事態は悪化していきました。
 こうした状況の中で、運動体活動家との関係をうまく保つことによって、それをバックに市役所内の権力構造の中で力を持ってくる職員、また逆にそれらに従属してくる職員などが生じることになり、これに、市役所関係の各労働組合の解放運動にかかわる活動家の影響力も加わり、庁内体制は複雑な様相を呈してくることになります。ある意味で、解放運動の活動家たちが、結果的に市役所庁内体制の動向にかかわることになってきたことははたして望ましいことだったのでしょうか。

●舩橋市政の権力構図の中で
 舩橋市政の権力構造は、なかなかに複雑です。政治的には、社会党を核とした公明、民社による中道勢力を中軸に、その左右に共産党と自民党を加えたオール与党体制が成立しています。このオール与党体制も、社会党勢力の漸減傾向の中で、微妙な変化を内包することになります。そして、庁内的には、市役所関係の職員労働組合(市労連、その中心をなす市職労)や京都総評なども一定の影響力を持っています。この市役所関係の労働組合も、その内部では、社会党系の内部矛盾と共産党系の伸張など、微妙な変化が進行し、その中で、解放運動の活動家でもある各組合の活動家が、組合内での主導権を持つようになります。その代表格が、市労連の大島久次委員長が、小規模の学校職員労働組合の委員長から、市労連の委員長に就任することになったのは、社会党系内の分裂と共産党系の支持があったが故といえるようなのです。
 こうして、市役所の権力構図は、社共の競いあい、社会党系の内部矛盾、同和関係活動家の進出などが複雑に交差して形成されつつありました。舩橋市政は、それらすべてを包摂して成り立っていたといえるでしょう。
 加えて、桑原武夫、梅原猛などの学識者や、また加えて、市役所の大物OBなどがかかわっていた、「闇の権力」と週刊誌で取り上げられた庁外のインフォーマルな力も作用していました。
 結果として、同和行政をめぐる勢力関係もこうした舩橋市政の権力構図の一翼を占めるようになったといえそうなのです。
 部落解放同盟と全解連とのし烈な対立関係も、舩橋市政を支える社共の関係からすれば、京都市政の場ではなかなか単純ではありません。また、市議会では、自民党、社会党、共産党のそれぞれの長老、すなわち川井正雄市議(左京)、梅林信一市議(南)、そして鷹野種男市議(下京)が、それぞれの立場の同和問題のベテランで、この三者の関係はなかなかに良好でした。しかも、共に苦労してきた活動家というものは、それぞれ路線の違いから分裂し、し烈な戦いを繰り広げてきたとしても、深い根底の部分には互いに認め合う共通項のようなものがあり、分裂後の第2世代、第3世代とは異なるところがあるのです。
 こうして、舩橋市政は、相矛盾する要素を同時にもちつつ、全体としてのある種の調和を形成していたのですが、それには、舩橋市長の独特の太っ腹の人柄があったといえるでしょう。そしてこれは、市役所独特の「御池産業」とも称されるようになりました。けれども、問題は、そうした相矛盾した要素を同時に包み込む形態の完成形を実現する前に舩橋市長自身が倒病したことにより、それを見ることなく、矛盾が拡大してその後の市政の混乱を招くことになるわけです。
 ここで筆者について触れると、筆者は、松井巌元京都総評議長(この時は市史編さん所長)と大島久次市労連委員長の強い要請によって、また京都市(右城孝職員局長)との合意の上で京都市政調査会を預かることになり(事務局長)、舩橋市政の権力構図の周縁に位置することになったのかな、と思うのです。

>>>よばなし・余話し<<<

●自治労の自治研全国集会でのこと

 それは、自治労の自治研全国集会の部落解放分科会でのことです。ささやかな私自身の経験です。
 昭和33年4月に京都市に採用されて以降約10年、私は局の庶務に配属されていました。その関係で、局内職員の研修などの事務も受け持っていたために、その当時からあった、いまから思えばかなり初歩的な同和行政には、私自身が進んで受講していました。その結果なのか、同和行政を「業務用」、すなわち業務だから行うということではだめだという認識を深くすることになった結果、自分自身には同和行政を担う覚悟や資格はない、との思いを深くし、当初の積極的な関りからは距離を置くようになりました。そうしたときに、今度は逆の転機が生じました。
 先に触れていた若林清太郎さんの誘いです。この当時、若林清太郎さんは、自治体労働者の全国組織である自治労の常任中央執行委員となり、自治研担当となっていました。私も京都市職労の自治研担当であったので、若林氏から自治研全国集会の部落解放分科会の専任司会者役を依頼されたのです。通常、分科会の専任司会者は、都道府県職の自治研担当者がその任に当たるのですが、部落問題に対して適当な人材が見当たらないので、何とかその役に就いてもらえないかということなのです。これには、実際困りました。せっかく中央へ行った若林さんを応援したいという気持ちはあるものの、先に見たように、私には同和問題に対処するだけの内的な資格を有していないという気持ちを固めていた時だけに、これには困り果てました。
 そこで、最終的に判断したのは、まさしく逆転の判断でした。すなわち、仕事としてならできるのではないかということでした。否定されていた「業務用」なのです。仕事であれば、そこから逃げることはできず、それを完遂しなければならないのです。私の人間性でもって同和問題にかかわるのではなく、仕事として同和問題、自治労としての部落問題に対処することが可能であるとの結論です。評価は、仕事でもってされるのですから。
 そこで、自治研全国集会「部落解放分科会」の状況です。この時期、自治研全国集会は毎年開催されていて、それまでの同分科会は、参加者2〜30人ほどのこじんまりした分科会であったということでしたが、1969年6月の第12回集会では、ちょうどその時期に同和対策事業特別措置法が国会で可決される時期と重なったために、突如として200名ほどの大規模な集会となりました。そしてまた翌年の1970年5月の東京での集会では、さらに前年を超える規模となり、それだけでも初めて運営責任を預かる身としては大変なことでした。しかも、集会では、主として大阪からの参加者が、地元における対立を持ち込み、一方では大阪市の自治労組合員が、もう一方では大阪府下の自治体の共産党市会議員が、それぞれ相手を批判する批判合戦のような状況で、議長席まで押し寄せてきそうな騒然とした雰囲気の中で集会は3日間にわたって進みました。司会者には、私のほかに、実際の進行的な裁きをすることの可能な活動家が、和歌山県職労の役員が確保でき、この人物が巧みに対処してくれていたので助かりましたが、この3日間は、まったくの緊張状態の中にありました。
 さらに印象として強く残っているのは、広島県府中市の活動家、小森龍邦氏の実に鋭い発言です。部落民以外はすべて差別者側に立つというものでした。同氏はその後部落解放同盟の書記長に就任されました。
 集会は、助言者団と自治労本部の担当役員すなわち若林氏、それに専任司会者の私でもってその日一日の総括と翌日の運営を協議するのですが、助言者には学識経験者と運動団体、すなわち解放同盟本部の野本武一副委員長がおられ、それらの方々に教えられながらの毎日で、極度の緊張・集中と深い勉強をすることになりました。また、自治研全体では、全分科会の専任の助言者・司会者会議が自治研全体の運営を協議する場としてあり、それへの出席でも全体的な勉強をさせられることになりました。
 今一つ、この時の印象が強かったのは、大阪市の職員の発言です。我々自治体職員は、部落解放同盟の運動方針を学び、それを実行することが責務である、という趣旨の発言です。その後の大阪市の同和行政の何たるかを端的に示すものであったといえます。
 さらにまた、解放同盟中央から見ても、京都の場合は全国的な状況とは異なった状況にあるということでした、この点に関していえば、他の分野でも共通するところですが、やはり、京都では、社会党よりも共産党の勢力に勢いがあるということでしょう。他のところでは、概ね社会党が最左翼である場合が多いのです。
 ここで、同和行政という表現について一言。
 同和問題ということば自体からは、それが具体的に何を意味しているのかは、説明を受けなければわかりません。自治労では、自治体労働者の立場として、同和問題という表現は使用しません。部落問題です。部落問題とは、未解放部落の問題で、その課題は、未解放部落の完全解放であり、そのために自治体労働者はどうあらねばならないかを具体的実践の中から問いかけるものなのです。「部落問題、すなわち未解放部落の解放」という表現は、きわめて分かりやすいのですが、行政用語としてはこれを避けてきているのです。


第4節 福祉と市電・地下鉄建設問題

1.舩橋市政の執行体制

●助役3人体制に
 舩橋市長は、富井市長の時には、助役は自分一人でよい、といって、一人助役体制をとってきましたが、自分が市長になるや、当初は2人、やがて3人の助役を任命し、この助役と行政組織でもって、日常の行政執行にあたることにします。富井市政での、政策秘書課は必要としないし、調査室も事実上はあまり重要ではなくなってきたのです。
 一人目の助役は、盟友の今川正彦氏で、同氏は舩橋市長就任直後の1776年3月から市長在任中まで、二人目の岡本文之氏は監査畑出身で人望の厚い偏りのない人物で、1971年7月から75年7月まです。そして、岡本助役の退任後は、鳥養健氏が、民生局出身で、毛並みもよく庁内の出世頭で、1975年9月から79年9月までです。これに加えて、1977年12月から3人目の助役として、不死鳥のごとく浮沈を繰り返し出世してきた経済畑出身の木下稔氏が今川市政にかけて就任することになります。富井市政の時とは、まったく様相を異にしますね。
 ただ、当初はそれほどでもなかったのですが、舩橋市政が進むにしたがって、市長秘書が重みを増すようになり、市長秘書のまま係長から課長、さらに部長級へと異例の昇任をして、重要な役割を果たすようになりますが、これなどは通常の行政組織としては考えられないことであり、その背景には、インフォーマルなものとの関係が取りざたされてもいました。

●庁内組織のフォーマルな活用
 いずれにしても、舩橋市長は、市役所内部は知り尽くしていて、ことさらに企画調整的な機能を必要とは考えず、それぞれの分野に応じた3人の助役に、通常の業務は任せることになります。すなわち、今川助役は都市計画や建設行政を、鳥養助役は総務、民生行政を、木下助役は経済や文化観光行政を、それぞれ統括させるのです。そのため、富井市政下での政策的秘書課体制はそれをなくし、調査室自体も重要ではなくなってやがて廃止されます。結局、庁内のフォーマルな縦割り組織と、それに適応した職員に業務を任せることになります。
 そして、これも富井市政下で設置されていた行政研修所と区民相談室は、その規模と業務範囲模とを縮小されることになります。

●行政研修所から職員研修所へ
 行政研修所は、富井市政発足直後の1967年7月の機構改革で、市・区民相談室の抜本的拡充とともに、庁内対策として設置されたのですが、舩橋市政発足の翌年1972年4月に職員研修所に改組されます。高山市政下では、市役所庁内の近代化をすすめるセクションとして能率課が設置されていたのですが、それを廃止し、新たに民主市政の職員養成と市政の研究を進める機関とされていたのですが、どうも名称からして中途半端で理解しがたいものと思っていました。それは、「行政」「職員研修」のそれぞれ意味するところがうまく融合していないからです。市政研究であれば「市政研究所」或いは「行政研究所」であればわかりやすいのですが。また、職員研修が目的であれば、そこにわざわざ「行政」を加える必要がないのです。ですから、これには、多分、民主市政をすすめるうえでのシンクタンク的な要素を加えたかったからだと思うんですが、多分、野党を刺激しないためにこうしたあいまいな名称にしたのでしょう。直接相談にあずかっていないのでわかりませんが。こうした対応は、私はあまり好みではありません。
 はたして、舩橋市政になって、行政研修所は、職員研修所に改組されました。
 行政研修所の時代に、先に富井市政のところで紹介しました、政治問題化した「市政白書」は、この研修所から市民向けに発行されたものでした。また、この研修所からは、同様に、市民向けの次のような文庫版の本が発行されていました。
 1970年5月『憲法と地方自治』 7名の進歩的な学者による啓蒙書とでもいうもの
 1976年3月『公害を考える』 市政の重要課題として取り組んでいた課題について17名の学識者の論考を掲載
 
 こうした市政の課題についての市民向けのある種白書的な書籍の発行は、その後は広報課が担うことになります。「市民文庫」として、次のようなものが広報課から発行されていました。しかし、その記述は学識者によらず、行政自身の手で行われ、政治的「過激さ」を回避していました。
 1974年4月『くらしと京都市政』 京都市政のあらましを、福祉の風土づくりやマイカー観光拒否宣言なども記述している。
 1975年4月『くらしと市政365』 京都市政の様子や事業を月別に紹介し、項目別の索引も付加した網羅的なもので、一応の全貌がわかるようになっている。

 こうした、市政の情報を白書的に公開していくやり方は、はやくは、高山市政下における統計課内に統計資料室に見られますが、富井市政で積極的となり、舩橋市政では「過激さ」は消去されながらも、行政の仕事として継続して続けられるのであり、こうした、市政の情報を総合的な形で提供していくことは、その後の情報公開への下地としての土壌を築いていたものと考えられます。市民への情報公開は、事件化した問題などの情報開示だけではなく、一般市民にとっては、市役所の仕事を理解するための総合的、日常的な情報の提供がなされていることが大切であり、京都市においては、高山市政以来の経過の蓄積があったということが他の都市との違いといえるでしょう。

●区民相談室の縮小
 さて、市・区民相談室の問題です。市民相談室と区民相談室は、市民との直接対話を進める富井市政の最重要組織だったといえるでしょう。そのために、市議会では常に自民党の攻撃にさらされてきていました。ただ、この市・区民相談室は、実は井上市長の時に、1976年4月に設置されていたのです。富井市長は、これを抜本的に拡充したのです。1977年7月に。そうして、単なる市民からの相談を受け付けるだけではなく、積極的に市民の生活環境の改善をすすめ、また市民の各種地域団体との関係を深め、市民運動の展開に、その役割を果たそうというものでした。したがって、これには、自民をはじめとする野党から、市会議員の活動を奪うものだとする強い反対意見が常に出されるようになっていました。富井市長の、直接民主主義的な手法に対する、代議制をもととする議員の反対意見といえます。事実、生活環境の改善について、市会議員を介して要望していた時よりも、区民相談室に相談したほうが、ずっと早く解決したという話を聞いたものです。
 こうしたことから、自民党サイドからは、常に市区民相談室の縮小・廃止の意見が出されていたのです。そして、舩橋市政では、市会議員の活動と競り合うようなあり方はせず、区民相談室の規模を縮小することになりました。

2.福祉の舩橋

●全国革新市長会副会長として−福祉モデル
 舩橋市長は、富井市長と比較して、その革新性が後退したように見られていましたが、実は、全国革新市長会長の飛鳥田一雄横浜市長とは大変馬が合っていたようなのです。
 全国革新市長会は、1964年11月に横浜の飛鳥田一雄市長をリーダーとして全国22の革新市長によって結成されたのです。飛鳥田横浜市長は、社会党の国会議員で、国会では「安保」の有名な論客でした。しかし、60年安保の改定阻止の戦いが敗北し、飛鳥田一雄は、国政での民主主義の行き詰まりを地方自治のレベルから打開するために自治体改革を掲げて横浜市長選に打って出たのです。飛鳥田一雄は、社会党ではあったものの、横浜の浜っ子としての育ちの良さと、弁護士としてのキャリアとで、いわゆる革新にありがちな硬さや幅の狭さはなく、ある意味で京都の高山市長と似たキャリアの持ち主でした。初期の革新首長などは、案外そうした面が多かったのでしょうね。富井市長にしても医者の出身で、しかも伝統芸能の名手だったのですから。
 それはさておき、革新市長会は、経済の高度成長による国土開発の進行の中での都市化の進展と都市問題の発生に対し、その問題提起と解決を、自治体における市民参加によってすすめようとするための革新市長の集まりで、都市問題と地方自治の改革を国政上の重要な課題にしていきました。富井市長も副会長としてこれに参加しますが、舩橋市長もこれを継承し、市長就任の翌年の1968年8月には、近畿圏を中心とした革新市長による西日本都市問題連絡会議の設立総会を京都市で開催し、また1971年6月には革新市長会総会を京都市で開催するなど積極的に参画しています。1973年2月には、「革新市長と婦人のつどい」も京都市で初めて開催しています。
 こうして、舩橋市長は、飛鳥田横浜市長と提携して、京都市を福祉のモデル都市にしていきます。これが、「健康と福祉に関する総合政策体系のあり方」なのです。

●健康と福祉に関する総合政策体系のあり方
 福祉を市政の基調とした舩橋市政は、福祉の風土づくりをめざし、1973年には「福祉の風土づくり推進協議会」を設置して市民運動をすすめだしていましたが、その基本的な政策がすなわち福祉政策に関する総合的なプラン「健康と福祉に関する総合的政策体系のあり方」でした。同体系は1974年8月に福祉・健康・医療等にかかる各種市民団体を網羅し、さらに関係学識者を加えた「市民の健康と福祉に関する計画委員会」を設置して作業に着手、舩橋市長再選の翌年1976年7月に市長に答申されたものです。まさしく福祉の舩橋の政策体系というべきものです。が、これは、京都市の政策であるばかりではなく、全国革新市長会のモデル政策でもあったのです。
 富井市長のもとで、市民の「暮らしと健康を守る」、医者らしい医療面の充実を図った京都市政を、さらに福祉と一体化した、従来の部局の枠組みを超えた文字通り福祉と健康(医療)の垣根を超えた政策体系として発展させたものでした。これにはもちろんのこと、福祉畑を歩んできた「福祉の舩橋」としての特性がはたらいていたことはいうまでもないことです。「福祉と一体のまちづくり」、これが舩橋市長の持ち味だったのでしょう。
 富井市政では、インフラ整備よりも市民生活にかかるソフト面に重点を置いてきた市政を、舩橋市政の二期目からは、福祉面からのインフラ整備も積極的に進めようとするようになります。
 なお、この作業の事務局を担ったのは、調査室で、当時の民生、衛生両局などの調整を行っていました。また、策定を担った計画委員会の座長にはこの時には京都市専門委員に就任していた西尾雅七京都大学名誉教授が就き、福祉関係では、同志社大学の小倉襄二教授が中心的な働きをされていたようです。
 この「総合政策体系」は、年齢階層ごとの政策課題を示すところに特徴があり、婦人対策なども重要課題として提起していました。

●老人福祉と婦人対策
 舩橋市政の福祉政策の中でも、老人福祉と婦人対策ははやくから力が入っていました。
 まず、老人福祉については、先に富井市政で、日本脳炎予防接種の老人に対する半額公費負担や無料健康診査などの医療支援や敬老祝い金の支給などの敬老事業が行われていましたが、舩橋市政になって、早くも市長当選の年の1971年7月に老人福祉課を新設して、老人福祉施策の充実をはかる体制を確立し、1973年11月には敬老乗車証による市電市バスの無料化を実施、さらに翌年2月には老人医療の無料化も実施します。
 婦人対策としては、−この時期、まだ呼称は「女性政策」ではなく、「婦人」という表現を使っていましたが−、1975年6月に国際婦人年世界会議がメキシコで開催され、これによって革新市長会などでも婦人対策が重要な政策課題となり、京都市でも、その先導的役割を担うことになります。そこで、1978年4月には、勤労者・婦人対策室が設置され、総合的な婦人対策が検討されることになり、1982年10月に、「婦人問題解決のための京都市行動計画」が策定されます。

●福祉の学者ブレーン
 京都市では、医療や健康、福祉に関しては、西尾雅七京都大学教授と小倉襄二同志社大学教授という二人の学者ブレーンがありました。西尾教授は、すでに高山市政下で、先に見ましたように、八杉公室長の主導によって京都市の衛生研究への指導を受けるようになっていましたけれども、富井市政になって、専門委員としてさらに公害問題をはじめとする衛生行政全般への指導を受けるようになっていました。
 舩橋市政になると、福祉政策を重視することから、福祉の学識者を必要とし、その役割を同志社大学の小倉教授に求めることになります。同志社大学の福祉の教授には、小倉教授とほぼ同年配の有名な住谷悦治元総長の子息の住谷啓教授もおられたのですが、なぜか、主には小倉教授の指導を求めることが多く、小倉教授は、事実上、京都市の福祉政策における学者ブレーンとなっていました。小倉教授は、京都府に協力的な学者層の一員でもあり、行政には極めて積極的な働きかけをする人でした。
 ここで、福祉の学者ブレーンにわざわざ触れるのは、実は、この福祉の学者ブレーンが、福祉を超えて、京都市政全般へのブレーンに転化していこうとしていた状況があったからです。

●革新市長とブレーンの設置
 革新市政の場合、我が国に新しい民主主義を自治体改革を通して実現していこうとするため、特徴的な大都市で、市政の基本的な方向付けなどをめぐって、学者ブレーンを活用することが多かったのです。例えば、横浜市の飛鳥田市政では鳴海正泰氏、神戸市の宮崎市政では高寄昭三氏、美濃部都政では都政調査会の小森事務局長などが代表例で、いずれも市政や都政の基本デッサンにかかわり、革新市政の展開に大きく寄与していました。また、特定の市ではなく、関東地方を中心とした革新自治体の理論の構築やまたその延長としての実践に、政治学の松下圭一氏をはじめとする多くの研究者や実践家が活躍されていました。ただ、横浜や神戸市の場合、ブレーンとはいっても、それは、外部の学識者の導入ではなく、元々職員であった人材の中から、横浜市では、政治行政の研究者、神戸市の場合には財政学の研究者を抜擢し、活用されたようです。京都市の場合は、こうした傾向とは少し違っていたようです。

●「福祉の舩橋」市政のブレーン
 高山市政や富井市政では、突出したブレーンはなかったようです。高山市政では、職員の中に各分野の実力者があり、その必要性がなかったのでしょうが、末期になって、八杉市長公室長が若手学者によるブレーン構成を試みつつあったのではなかったかと思っていました。富井市政では、富井市長の出身母体の京都府保険医協会の小井事務局長が、ブレーンといいうよりも側近としての辣腕を発揮していました。ただ、蜷川府政にかかわっていた学識者の中には、京都市政のブレーンたろうとする自薦者は多かったのではなかったかとも思いますが…。
 舩橋市政になって、福祉が大きくクローズアップされてきて、元来福祉政策にかかわる分野での実質的なブレーンのような状態が生まれてきています。先に触れた同志社大学の小倉教授です。お叱りを受けることを承知の上で、まじかに見てきた者としてあえて言わせてもらえば、福祉学というものは、政治学、行政学、或いは財政学などと比較して、学問的な理論体系よりも、現実の行政そのものに埋没せざるを得ない性質を持っていて、行政と不離一体化し、ブレーン化しやすい土壌があったのかもしれないと考えたりしたものでした。いずれにしても、舩橋市政の根幹に福祉行政は座っていたのです。問題は、ここから派生します。
 福祉行政が、京都市政の根幹をなすことにより、福祉行政にかかわるブレーンが、京都市政全般にかかわるブレーンに転化するようになります。その契機が、京都市基本構想の策定作業の開始でした。そして、その条件が、実は市政調査会にあったようなのです。
 1976年、先に設立されたものの休眠状態にあった京都市政調査会が市労連と京都市との協議の上で、任意の独立した調査機関として発足しますが、その会長に同志社大学の小倉教授が就任されることになります。これにはどうも先に伏線があったようで、同志社大学の小倉教授と龍谷大学の舟場正富助教授(財政学)の二人は、かねてから京都市や労働組合に、京都市政にかかる調査研究機関の必要性を訴えておられたようなのです。この両者はともに、蜷川府政との関りにも深いものがありました。こうした経過から、学識者による会長と理事の職をこのお二人に依頼することになったようなのです。特に小倉教授は、従来から京都市の福祉行政とのかかわりも深く、福祉の舩橋市政にはぴったりの人選だったのでしょう。市政調査会は、学識者の研究サロンとして、各分野からの優秀な10人の研究者からなる「10人委員会」を設置し、このサロンを中心に運営していたので、特定する個人が突出するようなことにはならなかったのですが、行政サイドではそうもいかなかったようです。特定の学識者に依存する傾向は、実はこの時期が最初だったようなのです。
 市長との関係で小倉先生がいい、ということになると行政のどこもかしこも小倉先生を活用しようとします。同じく、市政調査会の学識者の常務理事であった市史編さん所の森谷尅久さんの場合などがそうで、便利に活用するものの、結局は度が過ぎて褒め殺しのような状況が生まれました。
 特に、小倉教授の場合、ちょうどはじめての京都市基本構想策定に着手する時期と重なったため、小倉教授を基本構想策定にあたっての調査委員会の代表にしようとすることになります。その場合、行財政部会を各部会の統括部会とし、その部会長に福祉学の小倉教授を充てようとしたのです。いかに福祉の舩橋市政とはいえ、行財政部会長に福祉学の先生をあてるということには、本当にびっくりしました。まして、同先生は市政調査会の会長であり、私はその事務局長ですから、これではあまりにも見識が疑われます。それで、本来提言はしても行政の内政干渉になるようなことはするべきではないと心していたのですが、これだけは承知できないので、当該担当局長に、行財政部会長は、行政学ないし財政学の学識者にすべきであり、いかに同先生が市政調査会長であろうとも福祉学の先生をこれに充てることは止めてもらいたいと強く申し入れたのです。その結果として、行財政部会は、本来の専門部会の一つとし、その部会長には行政学の村松赳夫京都大学教授に就任願うこととなったのです。全体の統括には各部会長からなる小委員会を設けることとなり、この会長には小倉教授が就任することになります。福祉のブレーンが、市政全般のブレーンになるまさにこれが契機だったのです。ただ、問題は、さらにここから展開していきます。
 その前に、舩橋市政における福祉の脅威について触れておきましょう。文化行政に関してです。

●「福祉市政」の脅威●「福祉市政」の脅威
 舩橋市長が誕生して、「福祉の舩橋」が市政の看板になります。それによって、市政の従来施策も福祉施策との関連で衣替えをすることがままあります。そしてこうしたことは、市行政ではよくあることでした。例えば、富井市政です。富井市政は、「暮らしと健康を高める」市政が大看板です。すると、各局の事業が、中身が従来のままでも、その事業の冠にその「暮らしと健康を高める」事業として予算を獲得するのです。このように、事業内容を改めるよりは、事業の冠を新たに付け替えるという傾向があるんです。ところがです。大変驚いた経験がありました。文化行政に関してです。
 市政調査会の政策活動の最初として、京都市政ではやはり文化政策であろうということで、文化政策に関するプロジェクトを学識者と有意の行政マンとで組織して文化政策に関する提言をまとめ、当該政策の担当局である文科観光局長にその提言を提出して説明したのですが、その席上のことなのです。驚くべきことに、当該局長は、自ら所管する文化政策を積極的に進めることは、福祉の舩橋市政に申し訳ない、とのたまわれたのです。舩橋京都市政は、あくまで福祉施策を重視して進めるべきであるというのです。民生局長が他の部局にそのようにいうのは理解できますが、いかに当該局長が民生畑出身であっても、文化政策を所管する局長が文化政策に責任を持たずして、誰が文化政策をすすめることができるのか、ということになります。ただ、あぜんとするばかりでした。福祉の舩橋市政のまさしく脅威なのです。昨今の「忖度」どころの騒ぎではありません。ただ、当該文化担当局長の名誉のために若干付言しますと、実はそのころに、スポーツ行政と文化政策に関して、それなりの検討プロジェクトが転がされていて、のちに、スポーツ行政では地域体育館、文化行政では地域文化ホール建設の構想が固まり、それらは順次具体化していくのです。ですから、あくまで精神論の領域のことですが、まことにもって、行政というものの恐ろしさを知ったものでした。市長の看板や政治の動向には、ホント、役人は弱いものなのですね。地方公務員法で身分が守られているにもかかわらずです。
 
●京都市基本構想策定作業と市政調査会
 京都市基本構想策定に当たっては、まずそのためのワーキング組織として1979年に京都市基本構想調査研究会が学識者によって組織され、先ほども触れましたように、その会長に小倉教授が就任することになるのですが、この小倉教授は市政調査会の会長でもあるわけです。またそればかりではなく、市政調査会の十人委員会の先生方の多くが調査研究会の有力メンバーとなるのです。ただこれは、市政調査会が仕組んだのではなく、結果としてこのようなメンバー編成となったのです。ですが、そうなった以上は、市政調査会も知らぬ顔をしているわけにはいかず、京都市基本構想の策定はどうあるべきかのプロジェクトを立ち上げる一方、折々の十人委員会で、基本構想策定にかかる情報交換なども行うことになります。十人委員会では、市政のすべての問題が、異分野の学識者による多面的な角度から検討されることになる、大変ユニークな場となっていたのです。
 ところが、基本構想調査研究会には、インフラ整備を中心としたハード部門の学識者と行政のあり方や行政施策を中心としたソフト部門の学識者があり、この両者は、通常あまり交流はなく、行政の総合施策では、この両者の密接なかかわりが必要となってきます。
そこで、市政調査会の場ではソフト部門とハード部門との対立のようなものはなく、きわめて良好なチームとなっていたのですが、基本構想調査研究会の場では、京都大学の土木工学の権威ある教授とわが市政調査会長である小倉教授とがどうも対立関係となり、これも市政調査会の森谷常務理事がその間に立って苦労されていたようなのです。その対立の生じる原因は、両者の行政に対するスタンスの違いにあるものと思われました。それは、ハード部門の学識者は、インフラ整備構想を相互議論するよりも、自らが請け負うがごとく作成してしまわれるので、それを多面的に議論するということは事実上できなくなってしまうのです。そして、こうした傾向は、技術部門では、当時多くのところでこのような状態ではなかったかと思います。他方のソフト部門の小倉会長は、革新市政というものに対する気負いもあって、また、自分が最高責任者であるという自負もあり、基本構想策定における市民参加、職員参加による議論を積極的にしようとされるわけです。加えて、小倉会長のスタンスも、従来からの行政への深入りからか、事務局の内部作業に介入するような状況も生まれ、両者ともに、行政に対する学識者のかかわり方に問題があったがために、ぶつかり合う可能性が高かったのでしょう。これには、行政自身が、学識者との関係の取り方、行政の責任の所在といったことに十分な自覚がなかったこともあずかっていたのでしょう。学識者同士の対立状況を高めるのではなく、行政がその中にあってそれぞれに意図するところを了知できるようにしなければならないのです。
 こうしたことから、市政調査会事務局長であった私としても、そうした状況を放置できず、また、絶えず小倉会長や森谷常務理事から不満や相談を持ち掛けられていて、そのために、基本構想策定事務局とも頻繁に情報交換して、事態がうまく進むように努力をしていたのですが、最終的には、会長の行政内部への干渉が行き過ぎる状況となったことから、やむなく、市政調査会を一時閉会し、小倉教授の発言力のベースとなっていた市政調査会長の立場をなくし、基本構想策定作業の進行を早め、何とか策定を終えることになったのです。ただ、その過程で、行政職員の犠牲者が生まれました。それは、策定事務局の責任者である企画室長で、同氏は都市計画行政の実力者と目されていたのですが、ついに自ら辞職するに至ったのです。痛ましい思いをしました。
 ことほど左様に、京都市として初めての総合計画策定作業は、多くの問題と教訓を残しましたが、そのなかでも、学識者と行政のかかわり方、責任の所在のありかたは、以後にもかかわる重要な事柄でした。京都市の福祉のブレーンは、こうしてつぶれていったのです。

●福祉の諸施策
 「健康と暮らしをたかめる」富井市政を継承した舩橋市政は、自らも細やかな福祉施策を展開しますが、その最大の特徴は、その個々の細やかな施策だけではなく、それらを総合的な体系としてまとめあげ、計画的な行政施策としたことでしょう。そしてそれをすすめるにあたっては、福祉の風土づくりとして、市民とともに市民運動としてすすめつつあったことでしょう。これが、先にあげた「健康と福祉に関する総合的計画体系のあり方」でした。1973年2月には「福祉の風土づくり”京都宣言”を発表し、11月には「福祉の風土づくり推進協議会」が設置されています。
 ここで、細やかな福祉関係施策の一端を紹介しておきましょう。
 まず、行政組織としては、市長就任直後の1971年7月に老人福祉課、再選後の78年4月に勤労者・婦人対策室を設置し、老人福祉や婦人対策(現在の女性対策)を積極的に進めようとしています。
 個々の特徴的な施策としては、就任直後の1996年8月に「市民しんぶん」の点字版と弱視版の創刊、1975年10月からの在宅重度心身障害者に対する福祉手当の支給や身体障害者等への「福祉乗車証」の交付、77年11月身体障害者運転免許取得助成制度、さらにその翌年には4月に精神薄弱児通園施設「空の鳥幼児園」開設、6月に身体障害者リハビリテーションセンター開所、1980年7月には重度心身障害者医療費支給制度実施など障害者に対する施策が次々と実施されていきます。
 また、休日診療としては、1972年3月に急病眼科診療が初の休日診療として開始され、翌年1月に急病小児科診療所が、79年3月には急病内科診療所が2カ所開設されるなどの整備が進められています。
 1973年11月に敬老乗車証による70歳以上の老人の市電市バス無料化、74年2月に65歳以上の老人の医療費無料化と老人福祉員の設置、1977年1月にはねたきり老人介護見舞金の支給開始、さらにその翌年6月には中央老人福祉センターの開所、9月にはねたきり老人短期保護事業、79年10月ねたきり老人訪問介護制度実施など老人福祉施策が充実していきました。
 こうした福祉施策の充実傾向に対して、1980年頃に確か文藝春秋だったと思うのですが、「革新自治体の光と陰」或いは「革新自治体の栄光と挫折」だったかの表題の記事がでました。この記事では、折からの景気の停滞による自治体財政の悪化の主たる原因が、革新自治体の福祉経費と職員の人件費にあるとして、福祉と人件費の削減を主張するものであったと記憶しています。それで、私は、どこかでこれに対する反論のようなものを書いたように思うのですが、どこを探してもそれらの文書がないのです・・・・。がいずれにしても、この辺りから、革新自治体に対する、或いは、革新自治体の福祉施策に対する攻撃がはじまるのです。いったんは、革新自治体の先進的な福祉行政を、国の方でも追随して充実する方向に動いていたにもかかわらず、1980年代になると、行財政改革が重要な課題となってきて、それと反比例するような形で、福祉と革新自治体の後退が進行するようになったのです。そのような状況から、京都市の舩橋市政は、福祉行政の絶頂期であったのではなかったかと思います。

>>>よばなし・余話し<<<

 全国革新市長会

 1963年4月の第5回統一市長選挙で、政令都市の横浜市をはじめ、革新系市長が十数市で誕生します。これは、経済の高度成長と国土開発の波による都市の拡大と都市問題の発生がその背景としてありました。
 そこで、横浜の飛鳥田一雄市長の呼びかけで、戦後叢生してきた革新市長の市長同志の交流の場として22の市長でもって結成され、飛鳥田市長を会長として、当初は横浜の試みを多くの都市が学び、参考としました。京都市に革新市長が誕生したのはその4年後の1967年で、京都市長選挙は2月でしたが、その年の4月には第6回統一地方選挙があり、そこで、東京都に美濃部亮吉知事が誕生したほか42の都市で革新市長が当選し、一躍革新自治体が政治上の重要な問題として浮上してくることになりました。
 この時期、美濃部東京都知事を加えて、革新市長会の活動は活発化し、また、政令指定都市も軒並み革新系市長を誕生させます。これによって、東京都を加えた大都市と革新市長会が、地方自治を国政上の重要課題にしていくことになるのです。
 地域民主主義、市民福祉、シビルミニマム、対話行政→対話から参加へ、自治体改革、超過負担問題、都市公害など都市問題のひずみの解決、都市における人間の復権、婦人の地位向上、情報公開など多くの課題提起とその解決に奮闘しました。
 しかし、高度成長の停滞以降、1980年代には福祉の後退と、地方自治体の活力が都市から府県へ移行するなかで、以後都市部の勢いは失われていきました。いかに「地方の時代」と呼称しても、やはり、地方自治は基礎的な自治体に活力がなければなりません。1970年代を中心とした革新自治体の時代を、今一度じっくりと振り返ってみる必要があるのではないでしょうか。ただ、一言付け加えておくと、我が国に戦後初めての新しい民主主義をつくりあげるのだという”熱いもの”がこの時期の革新自治体運動にはあったということです。このような熱い思いは、今の政治状況からはなくなってしまったのでしょうか。
 ここに、革新自治体に関する、基礎的な文献を紹介しておきましょう。
1.革新自治体の始まり 飛鳥田横浜市長など
・横浜市『横浜市 市民生活白書 41』横浜市 1971年11月
 第2回目の白書 飛鳥田市政4年の報告
・飛鳥田一雄編著『自治体改革の理論的展望』日本評論社 1965年12月
・飛鳥田一雄編著『自治体改革の実践的展望』日本評論社 1966年1月
・松下圭一『シビルミニマムの思想』東京大学出版会 1971年3月
・松下圭一責任編集『市民参加』東洋経済新報社 1971年12月
・鳴海正泰『都市変革の思想と方法』れんが書房 1972年12月

2.地方自治センター 全国革新市長会
 *地方自治センターは、全国革新市長会の事務局として、情報交流や発信のために1965年4月に設置された。定期刊行物として『地方自治通信』を刊行。舩橋市政下では京都市からも職員の出向がありました。
・全国革新市長会、地方自治センター編『資料 革新自治体』日本評論社 1990年7月
・地方自治センター編『自治体革新の政策と構想 「地方自治通信総集編」上、下』公人社 1989年4月

3.その他学識者の参考文献
 *磯村英一氏の論考からは、革新市政創生に至る社会経済的な状況が理解でます。
・磯村英一『人間にとって都市とは何か』日本放送出版協会 1968年12月
・磯村英一『地方の時代』東京大学出版会 1980年4月

3.都市公害・環境への挑戦

●市民ぐるみのまちづくり運動として
 市民参加を呼び掛ける富井市政を継承した舩橋市政の骨格は、やはり市民参加を市政のベースにおくものでなければならなかったのですが、しかしです。富井市長のやり方は根っからの行政マン上がりの舩橋市長の体質にはなじまないものだったのです。そこで考え出されたのが、行政と市民とが一体となった形での新たな市民運動の形だったのです。市民の直接参加を促すのではなく、行政が市民を包み込んでいく運動なのです。「ぐるみ運動」とすることで、市民運動の厳しさを緩和することになるのです。こういう解説は、もちろんのこと、当時は行われませんでした。これも、富井市政での、市民の直接的な市政参加を促すやり方を踏襲しつつも、より緩やかに、やや官製の市民運動的な装いにすることによって、政治的な対立状況を回避していこうとしたものなのでしょう。
 そして、その中身は、公害問題と都市緑化でした。そしてこの課題は、都市公害の進行していた当時の大都市には極めて大切なもので、それを市民運動として対応していこうというもので、富井市政の継承課題として、多くの市民の共感を得たものでした。

●「公害のない緑豊かな住みよいまちづくり」市民ぐるみ運動
 舩橋市政は、舩橋市長が民生畑のベテランであったことから、「福祉の舩橋」がクローズアップされてきましたが、実はそれにとどまるものではありませんでした。市政運営の基本姿勢は、「人間尊重、市民本位の市政」で、市民のくらしを守る市政に置きつつ、具体的な施策の主軸に、「公害のない緑豊かな住みよいまちづくり」を置き、都市公害解決への対応姿勢を明確に位置付けていました。そこには、富井市政の下で芽生え、今日の環境問題への取り組みにつながるものがあります。観光公害や、空き缶条例問題など、後で触れる大きな問題と共に、建築景観問題などへの先駆的な取り組みもありました。そしてこれらは、今川市政に引き継がれていくのです。
 まず、緑豊かな都市づくりでは、百万本植樹運動を市民ぐるみ運動として推進します。そして、そのシンボル的な事業として、親しみやすい「京の花と木」を市民投票で決めます(1972年4月)。この運動推進組織は、市役所全庁的な組織とその下での各区役所組織、そして関係市民団体を包括した全市民的なものでした。こうして、宝ヶ池や円山公園などにおける「市民の森」、各区における区民の「記念の森」植樹をシンボルとして全市的な植樹運動を展開することになります。そして、この百万本植樹は、今川市政の1981年に達成されることになります。そしてまた、田辺市政における、梅小路自然公園の造成も、この思想の延長線上にあるものといえるでしょう。

●都市公害への挑戦
 そもそも都市公害の問題は、革新自治体が全国的に誕生してくる基本的な要因でした。高度成長経済の下での無秩序な都市化の進展と深刻な交通問題などの発生は、大都市を中心とした革新自治体の誕生を誘発したのです。そのため、京都市と東京都に革新首長が誕生した、すなわち、京都市に富井市長が誕生した昭和42年の6月、これも誕生したばかりの東京都の美濃部知事をはじめとした大都市の市長が、都市交通問題を話し合うために京都に集まり、大都市首長会議を開きます。そしてこの大都市会議は、昭和48年から定例化され、その第1回は京都市で開催され、以後各都市を回り持ちに、昭和51年には再び京都市で第6回目の会合が持たれています。この7大都市とは、東京都と川崎、横浜、名古屋、京都、大阪、神戸の6政令都市です。この時には、東京都も6政令都市と都市としての課題を共有し、ともに国政にたいして問題提起をしていたのです。東京都も、都道府県の行政レベル以上に、大都市としての政令市との問題の共通性を理解していたのです。そして、舩橋市長は、この7大都市首長懇談会には主導的な役割をはたしていたのです。
 このように、富井市政以来、都市公害に対する取り組みは重視され、舩橋市政になってさらに充実しくいくことのなります。すなわち、富井市政下で、それまで環境衛生の中でしかなかった公害問題は、専門のセクションとして確立されて公害行政が始められますが、早くも舩橋市長誕生直後の昭和46年7月に公害対策室が設けられます。そして、翌年には11月にマイカー観光拒否宣言、12月に公害防止基本計画を策定、その翌年昭和49年7月には、環境保全基準を告示するに至ります。そして、昭和54年1月には公害センターが開設されます。さらにその翌年9月には東清掃工場と石田下水処理場の開設、そして空き缶問題への挑戦とつながっていくのです。空き缶問題については、この後に触れることにします。

4.市電の縮小→廃止と地下鉄建設

●車社会への対応
 戦後経済の復興後の経済成長と国土開発は、都市部、とりわけ大都市部の拡大発展をもたらせます。そして交通手段としては、新たに自動車が急速に普及し、これが経済活動と個人の行動範囲を広げることになりますが、そのことが、都市を、一方では周辺部への拡大を、そしてその反作用として都心部の空洞化をもたらせ、ここに交通問題は新たな局面に直面することのなりました。
 都市への人口の集中は、都市周辺部への都市化の拡大による新たな交通手段の確保、都心部においては、人口の減少に加えて車社会の到来とともに路面電車の運行に困難をきたし、結果、路面電車の乗客数が急激に減少し、その経営が立ち至らなくなってきたのです。そして他方では、郊外地と都心部とを結ぶ新たな交通手段の開発が必要となってきて、これが、京都市においては、地下鉄建設ということになってくるのです。
 こうして、都市化による都市の拡大発展と車社会の到来は、まず、市電の経営を直撃することになります。そして、市電経営の行き詰まりとその後の交通手段にかかる問題は、高山市政末期から現在に至るまでも京都市政における最大の難問となっているのです。

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 交通戦争−交通事故死者数が、日清戦争の戦死者数を上回る

 車社会の到来が進行して、市電が行き詰まりを見せだした昭和38年ごろには、交通事故が増えて、交通戦争が深刻化したといわれるようになります。それには、交通事故による死者数が急速に増えるという問題がありました。すなわち、昭和25年に4,202人であった年間死者数は、昭和30年には6,379人に、そして昭和35年には12,065人、36年には12,865人と急増します。この死者数は、明治27−28年の日清戦争の戦死者数13,000人に匹敵する数です。戦後「平和日本」のはずの日本で、平和のうちに戦争に匹敵する死者が交通事故で毎年生じるようになってきていたのです。車が動かない、市電が動かないという交通難の問題だけでなく、こうした由々しい状態が生まれてきていました。
 交通事故死者数は昭和45年の16,765人をピークに以後は減少に転じます。とはいいながらも概ね1万人前後で推移します。その後多少の増加もありましたが、平成7年ごろから漸減に転じ、近年では4,000人前後となっています。これらはいずれも単年度の数字で、1960年から2000年までを累計すれば、大雑把に見て、実に5〜60万人の死者を出しているのです。何もない平時でこれだけの死者を出す車社会というものは大変な問題を持っているのです。しかも問題はこれだけではありません。

 際限のない道路の延伸と軌道の駆逐

 車社会で駆逐されたのは実は市街の路面電車だけではありません。1980年代における中曽根内閣の第2臨調で、それまでの全国津々浦々まで張り巡らされていた国鉄(日本国有鉄道)は、6つの地域に分割民営化されました。そして、このときに、田舎の不採算路線は切り捨てられ、そのうちのいくつかは地域の自治体が核となって細々とその路線の継続を図るという程度となったのです。これが、地方の過疎化を促進したのはいうまでもないことです。現在、JR北海道が苦しんでいるのも同じことでしょう。
 これには、先にその前史があるといえます。1970年代における田中角栄による日本列島改造による道路の建設です。今度は、全国津々浦々まで、立派な道路が整備され、全国どこへでも車で快適にいくことができるようになりました。そしてそれは、人の移動だけではなく、トラックによる物資の輸送を促し、レールによる貨物列車を追い落としていくことになったのです。主要ターミナルにおける貨物ヤードはどこも不要となり、そこに新しい駅前再開発の拠点が建設され、あらたな利便を生むようにもなりました。
これらは、新たな自由化、民営化の波の中で、その成果を表す代表例として評価されるようになりました。が、しかし、です。ここで考えなければならない最も根本的にして本質的なことがあるのです。車と軌道との関係は、この問題を提起しているということなのです。
 車は、いわば個の便益です。軌道や列車は集合の利益です。個の利益優先は、最初はいたって快適ですが、その個が増えだすと、軌道・列車を圧迫し、集合の利益を破壊し、さらに進行すると個自体が飽和状態となって、すべてが行き詰まってきます。そして、改めて公共的な集合の利益が見つめ直され、個と習合の利益との調整が図られることになるのです。
 自由化・規制緩和は、最初はいいような気がしますが、やがて過当競争からそれぞれのインフラが軽視され、人件費も抑えられ、社会全体が不安定になってきます。資本主義の「見えざる手」に導かれた自由競争は、帝国主義競争と世界戦争にまで発展たという極めて大きな負の経験を人類はしてきました。規制のない自由競争の行き着く先をわたくしたちは見極めて行動する必要があるのではないでしょう。地球はすでに、有限の球体となっています。このような問題に関しては、いずれ別に触れたいと思いますが、舩橋市長の「マイカー観光拒否宣言」や「空き缶条例」問題は、こうした文明論的な挑戦を、ある程度自覚的に打ち出したものであったと思っています。
 個の利益と全体的な公共の利益との調和のとり方を考える必要があるのです。人間は、人類として「類的存在」としての生命群です。人類はまた、諸生命群の中の一つとして地球上に存在しているのです。地球温暖化の問題をとっても、それは物質間の調和が崩れてきた問題なのでしょう。
 車が増えすぎることによって、今度は、集合体としての公共的な軌道や列車が便利で経済合理性にかなうようになってきています。企業活動の個別利益の集合体が、逆に不都合を醸し出す問題に対して、今日、公共的立場からの調整が待たれているのではないでしょうか。

●マイカー観光拒否宣言
 マイカー観光拒否宣言は、舩橋市政スタート2年半後の、1973年11月に市長の宣言として発せられました。これを準備したのは、京都観光会議で、その顔触れは交通工学の天野光三京大教授、都市建築の上田篤京大助教授、歴史学の上田正昭京大教授、社会学の加藤秀俊元京大助教授、観光論の玉村和彦同大専任講師など今見てもそうそうたる学識者などで構成されていました。これが組織されたのは1970年の大阪万博が終了した直後の9月19日で、その報告書が提出されたのは舩橋市長誕生4カ月後の1971年6月でした。そして、この事務の所管は、文化観光局で、その局長は、のちにも触れる仕事師の木下稔元経済局長でした。そして、舩橋市長の宣言に至ったのは、次の市長選挙の1年余り前のことでした。木下局長は、その後経済局長に不死鳥のごとくよみがえり、後任の文化観光局長には、この当時衆議院議員となっていた竹村幸雄の兄にあたる竹村実氏が就任していました。舩橋市長と武村代議士、木下局長という、舩橋市政を支える権力の一つの流れがありました。
 それはさておき、マイカー観光拒否宣言に至るには、その前提として、京都市への入洛観光客の数が、すでに飽和状態にあるという危機感があったのです。その数は、3千300万人でした。京都市のキャパシティーからいって、4千万人にでもなれば大変なことだという認識があったのです。今日の5千万人を超える数からすると、その認識の差、危機意識の差に驚かされるでしょう。そして、その観光客数の増加の一因に、到来していた車社会による、マイカーでの入洛観光客数の増加が、市内中心部での交通混雑によって、日常生活への障害が顕在化していたのです。そのため、観光会議の報告書は、そのサブタイトルに「呼び込み観光との訣別」を掲げていました。この時すでに、観光客の量の拡大による観光公害と自動車の増加による車公害、マイカー観光によるその促進により、京都の観光と京都市民の生活が危機にさらされてきているという強い危機感があったのです。マイカー観光拒否宣言そのものは実効性を持たなかったとはいえ、その強い危機意識には、今日でも学ばなければならないと思います。果たして今の京都市政に、数十年に及ぶ長期の見通しの中で、今現在ではなかなか多くの賛同が得られない対応の問題であってもそれを打ち出し、強く推進していこうとするだけの見識と意欲がどれだけあるかを謙虚に考えることも必要なのではないかと思ったりします。
 観光公害の問題では、高山市政の晩年の1965年に、当時の企画局長が、当時まだ若く、新進気鋭の学者であった林屋辰三郎立命館大学教授と梅棹忠夫大阪市立大学助教授に聞く形での座談会が、八杉市長公室長もオブザーバーで加わって行われ、それが『ひろば』NO.21に掲載されています。そこでは、すでに京都は観光で滅びるという危機意識がだされ、京都は、観光でではなく、歴史や学術に裏付けられた文化産業と新たな美術や音楽のメッカづくりなどが強調され、産業か観光かではなく、文化都市づくりが結果としての本来的な観光につながるという問題意識が示されていました。当面の経済的利益の享受に振り回されている現状を見るとき、このように、過去の京都市の歩みの中における、2度の節目、1965年と73年の危機意識と将来への打開策への意欲に、深く学ぶ必要性があるのではないでしょうか。舩橋市長は、マイカー観光拒否宣言のときすでに、「”テクテク”ノロジー」も打ち出していたのです。

余話
    京都市の文化開発とマイカー観光拒否宣言

 1965年1月の庁内紙「ひろば」で、「京都市の設計と文化開発−企画局長が京都の文化人に聞く」と題して掲載された座談会、および1973年11月の「マイカー観光拒否宣言」の内容の一端を以下で紹介しておきましょう。

●「京都市の設計と文化開発」1965年1月の京都市庁内紙「ひろば」No.21から
 これは、斎藤正企画局長定年退職に伴い、建設省からその後任として企画局長に来ておられた島村忠男局長が、これも斎藤正氏が策定した「京都市総合計画試案」を受け継ぎ、時の近畿圏整備計画に合わせて、京都市の将来計画を立てる準備段階で、文化開発について、学識者の意見を聞くための座談会です。
 ここで、市として、工場誘致や新たな住宅建設を中心とする南部開発や北部都心地域の文化開発などの考え方を述べ、これに対して、林屋辰三郎教授と梅棹忠夫助教授がその考え方を展開したもので、現在京都市が直面している課題に、まさに応えているものです。
 両氏からは、京都市の北部保存と南部開発や、産業や文化、居住空間など土地利用の純化政策への傾斜に対して、京都にあっては、産業と文化は一体的なもので、町衆を起点とした市民の伝統的な産業活動がすなわち文化であり、産業と文化とを別のものとしてとらえるべきではなく、南部にもまた歴史的に重要な文化が存在しているとの指摘、これからの京都の産業も、文化と学術の中から生まれ育っていくものであるという趣旨の考え方が語られています。林屋教授からは、「ほんとうに京都というところは、分かちがたい形で、いろいろな要素があ」り、それが「文化的な産業となってい」て、「ここはこの地域、ここはこの地域いうふうにやるのは、ものすごくまずい」、京都というのは「すべてがとけ込んでいるところに、またよさがあるあるわけです。」との強い指摘が、梅棹助教授からは「工場は南へ置くという考えかたでは、将来たいへんな禍根を残す」、「産業と文化は別だという考えは、極めて危険」で、「はじめから、産業そのものが実は文化であり、文化が産業だという、1本の考え方でいかなければならぬのじゃないか」と述べられるのです。
 そして両氏と、島村局長のともに一致していたのは、当時において、「今の観光は、市を滅ぼす」(島村)という認識で、梅棹氏は「国際文化観光都市」から「観光」を外して「国際文化産業都市」に変えなければならないとさえ述べるのです。京都においては、観光は目的とする産業なのではなく、文化産業の結果だという考え方です。数年後の京都市観光会議の「呼び込み観光からの決別」に結びつく考え方です。

●マイカー観光拒否宣言
 この宣言は、舩橋市長が1973年11月5日に、市長として宣言したものです。そして、その発案は、1971年6月の有識者による京都観光会議の報告書です。そのタイトルは「10年後の京都の観光ビジョン―呼び込み観光との訣別―」です。その中の提言6で、「マイカー観光拒否宣言」をしなければならないと提言しています。その内容は次の通りです。

   提言6 現代においてはマイカーでくる観光客の激増に対処することが、いわゆる観光公害から市民を守る緊急な課題で   ある。市民の日常生活を守り、恵まれた自然とぶんかざいが織りなす環境を守り、さらに観光客が京都の良さを真に理   解できるためにも『マイカー観光拒否宣言』をしなければならない。そのためには、マイカーでの市内観光が困難な状態   と、マイカーで来なくても京都の観光ができる受け入れ態勢とを確立しなければならない。

マイカー観光拒否宣言の内容(主要部分)

    いま、この京都のまちは、汚染と荒廃の重大な危機にさらされています。このままでは、京都は死んでしまいます。
    われわれ京都市民は、貴重な国民の共有財産を、さらに、市民生活の安寧を守るために、マイカー観光を拒否するも   のです。「マイカー観光拒否」は、もとより「観光拒否」ではありません。反対に、ひとりでも多くの人が京都にこられること   を歓迎し、そのために、できる限りの便宜を提供する用意があります。しかし、マイカー来訪者には、快適で便利な観光   を保障することはできません。
    われわれは、京都を守るために、できるかぎりの措置と施策を追及し、実施する決意であります。その措置と施策は、   市民の健康と安全を守り、文化観光資源を保護すると同時に、マイカーでは得られない真の観光の楽しさと京都の”よ   さ”を味わせてくれるものと確信いたしております。

 そして、宣言の具体策として、市営観光駐車場のバス専用化や歩行者専用道の建設など24の具体策を掲げていました。


●動かない市電と経営の行き詰まり
 明治から大正、昭和と京都の都市発展を誘引してきた京都市営電車も、専用軌道でないだけに、一方では増加の一途をたどる車に運行を妨げられ、他方では乗客数の減少によって経営が行き詰まり、まず昭和36年には市電北野線が廃止されます。これは、その4年から5年前にかけて、市電下鴨線が開通し、今出川線が西大路まで延長して、最大の総延長になった直後のことでした。次いで、昭和45年には、わが国最初の市街電車の歴史を持つ市電伏見・稲荷線の廃止、さらにその2年後には千本・大宮線と四条線の廃止というように、地下鉄という代替え手段がまだない段階で、市電は順次廃止されていき、ついに昭和53年で全廃となります。この段階では、京都市にはまだ地下鉄は開通していなかったのです。主要な大都市で、地下鉄がないのは京都市ぐらいで、それだけ京都市の交通問題は深刻だったのですね。

●最終段階で専用軌道に(府警)
 ただ、この時に、最終段階で、憤りにも似た非常に非合理な思いを持ったことが今も忘れられないのです。市電路線が順次廃止されていく中で、最終的には、外周線が残ることになる。すなわち、北は北大路通、南は九条通、西は西大路、東は東大路で、この外周線の内側が京都市の市街地で、その外側はおおむね田園部ということになっていたのですが、都市化の進展は、この外周線を越えて、どんどん市街地化は無秩序に拡大していたのです。それはともあれ、市電の直接的な行き詰まりは、専用軌道でない市街電車で、その軌道上に際限なく車が侵入することによる運行の困難化にあったのです。京福電車は今でも市街地を走り続けていますが、それが可能なのは専用軌道で、車は軌道内には侵入できないからなのです。ことは、そのことです。すなわち、市電の外周線もいよいよあと2年ほどで廃止となってきた段階で、府警は、外周線の軌道を、専用軌道にしたのです。それにより、市電は全面撤去を目前にして、スイスイと走るようになります。当然のことです。まるで、ブラックユーモアのようですね。ではなぜ、もっと早くから市電軌道を専用軌道にしなかったのかということです。これなどは、府と市、府警と市との行政の違いによるものでしょう。交通行政が京都市の領域でないことの問題点をいかんなく示していたものだと思っていました。

●保革を超えた、難問としての交通問題
 はやくは、高山市政の後期にさしかかった昭和38年ごろには「交通戦争」が深刻化したといわれていて、交通事業も赤字が膨らむようになり、ついに財政再建団体の指定を受けるべく再建計画を策定することになるのです。まず高山市政下の昭和39年2月に市交通事業審議会が設置され、また誕生直後の井上市政下の昭和41年4月に市交通事業財政再建審議会が設置されますが、翌年1月に井上市長が急逝、その直後の1月19日に審議会答申が出されるものの、この市長急逝とその後の市長選挙による保革の逆転によって、この答申はボツになってしまいます。しかし、交通財政の再建は必須の課題であり、富井市長のもとでもその早急な対応を必要としたものの、与党少数の市議会情勢から、富井市長の提案はなかなか受け入れられず、富井市長も市長誕生直後から交通再建問題に苦しむことになるのです。そして、昭和42年11月ようやく市電・市バス運賃値上げ案と一体の財政再建計画案が市議会に可決され、同月に自治大臣の承認を受けるに至ったのです。
 これによって、かつては、市電事業は京都市の財政的なゆとりをもたらせていたものが、いまや、京都市の起債によって助けられる状況に逆転したのです。

●地下鉄建設の動機:交通対策か財政対策か 
 当面の累積赤字を、財政再建計画によって京都市の起債を受けて助けられたものの、根本的に市街地の路面電車が立ちいかない状況にどう対応するかという問題があります。
 昭和43年4月に設置された市交通対策審議会は、翌年1月に地下高速鉄道、いわゆる地下鉄建設を必要とする「将来の交通体系」を答申し、ここに地下鉄建設への歩みが徐々に、徐々にというのは所詮京都市には財源がないので…、始まることになります。
 地下鉄建設は、昭和46年12月国の都市交通審議会で了承され、翌年2月にその建設が市議会で可決、さらにその翌年昭和48年11月に高速鉄道本部を開設し、ここに地下鉄建設事業は本格的に開始されることになります。
 さてそこで、面白い議論があります。京都市における地下鉄建設を着手したのは、果たして交通対策なのか財政対策なのか、という問題です。このことは、市政調査会が行った1977年3月のシンポジウム『革新京都市政10年の歩みと今後の展望』で、元民生局長で、理財局長も経験した元幹部職員が、その点についての戸惑いが当時の関係職員の中にあったことを明らかにしているのです。

●借金は起債で、地下鉄は掘り続けなけらばならない!
 そもそも、市電の撤去と地下鉄建設は、本来的な都市交通のあり方を長期的な視点から根本的に導き出したというよりかは、都市問題の最大の問題として、交通混雑と公営交通財政、すなわち公営交通経営の危機に応じる形で、行き詰まった市街地電車を撤去し、それにより失われた都市民の足を安定的に確保する唯一の手段として、地下鉄道の建設に着
手したものにほかありません。すなわち、圧倒的な車社会の到来への対応に飲み込まれ、また、破綻する交通財政の対応に追われてしまっていたのです。ですから、市電の累積赤字解消のための市電撤去を盛り込んだ交通財政再建計画による再建債の発行、地下鉄建設に必要な財政資金の起債による確保によって、都市交通財政の切り盛りをしている現状の苦しさがあるのです。経営的に市電は撤去せざるを得ず、市営地下鉄は、起債という借金でもって建設するために、地下鉄の建設路線の延長は、極めて短いもので、烏丸線の京都駅から北大路までの路線だけでは、当然のこと採算ベースに乗るものではなく、新たな赤字が累積することのなります。巨額の投資を必要とする地下鉄は、その起債の返済期間には、本来100年位の単位が必要です。が、現実にはせいぜい2,30年程度の単位での返済期間ですから、建設着手の当座は、起債によって資金繰りを確保できても、たちまちその返済に迫られることになります。財政力の弱い京都市では、これは大変な難題で、東京や大阪のような地下鉄網を建設する力はありません。けれども、京都市の財政力を超えた地下鉄建設に着手した以上、結局資金繰りを確保するために、常に新たな起債を発行することの必要性に迫られ、期せずして、地下鉄は掘り続けなけらばならないということになるという指摘が、当時の財政関係の職員のつぶやきをよく聞いたものでした。
 2019年のこんにち、中心軸をなす地下鉄烏丸線は南は竹田から北は宝ヶ池まで、東西線は東は宇治の六地蔵、西は右京区の天神川までというように、都市の基幹的な交通手段として体裁がかなり整いつつありますが、それゆえに、地下鉄建設による京都市の財政問題は、その建設着手以来、大きな重荷としてのしかかっているのです。

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 最初の地下鉄

 わが国最初の地下鉄はどこでしょうか。やはり東京です。しかし、京都もそう遅いことはなく調査の開始は東京と同じような時期でした。、そして、関西では京都が最初でしたが、ただし、距離は少しだけです。東京、京都、大阪のそれぞれ最初の地下鉄は、東京が1927年12月に上野―浅草間開通で、これがわが国最初のもの、京都が1931年3月、京阪電鉄西院−四条大宮間が開通、大阪は、1933年3月、市営地下鉄梅田−心斎橋間の開通ということです。
 京都の地下鉄は私鉄で短いものですが、これは、計画では四条河原町までで、京阪電鉄の本線と接続するものでした。そして、この路線は、当初新京阪電鉄で計画実施され、直前に同社と京阪電鉄とが合併したもので、さらに戦時体制下の1943年10月に京阪電鉄と阪急電鉄とが合併、戦後の1949年9月に京阪と阪急とが分離し、現在のような状態となったものです。京阪神急行電鉄すなわち阪急河原町線の四条大宮から河原町駅までの地下鉄の延長が完成したのは、1963年6月のことでした。最初の京都の地下鉄開設の動機は、都市交通問題というよりは、国鉄山陰線との交差を回避することが主眼だったようです。

 第5節 文明への挑戦と計画行政の確立

1.舩橋市長の再選戦略と文明への挑戦

●舩橋市長の再選戦略
 舩橋市長は、政治家向きではなく、生粋の行政マンタイプと思われていましたが、なかなかどうして、地味な存在でありながらも、富井市政を継承しながらも、舩橋流の市政をしっかり構築していくし、また、再選、三選をはたし、いよいよ4選に向かっているときに倒病で、心ならずも終わることになったのです。
 それには、舩橋市長個人の思いや力量もさることながら、既成の支持勢力からだけでは考えられないような、何らかの底流があったのではなかったかと思われるのですが、そのあたりの問題はまた、おいおいと考えるとして、ここでは、舩橋市政の構築とその再選戦略に関しての、かなりの計画性に基づく戦略が働いていたように思われるあたりを考えてみたいと思います。すなわち、マイカー観光拒否宣言は再選への布石として、世界文化自由都市宣言は三選への機運づくりとして、そして、空き缶条例問題では4選への運動として、というように描かれていたようなのです。なかなかどうして、大したものなのです。

●マイカー観光拒否宣言と再選
 竹村幸雄は、社会党市議団の実力者として、舩橋市長擁立の立役者でしたが、この段階では衆議院議員になっていました。ここで、先に見ましたように、木下稔局長が、不死鳥のごとくよみがえって再び経済局長に返り咲きます。そして、その後任の文化観光局長に竹村幸雄の実兄である竹村実が就任します。木下稔局長が、富井市長誕生によって、いったんは美術館長に左遷されるものの、文化観光局長に復活し、そして、自分の立脚基盤である経済行政に返り咲いたのは、竹村幸雄との結びつきによるものだと考えられます。木下局長は元来は保守系の人物なのですが、権力志向が強く、革新市政の中では、竹村幸雄と結びつくことによってふたたび権力への道を歩みだしたのです。
 こうした流れからすると、マイカー観光拒否宣言は、舩橋市長の再選戦略をにらんだものということができます。が、同時に、これには「民生閥」を中心とした市役所OBの動向もかかわっているのではないかと思われます。そして、この市役所OBは、「京都自治経済協議会」を組織していて、これが京都信用金庫の支援を受けていたのです。筆者の農政局の元上司(次長、後中京区長)は、その理事?をしていたのです。また、舩橋市長再選への選挙体制に、一党に偏らないために、舩橋市長自身の選挙団体が、市役所OBによって組織されたのも特徴的なものでした。こうした舩橋市政におけるOBの影は、その後深まることになります。

●世界文化自由都市宣言と三選
 世界文化自由都市宣言は、その発想から宣言に至るまで、ことの重要性から考え、極めて異例であったと思います。まず第一にその発想です。福祉のベテランであることが売り物で、しかも、ちょうどこの時期には「福祉の舩橋」が全開で、全国的にも行き渡っていた時であり、しかも、当の本人はいたって堅物で、文化や世界が発想されてきたことの意外感がありました。まず、スタートは、1978年正月の京都新聞の一面トップに、舩橋市長の初夢として登場したのですから。意外感は、その内容だけではなく、ベテラン行政マンとしての行政内部の手順が踏まれない、あくまで、舩橋市長個人の初夢であったことです。当時の私も含めて、行政内部では自分たちには関係がないといった冷ややかな受け止め方が一般的だったと思います。ですから、初夢は初夢として、消えていくものと思われていたのですが、突如として具体化の道を歩みだし、なんと、その年の10月15日の自治記念日に、京都市の宣言として発せられたのです。実に驚きでした。
 そもそも、再選後の舩橋体制は、助役3人体制を確立します。同郷の盟友である今川正彦は、舩橋市政誕生直後から継続しており、加えて、一期目に就任していた岡本文之の任期が終わった後の1975年9月に総務局長であった鳥養健が就任、そして、1977年12月24日に3人目の助役として、木下稔経済局長が就任するのです。世界文化自由都市宣言への初夢はその一週間後です。この状況からして、初夢は、3助役との相談の中からというよりは、舩橋市長自身の行政の枠を超えたあたりからの発想であると思わざるを得なかったのです。

●空き缶問題への挑戦と4選への備え
 空き缶問題の最初は、京都最大の観光地嵐山において、常寂光寺の長尾住職ら地元住民の散乱ごみ対策から始まったもので、その運動を受けて京都市は、1976年7月に「観光地等ごみ処理対策協議会」を設置します。観光地ごみの中心がポイ捨てされる空き缶で、どうにも処理のできないその始末が問題だったのです。そして、この協議会は、空き缶追放の法制化の答申を翌年3月に行います。こうして、空き缶問題は、時と共に大きな問題となってきて、舩橋市長三選の翌年の1980年には、全国を揺るがす大問題に発展したのです。京都市は、その運動のために全庁的体制を敷き、管理職を総動員して対市民向けの街頭前伝を繰り広げるにまで至るのです。これは、まさに4選に向かう選挙運動のような様相を呈してきていました。そして、1981年1月には「空き缶問題」で、シンガポールに舩橋市長自身が視察に行くほどの気合の入れようとなっていました。が、舩橋市長がくも膜下出血で入院したのはその4か月後でした。
 空き缶問題は、市民運動が発端で、世界文化自由都市宣言への動きの始まりと同じような時期にスタートしていたのですが、三選後に問題は大きくなり、地元の小売店はおろかついに全国的なメーカーや通産省との対決にまで至り、その段階で、舩橋市長とその周辺は、「文明論」的な運動として決意を固めていったものといえます。その意味では、市民運動が市政を動かし、市政が市長を動かし、生産者や国を動かそうとする一大運動が展開していったものといえるでしょう。けれども、市長は病に倒れたのです。

●オール体制と市役所OBの選挙支援
 ここで、オール与党体制を実現することになった、舩橋再選時の選挙体制について、簡単に振り返っておきたいと思います。
 舩橋市長が、富井市長の後継者として当選することになったときの選挙体制は、富井市長の選挙体制そのものを受け継いだものでしたが、舩橋市長再選に当たっては、それとはまったく異なった選挙体制となります。これには、社会党と共産党との共闘の難しさがあり、結局、富井市長の選挙体制を継続することが困難になります。
 そこで、再選に当たっては、まず市役所OBによる舩橋市長の選挙組織が旗揚げし、その状況の下で、社会党が舩橋市長の中核政党であるとの行動をとる中で、各政党それぞれに個別に舩橋市長を推薦ないし支持することとなり、こうして結果としてのオール与党体制がつくられることになるのです。舩橋市長を実現したのは、社共による選挙体制で、富井選挙体制を継承したものでしたが、ここにその体制は崩れることになったのです。
 こうして選挙の確認団体は、市役所OBによる「明るい京都をつくる市民連合」で、その事務局長は、私のかつての上司で元農政局次長の堀谷正夫・元中京区長で、同氏は、京都信用金庫にかかる、京都自治協議会の有力メンバーでもありました。このあたりの問題はまた改めて述べてみたいと思います。そして、具体的な選挙事務所は、社会党なかんずく竹村幸雄が仕切ることによって、舩橋体制は、社会党を中軸として、各党が緩やかに舩橋市長を与党として支えることになったのです。共産党は、結果的には、推薦ではなく支持という形となります。そして、こうした選挙体制は、基本的には今川市長の選挙体制にも引き継がれることになります。

2.世界文化自由都市宣言への挑戦

●市長の柄を超えた命題
 先にも触れたように、どう考えても、舩橋市長のこの世界文化自由都市への初夢は、あまりにも舩橋市長の柄を超えたものなので、本当に理解することができませんでした。この火付け役は一体だれだったのでしょうか、ある人物がおれだ、というようなこともあったようなのですが、実際のところはよくわかりません。これだけの大きな命題は、市長はおろか当時の京都市の能力をはるかに超えたものでした。それだけに、動き出すにあたっては、当時市立芸大学長であった梅原猛教授にほとんど丸投げであったように思われました。そして、梅原猛学長は、桑原武夫京都大学名誉教授をその責任者に導入したことが最大の功労であったといえます。京都市だけではなく、のちのち、国に対しても大きな影響を持つようになるのです。

●とにかく急で、市会も困惑
 初夢からしばらく表面的には何らなかったのですが、同年1978年の8月4日なって、突如として舩橋市長は趣意書を発表し、この年が80周年記念日であった10月15日の自治記念日に宣言を行いたいと記者会見で表明したのです。まったく突然のことでした。そして、その宣言案を作成するため、8月30日に12名の有識者からなる世界文化自由都市推進懇談会が設置され、その起草委員に桑原武夫と梅原猛が選任されます。そして早くも9月18日に宣言案はまとめられ、舩橋市長に提出され、22日には市議会に提案され、市議会は、10月13日に本会議で、9項目の付帯決議を付して可決し、その2日後の10月15日の自治記念式典で、世界文化自由都市宣言を発表するに至ったのです。市議会では、あまりの急なことに対して容易に納得しなかったものの、それを強引に押し切ったのですが、ある意味で、舩橋市長にそれだけのパワーがあったということが言えるのでしょうね!
 その困惑した市会は、実は根本的な問題を提起することになるのです。それが、地方自治法に規定された自治体の基本構想・基本計画なのです。

●都市の基本構想策定が先ではないか
 京都市を世界文化自由都市として世界向けて発信するような都市としての根本的な都市像は、その前に、その都市としての基本的な構想が先にあって、そこから出てくるものではないのかという指摘なのです。京都市では、地方自治法に規定されている自治体の基本構想は、その規定が定められたちょうどその時期に「まちづくり構想」を策定していた関係で、京都市の基本構想は策定していませんでした。市議会からその点を指摘され、後先が逆になったものの、この世界文化自由都市宣言が起因となって、京都市の基本構想・基本計画を策定することになったのです。
 市議会の付帯決議など基本構想策定の詳細は、別項「21世紀グランドビジョンを理解するための」を参照してください。また、ここでもこのあと少しふれることにいたします。

●桑原武夫の導入と梅原猛の活躍
 世界文化自由都市宣言のかかる有識者の会議は、おおむね3段階にわたります。
 第1段階は、宣言文を作成するための委員会、第2段階は、宣言によってどのような事業を行うのか、第3段階は、その進行管理です。そこで、この各委員会の中心をなしたのが、梅原猛市立芸大学長と桑原武夫京大名誉教授でした。そして迫力ある牽引者が梅原学長でした。当時、それが小説なのか論考なのか、およそ通常の学術的とはいえない著作『隠された十字架』の出版で、一躍人気作家のようになってきたとはいえ、まだ、学術的な権威に遠かった梅原学長が、当時の京都学派を代表する一人であった京都大学の桑原武夫名誉教授を担ぎ出したことは、この世界文化自由都市宣言を権威付けることになると同時に、後々まで大きな影響を持つことになりました。そしてそれは、この宣言に基づく提案の中の一つにあった、「日本文化研究所の創設」への取り組みに遺憾なく発揮されることになります。
 ともあれ、宣言後、その具体的事業を検討する桑原京大名誉教授を座長とする推進懇談会が設けられ、1年余の検討の上「宣言に基づく提案」が、1980年11月に提出されます。そして、それら提案の進行管理にあたる推進委員会が、9名の大物有識者でもって設置され、以後メンバーの高齢化に伴う入れ替えを行いながら、今日に至るまで、継続的にその役割をはたしています。そしてその途上の平安建都1200年の1994年の12月20日に第2次提案を行うに至ります。
 第1次提案では、国際交流などが重視されていましたが、梅原学長の最大の関心事は「日本文化研究所の創設」でした。

●高邁な理念と現実との懸け橋は?
 世界文化自由都市宣言はその理念が高邁であるだけに、それを現実の政策に具体化することの難しさかありました。その点について、宣言に基づく二次にわたる提案を多少ふり返っておきたいと思います。
 宣言と現実政策との関係における問題としては、まず、市長の初夢とそれが半年以上も放置されていて、突如としてその年の自治記念日に「京都市としての」宣言として発表するに至ったという問題があります。
 次に、宣言1年後に設置された市民各界各層の代表31名からなる推進懇談会がまとめた「世界文化自由都市宣言に基づく提案」(1980.11.5)があります。そしてこれを第1次として、その後の推進委員会がまとめた「第2次提案」があります。
 「初夢」は、それが舩橋市長のどのような動機と背景で語られたのかは不明で、京都市の行政としてどのように具体化していくべきものかが、必ずしも理解できるものではなかったのです。そしてまとめられた宣言文は、桑原名誉教授の権威をいただきながら梅原学長が起草したもので、極めて高邁なもので、それをどう理解し具体化するかはまた難しいものでした。そこで、その宣言に基づく具体的事業の提案が行われたのですが、これがまた、極めて梅原色の強いものでした。
 
●第1次提案の内容
 世界文化自由都市宣言は、京都市民が世界に向かって発した、極めて高邁な宣言で、では一体京都市は具体的に何をするのかについては、二つの方向性がありました。一つは、市会が指摘したように、宣言の理念を導き出す京都市の都市像を、自治体の基本構想として具体化するという方向性。今一つは、この宣言を具体化するための具体的事業を考え、まとめるという方向性です。そこで、京都市では、京都市の基本構想は策定にはいるとして、それとは別に、宣言具体化のための有識者等からなる推進懇談会を設け、その懇談会が、宣言から2年後の1980年11月に提案を行い、これが、世界文化自由都市宣言の具体化事業となったのです。その主な内容は次の通りです。
 提案は、前文のあと、次の4点で行われています。すなわち、@新しいまちづくりの構想 A世界文化自由都市と国際交流 B日本文化研究所の創設 C市民劇場の建設 です。このうち@とAは京都市の基本構想・計画で当然検討されるべきものと考えられるのですが、BとCは、いかにも具体的で重い事業です。そして、Bの日本文化研究所は、その担う課題の大きさからしても、これの設立主体は「国であることが望ましい」とあったのです。そして、翌年1981年7月の世界文化自由都市推進委員会で、「日本文化研究所の創設」が最重点とされ、11月には、府の京都府総合計画に位置付けて府市間の整理・協調をはかって国に働きかけていくべきとの考え方がまとめられるのです。京都市行政として、容易には対処することの難しい「日本文化研究所」のこうした扱い方の展開と進行を見るにつけ、世界文化自由都市宣言への動機そのものが、実は「日本文化研究所の創設」にあったのではなかったかという思いは、今の私には強くするのです。
 もっとも、国際交流会館やコンサートホールなどの実現はありましたが、これらは京都市行政として可能な事業ではあったのです。ただ、そうはいってもそれぞれの事業の実現には、それなりの経過と苦労はあったのですが。とくに、コンサートホールは、ほとんど不可能と考えられてきた事業であったのです。市民劇場が、いかなる経過でコンサートホールに転換したのかについての決定的な事績を私は理解するには至っておりませんが、これには、京都大学の矢野暢教授の役割が重要な影響を持っていたようなのです。元来、財政の厳しい中で成立してきた京都市交響楽団は、その当初から民営化への危機にさらされてきていて、とてもではないが、自らのコンサートホールを持つことなど夢のまた夢で、私の知りえていた範囲でも、楽団員の方々の大変な苦労の積み重ねがありました。それが、世界歴史都市会議開催に際しての矢野教授の参画があってから、矢野教授は音楽への造詣が深く、ある時には京響の指揮を執ったこともあったのではなかったかと思いますが、そうした矢野教授の京響への肩入れによって、楽団員の方々の努力と相まって、ついに政治や行政、市民を動かしえたのでした。これは、ある意味では、有力な学識者の存在が、政治行政を左右する京都市の体質を表しているのではないか、その事例の一つとしても考えられるのです。
 第1次の提案が概ね実現したことから、次なるものを求めて、13年後の1994年すなわち建都1200年の11月に第2次提案が行われました。この時の目玉事業は、歴史博物館構想で、これは、田辺市長から桝本市長に受け継がれていきます。主役はやはり梅原猛で、これについてはまたのちに触れることにします。

●国際日本文化研究センターの創設
 さて、「日本文化研究所の創設」ですが、これは、元来京都市行政の範疇を超えたもので、起草者であった梅原、桑原両先生とも、このことは百も二百も承知の上のことで、結論から先に言えば、京都市の世界文化自由都市宣言の場を利用して、この国政レベルでの課題を提示したものだったのでしょう。これに関しては、国立の「国際日本文化研究センター」として、まさしく国政の中でその課題が認識される過程を歩むことになります。その歩みは、梅原猛の執念と全力投球のある種のすごさとともに巧みさを感じさせるものでした。そこで、これは京都市政そのものではありませんが、それに関連するものとして、以下に少し経過をたどってみることにしましょう。そのカギは、権力から一定の距離を保ち、自由を体現している京都大学の学風を代表するともいえる桑原武夫と今西錦司両名誉教授による、時の首相、中曽根康弘の活用とアタックだったといえます。
 1978年10月に京都市は、世界文化自由都市宣言を発します。そして、その2年後の1980年11月に宣言に基づく事業の提案を行います。そして、その翌年の7月に、「日本文化研究所の創設」を最重点事業とすることが推進委員会で決められ、その4か月後の同年11月に、これを京都府の事業としても位置付け府市協調して国に働き掛けるべきこととされます。ここまでは、すでに述べたところです。
 宣言に基づく諸施設創設の提案は、財政力の弱い京都市にとってはいずれもそう簡単に実現できるものではありません。そこで他方、京都市基本構想策定途上において、京都市の基本構想は、平安建都1200年という歴史的節目に臨んで事業を展開していこうということになり、府市、経済界挙げて建都1200年記念事業を推進していくことになるなかで、その記念事業に、他の諸施設と共に、「日本文化研究所の創設」も位置付けられることになり、この時期から、機運は急展開することになります。その後の展開については、本題を越えますので、別項「余話し」に譲ることにしましょう。
 
●特別法・国際文化観光都市との関係? 
 さて、世界文化自由都市宣言を発し、以後の京都市は、世界文化自由都市づくりに向かおうとするとき、どうにもしっくりしない問題が横たわっています。それは、「京都国際文化観光都市建設法」との関係です。それは、宣言が市議会の議決を経た宣言に過ぎないのに対して、京都国際文化観光都市建設法は、国会の議決を経たうえに、さらに住民投票にもかけて成立した特別法ですから、しかもそれに至る十分な経過ももっていて、1950年10月に成立後今日に至るまで、京都市は国際文化観光都市であるということを一貫して自認してきているのですから、市行政上の重みが違います。ですから、この両者の関係をどう理解するのかということは実に重要な問題なのですが、これに関する、明確な整理は今日に至るも十分にはなされておりません。結局、ケースケースで使い分けているということなのでしょうか。
 今一つしっくりしない問題がありました。それは、宣言と宣言に基づく提案と、これによってあらたに策定されることになった京都市の基本構想・基本計画との関係ですが、これについては、基本構想策定過程で整理されました。すなわち、世界文化自由都市宣言は、京都市の最高位の都市像で、京都市基本構想の上位概念として位置付けられることになったのです。そこで再び、次なる問題が生じることになりました。京都市基本構想の上位概念であるにもかかわらず、世界文化自由都市推進を見守り、必要に応じて新たな事業を提案する組織が設けられていることです。都市づくりは、基本構想・基本計画さらにその実施計画によって、文化や都市整備を含む市民生活の全領域にわたって、多くの学識者や市民参加を得て推進されていきますが、それとは別に、世界文化自由都市推進委員会が、ある意味で狭義の世界文化自由都市づくりに役割を果たそうとしているのです。こうした問題を内包しながら、宣言を具体化していくための事業が、それなりにすすめられるのです。

>>余話し<<   
国際日本文化研究センター実現への歩み
   −中曽根首相と「京都学派」! 梅原学長の執念―

 世界文化自由都市宣言に基づく提案のなかで、「日本文化研究所の創設」は、国の施設として誘致するものであるにもかかわらず、その説明は、提案された事業の中で、最も具体的なものでした。そして、最重点事業とされたのですから、これらの一連の経過を見ると、世界文化自由都市宣言のもっとも狙いとするものは、梅原学長にとっては、当初から「日本文化研究所の創設」にあったのではなかったかと考えざるを得なくなります。
 梅原学長としては、おそらく自己の生涯の仕事としての国立の「日本文化研究所」創設への絶好の機会として、京都市を舞台とする世界文化自由都市宣言を主導し、その狙いを全うしたのではないでしょうか。
 そして、その事業は、宣言を契機に策定が進められてきた京都市基本構想のなかで、平安建都1200年記念事業への動きが生じ、1984年10月には、建都1200年記協議会が記念事業を決定するのですが、その時に同時に関連事業として「日本文化研究所の創設」も加えられ、いよいよ国に要請していく条件が整い始め、この年が、大きな画期となります。
 この年の10月24日、中曽根康弘首相は、京都岡崎の旧野村別邸で、京都の5人の学者と懇談するのですが、ここで、世界の趨勢と日本文化の役割に関する思いに相互理解がうまれ、日本文化研究所創設への具体化が一気に進むことになります。ここで、5人の京都の学者とは、桑原武夫に加えて、京都学派の代表格ともいえる今西錦司、さらにすでに国立民族学博物館を実現していた梅棹忠夫、さらに京都国立博物館館長であった上山春平、そして梅原猛でした。東大が権力との関係が深いのに対して、京都大学は、その自由な学風から、権力からは遠い存在であると一般的には認識されていたなかで、この国家主義的な傾向を持つとされていた中曽根首相と京都学派を代表するこの5人、なかでも桑原武夫と今西錦司の両大御所との会談は、世間を驚かせるものであったといえます。単純に言ってしまえば、日本文化研究所実現のために、自由をモットーとする京都学派が、国家権力の軍門に下ったとの評価が漂うことになるのです。ただ、桑原武夫にしろ今西錦司にしろ、書斎型の学者ではなく、実際的な現実判断も重視するタイプで、政治権力の軍門に下ったというような意識はなく、国立の研究所をつくるのに、時の権力者と会うことは当然といえば当然という考えであったのだと思います。ではあっても、中曽根首相にすれば、京都学派を代表する学者との懇談とその後の協力関係は、東京では得られない、政策の膨らみをもたらせるものとして大いに歓迎したもののようです。
事態は一気に動きます。
 同年末ごろでしょうか、文部省の次年度予算案に早速調査費2000万円が計上されます。そして、翌年1985年3月、梅原学長と桑原名誉教授は「国立日本文化研究所設立試案」を中曽根首相に提出します。そして、その翌月4月には、文部省内に「国際日本文化研究センター」に関する懇談会が設置され、同時に国立民族学博物館内に、専門家からなる「同センター調査会議」が設けられ、その座長に上山春平京都国立博物館館長が就くことになります。そして、その年12月には、開設のための準備経費6千400万円が予算化され、翌年4月に研究所創設準備室が梅原室長でもって発足するに至ります。
 こうして、1987年5月、大学共同研究機関として研究センターは、洛西ニュータウン内に仮事務所を開設して、正式に発足します。世界文化自由都市宣言を発して9年、事業構想を打ち出して以来7年で国立のこれだけの研究機関を実現したことはまさに驚異的といえるでしょう。、そして、1990年7月に最初の核となる施設の建設により桂坂の現在地に移転し、以後、順次施設、機能を拡充し、最終的な完成を見ることになります。
 
<参考文献>
*当時驚きをもって見られていた様子が、以下の記事から類推できます。
「エコノミスト」1986.3.4所載 大須賀瑞夫(毎日新聞政治部)
   「首相の新ブレーンとなった京都学派―日本文化の再評価で一致―」
「宝石」1986.5所載 レポート5月 有田芳生(ジャーナリスト)
   「臣・中曽根康弘の新人脈・梅原猛氏、今西錦司氏ら『新京都学派』への思惑」
<経緯>
 京都市にとっても重要かつ大切な施設ですから、国際日本文化研究センター開設に至る若干の経過を以下に記しておきましょう。
  〇国際日本文化研究センター開設に至る若干の歩み
1987.10.15::京都市、自治80周年で世界文化自由都市宣言を発する
1980.11.05::世界文化自由都市推進懇談会(座長・桑原武夫)、「宣言に基づく提案」を市長に提出 提案の中に「日本文化研究所の創設」がある。
1981.07.31::世界文化自由都市推進委員会が、「日本文化研究所の創設」を宣言の具体的施策実現に向けての最重点施策をすることを決める。
1984.10.11 建都1200年記念事業推進協議会、記念事業を決定 関連事業として「日本文化研究所の創設」を明記
1984.10.24::中曽根康弘首相と、桑原武夫ら5人の京都大学関係の著名学者が岡崎の旧野村別邸で懇談 出席学者:桑原武夫京都大学名誉教授、今西錦司京都大学名誉教授、梅棹忠夫国立民族学博物館長、上山春平京都国立博物館長、梅原猛京都市立芸術大学長
1984.12.?::文部省に、調査費2千万円が新年度予算案に計上される。
1985.03.25::桑原武夫と梅原猛、「国立日本文化研究所設立試案」を中曽根首相に提出
1985.04.05::文部省内に「国立日本文化研究センター」に関する懇談会設置し、同時に、国立民族学博物館に、上山春平京都国立博物館館長を座長とするとする専門家からなる「同センター調査会議」を設置。
1985.04.25::自民党政調会に「日本文化研究・交流に関する小委員会」設置。
1985.05.21::自民党政調会の「日本文化研究・交流に関する小委員会」が、同センターの創設準備に早急に着手するべしとの提言「日本文化研究・交流の推進について」をまとめる
1985.07.30::同小委員会、「京都が最適地」とする報告を中曽根首相に提出
1985.09.03::文部省の上山春平を座長とする調査会議がセンターを国立大学の共同研究機関とする中間報告をまとめ公表。
1985.09.25::中曽根首相と桑原武夫ら5人の学者、民族学博物館内で2回目の懇談。
1985.12.26::研究センター開設準備経費6千400万円が予算化される
1986.03.29::日本史研究会が、「論議が尽くされていないので、計画は白紙還元すべき」との見解を発表。
1986.03.31::文部省の上山春平を座長とする調査会議が最終報告書まとめる
1986.04.01::国際日本文化研究センターの創設準備室が文部省内に開設。4月7日、梅原猛京都市立芸術大学長が室長に就任。
1986.05.14::文部省の創設準備委員会発足。17名の専門委員により具体的あり方を検討。
1986.08.15::文部省、センターの設立場所を大枝の「桂坂」に内定する。
1987.01.?::中曽根首相、首相在任の締めくくりの衆参両院での所信表明演説の中で、日本の国際的地位の向上により、これからのわが国は、「持っているものを発信するべき時」で、「京都の文化研究センターは学問的にもう一度ジャパノロジーを体系だて、世界に向かって発信し直すために設立されたものだ」と国際日本文化研究センター設立の意義を述べる
1987.05.21::国際日本文化研究センターが大学共同研究機関として正式に発足し、 所長に梅原猛・開設準備室長が就任 5月25日、洛西ニュータウン内に仮事務所を開設
1990.12.10::京都市西京区の「桂坂」に本館など主要施設完成し、新施設開所式典が行われ、本格稼働に。

3.空き缶条例への挑戦

●”洛中燃ゆ”そして全国的運動へ
 舩橋市長三選ともなれば、五色豆とも評された京都市政のオール与党体制も定着し、安定していたのですが、そこへ、突如として激しい市民運動が官民一帯となって展開し、市民も京都市行政も燃え盛り、その勢いは、全国的な関心を集めることになりました。それが「空き缶条例」問題だったのです。
 「空き缶条例」問題は、利便と企業利益優先、そして週末処理は地方自治体にかぶせる商品経済のあり方に対する、いわば「文明論的」な問題提起とそれへの挑戦で、現代の環境問題に対する取り組みの先駆的なものでした。したがって、当時の企業はいうに及ばず、政府各省庁とも厳しいやり取りを繰り広げ、その対応が全国的な共感を呼ぶことになったのです。その直前まで、経団連の会長であった土光敏夫第2臨調会長とも親しかった、「保守体質」ともいうべき舩橋市長であっただけにその対決力には圧倒されるものがありました。ただ、成り行きと部下に対する信頼に依存した展開は、それはそれとして大変重要なことなのですが、経済活動の根幹にかかわる重大な問題に挑戦するには、それだけでは限界があったこともまた否めない事実であったのです。すなわち、それだけの挑戦への備えとそれを戦い抜く力を持った人材の確保に弱さがあったのもまた事実でした。もっとも、この難題を背負うことによって成長し、育っていった人材もあったのですが・・・・。

●発端は、観光地の空き缶公害 散乱ごみ
 そもそも。世界文化自由都市宣言が舩橋市長個人の「初夢」から始まったのに対して、「空き缶条例」問題は、そこに至る関係市民の地道な運動があったのです。それを、京都市挙げての、使い捨て文明への一大運動に仕上げたのもまた舩橋市長の決断であったのです。この相異なる世界文化自由都市宣言と「空き缶条例」問題の展開は、舩橋市政の、福祉の舩橋とはまた異なった、本格的な市政の展開を予期させる雰囲気を持っていたと思われたものでした。
 「空き缶条例」問題は、1980年8月の公開シンポジウムで一大センセーションを巻き起こすことになるのですが、そこに至る前の経緯を少し眺めてみることにいたしましょう。
 そもそもの事の起こりは、観光地における散乱ごみ問題でした。特に嵐山ではそれが大きな問題となっていて、また、同地における常寂光寺の長尾憲章住職の活発な活動が大きく寄与していたようでした。すはわち、京都の代表的な観光地である嵯峨野に、個性豊かな長尾住職をリーダーとする「美しい嵯峨野を守る会」が誕生したのは1970年代の中ごろだったのでしょうか、このボランティア組織が核となって、1978年7月19日に、観光地におけるボランティア市民組織や交通・観光業界、学識経験者等からなる「観光地等ゴミ処理対策協議会」が設置されます。そしてこれが、京都市の空き缶問題に対する発端となったのです。この協議会は、翌79年3月に、観光地のごみ処理対策で、要旨次のような答申を京都市に行います。
 観光地等ゴミ処理対策要旨は、@散乱ごみの元凶は空き缶であり、その追放にはメーカーによる回収体制確立のための法制化が急務 A当面、散乱ごみの減量を図るため、ボランティア活動とキャンペーンの強化を図り、法制化への啓発を図る Bそのためには、専門家を含む広範囲にわたる市民参加組織の設置が急がれる というものでした。
 この答申に基づき、11月に、市民各界各層にわたる165団体による「京都市散乱ごみ対策協議会」と、専門家からなる「京都市空きかん条例専門委員会」が設置され、この専門委員会に実効性ある条例化の方途が市長から諮問されるに至るのです。ここからいよいよクライマックスに至ります。

●専門委員会の中間報告と公開シンポジウムにおける利害の激突
 前記「空きかん条例専門委員会」は、1980年8月4日に条例化のための「中間報告」をまとめて市長に提出します。これを受けた京都市は、前記京都市散乱ごみ対策協議会主催でもってシンポジウム「空きかん回収を考えるシンポジウム」を開催します。ここでもって、この問題はいかにも関係者の利害対立が大きく、一気に問題が全国的に広がることになりましたが、反面、容易に収集できない状況が生まれることになります。そのため、京都市として、いかに問題を具体的に解決するのか、それとも、あくまで問題を広げていき、文明論的な問題提起にその意義を求めていくのかの選択に迫られることになってきたのです。ただ、行政体である京都市は、問題提起だけで事足れりとすることは許されません。そこで、専門委員会の中間報告とそれを受けてのシンポジウムについて、その当時考えていた問題点を以下で簡単に述べてみたいと思います。何が、どう問題であったのかについて。
 企業活動における商品の最終処理は、現代においても難しい問題で、プラチック製品にもみられるように、今や地球環境汚染として極限状態にまで至っています。空き缶問題は、その先駆的な試みであったのです。それだけに問題は簡単ではなく、企業活動と厳しく対立するものでした。
 さて、観光地ごみの散乱状態が、空き缶の普及によって、これが大きな問題となってきて、空き缶の「ポイ捨て」を解決しない限り、観光地ごみ問題の解決はできないという状況が生まれてきた。そのため、これは、観光地住民のごみ拾いなどの住民運動では限界があり、何らかの法規制が必要ではないかとの動きとなり、これが、専門委員会の中間報告で「飲料容器等の散乱防止と再資源化」の条例化と、その核としての「デポジット方式」が提起されたのです。「デポジット」というのは、当時酒や醤油の空き瓶を酒屋さんにもっていけばいくばくかの還元金が受けられていた制度と同様の制度を空きかんにも適用しようとするものでした。あらかじめ、決められた還元金の額を、商品の値に上乗せしておいて、空き缶が不要となって店に渡したときに上乗せ金を還元してもらうのです。これは、当時、アメリカのオレゴン州で実施されていた制度でもありました。
 さて、ここで問題です。京都市では、問題解決を目指してどう考えていたのでしょうか。これには、問題の困難さだけではなく、当時の担当者の体質的な問題もあったようなのです・・・。

●スタートの躓き シンポジウム活用の仕方!
 結論から先にいうならば、この問題に本格的に着手するスタートにおいて、公開シンポジウムという手段をとったことは、おおいなる過ちであったと思っていました。行政体というものは、施策を打ち出すにおいては、具体的な目標を有し、それを提示しなければなりません。しかし、公開シンポジュウムでは、企業サイドと市民サイドとで互いの利害が顕在化し、激しい、憎悪を生むような対立状況が生まれることになり、収拾を図ることは困難となりました。問題は、この問題を広げるために、それで良しとするのか、或いは、行政として具体的な実行策をまとめあげようとするのかにありますが、この点が不明確で、収拾のつかない状況が以後生まれることになります。
 市内の小売商は、メーカーサイドの代理戦争の前面に立ち、これに企業、財界、通産省サイドが統一戦線を組みます。これに対して、まだ製造者責任という問題が理解されていなかった段階での消費者と一自治体の動きだけでは、問題の根幹を解決することは困難だったのです。大きな対立状況を生んでしまったからには、問題を進めるには、妥協の道しかありません。しかし、せっかくの市民運動に挫折感を与えることもまた避けなければならないことです。ジレンマですね。これは、その当時の行政マンが、勉強家で真面目であったがゆえに陥ったジレンマだったのではなかったかと、当時の私は深い思いに陥っていました。私氏自身も、市政調査会のレベルではありましたが、全国からのいろんな問い合わせや視察者などに対応しつつ、そうした渦中にありました。
 そもそも、シンポジウムは、問題を解明し、その過程を公開するためのものです。具体的な実施過程では、この手法は必ずしも適切なものばかりとはいえません。空き缶問題の具体的な解決策として、すでに「デポジット制」を打ち出していることからすれば、それによる企業活動や市民レベルを含めて、各レベル、各層ごとの具体的な利害関係が明らかであり、それら、それぞれの利害の上に立った、責任と対応の方法を検討するべきものとしての、検討過程が必要であったのです。が、それがなされず、異なる利害が激突する場となってしまったのです。まさに主張と主張のぶつかりあいです。

●問題の焦点は? モラルか法規制か
 では、問題の焦点はどこにあったのでしょうか。もともと、有名観光地における散乱ごみに対する、地域住民の美化運動という、いわばモラルのレベルから出発した運動ですが、散乱ごみの主たるものが、使用後のポイ捨てされた「空きかん」であり、それに対する根本的な対策なくしては、市民のモラルレベルにおける美化運動といったレベルでは、到底解決しえない状況に来ていたのです。そしてそれは、使い捨ての物質文明がもたらしたもので、企業には終末処理から逃避させ、消費者には便利さのみを享受させ、元々限りのある資源の無駄遣いとその最終処理を無制限に自治体に負わすものとなってきたのです。市民運動としての「散乱ごみ」対策が、その中心をなす「空きかん」対策に苦労する中で、物質文明の中核をなす「無責任性」を明らかにしたのです。ここから明らかになってきた問題を整理すると次のようになります。
 ・使用後の「空きかん」は、最終処理ができないが、再資源化が可能である。
 ・ただし、これには当面の企業活動に経費がかかることになる。
 ・また、再資源化には、使用後の「空きかん」回収のシステムを整備する必要がある。
 ・これらを進めるには、市民モラルでは限界があり、法規制を必要とする。
 ・その法規制の核となるものとして、当面、自治体における料金上乗せ制度としての「デポジット制」が提起されたのである。
 ・これらは、国の環境行政であると同時に産業政策にも深くかかわるものである。
 ・これらから、すべての終末処理は、自治体の清掃行政が担うべきものだという考え方に対して、本来企業自身の果たすべき責務があるとの問題提起ともなっていた。企業活動の結果として生じる終末処理には、企業自身がその責任を果たさなければならないということ。

●内陸都市・京都の特性=清掃行政の先進性
 こうして、京都市の観光地における市民運動から発展した「空き缶問題」が、物質文明のあり方に対する警鐘をならし、全国的な広がりを見せてきたのですが、京都市が、その舞台となったのには、大きく二つの問題が考えられました。一つは、京都は、日本を代表する観光地であること、それに加えて、京都は、古来我が国の大都市として今日に至っているのですが、他のほとんどの大都市がその市域に海、海岸を持っているのに対して、海を持たない内陸の大都市であることです。この内陸型の都市には、古来、ゴミ処理問題が大きな問題として存在してきていました、海岸をもつ大都市は、ゴミ問題の処理は、後に問題となる「海洋投棄」で済ますことができたのです。ただ、近代までのごみは、埋め立てることによって土にかえる自然の循環の中にあったといえますが、近代以降、とりわけ戦後経済の高度成長期後のごみには不燃物が多く、これらは、自治体清掃行政の大問題となって来るのです いずれにしても、他の大都市のように、海洋投棄のできない京都市では、戦後京都市政の中でも極めて先進的な行政であったといえ、そうした土壌の上に、「空き缶問題」への対応があったのです。

●舩橋市長の倒病と「空き缶問題」の収束
 専門委員会の「中間報告」とシンポジウムで、空き缶問題が一大問題として拡大していくことに対して、京都市では、直後の1980年8月27日には助役を本部長とする「京都市散乱ゴミ防止推進本部」を庁内に設置して、経済界との折衝や市民運動との連携、政府各省庁との折衝など多方面での活動を全庁的体制で展開します。もちろん、京都府に対しても、知事、市長懇談会でその協力を要請します。そして、11月に30日には京都市と市労連とが一体となって、全市的な空きかん回収条例制定に向けての一大キャンペーンを実施します。市行政と市の労働組合とが一緒になった運動展開はこれが最初にして最後だったのではないでしょうか。そして翌年1月14日、舩橋市長は記者会見で、「中間答申が崩れることはありえない。3月市議会への条例提案をめどにしている」と強調します。そして16日から5日間の日程で、この「空き缶問題」で、シンガポールに視察訪問します。市長も産業界や国を相手に気合が入っているのです。
 19日には市議会厚生委員会で集中審議、そして2月2日に至って、空きかん条例専門委員会が「京都市飲料容器等の散乱防止及び再資源化促進に関する条例にかかる答申」いわゆる最終答申が出されます。これは鋭い対立をうんだ「デポジット」を将来の課題として見送るものでした。したがって、その他の全体的な問題は産業界も受け入れる方向となり、2月6日には大手飲料製造メーカーと事業者行動組織づくりに向けての基本合意に達し、18日には環境美化対策室を清掃局内に設置して推進体制を確立し、市長は、条例案を5月市議会に提案する意向を明らかにします。そして、3月2日、全国の*空きかん関係4団体との間で事業者共同組織づくり等で一定の合意に達し、いよいよ条例の取りまとめに入り、5月には条例案の大綱がまとめられるのですが、ここで、一大事件が発生したのです。舩橋市長がくも膜下出血で緊急入院、5月6日のことでした。
*空きかん関係4団体 ・食品容器環境美化協議会(飲料メーカー1,300社)・あきかん処理対策協会(スチールカンメーカー13社) ・オール・アルミニウムかん回収協会(アルミカンメーカー9社) ・日本自動販売機工業会(自販機メ一カー35社)

●今川市長によるその後の収束::デポ抜き」で収束
 舩橋市長自身がファイトを燃やしていただけに、また三選後の脂の乗り切ったこの時期、世界文化自由都市宣言に基づく具体的な歩み、それを契機とした京都市基本構想の策定、京都市初の地下鉄・烏丸線の開業目前といった明日の京都市への挑戦の只中にあっただけに、舩橋市長の倒病は、本当に衝撃的でした。
 その直接の影響を受けた「空きかん条例」問題は、実際のところその勢いを弱める結果となります。急遽舩橋市長の後継者となった今川市長は、舩橋市政の仕上げに全力を挙げるものの、やはり舩橋市長のような逞しさに及ぶことは困難で、それまでの運動の勢いを成果としつつも、ある意味で、そこそこのところで収まっていくのです。が、それもまたやむを得ないことという理解は、多くの共通するところであったと思います。しかし、それであってもなおかつ、この時期に京都市が着手した「空き缶問題」は、自治体の終末処理への押しつけから、企業自身の最終処理と再資源化という現代的課題への突破口を開いたという意義には大きいものがあったといえるでしょう。
 以下では、簡単に以後の歩みをたどっておきましょう。
1981.08.30::市長選挙で今川正彦市長職務代理が当選
1981.10.09::9月定例市議会で「飲料容器の散乱及び再資源化の促進に関する条例」可決
1982.01.07::「空き缶条例」に基づく「市飲料容器対策審議会」設置
1982.01.29::「指定容器を空き缶」とする答申を市長に提出
1982.03.01〜31::「空き缶条例」に基づく自動販売機届け出制の事前受付。届け出,9,416台に
1982.06.14::市飲料容器対策審議会「総合施策の策定及び散乱防止重点地域の指定について」答申。昭和57年度散乱防止重点地域の指定地域 @国鉄保津峡駅〜清滝間 A念仏寺〜落合間 B大原一帯 C八瀬一帯 D嵯峨野一帯 E銀閣寺,南禅寺,永観堂,哲学の道一帯。
1982.08.30::空きかん条例に基づく「京都市環境美化事業団」 設立総会。経費は業界側と京都市が折半で負担
1982.10.01; 京都市環境美化事業団,事業開始。嵯峨野・清滝一帯で一斉清掃

 **全国的な広がりの一端を紹介しておきましょう。
  まず、関東方面で積極的に呼応し、関東地方知事会が、1981年5月に統一的な条例の制定を了解し、10月には拠点回収型のデポジット方式の導入を決めますが、日本小売業協会の強い反対にあうことによって、苦労を重ねることになります。また、全国市長会は、6月にメーカーや販売業者に空きかんの回収を義務付ける法的措置をとることなどを国に要望することを決めます。7月には、今度は全国知事会が、「空き缶等の散乱防止に係る総合的施策」を早期に講じるように政府に要望する決議をを全会一致で採択。こうした状況の中で、政府関係でも、11省庁によって構成された「空きかん問題連絡協議会」が、空きかん公害の総合対策に関する中間報告がまとめられます。そして、環境庁は、全国の空きかん回収ボランティア団体代表との懇談や、環境庁長官参加による富士山クリーン作戦の実施、また、自然公園法制定50周年に合わせた「国立公園統一クリーン作戦」を地元自治体と共催で実施するなど、問題は大いに広がっていったといえます。
 
4.京都市の総合計画−京都市基本構想の策定

●発端は、まちづくり構想見直しと世界文化自由都市宣言
 京都市基本構想に関しては、別稿「21世紀グランドビジョンを理解するために」で詳細に述べておりますから、それをご覧いただくとして、ここでは、構想策定当時の意図するところに絞って、簡単に述べてみたいと思います。
 自治体の基本構想(総合計画)は、自治体運営が総合的かつ計画的に運営されるようにするために、昭和40年代半ばに地方自治法にその規定が盛り込まれ、全国の自治体がその策定に努めます。ただ、京都市の場合は、ちょうどそのころに、ハードプランニング中心の「まちづくり構想―20年後の京都」を策定した時でもあったので、それを一応「基本構想」に代わるものとの理解をすることによって、「基本構想」それ自体の策定はしないままに来ていました。
 自治体の総合計画は、一応20年スパン程度の将来設計を明らかにし、それに基づく概ね10年程度の計画を建てるものとされていて、1980年代になると、全国的にも、ちょうど最初の10年が過ぎて見直しに入る時期に差し掛かっていました。こうした時期に、京都市は自治体の基本構想策定をすることになったのです。いわば、運動場一周遅れのスタートですね。そしてこの時期は、経済の高度成長期が過ぎて、都市のひずみと共に、都市の拡大発展の基調そのものにも変化が生じる時期に当たっていました。
 京都市では、昭和44年に、都市問題解決を目指した「まちづくり構想」を策定したわけですが、それはあくまで、都市の拡大発展を基調としたものであり、その10年後には、都市の成長神話はくずれ、しかも都心部の空洞化という、都市機能の維持そのものが困難になるような事態が生まれてくるのです。そのために、「まちづくり構想」の見直しが、必要とされ、この面からの何らかの「自治体の基本構想」の策定が検討されるべき段階にきつつあったのです。ちょうど、こうした時期に、世界文化自由都市宣言が行われることになり、この宣言を契機として、市議会サイドからの強い指摘のもとに、「自治体の基本構想」策定が一挙に市政の重要課題として登場することになったのです。
 このようにして、京都市基本構想の策定は、順当な経過を経て、策定されるべくして策定されることになるのです。が、多分に他動的な要因にも作用されているといえなくはないともいえるかもしれませんね。

●世界文化自由都市宣言の位置づけ
 さて、基本構想を策定するとなると、世界文化自由都市宣言との関係はどうなるのかという問題があります。当時、世界文化自由都市宣言を具体化するために、先にも触れたように、桑原武夫を代表とする推進委員会がその推進するべき事業を検討していて、どうも、基本構想との関係がうまく調整できなかったのです。
 そこで、これは市政調査会の出番だろうと考え、非公式ルートではありますが、両者は、並列的な関係なのではなく、宣言は、京都市の目指すべき都市理念であり、したがって具体的な都市政策を考えるべき基本構想の上位概念として位置付け、整理するべきであろう、との考え方を整理し、これを、然るべき複数の人物を通して、今川助役に進言、今川助役はこれを受け入れて、市議会に、京都市の考え方として整理をはかったものでした。市政調査会に関わる学識者の多くが同時に京都市の基本構想策定にもかかわっている中で、市政調査会のこうした実質的な役割と、当時の筆頭助役としての今川正彦助役の決断には、それなりの評価すべきところがあったのでは、とその当時は思っていました。

●初の京都市総合計画の策定
 それにしても、地方自治法に基づく自治体の基本構想・基本計画の策定は、京都市としても初めての試みでした。高山市政の後半期に、先に紹介してきましたように、戦後京都市の企画行政を築いてきた斎藤正氏による全庁的な作業によってまとめられた「京都市総合計画試案」なるものがありますが、すでに遠い過去となり、市政も保守から革新へと転換し、庁内の人的体制も当時とは全く異なった布陣となっていることから、まさしく初めての試みといえるものでした。そのため、基本構想そのものに対する考え方、そしてそれを策定する庁内体制の取り方にあたって、試行錯誤が続くことになります。簡単に言ってしまえば、人材登用の問題、或いは人材不足、経験不足ということになるのですね。
 その核心をなす問題を列記すると次のようなものです。
@総合計画とはいっても、ハードプランニングを中心に考えるべきなのかどうか。(総合行政というものに対する認識不足!)
A@とも関連して、策定事務局は、ソフト政策のセクションが担うべきか、ハード政策のセクションが担うべきか。
B策定態勢の築き方。(リーダーシップのあり方)

●基本構想の内容と策定事務局体制の問題
 まず、@、Aの問題です。なにせ、京都市行政のすべてを対象とした総合計画というものは初めて策定するわけで、経験者は誰もいません。そして、先に「まちづくり構想」の見直しの作業がすでに始まっていたのです。すなわち、1977年に都市計画局の庶務課を企画課に衣替えさせ、そこをまちづくり構想見直しの事務局として、1979年4月には、「基本指標・都市利用・交通」の3部門の見直しが行われていました。そこで、その「まちづくり構想」見直しの作業にソフト部門をかぶせて、都市計画局にその作業をさせるべきか、或いは、京都市全体の基本構想なのだから、これはむしろ企画調整を所管するソフト部門、当時でいえば総務局でその作業を行うべきかということで、綱引きならね、押し付け合いが行われていたようなのです。当時の総務局は、完全に腰が引けていました。他方、ハード部門の長は、望月秀佑都市計画局長で、極めて合理的な性格の人物であり、仮に都市計画局で行う場合には、当然、すでに進めているまちづくり構想見直し作業をベースにおいた策定作業になる、というのが、今川助役のもとにおける検討結果であったようでした。結論的には、総務局は逃げたのです。そしてそこには、自治体の基本構想・基本計画とはいったいどういうもので、京都市においてはどのようなものに仕上げていくべきかという本質的な検討や覚悟がなかったといわざるを得ません。
 1980年4月1日、ハード部門であった都市計画局を、京都市全体の企画行政を担うための「計画局」に編成替えし、局の編成順位も1番目にあげ、局内に策定事務を担う企画室を設けました。そして策定作業は開始されます。これは、技術部門に市政全般に及ぼす衣をかぶせた形です。
 さて、いよいよ策定作業の開始です。が、その進行とともに二つの根本的な問題に直面することになります。一つは、いくら旧都市計画局で実質「まちづくり構想の見直し」をするといっても、いよいよ開始するとなると、やはり「基本構想」はそれ自体を課題にせざるを得なくなるのです。「自治体の総合計画」なのです。二つには、そうなると、ソフト部門を含む、京都市政全体の総合政策を、全庁的な参加体制で策定しなければならなくなるのですが、そこに大きな難がありました。市役所の全庁的体制はいうまでもなく市長、助役のリーダーシップによって実現します。しかし現実には、人事、財務、組織という市役所中枢の3部門がその役割を果たさないと全庁的体制の実質は形成されません。そしてこの3部門の参画なくして、構想を建てても、その実施計画は樹立できないのです。繰り返すと、基本構想策定は、やはり京都市政全般の基本構想の策定に係らなければならないということと、それには、腰が引けていた管理中枢部門の主体的な参画が不可欠となってきたのです。
 こうした本質的な課題、問題を内包しつつ基本構想策定はすすめられたのです。

●基本構想の策定態勢と策定過程
 今述べてきたことは、ある意味で真面目過ぎるのかもわかりません。地方自治法に定められた自治体の「基本構想・基本計画」とはいっても、多くの自治体では、外部のコンサルタントにその作成を依頼し、出来上がればそれで終わりで、お蔵入りとなるのが実態で、そうしたなかで、基本構想を実効あるものとするには、これの策定の仕方、策定過程そのものにあるという提言を、当時の京都市政調査会では行いました。基本構想は、いかに整った文章で仕上げられているかではなく、市民や学識者、そして現実の行政を担っている京都市の職員がどれだけその策定に参加し、基本構想を自らのものにしているかにその成否はかかっている、というものです。
 したがって、京都市の基本構想は、市民参加への努力、全庁的な職員参加態勢、それらと学識者の交流、学識者相互の交流など多方面での多くの試みを実施することになりました。そしたなかで、ある意味で最も難しかったのは、全庁的な参加体制だったのかもわかりません。技術部門とソフト部門、とりわけ人事、財務、組織の管理部門との関係が最後までうまくいかないようだったのです。この3部門は、構想策定の立場というよりは、あたかもそれを査定するがごとき、批判的立場に立つことが多かったように思われました。
 そこで、そうした問題を認識し、不慣れであった策定事務局をサポートし、両者の関係をうまく運ぶように心がける、これが市政調査会、そして私の役割と自覚してそれなりの努力をしてきたのです。誕生後それなりに活動ができる体制を整えてきた市政調査会としても格好の活動の場が与えられてようでもありました。結果的に、策定過程における最大の弱点を市政調査会がカバーすることになったともいえましょう。そかし、それでも、市政調査会では、当初は、”基本構想策定は、未完にして永遠の策定過程である”、過程こそが大切である、との考え方を持っていたのですが、庁内体制内の矛盾や学識者間の軋轢など現実の難問にさいなまれる中で、ある段階で、当初の考え方を変えて、とにかく早期に可能な範囲での取りまとめをするべきであるとの考え方に変えざるを得なくなり、その考え方を内々で京都市に進言もしたところでした。市政調査会は、ここにその存在感を示すことになるのですが、同時に、その狭間の中で深手を負うことになったのです。それは、今川市政下のことでした。
 このように、京都市最初の基本構想は、多くの試行錯誤を重ねたうえで、作品と、その後の実効体制なども残して、それなりの成果を上げ得たといえます。
 簡単な足取りは次のようなものです。

1977.04.02.::都市計画局庶務課を企画課として まちづくり構想の見直しに着手
1978.10.15::世界文化自由都市宣言
1979.04.10::都市計画局企画課を構想策定のための専任の企画課に編成替え
1979.11.09::学識者と市の関係職員による「京都市基本構想調査研究会」を設置し、具体的策定作業が開始される。(公開性の会議)
1980.04.01::都市計画局を計画局に編成替えして筆頭局とし、企画課を企画室に昇格
1980.06.19::基調テーマ「伝統を生かし創造をつづける都市・京都」まとまる
 その後は、1981年8月に舩橋市長の後継として今川市長が誕生し、翌年8月には、基本構想案がまとめられ、9月には審議会での審議が開始されて翌年1983年11月に答申、そしてその7月には臨時市議会で可決されて、京都市基本構想は成立します。
 「基本構想調査研究会」は、基本構想案策定後も継続して設置され、基本構想が市議会で可決されたことを受けて、基本計画の策定作業を開始、翌1984年7月にその骨子を発表した上、1985年3月に基本計画策定を完了し、5月8日に発表します。そして、この年3月28日の組織改正で、総務局に新たに企画調整室を設置し、建都1200年事業とともに基本構想の進行管理を担うことになります。この点が、実行計画と進行管理組織をもたなかった「まちづくり構想」の教訓として生かされたのです。

●21世紀構想ではなく、平安建都1200年に臨む
 さて、基本構想の基調テーマは「伝統を生かし創造をつづける都市・京都」ですが、これにはサブテーマが設けられ、それは「建都1200年をのぞむ市民のまちづくり」なのです。この時期、各都市の将来構想のほとんどは「21世紀展望」でした。京都市でも、21世紀をめざすものではないかという意見も当然あったのですが、21世紀の直前にある平安建都1200年という時期は、京都市固有のものであり、この京都市の歴史的サイクルこそ京都再生の時期としてとらえるべきだという考え方に立ったのです。百年前には、遷都1100年記念祭が行われ、その主要な舞台となっ岡崎の地が、今日の岡崎文化ゾーンとなって展開しているのです。
 このように、当時、京都の地盤沈下が心配されていたなかで、この平安建都1200年を、京都再生の起爆剤とするという考え方は、京都府はもちろん、産業界を含め、京都全体の考え方となり、平安建都1200年記念事業を京都全体で進めることになるのです。これが、府、市、京都商工会議所の三者を軸とした記念協会の設立(1984.7)による京都を挙げての1200年事業の遂行となったのです。

5.市街地景観条例と伝統産業振興法

 舩橋市政の中で、結構特徴的な二つの分野がありました。一つは景観行政で、もう一つは伝統産業政策だったと思います。そして、景観行政は、技監でもあった今川助役が、伝統産業政策は、経済行政生え抜きの木下稔助役がその牽引車となっていました。

●今川―望月ラインによる景観行政
 実は、今川市長は、早い時期から景観行政に注意を向けてきていたようなのです。そしてそれは、もともとは建築技師でもあった望月秀佑さんとのラインで行われてきました。二人は、戦後の技術部門では数少ない京都大学の出身でもあったのです。特に、風致課に景観係を設置し、当初は細々とではありましたが、それを大切にしてきたのです。それゆえに、景観係はこの二人の趣味だ、とすら評されてもいたのです。今川市長は、あまり自己主張のない、他人のいうことをよく聞くがゆえに、助役時代までは、庁内外の評価もなかなかに良かったのですが、実は、こうした景観行政、最初は地味なものでしたが、それゆえに二人はこれを大切にしてこられたようなのです。そして、この下で、大西国太郎さんという、この分野のスペシャリストが育ってきました。
 そうしたなかで、戦後の景観行政の大きな画期となったのは、やはり市街地景観条例の制定ということになるでしょう。そして、その政策形成には、新たな市民参加の手法として、公開シンポジウムを行ったのです。

●シンポジウムによる開かれた政策論争の開始
 京都市の政策形成に、公開シンポジウムの手法を取り入れたのは、この時期、他にも、当時大問題となっていた交通問題がありました。この二つが、京都市で、政策形成過程に公開シンポジウムを取り入れた最初であるといえます。なかでも、この景観行政に関するシンポジウムは、京都市自身が、主体的に開催したものでした。
 舩橋市政発足の年であった1971年6月、前年から京都市の諮問を受けていた風致審議会は、はじめて「市街地」の歴史的景観に対する保全の答申を提出します。これを受けた京都市は、市民の日常生活にもかかわる市街地保全であるため、これには市民の参加が不可欠との判断から、市民に呼び掛けた公開シンポジウムを開催、そしてその後の市民意見の募集等を行ったうえで、条例を作成したのです。条例は、1972年3月、市議会で全会一致可決成立し、4月20日「京都市市街地景観条例」として制定公布されました。そして、9月1日には、条例に基づく「美観地区」の指定告示が行われます。

 望月さんは、この時はこの事務を、所管する都市開発局の技術長であったと思いますが、後日、私に、当時、京都大学の建築出身者が自分以外にいなかったので寂しい思いをしていた、との趣旨のことを言っておられたが、こうした、今川―望月―大西ラインで、市街地景観行政の土台を築き、その後、京都大学建築系の若い、優秀な出身者が登用され、その下で順次育つようになり、市街地景観行政は、国政にもその影響を及ぼすようになりました。これなどは、舩橋市政下での今川助役の重要な功績といえるでしょう。

●地方自治を考慮しない産業経済行政
 経済、産業行政というものは、政令指定都市といえども、基本的には実効ある政策が行えるような仕組みにはなっていないのです。戦後においても、国の地方への政策は、すべて府県を通して実施されます。法的な手続きは、そのほとんどが府県が経由機関として定められており、政令市は実際上の事務を行う程度なのです。財政措置にしてもそうで、地方交付税で算定されるのは府県に対してであり、市町村に対する算定はほとんどありません。こうした時に、府県と政令市とを同列に置いた法律ができたのです。それが、議員立法により成立した「伝統的工芸品の振興に関する法律」いわゆる伝産法だったのです。
 このように、法律のあり方自身画期的であっただけではなく、その対象が、従来国の産業政策として取り上げられてこなかった、京都をはじめとする全国各地の伝統的な手工芸産業を国の政策課題として取り上げたこともまた画期的であったといえます。けれども、この法律は二つの点で、難しい課題を持っていたといえます。一つは、せっかく政令市を府県と対等に位置付けながら、市の実効性において、はなはだ形式的な弱点を持っていたこと、今一つは、議員立法であるが故の弱さです。政令市と府県の関係の問題は、法律の中身に関わるので、後でふれることにして、議員立法の問題は、それが通産省がその必要性を認識して法律を作成したのではなく、議員サイドが勝手に作って押し付けてきた法律であるために、法律の対象に対する認識と施策の必要性についての弱さがあたのです。これもまたやむを得ないもので、現実には、これにより、通産省の担当課との接点が深まったという面もありました。

●竹村−木下ラインによる伝統産業振興法
 さて、こうした弱点を持つとはいえ、画期的な「伝産法」を実現させたのは、他ならない当時社会党代議士になって間もない竹村幸雄でした。同氏に対する評価は社会党の中でもいろいろあるようですが、とにかく行動力がありました。また、富井市長から舩橋市長を生み出し支えている中心は自分であるという強い自負を持ち、この時期には、不死鳥のごとく経済局長によみがえってきていた木下稔局長と連携し、経済界への影響力を持とうとしていたのです。当時私たちの目には、竹村―木下―山田善一市議(民社党)の連合と映っていました。こうしたことから、竹村代議士は、京都の伝統産業界の要望を担って、その振興策を国政上の課題とするために、議員立法に努力したのです。そして、社会党本部の書記局と通産省の協力を得て、ついに議員立法は成立することになしました。この法律の受け皿は、通産省の日用品課で、課内に伝統的工芸品産業室を設けていました。

●伝産法工芸品指定と府市の競合
 さて、国の産業政策として取り上げるには、手工芸品生産であっても、それが産業として理解できるものでなければなりません。そこで、一定の地域に、一定数の企業とそれに対する従事者がいることでもって、最小限の産業として取り上げることにしたのです。たしか、数企業と従事者30人が産業としてとらえる最小の数としておさえられていたように思います。それ以下であれば、それは、産業政策としてではなく、文化政策上の対象とすべきという考え方です。そこで、一定の地域というのは、結局産地という考え方になるのですが、そこで、はなはだ形式論が出てくるのです。
 先に、伝産法では、府県と政令市とが対等に扱われていると書きましたが、その問題です。法律では、その工芸品製造業の地域の全部が政令指定都市の中にある場合に限ってその政令指定都市が工芸品指定の国への進達窓口となるというものですが、その場合、1企業でも市域外にあれば、その受け皿は指定都市ではなく府県となるのです。なんとも実態と乖離した形式論であることかと、当時強い憤りを感じていました。1企業や2企業が、歴史的に形成されてきた特定する産地から離れて立地することなどはよくあることで、その場合でも産地としては歴史的に集積効果を持っている特定地域であるはずなのですが、それが、1企業でも京都市域から離れていれば、その受け皿は京都府となるのです。
 こうした理不尽な形式論を排するように通産省に掛け合う一方、地元京都では、府と市の個別伝統産業業界の取り合いが生じたのです。当時私は制定されたばかりの伝産法の担当者として、伝統産業界の業界対策を担当していた同輩たちとペアを組んで、業界対策に走り回っていました。当時の蜷川府政は、伝統産業界を強い支持基盤としていたために、その牙城への挑戦を行っていたのかもしれません。国にしても複雑で、一方では蜷川府政に対する忌避感を持ちつつも、国政の基本的な府県制度維持の基調からは、京都市からの心情は理解できても、容易に応じることはできないのです。当時の気の短い木下経済局長に怒られつつも、京都のためにできた伝産法であるにもかかわらず、京都の指定が最も遅れるという異常な状況となっていたのです。が、こうした状況も、人事異動で私が文化観光局へ移動することによって、以後、京都府との無理な競合はしなくなり、収まるように治まっていくことになりました。結果、京都市が受け皿となった伝統的工芸品は、京漆器と京指物の2業種となったのです。

●伝統産業会館の建設
 この伝産法にからんでは、大変劇的な経験がありました。伝統産業会館建設は、木下稔経済局長肝入りの懸案事業でした。それで、1974年4月下旬ごろのことであったと思うのですが、国ににこうした事業に対する助成制度というものがないときに、その建設費を全額京都市で賄うだけのゆとりは京都市にはなく、また、経費の多くを起債に委ねるにしても、その起債自体が、自治省の許可を得なければならず、また、起債自体が政府自身にとてもゆとりのもてる時代ではなかったために、なんとか通産省サイドのそれなりの助成を得ようと、通産省日用品課長への陳情を、赤坂のプリンスホテルで行っていたちょうどその時です。国会から連絡が入ったんです。議員立法のいわゆる「伝産法」が国会で成立したと。事態は、これで一気に好転したのです。
 伝産法が成立すれば、同法に基づく助成を通産省としては行う意思を明確に示してくれました。そうすると、国の補助金のある事業に関しては、その事業に係る起債は、補助金の裏起債として事実上自動的に承認されるため、これによって、京都市の理財局の査定も通過することになるのです。通産省日用品課とは、その場で、同課に関係する有力国会議員が未だ確保できていない時であったため、京都関係でどなたか、という話になり、当時の自民党の植木光教参議院議員が参院の国会対策委員委員長であったので、その紹介は、同課としては大変ありがたいということであった、ということなどもあり、伝産法それ自体は社会党の竹村代議士による議員立法ではあったものの、実際上の世話になるのは植木参院議員ということになります。同氏は温厚で奥行きのある方であった。政治、行政の複雑なところの体験談です。
 伝統産業会館ではまだ問題がありました。その建設用地の問題です。木下局長は、先に文化観光局長をやっていたこともあり、その時には、岡崎地区を「白川構想」のようなものとして発展させようと仕事師ぶりを発揮していました。結局それは軌道に乗る前に経済局長となってボツになるのですが、そうしたことから、岡崎公園については十分な認識があったのです。そこで、伝統産業会館の建設用地は、勧業館に隣接するものとしたのですが、なんとそれは、勧業館の敷地を切り取るものだったのです。当時、勧業館は、公園内に立地する施設として、すでにその敷地面積の建蔽率が不足していたのですが、既存の施設として許されていたものなのです。そこで、勧業館は、どのみち既存の施設としてすでに建蔽率をオーバーしているのだから、その敷地を切り取っても同じことだという論法で、勧業館の敷地を切り取って、そこに、その用地の面積に適合した建部率を確保した伝統産業会館の建設用地としたのです。なんと、当時の建設ブームのなかで、悪徳不動産屋がやっていた手法と同じではないか、と思ったところです。私は、その当時、その建設担当主幹からの再三の誘いを受けて、そのしごとに加わっていたのですが、この実態を知るに及んで、結局、ある意味、こんなやばいしごとはかなわないと思い、先に見た「伝産法」制定にあわせた、「伝産法」の受入れ、その実施に係る仕事に就任することになったのです。これは、実に勉強になる仕事でした。わずか1年半ほどのことだったと思うのですが、産業界、京都市行政、府政、国政、政界のすべての実際を経験することになったのです。全力投球する価値を見出していました。
 伝統産業会館はこうして、1976年11月に完成、その後勧業館を建て替え、1996年にみやこめっせとしたときに併せて伝統産業会館も一体的な施設として建て替え、2003年に「伝統産業ふれあい館」に生まれ変わりました。これによって、敷地にまつわるややこしい話もなくなったのです。

6.市政とインフォーマルな世界?

●「闇の帝王」!
 1981年12月、実に衝撃的な週刊誌の記事が出ました。『京都政財界の”闇の帝王”山段芳春をめぐる灰色の構図』が、「週刊朝日」に掲載されたのです。インサイド情報によれば、これを第1弾として、5回にわたって、京都の闇の帝王を徹底解剖するという迫力に満ちたものでした。しかし、京都取材班のそうした決意とは異なり、記事は、3回、第3弾でもって終わっています。「闇の帝王」は、このように、「週刊朝日」に対してすら、その編集部に影響力を発揮して、5回の連載記事を3回で終了させるような水面下の力を見せつけたのです。しかし、こうして、山段芳春なる人物は、世上の表に現れることになりました。
 同週刊誌では、”闇の帝王”とされる山段芳春を軸に京都政財界の人脈が明らかにされています。これまで、政治や行政の表に登場していないにもかかわらず、京都の政財界の頂点をつないでいたという意味で、”闇の帝王”と称されたゆえんです。私が、このような状況を多少なりとも知ったのは、そう古い話ではなく、週刊誌よりも十数年ばかり前であったでしょうか。それは、知れば知るほど、よくわからない世界で、しかも私の周囲にその関係者は実に多かったのです。しかも、はじめのころ、「さんだん」という珍しい言葉が、ある人物の名前であるということすら知らなかったのです。
 「闇の帝王」は、果たして虚像か実像か! この項を書き始めたのがちょうどお盆なので、果たして”真夏の夜の夢”なのだろうか。1200年の古都に、「闇の帝王」とはある意味で出来過ぎの物語です。果たして真相は、ひょっとして幾つもの真相−深層−真想があるのかもしれません。人により、立場によって・・・・。そんな思いをもってこの項を書きます。オール与党時代の京都市政の深層にせまっていただけるとありがたいのですが。

●「闇の帝王」の原点
 京都の政財界の頂点をつなぐ”闇の帝王”の原点は、いうまでもなく、京都信用金庫にあります。そして、その影響力の拡大は、金融と労務を巧みに行使する手法にあって、表の世界での功名をまったく求めていないあり方にあります。また、利権というにしては、それによる自分の蓄財にはほとんど関心を示していないところにも大いなる特徴があります。同氏は、表と闇の世界の境界を実に心得ていて、先にあげた二つの手法による、「マッチ・ポンプ」によってその影響力を拡大してきたのです。
 次に同氏の特徴は、当時の行政や経済人の弱点をよく承知していて、サラリーマンには退職後の世話、企業人にはその弱点を突いてかつ救済することによる吸引化、などです。
 また、その卓越した情報収集能力には目を見張るものがあり、これは私の親しい人がいく同様に指摘されていたことです。これがある種最大の武器ですが、この能力は、戦後GHQの下での特殊警備員のような活動経験によるもので、これは我が国の戦後フィクサーの特徴でもあるようですね。それに加えて、人物を見る目、人物を見分ける能力にも優れたものがあったようです。例えば、これといった人物には、名前だけを借りて、それに見合う以上の報酬をだす、といった具合にです。そして、その影響力は、警察、検察にまで及んでいたのです。まさに盤石です。
 こうして、情報収集能力をもとに、それぞれの分野での協力者を得て、特に京都信用金庫に隠然たる地位を築いて以降、多分にマッチポンプの手法によって、その人脈と影響力を拡大してくるのです。そして、概ね次のような組織・人脈図を構築してくることになります。同氏自身の地盤としては、「キョート・ファンド」や「キョート・ファイナンス」などの理事長として、要するに不良債権回収業務などを行っており、こうした面で、全国大手銀行の京都支店にも影響力を及ぼしていたようです。都市銀行の支店長が京都に赴任した時には、必ず同氏にあいさつに行っていたということも聞きました。
 ここで、少し特殊なケースについて、かなり悩みましたが、やはりふれないわけにはいかないでしょう。それは、高山市政下で馘首された京都市職員組合の松井巌元執行委員長です、氏は、京都総評議長に就任しますが、富井市政下で京都市職員として復帰し、市史編さん所長、北区長、監査事務局長などを歴任します。こうした氏は、初期山段の活動にとって重要な人物で、山段と二人三脚で中小民間企業の労働争議などでマッチポンプのおさめ役をやっていたのではないかという話です。これは、馘首されてからの不安定な存在状況がやむなくつくりだしたものかもしれません。いずれにしても、同氏は、山段からその後も大切に扱われてきていたようです。同氏の、私たちとは異次元の別格のような世界での存在感はその一端を表していたのでしょう。
 なお、同氏の名誉のために一言触れておきたいのは、市史編さん所長のときの功績です。
京都市史は、高山市長のときに着手し、その後保革を問わず井上市長、富井市長と市長が交代するたびに存亡の危機に直面してきていたのを、同氏が市史編さん所長のときにその編さん事業を安定させ、叙述編全10巻を完成させたばかりか、極めて地味な資料編16巻の編さんをも軌道に乗せ、しかも美術館事務棟の2階に間借りしていた編さん所から、御所の東側の歴史資料館建設移転への道筋も付けたのです。この折には、舩橋市長をも取り込んでいたのです。苦労の最中にあった編さん事業受託者の林屋辰三郎先生の労に、大いに報いるものであったといえます。ま、これには私の私情も入っているようですが。
 ・「京都構想フォーラム」:榊田喜四夫・京都信用金庫理事長、井上太一・京都銀行頭取、白石英二・京都新聞社長、舩橋市長や助役など京都市最高幹部など京都の市政、経済、マスコミの頂点によるサロンの場。
・「京都自治経済協議会」:これには京都市の元幹部職員や企業家などで構成。主力部隊は京都市のOBで、元助役の夏秋義太郎や、元民生局長で職員の信任も厚かった安田正暉、片山両氏や、私の元上司であった堀谷正夫元中京区長など多くの退職OBが参加している。しかし、松嶋吉之助元助役や宮本正雄元収入役など気骨ある実力者は関与していなかったようです。
・「星峰会」:京都市と府警の退職幹部で構成。以前は、市OBによる「紫峰会」と京都府警OBによる「七星会」があったが、先の『週刊朝日』によって表面にさらされて以降、その両組織を統合してより強固になったという根強さに驚かされました。この組織は、市長選挙確認団体の母体ともなっていたのでしょうか。

●「京信」との関係
 山段の活動基盤となった京都信用金庫との関係ははやくからありましたが、これを決定的なものとしたのは、大蔵省派遣の理事長を更迭し、創業者の子息である榊田喜四夫副理事長を理事長につけて、京信に榊田オーナー体制を構築したことです。これは1970年ごろのことです。
 実は、これには経過があって、当時の京信には不良貸し付けの問題があって、それで経営再建のために大蔵省が理事長に人材を派遣していたのです。その人材は、先に大和銀行に派遣されていた浜正男氏で、同氏は私の敬愛する京都市の上田作之助経済局長の東大での学友だったのです。山段氏はこの両者の関係を調べだすや否や、さっそく上田先生のところにまで浜理事長おろしへの助力依頼に来た、ということがあったとのです。上田先生は、自分の学友の不利になるようなことはできないといって断ったということですが、その情報能力には驚いたということを話しておられたのを、今も覚えています。
 結局、中央政界を含むあらゆる手段を行使して、浜氏更迭による榊田理事長の就任は実現したのです。そして、これを基盤にして、「闇の帝王」は構築されていくことになります。

●市長選挙の確認団体として
 舩橋市長の選挙は、最初こそ保革激突の壮絶な選挙でしたが、1976年の再選時以降は保革相乗りということになります。そこで躍り出ていたのは、市役所OBによる確認団体で、当時その出現には驚かされました。しかし、これによって各政党のメンツは一応保たれることになります。その名称は「明るい京都をつくる市民連合」で、そのメンバーは「京都自治経済協議会」の面々です。私の元上司がその事務局長でした。選挙戦そのものは統一選挙体制は組まずに、選挙事務所は社会党が仕切って、舩橋市政の中軸であることの存在感を示していました。今川市長誕生時の選挙体制も基本的には同様で、確認団体は「舩橋市政を継承発展させる会」でした。この時の会長も私の元上司で、元来政治向きではなく、また演説などできるタイプではないのに、市役所前で演説している姿を見て、いやホント涙が出る思いをしました。
 こうしてみると、京都信用金庫−山段−「紫峰会」(市幹部職員OB)という構図がみえてきます。そして、「紫峰会」には退職後、市の第三セクターなどの要職についている多くの元幹部職員がメンバーとなっています。そのメンバーの顔触れを見ますと、まさに玉石混淆の感があります。従属している人たちもいれば、自己の存在を貫いている人々もいて、そうした人たちの活動の場ともなっているのです。ということで、これを山段氏の支配とみるのか、山段や京信の場を利用して活動しているとみるのかは、見方のわかれるところです。

●OBの拠り所として
 ところで、山段氏の影響力が、市役所や京都府警、また検察官など司法関係にまで及んでいるいるのはなぜだろうか。それは、それぞれの機関の幹部職員ではあっても退職後の保証はなく、こうしたサラリーマン幹部の退職後の就職の世話を実に丁寧にしていたということだったようです。当時、京都市では、通常の退職年齢が55歳で、まだまだ現役で通用する年齢でしたから、退職後の第2の務めは極めて重要でした。山段氏はその世話をするわけですから、退職年齢が近づくと、幹部職員ほど同氏に近づきたくなるのは当然の成り行きなのです。
 さてそこでです、本当のところどうだったのかという疑問もないわけではありません。私もその仕組みを知っているわけではありませんから。そこでです、では、同氏が世話をする第二の職場は一体どこかというと、一部同氏の関連会社の役員などは別にして、大体は、京都市に関していえば、京都市の人事部門が掌握している範囲です。市の第3セクターや、それなりに関わりのある関連企業、広くは、家裁の調停員などもあり、何も、同氏の世話にならなければならない範囲のものなのではないのですね。それが、同氏の影響力のもとにあるということは、いったいどういうことだったのでしょうか。そこで考えられるのは、先にも指摘したことのある市会議員と行政職員との関係です。市会議員の行政過程への関与になりかねない状況が、行政が市会に従属するのではなく、結局は市会も大きくは市長のもとに支配されていくこと、それと同様の状況が考えられるのです。舩橋市長は、同氏に従属しているのではなく、多分超然としているはずです。その下で、同氏と市の幹部とのそれなりの緩やかな関係が保たれていたのでしょう。同氏は、特に表立って京都市に注文を付けることもなく、京都市政の運営に関与するようなことはなかったようなのですが、こうした状況が全体として一体どうゆう意味をもつようになるかは、研究材料でしょう。

●御池産業
 市や府警、司法関係の幹部職員の退職後の就職あっせんをベースとする、特に京都市との関係、そして、京信、京都銀行など京都経済界、京都新聞・近畿放送などマスコミ界と
京都市それぞれのトップの緩やかなサロン的な場、こうしたありかたが、京都市という都市とその行政の場が、一つの緩やかではあるけれども利害集団的なものになりつつあったのではないかとも考えられるのですが、そうした面をとらえて、「御池産業」と称されるようになったのでしょう。京都市役所を頂点とする京都各界の緩やかな連携です。その世話役が京信を基盤とする同氏だったという物語です。今川市長は、こうした状況の中から生まれ、その極限の中で、すべてが瓦解していくことになったのでしょう。
 まことに、何とも言えない状況です。

●要点メモから
 *これは、1990年ごろの手元のメモです。参考までに掲載します。
1.元警察、GHQ関係特殊警備員として、警察関係の就職あっせんなどから開始
  当初は、マッチ・ポンプの手法による 事件屋的な調整屋として個々の企業などに浸透  これには、警察情報、検察上がりの弁護士、労働組合幹部などの役割があったようだ。
2.京都信用金庫に決定的な役割を果たし、京都信用金庫を活用した動きで勢力を急拡大。ファイナンスを使った個別企業の浸透拡大。京都銀行にも及ぶ。(警察情報を駆使してか!)
3.表面的な活動の場は、「京都自治経済協議会」で、これの中軸には、京都市の元幹部職員が多くを占めていた。元市幹部には、高山市政下の有力幹部が多く、山段との関係は、1960年初頭頃には出来上がっていたようだ。
4.舩橋京都市長と榊田喜四夫、山段とは関係(親交)は深かった。舩橋市長の市長秘書・佐藤興典氏は山段との連携役か。同氏は、田辺市長まで続くことになる。舩橋市長下で、今川、木下稔両助役は深くかかわる。
5.京都新聞社とは、白石英二社長のときに関係が深まる。社屋の建設や事業、近畿放送を巡る関係か。とりわけ、KBSの不動産投機的事業の失敗の中で強い影響を受けるようになる。
5.警察、検察、金融機関、マスコミ、京都市へと影響力を及ぼしたなかで、舩橋市長(代理・今川助役)、白石英二京都新聞社長、榊田喜四夫京信理事長、井上太一京銀頭取などで、「京都構想フォーラム」が設けられる。サロンのようなもの。ワーキングを伴うことはなかったか?
6.舩橋市政になって、山段と京都市現職幹部との関係は深まり、退職後の就職あっせんが大きな武器となる。退職後の処遇が現職時の程度と比較して厚遇されている場合は、その影響であろう。55歳定年退職後行き場のない地方公務員にとって、その就職あっせんは極めて重要な意味を持つ。
7.1980年代後半バブル進行の中で、許永中など全国レベルの事件屋と結びつくが、この辺りが頂点であると同時に衰退への道程となったようだ。経済上の問題もさることながら、築き上げてきた人脈の高齢化など新たな人脈の薄さから、徐々に過去の人となり始める。
8.田辺市長の誕生は、新たな京都の実力者として成長してきた野中自民党幹事長との勢力均衡状況のなかであり、以後、京都政界の主導権は、野中幹事長に移行していく。

●附:当時手元に入った主な資料です。
 最後の書籍「黒幕といわれた男」は最近のもので、著者は、山段の秘書を務めていた人物です。同氏はそれ以前は市会図書室の司書を務めておられて、その当時には、私も資料探しなどで世話になっていました。
・「京都政財界の“闇の帝王”をめぐる灰色の構図/徹底解剖<日本的腐れ縁の仕組み>」(週刊朝日1981.12.4,11,18)
・「「怪文書」が名指しした京都政財界の「黒幕」」(週刊新潮1986.12.4)
・「新・京都事情〜今、市民のパワーで何かしなければ〜」1 1986.10か?
  「虚像を実像にスリ替えて 京都の腐蝕構造に巣食う男/山段芳春氏の徹底解剖 研究リポート・第一報」」
・「新・京都事情〜今、市民のパワーで何かしなければ〜」2 1987.1か?
  「虚像を実像にスリ替えて 京都の腐蝕構造に巣食う男/山段芳春氏の徹底解剖 研究リポート・第二報」」
・『黒幕といわれた男−山段芳春の素顔−』安川良子2004.4


●その後の「帝王」
1993.10.27::キョート・ファイナンス、経営悪化で大手金融機関に対する利払い停止(朝日1993.10/28)
1998.10.2::京都信用金庫、滋賀県内のゴルフ場株式増資をめぐり、「キョートファイナンス」と元同社会長の山段芳春氏らに約50億円の損害賠償を京都地裁に求める(毎日夕1993.10/2)
1999.3.18::府警、「キョート・ファンド」の山段芳春会長に逮捕状(読売夕1993.3/18) 元府警五条署警部補への贈賄容疑 捜査情報の入手
1999.3.19::死去(毎日夕3/19)



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