第1章 昭和30年代(1956-65)
 <この時期の概要>
 高山義三市長が初当選してから昭和30年代にかけての国と京都市の主な動きを先にたどり、その上で、想い出語りを始めてみようと思います。

国などの動き
 この時期、国政では、昭和21年11月に公布された日本国憲法は、翌年5月に施行されます。また地方関係では、憲法施行に合せて、22年4月に地方自治法が、翌年7月に地方財政法が制定され、昭和25年には地方財政平衡交付金法と新地方税法、地方公務員法が制定されます。そして、昭和27年4月には、ソ連など社会主義3カ国が参加していないために国論を二分したサンフランシスコにおける対日講和条約が発効して、敗戦後占領下にあったわが国も独立を果たし、岡崎の勧業館をはじめとするGHQによる接収施設が返還されます。そして、昭和31年には国連加盟を果たします。
 昭和30年にはいると、政治の世界では、絶対与党の自民党と3分の1勢力の野党社会党によるいわゆる「55年体制」が固まりますが、昭和35年には日米安保条約の改定をめぐる、いわゆる「60年安保」を迎えます。まだ、戦後の平和闘争の土壌が残っていたのです。また、戦後10年にして経済復興を遂げたわが国は、経済の高度成長期に差し掛かり、国は、国土総合開発計画を樹立し、昭和30年代後半には、名神高速道や東海道新幹線が建設され、昭和39年東京オリンピック開催に至ります。
 こうした経済の高度成長と国土開発の進展により、都市化現象が進み、全国各地で都市問題が発生し、昭和38年の第5回統一地方選挙では、横浜市をはじめとする全国の都市部で革新首長が大量に誕生します。
 また、地方の関係では、戦後地方財政制度の確立の中で、財政力の弱い自治体は軒並み財政赤字を膨らませ、遂に、政府は、昭和30年12月に地方財政再建促進特別措置法を制定し、地方財政の再建に取り組むことになり、京都市もその制度によって助けられることになります。
 このように、高山市政の時期は、戦後日本と地方自治の激動から定着へ向かう時期に遭遇し、それを乗り越えつつ京都固有の在り方を構築していきます。そこは、高山市長と市の職員労働組合との壮絶な戦いの連続の場でもありました。

京都市の動き
 そこで、この時期の京都市のおもな動きをたどっておきましょう。
 まず、高山市長就任の年である昭和25年10月に京都国際観光都市建設法が制定されます。昭和28年には、市民新聞の創刊と市政協力委員の創設、また京都市名誉市民表彰制度が設けられます。昭和30年になると上京、下京区から北区、南区の分区があり、京都市警が廃止されます。そして、翌年3月には財政再建団体に指定され、戦後累積してきた財政赤字解消のため、自治庁の監督の下で財政再建に取り組むことになります。そうした中でも、同年の昭和31年には市民憲章の制定、市交響楽団の創設のほか、文化観光施設税が創設されます。またこの年には、大阪や神戸市などと共に政令指定都市となり、都市計画などの16項目の事務が京都府から移譲されます。高山市長三選の昭和33年になると初の姉妹都市盟約となるパリ市との友情都市盟約を締結、10月15日の京都市自治記念日も定めます。昭和35年にはいると儀典用の京都市紋章を定め、岡崎に京都会館を開設、昭和37年には財政再建計画も完了し、いよいよ本格的な都市整備への準備を開始することになります。しかしこの年、高山市長と市職員組合との対立は頂点に達し、職員組合三役は分限免職となります。そしてこのことが、数年後の革新市長誕生の水脈をつくる結果となります。昭和38年から41年までの主なものには、京都市の本格的な総合計画行政の先駆となる京都市総合計画試案の策定、西京極体育館や市立医療センター(京都病院)、山ノ内浄水場の建設などがあり、また、念願の宝ヶ池の国立京都国際会館が開館したのも昭和41年でした。この年には井上市長が誕生しますが、市長就任1年にして急逝され、突然の市長選挙を迎える事になりました。
 なお、敗戦時の昭和20年には市域面積288.63平方km、人口866,153人でありましたが、昭和23年の葛野郡中川、小野郷両村編入により、市域面積321.31平方km、人口は1,040,127人と百万人に達していました。そして、昭和24年の愛宕郡雲ヶ畑など8村の編入、翌年の乙訓郡大枝3村の編入、昭和32年の久世郡淀町と北桑田郡京北町広河原、そして昭和34年の乙訓郡久世、大原野2村の編入などにより、同年には市域面積610.61平方km、人口は1,253,500人に達していました。なお、京都市の周辺町村の編入合併は、この昭和34年以降は、平成17年の北桑田郡京北町の編入までの46年間はありませんでした。

 第1節 高山市政 

 筆者が京都市に採用されたのは、高山義三市長が三選された直後の1958年(昭33)4月。高卒の事務職で、新設の農政局庶務課庶務係に配属。1965年(昭40)2月に同局と商工局とが統合され、経済局となるまで所属は変わらなかった。 
 市役所入職2年目から立命館大学U部(夜間)文学部史学科日本史学専攻に入 
学、1963年(昭38)3月に卒業するまで、昼は市役所、夜は大学の二重生活。その前半は、職場も大学もいわゆる60年安保の只中にあった。 
 大学卒業とともに、京都市職員組合の役員に勧誘され、産業観光支部長(兼中央執行委員)となり、局の庶務と労働組合の二足のわらじを履くことになる。


 高山市長は、戦後京都市政の基礎を築き、その方向性をも定めた偉大な市長であったといえるのではないでしょうか。1950年(昭25)2月に戦後公選2代目の市長として就任、1966年(昭41)2月に退任。退任後は、自身が誘致した国立京都国際会館の初代館長となりました。
 高山市政の16年間の特徴を顧みると次のように捉えることができるように思います。
すなわち、市長の毅然たる強い個性と卓越した用兵術によって、その前半期は財政難の中での戦後民主市政確立への挑戦、後半期には経済の高度成長期に入る中での財政再建と国際文化観光都市づくりへの始動といえます。具体的には、「揺りかごから墓場まで」にみる福祉行政の整備、財政再建計画の達成・文観税の実施、政令指定都市制度の発足、国際文化観光都市づくりへの始動、労使関係の緊張と市政の近代化などです。 

●市長の毅然たる強い個性
 高山義三市長は、社会党公認、民主戦線統一会議推薦で1950年2月に当選しますが、その翌年の訪米からの帰朝後、政治的スタンスに変化が生じたとは、しばしば組合の先輩たちから聞いた話です。そのことも含めて、高山市長を知るにつけ、市議会に対しては党派を超えた超然たる姿勢を貫かれていたように思われました。
 高山市長が初登庁したとき、将棋が好きであった高山市長は、「成金」の話をしています。ずーっと後のことですが、筆者が幾人かの同志のような友人たちと同人雑誌『歩』を発行したときのことです。筆者は何も知らなかったのですが、『歩』という表題に対して、高山市長初登庁の当時を経験していた幹部の中で、これは高山市長の「成金」を知っていて、それゆえに使ったのではないかとの話が出ていた、と身に余る評価を得たことが思い出されます。高山市長は、対立候補の元助役を破って当選したために、市役所の中に基盤を持っていたわけではありませんでした。ほとんどの幹部職員が選挙の相手側であるわけです。そこで、将棋になぞらえて、元々金将であった者は、自分の段階でも金将として遇し活用するが、「歩」が何かの拍子に「成金」となっていた者は、もともとの「歩」として扱うという趣旨のことを、職員に対する初訓示で述べていたのです。そこには、高山市長の、偏狭な敵味方の感情ではなく、正当な評価による能力に応じた職員の活用、すなわち卓越した用兵術がこの段階ですでに現われていたのではないかと思われます。
 市長の毅然たる強い個性についてさらに付け加えますと、議会との関係や中央政府との関係などにもそれは現われていました。市議会との関係では、市長初当選の時には民主市長として、社共両党を支持基盤としていましたが、その後自民党など保守政党を支持基盤に変えたものの、市長自身の市政へのスタンスには変化はなく、市議会に対しては超然とした姿勢を貫いていたように思われていました。高山市長自身には、日本の戦後政治の激動期から安定期に移行する過程にあっても、極めてリベラルなものが一貫して流れていたのように思います。

●卓越した用兵術
 高山市長が市役所に降り立ったとき、後の革新市長が誕生したときに言われるようになっていた「一人パラシュートで降り立った」ような、状態であったようです。そこで、人材登用については二つの道がありました。一つは外部からの人材導入で、もう一つは内部人材の活用です。外部からの人材導入では、筆者と親しかった上田作之助や、筆者の敵でもあり味方でもあった八杉正文がその代表格です。内部人材の活用では、松島吉之助を代表格とする「民生閥」ということになります。この内部人材の活用に当たって、先に記した、敵の駒であっても金将は金将として遇するが、「と金」は金将としては扱わないという将棋の例えがあったのです。ちなみに、上田作之助も将棋が好きで、よく高山市長の将棋の相手をさせられていたということです。また、高山市長誕生時、市役所の幹部職員は新市長に接近するために大わらわで、旧社会課系の幹部が市長に取り持ってほしいと上田作之助に働きかけにきたということもあったようです。
 高山市長の用兵術の巧みさは、内部活用の人材と外部活用の人材との間のチェックアンドバランス、また、人事、企画、財政、事業部門のチャックアンドバランスが保たれ、いずれも、政治にたいする最終責任は自らが負ったということです。ちなみに、昭和30年ごろ、当時産業局長であった上田作之助が、自民党サイドからの攻撃にさらされ、市長に辞職を申し入れたとき、市長は市会サイドのことは自分が対処するから、心配せずに仕事は続けてほしいということで、継続してきたとは、上田作之助自身が話していたことです。すなわち、市長は、政治からのガードは自分の役割と明快に考えていたことです。上田作之助はさらに続けて、市長は転向したが、経済政策を任されている自分は変わることなく当初からの政策を継続していたのであり、それは、転向した市長の良心のようなものであったとよく話されていたものです。
 高山市政期には、外部からの人材や庁内からの人材など実に多士済々で、それぞれがのびのびと仕事を組み立て進めていたが、それぞれに巧みな棲み分けがなされていたようでした。人事や行政改革は八杉正文が、企画調整は齊藤正が、産業行政は上田作之助が、文化や観光は宮本正雄や宗川磯雄、重達夫が、教育行政は大橋俊有が、そして民生行政など他の分野は概ね民生畑出身者が担っていました。民生畑からは、助役になった松島吉之助を代表格に、石田良三郎、安田正暉、中川忠次、舩橋求己などがおられた。そこで注目されるのは、戦前、昭和初期ごろの「大学は出たけれども」という就職難の時代に、京都大学出身の優秀な人材が結構いろんな形で市役所に入ってきていたこと、また、戦争の修羅場から帰ってきた復員兵士が多く、それらの人たちが、戦後動乱期から民主市政定着期の市役所を担ってきていたということです。気合が違うのですね!
 また、外部からの導入人事では、三期目に朝日新聞論説委員であった吉村正一郎を助役に迎えたもののこれは定着しなかったようです。変り種としては、府庁内にあって蜷川知事と適合せずに退職した気骨のある清水薫を受け入れ、農政局長や理財局長、清掃局長を歴任させていましたが、清掃行政の近代化への貢献には特筆するべきものがありました。
筆者が労使の団体交渉に参加していた頃、八杉公室長とともに京都市の代表として出席していた小川広之助労働対策室長も元民間労働組合の指導者でした。
 三期目から四期目になると、財政再建とその後の都市整備が課題となり、中央官僚の導入を図ることになります。助役の自治官僚の高橋敬一郎や税務畑の自治庁府県税課法制係長の菊池忠吉、建設官僚では今川正彦や島村忠男などを迎え入れ、都市整備計画を樹立、推進しようとしました。
 高山市長の用兵術を見た場合、政治的には大変複雑なものがありました。すなわち、再選後の高山市長は、政治的には自民党を中心とした保守勢力を基盤とするため、社共勢力とは対立関係となります。また、職員の労働組合も社共の有力な勢力をなしていて、人員削減を中心とした行政刷新ともあいまって激しい労使対立を生むことになります。しかしながら、高山市政の庁内の幹部人事には、多分に左翼的な人材の活用を多用しているのです。また、登用された人材は、のびのびとその能力を発揮し、社会的影響力のある人が多かったように思われました。
 もっとも、敗戦直後の政治混乱のなかでは、気骨と能力のある人物のほとんどは左翼的であったという時代状況があったのでしょう。

 そこで、特徴的な3人の人物紹介をして見ましょう。高山市長の側近中の側近であった八杉正文と、企画行政を確立した齊藤正、そして、高山市長との私的関係もあった経済行政の上田作之助で、筆者はそのいずれの方ともそれなりの関係がありました。特に、上田作之助とは私的に深い関係がありました。

<八杉正文>
 同氏は、京都大学の農業経済を納め、敗戦後は京都農林事務所の庶務課長であったようで、昭和25年に京都市に入り、当初は産業局の庶務課長であったように記憶しているのですが。
 私が直接知ったのは、すでに市長公室次長で秘書課を統率し、市長室の向かい側に独立した部屋を持っていました。
 同氏は、大阪市に次いで京都市の電子計算機を導入し、電算機を単なる計算機としてだけではなく、各種将来予測などOR(オペレーションズ・リサーチ)の実験に意欲を持ち、そのための人材をトレードしてきていました。また、能率課を京都市行政の近代を図るための拠点として、そこにも優秀な人材を集め、その中には、民間からの登用もあり、松原氏は、民間のおそらく左翼的な活動の経歴の持ち主であったと思われますが、極めて多彩な能力の持ち主で、「職員の広場」の編集に従事し、私などもよく指導を受けたものです。
 人事行政に関しては、労働組合とそれこそ身体を張って対決し、1960年代後半の当時、非力であった職員組合は、高山市長の自宅へよくデモをかけていたのですが、そのときなども、八杉公室次長が身を挺してデモに対応していました。また、職員組合が、市役所の始まる直前の早朝時間内集会を行って、本庁舎へ入るのをピケで阻止していたときなど、自ら先陣を切ってピケに突入もしていました。体力にも自身があったのです。
 人事行政で特筆すべきは、近代的な市役所を構築するための人材の改革でしょう。専門的な知識を鍛えて、新しい時代の要請に応える市職員の養成を、旧来体質の市役所とともに、合理化反対闘争を展開する職員組合との対立関係の中で、今思えば、孤軍奮闘していたものと思われます。
 財政再建計画から脱し、国際文化観光都市としての京都をつくるための近代的な市役所づくりに全力疾走した大変な人材であったといえます。
 大変な勉強家で、後に国立民族学博物館を建設した梅棹忠夫など当時の優秀な若手学者たちとの交流にとどまらず、自身も大変な読書家で、当時の総合雑誌などはすべて目を通し、これはと思う論文などは能率課をはじめとする側近の職員たちに、「これは読んだか」と問いかけるのが常で、そのため、側近の職員たちも、雑誌類の読破と情報収集に励み、また、その職員たちが、関係する他局の親しい者たちに「これは読んだか」と問いかけるなど、読書の風潮が広がっていました。筆者もまたその波の中にいました。
 農林行政の近代化には並々ならぬ意欲を持っていて、農政局の改革メンバーの一人でかつ最後の生き残りでもあった私は、よく部屋へ呼ばれたものであったが、また反面組合闘争との関係で、名札着用問題で生真面目に最後まで抵抗したために、私を飛ばせという指示が出されたりもして、結構複雑な関係ではありました。
 なお同氏の書類や資料の整理術は当時としては極めて先駆的なもので、役所の文書管理は極めて大福帳的な1件綴りが一般的な中で、数台のキャビネットを設置し、ファイリングシステムで自分自身で整理をしておられた。新聞なども自宅で自分で切抜きをし、それを秘書に台紙に貼らせるものの、分類整理そのものは自分自身で行うというもので、私などにもそのやり方を自慢しておられたものでした。こうした資料整理の仕方は、私もその影響を受け、今日に至るまで細かに分類整理し保存するように努めています。こうした影響は、周囲に及んでいたようです。

<齊藤正>
 京都市の企画行政を確立した強面の有能な人材です。1907年1月東京浅草生まれの江戸っ子で、関東大震災で被災して京都に移住、三高を経て1902年に京大法学部を卒業するも、世界的不況の中で、いわゆる「大学は出たけれども」の例に漏れずではあったものの、なんとか京都市に入職された、というのはご本人の言です。しかし、京都市に就職したものの、「折からの東亜共同体思想にとりつかれて」、中国・北京にわたり、満鉄調査部に関係する華北綜合調査研究所の企画主幹・研究員となって、中国の国土総合計画や文化・経済の総合調査などを行っていたが、日本の敗戦により帰国したということです。約8年間、中国での勇気と波乱の人生経験を積んでこられた人です。帰国後、1946年8月、和辻春樹市長に「拾われて」、初代統計課長として採用され、その後企画審議室に移り、さらに企画室長、企画局長などとして、高山市政下で、市長の政策ブレーンとして、戦後京都市の企画行政を築かれた人です。文化観光施設税創設の時には、理財局次長としてその役割を担っておられたようです。
 極めて積極的な人で、外部の懸賞論文に当選するなど論文や意見書をよく出されており、中でも、1949年11月京都で開催された第11回全国都市問題会議の研究報告としてまとめられた『都市行政における企画機関のあり方』は何時の時代にも通用する秀逸なものです。
 小柄な身体を、大きなテーブルの向うの大きな椅子の中で胡坐をかいて座り、当時意思決定を要する決裁書類の決裁を「持ち回り」と称して、他部局の職員などが斉藤局長に伺うのは、なんとも恐ろしいことで、鬼の斉藤と恐れられたものです。気に入らない決裁書類などは投げ捨てられたといわれています。今は、起案書も決定書となり、電子決済ともなれば、こうしたことはあまり起こらないでしょうが、逆に言えば、こうした人間的な触れ合いは、今日では極めて少なくなってきているのではないでしょうか。後で触れることになると思いますが、地方自治法で自治体の総合計画策定の必要性が定められる以前、京都市では、「京都市総合計画試案」が策定されていますが、これなど、戦前、中国での総合計画や総合調査を行ってこられた経験も十分下敷きとしてあったのではないかと思われます。
 また、こういう話もあります。中国で調査活動をしていたとき、後の京都市長になった今川正彦さんと中国大陸であったことがあった、ということです。これが何を意味するかはまた、後のところで触れることになると思います。
 同氏の企画行政時代の部下には、その後の錚々たるメンバーが育っています。高山義三の息子さんで、後自民党の京都府会議員になられた高山寛さんもその一人です。
 なお同氏は、1964年8月55歳で定年退職後、京都市専門員として初代の京都市史編さん所長に就任、京都の歴史編纂の先便をつけられました。私との関係はこうしたところから始まりました。

<上田作之助>
 明治44年7月20日、京都生まれで、子どものなかった叔父の養子となります。上作(上田作之助のこと)曰く、養父(叔父)は、有名な薬の特許を持っていて、三条富小路に居を構え裕福で気楽に暮らしていた。アナーキストで、堺利彦などが京都へ来たときには必ず寄ってきていた。刑事も常に家の中で過ごしていた。三条冨小路界わいは、戦前の政治経済の中心地で、「弁士中止」などの政談演説会にも養父ともどもよく出かけていたようです。戦前の無産者的な政治活動の担い手が、意外や裕福な中産階級であったという典型的な事例で、こうした雰囲気と環境の中で青少年期を過ごしておられたようです。高山義三と養父との接点も、こうした政治活動の互いの幅の広さから出来上がっていたようです。
 学校は、三高から東京大学の大内兵衛門下で、卒業は敗戦直後であったため、東京は戦災で生活できなかったため、京都へ戻って当時の「産労」から京都地方労働委員会事務局の課長職に衝いていたところ、高山義三の市長就任によって、市長に請われて昭和25年9月16日京都市商工課長に就任した。
 *京都地方労働委員会事務局の時には、その配下の一人に後に共産党参議院議員となった神谷信之助がいたという。
 上田作之助は、経済・産業行政に関しては、高山市長からすべて任されていたという。同氏はそれだけではなく、前述の経緯からもわかるように、市役所の中で唯一心の許せる、リラックスできる相手であったようで、高山市長が出張するときなど、よく同道させられたという。経済産業行政に関してはまた後に述べるとして、それゆえに、市政全般に関してもいろいろ承知しておられることが多かったのです。
 産業観光局から農政局が分離した真相や当時農地であった竹田地区における室町繊維団地構想への今川都市計画局長の繊維業界に対する迎合的姿勢の危うさなど、いろんな真相を語ってもらっていました。また、高山市長誕生時の心の許せるブレーンは、同氏一人であったようで、新しい地方自治の下での民主的な市役所をどのように打ち出すかについて、昭和25年4月に市民生活パンフ第一号として、市長高山義三著「市民に訴える−新市長として−」が、三一書房から十円で刊行されていますが、そのほとんどは同氏の手によるもののようです。敗戦の混乱からまだ覚めやらぬ中で、理念としての民主主義はあったにしても、その具体的なありようはまだ構築できていなかったときだけに、相当思案されたようでしたが、結果、「市民サービス」とそれを行う「市民サーバント」ととしての新しい市役所づくりであるとして、「サーヴィス行政とは」の一章が設けられています。
 昭和30年代の半ば頃には呉服問屋が集中している室町通の交通混雑打開策として、京都市の南部に室町繊維団地を造成してはという課題が、ムーンバット主導で進められていて、業界代表が高山市長に面会に来ていたところへ、高山市長に呼ばれていった時のこと、今川都市計画局長も同席していて、高山市長に用地の確保について問いかけられたとき、今川局長は腰を浮かせて、「土地区画整理方式があります」と言っていた、というもの。土地区画整理方式だと、減歩で一定の土地が浮いてくることを説明していたということでありますが、このときの室町関係の業者による用地買収が、室町としては実を結ばなかったけれども、地下鉄竹田駅、京都府総合見本市開館、京セラの100メートル社屋など、先端産業を中心とした今日の「らくなん進都」建設の基礎条件をなしたといえます。当時の土地を安く買い入れた業者は、一時期は団地構想が実らず困ったでしょうが、その後の展開からは、土地価格の急上昇で相当稼げたんでしょうね。
 なお、上作によると、八杉正文は当初から高山市長の側近であったわけではなく、共産党市会議員の山田幸次を通して市長に接近し、高山市長の子息の高山寛(当時京都市職員、後府会議員)を通じて市長に取り入っていた、ということであったようです。

 

第2節 労使関係の緊張

 昭和25年、京都市の職員首切りなどの人件費削減が進行し、しかも、戦後民主化闘争の勢いが盛んなときだけに、京都市の職員組合もその有力な一員であった民主戦線統一会議の推薦候補として当選した高山市長は、職員組合の支持のもとに当然市役所内の労使関係は良好であったはずでした。しかし、それも1年にして怪しくなり、2期目には労使は対立関係になりました。そして、高山市長のその後の3期12年は、まさしく血みどろの労使対立の歴史を歩むことになります。その理由、原因を考えますと、・高山市長のいわゆる「転向」 と ・戦後ますます深刻化する財政危機による行政整理にあったと思われます。
 昭和20年代は、戦時経済の荒廃と財政の破局からの脱却のために、国も地方もともに行政整理に次ぐ行政整理による激しい労使対立が生じていました。その状態は、民主戦線で当選した高山市政とて同じでした。市長の立場からすれば、労働組合も市長を支えてくれて当然ではないか、ということになりますが、労働組合の立場からすれば、自分たちの運動で当選した市長が、行政整理にまい進するのは同意できないということになります。
 高山市政の当初は、それでも対立しつつも、同時に政治的には協力関係のもとにありましたが、高山市長「転向」後は、互いに激烈な対立関係に発展し、ストライキと大量の首切りなど、レッドパージの余韻も含めて、まさに血みどろの戦いが継続していくことになりました。

●対決から創出される労使への人材供給
 今日から振り返ってみても、なんとも複雑なのは、激しい労使対立を繰り広げ、大量の首切りが行われた中でありながら、庁内の優秀な幹部が、そうした労働組合の幹部経験者で占められるのですが、他方で、首を切られた職員の中から、政党のリーダーや職業労働運動家やさらには市会議員なども排出することになります。
 例えば、初代京都市職員組合委員長の松島吉之助が後に実力助役になったのを代表格に、高山市政を担う有力局長など幹部職員のほとんどが組合役員の経験者でした。他方、昭和24年、政令201号違反で解雇された京都市交通労組委員長の梅林信一は、高山市長当選翌年の市会議員選挙で、民党議員として市会議員に当選、昭和24年のレッドパージで解雇された三宅勝は後市会議員に、吉田平は自治労京都府本部の専任事務局長に、また、大量の行政整理に端を発した昭和27年の上京区役所のストライキで首を切られた市職員組合委員長の山田幸次も市会議員になるなど、京都市の場合、労使ともに、労働組合の幹部経験者が目立つのです。

●市長選挙と労使対立 「私に協力できないものは市役所を去れ!」
 市長選挙で高山市長の偉かったのは、再選出馬の折には、いったん市長を辞任して市長選挙に臨んだということを聞いていましたが、これなど高山市長の潔癖症とでも言うべき性格をよく現していて、昨今、現職の市長が市長選挙に臨むにおいて、現職としての地位をとことん利用しようとする風潮からするとまさしく隔世の感がします。職を辞して選挙に臨んだというのは再選の時だけであったようですが、以後も、選挙の年に入れば、地位利用にならないように、行事などには出席せずに代理をたててすますというような自粛はその後も京都市の市長選挙では長く続いていましたが、現職のこうしたわきまえはいつからなくなってきたのでしょうか。
 それはともかく、こうしたけじめを明確にもった高山市長であってみれば、高山市長に対抗する市長選挙の中心的な運動組織である京都市職員組合と高山市長との対立も激烈となりますが、高山市長としては、いったん選挙が終わり、高山市長が市長として当選した以上は、当選した高山市長に職員組合が市政運営に協力するのは当然ではないかという考えになります。そのため、「私に協力できないものは市役所を去れ!」と叫んで回ったということがありました。これは、私の敬愛していた元京都市職員組合の委員長で、後に自治労の書記長になった若林清太郎氏がいっておられたことですが、市長選後の市役所登庁時、自分のいる部屋に市長が来て、若林さんを名指しで「市役所を去れ!」と叫ばれたということです。ちなみに、若林さんは、「高山市政打倒!」を一番最初に演説した人です。ですから、高山市長と若林さんは全く敵対関係のようなものですが、二人に共通していたのは、陰に篭らない、はっきりとした性格であったということで、結局この二人は、対立しながらも互いを理解しあっていたということがありました。

●組合三役の解雇 松井、三谷、遠藤三氏のそれぞれの道
 戦後京都市における労使関係で、行政整理やレッドパージによる解雇と組合の抵抗という労使の激突は珍しいものではなく、それ自体が戦後京都市政における特質であるといえますが、昭和37年における京都市職員組合三役の解雇は、特別な意味がありました。それは、高山市長三選に当たっての、市長選挙にからむ組合の戦い方が、高山市長の逆鱗に触れたことによる「分限免職」(職員としての適確性を欠く)であったことです。この年、市は、市民税の算定方式を所得税準拠から所得準拠に変えるのですが、組合は、これを捉えて「市民税が上る」という市民ビラを配布し、市は、こうした「事実に反する」行動を取った組合の責任者に対して解雇処分に至ったものです。時代は、まだ60年安保の雰囲気が残っている中での市長選挙をめぐる労使の闘いであったのですが、これによって、職員組合は、苦難の道を歩くことになります。
 ただ、職員組合も、この時代になると解雇された三役をそれなりに組織として抱えていくことができるようになりますが、解雇された、委員長の松井巌氏、副委員長の三谷直之氏、書記長の遠藤晃氏は、いずれも苦労されることになります。そして、筆者もこれらの方とはその後親しい関係を築くことになります。この三人は、いずれも京都市職員組合の対立のない特別執行委員として、松井巌氏は京都総評議長として、三谷氏は市労連書記長として、遠藤氏は自治研部長としてそれぞれ持ち味のある活動をしていかれることになります。そして、こうした事態は、昭和42年の革新市長誕生によって解消されることになりました。

●組合費天引き拒否と自主徴収  組合役員のなり手がない
 ところで、市の職員組合の財源は、当然組合員からの組合費ですが、この組合費の徴収は京都市の給与支給の段階で、給与から組合費が天引きされ、その天引きした組合費を市から組合に納付するという形態をとっています。組合は、戦う相手側に、組合費を徴収してもらっているのです。そこで、市の方では、組合が強硬な手段に出ようとすると、それなら組合費の天引きを止める、という脅しをかけることになり、組合としては大変悩ましい問題となっていました。そこで、遂に組合は、昭和35年に、市による天引きを諦め、組合費の自主徴収に踏み切ることになります。これは、組合が自立的な組織であるためには、交渉相手に依存しない基盤を確立するために本来は不可欠のものでした。
 しかし、組合にとって組合費自主徴収の現実は厳しく、職場の役員が組合員一人ひとりから毎月組合費を徴収するのはなかなか大変なことで、「組合は一体何をしてくれたのか!」といった文句をいわれるばかりか、気に入らないときには組合費の支払いを拒否されることにもなり、そんなこんなで、職場段階での組合役員の成り手がない、という状況が生まれていました。これは私自身が身をもって経験してきたことです。

●市長私宅へのデモ
 高山市長と全面対決していた組合も、その内実には不安定な要素があり、そのため、当時の組合のたたかい方は、今日からすれば、ある意味で手段を選ばない方法もとっていました。高山市長の自宅へデモ行進して陳情するというやり方で、私も何回か行動を共にしていますが、世間知らずの若かった私は、そんなものなのかと思っていましたが、こんなことをされたのでは、たまったものではありませんね。市長の生活が破壊されてしまうわけです。また、市長の隣近所の市民も大変な迷惑をこうむることになります。
 しかし、東山の馬町にあった高山邸は、市街地から少し離れた広大な敷地の大邸宅で、その意味では、隣近所の差し迫った問題はなかったのかもしれません。そして、その高山邸で、デモを待ち受けていたのは、市長公室長であった八杉正文氏で、氏は体力、気力共に旺盛で、デモを背景にした組合幹部と一人で対抗していたのを、「何ともまあ!」と見ていたのを思い出します。
 ただ、高山市長は、こうしたいわば無謀な圧力にひるむような人物ではなく、逆に態度を硬化するだけだったように思います。こうしたやり方をもっとも嫌っていたのではなかったでしょうか。組合のこうした手法は、市の有力幹部や有力市会議員などにも実施してきたようですが、私が経験したのは高山市長に対してのみでした。

●本庁舎座り込みと市会鉄柵の設置
 また、組合の有力なたたかい方の一つに、本庁舎内での座り込みという戦術がありました。これなどは、徹夜で市長室や中枢セクションのある市役所3階を中心に布団を敷いて7,80人が寝泊りします。そして、それをバックにして、市と団体交渉をするのです。
 京都市の市庁舎は、元々は市会議事堂内に行政セクションの市庁舎を建設したものですから、市役所の庁舎と市会議事堂とが同じ建物の中にあります。そのため、市会開会中にこうした組合の闘争形態が行われるときには、市会の議事進行にも影響が出るため、市会議事堂のある庁舎2階の市会出入り口に鉄柵が設けられるという事態も生じました。
 市議会と市長の事務部局とが同一の建物内にあるということは、京都市の誕生が、市議会からスタートしたという、自治体としての自治の優れた面が想起される反面、今日の状況からすれば、議会と行政機関との癒着の生じやすい問題性をはらんでいるともいえるのです。

●対決と癒着 接待 厚生会理事会
 戦後京都市における労使対決は、全国的な社会風潮も反映してすさまじいものでしたが、とはいえ、やはり職員組合は労働者の待遇改善や地位向上を目指すもので、しかも企業内組合ですから、労使が互いに理解しあい、協調しようとする雰囲気もあるわけです。
 私がはじめて選挙によって選ばれた専従役員としての常任執行委員になったとき、まことに驚きの経験をしました。
 私がはじめて市の職員組合本部の専従役員になったの確か昭和41年で27歳のときでした。まだ世間知らずの真っ直ぐな思考と行動にとらわれているときでした。高山市政の最終年で、京都市と組合とは厳しい対立関係にありました。ところが、役員選挙で当選した専従の新本部役員は、八杉公室長以下行政の労務担当による接待を受けたのです。場所は下鴨の下賀茂茶寮という高級料亭でした。本部専従役員8名の内私だけ欠席するわけにもいかず出席したのですが、日頃の対立関係は嘘のように、実に丁重に対応してもらったのです。もちろん労務担当者が役員をねぎらいお酌をしてくれます。そして、帰りには、黒塗りのタクシーが呼ばれて、タクシーのチケットを我々は受け取ることになります。それを拒否することもできず、私はそのチケットを破り捨てて、タクシー代は自分自身で払うことによって、ささやかなる抵抗をしたのを今も鮮やかに覚えています。若い、経験の少ない者として、この経験は心の中に深く沈みこんでいます。ただ、これを最後に、この種のことはなくなったのは、市も組合も新しい体制になってきたからと思いますが、組合のほうでは、ILO87号条約の批准による公務員も労働者としての基本的権利が認められ、自立した労働組合を目指すようになったことも大きかったのかなと思います。
 また、市と組合との関係で、労使の癒着を招きかねない土俵として、市の職員厚生会活動がありました。
 職員厚生会は、人事担当局の厚生課がその事務を所管しますが、運営方針等は市が選定指名する理事と職員の互選による理事とが同数で選ばれて運営を審議することになっています。選出単位は各局、区となっていて、行政サイドの選定委員は概ね局次長ないし区の助役(現在でいえば局の庶務担当部長ないし区の庶務担当副区長ということになります)、そして互選による理事は、概ね職員組合の各支部長が就任することになっていました。私は、本部専従役員になって数年目頃(その頃はすでに革新市政になっていたのではなかったかとおもいますが)に、厚生会の本部担当役員になり、厚生会互選理事会の事務局長として、互選理事を束ねる役割となったわけです。はたして、職員の福利厚生事業を行うこの厚生会というのは、企業内労働組合としての労使関係の実態をよくあらわしているもので、労働条件や時には政治的な問題をめぐって対立状況にある労使が、他方では、福利厚生をめぐって協調関係にあるわけです。労働組合経験の浅い若手の組合活動家にはなかなか理解しがたいことですが、そこに日本的な労使関係がよくあらわれていると思われます。
 が、そこにも問題がありました。年に1度、予算・決算、事業計画や事業実績を審議する理事会がありますが、その場が、何とも嫌な雰囲気だったのです。各理事の席には、当時のことで、予めタバコが置かれていました。加えて、議事が終わると宴席となります。組合の互選理事も局次長(現在の部長クラス)と対等の位置にあるわけです。職場における役職では、終戦直後の場合と違って、この時期では、組合の支部長といえどもほとんどは一般係員で役職者ではありません。しかし、厚生会理事会では、部長級と同じ地位に立ち、しかもお酌を受けて、いわば接遇される関係になるわけですから、組合役員が、期せずして「偉い」存在になってしまいます。ここに、気を許せば、組合役員が自分の能力や実績を超えて、自分を「偉い存在」と過信してしまう危険性があります。これは、使用者側である市としては、まさに思う壺で、労使癒着の温床となり、表面的にはともかく、実態的には労使は決定的な対立関係にはならないことになるわけです。その具体的な事例はありますが、すでに過ぎ去ったことですから、ここではこれ以上記すことはやめておきます。
 唯一つこのことと関係するかどうかは別として、組合の中には、労使協調派と組合自立派の二つの流れがあり、京都市のあり方との関係で微妙な影響をもっていることは触れておきましょう。

●組合内での主導権争い 対立と融和
 労使関係の労働組合側もまた複雑で、組合内での大きく二つの流れの主導権争いがあります。いうまでもなく、社会党系と共産党系の流れです。専従役員は概ね政党員でもあるわけですが、そうでない場合もいずれかのシンパと目されています。労働組合運動が政治的に傾斜しがちなのはこうしたことからでしょう。けれども、こうした政党組織のバックなくして、労働組合の専従役員になることもまた大変な勇気を要したことです。
 市役所の職員組合が結成された当時はともかく、高山市政下では、伝統的に共産党系の影響力が勝っていたようですが、そのあゆみは両者の対立と融和の繰り返しであったといえます。そしてそれは、微妙に京都市と組合との関係を性格づけしていくことにもなったのではないかと思われます。
 昭和37年に三役が馘首されたときの三役は委員長が社会党系、副委員長と書記長が共産党系でした。その直後に編成された執行部体制は、事態収拾のためのいわば暫定内閣とでもいうべき性格のもので、委員長は社会党系であったものの、副委員長と書記長は無党派の方でした。そして、この暫定的時期を経て1年後の昭和38年、社会党系と共産党系との全面対決となり、本部常任執行部は社会党系が占めることになります。これをチンイツ内閣といいます。ちなみに、話し合いによる両系統の統合された執行部はホンイツ内閣といいます。もっとも、馘首された元三役は特別執行委員として別枠で選出されていましたが。このときの社会党系の委員長が若林清太郎氏でした。以後この全面対決の選挙戦は昭和42年の富井革新市政誕生まで続き、昭和42年からは両者話し合いによる混成軍の本部執行部体制となります。この辺りは、私自身も直接経験してきたことです

●ILO87号条約批准と関係国内法の整備 自立した労働組合に 昭和41年
我が国は、昭和25年に発効していたILO87号条約(結社の自由及び団結権の保護に関する条約)の批准をしていませんでした。そのため、公務員及び公共企業体関係の労働組合は、わが国の国内法が同条約に違反しているとして、ILOに提訴し、その批准を政府に迫っていました。昭和40年には、スト権を戦いとるために、「スト権スト」なるものも行使するようになってきていました。これに対して政府は昭和40年6月14日、ようやく批准し、関連する国内法を整備します。この関係法の中に、国会公務員法と地方公務員法とがありました。国家公務員法と地方公務員法は、ともに労働関係法ではなく、いわば公務員の身分法のようなものでしたから、公務員も労働者であるという認識の上に立って、自主的な労働組合の結成と活動の自由を保障するべく公務員法を改正するものでした。
 そこで、労働組合としての自由を確保するということは、多面では、使用者側からの便宜を受けてはならないことでもあり、こうしたことから、自立した労働組合運動を心がけることになります。市長部局を中心とした従来の京都市職員組合の名称を、昭和41年に京都市職員労働組合と変更したのはそのためです。自立した労働組合運動です。で、実態はどうなっていったのでしょうか。
 まず、本部専従役員です。従来は、専従者であっても、その給料は京都市からの支給を受けていましたが、それを廃し、専従期間中は休職となして、給料は労働組合自身が支払うことになりました。また、この休職期間は、年金や退職金の算定期間に入れないことになりました。これには、労働組合としての財政問題と専従者自身の覚悟が必要となります。また、市の職員以外の外部からの役員導入も可能となりましたが、このことは現実には実行されていません。
 次に、組合費の徴収の仕方の問題があります。先にも述べたように、組合費の自主徴収は、ずいぶん困難なものでした。職場における組合役員と組合員との関係は緊張します。しかし、実は、こうした組合と組合員との緊張状態は、健全な労働組合を築く上では極めて大切なことなのです。闘争至上主義や過度な政治性に陥らない、地に足の着いた、組合員のための組合、そこに働く労働者のための労働組合になるためには不可欠のことであるとさえいえるでしょう。労働組合の中枢部の役員のほとんどが、概ね社会党か共産党員であった当時としてはそうでした。このことが、自立した労働組合づくりにずいぶん貢献したと思いました。
 ともかく、ILO87号条約批准により、自立した労働組合を築くため、昭和41年、組合の名称を、それまでの「職員組合」から、「労働組合」に変え、「京都市職員労働組合」となりました。しかし、折角自立した労働運動を目指したにもかかわらず、昭和42年に降って沸いた市長選挙で、自らが推した市長が当選したことにより、組合費の天引きを再び始めるなど、市側に便宜を求める傾向に走ることになったことは至極残念なことでした。

 

第3節 財政再建計画〜財政窮乏化と再建

 京都市の戦後は、財政窮乏化とともに始まり、昭和30年代前半の財政再建計画で一応の段落となります。以後も、財政困難な状況は続くにしても、昭和20年代から30年代半ば頃までのような極度の状況にはないといえます。それは、戦後のわが国の経済復興とともに、地方財政への国家のテコ入れがそれなりに進められてきたからでしょう。
 さて、昭和31年3月、京都市は、地方財政再建特別措置法に基づき、財政再建団体に指定され、昭和30年度から37年度までの8ヵ年で累積赤字を解消するための財政再建計画を作成し、自治省の許可を受けます。これは、累積赤字を起債にして、政府から若干の利子補給を受け、緊縮財政によって8ヵ年で返済するというものです。時代が、高度成長期に入ってきていたため、税収の増加から、再建計画の期間を1年短縮して繰上げ返済し、7ヵ年で昭和36年度でもって再建計画は完了することになります。

 財政再建計画に関してはすでに多くのところで明らかにされており、ここでは私のささやかな体験によるところを少し記してみたいと思います。

●めぼしい固定資産税は三和銀行京都支店のみ
 当時、新規採用職員の研修は、4月1日採用で、当日配属先の辞令を受け、その日から2週間であったように思います。その間、毎日カリキュラムにしたがって、学校での勉強よろしくびっしりと京都市政にかかる総合的な教育を受けました。講師は概ね各局長や課長であったように思います。具体的なことは全く記憶にありませんが、一つだけ記憶に残っていることがあります。それは、京都市が財政再建中であるということです。
 財政再建計画などのことはこれもすべて記憶の外ですが、京都市の財政に関する説明、これは理財局長であったと思いますが、唯一今もなお記憶にあるのは、京都市の財政の特徴です。戦後税制の確立は、京都市にとっては極めて好ましくないもので、とりわけ固定資産税の低さが財政困難の大きな要因となった。固定資産税の低さは、古い老朽家屋の多さや製造業の設備の劣悪さに加えて、課税対象外の社寺敷地の多さなどに起因しているというものです。戦後の固定資産税の対象がいかに貧弱かということの例として、京都市にとって目ぼしい課税対象は、昭和33年当時、烏丸四条北西角に新築されていた三和銀行京都支店が、ほぼ唯一ともいえるものである、ということでした。三和銀行はすでになくなり(東京三菱UFJ)、そのビルもいまは、現代的な商業施設に様変わりしています。
 こうして、京都市の財政は、大都市でありながらも消費都市的性格を持ち、財政需要は大都市でありながら、その財政規模は中規模都市並みである、ということです。これが、今もなお記憶として強く残っています。

●職員採用の極度の圧縮と多数の長期アルバイト職員
 私が採用された昭和33年は、財政再建計画実行中の真っ最中でした。財政再建策の中核をなすのはいうまでもなく人件費の圧縮、すなわち職員数の削減です。そこで真っ先に実行されるのは新規採用職員数の削減です。そのため、この年4月の新規採用職員数は、交通局や教育委員会を含む京都市全体で、事務職の場合高卒採用で17人、大卒採用で14人であったものと記憶しています。そして、高卒者の場合、技術職を含めて33人であったため、昭和33年に33人が採用されたということで、「三三会」という名称の研究会をつくり、市政全般について親睦を兼ねた研究を進めることにしました。会には、有能と目された係長級の職員が顧問につけられました。現在と比較すると、採用者数は一桁違いますね。当時の市長部局の職員数は5千人程度、京都市全体で1万人程度だったでしょうか。いかにもそれだけでは仕事の量が裁けません。
 そこでとられた手段が、アルバイト職員による穴埋めです。アルバイト職員は、地方公務員法では臨時的任用職員として位置づけられ、6ヵ月以内の任用で、一度の更新が可能というものでしたが、現実には何年にもわたる長期のアルバイト職員が市長部局だけでざっと2千人は下らなかったと思われました。私の最初の仕事の一つは、こうした臨時的任用職員の採用にかかる事務でした。こうして、財政再建計画下の職員は、その3割が今日いうところの非正規職員によって占められていたのです。この状況が、その後の市政における人事行政のひずみとなって深い禍根を残すことになりました。
 また、こうした長期的な臨時的任用職員は、労働の実態からすれば京都市職員の健康保険組合の適用をするべきなのに、現実には、日々雇用の形態として、日雇い健康保険を適用し、日雇い健康保険手帳に日々保険料の印紙を貼っていました。こうした状態は、昭和30年代の終わり頃まで続いていました。そのきっかけは、私が、市の提案制度で、そのことを指摘したことがあったからのようです。依頼、雇用形態は、2ヵ月雇用で更新は一度きり、その後は2ヵ月空けてまた繰り返す、という具合に返ってややこしい辻褄合わせになってしまいました。若かった私も、現実の難しさを思い知らされた、ということです。

●旅費、諸費、超勤
 財政再建の主要な柱は、いうまでもなく人件費の削減、すなわち人員の削減です。また、一人当たり人件費の抑制も重要な柱でした。私が、初めて従事した仕事の一つに、局内数十人の時間外残業を行った場合の超過勤務手当の整理事務がありました。局内の残業手当に関しては、あらかじめ人事課サイドから残業時間の配分が指示されていて、その時間の範囲でしか残業手当は支給されないのです。かりにそれを超えて残業、すなわち時間外勤務を行ったとしても、超過した時間に対しては残業手当は支給されません。そこで、私の仕事は、局内職員の時間外勤務の実績を記録した上で、人事課から指示されている時間内に収まるように、各職員ごとに削減することでした。時間外勤務は、月や季節によって変動があるため、年間を通してはできる限り穴埋めするように配意するわけですが、8掛けとか7掛け、時には5掛けなど、超過時間の高を勘案しながら実時間を削減したものでした。この実態は、建前としては存在しないことになっているのですが、現実にはこうした、労働基準法にもとる行為を仕事として行っていたのです。時間外勤務のことを「超勤」といっていました。
 この超勤と、出張旅費、さらに接遇費などの諸費は、厳しい制限下に置かれていて、各事業局における事業を進める場合の潤滑油とも言うべき経費の抑制が図られていました。出張旅費は、市内出張と市外出張に分かれていて、市内を移動する場合の市電や市バス等の交通費も市内出張旅費ですが、これらを含めて出張旅費も制限下にあり、当時は行政課がそれを所管していて、行政課に合議してその決裁の下に経費が支出されたのです。接遇費も同様の扱いでした。
 こうして、旅費、諸費、超勤は、財政再建計画下における三大抑制費で、局の庶務としては、大変苦労したものでした。
 もちろん事務費なども抑制されていて、当時の主要な筆記器具であった鉛筆の購入にも苦労をしていました。ただ、工事にかかる経費に関しては、工事費の一定割合が機械的に事務費として計上されるため、建設局など工事費主体の事業局においては、財政再建の経費抑制には関係なく事務費を持つことができ、鉛筆などでも、当時出始めた高級鉛筆の「ユニ」を潤沢に購入していました。我が局内の事業課のやり手の庶務担当係長が、建設局からそのユニを貰い受けてきて、それを、筆記具にも苦労をしている区役所の農政課に配っていたのを思い出します。

●再建計画完了と本格的都市整備へ
 昭和29年度末の累積赤字は18億98百万円で、同年度の歳出決算額107億84百万円の約17%となります。これを平成27年度一般会計の決算額でみると、歳出額7261億19百万円の17%は、約1,234億円となります。これだけの累積赤字があったということです。市税の決算額が2,529億円ですから、市税年間額のほぼ半額に匹敵する累積赤字額があったということになります。ま、一概に単純な比較はできませんが、相当な額であることは確かです。
 念のため、再建計画概要を紹介しますと、1955年12月に地方財政再建促進特別措置法が制定され、京都市は、翌1956年3月9日に同法に基づく再建団体に指定されます。当初の再建計画期間は1955年度から1962年度までの8年間です。再建債発行額は18億37百万円で、これを8年間で償却することになります。利率は6.2%〜7.7%です。1958年11月15日、再建期間を1年短縮し、1961年度に再建債は全額償還し、再建計画は完了します。こうして、財政再建を終えた京都市は、折からの高度成長のなかで、国の国土総合開発計画と近畿圏整備事業策定作業の流れの中で、いよいよ、本格的な都市づくりに向かうことになります。
 それは、狭義の都市整備の枠を超えて、それを推進する近代的な市役所づくりを目指すものでした。そのため、企画局長斎藤正氏の指揮の下で、京都市総合計画策定作業が、近代的な市役所づくりは、市長公室長八杉正文氏を中心に市政管理の近代化プランが進められることになります。そしてそれらは、大きく『第二の平安京づくり』として包括されることになります。これらについては、改めて後述したいと考えています。


●高山市長の厳しさと優しさ〜宝ヶ池競輪場の廃止 ギャンブルとその救済 制服
 私が市役所に入職した年の昭和33年9月、高山市長は京都市が運営する宝ヶ池の競輪場を廃止しました。まだ財政再建期間の真っ最中であったにもかかわらず、です。市営競輪場は、高山市長が市長に就任する直前の、前年12月に営業を開始し、この種の事業は、財政難の地方自治体の貴重な財源となっていたのです。しかし、高山市長の独特の正義感とでもいうべきでしょうか、ギャンブルの儲けで市政の助けを得ることを許すことができなかったのです。所得の低さにもかかわらず、ギャンブルによる生活破壊が生じるのを見ていられなかったのです。これは、学生時代から社会運動にはいり、また、弁護士活動をやっていたがゆえに、こうしたことがよく理解できていたのではないでしょうか。ちなみに、革新府政の蜷川知事は、府の向日町競輪場を廃止することがありませんでした。
 この宝ヶ池競輪場廃止に関し、昭和30年代の終わり頃だったと思いますが、人事の刷新を図るために、局の庶務係長で在職の長い方々を入れ替えることがあり、観光局の庶務係長が私のいる農政局の庶務係長に転任してきたのです。同氏は、競輪場廃止の時の担当係長であったために、その事態処理、とりわけ従事職員の身の振り方に苦労され、その当時の資料を大切に保持されていました。同氏、四宮豊氏は、後に述べる、農政局の改革に挑戦するメンバーの一人でした。
 また、高山市長のギャンブル嫌いは、職員の掛けマージャンにも及び、これを禁止します。ただ、高山市長は、こうした厳しさだけではなく、当時、まだまだ市の職員の給与水準は低いことも承知していて、この時期だったと思いますが、個人の秘密を厳守した、行政組織から独立した職員に対する相談員制度を設け、また、必要に応じ、救済資金の貸付制度を設けました。金額は10万円か30万円か忘れましたが、当時としてはそれなりの額だったと思います。実は、夜間大学に通っていた私は、この資金を借りて助けてもらいました。
 また、昭和33年といえば、昭和20年の敗戦後まだ12年しかたっていません。生活費や服装なども現在と比較してとても低い水準でした。そこで、新採研修の時に、私たち新採者に、高山市長は、制服を貸与することにしたが、その制服で、河原町を歩くこともできるものにしたので、君たちも時間後も着用してエンジョイしてもらったらいい、という趣旨のことを言ってもらって、うれしく思ったことを覚えています。高卒者の私は、まだ当時の詰襟の学生服しかなかったので、辞令の受け取りも、新採研修の受講も、学生服のままだったのです。これなど、毅然とした高山市長の優しさの面をうかがわせていました。


●補食ということ〜健康管理
 役所で「補職」といえば、職に補す、ということで、役職に就けるという意味で、役職者のことを「補職者」といいます。これとは別に、私が市役所に入ったころには、「補食」ということがありました。これは、食を補う、という意味です。財政再建期間中ではありましたが、実は、時間外勤務の時間が3時間を超え、夜8時以降になると、勤務を終えて家に帰ってからの夕食にまで、かなりの時間がかからり、空腹で仕事や健康に差しさわりがあるため、家での食事までのつなぎに、多少の軽い食事をとることが認められていました。これを補食といったのです。
 終戦直後からの食糧事情が悪い当時、みなが十分な栄養を取れない状態続いていたために、今にように、満ち足りた栄養状態での空腹とは、体力の維持に相当な違いがありました。おそらくそういう事情から補食というものが会ったのだと思います。昭和33年当時、たしか300円程度までだったのでしょうか、市役所庁舎の地下の食堂から出前を取っていました。その後、物価の上昇とともに数百円程度或いはそれ以上にまで上っていきますが、同時に、昭和35年頃から、経済の高度成長に起因するのでしょうか、何か急激に事務量が増えだしたのを体感していましたが、事務量の増加に伴い。残業も増えだし、勢い補食の量も拡大していきます。そのため、補食の出前は、市役所周辺の食堂にまで及び、財政的調整の可能な部署では、とんかつ弁当などを取るようになり、例えば、冨小路通姉小路の「とんまん」などは、市役所の補食で大きくなったと、その当時いわれていました。補食の経費は、先に触れました、旅費・諸費・超勤の内の諸費からの支出であり、これは行政課が集中管理していましたが、来客の接遇などの場合には、秘書課が統制下においていました。ま、しかし、財政再建計画を終え、経済の高度成長が進む中で、補食の程度もだんだんに豊かになり、補食というよりも、夕食という程度に質量ともに拡大していくことになります。
 しかし、バブル崩壊後であったのか、或いはそれ以前であったのか、慢性的な市財政の窮乏化の中で、また、民間における人件費等の経費節減の影響なども受け、こうした、戦後の産物であった「補食」制度は廃止となりました。以後、残業が夜8時以降、10時になろうと12時になろうと、空き腹をかかえたまま仕事を続けるという状況が生まれることになりました、その当初には、コンビニに走るということもあったようですが、辛抱のできる限りは空腹のままの残業を続けるようになります。
 この「補食」というものは、民間企業にはあまりないようですが、考えて見ますと、長時間残業で空腹を抱えたまま仕事をし、夜遅く帰ってから深夜に近いような時間帯で夕食をとる暮らしは、まさに不健康そのものです。食べればすぐに終身です。夜遅く、一気に食べてすぐに寝る、これほど不健康なことはありません。長時間労働には、いろいろな意見がありますが、特定の職員が特定の仕事に責任を持つ場合や、仕事先の相手との関係での対応など機械的に時間を制御することはなかなかに困難なことです。下手に時間を制限すると、結局家へ仕事を持って帰り、子どもが寝た後の深夜の仕事になるのです。
 民間企業や公務員にかかわらず、残業時間内における食事の問題は、国民の健康管理の面から、真剣に検討されるべき課題ではないでしょうか。成人病やメタボリック問題などはこの点を抜きに抜本的な解決策はありません。残業時間の制限は、なかなか一律にはいかないと同時に、実効性にも多くの問題があり、当面の解決策にはなりません。当時のことを思いつつ、つい現在の問題につなげてしまいました。

 

第4節 農政局の誕生と消滅

 昭和33年4月、京都市の機構改革は、政令指定都市発足後初めての大規模なもので、戦後の局数では最大のものとなり、この時に産業観光局は、商工局と観光局、そして農政局の3局に分割されます。ただ、この時の農政局の創設の深層は、上田局長が所管する産業行政から農林行政を分離することが目的であったということを聞きました。当時、北区の大文字・船形の船山山麓に造成されつつあった「西賀茂ゴルフ場」に対する農業委員の関与が問題となっていて、思い通りにならない上田局長を嫌って、有力農業委員たちが市長に働きかけ、上田局長の所管から外すことになったということです。一つの側面として、こうしたこともあったのでしょう。「西賀茂ゴルフ場」は、現在、「京都ゴルフ倶楽部舟山コース」として運営されています。
 ともあれ、農林行政は、1局として成立したのですが、その行政の実態は、有力農業委員に事実上支配されていて、まもなく、農林行政のボス支配からの脱却と近代化が課題となり、ついに、誕生後7年にして、折からの全市的な行政改革の中で再び商工行政と統合され、その局は消滅します。新採職員として、昭和33年4月に農政局に配属され、昭和40年2月に商工局と統合されるに至るまでの7年間、筆者は、農政局の歩みと一体となって自らも歩むことになりました。
 
●農政局の概要
 ここで、先に農政局の概要を紹介しておくことが、全体理解の助けになると思います。
 農政局は、局としては小さな局で、組織は庶務課、農政課、山林耕地課の3課で構成され、職員数は70名程度でした。そして、事業所としては中央卸売市場(現在の第一市場)を抱えていました。中央卸売市場は各地域の公設市場を抱えていて、その職員数も、およそ7~80名だったでしょうか。全部を合わせても150名程度で、まことに小さな局でした。ただ、農地の多かった区には、農政課が置かれ、これを実質的に動かしていたのは区長ではなく、農政局でした。
 農政課は、農政係、園芸係、畜水産係の3係、山林耕地課は、林務係と耕地係の2係でした。中央卸売市場は、実質的には農政局の指導下にあるというよりも独立した一つの経営体だったといえ、農政局が局としての一定の規模を備えるために農政局に所属させられたと理解するのが妥当だったように思われました。
 農政課のあった区は、北区、左京区、東山区(山科を含む)、南区、右京区、そして伏見区で、そこには農業委員会があり、区役所にその事務局が置かれ、区の農政課長は、農業委員会の事務局長を兼任していました。こうした状態が、後々の問題となるのです。当時は、市街地にまだまだ農地が多く、9区中6区に農業委員会があったのです。農業委員会のなかった、したがって農政課が設置されていなかった区は、上京、中京、下京の3区にしか過ぎず、勢い農業委員会の市政におけるウエイト高かったのです。が、はたしてそれは、一局を構えるほどのウエイトを持っていたのでしょうか。誕生直後から、そのあたりの問題が進行するのです。

●農政改革への動機
 農政局が誕生したものの、実は誕生直後からその改革の必要性が潜在していました。農林行政は、戦前からの成り行きと有力農業委員の関与によって進められていたようで、市役所の近代化を進めていた労務担当の八杉正文市長公室長が、農政局誕生の当初から「ボス支配」からの脱却と行政の正常化を考えていたようで、これを、過剰サービス論として組合との交渉の場でも主張するようになりました。農林技術職員は、過剰なサービスをやっていて技術職一般の待遇をするに値しないというのです。
 他方で、農林技術者の方は、そうした人事行政の責任者から全うな技術者として認識されていないことへの強い失望感を持つと同時に、そうした状況を生み出すことになった農林行政の歴代責任者の無責任さに対する憤りが爆発することになります。当時、京都市政の近代化を進めていた八杉市長公室長が、組合に対する挑発を行うことによって、農政技術職員が立ち上がることを期待していたのであろうことが、今にして分かる気がします。
 時代は、経済の高度成長が始まり、都市の拡大が進む中で、逆に農地は侵食され、都市周辺の農業は衰退の一途をたどり始めます。都市内農業は当然のこと、都市化の進展によって、農業と市街地との混在状況が生じ、都市周辺農業はその存立すら危ぶまれるようになります。しかしながら、戦前戦後の、米穀生産を中心とした食糧増産の農業政策のままでは、特に都市周辺では農業が立ち行かなくなります。問題の根源は、こうした時代の要請に応えることのできない農林行政の状況にあったのではないかと思っていました。

●二足の草鞋から農林行政の深みに 
 さて、ここで、私の農林行政における位置を説明しておかなければなりません。江戸時代の岡っ引きではありませんが、一方では統括部門の実務を、他方ではそれに対抗する労働組合の職場責任者という、二つの相反する立場を歩むことになったのです。高山市政下での厳しい労使対決の時代にあっては、組合の役員も勢い現場部門が中心で、局内を統括する庶務部門からの役員はほとんどいませんでした。ただ、このことを必要とし、かつ可能ならしめたのは、放置することのできない農林行政の問題そのものにありました。つまり、農林行政の改革には、この二足の草鞋が不可欠であったのです。
 昭和33年4月に市役所入職と同時に、新設の農政局に配属されたのはすでに述べたところです。農政局は、技術陣中心のこじんまりとした局でしたから、二つあった事業課には庶務は置かず、事業課の庶務も、局の庶務が一手に引き受けることになっていました。庶務課は、当初は庶務係と経理係の2係で、私は庶務係に配属され、局内文書の全てを点検する立場にありました。そして、徐々に企画や法制関係にもタッチし、数年後には局内全ての動向や意思決定、さらには、市役所の庁内管理中枢部門との連携にも深く関わるようになりました。と、同時に、昭和36年頃から組合支部の執行委員として、農政職場の組合員に対する責任を負うようになり、39年には、観光局を含む産業観光支部の支部長に就任し、京都市職員組合の中央執行委員の一員ともなりました。こうして、二足の草鞋としての活動条件は整いました。

●八杉公室長の、農林技術者に対する挑発
 農林行政の改革、すはわち農政改革に火がつく下地は、先にも記しましたように、人事担当セクションであった市長公室の八杉正文公室長の挑発に始まります。それは、農林技術職に対する差別的対応でした。
 昭和38年当時、いよいよ実施となりつつあった、技術職給料表への適用を巡って、労使の団体交渉の席上、農林行政は過剰サービスであり、技術職給料表への適用はしないと言明し、農政技術職員のプライドを著しく傷つけたのでしたが、これは、今にして思うと、八杉公室長一流の、農林行政に対する挑発だったと思われます。農政改革は、ここから始まったといえます。八杉公室長は、京大農学部の農業経済を修めており、京都市の農林行政には強い関心を持っていたようです。そのため、職員組合を挑発するだけではなく、自らも、改革を担う人材を農政局に送り込んだのです。ただ、自らは、農林有力者との対決を避けていたのですが…。
 *「技術職給料表」とは、当時、経済成長の進展と共に、技術職員が不足するようになり、とりわけ1級建築士の確保が難しく、そのために給与条件を高める必要が生じ、技術職の別表をつくることによりその目的を達成しようとしたのです。ただ、そうはいっても、建築技術職だけというわけにもいかず、建築、電気、機械、土木技術職を対象としたのですが、そこには農林技術職は入っていなかったのです。その理由は、農林は過剰サービスで、技術者の水準も低いという、労務担当責任者である八杉公室長の言でした。

●農林行政改革の基本文献
 今、手元に農林行政改革のための基本文献とも言うべき5文献があります。時系列で掲げると次のようです。これらの作成発行者はいずれも組合名となっていますが、それは、農林行政改革派の実態をカモフラージュするために、労働組合の名を借りたものでした。
すなわち、改革派の実名が明らかになると有力者の関与によって、俗にいう「飛ばされる」ことを防ぐためでした。
 1964.9 「京都市農政の現状と課題」京都市職員組合農政問題研究委員会
 1964.10「農政本庁職場 待遇改善に関するアンケート集約結果(T)」 農政局本庁職場委員会
 1966.4 「農政技術職 待遇改善闘争の経過と展望」 京都市職経済支部/農政本庁職場委員会
 1966.6 「京都市農政における 技術職員農協派遣制度の現状」 京都市職員組合/市職農政問題研究委員会」 京都市職労経済支部/自治研推進委員会
 1973.8 「京都市農政の現状と課題を考えるに当たって−『京都市農政基本方針(試案)』と『農業問題協議会』に関連して」 京都市職労経済支部自治研推進員会

 改革の山場は1964年で、この年の春、監査事務局の課長であった三宅康雄氏が農政局次長に就任し、同氏の下に、四宮庶務係長と向坂農政係長、それに組合本部の書記長であった農政課出身の清水氏と私が加わった非公式のチームがつくられました。当初は清水氏が前面に出、後には私が前面に出ることになったこの改革チームは、隠密裏に進められたのです。

●衝撃のアンケート調査
 さて、まず改革チームが着手したのは、京都市農林行政の課題を明らかにすることで、そのため、京都市職員組合農政問題研究委員会の名で、『京都市農政の現状と課題』を1964年9月に発行、次いで翌月の10月には、職員組合の農政局本庁職場委員会が2月に実施していた全職員に対するアンケート調査の結果の詳細を『待遇改善に関するアンケート集約結果(1)』として発行しました。このアンケート結果はまことに衝撃的なものでしたので、ここにそのエッセンスを紹介しておきたいと思います。
 職場組合のアンケート調査は、まことに特異なもので、農政職場委員長名で、農政局の合理化が取りざたされ、農政技術職員の待遇が不当に扱われようとしている状況の中で、職員一人ひとりの意見を、たとえ一行でもいいから書いてほしい、しかもそれは責任あるものとして記名で、という訴えの趣旨のみの、調査項目や回答用紙すら添付しないアンケオート調査でした。そしてその取り扱い一切は、職場委員長と支部書記次長の二名が協議の上決定するというものでした。このようなアンケートならざるアンケート調査に、どれだけの回答が寄せられるかという不安があったものの、結果は、ほぼ全員の約40名から、B5の用紙1枚のものからB4の用紙数枚にのぼるものまで、端的に鋭い指摘を行うものから、具体的な業務や行政の実態を明らかにしたものまで、実に多様な実態が明らかにされました。と同時に、このアンケート調査を実施した職場委員長であった古参の農業土木技術者の吉岡久晴氏と当時支部の書記次長であった私とは、その責任を重く背負うことになりました。農政改革はここからスタートしたといえます。回収結果に基づく職場全員による協議が連日行われることになりました。事態は実に深刻で、職場、職員の全員が深くそのことを認識していたのです。
 では、どういう内容だったのでしょうか。
 内容は、差別的待遇に対する不満にとどまらず、農林行政の停滞とその原因としての外部圧力と局上層部の状態など、極めて多岐にわたっていました。アンケート集約結果では・農政技術職が、技術職別表からなぜ除外されているのか ・局のウエイト、性格 ・農政局の人員及び機構の規模 ・仕事の内容、仕事のあり方 ・職務実態 ・局管理者の実態 ・局内外の圧力への姿勢 ・過剰サービス及び地区駐在制について ・人事交流 ・待遇のあり方 ・別表適用について ・結果としての職員の心境 ・我々職員自身 ・要求 などに分類、整理されています。
 その詳細は別の機会にゆずるとして、その結論的な部分を紹介しますと、職員組合の待遇改善にかかるアンケート調査であったにもかかわらず、そこに示されてきたのは、減少しつつある農地とそれに対する農林行政の遅れ、とりわけ農林行政を担っている責任者の無為と農業ボスなど外部圧力への迎合という京都市農政の深刻な姿でした。そこでは、待遇改善よりも、より根本的な、正常な農林行政の構築を望んでいたのです。が、これまでの職員個々の建設的な意見は、いわゆる所属長によって抑えられてきた実態が浮き彫りになりました。「心よく我に働く仕事あれ それをしとげて 死なんと思う」という詩的一文には心打たれたものでした。結論的にいえば、待遇改善もさることながら、仕事そのものにやりがいを求めていたのです。職場委員長と私は、これにはショックを受けました。
 農政改革は、まさにここからスタートしたといえます。

●時代遅れの京都市農政とその課題
 −過剰サービス論とボス支配からの脱却を目指して
 さきにも触れましたように、京都市の農林行政は、戦前から敗戦直後にかけての米作を中心とした食糧増産時代の流れのままに推移して、経済の高度成長期に差し掛かった都市の農地と農業経営に対する有効な施策を考案し実行する能力を欠いていました。
 わが国の戦後の農林行政は、農業協同組合と農業委員会という民主的な農業者自身の組織に代表されていますが、実は、これがその実態を備えないところに問題があったようです。
 農業協同組合は、明治時代の帝国農会の流れを汲む全国農業会の地域組織としての京都市農業会を廃止して、昭和23年に設立されたのですが、京都市農業会の技術職員は京都市が引き継ぎ、農業協同組合は、営農指導を行う自らの手足を持っていなかったのです。そこで京都市は、農業会から引き継いだ技術職員の身柄を事実上地域の農業協同組合に預けることになり、これを「地区駐在制」とよんでいました。元来農業会の技術職員は、米の増産と供出のための食糧検査権をもっていて、技術指導よりも検査権のほうが実質的な業務となっていたため、新しい制度に位置づけが変わっても、その実を挙げることは困難だったといえます。とりわけ、全国一律的な米作を中心とした食糧増産政策を担ってきた技術職員では、戦後必要となってきた都市とその周辺における都市農業の特殊な営農の仕方についての素地がなかったのです。しかも、地区駐在制では、京都市サイドからの的確な位置づけはなく、ただ、農業協同組合にその人材を貸し与えることに終わっていたのです。
 ここから、二つの問題が生じました。一つは、農業協同組合の主体的な活動が生まれなくなったこと、今ひとつは、行政自身にも、地域の実情から農林行政のありかたを考究していく基盤が産まれなかったことです。さらにもう一つ、農業委員会の問題が重なります。
 農業委員会は、農業者の農地を守り、営農を発展させるための画期的な民主的組織であったにもかかわらず、経済の高度成長とともに拡大してきた都市化の波は、他方で農地の壊廃を生み、その許認可に関わる農業委員会とその会長が政治的にも強い立場に立つことになります。この農業委員会長がその事務局となっていた区農政課を支配するとともに、農業協同組合をその支配下に置き、地区駐在職員を自らの手足にするようになるのです。京都市農林行政の主体性はこうして損なわれ、20名近い地区駐在職員は、京都市の行政を遂行するのではなく、農業協同組合と農業の有力者に奉仕する雑用に提供されていたといえます。これを八杉公室長は「過剰サービス」の象徴として挙げていたのです。
 京都市の農政は、いうまでもなく都市内とその周辺に存在する農地や山林及びそれに従事する農林業者の経営の向上のための施策をたて、実行するためにありますが、こうして、戦前からの米穀中心の食糧増産時代からのやり方を漫然と続けていたのです。したがって、その課題は、全国の農業地帯における農業政策とは異なる、都市農業をいかに確立するか、都市化が急進展するなかでの農地と農業経営をいかに守り発展させるか、そのための農林行政を担うべき職員はどうあらねばならないか、が根本的な課題としてあったのです。そしてそのことが、都市の拡大発展を良好なものにしていく条件整備にもなっていくものでした。ですが、現実はあまりにも悲惨なものだったのです。その状況は、先の基本的文献を見ていただければよく分かります。
 『京都市農政の現状と課題』は、その時点での、歴史的歩みと現状把握、そして課題を提示しています。『京都市農政における技術職員農協派遣制度の現状−いわゆる「地区駐在制」を解決するために−』は、地区駐在制の現状と問題点を明らかにしています。「京都市農政の現状と課題を考えるに当たって−『京都市農政基本方針(試案)』と『農業問題協議会』に関連して」は、農政局消滅後の、その後の経過を明らかにしてます。

●有力農業委員のパワーと問題点
 このように、京都市の農林行政は、有力農業委員の強い影響下にあり、農林行政の管理者、特に技術職の各事業課長以下管理監督者は、その有力者に逆らうことのできない状況のもとにあったといえます。
 その有力者とは、先にも触れていますように、各区農業委員会の会長です。北区、左京区、右京区、伏見区がその代表格で、とりわけ伏見区の中村長三郎は、自民党の長老の市会議員でもあり、その影響力は絶大のものがありました。また、右京区の松山熊蔵は、政治の世界には一切無関心で、開発の波が押し寄せる右京区にあって、農業委員会長としての権能を遺憾なく発揮した、ある意味で、手のつけられない存在であったといえるでしょう。これも噂話ですが、新丸太町通りや山ノ内浄水場の建設には、松山熊蔵の関与があり、時の今川建設局長?(技監か)はその軍門に下ったという、むべなるかなということです。以前には、南区の農業委員会長も全市的な強い影響力を持っていて、建設的な役割を果たしていたようで、農政改革では、その南区を拠り所に粘り強く闘っていこうとしたメンバーもいたのです。後、南区の有力者の息子さんは自民党の有力市会議員となっています。
 いずれにしても、京都市内にはまだまだ多くの農地が存在し、そのために各区に農業委員会が設置され、そして都市化現象が進む中で、農地転用を巡って農業委員会が力を持つようになる。農地の減少傾向が逆に農業委員会の権能を高めるという逆転現象のなかで、有力農業委員会長がその存在感を増すことになったのです。そして、ついに、行き着くところへたどり着くことになります。
 それは、農地転用を巡る汚職事件で、ついに、右京区の農業委員会長は昭和29年に収賄容疑で逮捕、起訴され、最終的に昭和40年4月最高裁で有罪が確定します。その罪科は、まさに江戸時代の悪代官さながらで、菓子折りの下に札束が敷かれているというのまであったようです。要するに、農地の宅地等への転用をめぐって、その申請書類の進達機関である農業委員会の事務の進行を意識的に加減することによる賄賂の誘導であり、また、転用に当たっての寄付行為を求めるというものでした。そしてこれは、刑の執行猶予中にも続けられ、昭和42年に再び逮捕起訴されるという、まさに慢性的な状況にありました。農政改革は、他方ではこうしたことの進行をもにらみつつ進められたのです。

●農政改革の着手と挫折
 農政局の技術職員には、京都市の技術職員としての正当な評価を与えないことによって、また、労働組合には「過剰サービス」の現状を指摘するなど、職員の発奮を期待する挑発を行ってきた八杉市長公室長は、農林行政自身には自律的な改革が期待できないことを承知していることから、昭和39年4月であったろうか、農政改革のために監査事務局の課長であった三宅康雄氏を農政局次長に送り込んだのです。そして、そのもとに先に記した非公式の改革チームが立ち上がり、その最初の仕事として京都市農政の現状と課題を明らかにする作業をはじめ、『京都市農政の現状と課題』を発行したのです。こうして、農政改革は、行政サイドと組合サイドとがかみ合う形で進むことになります。ただ、この作業は大変困難なものでした。
 一方では、職員自身の意識改革と能力の向上、他方では、行政自身の主体性確立のための管理職の意識改革と有力者からの自立性の確保、そして、改革を図っていく上においての有力者の一定の理解など、容易なことではありません。京都市自身が、財政再建団体の束縛から解き放たれ、いよいよ戦後初めての本格的な都市整備に向かおうとしていくときにあって、農政も、近代的な都市政策の一翼としての役割を期待されてきていたのです。
 筆者も、組合としての活動とともに、農林業の実態を知るために、全区の状況を各区農政課の案内のもとに見てまわることなどもして、京都市農林業の実態とそれに対応する農政の実情把握に努めました。しかし、道半ばにしてこの改革チームは分解することになります。
 昭和40年2月、京都市は大規模な機構改革を実施します。いうまでもなく、この機構改革は、同時並行的に進められてきた、京都市にとって戦後初めての総合的な都市整備構想を実行するための庁内体制を築くためのものでした。そしてその中で、農政局は商工局と統合され、経済局となり、ここに農政局は消滅します。そして、経済局の中に農林行政を担う技術長があらたに設置されました。
 このとき、私は改めて農林ボスの力を思い知らされました。それは、農政局次長は他部局に転任することになるわけで、その内示は、異動日の前夜に行われるのです。が、その内示が出た直後、恐らく農林関係の有力者の圧力があったのでしょう、内示が変更されていたのを翌朝出勤したときに知ったのです。局の庶務ですから、人事関係の事務にも携わります。前夜、われわれ係員が帰った後で、上層部は局の統合と人事について、関係上層部からの連絡を待つなど待機体制をとっていたのでしょう。翌朝我々が知ったのは、次長は東山区助役に転じるということでしたが、私のデスクの片隅にメモと挨拶状の下書きが残っていたのです。そこにはなんと会計室長に昇任するというものでした。そこで、昇任は認められんという圧力によって、急きょ東山区助役に事実上の左遷となったことを理解しました。ボスに逆らうと出世できないぞ!という懲らしめの事例とされたのでしょう。こうしたことは、その後の私の市役所生活の中でも、幾つかの事例をみてきました。八杉市長公室長の内々の期待を担って改革に臨み、八杉公室長もそれに報いる昇任で応えたのですが、内示後という常識では考えられない段階での横やりが入ったのです。恐るべし!農林ボスです。
 改革チームの内、庶務係長は山科区の農政課長に昇任、これには、農林行政に一般事務職の管理職を置くことによって、技術職員にも一般行政の視野を備えさそうとした三宅次長の思いが実現していました。この試みは、同時に、農林技術職員であっても、他の行政を担い実行することによって広い視野を持つことが可能で、将来目標を広く持つために、農政係長を建設局の公園課長に昇任させていました。職員組合活動家の清水朝一氏は、組合本部の書記長から自治労京都府本部の副委員長に転じていて、改革チームで残ったのは私ひとりとなりました。ただ、それまでの取り組みの中で、農林技術職員自身が改革に向けて立ち上がってきていました。そうした中で、その翌々年、革新市長が誕生し、時流は一気に変化することになりました。

●局消滅と改革の継続
 農政局消滅は、同時に農政改革プロジェクトの消滅でもあったのですが、三宅次長の努力によって、その後の農政近代化への種は蒔かれたのでした。農林行政は、技術者と行政マンとの協力によって成り立つこと、農林技術者も、その本人の適性によっては他部局、他のセクションへの転身が可能で、将来多方面での活躍ができる道が開かれたのです。
 顧みて、米穀生産と出荷を中心とした、また、有力農業委員会長に従属した農政から、京都の都市に適応した野菜作経営を中心とした農業への転換指導を可能ならしめる自立的な農業経営に向かう、ささやかな転換がもたらされることになりました。京都の都市・市街地の発展と表裏の関係にある農林業の新しい時代への転換を目指す一歩は、こうした昭和30年代後半の農政職員の苦しみの中から生まれたのでした。
 昭和40年2月の機構改革後は、八杉総務局長と、農政改革の生き残りの私とが直接会う機会がでてきます。そのきっかけは、右京区農業委員会の松山熊蔵会長の農地汚職の有罪判決が最高裁で最終的に下ったことでした。八杉総務局長は、早速私に電話で呼び、「松山熊蔵の有罪判決が最高裁で出たぞ!」と本当にうれしそうに言っておられたのを今でも忘れません。職員組合で対抗してきた相手ですが、この農政改革をめぐる挑戦では、深く通じるものがありました。
 翌年昭和41年になると、2月の市長選挙で、自民党参議院議員であった井上清が市長となり、八杉総務局長は交通局長となって市役所中枢からは外されることになりました。また、私の方は、その年の秋には職員組合の本部常任執行委員となって職場を離れることになりました。変わって、自治労京都府本部へ派遣されていた清水朝一氏が職場に戻って職員組合経済支部の支部長についてもらいました。こうして、農政改革は、引き続き職場と組合のリーダーシップで少しづつではありますが進められていきます。
 ところが、再び事態は急変、翌42年2月に革新市長が誕生します。そこで、市長の理解を得て、改革への人事を断行してもらうことになります。昭和43年の6月だったでしょうか。
 富井市長実現には、職員組合も有力支持母体として活動し、革新市政実現後は、市長選挙支持団体の市政参加への中核的役割を果たすことになります。富井市長の下で形成された市長側近も、元組合役員が多く、こうしたことから、農林行政の改革について、富井市長に直接訴えることができ、当時人事課長であった奥野康夫氏(後、職員局長、助役)と連携を持って、一定の人事刷新を実現することができました。新しい時代への農林行政へのビジョンづくりは、こうした新体制によって進められることになりました。
 そうした過程を通して、1981年4月に農林振興室が設置され、その下で、全市に3つの農業指導所が置かれ、区の農政課は廃止されることになりました。これでもって、農政改革は最終的に解決を見たといえるでしょう。

*京都市農林業問題で、手つかずで残念なのは、戦後の農地改革の状況です。これを明らかにしないと、戦前から戦後にかけての京都市農林業の実情が明らかになりません。本文は、結局、筆者の体験を軸にしているのでこれでもいいのですが、長年気になりつつも結局これに取り組むことができませんでした。いずれ、誰かが着手してくれることを願っています。


 第5節 国際文化観光都市づくり

 さて、昭和20年代から30年代にかけての京都市政は極度の財政困難な状態にあり、昭和25年に京都国際文化観光都市建設法が折角制定されながらも、さしたるインフラ投資もできないまま、文化面や国際交流で努力を続ける状態が続いたのですが、財政再建計画が完了することによって、昭和30年代の後半から漸く戦後初めてといえる本格的な都市整備に取り掛かることになります。これには、本格的な都市整備構想の策定と、それを計画化し、実行していく庁内体制の整備か必要となってきました。これは、高山市政の3期から4期目となります。
 これは、基本的には、市行政の近代化と京都市の長期の総合的な計画構想の樹立の二つであったと思われます。市政の近代化は八杉公室長、総合的な計画構想は斎藤正企画局長、都市整備計画は建設省出身の島村都市計画局長が担っていました。

●京都市政の近代化
 八杉正文が市長公室長に就いたのは昭和35年でそれ以前にすでに局長級の市長公室次長に就任していて、京都市政の近代化には大変な意欲を示していたように見受けられました。一方では、新しい情報を常に収集し、また学識者の情報にも関心が高く、若手学識者らとの交流も深めていました。梅棹忠夫助教授もそうしたなかの一人であったようです。また、他方では、行政の仕組みとそれを担う近代的な職員づくりも目指していました。
 八杉公室長の近代的な市役所職員づくりは、新設の能率課がそれを担うことになるわけですが、八杉公室長自身が大変な勉強家で、総合雑誌をはじめこれという特徴的な論文類は実によく読んでいて、それを能率課の職員に「**を読んでるか!」と問いかけるので、能率課の主幹や主査達はなかなか大変で、勢い能率課をはじめとする八杉公室長の側近や周辺の職員はよく勉強していました。そして、能率課や側近の職員は、今度はそれぞれの親しい他部局の職員に、「**は読んでるか!」と問う、という形で、勉強の風潮ができていました。私なども、能率課の方々とは大変親しかったので、よく勉強させられたものでした。能率課は、市役所合理化の尖兵ということで、労働組合の攻撃の的でしたけれども、成り行き成り行きの積み重ねできていた従来の市役所とその職員のありかたを実質的に変えていく役割を、八杉公室長のこうした個人的キャラクターが実によく果たしていたように思われました。
 当時の市役所は、経済、民生、文化・観光、建設など、それぞれにその分野を象徴する有能な幹部職員が君臨していて、新参者である八杉公室長の思い通りには容易に進まなかったのですが、同氏は、それら、従来の一国一城の主や、労働組合との摩擦を繰り広げながらも、一貫して市役所とその職員の近代化を進めるために頑張ってこられたと思います。市役所内における勉強の風潮は、以後なくなってきているだけに、大変懐かしい思いがいたします。

●近代化の中身
 さて、八杉公室長が進め、また進めようとした京都市政の近代化とはどういうものだったのでしょうか。
 一つは、先進的な技術や行政手法の導入で、今一つは、職員の仕事に対する合理性の育成による能力の向上ではなかったかと思われます。
 まず、先進的な技術や行政手法の導入では、電子計算機の導入による行政実務の機械処理、行政各セクションがそれぞれバラバラにもっている各種資料の集中管理と活用などであったろうか。
 職員の合理性の育成による能力の向上では、技術職や研究職の処遇改善による技術水準の向上、清掃労働者など現業職員の職場環境と待遇改善による底辺労働の認識の一新などであったが、先進的な行政手法の導入と合わせて、これらは労働組合との対立要因ともなったのですが、この点は複雑で、現実には対立と癒着の両面があったといえました。
 いま少し詳しく述べてみましょう。

●電算機の導入と集中管理
 自治体への電子計算機の導入は、関西では大阪が一番最初で、京都がこれに続いていたと思います。昭和30年代の半ば、計算センターを設置し、アメリカのレミントンランドの計算機を導入したのですが、これは、まだ大型電子計算機というべきもので、各種計数の集計と分類を、パンチカードに撃ち込んだものによって行っていました。したがって、計算センターの数十人の職員は、一部のオペレーターを除いてはすべて若い女子職員でした。この女子職員は、高校新卒者を採用し、3年間このキーパンチャーに従事させ、3年経過後は一般事務職に転職させるもので、これによって、職業病の回避と事務職員の確保を図っていたのです。ただ、そのために、高卒一般事務職の採用から、女性が除かれることになったために、後に問題になるのです。計算機は、大切なもので、京都市に冷房が導入されたのはそのためでした。したがって、京都市に最初に冷房が設備されたのは、この計算センターと市長室、そして、これが京都市の特徴なのですが、清掃の現場だったのです。そして、計算機は主として職員の給与計算に活用され、そして順次統計にも活用されるのですが、八杉公室長は、当時の最先端ともいうべきOR分析(オペレーションズ・リサーチ)にも挑戦していました。そのための有能な人材も大学から確保しており、その人とは、その後それなりの付き合いをすることになりました。

●統計資料室設置と資料管理の集中と公開
 八杉公室長の市役所近代化が試みられるまでは、市役所の文書や資料類の管理は事実上成り行きの積み重ねで処理されていたといえるのではないでしょうか。
 役所の意思決定は文書によって行われます。後に決定書となったものは、それ以前には意思決定を積み上げていくための稟議書で「起案」書でした。「伺い」と称していました。末端の担当者が起草し、決定権者に向かって順次下から上へと「起案」書は運ばれていきます。ただ、極めて重要な経過のある案件や急を要する時などには、担当者は、その「起案」書を持って決裁をもらいに行くことになります。これを「持ち回り」と称していました。この「起案」書は、後には「決定書」となりますが、一見責任の所在があいまいになりがちな面があるとはいえ、こうした、旧来からのやり方には、文書の稟議を巡って、緊張の中にも他部局の上司とのふれあいも生まれ、学ぶことも多く、行政マンとして育成されていく面がありました。
 ちょっと余談になってしまいましたが、市役所の近代化とは、今にして思えば、成り行きや経験の積み重ねでやってきた京都市役所の仕組みを、新たに、意思決定過程の明確化や合理性とともに、トップマネージメントを高め、市役所を一つの経営体としての態をなすものにしようとしていたのではなかったかということです。それには、市役所の仕事の基になる、市民や都市京都の実相を把握し、合理的に課題を見出していくことが必要になるわけで、そのために、改めて、仕事の系統的な把握や行政が掌握している各種資料の集中管理とその活用を考えるようになったのです。その作業は、能率課を拠点として進められ、そこには優秀な人材が集められていました。その優秀さは、単に頭脳や行政マンとして優秀なだけではなく、社会性に優れた民間人の登用もなされていたのが注目されました。庁内紙「職員のひろば」の編集担当者はまさにそうした人材でした。
 さて、集中管理は二つの情報管理から成り立ちます。一つは「起案」書などの意思決定文書に関するもの、今一つは、調査資料や各種文献などに関するものです。役所の最も大切な意思決定文書は、従来は大福帳式に、「何々一件」という包括的な事業名による一件綴りとして年度ごとにまとめられていたのですが、これを具体的な事業ごとに系統的に分類整理し、それにしたがって、意思決定文書をファイルすることにしたのです。それは、従来の大福帳的な一件綴り方式は書類をまとめて保存することには適していても、それを活用することには適していなかったこと、また従来では担当者しかわからなかった仕事を、他のものでもすぐに理解できるように、文書類の活用に重点を置くものとして考えられていたのでしょう。担当者が休んでも、隣の席の者が対応できるようにすると当時言われていました。仕事の「私物化」をなくそうとしたものといえるでしょう。しかし、これはなかなか根付かなかったように思いました。
 調査や統計資料、各種文献類は、各行政セクションにはそれぞれ沢山のものが集められています。しかし、それらの資料類は、その一部が当該セクションで活用されているに過ぎず、多くの貴重な資料類が現実に所蔵されていることすら明らかでない実態にありました。そこで、統計資料室が設置され、まず各部局に統計主任を設置し、その統計主任が守備範囲の行政セクションにおいて、どういう資料類が存在しているのかを明らかにし、それを統計資料室に報告、統計資料室は、市役所全体の調査資料類の存在を明らかにすると同時に、その公開により全市的な活用に備えようとしたのです。今日いうところの情報公開の根幹をなす作業が、この統計資料室によって1960年代前半に始められていたのです。
私の所属していた農政局でも、庶務係の上席者がその統計主任となって、一点一点の資料ごとに複数の資料カード(図書カードと同じ)を作成し、そのカードの一部を統計資料室に送っていました。これは、現在の統計資料コーナーに引き継がれていますが、当時の市職員や市民の状況からは、あまりに先駆的で、十分機能しなかったのには残念な思いがありましたね。

●車社会到来への対応
 時代の到来への予見とその対応は、自動車の活用、管理にも現われていました。アメリカではすでに車は一人一台の時代が来ていて、日本もいずれそうなる。職員も運転手の世話にならずに自分で車を運転して出かける時代が来るから、いまからそれに備えていこうということで、各局数名のものを選んで、宝ヶ池にあった自動車教習所(今はラグビーの運動公園)で、軽自動車の免許取得の研修を行ったことがあり、私もそれで、バイク運転の練習をした記憶があります。これは1回限りで終わりましたが、これによって、軽自動車さらには普通車へと運転を進めた職員が結構いて、そうした職員向けに、輸送課が自動車を用意するようになりました。また、こうした職員の自動車運転とは別に、市役所の所有する車は全て各局の管理から市長公室輸送課の集中管理として、管理と利用を一元化したのもこの時期でした。
 このように、八杉公室長は、高山市長によって外から導入された人材にふさわしく、旧来の市役所を、近代的かつ合理的なシステムに再編しようとして、在来からの市の幹部との摩擦、職員労働組合との軋轢をものともせず、とにかく走り続けていたとの印象を強く感じていました。そして、いよいよターゲットは、市の職員自体の近代化に向かうのですが、それにはまさしくアメとムチの両用を行使します。当時、戦後高度成長経済の進行によって、専門職、技術職の需要が高まるとともにその水準の向上も求められるようになります。医師や看護職、研究職、教育職の待遇改善は国家レベルからなされてきたものの、京都市ではそれに限らず、一方では技術職、他方では現場労働である清掃職の京都市独自の給料表を創設したのです。これは、今日から見ても大変な勇気ある行為であったといえるでしょう。
 研究職で特徴的であったのは、研究職給料表による研究者への待遇改善は、国レベルから行われてきたのですが、八杉公室長は、京都市の研究職はまだ十分な水準には達していないとの考えから、研究職給料表を容易に導入しませんでした。まず最初に、衛生研究所を、研究機関らしくするために、京都大学の公衆衛生の権威であった西尾雅七教授を所長に、和歌山県衛生研究所の松山雄吉所長を副所長に迎え、衛生研究所の組織も研究主幹−主査制に改め大学院での研究システムを導入しようとしたといわれていたものでした。これによって、ノーローゼに陥った研究者も出たほどでした。従来からの研究職員を漫然としたものとしてとらえ、その水準の引き上げを図るために、研究職員と労働組合に挑発を続け、自覚をうながし続けたのですが、当時、私自身がその渦中にあって苦労したものでした。最終的には、高水準の処遇というよりも、ほどほどの水準のところで合意し、現在に続く京都市独自の研究職給料表は作成されました。これには、「研究職」というものの高度な独自性に対する認識について、研究職員自身の職に対する覚悟の弱さも実際上、無視できない重要な問題として存在していました。給料表の運用を巡る最も大切な部分で、折角の貴重な合意を結局は自ら崩すことになります。つまり、研究成果による人事上の判定よりも、年功による一定の保障に傾斜してしまったのです。

●労働組合との対立と癒着
 昭和20年代から30年代半ばにかけての京都市政は、一面では、逼迫した財政事情の中での人件費削減を巡る激しい労使対決の最中にありました。20年代の場合は、敗戦直後の動乱期という社会状況の影響もありましたが、労使対決のすさまじさは、単に労働条件を巡る対決にとどまらず、官公労働組合の社会変革への先導者的な意識も働いていて、市長選挙を巡る対決にまで発展していくのです。こうした流れの上に、昭和30年代半ばの市長選挙、確か高山市長4選目の選挙を巡る対決から、ついに選挙後の組合3役馘首にまで発展するという実にすさまじいものでした。
 ところがです、京都市の不思議なところは、でありながら、高山市長自身はいうに及ばす、戦後京都市の主要な幹部のほとんどは、社会活動との関係が深く、外部からの導入であった八杉公室長や上田作之助経済局長なども左翼的な社会活動の経験や関係を有していて、高山市政下の主要な幹部職員の多くは社会運動的な経験、認識を持つものたちで構成されていて、革新市長として誕生後1年で保守に転向し、以後16年間保守市政を貫いてきたはずの市役所内部の実態がこういうことで、実に不可解にして複雑なものであったといえましょう。左翼的な社会運動の経験は、都市行政というものの様相がまだ十分明らかでなかった時代にあって、都市とその構成員である市民の実際から市行政を確立していくにおいて、その能力が大いに必要であったのであり、その現実主義的な対応能力を、高山市長自身がよく理解していて、そうした職員を登用し、また外部からも導入したものと考えられます。
 実は、労使の関係にもそれは現われていて、その安易な現われ方が「癒着」といえます。労使の対立が激しくなればなるほど、実は、他方ではそれを回避するか和らげるために、水面下の折衝が進められることになります。筋書きのない労使の対立は、一万人近い労働組合員と事業部局などの幹部職員の、文字通り満場監視の中でのやり取りだけに、互いに進退をかけた勝負を行うわけです。それだけに真剣そのもので、そうした中で、対立している労使の間にもある種の信頼関係のようなものが生まれます。対立しつつも、信頼関係が生じるのです。互いに相手を認め合うという関係でしょうか。そこのところは、労働組合員だけではなく、労務担当局以外の他部局の理事者までもが、真剣に観察しています。こうしたことから、労使の対立とはいっても、京都市役所という行政組織という共通の土俵の上でのことですから、当然のこと、互いに破滅の道は歩まないことになります。これはまた当然のことなのでしょうが、そこから、下手をすれば労使の癒着が生じることになります。これは、事前交渉としての折衝とは別に、あらかじめ信頼関係のある労使の個人的な関係で一定の筋書きが固められるということです。これは、公式の組織でその是非を議論する以前のことなのです。労働組合の指導部と労務担当局者との個人的な人間関係などから、労働組合指導部にも、水面下の折衝を重視する考え方と、あくまで公式の場で話し合うことを重視する考え方の両方があり、これもなかなかに複雑な要素として作用していました。私もその渦中にあって、結局、後に組合の指導部から身を引くことになったこれが大きな要因となりました。

●第二の平安京づくり
 さて、いよいよ京都市として、戦後始めての本格的な都市整備構想を策定する段階に至ります。この都市整備構想は、まず斎藤正氏によって、京都市行政の総合的な洗い出しによる市政全般にわたる総合的な計画づくりが全庁的な作業として試みられ、これが「京都市総合計画試案」としてまとめられます。この段階で斎藤正氏は定年を迎えられることになり、その後を建設省出身の島村忠男氏が計画局長として引き継ぐことになるのですが、この段階では、公共投資中心のハードプランニングとしての「長期開発計画」の策定となり、具体的な事業実施計画となりました。
 ところで、こうした戦後初めての本格的な京都市の都市整備は、どのような理念の下に構想されるのでしょうか。そこに、再び八杉公室長の存在があったのです。
 「第二の平安京づくり」がそれです。応仁の乱で灰塵に帰した京都は、乱後の復興、そして安土桃山時代を通して復興してくるそのエネルギーを再び呼び覚まして現代の京都を「第二の平安京」として発展さそうというものです。この、ある種壮大なイメージづくりは、八杉公室長と歴史学者の奈良本辰也の共作であったといえます。確か「歴史の京都と第二の平安京づくり」という冊子がつくられていましたが、それは、歴史学者・奈良本辰也と林屋立辰三郎のレクチャーを基に、奈良本辰也のお弟子さんであった松浦玲氏が執筆したもので無駄のないなかなかの名文です。そして、そうしたものを裏付けるものとして京都市史の編纂が企画されたのでした。ただ、多選をこころよしとしていなかった高山市長は4期でもって退任し、その後を純粋に保守政治家であった井上清一市長が引き継ぐことになり、井上市長になって、八杉公室長は交通局長に転出させられたことなどもあり、「第二の平安京づくり」はうやむやになってしまったようです。そして、京都市史の編さん事業は、革新市長になって、こうした誕生経過があだとなって、きわめて難しい道を歩むことになります。
 高山市長は、その退任後の後継者については明確な意思を示すことなく、自民党の参議院議員であった井上清一氏が結果として後継市長となるのですが、本当は側近として長年憎まれ役を努めてきた八杉正文氏を望んでいたであろうことは考えられたのですが、そうならなかったことは、4期16年に及んだ高山市政はそこで終えんし、新しい井上市政が始まることになったのです。ところが、その井上市政は、市長自身の急逝によって途絶し、その具体的姿を明らかにすることなく終わります。そのときの市長選挙では、高山市政の後継者である八杉氏と革新統一候補である京都府医師会長の富井清氏との一騎打ちとなりますが、1年間のブランクは痛く、八杉氏は破れ、ここに最終的に高山市政は終わりを告げることになりました。当時は立場上八杉氏批判の選挙運動をしていましたが、今にして八杉氏の無念さを深く感じているところです。日ならずして、同氏は交通事故でなくなられたことも何か悲運の連鎖のような気がして哀れでなりません。上京区の清浄華院で行われたその葬儀には3千人ほどの参列者がありました。

 戦後地方自治制度の確立過程のなかでそれなりの京都市政を構築してきた高山市政ではありましたが、後継体制がうまくいかず、また後任の井上市長も急逝するなどの予期せぬ事態が続く中で、高山市政を否定する革新市政が誕生します。歴史とはこのように偶然のなせるところの多いものと実感せざるを得ません。この急きょ誕生した革新市政は、市の職員組合にも、備えのないままに過重な負担をかぶせることとなり、幹部職員やその他の職員全てに戸惑いと混乱を招くことになります。市政の激変ははたして市民の望んだことだったのでしょうか。激変の功罪両面を見る必要があるのではないでしょうか。こうした思いも持ちながら、次の時代に移りましょう。

 ここでひとこと井上市長について触れておきたいと思います。同氏は、あまりにも短期で急逝してしまいましたから、私は、ほとんどその人物像を知りません。けれども、直接井上市長と二人だけで対面していた、当時の市職員組合の委員長であった若林清一郎氏が後に語ったところの人物像が忘れられません。それは、自民党参議院議員として、60年安保国会などを経験してきたことから、井上市長は国民、市民の動向を政治的に重く認識する考えが強い、ということでした。そのため、細かなことに神経質にならず、市政の赴くところの基本をじっくりと見極めて、京都市政の舵取りをしていく可能性を十分うかがわせる人物であったのではないかと思っていたところです。井上市政がノーマルに継続していたならば、単なる自民党市政というのではない、高山市政とはまた違った京都市政が形成されていたのではなかったかと思っています。


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