過ぎ去った日々に









 辺りはバレンタインデーの装飾と甘いチョコの香りに溢れている。


「凄い人、ですね、香穂先輩」
「うん、凄いねー。みんな、大好きな人にあげるプレゼントを一生懸命選んでるんだね」
 冬海は香穂子と共に買い物に来て、この特設売り場を目にした。
 積まれているチョコの数も凄いと思うが、それを真剣に品定めしている女性たちの数も凄い。
 でも、どの女性も瞳が生き生きしている気がする。
「・・・なんだか、楽しそうに、見えるんですけど・・・」
 冬海の言葉に、香穂子はニッコリと笑った。
「うん、そうだね。私にもそう見えるよ、笙子ちゃん」
「・・・少しだけ、羨ましいです」
「・・・ん。その気持ち、解るよ」
 冬海も香穂子も、現在は近くにいない、大切な恋人のことを想う。
 月森はウィーン、土浦はベルリン。
 簡単には会えない距離。プレゼントを贈るにしても、簡単にはいかない。
「とりあえず、必要な楽譜を買って、どこかでお茶しよう、笙子ちゃん」
「はい、そうですね」
 冬海と香穂子は目的を果たすために足を進めた。



 無事に目的のものを購入し、香穂子と可愛らしいカフェに入った冬海は、オーダーしたシフォンケーキを口に運びながら昨年のことを思い出していた。




 昨年のバレンタイン。
 冬海は土浦のためにガトーショコラを焼くことにした。
 お菓子作りは好きで、よくする。練習に疲れた時などに、良い気分転換にもなるからだ。
 とはいえ、ガトーショコラは初挑戦。上手くいくかどうか、少し不安もあった。
「えっと・・・お砂糖と、卵と・・・」
 材料と焼き型を作業スペースに出し、ボールなどの器具もそろえる。
 計量を済ませると、作業にとりかかった。
 卵白の泡立てにはハンドミキサーを使う。泡だて器を使って、手で泡立てていたら疲れる上に時間がかかり過ぎるから。
 卵黄とチョコレートを溶かしたものに、粉類を混ぜると、思っていたより生地が硬くなり、冬海は少し慌てた。
「え・・・えっと、本当に、これで、いいのかな・・・」
 本には硬さまでは書かれていない。
 不安ではあるが、とりあえず、硬く泡立てた卵白を少し、生地に入れて緩める。
 結局、半量くらいを加えてようやく、少し緩んだ感じになった。
 それから、残りの分を加えて、型に流す。
 ドキドキしながらオーブンに入れて、焼いた。
 時間が来ると、それなりに膨らんでくれたようで、ホッとする。
 土浦は、甘いものは苦手な方だから、記載されているレシピより、砂糖の量を減らした。
 代わりに、粉糖で飾り、見た目がきれいな感じになるように仕上げる。
「先輩・・・喜んで、くれるかな・・・」
 白いケーキボックスにそれを収めて、冬海は呟いた。
 バレンタインに手作りのチョコのお菓子を渡すのはこれで3度目。
 最初はクッキー、次はトリュフ、そして、今回。
 誕生日にはシフォンケーキを焼いたり、チョコムースを作ったりもした。
 土浦はいつも「ありがとな」と言って受け取ってくれる。
 そんな時の彼の瞳はとてもやさしくて、冬海はドキドキもするが、とても安心するのだ。


 そして、14日。
 土浦と、カフェテリアで待ち合わせて、相談した上、彼の家にお邪魔させてもらうことになり、移動する。
「悪いな、笙子」
「いえ、そんな・・・私こそ、いつも、お邪魔してばかりで・・・すみません」
「お前の家でもいいんだが・・・やっぱり、留守中に上がり込むのは良くないしな」
 今日は、冬海の両親はデートだそうで、帰宅は遅めだ。
 お互いに成人しているとはいえ、自宅通学で家族と同居している以上、好き勝手に行き来するという訳にはいかない。
 特に、冬海は一人娘だ。
 土浦はそういうところにはきちんと気を配っていた。
「先輩のお母さんは、今日もお教室、ですか?」
「ああ。だから、気は遣わなくていい」
 土浦との付き合いも、気が付けば結構な年数が経っていて、彼の母親やきょうだいたちとは何度も顔を合わせている。
 最初の頃は緊張して、挨拶するのが精一杯だった冬海も、いつしかそれなりに話せるようになっていた。
「今日の荷物はいつもよりデカイな、笙子」
 一緒に歩きながら、土浦は彼女が手に持っている紙袋に視線を向けた。
 高さや長さはさほどではないが、底の部分が広い。
 そういえば、だいぶ前の誕生日にもこんな大きさの袋をもらったことがある。
 あれは、確かシフォンケーキだった。
「・・・もしかして、ケーキか? 中身」
「あ、えっと・・・はい。甘さは控え目にしてあります」
 どうして判ったのか、というような瞳で見上げてくる冬海に、土浦はふっと表情を緩めた。
「何年か前の誕生日にも、そんな感じの大きさの袋をもらったな、と思ってな。・・・なら、一緒に食べるか」
「はい。嬉しいです」
 冬海は素直に頷いた。
 土浦家に着くと、リビングに通され、彼が紅茶を入れてくれる。
 その隣で、冬海は持ってきたガトーショコラを切り分け、別に用意していたホイップクリームも取り出して盛り付けた。
 ミントの葉も飾る。
「・・・へえ。喫茶店で出てくるケーキみたいになったな」
 土浦が感心したように言う。
「そう、ですか? ありがとうございます」
 冬海ははにかんだ笑みを浮かべる。
「えっと、初めて、作ったので・・・美味しいかどうか、心配なんですけど・・・」
「お前が作ったもんなら、大丈夫だろ」
 土浦は冬海には紅茶を、自分用にはコーヒーを入れて、それぞれテーブルに並べた。
「ありがとな、笙子」
「あ、いえ、私こそ。梁太郎先輩には、いつも、お世話になってばかりで」
「・・・別に、世話をしてるつもりはないけどな」
 苦笑する土浦は、コーヒーを一口飲んでから、ケーキの皿を持ち上げて、それを口にする。
 冬海は自分の分の皿を持ったまま、その様子を見つめていた。
「・・・うん、美味い」
「本当ですか?」
「何だ、まだ食べてなかったのか。お前も食べてみろ」
「はい」
 冬海はそっと端の方をフォークで割って、少しだけクリームをつけて口に入れた。
 思っていたよりもふんわり感があり、苦みも少ない。とはいっても、甘すぎることもなく、甘いクリームを添えて丁度いいくらいだ。
「・・・美味しい、と、思います」
「えらく自信なさげなコメントだな」
 土浦はまた苦笑して、冬海の頬に手を伸ばす。
 隣り合って座っていたので、こんな風にされると顔の距離が近いことを意識する。
 冬海は真っ赤になって、土浦を見つめた。
 その様子に、土浦は三度、苦笑する。
「全く・・・お前らしいよ、笙子」
 土浦はそっと掠めるだけのキスを額にして、更に赤くなった冬海に笑みを向けた。
「ありがとな。お前はいつも、一生懸命俺のことを考えて贈り物をしてくれる。その気持ちが、何よりだ」
「梁、太郎先輩・・・」
 やさしい瞳に、冬海も嬉しくなって小さく微笑んだ。
「・・・好きです、先輩・・・」
「・・・笙子」
 今度はやさしく触れ合うキスが唇に落とされた。





「・・・・笙子ちゃん? どうしたの?」
 はっとして顔を上げると、香穂子が目の前で怪訝な表情をしていた。
「香穂、先輩」
「大丈夫? 随分ボーッとしてたみたいだけど」
「あ、はい、大丈夫です」
 過ぎ去った日々に想いを馳せていただけで、具合が悪い訳ではない。
 冬海は微笑んでから紅茶を口に運ぶ。
 それがかなり温くなっていたので、目を丸くした。
「あ、れ?」
「・・・・・最初はBGMのピアノに聴き入っているのかと思ったんだけど・・・それにしては、長いこと黙ってるし、ケーキも全く進まないし、どこか具合が悪いのかと思っちゃった」
 香穂子が苦笑しながら最後の欠片になったケーキを口に入れる。
 そう、この物思いのきっかけは、BGMのピアノ曲だった。
 CDなのだろうが、ケーキと紅茶が運ばれてきた時、ショパンのノクターンが流れていた。
 それでついつい、土浦のことを思い出してしまったのだ。
「もしかして、土浦くんのこと、考えてたの?」
 言い当てられて、冬海は真っ赤になった。
「え、えと、あの」
「ふふふ・・・笙子ちゃん、真っ赤だよ」
 愉しそうに笑って、香穂子は今度は紅茶を飲みほした。
「きっと、頑張ってるんだろうね、土浦くん」
「・・・はい、きっと」
 冬海は素直に頷く。
「うん。蓮くんが活躍し始めてるだけに、土浦くんも負けてないだろうなって思うよ」
「・・・月森先輩は、凄いですよね。私も、CD、買いました」
「あ、そうなんだ。私も毎日聴いてるよ、蓮くんの音」
 嬉しそうに、誇らしげに言う香穂子に、月森への想いが込められている気がして、冬海は微笑む。
「香穂先輩は、月森先輩のこと、ずっと変わらずに想っていらっしゃるんですね」
「・・・うん。離れてても、会えなくても、蓮くんのことは忘れられないし、忘れたいとも思わないし。今でも、好きだよ、ずっと」
 少しはにかんだ笑みで答えると、香穂子はすっとさっきのような愉しそうな笑みになる。
「でも、笙子ちゃんだって、土浦くんのこと、今でも好きでしょ?」
「・・・・・はい。勿論です」
 少しだけ頬を染めて、それでもしっかりと頷いて、冬海は答えた。 


 これまでのように会えなくても。
 想いはきっと、そのままに。
 過ぎ去った日々の思い出と、未来への希望が、想いを強くする。

 それを信じて進んでいこう。
 冬海はそう思いながら、香穂子とのひと時を楽しんだ。




 
  

END








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