約束を一つ







 冬海は困っていた。
 オケ部のみんなで練習をして、それから5人の仲間と喫茶店に寄り道をして、ひとしきりおしゃべりをして、みんなと別れることになった時。
 外は、思いがけず、強い雨となっていた。
 天気予報では雨の確率は0%だったから、傘など持ってきていない。
 他の仲間たちは、それぞれ、親に電話していた。
 普段なら、冬海もそうするところだが、今日は、両親は父の仕事の関係の人と会食会だということで、出かけている。
「笙子ちゃんは電話しないの?」
 友人の海野 寿々に尋ねられて、冬海はぎゅっと電話を握り締める。
「えっと、もう少し、してからかけてみる。・・・もう少しで、お父さん、仕事が終わる時間になるから」
「そう? あの人には電話しないの? 3年の土浦さん」
 寿々の口から土浦の名前が出てきて、冬海は少しうろたえた。
「え? え、えっと・・・先輩に?」
「そう。だって、あの人と笙子ちゃん、つき合ってるんでしょ?」
 確かに、寿々の言うとおりだ。自分と土浦はつき合っている。
 しかし、土浦は今、コンクールのための練習で忙しい筈だ。オケ部の練習がない日には、一緒に練習したり、下校したりしているが、今日は友達と寄り道することも初めから判っていたので、先に帰って自室で練習しているだろう。
 土浦は、大学では指揮を専攻すると決めているため、ピアニストとしてのコンクールはこれが最後かもしれない。それもあって、勝ちにいくためにいままで以上に熱心に取り組んでいることを冬海はよく知っている。
 そんな彼の邪魔は出来ない。こんな些細なことで。
「先輩は、今、コンクールの練習中だから・・・」
「・・・ああ、そうだっけ。でも・・・」
「い、いいの。・・・ありがとう、寿々ちゃん。・・・あ、お迎え、じゃない?」
 冬海は店の入り口に顔を覗かせた女性を見て、寿々に声をかける。
 確か、あの人は寿々のお母さんだ。
「あ、ホントだ。・・・じゃあ、笙子ちゃん、また明日ね」
「うん」
 そんな風にして、1人、また1人と店を出て行く。
 雨脚は一向に弱まる気配を見せない。
「・・・ねえ、笙子ちゃん。親、呼んだの?」
 最後の1人になった鈴木 麻紀子に聞かれて、冬海は曖昧に笑った。
「うん、と・・・まだ」
「早く電話した方がいいよ。うちの親もじきに来ると思うから・・・笙子ちゃん、1人になっちゃうよ」
「あ、うん、ありがとう。・・・でも、今は、ちょっと」
 会食の席の最中に抜け出して来てもらうことなど出来る筈がない。
 麻紀子はなおも心配そうに冬海を見つめてくる。
「この後がレッスンじゃなかったら、笙子ちゃんの家まで送ってってお母さんに頼むんだけど・・・」
「あ、あの、大丈夫だから、麻紀ちゃん。私のことは、気に、しないで?」
 懸命に笑みを浮かべる冬海に、麻紀子は溜息をついた。
「・・・土浦先輩に電話してみたら?」
「えっ?」
 麻紀子までもが土浦の名を口にしたので、冬海は吃驚した。
「あ、あの、先輩は、今、コンクールの練習で、忙しくされてて・・・だから・・・」
「でも、笙子ちゃんは先輩とつき合ってるんでしょ? だったら・・・」
 麻紀子が言いかけた時、彼女のお迎えが到着する。
「・・・とにかく、笙子ちゃん、ちゃんと連絡しなよ! また明日ね」
「うん、ありがとう」
 バタバタと去っていく麻紀子に手を振って、彼女の姿が見えなくなってから、冬海は溜息をついた。
 ともかく、もう少し雨が弱くなるか上がるのを待つしかない。
 冬海は水を追加しに来てくれた店員に、ミルクティーのおかわりをオーダーして、再び溜息をついた。
 夜に差し掛かることもあって、空は真っ暗でいつになったら雨雲が切れるのか、全く見当もつかない。
 冬海はだんだん心細くなってきて、両手をぎゅっと握りあわせた。
 そして、心に浮かぶのは土浦の顔。
 寿々も麻紀子も当然のように、土浦を呼べばいい、みたいなことを言っていたが、冬海にはそれは出来ないこと、だった。
 こんな酷い雨の中に、土浦を頼ってどうしろと言うのだろう。
 傘を貸してもらうにしても、ここまで来るまでにきっと、濡れてしまう。それに、そんなことをしたら、貴重な練習時間を奪ってしまうことになる。
 やはり、それは出来ない。土浦の邪魔にはなりたくない。
 運ばれてきたミルクティーを口にしながら、冬海はまた、溜息をついた。
 テーブルの上に置いてある携帯電話をぼんやりと見下ろす。
 本当に、どうすればいいのだろう。
 自分の身だけなら、雨に濡れるのも仕方がないで済むが、クラリネットはどうしても濡らしたくなかった。
 ケースに収まっているとはいえ、大事な楽器だ。霧雨程度ならまだしも、こんな豪雨と呼べてしまう程の雨に打たれたら、中に染み込んでしまう可能性がある。それだけは絶対に避けたい。
 何気なく携帯電話の時計を見ると、降り始めから既に30分は経っていることに気づいて、冬海はますます不安になった。
 本当にどうしよう。
 やはり、このまま濡れて帰るしかないのか。
 冬海がぎゅっと唇をかんだ時、店の扉が少し乱暴に開けられて、カウベルが鳴り響いた。
 自然と、そちらに目を向ける。そして、冬海は大きく目を瞠った。
 肩で息をするかのように、そこに立って店内を見回し、冬海の姿を見つけるとつかつかと歩み寄ってくるのは、土浦だった。
「・・・先、輩・・・」
「・・・笙子」
 土浦はじろり、と冬海を見下ろした。
「・・・お前、どうして俺に電話しなかった」
「えっ・・・あ、あの・・・」
「親父さんたち、今日は揃って会食だって、お前、俺に話してくれてただろ? なのに」
 確かに、昼にお弁当を一緒に食べた時にそんな話をした。
「あ、えっと、でも・・・こんな、雨になるなんて、思って、なくて・・・」
「そりゃあそうだろうけど。・・・ったく、火原先輩を経由して、お前の友達が連絡してくれたんだ。お前が、帰れなくなってるって。それ聞いた時の俺の気持ち、判るか? 笙子」
 強い口調で責められて、冬海は首を竦めて青くなった。
「ご、ごめんなさい、先輩・・・巻き込んで、しまって」
「・・・そうじゃなくて」
 土浦はがしがしと頭を掻く。
「俺は、お前の何なんだ? 親か、兄弟か、ただの先輩か、どうなんだ?」
 詰め寄られて、冬海は微かに頬を染める。
「えっと・・・恋人、です」
 冬海の答えに、土浦ははあ、と溜息をついて、ようやく表情(かお)を緩めた。
「そうだろ、だからいくらでも俺を頼ってくれ。むしろ、こんな時に、俺を思い出して頼ってくれた方が、男として、恋人として嬉しい。全くお呼びもされないんじゃ、俺はそんなに頼りがいのない男なのかと思うだろ」
「先輩・・・!」
 冬海は真っ赤になって俯いた。
 土浦の邪魔をしたくないと思ったから、電話もメールもしなかった。けれど、その逆で、土浦は自分が困った時にはむしろ、頼ってほしいと言ってくれた。
「ごめんなさい、梁太郎先輩。私・・・先輩の、邪魔になっちゃ、いけないと、思って・・・でも、逆、なんですね。本当に、ごめんさない」
「心配したんだぞ? 火原先輩から電話もらった時。・・・いいか? これからもし、困ったことがあったら1番に俺に言えよ? 約束な?」
 土浦は普段通りの穏やかな表情(かお)に戻って、冬海の頭を軽くぽんぽん、と叩いた。
「・・・はい、先輩」
 冬海もようやく、顔を上げる。
 見上げる土浦の表情(かお)がやさしくて、はにかんだ笑みを浮かべた。
 すると何故か、土浦が眉を顰める。
「・・・この雨は当分止まないらしいから、そろそろ行くぞ? お前の家まで送ってやる」
「えっ、家までって、でも、あの・・・」
「いいから。傘はちゃんとお前の分も持ってきたが、とにかく駅まで行って、雨の様子をみながら電車にするか、タクシーにするか考えればいい。・・・この雨じゃ、電車が遅れてる可能性もあるからな」
「あ、あの、先輩にそこまで迷惑は・・・」
 かけられない、と続けようとした冬海だが、土浦に再びじろり、と睨まれて息を呑んだ。
「何度言ったら解るんだ、笙子。もっと俺を頼れって。・・・ほら」
 土浦は女物の傘を冬海に差し出し、彼女の鞄を持ち上げた。
「お前は大事なクラリネットの方を持ってろ」
「・・・はい」
 今度は冬海も素直に従った。
 駅までは歩いて5分ほどだが、その間にも容赦なく降ってくる雨に、互いの靴はずぶ濡れだった。
 だいぶ遠くて、音も小さいが、雷鳴も聞こえてくる。
 しかも、土浦の予想通り、この雨と雷の影響で電車は相当遅れているようだ。
 2人はタクシー乗り場の列に並んで、そちらで帰ることにした。
「・・・ごめんなさい、先輩。練習、大丈夫ですか?」
「心配するな。それはどうにでもなる。お前が1人で途方にくれてるかと思って心配してる方がよっぽど精神衛生上悪い」
 土浦は微妙に不機嫌なようで、冬海は縮こまってしまう。
 ようやく、2人の番が来て、タクシーに乗り込むと、途端に空が明るく光り、少し間を置いて雷鳴が轟いた。
「きゃっ!」
 思わず目を閉じて身震いした冬海を、土浦はそっと抱き寄せて宥める。
「大丈夫だ。そんなに近くない」
 道が混んでさえいなければ、冬海の家までは15分もすれば着く。
 タクシーに乗っている間、3度ほど雷が鳴った。
 その度に、冬海は土浦にしがみついた。
 土浦は苦笑しながら、その背中をやさしく叩いて宥める。
 冬海家に到着すると、土浦も一緒にタクシーを降りた。雷に怯える冬海を、1人にしておくのが忍びなかったから。
「・・・雷さえ収まれば帰れるからな。・・・暫くは一緒にいてやるよ」
「・・・ありがとうございます、梁太郎先輩」
 ようやく素直に受け入れてくれた冬海に、土浦は安堵して、その頭をポンポン、と叩いた。
「いいな? 何かあったら俺を頼ること。約束したぜ?」
「・・・はい、梁太郎先輩。・・・あの、嬉しい、です。先輩が、いて下さって」
 はにかんだ笑みを浮かべた冬海に、土浦は苦笑しながらそっと抱きしめた。

  





END







睦月希結さまへ
8周年リクエストに挙手下さり、ありがとうございました。リクエストにきちんとお応え出来ているかは「?」ですが、謹んで進呈致します。


2010.6.30    森島 まりん







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