夕闇の陰影







 7月25日は土浦の誕生日だ。
 今年もお祝いをするべく、冬海はどんなプレゼントを渡そうかと、あれこれ考えていた。
 特に、今回の誕生日は土浦にとって大切な節目に当たるから、今までとは少し違った、印象に残るものにしたいと冬海は思っていた。
 ただ、何をすると土浦が喜んでくれるのか、いまひとつピンとこない。つき合いだしてからもう、2年近くになるというのに、彼の好みなどを把握しきれていない自分に、冬海は時折情けなくなることがあるが、大好きな香穂子や天羽に言わせると、それで不思議はないのだそうだ。
「土浦くんって、そういうの、あまり見せたがらないような気がするよね? 菜美」
「うんうん。冬海ちゃんにだって、カッコつけてるよねぇ、奴は。それにさ、あまり早くに全部を知っちゃうより、ゆっくり、知っていく方が長くつき合う楽しみもあるんじゃないの?」
「あ〜、それは言えるかも。私も、まだまだ蓮くんのこと、知らないことだらけだしね」
 そんな風に2人に言われたら、そういうものかも、と思ってしまうところが、素直な冬海らしい部分だと言えるだろう。
 自分ひとりで考えていても、名案が浮かばないなら、やはり、土浦本人に希望を聞くのが確実だろうと思い直した冬海は、テスト期間に入る前に、彼に直接尋ねてみた。
「梁太郎先輩、あの・・・お誕生日の、プレゼントに、欲しいものってありますか」
「誕生日に、欲しいもの?」
 問われた土浦は一瞬の瞠目の後、ふむ、と考えて少し沈黙した。
 どんな答えが返ってくるのかと、冬海はドキドキしながら土浦の言葉を待つ。
 土浦は、そんな冬海の不安と期待の入り混じった瞳に、自身の押し隠している劣情を刺激されたような気がして、鼓動が跳ね上がるのを感じた。
「・・・笙子・・・」
 眉間に皺を寄せ、土浦ははあ、と深い溜息をつく。
「先、輩・・・?」
 冬海はその仕草に不安を煽られ、辛そうな表情になった。
 土浦は再度、溜息をついて、探るように冬海を見つめながら口を開いた。
「・・・お前、って言ったら、怒るか?」
「・・・え?」
 案の定、冬海はこれ以上ないくらいに瞳を見開いて、土浦の言葉の意味を必死で考えている。
 高校を卒業して、大学生になった現在、冬海は清純可憐な雰囲気のまま、微かに大人びた表情になった。
 純真なところもそのままで、土浦はやはり、彼女に己の欲望をぶつけることを躊躇している。
 しかし、時折、真っ白な彼女を酷く穢してみたい衝動に駆られそうになり、その欲深さに茫然となる。
 彼女を傷つけるのは勿論本意ではない。しかし、そうではない、相反する感情が土浦の心の奥に潜んでいるのもまた確かで。
 冬海自身が、自分たちの関係についてどういう意識でいるのを探りたい。そう考えての発言だったのだが、冬海は茫然と土浦を見つめているだけで、言葉すら出てこない様子だ。
「・・・笙子、お前、何考えてる?」
 目の前にいる自分の存在を思い出させる意味で、土浦は冬海に呼びかけた。
 冬海ははっとしたように土浦の真摯な瞳を見つめて、ぽん、と音がするのではないかという位見事に、顔を真っ赤に染めた。
「あ、ああ、あの、あの・・・ほ、欲しい、ものが、私って・・・あの、そ、それは、以前(まえ)に、おっしゃった、お、お持ち帰り、みたいな、意味で、です、よね・・・?」
 土浦が軽く瞠目する。
 そういえば、初めてのクリスマスイブのデートの時に、そんな話をしたような気がする。
 冬海はちゃんと覚えていたようだ。
「・・・そうだ、って言ったら?」
 普段より低めの、抑えた声で答えると、冬海はぎゅっと目を閉じてしまった。
「あ、あの、あの、でも、あの、私・・・そ、そういうのは、あの・・・」
「・・・俺とは嫌か」
 そう言うと、冬海は弾かれたように目を開けた。
 そして、ふるふると首を横に振る。
「そ、そうじゃ、ないです。だけど、あの・・・わ、私・・・」
 真っ赤のまま、だんだん泣きそうになってきた冬海に、土浦は仕方ない、という風に苦笑した。
「俺が嫌な訳じゃなくて、今はまだダメだってとこか」
「・・・はい。あの・・・ご、ごめんなさい・・・」
「俺のことが嫌だっていうんじゃないなら、いいさ」
 まだまだ少女のような心の冬海に、やはり無理強いは出来ない。それに、彼女が躊躇しているのは関係を進めることであって、土浦自身を嫌がっているわけではないと確認出来ただけでも良しとしなければ。
「・・・だが、誕生日に欲しいものがお前だっていうのは変わらないぜ? お前の時間を、俺にくれるか? 例えば、クラリネットを聴かせてくれるとか」
「はい、そういうことなら、喜んで」
 まだ、ほんのりと赤い顔のまま、冬海はニッコリと笑った。
 相変わらずの可愛らしさに、土浦はやはり苦笑いを浮かべた。




 そして、25日当日。
 昼過ぎに駅で待ち合わせて、暫く楽器店などで買い物をしたり、互いの試験の状況を話したりしながら土浦家に来て。
 今年も手作りのケーキを土浦にプレゼントして、それを2人で食べてから。
 冬海は土浦の部屋で、クラリネットを奏でていた。
 彼と知り合うきっかけになった学内コンクールでも奏でた『マドリガル』や『メロディ』、『家路』などを演奏し。
 それから、土浦への思いを込めて、『ジュ・トゥ・ヴ』を。以前、自分の誕生日に彼がくれた演奏のように、精一杯の愛を詰め込んで。
 じっと目を閉じて聴いていた土浦は、途中から目を開けて、まじまじと冬海を見つめた。
 気持ち良さそうに目を閉じてクラリネットを吹く冬海は、自然体で、全身から彼女のやさしさが滲み出ている。
 対して、その音色はどこまでも甘く、蕩けるように熱い。普段は大人しい冬海の中の情熱が解放されているかのように。
 その『想い』の向かう先が間違いなく自分だと確信して、土浦はごくり、と息を呑んだ。
 今日の冬海は、やさしい空色の長いキャミソールワンピースと、白いレースの半袖カーディガンという、彼女らしい服装だ。
 どちらかというと可愛らしい印象のものだが、この音を聞いているとそれがひどく大人びて見えてくる。
 この部屋での演奏は冬海が言い出したことだが、土浦はそれを承諾したことを少しだけ後悔し始めていた。
 最後の音を奏で終えて、冬海がほおっと息をつき、目を開けると、土浦はひどく真剣な表情で自分を凝視していて、少し戸惑った。
「・・・あ、の、梁、太郎先輩・・・?」
 おずおずと声をかけるが、土浦は沈黙したまま。
「・・・先輩・・・?」
 もう一度呼びかけても、土浦は真剣な瞳で冬海を捉えたままだ。
 微妙に眉根が寄せられ、怒っているようにも見える。
 でも、演奏自体は気持ちよく、いつも通りに吹けていた筈だから、それに対しての感情ではないだろう、と冬海は推測した。
 では、何故土浦は沈黙したままなのだろう。
 理由が判らなくて、冬海はクラリネットをぎゅっと握りしめた。でも、このままではどうすることも出来ない。
「・・・あの、梁太郎先輩。私の演奏・・・駄目、でしたか?」
 勇気を出してそう問いかけると、土浦はようやくはっとしたように目を開き、口も開いた。
「いや、そんなことはない。むしろ・・・」
 言いかけて、土浦は1度、言葉を飲み込み、立ち上がるとピアノの蓋の上に新しいタオルを置く。
「クラリネット、そこに」
「あ、はい」
 冬海は握りしめていたクラリネットを、そっとタオルの上に置いた。
 それを見届けて、土浦は冬海の右手首を掴んでぐいっと引き寄せる。
「あっ」
 抵抗する間もなく、冬海は土浦に抱きしめられていた。
「・・・さっきのは、お前の気持ちだと、受け取っていいんだな?」
 耳元で囁かれ、冬海はこくん、と頷く。
 演奏に込めた気持ちはきちんと土浦に伝わっていたようで、ホッとする。
 しかし。
「・・・やっぱり、お前が欲しい」
 この言葉に、冬海の鼓動は倍以上に跳ね上がった。
 瞬時に、耳までが真っ赤になる。
「えっ、え、あ、あの、あの、でも、そ、それは、あの」
「・・・全部とは言わないから」
 土浦はそう言うと、冬海の唇に噛みつくように口づける。
 性急なキスに冬海は瞠目し、逃れようとするがそれは敵わない。
 貪るようなキスを繰り返され、やがて深いものになる頃には、冬海には抵抗する力も失せ、ただただ受け止めることしか出来なかった。
 更に先を求める欲をどうにか抑えて、土浦が唇を離すと、冬海はぐったりと力を失うようにしている。
「・・・笙子?」
「・・・・・もう、ダメ、です・・・」
 小さく小さく、それだけを呟くと、冬海はそのまま気を失った。
「お、おい、笙子」
 さすがにキスで気絶されると思っていなかった土浦は慌てるが、よくよく観察すると、気絶というよりは眠っている、という感じだったので、とりあえず、彼女をベッドの上に横たえた。
「・・・参ったな・・・」
 溜息をついてから苦笑する。
 まだ、冬海の目元は赤いままだ。のぼせた、というのが一番適切なのかもしれない。
 去年の誕生日に初めてしたキスは、ただそっと触れるだけの、やさしいものだった。
 情熱を込めた深いキスをしたのは、今日初めて。でも、冬海にはそれすら早急だったのかもしれない。
「・・・ま、それもお前らしいか、笙子」
 土浦はそっとその頬にかかっていた髪を払った。




 冬海が意識を取り戻したのは、空が夕闇に支配され始めた頃だった。
「・・・先、輩・・・?」
「気がついたか」
 土浦は穏やかな笑みで冬海を見つめている。
 冬海はそろそろと身体を起こし、目元を染めた。
「あ、あの・・・ごめん、なさい・・・」
「・・・いや。俺も悪かった」
 土浦はそっと彼女の隣に腰を下ろす。
「いい、演奏だったと思う。笙子の気持ちが・・・俺を思ってくれてる気持ちが、よく出てた。だから、まあ・・・その、ちょっと、な。だが、いずれは、俺が貰うぞ? お前を。いいな?」
 少しテレたように言う土浦に、冬海は一瞬目を丸くし、それから、微かな笑みを浮かべてこくん、と頷いた。
「・・・はい。いつになるか、全然判らないですけど・・・でも、私も、先輩とが、いいです・・・梁太郎先輩じゃないと、嫌、ですから」
「笙子」
 土浦はふっと笑みを刻んだ。




 夕闇の陰影の中。
 2人はそっと触れるだけの、約束のキスを交わした。





END







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