花一輪








 もうすぐやってくる、7月25日。
 大切な恋人・土浦の誕生日を前に、冬海は今年はどうやって祝えばいいかと考えを巡らせていた。
 この春に大学に進んだ土浦は、現在前期試験の最中で、25日も試験があると聞いている。
 冬海の方は夏休みに入っていて、オケ部の練習もあるが、今年は国内の大きなコンクールに出る予定もなく、比較的ゆっくりと過ごせている。
 元来が真面目で、地道に努力することが当たり前、のような冬海は、高等部の教師からも、大学への推薦枠は確実に取れるだろうとのお墨付きをもらっていた。
「・・・先輩は、甘いものは、あまりお好きじゃないし・・・でも、甘さ控えめなら大丈夫だと思うし・・・ケーキは、作ろうかな」
 夏だから、冷たいデザートなどでもいいかもしれない。
 それ以外は、どうしようか。
 何より、25日にゆっくり過ごすということは出来ないのだから、渡せるだけのものに止めておくのが妥当だろう。
 冬海はそう考えていたのだが。


「25日の分が終わったら、次は28日だから、試験さえ済めばお前といられるぜ?」
「そ、そうなんですか?」
「ああ。実技の1番大変なのが25日なんだ。後は筆記ばかりだから、どうってことない。少しぐらい、お前との時間も大事にしないとな」
 そう言って、電話の向こうの土浦は笑っている。
「えっと・・・あの、嬉しい、です」
 素直な感想を伝えると、土浦が一瞬息を呑んだような気配が伝わってきた。
「・・・ったく・・・お前ってヤツは・・・」
「・・・え?」
「いや・・・ともかく、25日は楽しみにしてる。笙子、ありがとうな」
 試験が終わったらメールをする、と言って、土浦は携帯を切った。
 冬海も、土浦との久しぶりの逢瀬を思い、自然に笑みが浮かんだ。
 誕生日まで、あと3日。
 冬海は土浦のために、あれこれと考えをめぐらせてプレゼントを用意した。




 7月25日。
 オケ部の練習日ではなかったため、冬海は自宅にいた。
 試験が終わった時点でメールする、と土浦は言っていたから、大人しく待っている。
 とはいえ、落ち着いていられるわけはなく、クラリネットの練習をしてみたり、ピアノを少し弾いてみたりして時間を潰していた。
 両親は不在。父親は勿論仕事だが、母も、今日は親類の家へ出かけていて、帰宅は夜になってからの予定だ。おそらく、父が駅で母を迎えてから帰ってくるだろう。
 昼を少し過ぎた頃に、念願のメールが届く。

『今、終わった。これから学校を出る。どこで待ち合わせる?』

 冬海は急いで返信する。

『先輩、お疲れ様です。よかったら、うちまで来ていただけませんか? お昼、まだでしたら、用意しますから』

 これの返事はメールではなく、直接電話がかかってきた。
「笙子? あれは一体・・・」
「あ、あの・・・お昼は、どうされました?」
「いや、まだだが・・・」
「なら、どうぞ。簡単なものしか、ありませんけど・・・良かったら」
「本当にいいのか? お邪魔しても」
「はい、勿論です、梁太郎先輩」
 土浦は最寄り駅についたらまた電話する、と言って通話を切った。
 冬海はお鍋に煮込んだシチューを覗き込む。
 昼頃に試験が終わると聞いていた時点で、ランチを用意しようと決めていた。
 相変わらず、包丁を使うことにはいい顔をしない母だったが、冬海はそれではいずれ困ることも出てくるかもしれないからと、最近になって少しずつ、習わせてもらうようになっていた。
 指に気をつけながらの、かなりゆっくりとした速度でしか作業が出来ない冬海だが、果物ナイフなどを併用して、今日のシチューとグリーンサラダを作り上げた。
 パンも手作りした。バターロールだから、食べる前に少し温めればいい。
 デザートには甘さ控えめのチョコムース。
 僅かにコーヒーを混ぜてあるから、土浦でも大丈夫な筈。
 料理上手な土浦に比べれば初心者の冬海に出来ることなどたかが知れているのも判っていたが、それでも、彼のために出来るだけのことをしてあげたいと思った。
 10分もすると、再び電話が鳴る。
 土浦が冬海の家に来るのはこれが初めてではないので、このまま家へ来てくれるとのことだ。
 冬海はゆっくりとお鍋を火にかけて、温めなおす。
 更に7分くらいで、玄関のチャイムが鳴って、土浦の来訪を告げた。
 火を止めてから、冬海は玄関へと向かう。
「先輩、来て下さって、ありがとうございます」
「悪いな、笙子。・・・これ」
 土浦は、少し視線を泳がせながら笙子に小さなアレンジメントを差し出す。
 夏らしい、小さなひまわりを中心に、クリームイエローのスプレーカーネーションとかすみ草とグリーンの可愛らしいアレンジメントだ。
「あ、ありがとう、ございます・・・可愛い」
 嬉しそうに笑みを浮かべる冬海に、土浦はホッとした。
 店頭でみかけたものをそのまま買い求めたのだが、冬海は気に入ってくれたようだ。
 冬海に招き入れられて、土浦はリビングに入る。冬海はアレンジメントをダンニングテーブルの上に置いた。
「すぐに、用意しますから、待って下さいね」
「慌てなくていいぜ、笙子。・・・そういえば、お母さんは、買い物か何かか?」
「あ、はい。母は、親戚の家に行っていて・・・夜には、帰ってきます」
 冬海の返事を聞いて、土浦はぎょっとした。
 では、夜まではこの家に2人きりということか。
 いくらなんでもそれはマズイだろう。これは、相当に自制しないと。
 いっそのこと、食事が終わったら外出してしまうというのも1つの手か。
「・・・梁太郎先輩、出来ましたよ」
 冬海が笑顔で声をかけてきて、土浦は思考を中断してテーブルに向き直る。
「へえ。美味そうだな」
 湯気がほんのりと立ち上るブラウンシチューに、グリーンサラダ、それにロールパン。
 爽やかな若草色のランチョンマットの上に、品よく並べられた料理たちに、土浦はにわかに空腹を覚えた。
「・・・全然、本格的じゃないですけど・・・あの、先輩のお口に合うかどうか・・・」
 はにかんだ笑みを浮かべる冬海と向かい合わせで席に着きながら、土浦はその言葉に僅かのひっかかりを覚えた。
「・・・・・もしかして、これ、お前が作った、のか?」
「・・・はい」
 冬海が頷き、土浦は瞠目する。
 クラリネット奏者の冬海は、一人娘ということもあってか、包丁は使わせてもらえないのだと言っていた。
 それをいつの間に・・・。
「笙子、包丁は使ったことがないとか言ってなかったか?」
「あ、はい。母が、ずっと、持たせてくれなくて・・・でも、今日は、どうしても、自分で料理をしたくて、母に、頼み込んで、教えてもらいました。・・・指に気をつけながらだから、だいぶ時間は、かかったんですけど・・・」
 恥ずかしそうに言う冬海を前に、土浦は溜息が出るのを抑えられなかった。
 こんなにまで健気な冬海への愛おしさは増す一方だ。
 どうしてこう、可愛いのだろう、彼女は。
「・・・あの、梁太郎先輩・・・?」
 冬海は土浦の漏らした溜息に、にわかに不安になる。
 こんなことをして、本当は土浦には負担だったのではないだろうか。
 いきなり表情を曇らせた冬海に気づいて、土浦は一瞬怪訝になるが、すぐにその原因に思い当たって苦笑した。
「違うって。確かに、驚いたけどな。・・・ありがとな、笙子」
 土浦は微笑んでそういうと、いただきます、と手を合わせ、スプーンを持ち上げてシチューを掬い、口へと運ぶ。
「・・・うん。美味い」
「・・・本当ですか?」
「ああ。市販のルウを使ってるんだろうけど、美味いぜ。・・・なあ、このパンも、手作りか?」
「はい。以前、先輩と湖畔公園に行った時の、レシピを見て・・・思い出しながら、作ってみたんです」
 去年の秋、土浦が参加したコンクールが終わってから、2人で体験コーナーに申し込んで作ったバターロールのレシピを、冬海は大切に保存していたのだ。
「・・・凄いな。まさか、お前の手料理が食べられるとは思ってなかった」
「・・・どうしても、自分で作りたくて・・・梁太郎先輩、お誕生日、おめでとうございます」
 冬海の笑顔は、輝くように眩しく、やさしくて。
 この笑みを独り占めしていることに満足しながら、土浦も笑みを返した。
「ありがとう、笙子。・・・後でお礼をしないとな」
「そ、そんな・・・お花も、いただいたし、お礼なんて・・・」
「・・・この花程度じゃ足りないだろ?」
 冬海がくれたたくさんの気持ち。自分だけのためにと、頑張ってくれたこの愛しい彼女の想いが、土浦を満たす。
「い、いえ、そんなこと・・・先輩が喜んでくださったら、それで充分です。私の方こそ・・・本当は、もっと、ちゃんとしたものを、差し上げられたら良かったんですけど・・・」
 控えめな冬海の言葉に、土浦の中にふと、悪戯心が芽生える。 
「笙子、後で、お前のために久しぶりに何か弾こう。その代わりに、ひとつ、欲しいものがあるんだが」
「えっ・・・先輩の、ピアノ、聴かせてもらえるんですか? その代わりに、何を・・・?」
 指揮者としての学びをしている土浦は、あまり人前でピアノを弾かなくなっている。とはいえ、昨年のコンクール以来、演奏会などに声がかかることはあって、幾つかのものは引き受けざるを得なかった。
 だから、自分だけのために土浦が演奏してくれるということがどれ程贅沢なことなのかを冬海はよく承知している。
「その時になったら、な」
 土浦はふっと笑みを向けると、食事を再開した。
 冬海もそれに倣う。


 冬海の唇が欲しいと、そう告げたなら、この可愛い恋人はどんな反応をするだろう。
 本音としはて全てを、と言いたいところだが、冬海はまだ高校生だ。それに、1度そうなってしまえば、自身に抑えが利かなくなるだろうという予測は簡単についた。
 大切な、一輪の花。
 温かで、やさしくて、健気な、誰よりも愛しい恋人。
 そんな彼女と一緒に過ごせる誕生日を、土浦は素直に幸福だと思っていた。
 


 
  

END








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