振り向く笑顔







 土浦はこれで最後、と決めて出場したコンクールで優勝し、逆にピアニストとしての腕を認められることになった。
 しかし、大学では指揮を学びたいという決意は変わらず、受賞者発表会には出るが、それ以降はピアニストとしての活動はしない、というつもりだった、のだが。
「折角だ、君にはわが学院の広告塔になってもらうよ、土浦君」
 吉羅理事長にそう言われ、文化祭での演奏を言い渡されてしまう。
「なっ・・・俺はもう、ピアノは・・・」
「あのコンクールで優勝しておいて、それは通用しないよ。日野君や志水君、冬海君たちにもそれぞれ、演奏をしてもらうことになっている。今年、彼らはそれぞれに学生コンクールで優勝、あるいは入賞しているからね。昨年、私に学院分割案を撤回させた君たちだ、今後の学院発展のために役立ってくれるのは当然だろう?」
 香穂子と共に、吉羅の計画阻止をしようとしたのは事実なので、土浦は言葉に詰まる。
 そして、演奏を承諾せざるをえなかったのだ。



「梁太郎先輩、少し、お休みされませんか・・・?」
 ショパンの幻想即興曲、華麗なる大円舞曲、リストの愛の夢をエンドレスで弾き続けていた土浦に、冬海が心配そうに声をかけてきた。
「・・・ん・・・ああ・・・笙子か」
「あまり、根を詰めると・・・その、指を・・・」
「今、何時だ?」
「じきに、5時になります」
「もう5時か?」
 1時間以上、弾き続けていたことになる。道理で、腕か少し重い筈だ。
 練習は大切だが、適度な休憩を入れないと、冬海の言うとおり、指を痛めてしまう。
「・・・悪い。お前との曲も、練習しなきゃなのにな」
「・・・いいえ。私、先輩のピアノ、大好きですから」
 はにかんで笑う冬海に、土浦も自然と笑みになる。
「受賞者コンサートでは、何を演奏されるんですか?」
「そっちはベートーヴェンの『悲愴』をな。文化祭は、さっきの中のを2つと思ってるんだが」
 ソロでの演奏以外に、土浦は冬海と一緒にレーガーの『ロマンス ト長調』を演奏することになっていた。

「・・・でも、コンクールで優勝された、梁太郎先輩に・・・私の、伴奏をしていただくなんて、そんな・・・恐れ多い、です」
 最初、共演の話が出た時に、冬海はこう言った。しかし、それは吉羅の意向でもあったし、何より、土浦が冬海と一緒に演奏したいと思ったから、彼女を説得し、こうして共に練習を積んでいる。

「・・・笙子は、どれを聴きたい? この際だ、文化祭ではお前のリクエストを聞くのも悪くないだろ」
「えっ、あの・・・私が、リクエストしても、いいんですか・・・?」
 冬海が大きな瞳を見開くと、土浦はふっと笑った。
「ああ、いいぜ。折角だからな。理事長も、曲目にまでは口出ししてこないようだし、いいだろ、それで」
「えっ、と、あの・・・『愛の夢』は、聴きたいです。それから、あの・・・」
 冬海は少し俯いて、頬を染めた。
「あの、文化祭で、じゃなくても、いいんですけど・・・『月の光』と『ジュ・トゥ・ヴ』も、聴きたい、です」
「・・・なら、それは明日、弾いてやるよ」
 土浦はすっと冬海の頬に手を当てた。
 驚愕に見開かれた瞳は、まじまじと土浦の瞳を凝視してくる。
 そして、ふわりと花が開くような笑みになった。
「嬉しい、です。楽しみにしています、梁太郎先輩」
 明日は11月3日、冬海の誕生日だ。
 土浦はそれをちゃんと覚えていたのだ。
「ああ、他にも、リクエストがあったら受け付けるぜ? 明日は、特別だからな」
「考えて、おいてもいいですか? あの、思いついたら、メールします」
「判った」
 土浦は頷くと、冬海と共に『ロマンス ト長調』の練習をして、それから、いつものように駅まで彼女を送り、必要な買い物をしてから帰宅した。




 冬海からのメールは、夕食後の練習を始めようかと自室のピアノの前に座った時に届いた。
「・・・へえ。笙子にしては意外な選曲だな」
 リクエストされたのは、ショパンの『エオリアンハープ』と『黒鍵』。
 どちらも暗譜している曲なので弾ける筈だが、一応、さらっておいたほうがいいだろう。
 そして、文化祭での演奏は『華麗なる大円舞曲』と『愛の夢』にしようと決めた。
 土浦は早速ピアノの蓋を開けた。
 誰よりも大切な愛しい恋人のために、想いを込めた音色を届けられるように。





 翌日。
 土浦と冬海は放課後、いつものように練習室で待ち合わせた。
「笙子、今日は、このまま家に帰りたいんだが、いいか」
 顔を合わすなり、土浦はそう切り出した。
「えっ、あの・・・梁太郎、先輩?」
「お前さえ良かったら、一緒に家に来てくれ。家で、ピアノを聴かせてやるから」
「・・・いいんですか? 先輩」
「ああ。ここじゃ、ちょっとな。いつもの練習と同じになっちまうだろ? 誕生日の日くらい、特別にしないとな」
「先輩・・・」
 心持ち赤くなっている土浦のテレと心遣いを感じて、冬海は微笑む。
「嬉しいです。・・・是非、お邪魔させて下さい」
「ああ。行こうか」
 土浦はホッとして、冬海を伴って下校した。
 家では母が教室を開いている時間だが、とりあえず、現在は生徒さんのレッスンに入っている筈だから、余計な詮索はされずに済む。
 土浦は冬海を自室に招き入れて、座るように促した。
「ちょっと待ってろ。飲み物、持ってくるから」
「あ、いえ、あの、お構いなく・・・」
「すぐ戻る」
 土浦は手早くキッチンで紅茶を淹れる。
 昨日のうちに作っておいたマロンとチョコのショートケーキを冷蔵庫から取り出し、一緒に自室へと運んだ。
「笙子、悪い、開けてくれ」
「あ、はい」
 扉が内側から開かれると、土浦はトレイを中へと運び込んだ。
「先輩・・・」
「・・・誕生日にはケーキがつきものだろ」
「・・・これ・・・あの、もしかして、先輩が・・・?」
 既製のケーキにつきもののフィルムがない。ということは土浦のお手製、ということではないかと冬海は思い、瞠目した。
「・・・お前みたいに上手くは出来ないが、まあ、一応、俺が作った」
「凄いです・・・先輩。ありがとうございます」
 感激したように瞳を潤ませた冬海に、土浦は頬の横を指で軽くひっかいた。
「あー、いや、まあ・・・多分、味はそう悪くはない筈だ。それ食べながら、ゆっくり聴いててくれたらいい」
 土浦はいつものように手首と指を慣らして、そっとピアノの蓋を開ける。
「最初は『黒鍵』、それに『子犬のワルツ』だ」
 土浦の長い指がピアノの鍵盤に乗せられて、軽やかな音が流れ出す。
 リラックスした様子で、楽しげにピアノを奏でていく土浦の姿に、冬海は見惚れた。
 大きくて強くて、やさしくて、少しだけ厳しい土浦を見ているとドキドキするが、1番素適だと思うのが、この演奏をしている姿だ。
 誕生日に土浦のピアノを独占するのはこれで2度目だが、こんなに素適な男性(ひと)が自分の恋人なのかと思うと、冬海は少しだけ恐くなる。
 本当にこうして独占していて良いのだろうか、と。
 とはいえ、自分が土浦を好きな気持ちは変わらないし、むしろ、ますます魅かれていっているのだから、不安とは戦っていくしかないのだろうとも思う。
 演奏が終わると、冬海は心からの拍手を贈った。
「・・・じゃあ、次は『エオリアンハープ』と『月の光』を」
 やさしい旋律が紡がれていく。
 土浦の奏でる音に包まれ、抱きしめられているのではないかと思う程、心地がいい。
 目を閉じて、冬海はその音に聞き入っていた。
 静かな、最後の音が響くと、冬海はゆっくりと目を開ける。
 そして、余韻が消えてから拍手した。
 土浦は冬海へと振り向き、自然な笑みを浮かべる。
「じゃあ、最後に『ジュ・トゥ・ヴ』だ」
 昨年の誕生日にも演奏してもらった曲。冬海が大好きな曲の1つだ。
 今日の土浦の『ジュ・トゥ・ヴ』は、とても情熱的な雰囲気を感じさせる音だった。
 そのタッチ、紡ぎだされるメロディーの全てが、「愛している」と叫んでいるような、そんな音で。
 冬海は聞きながら、顔が火照ってどうしようもなくなっていく。
 土浦の想いが、心が、ストレートに響いてくる。
 ゆっくりと鍵盤から手を離した土浦が振り向くと、冬海は耳まで真っ赤になっていた。
「・・・笙子?」
 軽く瞠目した土浦が、立ち上がる。
「あ、あの・・・あの、わ、私・・・」
「・・・どうした?」
「・・・わ、私、も・・・あの、大好き、です、梁太郎、先輩・・・」
 いきなりの告白に、土浦は僅かに動揺するが、その言葉の理由に思い当たって、微かに目元を染めた。
「あー、いや、その・・・ま、ありがとな、笙子。・・・誕生日、おめでとう」
「・・・嬉しいです・・・ありがとうございます、先輩・・・」
 真っ赤のまま、微笑む冬海のあまりの愛らしさに、土浦は自分の髪を掻きまわす。
 衝動のままに抱きしめてしまいたいところだが、あまりにも場が悪い。
 土浦は落ち着くために深呼吸をしてから冬海の隣に、少しだけ間を開けて座った。
「・・・結局、ケーキは食わないまま聴いてたんだな」
「あ、あの、聞き入って、しまって・・・あの、いただきます」
 冬海は焦ったようにケーキを口に運び、その甘すぎない柔らかな美味しさにまた、感激する。
「・・・美味しいです、先輩・・・!」
「・・・そうか。・・・良かった」
 その様子を見ながら、土浦は温くなってしまった紅茶を一気に飲んだ。
「・・・紅茶も、温くなっちまったな。新しいの、入れてくる」
「あ、いえ、そんな・・・充分です、これで」
「遠慮するな。俺が、熱いのを飲みたいんだ」
 そう言って立ち上がった土浦の背中に、冬海は声をかける。
「あの、先輩」
「なんだ?」
「あの、ありがとう、ございます・・・」
 そう伝えると、土浦は穏やかな笑顔で振り向いてくれて、冬海はとくん、と胸が高鳴った。
「いいって。・・・ミルクでいいな?」
「はい」
 いつにも増してやさしい土浦に、冬海は幸せな気持ちをしみじみと噛みしめた。 



 
  

END








BACK