旅立ちの日は、少し透明度を増した、秋の空のような青空で。

「先輩、気をつけて、いってらして下さいね」
 そう言って、潤んだ瞳のまま、微笑んだ可愛らしい恋人の華奢な姿と共に、土浦の心に深く刻まれる。






 あれから、半年以上経った春に。
 土浦は思いがけない事態に巻き込まれることになっていた。








おもいでの空






「月森の伴奏? 俺が?」
「正確には共演、だ、リョータロー。君がうちのオケの指揮をしていると先生がツキモリに話したら、是非、ということになったらしい」
 土浦はベルリンにある音楽学校に留学してきて、学生オケの指揮を3人の指揮者志望の学生と交代で務めている。
 この学校の講師の1人が、以前日本で1度だけ会ったことのある、世界的マエストロ、クラウス・ヴェルナーだと知ったのは、入学してからだった。
 彼と会った時、土浦はピアノを弾いていたので、ピアニストだと思われていたのだが、指揮者志望だと知ると、彼はそれはそれは愉しそうに笑い、何かと気にかけてくれるようになった。
 無論、やさしい訳ではなく、むしろ厳しいくらいだったが、彼の薫陶は土浦の才能を引き出し、音楽的センスを更に磨いていった。
 結果、半年ほどで土浦は学生オケの指揮者の1人に選ばれることになったのだ。
 そして今回、オケの定期演奏会に、ソリストとしてプロになって2年目の月森 蓮が招かれることになり、彼の希望で土浦がタクトを持つことになった、ということらしい。
 マエストロ・ヴェルナーが月森 蓮を知っているのは当然。彼は、月森の両親の知人で、母親の浜井 美沙とは何度も共演しているし、土浦が彼と会ったレセプションには月森も出席していたのだから。
「リョータローはツキモリを知っているんだろう?」
 オケのコンマスのハンス・リヒターに問われ、土浦は眉根を寄せたままの顔で頷く。
「・・・ああ。同級生だ」
「それだけか? ただの同級生じゃないんだろ? その顔じゃ」
 面白そうに言われ、土浦はますます眉根を寄せる。
「・・・それより、曲は?」
「シベリウスの協奏曲だそうだ。それと、予定通りブラームスの1番を」
「シベリウス、か・・・」 
 土浦も何度か聞いたことはあるし、勉強のための譜読みも、したことがある。しかし、それはあくまでも勉強のためであって、実際に自分が振るためのものではない。
 確か、月森は一昨秋の国際コンクールのファイナルでシベリウスの協奏曲を演奏して優勝していたはず。
 この曲を振るのは初めての、まだ学生の自分と、プロの月森。
 その差を見せつけられるような気がして、土浦は苦い思いを噛みしめる。
 しかし、それでも。
 目指す道のためには、受けて立つしかない。現在の己の精一杯で応えるしかないのだ。
「後3週間かよ・・・時間がないな」
「・・・リョータロー、パート練習は1週間で終わらせる。・・・半月でいけるか?」
 ハンスは挑戦的な瞳で土浦を見る。
「・・・やるしかないだろ? よろしく頼む、ハンス」
「ああ」
 ハンスは硬い表情を崩さない土浦の肩を、ポンと叩いた。




 
 月森は定演の3日前にベルリンにやってきた。
 マエストロ・ヴェルナーに伴われ、土浦を始めとするオケの前に立つ月森は、プロの風格を漂わせていた。
「・・・久しぶり、だな、土浦」
「・・・ああ。まさか、こんな風に共演することになるとは思わなかったぜ、月森」
「・・そうか? 確かに、こんなに早く実現するとは思っていなかったが・・・楽しみだ」
 そう言って、微かに挑むような笑みを浮かべた月森に、土浦も不敵な笑みで応じる。
「そうだな。・・・ともかく、いい演奏にしたいもんだ」
「ああ」
 そうして、練習が始まる。
 悔しいが、月森の音は研鑽され、深く心の奥に訴えかけてくるような魅力が生まれていた。
 高校時代の、香穂子への想いを自覚する以前とは明らかに違う、心地よさがあると、土浦は感じた。
 こちらは学生オケで、どうしてもプロほどの完成度ではないが、土浦なりに解釈と研究をし、メンバーと詰めてきたつもりだ。
 互いに意見をぶつけ合い、よりよい音楽とするために、月森と土浦とオケは練習を重ねていった。



 そして、定演の当日。
「今までの定演なら、ある程度ってとこだった客席が満員だぜ、リョータロー」
 舞台の袖でハンスに言われ、土浦は溜息をつく。
「月森効果、ってコトだよな、それ」
「そういうことだよ。・・・でも、俺たちも負けていられない、だろ?」
 不敵な笑みを浮かべたコンマスに、土浦もまた、口元だけの笑みを返す。
「ああ、その通りだ」
 着替えを終えて、舞台袖に現れた月森に、ハンスは握手を求める。
「今日はよろしく、レン」
「ああ、こちらこそ」
 月森はハンスと握手をした後、土浦にも手を差し出す。
「お互いに、いい演奏をしよう」
「ああ、勿論だ」
 土浦も受けて立つ。
 まずは学生オケだけのブラームスの交響曲1番の第一楽章を演奏し、それなりの拍手を得た。これは、土浦ではなく、同じ指揮を学ぶカール・ベッカーが振った。
 10分の休憩の後、ハンスとオケが席に着き、土浦が入場し、月森がヴァイオリンを持って舞台に出ると、会場は大きな拍手に包まれた。
 月森と土浦はアイコンタクトを交わし、演奏が始まる。
 ピアニシモから始まるこの曲を、土浦が振るオケと、月森のヴァイオリンが美しく織り上げていく。
 途中、オケの僅かな音の乱れなどがあったが、月森のヴァイオリンは揺るぐことはなく。
 第三楽章が終わった時点で、客席からは割れんばかりの拍手が湧き起こった。
 土浦と月森は互いに微かな笑みを浮かべて、握手を交わした。
 その様子に、客席の拍手はますますヒートアップする。
 土浦たちはそれに深々としたお辞儀で応えた。
 
 幕が下ろされる。
 楽屋に移って、メンバーは今日の演奏の成功を喜び合った。
 月森は個人用の楽屋を用意してもらっていたが、愛器を置くと、オケのメンバーのいる楽屋へと移動した。
「レン、素晴らしい演奏だった! ありがとう!」
 ハンスがまず、声をかける。他のメンバーも口々に月森に礼を述べ。
 月森は微かな笑みでそれを受け止める。
「いや、みなさんの演奏あっての出来です。いい、演奏が出来たと思います。本当にありがとう」
「・・・ちょっと外しちまったトコもあったけどな・・・でも、全体的に良かったと思う。月森、サンキュ」
 土浦も素直に月森を称えた。
「レンもリョータローも、みんなもよくやってくれた。いい定演になったな」
 マエストロ・ヴェルナーが楽屋へやってきた。
 しかも、彼は花束を抱えた女性を2人、連れている。
 その顔を見て、土浦は驚愕した。
「な、まさか・・・!」
「レンとリョータローにプレゼントだ。・・・さあ」
 ヴェルナーに言われて前に進み出たのは、香穂子と冬海。
 香穂子は淡い空色のシンプルなワンピース、冬海は桜色のふわりとしたワンピースを着ている。それぞれに、白いバラがメインの花束を持って。
「蓮くん、土浦くん、ステキな演奏だったよ」
 香穂子がまずそう言い、月森に花束を渡す。
 月森は今までの、どこか硬い表情を一変させ、やさしい笑みで香穂子を見つめる。
「ありがとう、香穂子、来てくれて」
「ううん、こちらこそ、ありがとう、招待してくれて。・・・ほら、笙子ちゃんも」
 香穂子にそっと背中を押されて、冬海ははにかみながら土浦の前に立った。
「先輩、あの・・・凄く、ステキでした。私・・・凄く、感動して・・・」
 そっと花束を差し出す冬海に、土浦はまだ瞠目したままだった。
「・・・・・どう、して、ここに・・・?」
「彼女たちを呼んだのは俺とマエストロだ」
 土浦の疑問に答えたのは月森だった。
「お前と先生が?」
「ああ。君と俺の共演が決まった時から、香穂子を招きたいと思っていた。だが、冬海さんもきっと聞きたいんじゃないかと思って、マエストロに相談したんだ。それで、こういうことに」
 さらりと言う月森と、ニコニコした笑顔のヴェルナーに、土浦はすっかりしてやられたのを感じる。
 後できっとハンスたちにからかわれる羽目になることを覚悟し、それでも、久しぶりに会えた愛しい恋人に、土浦は笑みを向けた。
「・・・ありがとな、笙子。・・・こんな遠くまで来てくれて」
「いいえ! 私・・・来られて良かったです。ずっと・・・ずっと、先輩に、会いたかったから・・・」
 冬海の瞳が僅かに潤む。
「・・・それは、俺もだ、笙子。元気そうで、良かった」
 冬海を見つめる土浦の瞳のやさしさに、周囲の誰もが、彼女が特別な存在なのだということを知り、ある者はニヤリと笑い、ある者は溜息をつき、肩を竦め・・・さまざまな反応をした。
 そういった周囲の視線と雰囲気は無視を決め込んで、土浦は冬海に問いかける。
「宿は、日野と一緒か?」
「あ、はい、今夜は。明日から2日間は、その・・・マエストロの、お宅に、招待されてて・・・」
「は? 先生のところに? 日野もか?」
「はい。月森先輩も、だと、思いますけど」
 冬海の言葉に、やられた、と思った。  
 今日は金曜日で、土、日は学校は休みだ。これは、土浦もヴェルナー宅に呼ばれたも同然。
「はあ・・・仕方ないか」
「え?」
 土浦の言葉の意味が解らず、きょとん、とした冬海の、少しだけ伸びた髪が揺れる。
 今すぐにでも抱きしめたい思いを堪えて、土浦は冬海の頭をぽんぽん、と軽く叩いた。
「着替えるまで待っててくれるか? ちゃんとホテルまで送るから」
「はい、勿論です」
 笑顔で応えた彼女に、土浦は貰った花束を再度預けて、ハンスたちの好奇心丸出しの質問を躱しながら燕尾服を脱ぎ、いつもの服装に戻る。
 そして、急いで冬海の元へと走った。
 見れば、香穂子と月森も一緒にいる。
「日野、月森、笙子」
「土浦くん、お疲れ様」
 香穂子が笑顔で、冬海も微笑んでいる。
「これから、俺と香穂子はホテルに荷物を置いてから食事に行くが、君たちはどうする?」
 月森の問いかけに、土浦は冬海が持っている花束に目をやった。
「・・・とりあえず、花はどこかへ預けないとだな。・・・笙子、この花、お前に預けていいか」
「あ、はい。・・・じゃあ、私たちも一度ホテルに、ですね」
 会場からそう遠くないホテルまで歩き、月森と冬海はそれぞれの部屋に花などの手荷物を置きに行き、それから、2人ずつに分かれた。
「・・・やっと、お前と2人になれた」
 ホテルのロビーの、人目につかない一角で、土浦は冬海を抱きしめ、焦れたように唇を覆う。
 半年ぶりの再会。溢れる想いを全て表すかのような、長くて熱いキスに、冬海も必死で応える。
 唇が解放されたのは、もういい加減、冬海の足や腰に力が入らなくなった頃で。
「・・・笙子・・・会いたかった」
「・・・・・私も、です・・・梁太郎先輩・・・」
 上気した頬があまりにも艶めかしい冬海に、土浦はどうしようもなく劣情を刺激されるが、まさかこのまま押し倒すわけにもいかず、苦笑する。
「・・・悪い。・・・ここが密室じゃなくてよかったぜ・・・」
「先、輩・・・」
 冬海が耳まで赤くなる。
 容姿が少し大人びてきても、こんなところは変わらない。そのことが、土浦を安心させる。
「・・・夕食、付き合ってくれるだろ? 歩けそうか?」
「・・・はい」
 冬海は両足に力を入れて立ち上がる。
 自然な仕草で、土浦は冬海の手を取った。そして、微笑む。
「行こう」
「はい」
 嬉しそうな、輝く笑みを浮かべた冬海に、満足そうに頷き、土浦はゆっくりとホテルから出た。
 左腕に感じる、冬海の手の温もり。
 見上げた空は、見事な月夜で。
「綺麗な月だな」
「ホントですね・・・ステキです」
 充実したこの日の夜空も、おもいでの空になりそうだな、と土浦は思った。









END







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