雨の日の緑樹








 今年も雨の季節がやってきた。
 冬海は駅を出たところでパステルピンクの傘を差して歩き出す。
 あまり激しい雨は困るけれど、こんな風に、霧のようにやさしく降る雨は嫌いじゃない。
 学校への交差点に差し掛かると、いつものように黒っぽい大きな傘を差している大好きな人の姿を見つけて、はにかんだ笑みを浮かべた。
「おはよう、冬海」
「おはようございます、先輩」
 土浦は穏やかな瞳で頷き、歩き出す。
 こんな風に、一緒に登校するようになって半年が過ぎた。
 今年になって、制服が変わった土浦の姿も、ようやく見慣れてきたところだ。
 何気ない朝の風景が、今日はなんとなく違ってみえる。それは、雨のせいかもしれない。
「あまり強くならないといいな、この雨」
 並んで歩き出して程なく、土浦がそう口にした。
 彼はピアノ奏者だから、楽器を持ち歩くようなことはないが、冬海は今もクラリネットのケースを持っている。木製の楽器に、雨は大敵だ。
「・・・はい、そうだと、いいですけど・・・天気予報だと・・・」
「・・・夕方から強くなるって言ってたよな。・・・せめて、お前が帰るまでは持ってくれたらいいけどな」
「先輩・・・」
 冬海はそっと微笑んだ。
「そう、ですね。・・・先輩、今日は、練習室を使われますか?」
「いや、今日は使わない。予約も入れてないんでな」
 コンクールに出るための準備をしている土浦は、冬海がオケ部の練習のある日は自宅へ帰って練習することが多くなっていた。
 今日もオケ部の活動日だから、まっすぐ帰って自室で練習しようと思っている。
 冬海の帰り道が多少心配ではあるが、駅までは一緒に帰る部員もいるので、そちらに任せている状態だ。
「今日は、オケ部の筈だろ? オケ部も、夏のコンクールに向けて練習中なんだし」
「あ、はい、その筈だったんですけど・・・今日は、パート練習で、その・・・クラリネットのメンバーは、色々、都合があって、自主練習、なんです。だから、もしも、先輩が練習室を使われるなら、少し、聞いていただけたらなって、思ったんですけど・・・」
「そうなのか?」
 そんなことになっているとは知らなかった土浦は軽く瞠目する。
「そうと判ってれば、予約しとくんだったな、練習室」
「あ、いえ、あの・・・私のことは、気にしないで下さい、先輩。私より、先輩の方が、大変なんですし・・・」
 ふるふると首を振る冬海に、土浦は何とかして練習室を確保出来ないか、交渉してみようと思った。
 自分から、何かを要求することは殆どない冬海だから、こんな些細な願いくらい、叶えてやりたい。
「・・・とりあえず、お互い、練習しないと、だな」
「はい、そうですね」
 頷いた冬海に土浦も頷きを返して、2人はそのまま学院へと向かった。





 昼休み。
 土浦は職員室の練習室予約表を確認して、どうにか1室だけ空いていたところに名前を記入する。
「・・・ラッキーだったな・・・お、隣は日野か」
 香穂子も学生向けのコンクールに出るよう、理事長から言い渡されていると聞いている。
 土浦と違い、彼女の自宅は楽器練習用の防音設備などはないということだから、毎日放校ギリギリまで、練習室を使っているようだ。
「・・・昨年の春からすると、考えられない状況だよな、俺もあいつも」
 ひとりごちて、土浦は全ての始まりだったと言っても過言ではない、学内コンクールのことを思い出した。
 香穂子が出会った、学院に棲む音楽の妖精・リリとヴァイオリン。それ故に、彼女はコンクール参加者となり、土浦と出会った。
 それがきっかけで、もう一度ピアノに、音楽にこんなに真剣に向き合うことになるとは。
 そして、同じ参加者であった冬海を好きになって、こんな風に想いを交わすようになるなんて。
 職員室を出て、教室へと向かう途中で、土浦はふと思いつき、2年の教室へと足を向けた。
 2年B組の前に差し掛かると、偶然にも冬海が仲の良い鈴木 麻紀子と一緒に教室から出てきた。
「先輩」
「冬海」
 ほんの一瞬、瞠目した冬海だが、すぐに微笑みに変わる。
 麻紀子は「先に行ってるね」と冬海に声をかけ、土浦に軽く会釈して歩いて行った。
「悪いな、邪魔したか?」
「あ、いえ、大丈夫です。それより・・・何か、ありましたか? 先輩」
 今日はランチの約束はしていない。
 冬海は僅かに首を傾げて土浦を見上げる。
 土浦は、その可愛らしい仕草に、油断すると緩んでしまいそうになる顔を誤魔化すかのように小さく咳払いをした。
「・・・放課後、なんだが・・・練習室、取ったから」
「本当ですか? 先輩、あの、私のために、無理をさせてしまったんじゃ・・・」
「いや、たまたま、空いてたから取れただけだ。隣は日野らしい」
「香穂先輩ですか? 確か、香穂先輩も、コンクールに・・・」
「ああ。あいつも、かなり頑張ってるよな。俺たちも、負けていられない」
「・・・はい」
 微笑んだ冬海に、土浦は頷きを返す。
「じゃ、また、放課後な」
「はい」
 冬海がしっかりと頷いたのを見て、土浦は自分の教室へと戻った。





 放課後。
 雨はまだ静かに降っている。
 練習棟へ向かう途中の階段の踊り場で、土浦はふと窓の外へと目を向けた。
 星奏学院は敷地内に緑が多い。
 晴れた日は森の広場や屋上で練習する者もいる。木々や花に囲まれているとなんとなくではあるが、穏やかな気分になる。
 今日は生憎の雨だが、雨に濡れた木々というのも、意外と悪くないなと、土浦は思った。
「・・・先輩」
 やさしい声に振り向くと、冬海がまた、僅かに首を傾げて立っている。
「どうか、されたんですか?」
「ああ、いや・・・外を見てた」
「外を?」
 冬海も窓の外に目を向ける。
 静かに音もなく降り注ぐ雨の中、緑の木々が空に向かって立っている。
 何気ない風景の筈なのに、何故か安堵感を覚える。
「・・・綺麗ですね」
「・・・ああ。雨の日の緑樹ってのも、悪くない」
「・・・はい」
 微笑みながら同意してくれた冬海に、土浦は自然な笑みを向ける。
「そろそろ、行くか。練習しよう」
「はい」
 2人はゆっくりと階段を下り、土浦が予約した練習室に入る。
 左隣の練習室からは、微かにヴァイオリンの音が聞こえてきた。
「・・・『シャコンヌ』ですね」
「らしいな。・・・結構、いい感じになってるじゃないか」
「そうですね。・・・香穂先輩は、どんどん上手くなられてます」
「うかうかしてる場合じゃないな、俺たちも」
「はい」
 土浦と冬海は練習室に入ると、早速準備を始める。
「確か、ベートーヴェンの7番、だったな、課題曲は」
「はい。それから、自由曲でチャイコフスキーの1812年を。ソロはないですけど、クラリネットは数が限定されるので、来週、選抜があるんです。それで、余計に、パート練習、みたいになってて・・・」
「ああ、そういうことか」
 編成人数の関係上、クラリネット奏者全員がコンクールに出られる訳ではないということらしい。
 殊に、3年生にとっては最後の部のコンクールとなる。選抜メンバーになりたいという思いは当然だろう。
「・・・でも、お前も諦めるつもりはないんだろう? 笙子」
 土浦が不敵に笑う。
 冬海も、その笑みと視線を真摯に受け止め、真顔で頷いた。
「はい。私は、私の精一杯で、演奏をしたいんです。そうでなくちゃ・・・同じ、クラリネットの先輩たちや、友達に、失礼になりますから・・・それに、梁太郎先輩や、香穂先輩に、胸を張っていたいんです。だから、頑張ります」
 強い意志の込められた瞳に、土浦は瞬間瞠目し、けれど、満足そうな笑みになると、冬海の頭をごく軽く、ぽんぽんと叩く。
「・・・ああ。頑張ろうな、笙子。俺も、応援してるよ、お前を」
「はい」
 嬉しそうな笑みを浮かべた冬海を見て、土浦も笑みのまま頷く。
 それから、冬海は土浦に聞いてもらいながら、自分のパートを吹いた。
 何度も何度も練習されてきたそれは、間違うことなく奏でられている。オケの中のいちパートとしての演奏は、個性ではなく、周囲との調和を求められるから、素直な感じで吹けている、現在のままで良いのではと、土浦は思った。
「いいんじゃないか、それで。後は繰り返し練習するだけだな」
「ありがとうございます。頑張ります」
 冬海はぺこん、と頭を下げてクラリネットを置く。
「えっと、先輩・・・私、あの、ちょっと、出ていますね。その間に、先輩の練習をなさって下さい」
 微笑んでそう言うと、突然、土浦が立ち上がった。
「せ、先輩?」
「いい。出ていくな」
 土浦は冬海に近づき、ふわりと抱きしめた。
「えっ・・・あ、あの、あの・・・」
「まだまだだけどな。俺のも、聞いててくれ、笙子」
 土浦は赤くなって固まってしまった冬海から離れると、ブレザーを脱いで鞄にかける。
 そして、徐に鍵盤に指を乗せ、メロディーを奏で始めた。
 静かな三連符から始まるのは、ベートーヴェンの『月光』第一楽章。
 土浦の大きな手から生み出される、繊細で幻想的な月夜の風景が冬海の脳裏に浮かぶ。
 息をすることも、瞬きさえも忘れたかのように、冬海は土浦の紡ぎだす音色に捕えられていた。
 あまりにも曲に魅入られていたせいで、冬海は土浦が演奏を終えたことにも気づかず、呆然としたように突っ立っていて。
 全く動こうとしない冬海を見咎めて、土浦はそっと側に歩み寄り、耳元で名を呼ぶ。
「・・・笙子」
 はっとして、冬海が目を見開くと、土浦は自分のすぐ目の前で怪訝な表情(かお)をしていた。
「どうした?」 
「・・・あ、あの、その・・・せ、先輩の、演奏が凄くて、引き込まれて・・・えと、だから・・・凄く凄く、良かったです」
 真っ赤になっている冬海に、土浦は微かに苦笑し、視線を上に逸らす。
「お前・・・褒め過ぎだろ、そりゃ」
「そんなこと・・・! 先輩のピアノは凄いです。私・・・こんな風に、演奏に引き込まれて、曲の終わりに気づかなかったなんて、初めてです。いつもなら、余韻に浸る、くらいなのに・・・私、先輩のピアノ、大好きです」
 必死になって言い募る冬海に、気恥ずかしくも嬉しくて、土浦はふっと微笑んだ。
 そして、ぎゅっと抱きしめる。
「サンキュー、笙子。俺も、お前の音は好きだぜ? お前らしくて、綺麗でやさしいしな。・・・音だけじゃなくて、お前のことも、な」
「私も・・・好きです、梁太郎先輩」
 小さく、囁くように告白した冬海を、土浦は再度しっかりと抱きしめた。







END







BACK