街灯の下で








「留学することにした」
「え・・・・・」

 街灯の下で、突然に告げられた言葉に、冬海は土浦の顔を凝視したまま、動けなくなった。




 大学4年になった土浦のところに、ドイツへの留学話が浮上してきたのは初夏のこと。
 指揮者としての学びを更に向上させるため、教授が推薦状を書いてくれることになったのだ。
 最初は迷った土浦だが、もっと上へいくためには必要なことだということは、大学生活を送る中で感じていたから、悩んだ末、受けることにした。
 期間は数年、の予定だが、未定に等しい。
 己のためにはいい話だった。ただ、そうなれば、冬海と離れなくてはならなくなる。
 土浦自身は仕方がないと思っているが、果たして彼女がそれを納得してくれるかどうかは判らない。
 でも、ここはやはり譲れない線だった。
 冬海と別れることになっても文句は言えないだろう。
 未来にあるのは可能性のみで、確実なものは何もないのだから。
 月森のように、必ず成功するとは限らない。
 或いは、ピアニストとしてなら、将来も少しは見通しが立ったのかもしれないが、指揮者としての自分がどこまで行けるのかはあまりにも不透明だ。
 ののしられるか、泣かれるか、呆れられるか・・・そんなことを覚悟して、土浦は冬海に打ち明けることを選んだ。


 ただ、それをいつ、どのタイミングで言うか。
 出発は8月半ば。9月から、向こうの音楽学校に編入する形になる。
 正式に日程が決まったのが7月の初めだったので、末にある、前期の試験などの日程とも絡み、打ち明ける時期は配慮を必要とした。
 自惚れかもしれないが、留学の話を打ち明けて、冬海が平然としていることはありえないと踏んでいる。
 そうなれば、ある程度、試験が終わるまでは黙っていた方がいいのかもしれない。
 こう考えて、土浦が冬海の試験の日程を確かめると、最終日が7月25日だということが判明した。
 奇しくも、その日は土浦の誕生日。
 よりによって誕生日かよ、と悪態をつきたくなったが、それもまた仕方がないこと。
 土浦はその日、試験が終わったら冬海と会う約束をして。



 現在に至っている。




 たたでさえ大きな瞳を、これ以上ない位に見開いている冬海を、土浦は疼くような胸の痛みを覚えながら見つめる。
 彼女の言葉を、辛抱強く待ちながら。
 やがて、冬海の桜色の唇から、小さな声が紡ぎだされる。
「・・・りゅ、留学って、あの・・・どちらに・・・」
「ドイツだ。教授が、推薦状を書いてくれて。それで、決めた」
「・・・ドイツ、ですか・・・えっと、あの・・・いつ、あちらに?」
「・・・来月の半ばに」
「そ、そんなに・・・早く・・・!」
 冬海の肩が震える。それだけ、受けた衝撃が大きいということだろう。
 土浦はこれから更に、彼女を追いつめてしまうかもしれない言葉を告げようとしている。
「9月から向こうの音楽学校に編入して、それから・・・可能なら、コンクールにも挑戦して、どっかのオケで勉強させてもらって・・・そんな風に考えてる。何年かかるかも、成功するかも判らない。だから、笙子、終わろう、今日で」
「え・・・?」
 告げられた言葉の意味を、冬海はすぐには理解出来ない。
 土浦は、何と言った? ゆっくりと、咀嚼するように思い出す。
 9月からドイツに留学すると、土浦は言った。それから、指揮者としてのコンクールに挑戦したり、どこかのオケで勉強したりして、何年、向こうにいるか判らない、と。
 それは、冬海にも理解出来る。一人前の指揮者として、プロとしてやっていくつもりなら、学びと経験は必要だ。
 ただ、それが何年かかるか、成功するかどうかも判らないから、終わりにしようというのは。
 それはつまり。
「・・・・・私と、終わりって、いう、のは・・・あの、わ、別れ、るって、こと、ですか・・・?」
 口にしてみて、冬海はぞくり、と背筋が冷えるのを感じた。
 心が、軋む。
「・・・・・ああ。そういうことだ」
 土浦は努めて冷静に応じた。
 どんなに言葉を繕っても、異なる感情が存在していても、自分が彼女を置いてドイツへ行くことは変わらない。
 未来が不透明な自分に、彼女を縛り付けておく権利はない。土浦はそう判断していた。
「先、輩、は・・・私のこと・・・き、嫌いに、なったんですか・・・?」
 冬海の声が震えている。
 土浦は強く拳を握りしめた。
「そうじゃない。・・・だが、そうするのが一番いいだろう。俺は、お前には何もしてやれないからな・・・笙子、いや、冬海・・・・・今まで、ありがとう」
 土浦が微かな笑みを浮かべる。
 冬海の大きな瞳には、今にも零れ落ちそうな涙が湛えられている。それを見ると胸が締めつけられそうだ。
 でも、彼女を傷つけると解っていて、離れると決めたのだ。
 この事態は、土浦自身が招いたもの。逃げ出す訳にはいかない。
 けれど、冬海は、意外にも泣き出さなかった。
 涙を堪えるように、きゅっと唇を引き結び、土浦のシャツの裾をぎゅっと強く握り、彼を見上げた。
「どう、して・・・どうして、そんなことを? 先輩が、ドイツへ行かれるからって・・・どうして、別れなきゃ、いけないんですか?」
 震える声で、しかし、強い調子で問いかけてきた冬海に、土浦は軽く瞠目した。
「冬、海・・・・・」
「先輩が、私のこと、嫌いに、なったっていうなら、仕方ないって、思います。でも、そうじゃないんでしょう? なら、私、別れるなんて、嫌です。そんなこと、出来ません」
 冬海はますます、土浦のシャツの裾をきつく握る。
 そして、潤んだ大きな瞳は、土浦の顔を真っすぐに捉えていた。
「冬海・・・お前・・・」
 土浦は半ば呆然として、彼女の顔を見下ろしていた。
 内気で、大人しくて、どちらかと言えば弱い感じの印象を受ける冬海。それがまさか、こんなに強い眼差しで自分を見上げてくるなんて。
 だが、このままの関係を続けていくことは、多分、互いの為にならない。
 何より、彼女の選択肢を束縛したくない。確かな約束など、何ひとつ出来ないのだから。
「でもな、冬海。俺は、お前には何も言えないんだ。・・・最初に言ったが、何年かかるかも、成功するかも判らない、そんな状態で・・・お前に対する、確かなことなんて何もない。全く未来の見えないまま、お前を束縛することは出来ない」
「・・・そんなの、無理です」
「冬海?」
「私を、束縛したくない、なんて・・・そんなの、もう遅いです。私は、もう、ずっと・・・梁太郎先輩に、束縛されてますから」
 完全に土浦は目を剥いた。
 まさか、冬海の口からこんな言葉が飛び出すなんて。
 言葉を失う土浦に、冬海はにっこりと微笑む。溜まっていた涙が、頬を滑り落ちていく。
「私が好きなのは、梁太郎先輩、ただ一人です。それ以外の男性(ひと)は、やっぱりまだ、少し怖くて・・・平気なのは、志水くんとか、月森先輩とか、加地先輩、火原先輩、柚木先輩、王崎先輩くらいで・・・だから、きっと、これからも、それは変わらないと、思うんです。それに・・・私、先輩が、指揮者としての勉強に行かれるのは、応援したいって、思ってますし、だから、大丈夫です。会いたく、なったら、その時は・・・私が、行きます、ドイツに」
「冬海・・・だが・・・」
「・・・好き」
 小さな声で呟いて、冬海は土浦に抱きついた。
 晩熟の彼女が自らこんな行動に出るなど、初めてだ。
 華奢で、柔らかい冬海の身体の熱が、土浦に伝わってくる。
「・・・笙子」
 土浦は思わず、彼女の名を呼んだ。
 それを聞いて、冬海は土浦にしがみつくように大きな背に腕を伸ばす。
「・・・どんなに、遠く離れるとしても・・・私は、先輩が、好きです。この気持ちまで、否定するようなこと、言わないで下さい。もしかしたら、未来に・・・気持ちが、変化することがあるかも、しれませんけど・・・でも、それは、その時です。今は、先輩だけです、私には」
 冬海の告白に、土浦は完敗だと思った。
 そして、彼女をそっと抱きしめる。
「・・・負けたよ、お前には。・・・そうだよな、先のことは確かに判らないが・・・今の気持ちまで、否定しなきゃいけない訳じゃないよな。けど、お前には・・・多分、寂しい思いをさせちまう。・・・悪い」
「そうですね・・・きっと、寂しいと思います。でも・・・先輩の勉強を、応援したいって気持ちも、本当ですから・・・私も、クラリネット、頑張ります。そして、先輩のこと、想って過ごします」
「・・・ありがとうな、笙子」
 土浦はそう言うと、冬海の肩を少し離す。
 少し不安そうな瞳で見上げてくる彼女に、微かな笑みを向けて、土浦はそっと可憐な唇を覆った。
 そのキスに込められた想いを、冬海はしっかりと受け止めて。
 唇が離れてから、土浦は彼女の耳元でそっと囁く。
「・・・誕生日が最悪の日にならずに済んでよかったぜ」
「・・・そうですね」
 冬海は頬を桜色に染めながらニッコリと微笑んだ。
「お誕生日、おめでとうございます、梁太郎先輩」




 街灯の下で、2人はお互いの気持ちを再確認しあった。
 まだ見ぬ未来への、期待と不安を織り交ぜて。







END








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