風に揺られて








 秋晴れのこの日、土浦と冬海は久しぶりに街に出ていた。
 普段は同じ大学に通っているものの、意識して一緒にいる時間を作らないと顔を合わすことも難しいような忙しさの中にいる2人だったりするから、ゆっくりと街に出るようなデートも、頑張って機会を作るしかなかったりする。
 今日は11月3日、冬海の誕生日だった。
 待ち合わせた駅から海の方へと歩いて、2人は赤レンガ倉庫の辺りまで来た。
 海風が少し冷たいが、心地よい。
「梁太郎先輩、いいお天気ですね」
「ああ。気持ちいいな、風が」
「はい」
 微笑む冬海を穏やかな瞳で見つめ、土浦はその肩をそっと抱くように支えた。
 彼女と一緒にいるようになって4年目。やっと、恋人らしく振舞っても照れてばかりではなくなってきた。
「先輩・・・」
 冬海の方も、頬をほんのりと染めてはいるが固まってしまうことはなくなってきた。
 尤も、少しでも進んだ関係になろうとすると、相変わらずの彼女だったが。
「さて、どうする? 折角ここまで来たんだから、中、見てくか?」
 赤レンガ倉庫内のショップに、土浦自身はあまり興味はないが、冬海はあるかもしれない。そう思っての発言だった。
 今日の主役は彼女の方だ。だから、出来る限り彼女の希望に添いたいと、土浦は考えていた。
「えっと・・・少し、見たいお店があるので・・・行っても、いいですか」
「ああ。今日はお前に付き合うからな、笙子」
 土浦の返事に、冬海は嬉しそうに微笑んで、中へと足を運んだ。
 目当ての店は、紅茶を扱う店。さまざまな種類の茶葉を扱っている。
「・・・へえ、結構種類があるな」
「はい。母に、頼まれたものがあって・・・あと、香穂先輩にも、ウィーンへ送るものを、見繕ってほしいって、頼まれたので・・・」
「日野が、な・・・」
 土浦は軽く瞠目する。
 そういえば、月森が飲み物を手にしているのを数回見かけたことがあるが、全部紅茶だった気がする。
「月森に送るつもりなんだな、日野は」
「はい、そうだと、思います。月森先輩は、紅茶がお好きなんだそうで・・・向こうでも、勿論、買えるんでしょうけど・・・香穂先輩は、このお店のパッケージのものを、って」
「店の、パッケージ?」
「はい。これなんですけど」
 冬海は、適当な缶をひとつ、持ち上げて土浦に示した。
 缶のイラストは赤レンガ倉庫。
 成程、と土浦は思った。
「日本を忘れないように、ってことか」
「・・・そうなんだと思います。このイラストは、このお店だけのものなので。私も、月森先輩には、香穂先輩のことを、ずっと、忘れないでいてもらいたいって、思ってますから」
 大好きな香穂子を思う冬海のやさしい気持ちは、土浦にとっても微笑ましいもので。
「・・・なら、よさそうなのを選んでやってくれ。俺は、あまり判らないが」
「はい。・・・私のお勧めでいいって、言って下さったので・・・」
 冬海は少しだけ迷いつつも、小さな缶3つと、大きな缶2つを手に取って、レジへと運んだ。
 それを見ながら、土浦はふと、考えた。
 ここで、冬海の好きな茶葉を選んでもらって買って帰り、彼女が家に来てくれた時に入れて出せばいいのではないか、と。
「・・・先輩、お待たせしました」
 紙袋を下げて、笑顔で傍に戻ってきた冬海に、土浦は問いかけた。
「なあ、笙子、お前が好きな紅茶って、どれなんだ?」
「え? 私、ですか?」
 冬海はきょとん、として土浦を見上げる。
「ああ。俺も買って帰ろうかと思うんだが、お前のお勧めを聞いた方がいいかと思ってな。俺はどれがいいのか、いまいちよく判らないし」
「・・・そうなんですね。えっと・・・それなら、これはどうですか?」
 冬海が手にしたのは、アッサムの缶。あまりクセがないので、飲みやすい筈だ。
「お前は、それが好きなのか?」
「はい、これも好きです。・・・ミルクにも合いますし」
「・・・これ『も』ってことは、他にも好きなのがあるのか」
「あ、はい、ありますけど・・・でも、先輩や、先輩のご家族には、あまり、向かない気がします」
 甘いフルーツの香りがするフレーバーティーが好きな冬海だが、土浦は甘いものは苦手だから、勧めるのはどうかと思う。
 アッサムなら、ストレートでもミルクでも美味しいし、レモンを入れてもいい。
 親しみやすさというなら、これが一番だろうと思っていた。
「お前が好きなやつって、もしかして、甘ったるい感じの紅茶か」
 土浦が冬海の言いたいことを察して苦笑した。
「・・・はい。甘いのは香りだけなんですけど・・・それでも、梁太郎先輩は、お好きじゃないだろうなって、思うから・・・」
「判った。なら、これを買ってくる」
 土浦はアッサムの缶を持ってレジに行き、それを購入した。
 それから2人で外へ出る。
「良かったです、欲しいものが買えて」
「そうだな。お前が教えてくれなかったら、こんな店があるなんて知らないままだった。サンキューな、笙子」
 穏やかな笑みを浮かべている土浦に、冬海ははにかんだ笑みで応えた。
「あ、いえ・・・先輩の、お役に立てて、良かったです」
 土浦は冬海の右手をそっと握った。
「さて、次はどうする? 今日はお前の誕生日だ、行きたいところに付き合うぜ?」
「いい、んですか? 先輩」
 冬海が少し目を瞠って土浦を見上げてくる。
 土浦は笑みのままだ。
「ああ。・・・まあ、出来れば女しか行かないような場所は勘弁してもらいたいが・・・そうでないなら、どこでもいい。今日の主役はお前だからな、笙子」
「先輩・・・」
 自分の誕生日を祝おうとしてくれている土浦の気持ちが嬉しくて、冬海は歓喜の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。・・・えっと・・・じゃあ、ショッピングモールで、ランチして・・・それから、山手の公園で、少し、お花や海を見たいです。いい、ですか?」
 冬海の願いは些細なものだ。土浦に異論のある筈もない。
 2人はショッピングモール内のイタリアンレストランでランチをし、それからゆっくりと歩いて、山手の公園に向かう、つもりだった。
 でも、冬海はショッピングモール内の広場になったところに置かれているグランドピアノに気づき、足を止める。
「笙子?」
 訝しげに名を呼んで、土浦も立ち止った。
「あそこ、ピアノが」
「ん? ああ・・・本当だな」
 2人はゆっくりとピアノの側に歩み寄る。
 勝手に触れることは出来ないようだったが、こんな雑多な場所に置かれている割には、きちんと掃除もされているようで、埃が溜まっているようなことはなかった。
「・・・きちんと、手入れされてるみたいですね、このピアノ」
「ああ、そうだな。・・・どんな音を出すんだろうな、こいつは」
 暫く2人でピアノを眺めていると、不意に後ろから声をかけられた。
「君たち、もしかして、星奏の学生さんかい?」
 振り向くと、40代くらいのスーツを着た男性が立っていた。顔に、覚えはない。
「はい、そうですが」
「やっぱり! コンクールで見たことがあるよ、君たちのこと。良かったら、弾いてみてくれないか、土浦梁太郎くん」
 名前を言われて瞠目したが、2年前のコンクールで土浦が優勝したことを覚えている人なら、知られていてもおかしくはない。
 ピアノも一応毎日少しは練習している土浦だが、本格的にはやっていないので、こんな公の場で演奏するのは気が引けたが、丁度冬海のためにと練習していたものがある。
 それはそれで一興かもしれない。
 そう思い、土浦はその男性の申し出を受けることにした。
「笙子、久しぶりだが、聞いててくれるか」
「はい、勿論です。楽しみです、先輩のピアノ」
 冬海の嬉しそうな笑みに後押しされ、土浦は鍵の開けられたピアノの前に座り、少し音だしをしてみる。特に狂いなどはないようだ。
 手首を慣らしてから、ゆっくりと鍵盤に指を乗せた。
 柔らかいタッチで始められたのはショパンの『ノクターン 第2番』。
 ゆったりとした旋律が、土浦の指から紡がれていく。
 冬海は勿論、通行している人々も足を止めて、土浦のピアノの演奏を聴いていた。
 大柄な土浦の指が奏でる繊細な音色が、広場全体を包むようにやさしく響く。
 最後の音の余韻が消えるまで、周囲は無言だった。
 土浦がふぅ、と息をつくと、周囲から大きな拍手が湧き起こる。
 ぎょっとして周囲を見渡すと、いつの間にか相当の群衆に囲まれていたことを知り、土浦は苦笑して冬海の姿を探した。
 冬海は斜め左後ろの最前列に立って、微笑みのまま拍手をしてくれている。
 土浦が立ち上がろうとすると、周囲の拍手がアンコールを求めるものに変わった。
「あ、いや、俺は・・・」
「出来るならもう1曲聴かせてくれないか」
 先程の男性の言葉に、土浦は小さな溜息をつき、ならばもう1曲だけ、と座り直す。
 今度は『華麗なる大円舞曲』を。
 先程とは打って変わった華やかなメロディーが、その曲名の通りに、華麗に演奏されていく。
 公衆の面前で演奏するのは随分久しぶりの筈なのに、全く臆することなくピアノを奏でていく土浦を、冬海は凄いと思ったし、改めて好きだ、とも思った。
 本格的なピアニストとしての道を選択しなかった彼に、勿体なさを感じるが、それでも、彼の目指す道もまた、応援したいと思う。
 演奏を終えた土浦を、冬海は極上の微笑みで迎えた。





「まさか、あんなことになるとはな・・・」
 港を見下ろせる山手の公園に来て、土浦は苦笑した。
 あれから、暫く拍手が止まず、ピアノを弾かせてくれた男性にお礼を言って、半ば逃げるように広場を後にした。
 そして、追いかけられたりしないように、電車で移動して、公園までやってきた。
 ようやく、冬海と2人の静けさが取り戻せた。
「・・・でも、私は、嬉しかったです。梁太郎先輩の、ピアノが聴けて」
 冬海はニッコリと微笑んだ。
 多くの聴衆がいたとはいえ、土浦は間違いなく自分のためにピアノを弾いてくれたのだと知っているから。
「・・・なんか、いつもピアノ聴かせるだけがプレゼントみたいになってるよな」
「そんなことないですよ! だって、先輩のピアノは、今は、とても貴重ですから。私・・・梁太郎先輩のピアノ、大好きなんです。だから、こんな風に、演奏してもらえて・・・凄く、贅沢した気がします」
「笙子・・・」
 土浦はそっと冬海を抱き寄せた。
 僅かに冷たい風が頬に当たる。
 風に揺られて少し乱れた前髪をふわりとかき上げて、土浦は冬海の額にやさしくキスをした。
「誕生日、おめでとう、笙子」







END







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