果てしない青







 文化祭前の日曜日の午前。
 土浦と冬海は一緒に練習する約束をして、駅前で待ち合わせていた。
 秋晴れの空は、澄んだ青色。
 電車の時間の関係で、土浦よりも先に駅に到着した冬海は、綺麗な空を見上げていた。
 クラリネットケースと、可愛らしいパステルピンクのバッグを下げ、ふわふわモヘアのニットアンサンブルに膝丈のフレアスカートという姿の冬海は、言うまでもなく『美少女』そのもので。
 どう見ても人待ち顔の彼女を、殆どの人が遠巻きに見ていくだけだったが、いかにも軽そうな大学生風の男2人は、冬海に近づいて行った。
「・・・ねえ君、1人なの? よかったら俺たちと遊ばない?」
「・・・・・え?」
 突然、全く知らない男たちに声をかけられ、冬海は驚き、そして青ざめた。
「・・・あ、あの、私・・・人を、待ってて・・・あの、それで・・・あの・・・」
「本当に? 待ってるのって、女の子? 女の子なら一緒に遊べばいいじゃん」
 男たちは冬海に近づき、その腕を掴もうとしている。
 冬海はますます青ざめて、後ずさろうとしたが、程なく柱に背中をぶつけることになった。
 後ろは柱、前には男たち。逃げ道がない。
 冬海は恐くて思わず目を閉じた。気が遠くなってしまいそうだ。
「・・・おい。あんたら、そいつに何か用か」
 聞きなれた声に、冬海がはっと目を開けると、そこには仏頂面の土浦が男たちを見下ろすかのような目つきで立っていた。
「・・・先輩!」
 冬海が安堵の声を上げる。
 土浦はさりげなく冬海の隣に移動し、再度、男たちを睨みつけた。
「用がないならどいてくれ。・・・行くぞ、冬海」
 土浦の目つきに恐れをなしたのか、無言のまま動かない男たちを無視するように、土浦は冬海の腕を掴んで歩き出す。
 駅舎から出ると、土浦はようやく手を離し、はあーっと溜息をついた。
「・・・ったく・・・油断も隙もないな・・・冬海、大丈夫か」
 俯いたままの冬海に声をかけると、彼女は小さく頷いた。
「あの・・・先輩、ありがとう、ございました・・・」
「・・・いや・・・俺も、もう少し早く来てやれてりゃ良かったんだがな」
「い、いえ、そんな・・・助けて下さって、嬉しかった、です」
 冬海は恥じらいから視線をやや下げて、土浦に小さく言った。
 そんな冬海の頭を、土浦はごく軽く、ぽんぽんと叩く。
「・・・気にするな。・・・じゃあ、行くぞ」
「あ・・・は、はい」
「よし」
 土浦は頷いて、冬海と一緒に歩き始めた。
 冬海と一緒に練習するのも、もう週末の恒例行事となりつつある。
 ピアノは簡単に持ち運びが出来る楽器ではないから、どうしても練習場所が拘束されてしまうのだけが難点だ。
「練習は午前中に集中して、午後は少しのんびりするか」
 土浦はやや斜め後ろを歩く冬海にそう声をかけた。
「あ、えっ、と・・・いい、ん、ですか? 先輩・・・」
 冬海は目を瞠って土浦を見上げる。
 思いのほか、彼の瞳はやさしい。
「ああ。練習は確かに大事だが、それだけってのもな。折角、こんないい天気なんだし、どこかへ出かけるのも悪くないだろ」
「・・・嬉しい、です・・・! 土浦先輩・・・」
 冬海は素直に微笑む。
 その笑顔に、土浦の鼓動が跳ね上がった。
 そんな動揺を知られたくなくて、土浦は僅かに空を睨む。
「・・・どっか、行きたいトコ、考えておけよ」
「・・・はい」
 一緒に練習出来ることも勿論嬉しいが、こんな風に一緒に出かけようと誘われたのは初めてで、冬海の嬉しさも倍増している。
 土浦の家での練習にも熱が入り、普段よりもずっと、のびのびとした音を奏でる冬海に、土浦も目を細めた。
 昼前に練習を終えて、2人は家を出た。
「どこへ行きたい?」
「あ、えっと・・・あの、この前・・・香穂先輩が、面白かったよって、教えて下さった場所が、あるんですけど・・・そこでも、いいですか?」
「どこだ? それは」
 冬海の口から『湖畔公園』の名を聞いて、土浦も頷いた。
「ああ、俺も友達から『面白い』って聞いたことがある。なら、少し遠いが、行ってみるか」
「はい」
 2人は並んで駅まで歩き、目的地までの切符を買って電車に乗り込んだ。
 丁度昼時だからか、車内は比較的空いていた。とはいえ、休日だから空いている席は少ない。
 女性たちが座っている隣に、1人分の空きを見つけた土浦は、冬海をそこに座らせ、自分はそのすぐ前に立った。
「・・・すみません、先輩」
「気にするな」
 穏やかな瞳で冬海に頷いてみせ、土浦はそのまま窓の外へと視線を投げる。時折、冬海を瞰下しながら。
 冬海の方も、こんな風に土浦との距離が開いていては、話をすることも出来ず、そのまま黙って電車に揺られていく。
 目的の駅に着くと、2人は目に付いたテイクアウトのベーグルを買って、軽く腹ごしらえをした。
「悪いな、こんな中途半端な食事になって」
「いいえ・・・お天気が、いいから・・・気持ち、いいです」
 冬海が微笑んでくれたので、土浦は安堵する。
 それから、目的の公園までバスに乗って、ようやく到着だ。
「・・・へえ・・・色々なものがあるんだな」
 園内の案内板を見て、土浦が呟く。
「そう、ですね・・・色々な、体験なんかも・・・」
 冬海が瞳を輝かせて微笑んでいる。
「・・・なんか、やりたそうだな、冬海」
 土浦が口元に笑みを浮かべて問いかけると、冬海は少し恥ずかしそうな笑みになった。
「あ、あの・・・少し、やってみたいなって、思うことはあるんですけど・・・予約が、いるみたいなので、今日は、いいです」
「何をやたりかったんだ?」
「えっと・・・あの、パン作りとか・・・これからだったら、キャンドル作りとか、楽しそうだなって、思って・・・」
「・・・成程な」
 冬海らしい答えに、土浦は笑みのまま頷く。
「キャンドルってのは、多分、蝋燭を溶かして作るんだと思うが、パン作りってのは確か、結構力が要る筈だぞ? 大丈夫なのか?」
「えっと・・・多分。力、というか、根気がいる、とは聞いてます。母が、時々、作ってくれるので・・・」
「へえ。お前のお母さん、器用なんだな」
「あ、えっと、器用っていうか・・・料理は、好きみたいで・・・でも、私は、包丁とか、危ないので、お菓子作りくらいしか、してないんですけど・・・」
 冬海は確か、1人っ子だったと記憶している。
 きっと、大切に育てられているのだろう。それは、彼女の純粋さと素直さを見ていれば容易に窺える。
 土浦は彼女の頭をごく軽く、ぽんぽんと叩いた。
「・・・少しずつ、覚えればいいさ。・・・なら、いずれ、パン作り体験、予約してから来るか。まあ、コンサートが終わってからになるだろうけどな」
「先輩・・・」
 今日だけでなく、また、一緒に来ようといわれていることに、冬海は湧き上がるような嬉しさを覚えて満面の笑みになる。
「はい! いずれ、また。先輩と一緒なら・・・嬉しいです、とても」
「冬海・・・」
 あまりにも素直な、屈託のない笑顔は土浦の心に軽い衝撃を与える。
 人見知りで、特に男性に対しては苦手意識の強い冬海が見せてくれる、絶対的な信頼の証。それがこの笑みだろう。
 そこまで信頼されていることは誇らしく、同時に少し、苦しい。
 土浦とて、男、なのだから。
 無論、冬海の信頼を裏切るような真似は出来る筈もないが、あまりにも無防備に信頼されるというのは複雑なところだった。
「・・・まあ、のんびり行くさ」
 己に言い聞かせるような小声で呟くと、土浦は冬海に対して笑みを向けた。
「・・・なら、とりあえず展望台へ行かないか? 公園全体を見渡して、それから、行きたい場所を探すのもいいだろ」
「・・・はい、そうですね」
 2人はゆっくりと展望台まで歩き、上へと上った。
 元々高台にあるこの公園の展望台は、更に空に近い。
 かなり遠くに海が見えて、どこまでも果てしない青い色が視界に広がる。
「へえ・・・意外と、いいもんだな」
「はい・・・空が、青くて・・・気持ちいいです」
「・・・ああ」
 冬海と土浦は並んで、言葉もなく空を見つめる。
 沈黙の時間が過ぎても、お互いにそれがごく自然だと思える程に、空が美しい。
 風も、少し冷たさを感じさせるが、心地よい強さで、髪を撫でていく。
「・・・なんだか、ピアノが弾きたくなってくるな」
 沈黙を破ったのは土浦の方だった。
「・・・気持ちいいでしょうね・・・こんな中で、弾けたら。私も・・・先輩と、一緒に弾けたらいいなって、思いました」
 冬海も微笑んでそう応える。
「ピアノが簡単に持ち運び出来る楽器なら、良かったんだがな」
「・・・そうですね」
 同じ空を見て、同じようなことを感じて。
 そんな何気ないことが、心を温かくする。
「・・・まあ、一緒に弾くのはまた明日、だな。冬海、もう少し、ここで空を見ていかないか」
 土浦の穏やかな笑みに、冬海も自然な微笑みで頷いた。






END







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