同じ目線で







 夏休みに入って間もない、7月25日。
 この日は、土浦の誕生日だ。
 冬海は、つき合いだして最初の土浦の誕生日に、甘さ控えめのチョコレートシフォンケーキを焼いてプレゼントしたいと考えていた。
 土浦はこの夏休み、金管楽器と木管楽器を習う一方で、ピアノでコンクールに出場する準備をすることになっていた。
 18歳以下の学生ばかりが対象のものではなく、一般の演奏者も参加する、大きなコンクールだ。
 一次予選と二次予選の準備は1学期中から順調に進んでいる。
 去年の学内コンクールや、秋から冬にかけての学内だけではなく、一般に向けてのアンサンブル演奏での実績と実力は、音楽科のピアノ専攻の中でも群を抜いている。
 大学に行ったら、本格的に指揮の勉強をしたいと考えている土浦にとって、ピアニストとしてのコンクール出場はこれが最後になるかもしれない。
 学内だけではなく、国内での自身の実力を測りたい。
 そんな気持ちがあったから、教師の薦めに従って参加を決意した。
 冬海も、そんな土浦の多忙ぶりはよく理解しているので、せめてお祝いのケーキを贈りたいと考えたのだ。
 土浦とは、3日前に当たる22日の夜に電話をして話をしてある。

「梁太郎先輩、あの、25日、なんですけど、少し、お時間、いただけますか」
『・・・少しでいいのか』
「あ、あの・・・先輩の、練習とか、勉強の邪魔には、なりたくないんです。だから、あの・・・」
『・・・クラリネット。教えてくれる約束しただろ? それ、25日じゃまずいか?』
「あ、いいえ・・・いい、んですか? それで」
『ああ。頼む』
「じゃあ、お昼過ぎに、先輩のおうちに伺います」
『駅に着いたらメールしろよ? 迎えに行くから』
「はい。よろしくお願いします」
『じゃあ、25日な』

 こういう話になっていたので、冬海は愛用のクラリネットと、練習曲の楽譜も用意していた。
 24日の夜、冬海はケーキ本体を焼いた。綺麗に膨らんだケーキを、型ごと逆さまにして冷ます。
 明日の午前中には生クリームで軽くデコレーションして、ミントの葉を添えて持っていこうと思っていた。
「梁太郎先輩に喜んでもらえるといいな・・・」
 甘いものはどちらかというと苦手らしい土浦だが、抑えた甘さのものなら、少しは食べられると聞いている。
 なので、チョコはビターを使ったし、クリームも砂糖を控えてホイップする予定だ。
 上手く出来ますように、と願いながらその夜は眠りについた。



 翌、25日。
 朝から夏特有の強い日差しが照りつけていた。
 冬海はケーキを潰さないように型から外し、白いクリームでデコレーションして箱に詰め、家を出るギリギリまで冷蔵庫に入れておいた。
 ドライアイスはないので、保冷材を用意してある。
 なるべく保冷性の良い鞄に入れて、冷えた状態を保てるようにしていくつもりだ。
 昼食を早めに済ませると、白のノースリーブのワンピースに桜色の半袖のカーディガンを羽織って、冬海は家を出た。
 駅に着いて、電車の時間が判ったところで土浦にメールを入れる。
 暑さで、どうにかなってしまいそうだと思いながら、冬海は通学で使い慣れている駅で降り、改札をくぐった。
 土浦はちゃんと待っていてくれた。
「先輩」
 冬海はホッとして土浦の元へ足を進める。
「よう。今日も暑いな」
「そうですね」
 土浦は冬海が手に持っている厚みのある鞄を怪訝な表情で見つめた。
「・・・えらく荷物が多いな。その分厚いのの中、何なんだ?」
「あ、これは、あの・・・」
 冬海は少し頬を染めて、土浦を見上げた。
「・・・あの、梁太郎先輩、お誕生日、おめでとうございます。ケーキ、焼いたんですけど・・・あの、甘さは、控えてあるので」
「笙子・・・」
 土浦は一瞬目を瞠って、それからテレたように視線を外した。
「・・・その・・・ありがとな。自分でも、半分忘れてたんだが・・・それで、『今日』だったのか」
「・・・はい。私、いつも、先輩から、温かい気持ちとか、勇気とか、たくさん、いただいてますから。だから、せめてって、思って」
 はにかんだ笑みを浮かべる冬海にドキリとさせられながら、土浦は動揺を悟られぬように苦笑する。
「なら、練習のひと休みの時にでも一緒に食べるか。とりあえず、行こう」
 土浦は冬海の手からケーキの入った鞄を受け取り、歩き出した。
 冬海も並んで歩き出し、駅からは学院とは反対の方向へと進む。
 土浦の家に行くのは、まだ2度目だ。
 初めてお邪魔した日は、ピアノ教室が開かれている時間帯で、彼の家族とは全く顔を合わさないままだった。
 今日は、それよりもずっと早い時間帯だし、もしかしたら、誰かと顔を合わせるかもしれない。
 冬海は少し緊張して土浦家の門の中に入った。
「さ、着いたぜ」
「あ、あの・・・お邪魔、します」
「緊張しなくても、今は誰もいないぜ? もう少ししたら、母さんは帰ってくるけどな」
 土浦は玄関の鍵を開けて、冬海を中へと誘った。
 用心のために、中から鍵をかけて、自室へと案内する。
 出る前からエアコンを入れてあったので、中は涼しかった。
「貰ったケーキ、冷蔵庫に入れてくるから、適当に座ってろよ」
 部屋の半分以上を占めたグランドピアノの上には、楽譜が置かれている。
 赤字で様々な書き込みがしてあるから、おそらくコンクール用のものだろう。
 土浦らしい、ちょっと男っぽい印象のある文字。けれど、書かれている内容は緻密で繊細だ。
 彼が真摯に今度のコンクールに望もうとしていることが容易に伝わってくる。
 香穂子も別のヴァイオリンコンクールに挑戦して、現在、最終予選のための準備中だ。
 大切な人たちが真摯に挑む音楽を応援したいと、冬海は思う。
「・・・待たせたな、笙子。アイスティーでいいか」
「あ、はい・・・ありがとうございます」
 土浦は、冬海にグラスを手渡し、自分の分は壁際の小さなテーブルの上に置いた。
 冬海はそれを2、3口飲むと、そっと微笑んだ。
「・・・コンクールの準備は、順調ですか?」
「・・・まあ、何とかな」
 土浦は冬海をピアノの椅子に座るよう促し、自分はベッドの端に腰を下ろした。
「・・・出るからには勝ちたいが、まあ、それが絶対って訳でもないからな、今回は。とは言っても、簡単には負けないぜ? 俺は」
「頑張って、下さいね、梁太郎先輩。私、応援してますから」
「・・・ああ。・・・そういえば、お前も、話が来てるんだろ? コンクール」
「あ、はい・・・梁太郎先輩みたいな大きなものじゃないですけど。先生に、2年になってから、演奏が良くなってきたって、言ってもらえて・・・それで、梁太郎先輩や香穂先輩も頑張っておられるし、志水くんも、頑張ってるし、私も、頑張ってみようかなって、思ったんです」
 僅かに頬を染めて、恥ずかしそうに言う冬海を、土浦はやさしく見つめる。
 確かに、冬海の演奏は格段に良くなった。清らかな、澄んだ音の中に、更に透明感とやさしさがプラスされ、時には切なささえ感じさせる。
 自信なさげな、おどおどした感じが薄れて、しっかりとした演奏が出来るようになってきているのは、様々なコンサートなどで、香穂子や自分たちと演奏してきたことと、オケ部に入ったことでの自信がついてきたせいなのだろう。
「笙子らしい演奏をすればいい。お前の音、俺は好きだぜ? 日程が合えば聞きに行くからな、日野と。頑張れよ」
「・・・はい。今まで、何回か、コンクールには出たことがあるんですけど・・・私、いつも緊張しちゃって、全然ダメで・・・でも、私、たくさんの大切なこと、香穂先輩や梁太郎先輩や、月森先輩や志水くんたちに教えてもらいましたから。だから、頑張ります」
「・・・ああ。お互いにな」
 土浦はすっと手を伸ばして冬海の手を取った。
 小さな手は、土浦の掌にすっぽりと包んでしまえる程だが、温かく、柔らかい。
「せ、先輩・・・?」
「・・・リリの奴に感謝しないと、だな」
「・・・え?」
 頬を染めた冬海が僅かに首を傾げる。
 土浦はふっと笑みを刻んですっと冬海を抱きしめた。
「去年の学内コンクールに、お前と俺を巻き込んでくれたことを、だよ。俺の場合、きっかけは日野の奴だが、それでも、リリが俺を選ばなかったら、お前とこうしていることはなかっただろうしな」
「・・・そう、ですね。リリちゃんと、音楽が、私と、梁太郎先輩をこんな風に、繋いでくれたんですよね」
「・・・音楽っていう、共通点を通して、俺とお前は同じ目線に立つことが出来てる。これからも、よろしくな? 笙子」
「・・・はい」
 微笑んだ冬海の額に、土浦はそっと口づける。
 それから、身体をそっと解放して、頭を軽くぽんぽんと叩き、冬海の目線まで屈んで、土浦は挑戦者の瞳になった。
「クラリネット、教えてくれるか?」
「はい!」
 輝く笑顔を浮かべて明るく返事をした冬海に、土浦は満足そうな笑みを返した。





END







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