噴水と虹








「・・・梁太郎先輩、あの・・・」
 頬を微かに薔薇色に染めた冬海は、1年先輩で恋人でもある土浦をそっと見上げた。
 音楽科の白いブレザーに赤いスカーフ。
 4月から音楽科に編入した土浦の制服姿は、まだ、少し見慣れなくて、なんだかドキドキする。
「どうした? 笙子。今日はオケ部の練習日だろ?」
 土浦は穏やかな瞳で、小柄な冬海を見つめた。
 想いを重ねるようになって半年以上が経つが、彼女の初々しさは失われることがない。けれど、当初のような、緊張で固まってしまうようなことはなくなり、土浦はますますこの可愛らしい恋人に惹かれていくのを日々、自覚していた。
「あ、はい。あの・・・でも、少し、相談したいことがあって・・・早めに、抜けるようにしますから、あの、話を、聞いてもらえますか」
「・・・ああ。相談に乗るのはいいが・・・早めに抜けるなんてこと、出来るのか?」
「はい、今日はパート練習なので。・・・じゃあ、抜けられたら、メールします」
「判った。俺は今日も練習室にいるから、そこへ来いよ」
 土浦は自分が予約した練習室の場所を冬海に伝えた。
「はい。・・・じゃあ、放課後に」
「おう」
 冬海が音楽室の方へと小走りで去っていくのを、土浦はじっと見守る。
 相談事とは、一体なんだろう。
 こんな風に冬海から相談事を持ちかけられたのは初めてではないだろうか。
 内容に全く心当たりがない土浦は、手に負えないような内容でないことを密かに祈った。
 昼休みの終わりを告げるチャイムを聞きながら、土浦は溜息をひとつついて、教室へと戻った。




 放課後。
 土浦が予約した練習室の隣は、香穂子が予約していたようで、そこで顔を合わせた2人は互いに笑いあった。
「お前もすっかりここの常連だな、日野」
「うん。先生から、コンクールに出ることを薦められちゃって。・・・確か、土浦くんもだよね?」
「ああ。お前は、学生対象のだろ? 俺は一般も受けられるヤツに出ようかと思ってる」
「・・・そうなんだ。やっぱり、凄いなあ。・・・私も、頑張らないと」
「日野・・・」
 香穂子の表情に僅かに宿った焦燥の色。
 今はウィーンにいる月森を意識してのものだろうと、土浦は思った。
 そんな香穂子に、土浦はフッと笑みを刻む。
「お前はお前、だろ? 日野。それに、この1年ちょいで、お前、随分上手くなったぜ? ヴァイオリンが好きで、音楽が好きで・・・そんなお前だからこそ、続けてこれたんだろうしな。無理する必要はないだろ、これからも。努力は、必要だろうけどな」
「・・・うん、そうだね。ありがとう、土浦くん」
 笑顔で応えた香穂子とそこで別れて、土浦は練習室に入って、ピアノの蓋を開けた。
 軽く指ならしをし、音を出してから、練習を始める。
 ベートーヴェンのピアノソナタ14番の第二楽章と第三楽章、15番の第三楽章と第四楽章、それにショパンの革命、リストのラ・カンパネッラ、そしてバッハの曲、ドビュッシーの月の光。
 挑戦する予定のコンクールの一次と二次の曲たちだ。
 三次予選の曲は、まだ暗譜出来ていない分があるので、後回しにする。
 ショパンやリストの曲は、土浦にとって馴染みの曲ばかりだから、そう難しい訳ではない。
 ただ、一般のコンクールというものに挑戦するのが、小学生の時以来だというだけだ。
 今年はピアノ専攻だが、来年からの大学では指揮科で学ぶことを希望している土浦にとって、ピアニストとしてのコンクールはおそらくこれが最後になるだろう。
 1度弾き始めたら、簡単に没頭してしまい、時間の感覚はなくなっていくのが常だった。
 革命と月の光を流し、ベートーヴェンの14番をある程度引き込むと、窓の外は微かなオレンジへと変化をはじめるところだった。
「・・・先輩」
「! 笙子・・・いつの間に」
 練習室の隅に、冬海は既に立っていた。
 だが、土浦はそのことに全く気づいていなかったのだ。
「没頭して、弾いておられたので・・・そっと入って、聞いてました、梁太郎先輩の、ピアノ」
 はにかむように微笑んだ冬海に、土浦は瞬間見惚れ、そしてフッと苦笑した。
「・・・お前になら、いつでも弾いてやるぞ? 笙子」
「先輩・・・」
 恥ずかしそうに、だが嬉しそうに微笑む華奢な恋人は、土浦の心を鷲掴みにする。
 だからそれはヤバイって、と内心で突っ込みながら、土浦は冬海に言った。
「もう、いいんなら帰るか。ゆっくり、話、聞くから」
「・・・ありがとうございます」
 2人は連れ立って練習室を出た。
 


 どこか落ち着いて話せる場所を求めて、駅前の噴水広場までやってきた2人は、そこで立ち止まって思案した。
「どっか喫茶店にでも入るか」
「あ、えっと・・・どこが、いいでしょうか」
「そうだな・・・」
 土浦はぐるり、と周囲を見渡す。
 この辺には3軒ほどの喫茶店やファーストフード店がある。手軽なのはファーストフード店だが、手軽な分、騒がしいのが難点だ。
 喫茶店のうちの1軒はオープンカフェスペースもあるところで、駅前には面していない。
 もう1軒はすぐ目の前だが、ここはレトロな雰囲気で、正直、自分たちのような高校生よりも年配の客層が好む店だった。
 ふと見上げると、空は黒っぽい雲に覆われ始めている。ひと雨来そうな雰囲気だ。
「雨になりそうだな。笙子、あそこの喫茶店でいいか」
 土浦は1番近いレトロな店を指差した。
「はい。私は、それで」
「んじゃ、行くぞ」
 木枠のガラスの扉を押し開くと、カウベルがカランカラン、と音を立てた。
「いらっしゃいませ」
 少し年配の、上品な感じの女性が穏やかな笑みで迎えてくれた。
「お好きな席へどうぞ」
 そう言われて、土浦と冬海は駅前の噴水が見える窓際の席に向かい合って座った。
「何にする?」
「えっと・・・ミルクティーに、します」
「俺は・・・ブレンドだな。・・・ケーキセットってのもあるが、いいのか? 紅茶だけで」
「・・・はい。今日は、いいです」
 土浦が頷いて注文を告げる。店員の女性がそれをカウンターの中にいるマスターへと通してくれた。
「・・・で、何なんだ? 俺に相談って」
「はい・・・あの・・・」
 冬海が話し始めようとした時、窓の外からざあっと音が聞こえてきた。
「降って来たな」
「本当ですね・・・」
 店内にいても音が聞こえるくらいの激しい雨だ。
「・・・この雨じゃ、暫くは出られないだろうからな。ゆっくり、話を聞けるぜ?」
「・・・そう、ですね」
 土浦が穏やかに見つめ、冬海ははにかんだ笑みを浮かべる。
 注文した飲み物が運ばれてきてから、冬海は話を切り出した。
「あの、梁太郎先輩・・・先輩は、どうして、コンクールに出ようって、思われたんですか」
「・・・は? 俺か?」
「はい」
 それが相談したいこととどう結びつくのかは判らなかったが、土浦は真摯な冬海の瞳に促されるように己の心中を語りだした。
「・・・確か、お前にも話したよな? 俺は大学に進んだら指揮者の勉強をしたいって」
「はい。聞きました」
「それで、だ。ピアニストとしての今の俺の力が一体どこまで通用するものなのか、確かめてみたくなったんだよ。だから、学生コンクールじゃない、一般の方に出てみようって思ってな」
「・・・もう、ピアノは弾かれない、んですか? 高校が終わったら」
「全く弾かないって訳じゃない。ただ、ピアノでプロを目指すんじゃなく、出来たら、指揮者としての道を進みたいってことだ」
「そう、なんですね・・・」
 冬海はほんわりと湯気の立つカップを持ち上げ、ミルクティーをひと口、飲んだ。
「・・・先輩のピアノがあまり聞けなくなるのは残念ですけど・・・でも、そうやって、進む道を見つけられた先輩は、凄いと思います」
「・・・そろそろ、先の話が出てきたのか、お前にも」
 土浦も、コーヒーを飲んだ。
 冬海はカップを両手で握るようにして持ち、少しだけ視線を下げた。
「それも、あるんですけど・・・私、オケ部の、夏のコンクールで、クラリネットの、ソロパートを吹かないかって、言われて・・・でも、私より、上手な方や、3年生の先輩方も、いらっしゃるのに、いいのかな、って、思って・・・迷ってるんです」
「・・・成程な」
 学内コンクールや昨秋のアンサンブルなどで、土浦や香穂子たちと一緒に演奏していた冬海は、一時期同級生たちから反感を買っていたことがある。
 オケ部の中では楽しくやっていると聞いていたが、さすがに、ソロとなるとまた話は別なのかもしれない。
 土浦は軽い溜息をひとつつくと、冬海を真っすぐに見据えた。
「ソロの話は誰からのものだ? 顧問か?」
「あ、はい・・・それと、練習を見に来て下さっている、火原先輩も・・・それから、部長も、一緒に、話を・・・」
「・・・なら、その人たちは笙子なら務められると思って推薦してくれたってことだよな? お前なら、出来るって信じてくれてるってコトだろ?」
「あ・・・」
 土浦の瞳は力強い光を湛えているかのようで、冬海はとん、と背中を押されたような気がした。
「・・・そう、ですね。私・・・自信が、なくて・・・でも、そうじゃなくて、努力、していけばいいって、ことですよね、先輩」
「お前ならきっと出来るさ。楽しみにしてるぜ? 笙子の演奏」
「はい。・・・私、頑張ります。私の精一杯の、演奏が出来るように」
「いつも通りのお前の音を奏でてやればいいさ。・・・先の話も、ゆっくり考えていけばいいだろ。無理する必要はないさ」
「・・・はい。・・・良かった、先輩に、聞いていただけて」
 そう言って、花が零れるような綺麗な笑みを浮かべた冬海に、土浦は抱きしめてしまいたい衝動に駆られ、苦笑した。
 いつの間にか、雨も上がって、雲間から陽が射し始めている。
「・・・雨、止んだな」
「あ、ホントですね・・・あ!」
 小さく叫んだ冬海に、土浦は怪訝な表情になる。
「どうした?」
「あそこ。・・・噴水のところに、虹が・・・」
「ん?」
 噴水の水飛沫の一部に光が当たって虹色に輝いていた。
「ああ・・・なかなか、綺麗だな」
「はい。・・・小さいけど、綺麗な虹を、先輩と一緒に見られて、嬉しいです・・・」
 再び、どうしようもなく魅力的な笑みになった冬海に、土浦は気づかれぬ程の微かな溜息をついた。

 どうしようもなく、可愛らしく愛しい冬海に、ある意味翻弄されていると自覚して。
 


 
  

END








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