夕陽と下り坂







 冬の日暮れは早い。
 とは言っても、冬至を過ぎて、年が明けてからは少しずつ、日も長い方へと移り始めているから、年末程ではなくなってきた。
 つい先日の理事長就任パーティーの後、香穂子から、バレンタインデーに当たる日のコンサートを手伝って欲しいと頼まれ、土浦と冬海は当然のように引き受 けた。
 そのための練習を、今日もしていたのである。
 演奏するのは3曲。
 その中の1つが『ルスランとリュドミラ序曲』。
 これを演奏したいと香穂子が言い出したのは、入手した楽譜の楽器編成をみたから、だったらしい。



「だって、私と蓮くんと笙子ちゃんと土浦くんの4人ともで演奏できる曲なんて、珍しいじゃない。私には難しいのは判ってるけど、頑張りたいの」
 ビオラは加地に入ってもらうことになり、話題の2年生メンバーが勢ぞろいすることになった。
 冬海も、土浦や香穂子のお陰で、月森は勿論、加地とも、そう臆せずに話せるようになりつつある。
「香穂先輩、私も・・・香穂先輩や、月森先輩、それに、土浦先輩と一緒に、演奏出来て・・・あの、嬉しい、です」
「笙子ちゃん!」
 香穂子がぎゅっと冬海を抱きしめ。土浦は微妙に片眉を吊り上げる。
「おい、日野。冬海から離れろ」
「あー、土浦くん、私にヤキモチ!?」
 香穂子が半ばからかうような笑みを浮かべて。土浦はじろり、と彼女を睨んだ。
「うるさい! まだ練習中だろ」
「判ってるよ。いい、演奏しないとね」
 香穂子は冬海を開放し、すっと真剣な瞳に戻る。
 後の2曲は『中央アジアの草原にて』と『メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲第一楽章』。
 香穂子と月森は全曲に参加で、冬海は『中央アジアの草原にて』にも参加する。
 都築に出された、コンミスへの課題。香穂子がそれを手に入るか否かは、このコンサートの出来にかかっているのだ。
 冬海と土浦も、これまでにも増して緊迫したものを感じながら練習している。
 月森が3月には留学するということもあって、香穂子の熱の入り方もそれまでのものよりも更に凄かった。
 それもあってか、香穂子の技術は益々磨かれてきている。
 元々、素直に、豊かに感情を乗せて演奏出来る性質だっただけに、技術が上乗せされれば演奏の質も向上するというものだ。
「・・・でも、日野さんが思わず冬海さんに抱きつきたくなる気持ちも判るよ。冬海さん、本当に可愛いからね」
 加地が笑顔でさらりとそんなことを言ってのけ、土浦は加地をも睨み、冬海は赤くなって俯いた。



 全ての練習が終わって。
 土浦と冬海はいつも通りに駅までの道を並んで歩いていた。
「・・・加地の奴・・・全く・・・!」
 土浦はついつい悪態をつく。
 『ルスランとリュドミラ・・』の練習が終われば、土浦はアンサンブルとしての練習は終わることになる。
 しかし、冬海は更に『中央アジアの・・・』の練習があるため、一旦離れることになる。その際に、加地は土浦に愉しそうに笑いかけたのだ。
「土浦、冬海さんと離れるのがよっぽど残念なんだね。離れたくないって表情(かお)してるよ」
「・・・うるさいな。そんなんじゃねぇよ」
 そう言ってさらっとかわしてはおいたものの、実は図星を指されていた。
 『中央アジアの・・・』のメンバーは、香穂子、月森、火原、志水と冬海だ。
 月森は香穂子一筋なのが嫌という程判っているから、どうということはない。
 火原と志水のことも信頼してはいるのだが、こと、冬海に対しては異様な程に過保護になってしまう土浦だ。
 過剰反応している自身を見切られたようで、加地に対しての苛立ちは簡単には収まりそうになかった。
「・・・加地先輩が、どうか、されたんですか? 先輩」
 隣の冬海は不思議そうに土浦を見上げてくる。
「あー、いや・・・何でもない」
 土浦は明後日の方向へと視線を逸らす。
 冬海に、他の男が近づくのを警戒しているということを、加地に勘付かれてムカついている、なんて格好の悪いことが言える筈がない。
「・・・加地先輩って、なんだか、不思議な方、ですよね・・・」
「不思議?」
 冬海の表現がいまいちピンとこなくて、土浦は訝しげに眉を寄せた。
「なんていうか・・・馴染むのが、凄く、お上手、というか・・・2学期になってから、転校されてきたのに、ずっと以前(ま え)からの、知り合いのような、気がして・・・」
「笙子・・・」
 彼女の口から、加地を褒める言葉が出てきて、土浦は憮然とした表情になってしまう。
「・・・・・そうか? あいつはただ単に口が上手いだけだろ。まあ、社交的、ではあるが」
 つい、尖った声音になってしまった土浦を、冬海は不安そうに見上げた。
「・・・・あの、先輩・・・どうして、怒って、るんですか」
 その言葉に、土浦は一瞬瞠目し、それから眉根を寄せた。
 こんな風に冬海にやすやすと見破られてしまうとは。己の不甲斐なさが恨めしい。
「・・・いや、怒ってるって訳じゃない。・・・それより、お前の音、いい感じに仕上がってきてるな」
 土浦は話を切り替えてしまうことにした。
「あ、えっと、そうですか? ・・・ありがとうございます」
 はにかんで、淡く頬を染めた冬海に、土浦は穏やかな瞳を向ける。
 この素直さは彼女の美点だ。香穂子や自分、そして天羽やオケ部の面々、そして今回のアンサンブルの仲間たちと接することで、冬海は随分しっかりしてきた が、素直さは出会った頃から変わらない。
「一緒の分しか聴けてないが『中央アジアの草原にて』の方も楽しみにしてるからな」
「はい。・・・私、香穂先輩たちと一緒に、演奏出来るのが嬉しくて・・・『ルスランとリュドミラ』は、梁太郎先輩も一緒だから、余計に」
「笙子・・・」
 土浦は深い溜息をつく。
 どうしてこう、いちいち冬海は可愛らしいことを言うのか。
 クリスマスコンサートの後からずっと、自分が試されているような気がしてならない土浦だ。
「・・・先輩?」
 冬海が僅かに心配そうに首を傾げる。
 そんな彼女の頭を、土浦はごく軽くポンポン、と叩いた。
「お互いに、頑張らないとな。日野の奴を、しっかりと認めさせなきゃならないんだ。俺たちが足を引っ張るわけにはいかない」
「・・・はい。音楽科の友達の中には、まだ、香穂先輩のこと、良く、思ってない人も、いるみたいですけど・・・私は、先輩の味方でいたいんです、ずっと。 今まで、香穂先輩に助けてもらっていた分、私も、お返ししたいから」
「日野がどれだけ頑張ってるか、俺たちは知ってるからな。俺も、あいつには出来るだけのことはしてやりたいって思う。あいつは大事な友達だからな」
 小学生の時は、ただの通りすがりに近いような存在で。この星奏に来てから、思いかげない再会をし、気がついたら、再びピアノへと向き合わせてくれた香穂 子。
 一時期はひとりの女性として魅かれていたこともあったが、冬海という恋人が出来た今、彼女はかけがえのない友人になった。
 そして、香穂子を大切に思う気持ちは冬海の中にもしっかりと存在している。
 土浦がどんなに香穂子を大切にしても、だからと言って嫉妬に狂うようなことはなかった。それは、香穂子の心が月森でいっぱいだということを知っているせ いなのかもしれないが。
「・・・香穂先輩のためにも、明日も、練習しましょう、梁太郎先輩」
「ああ」
 真摯な瞳で頷きあって、土浦と冬海はふっと表情を緩める。
「・・・笙子、少しだけ、時間あるか」
「あ、はい・・・大丈夫ですけど」
「駅前でちょっと寄り道しようぜ。なんとなく、腹が減ったんでな」
「はい。行きたいです」
 冬海の微笑みに、土浦も穏やかな笑みを返す。
 駅の方へと、再び歩き出す。
 海まで続くかのような下り坂を、温かなオレンジ色が染め上げている。
「夕陽が、綺麗ですね、先輩・・・」
「・・・そうだな」
 鮮やかな赤い夕陽が、少しずつ海へと近づいている。僅かに浮かんだ白い雲をも、海面をも温かいオレンジ色へと染めて。
「・・・こんな綺麗な夕陽を、先輩と一緒に、見られて・・・嬉しいです」
「笙子・・・」
 またしても抱きしめたくなってしまう衝動を抑えて、土浦は苦笑する。
 そして、その代わりに。
 小さな白い手を、そっと包んだ。
「先輩・・・」
 はにかんだ笑みを浮かべながらも、そっと握り返してきてくれた冬海の手を握ったまま。
 土浦と冬海はゆっくりと坂を下っていった。





END







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