AQUA BLUE U








 日本での初めてのリサイタル。
 それを開くに当たり、月森は少し長めに日本に滞在することになっていた。
 地元横浜は勿論、東京、名古屋、大阪、福岡でも開かれる予定になっていて、練習なども含め、2ヶ月はいられる計算だ。
 そして、今回の日本滞在の目的はもうひとつ。

 香穂子に、どうしても話しておきたいことがある。

 ウィーンに留学してから既に6年。
 目指していた通り、こうしてプロの演奏家として歩き出せた。
 出したCD2枚も、ヨーロッパと日本で順調に売れている。
 今回の日本公演のチケットの売れ行きも良いと聞いている。特に、最終となる横浜の分は完売したということだ。
 他の会場も残席は僅からしい。
 それだけの期待を背負う重さと同時に、嬉しさも感じている。
 だからこそ。
 今回、彼女にきちんと言いたい。
 月森はそう考え、最終公演の前に香穂子に連絡を取った。







「蓮くんと水族館なんて久しぶり。高校の時以来、だよね」
 香穂子がくすぐったそうに笑う。
「そうだな・・・あれは、秋だった」
「うん。一緒に練習した後で出かけたんだよね。今は春で・・・お互い、ちょっとだけ年を取ったよね」
「香穂子・・・そこは少し大人になった、と言う方が良くないだろうか」
 月森の指摘に、香穂子は一瞬言葉に詰まる。
「・・・・・ま、まあ、その・・・私の場合、大人になったというか、あんまり変わらないというか・・・」
 正直、自分が月森程成長出来ているとは思えず、香穂子は言葉を濁す。
 けれど、月森は怪訝な表情になった。
「変わらない、か? 君は・・・随分綺麗になったと思うが」
「れ、蓮くん! そんな・・・」
 突然の褒め言葉に、香穂子は頬を染めた。
 臆面もなく言われてしまっては、照れるしかない。
「そ、そういう蓮くんだって・・・今日の眼鏡は変装、なんでしょ」
 今日の月森は珍しく、薄い色のついた眼鏡をかけていた。普段の彼を見慣れていない者には、本人だとはっきり認識出来ないような雰囲気を作っている。
 熱心なファンならば月森の顔を見知っている者も少なくない。なので、用心に越したことはないからとマネージャーに言われ、かけてきたのだ。
「ああ・・・その、君とのゆっくりした時間を、誰かに邪魔されたくはないので」
「蓮くん・・・」
 香穂子はふふっと笑った。
「CDのジャケットで、結構人気出てたもんね。それに今は、リサイタルのポスターが街のあちこちに貼られてるし・・・仕方ないよね」
「・・・ジャケットで人気、というのが俺には理解出来ないな・・・」
 月森の眉間に皺が寄る。
 自分はヴァイオリニストだから、奏でる音楽を気に入ってもらえるというのなら理解出来る。だが、ジャケットの、演奏中の写真に何の価値があるというのか。
「蓮くん・・・その辺はホントに変わらないよね・・・」
 香穂子は苦笑いを浮かべた。
 月森は自身の容姿にどれだけの魅力があるかを、全く理解していない。
 整った顔立ちに、綺麗な構え。真摯な表情が月森の気質をそのまま映していて、女性の目を惹くのだ。
 無論、音も魅力的だが、その容姿ゆえ、余計に女性ファンが増えていることを月森自身は認識していないらしい。
「・・・香穂子?」
 彼女の苦笑いの意味が判らなくて、月森は一層眉根を寄せた。
「蓮くん、女の人に人気あるんだよ? 全く意識してないでしょう」
「・・・・・そう、なのか? そういうことに、あまり興味がないから意識したことがなかった。それに、俺には君がいるから」
 こういう殺し文句をさらっと言えてしまう辺り、天然というか、何と言うか・・・香穂子は微かな溜息をつきながら、目元を赤く染めていた。
「・・・蓮くん、らしいよね、そういうの。・・・まあ、とにかく日本ではそうなんだからね。今日は世界的ヴァイオリニストの月森 蓮を独り占めできる貴重な時間だから、楽しみにしてたんだ、凄く」
 そう言うと、月森の表情が少し曇った。
「蓮、くん?」
「・・・俺など、まだまだだ。それに、俺は俺だ。君の前では、ただの1人の男だ」
「・・・そう、だね。・・・ごめんね、蓮くん」
 月森は確かにプロのヴァイオリニストだが、香穂子の前ではただの月森 蓮だと、等身大の元同級生で恋人だと、言いたいようだ。
 香穂子もついつい、月森に対して壁のようなものを作ってしまっていた自分に気づかされ、反省した。
「だけど、時々不思議な気がするのも確かなんだよね・・・こうやって、蓮くんと並んでる自分が」
「それは、どういう意味なんだ?」
 月森の瞳がやや厳しくなる。
 大水槽のトンネルの手前で立ち止まり、月森は香穂子をじっと見つめる。
 香穂子は僅かに苦笑した。
「あ、あのね、ヘンな意味じゃなくて・・・星奏の音楽科と普通科だった蓮くんと私は、普通に考えたら接点はなかったわけでしょう? あの年のコンクールの時に、私がリリに出会って、蓮くんのヴァイオリンに出会ったから、こうしているんだなあって思ったら、不思議じゃない?」
「ああ・・・確かに、そうだな」
 月森は表情を和らげて頷いた。
 香穂子と出会ったことは、月森の人生の中で最大の幸福だと思う。彼女がいなかったら、現在の自分はありえない。
 そして、それを痛感しているからこそ。
「香穂子」
 蒼い海の景色の側で、月森は真摯な瞳で彼女を見つめる。
 香穂子も、自然と彼の瞳へと目を向けた。
「俺と、結婚してほしい」
「え?」
 香穂子は大きく目を見開いた。
「ずっと、俺の傍にいてくれないか。君に、いてほしいんだ、香穂子」
「蓮、くん・・・」
 突然のプロポーズに驚きを隠せない。けれど、それは香穂子自身の望みでもあって。
 香穂子は月森の言葉をかみしめるようにゆっくりと笑みになり、頷いた。
「私も、蓮くんの傍にいたい。ずっと」
「月森 香穂子になってくれるか」
「はい。喜んで」
 香穂子の笑みに、月森は全身の緊張を解く。
 そして、穏やかな笑みを浮かべ、着ていたジャケットの内ポケットから小さな布張りの箱を取り出した。
「これを、君に」
 中に収められていたのは輝くダイヤモンドの指輪。
「綺麗・・・雪の結晶みたい」
「約束の印に、受け取ってほしい」
「うん」
 香穂子はすっと、月森の前に左手を差し出した。
 月森はそっと指輪を摘み上げ、彼女の薬指にはめる。
「凄い、ぴったり・・・蓮くん、私のサイズ、知ってたの?」
 そこで、月森は微かに目元を赤くした。
「それは、天羽さんに・・・その、いつだったか、写真のお礼を伝えた時に」
「菜美に聞いてくれたんだ・・・そっか」
 どんな質問攻めに遭ったのだろう、困惑する月森と、わくわくした瞳で質問する天羽の様子が目に浮かぶようで、香穂子はクスッと笑う。
「・・・香穂子?」
 笑われる意味が解らず、月森は眉根を寄せる。
「・・・ううん、なんでもないよ。ありがとう、蓮くん」
 そう言ってやさしく微笑み、嬉しそうに指輪を見つめる香穂子に、月森も自然と笑みになっていく。
「・・・よかった。君が受け取ってくれて」
 まだ、これから考えなければならないことは山積みだが、香穂子とならきっと、越えていける。
「明後日は、いい演奏が出来そうだ」
「ふふ、楽しみ。絶対聴きに行くからね」
「ああ」
 奇しくも、横浜公演の日は4月24日。
 忘れられない誕生日になりそうだと、月森は思った。
 勿論、今日のことも。

 



END







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