アヴェ・マリアに寄せて






 クリスマスシーズンに、月森の母・浜井 美沙が地元でチャリティーコンサートをすることになったと、月森から電話で教えられた香穂子は、瞳を輝かせた。
「凄いね、蓮くん。この時期に日本で美沙さんの演奏が聴けるなんて」
「そうだな。・・・実は、俺も、数曲一緒に弾くことになっているんだ」
「本当に? うわぁ・・・楽しみ! 蓮くんに会えて、演奏まで聴けるんだね」
 声を弾ませた香穂子に、電話口の向こうで月森が微かに苦笑したような気配が伝わる。
「・・・蓮くん?」
「・・・いや、すまない。それで、だ・・・君に、母から、伝言がある。伝言、というか、頼み、というか・・・」
 語尾を濁した月森に、香穂子は首を傾げた。
「美沙さんからの、頼みごと?」
「・・・ああ。コンサートで、君に、1曲演奏してもらいたいと」
「え・・・えええっ!? わ、私が?」
 香穂子は目を剥いた。
 チャリティーとはいえ、一般のお客さん向きの演奏会だ。それに、プロデビューした月森や、名の知れたピアニストの美沙と、素人の自分が一緒に出演するなんて、そんなことが許されるのか。
「で、でも、私は・・・プロじゃ、ないよ?」
「ああ、判っている。だが、母は君のヴァイオリンを気に入っているらしい。・・・今秋のコンクール、母はピアノ部門の審査員に選ばれていた。その関係で帰国していて、ヴァイオリン部門のファイナルを生で聴いたらしい。その時の君の演奏をひどく褒めていた。そのせいだろう」
「い、いらしてたんだ・・・」
 日本で行われたヴァイオリンコンクールで、香穂子は今年、3位入賞を果たした。
 ファイナルで演奏したのはメンデルスゾーンの『ヴァイオリン協奏曲』だった。あの時の、香穂子の精一杯を演奏に込めたつもりだが、他のファイナリストの方が遥かに上手く聞こえていた。だから、まさか、自分が入賞出来るとは思っていなかったから、驚いた。
「技術だけなら、君より上のファイナリストが殆どだったそうだが・・・君の演奏が一番良かった、と母は言っていた。俺も、出来ることなら聴きたかった。君の音を」
「そんな・・・」
 褒められて、香穂子は照れてしまう。
「・・・どうだろう、香穂子。今回は地元の演奏者たちと共演したいというのが、母やスタッフのコンセプトらしい。本当に1曲だけでいいから、受けてもらえないだろうか」
 再度頼まれて、香穂子は小さく溜息をついた。
「本当に私で、いいのなら」
「勿論だ。ありがとう、香穂子・・・それで、曲なんだが、グノーの『アヴェ・マリア』を頼みたいと」
「そうなの?」
 グノーの『アヴェ・マリア』なら、何度も練習していて、今ではシューベルトの『アヴェ・マリア』と並んで香穂子が好きな曲だ。
 いちから始めなければならない曲でないことに少しだけ安堵する。
「じゃあ、頑張って練習しておくね」
「ああ。コンサートの4日前には母と共に帰国して、練習に時間を割く予定だ。帰ったら、君に連絡する」
「うん。待ってるね」
「ああ。・・・また、その時に」
 木々が少しずつ色づき始めた秋の半ばのことだった。




 それから、瞬く間に時は過ぎて。
 12月の半ば過ぎに、月森は帰国した。
 この日、香穂子は試験前の練習があって、月森を空港まで迎えに行くことは叶わなかったが、彼の方が、大学まで来てくれた。
「蓮くん!?」
 思いがけない人の姿に、香穂子は瞠目して走り出す。
「ただいま、香穂子。そんなに慌てなくてもいいから。・・・元気そうだ」
 軽く息を弾ませている愛しい女性(ひと)を前に、月森は目を細めて微笑む。
「驚いたよ、蓮くん・・・! 早かったんだね、お帰りなさい」
 香穂子も微笑む。
 1年半以上、会えていなかった。それでも、こうして顔を合わせれば気持ちが繋がっていると信じられる。
 ゆっくりと再会を噛みしめたかったが、周囲がざわめき始めたので、月森は香穂子を自宅に案内した。
「香穂子、慌ただしくてすまない」
「ううん、仕方ないよ。・・・蓮くん、人気あるから」
「それを嬉しくない、とは、言えないな、もう」
 月森が僅かに苦笑する。
 プロのソリストとなった以上、人気がないと成り立たない。演奏を聴いてもらうことが、即ち仕事なのだから。
「そうだよ。蓮くんの音をたくさんの人に聴いてもらいたいと思うもの、私も」
 ただ、月森の人気は演奏だけでなく、その容姿にもあることを香穂子は知っているから、その点については複雑でもあったりするのだが。
「・・・ありがとう、香穂子」
 リビングの暖房をつけ、香穂子のヴァイオリンをそっとテーブルの上に置き、コートを脱ぐと、月森は堪えきれなかったように彼女をぎゅっと抱きしめる。
「・・・会いたかった・・・」
「蓮くん・・・」
 一瞬瞠目したものの、香穂子も同じ想いだった。月森の背に、そっと手を回す。
「私も会いたかったよ、蓮くん・・・こうして会えて、凄く嬉しい」
「俺もだ」
 月森は少しだけ腕の力を緩めて、香穂子の顔をまじまじと見つめた。
「君は・・・会う度に美しくなるな・・・だが、その瞳の輝きは変わらない・・・おそらく、君の本質が変わらないからだろう」
「綺麗だなんて・・・そんなこと、ないよ。蓮くんこそ、会う度にカッコよくなってくじゃない」
「そう、だろうか」
「うん。だけど、きっと蓮くんも、基本的なところは変わってないんだよね。そんな気がする」
「ああ。俺は俺だ、ずっと。君を、愛している」
「蓮くん・・・」
 頬をほんのりと染めながらも、香穂子は幸せそうに微笑んだ。
 月森もやさしい笑みでそれに応える。
 そして、自然に引かれるように、そっと口づけた。
 優しいそれを繰り返すうちに、だんだん深いものへと変わり、お互いしか見えなくなっていきそうになる。
 それを押し止めたのは突然の携帯の着信音だった。
 月森のポケットのそれは、母・美沙からの電話で、明日の予定を確認する内容だった。
「明日の午後、君とリハーサルをしたいということだ。いいだろうか」
「あ、うん。午後なら大丈夫」
「判った」
 月森は美沙に香穂子の返事を伝えると、午後2時から、この自宅でリハーサルをするという答えが返ってきた。
「いきなりですまないが、よろしく頼む」
「私の方こそ、だよ、蓮くん。・・・ねえ、もし良かったら、今日のうちに、蓮くんが先に聴いてくれる?」
「ああ、それは喜んで」
月森の同意を得て、香穂子はヴァイオリンを取り出し、調弦をして構えた。
 ゆっくりと弓を乗せる。
 美しい、澄んだ音が響き、月森はゆったりと目を閉じてその音に聴き入った。
 温かい、優しさに満ちた香穂子らしい音が、危なげなく奏でられていく。
 彼女がこの曲を愛していることが伝わってくる。
 最後の音が響き終わっても、月森は心地よい余韻に浸っていた。
「・・・・・蓮、くん? どう、だった?」
 弓を下して、心配そうに尋ねた香穂子に、月森ははっとして目を開けた。
「・・・母が褒める筈だ・・・君らしい、いい演奏だった」
 とてもやさしい微笑みで、月森は答えた。
「本当に?」
「ああ。自信を持っていい。君の努力の結果が見えるな」
「本当? そんなに褒められて・・・いいのかな」
「褒め過ぎはよくないが・・・それでも、今の演奏は称賛に値する。俺も、いい演奏をしなければ」
「蓮くん・・・」
 香穂子は照れながらも、背筋を伸ばして笑みを浮かべた。
「私らしく、演奏出来るように頑張るね」
「ああ。楽しみだ」
 月森も力強く頷く。
 それから、少し考えて、香穂子にこう提案した。
「香穂子、シューベルトの『アヴェ・マリア』を一緒に弾かないか」
「一緒に弾いてくれるの?」
「君が良ければ」
「いいに決まってるよ! 嬉しい、蓮くんと一緒に弾くの、ウィーン以来だから」
 瞳を輝かせる香穂子に月森は目を細めながら、自身のヴァイオリンの用意をする。
 準備が出来ると、目と目で合図しあい、弓を乗せた。
 滑らかに、清らかな音色が響きだす。
 豊かな喜びと愛情に満ちたハーモニーは美しく、そして甘く。
 香穂子と月森の、互いの想いを響き合わせたそれは、今までの中の、最高のメロディーとなった。





 数日後のチャリティーコンサートで。
 香穂子は美沙と共に、グノーの『アヴェ・マリア』を無事に演奏した。
 そして、アンコールの時には月森と2人での、シューベルトの『アヴェ・マリア』を弾いた。
 どちらも、香穂子の大好きな曲。
 この、クリスマスという時期に、たくさんの人たちが幸せであれますように。
 蓮くんと、これからも想い合っていけますように。
 そんな願いの込められた演奏は、どこまでもやさしく響いていった。

    
   

 

END







BACK