PRELUDE−青月光−
「香穂子・・・」
穏やかな寝息が規則正しく繰り返される。
2人の背に当たる窓からは青みがかった静かな月光が降り注ぐ。
そろそろ起こさなくては・・・そう思うのに、月森は動けないでいた。
夜が明ければ、香穂子は日本へ帰ってしまう。
2ヶ月という期間は長いようで短かった。
このウィーンで、香穂子と共にヴァイオリンを奏でた日々が、今日で最後だということがまだ信じられない。
クラシック音楽の基となる歴史と空気に満ちた、このウィーンでの学びは、香穂子の音を更に伸びやかに、清らかにした。
曲の表現力だけで言えば、香穂子の演奏は月森のそれにも勝りかねないほどの片鱗を感じさせた。
これに、完全に技術が追いつけば、間違いなくソリストとして活躍するだろうと思う。
香穂子のヴァイオリンは、聴く人々の心を包むようなやさしさで満ちている。
未熟だか、期待の持てる、そんな演奏をする香穂子。本当は、このまま、離したくない。
ずっと傍いて、互いに刺激し合い、高みへと上っていきたい。そんな衝動に駆られてしまう。
けれど。
現実は覆せない。
ヴァイオリニストとしての香穂子は勿論、恋人としての彼女のことも、離したくなどない。
このウィーンでの日々の中、何度か、衝動のままに香穂子を抱いて、自分のものにしてしまいたいと思った。
でも、月森にはそれは出来なかった。
香穂子が大切だから。そしてなにより、それで彼女を縛ってしまうのは良くないと思ったのだ。
たとえ身体を重ねたとしても、留学の期間が終わればまた、離れ離れになることは変わらない。
深い関係に進むことで、逆に辛くなるのではないかと思ったから、進めなかった。
それが正解だったかどうかは判らない。
「・・・以前(まえ)にも、あったな・・・こんな風に、君が俺の傍で眠り込んでしまったこと」
ひとりごちて、月森は思いにふける。
あれは確か、バレンタインデーのコンサートの後だった。
コンサートを成功させて、その安堵感からか月森の隣で眠り込んでしまった香穂子。
あの時は、今よりも少し幼い感じの残る無邪気な寝顔だったが、現在の香穂子は大人の女の色香をほんのりと滲ませて、月森の劣情を刺激する。
感情だけで先走って傷つけたくないから、それを抑えはするけれど、あの時よりももっと強く、香穂子を欲している自分がいることを、月森は嫌というほど自覚していた。
「出来ることなら・・・君の全てを奪ってこのまま離したくない・・・だが・・・それは、無理な相談だな・・・」
自分も香穂子も、まだまだ学び、研鑽を積まなければならない状態なのだ。
それを、己の欲望だけで曲げてしまうなど、許されることではない。何より、そんなことになってしまったなら、月森は自分で自分を許せなくなるだろう。
お互いを自滅させるような関係は不幸なだけ。たとえ今が辛くても、未来に希望が持てる、そんな関係を築くのでなければ、2人が出逢った意味がないと月森は思う。
「・・・香穂子・・・」
そっと、彼女の髪をひと房持ち上げて、それに口づける。
ふわりと散る花の香りに、理性がぐらり、と揺さぶられそうになる。
抱きしめて、触れたくなる思いを抑えて、月森は手を離した。
大きく、溜息をつく。
「・・・もしも、このまま時間が止まってくれるなら・・・俺は、君を・・・」
もしも、永遠にこの夜が明けないというのなら。
互いしか見えないほどに抱きあって、ひとつに重ねあって、溶け合うことが出来るならば。
月森は目を閉じてぎゅっと己の両手を握り合わせた。
今はまだ、夢の途中。
目指すものに到達するには、まだまだ足りない。
そんな中途半端な自分に、香穂子の未来を左右する資格などない。
「香穂子・・・このまま再び離れることになっても、俺は君が好きだ・・・この想いだけは、変わらないだろう・・・この先も、ずっと・・・」
そう呟いた月森の手に、ふわりと温もりが重なる。
驚いて目を瞠ると、自分に凭れて眠っていたはずの香穂子が目を覚ましていた。
「香穂子・・・」
「私も、蓮くんが好きだよ・・・明日には帰らなきゃならないけど、でも、この気持ちは・・・消えない、きっと。2ヶ月とはいえ、こうやって蓮くんと一緒に過ごせて、ますます、好きになったもの」
「香穂子・・・」
真摯な瞳に嘘は見当たらない。
そんなにも真っすぐな瞳で凝視されたら、己の感情を抑えられなくなってしまいそうだ。
月森は僅かに視線を外した。
「蓮、くん・・・? どうして・・・」
外された視線の意味を図りかねて、香穂子の胸に不安が湧き出す。
「私の気持ちは・・・迷惑? もし、そうなら、私・・・」
はっとして月森が視線を戻すと、香穂子は不安げな表情(かお)へと変化していた。
「いや・・・そうじゃない」
月森は否定した。
それでも、自身の気持ちを素直に語ってしまうことには躊躇する。
「俺は・・・君が好きだ。大切なんだ。・・・しかし、同時に迷ってもいる・・・言葉にして、行動して・・・それで、君を縛り付けてしまうのではないかと・・・」
「蓮くん・・・」
香穂子は重なり合った手を、ぎゅっと握った。
「・・・同じだよ、蓮くん。私はもうとっくに蓮くんしか見えなくなってるもの。1年、ずっと離れてて、それでも、全然気持ちは冷めなかった。会いたいとは何度も思ったし、淋しいって感じることもあった。それでも、蓮くんが好きっていう気持ちはなくならなかったよ、ずっと。私は蓮くんに比べたら全然未熟で、まだまだ、練習を重ねて努力しなきゃいけないような、そんなヴァイオリニストだけど、でも、私なりにこれからも頑張ってみたいと思ってる。こうして、短い間だったけどウィーンで勉強したこと、きっとプラスにしてみせるよ。蓮くんと、肩を並べることは出来なくても、恥ずかしくない存在になれるように」
「香穂子・・・」
ヴァイオリンに対する香穂子の決意を改めて見せられて、月森は自然と息を呑んでいた。
そう、この力強い瞳が、己を捉えて離さないのだ。
ヴァイオリンを愛し、ただひたむきにそれに向かう香穂子のこの素直さと真剣さがあったからこそ、彼女は短期間の間にここまでの成長をしたのだ。
そして同時に、月森を包み込むような温かさを持ち合わせている香穂子は、もはや、必要不可欠の存在なのだと思い知らさせる。
「香穂子・・・」
月森は空いているほうの手で香穂子の身体を抱き寄せた。
「・・・ありがとう、香穂子。俺は・・・本心を言えば、君をこのまま日本へ帰したくなどない。だが、それは無理な話だということもちゃんと理解している。・・・いつになるかは判らない、しかし、俺は必ずソリストとして日本へ帰る。その時まで・・・待っていてもらえるだろうか」
香穂子はそれに答えるように、握っていた手を離し、月森の背中を抱きしめる。
「・・・うん。ずっと、待ってる。・・・嬉しいよ、蓮くんがそう言ってくれて」
「香穂子・・・」
月森は香穂子を抱き寄せる腕の力を少し増した。
温かく柔らかな香穂子の感触を忘れぬように、次に会う日まで。
そして、溢れ出る衝動のままに、月森は少しだけ腕の力を緩め、香穂子の顎に手をかけて上を向かせ、その唇を覆う。
やさしく、そっと触れるだけのキスを何度も繰り返す。
まるで約束の印であるかのように。
そう、今夜は2人の新しいprelude。
窓の外の月だけが、そんな2人を見守っていた。
END
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