アリア





 アンサンブルコンサートが終わった。
 香穂子は無事にコンサートを成功させ、吉羅理事長と都築 茉莉の出していたオケのコンミスとしての課題を無事にクリアした。
 たくさんの生徒や一般のお客さんで埋められた市民ホールで、堂々と演奏を披露した、その実力が学院内でも認められたのだ。
 
「いい、演奏だった・・・クリスマスコンサートに匹敵する・・・いや、君の実力はあの時以上だから、更に、かもしれないな」

 月森はひとりごちて、疲れて眠ってしまった香穂子の口元に微かに浮かぶ笑みを見つめる。
 正装から着替えて、このまま別れてしまうのは惜しいと感じた月森は、香穂子を自宅に誘った。
 そこで、お茶の支度をしている間に、香穂子はソファの肘掛に凭れるようにして眠ってしまったのだ。
 月森は客間からブランケットを取ってきて、そっと香穂子にかけてやった。
 そして、仕方なく、1人でお茶を飲んでいる。

「・・・ずっと頑張ってきた君だから・・・緊張の糸が切れたんだな、きっと・・・」
 穏やかな呼吸を繰り返す香穂子を見ていると、自然と笑みが浮かんでくる。
 
 今日を迎えるまでの香穂子の努力を、月森はずっと傍で見つめてきた。
 自分の留学のことで、彼女との関係を上手に築けなくなった時期もあったが、それさえも、香穂子は乗り越えて月森に近づいてきてくれた。
 たとえこの身は遠く離れても、互いを思う心と、音楽への想いは変わることがないと、信じさせてくれた。
 今となっては、香穂子は月森にとってなくてはならない存在になっている。
 月森の心の中心にいる女性。かけがえのない、唯1人の。

「香穂子・・・」
 市の音楽祭まであと1ヶ月。月森がウィーンへ旅立つのはその3日後。
 日本に、香穂子と一緒にいられるのもあと僅か。
 オケの準備がある香穂子に、無理をいう訳にはいかないが、練習などで助けられる部分は積極的に係わって、少しでも多くの時間を共有したい。
 月森は強くそう思っていた。
 そっと、香穂子の髪に触れる。
 柔らかなその髪からは、ふわりと甘い香りが散る。
 思わずドクン、と胸が高鳴り、月森は慌てて手を離した。

「俺は・・・何を・・・」
 手で口元を覆って、月森は目元を赤く染めた。
 女性とつき合うのは香穂子が初めての月森は、想いを重ねてからの4ヶ月ほどの間、彼女とは手を繋いだり、そっと抱きしめたり、額にキスをするのが精一杯で、それ以上の関係に進むことはなかった。
 月森とて男である以上、突き上げてくる衝動が全くない訳ではないが、香穂子との関係においては、あまりそれを意識せずにここまできていた。
 それは、2人を繋ぐものが主にヴァイオリンだということが深く係わっていると思うが、月森自身も、香穂子も、共に晩生だということも関係しているのだと思う。
 無論、月森自身はそれを当然だと受け止めている。世間に惑わされ、慌てる必要などないと。自分たちには自分たちなりの速度があるのだから、それに従っていけばいいと考えている。
 ただ、こんな風に無防備な寝姿を晒す香穂子を見て、彼女の香りを嗅いだりしてしまうと、自分たちが男と女であることを意識させられてしまう。
 
「・・・そろそろ、起こしたほうがいいかもしれないな・・・あまり、遅くなっては・・・」
 香穂子の家族に心配をかけるようなことはしたくない。
 時計はそろそろ8時になろうかというところだ。コンサートが終わって、バレンタインデーのプレゼントを香穂子から貰い、みんなと暫く過ごし、別れたのが既に6時半頃だったのだから当然だろう。

「・・・香穂子、そろそろ、起きたほうがいい。・・・香穂子」
 月森はブランケットの上から、香穂子の背中をそっと揺らした。
「・・・・・ぅ・・・んん・・・」
 小さな呻きのような声と共に、香穂子がもそもそと身動きを始める。
「もう8時になる。そろそろ、君を帰さないと・・・」
 月森はそう言いながら、完全に冷たくなってしまったお茶を入れなおすべく、カップを持って立ち上がる。
 香穂子は数回瞬きをすると、ゆっくりと身体を起こした。
「・・・ん・・・蓮、くん?」
「・・・起きたのか、香穂子」
 月森は香穂子に微笑みかけて、キッチンへと移動し、ティーポットの茶葉を捨てて、もう一度入れなおす準備を始める。
 香穂子の方は、ぼんやりと目に映る室内を眺めていたが、そこが月森家のリビングだと認識すると、吃驚した。
「え、ええっ!? わ、私、寝てたの?」
「・・・ああ。疲れていたんだろう。あまりにも気持ちよさそうだったから、暫くそのままにしておいたんだ」
 キッチンで答える月森の言葉を聞いて、香穂子はあまりの恥ずかしさに縮こまってしまいそうだった。
「うう・・・ごめんなさい、蓮くん・・・」
「・・・何も謝ることはない」
 月森は苦笑しながら、改めて入れた紅茶を持って、香穂子のところへと戻ってきた。
「それだけ、今日のコンサートに気を張って臨んでいたということだ。・・・今日の演奏は素晴らしかった」
「蓮くん・・・」
 月森の穏やかな笑みに、香穂子も笑みで答える。
「ありがとう、蓮くん。蓮くんと、みんなのお陰だよ、今日のコンサートが成功したのは。緊張もしたけど、凄く気持ちよくヴァイオリンが弾けたの。蓮くんがずっと、傍にいてくれたからだよ」
「香穂子・・・」
 紅茶を置いてから、月森はそっと香穂子の手を握った。
「この指から、あの音が生まれたんだ。君の努力が実った結果だ。自信を持っていい」
「蓮くん・・・」
 香穂子が恥ずかしそうに、けれどどこか誇らしげな笑みで月森を見つめる。
 その、笑みと瞳に魅せられたかのように。
 月森はごく自然に、香穂子の指に口づけた。
 大きく目を見開く香穂子は、月森の静かな、しかし強い光を宿した瞳に囚われるようにそれを凝視する。
 月森はそのまま、すっと香穂子の手を引いて、抱き寄せた。
「・・・香穂子・・・君を、このまま離したくない・・・」
「れ、蓮、くん・・・」
 香穂子の柔らかで温かい身体。甘い花のような香り。
 その存在の確かさを感じて、月森はこの時間が永遠に続けばいいと願う。
 そんなことは不可能だと承知しているが故に。
「蓮くん・・・どう、したの・・・?」
 戸惑いを滲ませた香穂子の問いに、月森は後ろ髪を引かれる思いで、ゆっくりと身体を離す。
 そして、不思議そうに見つめてくる香穂子に、穏やかな笑みを浮かべて見せた。
「いや・・・すまない。・・・君といる時間が、あまりにも充実しているから・・・離れるのが淋しくなっただけなんだ」
「蓮くんってば・・・吃驚したよ、いきなりそんなこと言い出すから・・・」
 香穂子は頬を染めて、いい香りが立ち上るティーカップを持ち上げて、紅茶を口に運んだ。
 月森が入れてくれたアッサムティーは、最近の香穂子のお気に入りだ。
「・・・うん、美味しい」
「そうか」
 月森もカップを持ち上げる。
 温かいお茶が喉を滑っていくのと同時に、月森は自分の衝動も飲み込んだ。
 じきに離れてしまうと判っているのに、身勝手な衝動で香穂子を傷つけてしまうわけにはいかないから。
「・・・ねえ、蓮くん」
「なんだ」
「・・・ひとつ、わがままを言ってもいいかな」
 香穂子はゆっくりとカップをテーブルに置きながら、月森を真っすぐに見つめた。
 月森も、その視線を静かに受け止める。
 紅茶をひと口飲み込んでから、月森もカップを置いた。
「・・・わがまま、とは?」
「もし、疲れてなかったらで、いいんだけど・・・蓮くんのヴァイオリンが聴きたいの」
「・・・俺の?」
 月森は僅かに怪訝そうな表情になったが、香穂子の真摯な視線に応えるように立ち上がった。
「そうだな・・・先ほど貰ったチョコと砂時計のお礼も兼ねて、弾こうか。何か、リクエストはあるだろうか」
「じゃあ、出来ればバッハの『G線上のアリア』がいいな」
「判った」
 月森は自分のヴァイオリンを取り出して調弦し、ゆっくりと弓を乗せる。
 やさしく澄んだ音色が、静かな室内に響きだし、香穂子は目を閉じた。
 昨年春のコンクールの期間に、少し、月森のアリアを耳にしたことがある。けれど、今夜の月森の音は、その記憶のものとは異なる、どこまでも温かみのある、やさしげな音色だった。
 元々この旋律は穏やかで心地よいものを感じさせるが、月森の奏でる音は、癒される、という感覚で香穂子の心に沁み込んだ。
 静かな余韻を含んで弓が下ろされると、香穂子はゆっくりと目を開けて、月森を見つめた。
 突然抱きしめられて『このまま離したくない』と言われた時は驚いたが、それはきっと彼の正直な気持ちなんだろうと香穂子は思った。
 ウィーンへ旅立つ日が、近づいていること。
 そのことが、あのひとことを言わせたのだろう思う。
 コンミスを務め上げるという、目の前の課題は勿論大切だけれど。月森との時間も、可能な限り大切にしたい。それもまた、香穂子の素直な願いだった。
「・・・蓮くん」
 ゆっくりと立ち上がると、香穂子はヴァイオリンをケースに置いた月森に近づき、その背中にとん、と凭れた。
「・・・香穂子?」
「・・・蓮くんのアリア、凄く良かった・・・癒されるような感じがした。・・・私ね、精一杯、頑張るよ。オケのコンミスとして、恥ずかしくないように。蓮くんに、少しでも近づけるように」
「香穂子・・・」
 向きを変えようとした月森から少しだけ離れて、香穂子は瞠目している彼に、柔らかな笑みを向ける。
「・・・大好き」
「香穂子・・・」
 月森は再び、香穂子を抱きしめる。


 少しでも長く、一緒に。
 互いの温もりから、気持ちが同じであることを、2人はしみじみと感じていた。 

 



END







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