小さな願い







「おはよう、香穂子」
 月森が穏やかな笑みを浮かべて立っている。
「おはよう、蓮くん」
 香穂子も笑顔で門を開け、彼の元へと歩み寄る。
 こうして毎朝、月森が迎えに来てくれる。
 つき合うようになってからの、2人の習慣。3月半ばには終わりが来る、大切な時間だ。
「今日も寒いね。・・・蓮くん、毎日来てくれて嬉しいけど、無理は、してない?」
「ああ、無理などしていない。君と一緒にいられる貴重な時間だから、大事にしたいんだ」
 月森の笑みに、香穂子も満面の笑みになる。
「ありがとう。・・・じゃ、行こっか」
 学校までへの道を、並んで歩く。
 香穂子のヴァイオリンケースには、可愛らしいテディベアのマスコットがつけられている。
「その、小さなクマは、冬海さんとお揃いなのか? 確か、彼女のクラリネットケースにも、似たようなものが着いていた気がするんだが」
 月森の問いかけに、香穂子は少しだけ驚いた。
「あ、うん。菜美がね、作ってくれたの。因みに、3人でお揃いなんだ」
「天羽さんが・・・そうか、彼女は意外と器用なんだな」
「あ〜、それ、菜美には言っちゃダメだよ? でも、よく判ったね、笙子ちゃんのと同じだって」
「・・・いや、実は・・・」
 昨日、初めてアンサンブルの練習に入った。そこで、加地が何気なく言ったのだ、お揃いだと。
 それで、月森と土浦はそのことに気づいたのだった。
「・・・ああ、加地くんね。納得かも」
「・・・納得、ということは、加地と、随分親しい、ということなのか?」
 微妙に険しい目元になった月森に、香穂子は苦笑してみせる。
「いや、親しいっていうか、加地くんはクラスメートだし、なんだかんだ言って結構さりげなく助けてくれるし、話は、するよ? それだけだけど」
 月森は沈黙したままで足を止める。丁度、目の前の信号が赤だったから。
「・・・蓮くん?」
 僅かに訝しそうな声音で問いかけてきた香穂子をちらりと一瞥して、月森はどう答えてよいかを思案した。
 加地は話すことが上手く、人当たりの良い笑顔で誰とでもすぐに親しくなれる人物だ。実際、月森もそれなりに彼とは話をする。
 音楽を聴く耳は確かで、彼の批評は高校生ながら侮れないものがある。
 ビオラの音色も華やかで、技術的には少々難があるところもあったりするが、耳が良いので人と合わせるのがとても上手い。
 けれど、香穂子の音色をこよなく愛し、かつ彼女を崇拝するかのような部分には閉口してしまう。
 月森と香穂子との仲を現在は応援してくれているようだが、彼の中の香穂子への想いは、依然として変わらないように感じる。
 だからこそ。
 香穂子の気持ちを疑う訳ではないが、加地に嫉妬してしまう。離れたくないと強く願ってしまうのは、香穂子の周囲にいる男性(おとこ)たちのせいかもしれなかった。
 思案しているうちに、信号が青に変わる。
「・・・行こう。遅刻してはいけないからな」
 月森は全く別のことを口にして、歩き始めた。
 香穂子はそんな月森に、気づかれぬ程の微かな溜息をついて共に歩く。
「・・・蓮くん・・・まさかと思うけど、ヤキモチ、とか?」
 雑踏に紛れてしまいそうなくらいの、小さめの声での問いかけを、月森はしっかりキャッチして、ぴくり、と眉を吊り上げた。
 けれど、ちらりと横目で見つめた香穂子は、進行方向を見ていて、声が聞こえていたことに気づいていないようだ。
 図星を指され、格好のいいことではないから、月森はそのまま流すことに決める。
 やがて、校門が見えてくると、月森は後ろからポン、と肩を叩かれた。
「月森、日野さん、おはよう」
「! 加地・・・」
「おはよ、加地くん。今日も朝から元気そう」
 香穂子が挨拶すると、加地は満面の笑みになる。
「フフッ、そりゃあ、こうして朝から君に会えたんだもの、元気も出るよ」
「もう・・・! 相変わらず調子いいんだから」
「ホントだって。・・・ねえ、月森、君もそうでしょ」
「・・・は?」
 突然に話を振られ、月森は一瞬瞠目するが、すぐに眉根を寄せた。
 その、思いっきり不機嫌な表情を見て、加地は苦笑する。
「・・・ああ、そうだ。今日、僕は日直だから、もしかしたら少し練習に遅れるかもしれない。なるべく早く駆けつけるから、他の曲から始めておいてくれる? 月森」
「・・・判った」
「じゃあ、職員室に寄るから先に行くね。日野さん、また後で」
 加地は小走りで門の中へと消えていった。
「・・・加地くん、なんだか慌ててたみたいだね・・・」
 僅かに首を傾げる香穂子に気づかれぬ程の微かな溜息をついて、月森は彼女に声をかけた。
「・・・香穂子、昼休みはどうする? 俺は今日は何も持ってきていないから、出来ればカフェテリアへ行こうかと思っているんだが」
「あ、私も今日は買わないとダメなんだ。なら、一緒にカフェテリアでいいかな」
「ああ。・・・では、また昼に」
「うん」
 音楽棟と普通科棟に分かれる場所で、月森と香穂子は互いに軽く手を振り、それぞれの教室へと向かった。





「日野さん、月森とはもうすっかり元通りみたいだね」
 1時間目が終わった時、隣の席の加地がニッコリ笑って話しかけてきた。
「・・・うん。加地くんにも色々心配かけたよね。・・・ごめんね?」
 香穂子は僅かに苦笑する。
 3月に月森が旅立ってしまうと天羽の口から知らされた時、正直、かなり動揺した。
 月森自身もどうしてよいか判らない風で、そんな彼にどう接してよいのか戸惑い、最悪の想像すらした。
 でも、2人を繋いでくれたのは、やはりヴァイオリンで。
 お互いに、ヴァイオリンを、音楽を離せないこと、それ故にこれからも繋がっていけることを再確認することになった。
 ただ、動揺してしまったことで、こうして近くにいる加地や、土浦、冬海らに心配をかけてしまったことは申し訳なく思っている。
「・・・月森って、何でも出来そうに見えて、意外と不器用だよね。ヴァイオリンの音はあんなに雄弁なのに」
「・・・うん、そうかも。ヴァイオリンはずっと続けてきてるから凄いけど、友達とかも、そう多くないみたいだし、他人と話をするのは得意じゃないみたいだから」
「ああ、それ判るよ。でも、君と一緒にいるようになってから随分と変わったんじゃない? 雰囲気が随分柔らかくなったし。誰にでもって訳ではなさそうだけど、少なくとも、君の周囲にいる人には当たりが柔らかくなったよね」
 加地の指摘に、香穂子は成程、と思った。
 音楽に対する厳しさは変わらないものの、それ以外のことでは、刺々しい雰囲気を感じさせなくなってる。
 顔を合わせば衝突していた土浦とでさえ、以前ほどは険悪な雰囲気になることはない。
 それはやはり、月森自身が変わったせいなのだろう。
「・・・加地くんって、よく見てるね、他人(ひと)のこと。凄いなあ」
 感心したように香穂子が言うと、加地は曖昧な笑みを浮かべた。
「そうかな? ・・・ともかく、コンサートのために今日も練習、頑張ろうね」
「うん。よろしくね? 加地くん」
 香穂子の笑みに、加地も笑みで応える。僅かに痛む心を隠して。





 放課後の練習室に、アンサンブルのメンバーたちが集まってきた。
 加地はやはり、少し遅れるようで、香穂子たちはまず『中央アジアの草原にて』を練習することにした。
 土浦は隣の練習室に移り、柚木は図書館へと移動する。
 火原と柚木は受験が真近なので、早目に練習を終わらせて勉強してもらいたいと香穂子は考えていた。
 何度か演奏して、まだ問題のある点を出し、次回までに改善出来るよう、確認する。
「・・・じゃあ、俺は柚木と交代するよ。冬海ちゃんは加地くんが来てるかどうか確認して」
 火原の言葉で冬海も動き出し、香穂子と月森は微かに息を吐き出す。
「香穂子、疲れていないか」
「うん、大丈夫。・・・私が1番頑張らないといけないんだし」
「だが、無理はよくない。疲れたら、ちゃんと言ってくれ」
「うん、ありがとう」
 香穂子は月森にそっと笑みを返す。
 気遣ってもらえるのは嬉しいけれど、メンバーの中で1番未熟なのは間違いなく自分なのだから、弱音を吐いている暇はない。
 少しゆっくりでも丁寧に、苦手な部分に立ち向かっていかなければ、と思う。
 程なく加地が中に入ってきて、柚木も姿を見せた。
『メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲』も、先程と同じ要領で練習する。
 そして、柚木と志水が土浦、冬海と交代して、最後の『ルスランとリュドミラ序曲』を。
 練習を終えて、弓を緩め、それぞれの楽器を片づけていると、加地が全員に声をかけた。
「ねえ、たまにはさ、このメンバーで寄り道しない? 湾岸スクエアの方にオープンしてるスケートリンクの関係でさ、あの辺、なかなか綺麗だし。お茶しながら、コンサートのこととか話すのもいいんじゃないかな」
「あ、行きたいかも。笙子ちゃんは、どう?」
「あ、えっと・・・行って、みたいです。・・・土浦先輩、いいですか?」
「蓮くんも、いい?」
 期待に満ちた瞳で愛しい彼女たちに問いかけられては、月森と土浦はとても否とは言えなかった。
 返事の代わりに頷くと、香穂子と冬海は嬉しそうに微笑む。
 してやられた気がして、図らずも月森と土浦は加地を睨む格好になった。
「まあまあ、月森も土浦も。月森は春にはいなくなるんだし、こんな機会は最初で最後かも知れないよ? 彼女と2人きりの時間は今日でなくても、明日でも作れるでしょ。帰りは間違いなく2人になれるんだし、ね」
 加地にそう言われ、土浦は諦めの溜息をついた。
「まあ、確かにな。・・・学生らしいっちゃあ、らしいか、こういうのも」
「そうそう。さあ、行こうか、日野さん、冬海さん。月森も、行くよ」
 加地の誘いに、月森も諦めるしかないことを悟る。何より、香穂子が嬉しそうだから、その顔を曇らせるのはどうかと思ったから。
「・・・判った」
 5人は夕暮れの街へと歩き出した。
 湾岸エリアは加地が言った通り、綺麗に飾られていて、賑やかだった。
 加地がお勧めだというカフェに入って、香穂子と冬海はケーキセットをオーダーする。月森と加地は紅茶、土浦はコーヒー。
 それらを前に、自然とアンサンブルのことや互いの楽器歴などの話をする。
「月森は留学してソリストを目指すのは判ってるけど、土浦は? 将来、やりたいこととかって決めてる?」
「あ、ああ・・・まあ、な」
「・・・君は確か、指揮をやりたいと言っていなかったか」
「・・・悪いか?」
「いや。君らしいと思ったまでだ。だが、ピアノはどうするんだ。もう弾かないのか」
「まあ、完全に止めるつもりはないさ。ただ、それでプロを目指すことはしないってだけだ」
「・・・やっぱり凄いなあ、月森も土浦も。日野さんと冬海さんは、どんな風になりたいの?」
 加地に話を振られて、香穂子と冬海は顔を見合わせる。
「ん〜、私は、まだそんなに具体的には考えてないのが正直なところかな・・・ヴァイオリンをずっと続けていきたいとは思ってるけど、どこまでやれるかは、判らないしね。とりあえず、今はコンミスをちゃんと務め上げること、かな」
「えっと、私も、あの・・・まだ、あまり考えてない、です」
「まあ、冬海はまだ1年だからな。これからだろ」
 土浦がすかさず言い添えたのを聞いて、加地はふふっと笑う。
「・・・ホントに甘いね、意外なくらい。僕も頑張らないとだけど、楽しみだな、コンサート。・・・じゃあ、僕は他にも寄る所があるからこれで失礼するよ。また明日もよろしく、日野さん、冬海さん、月森、土浦」
 加地は伝票を掴んでさっさと歩いていってしまった。
「・・・なんだ、あいつ」
 土浦が瞠目して呟く。月森も唖然となり、香穂子と冬海は首を傾げた。
「どう、されたんでしょうか、加地先輩・・・」
「ん〜、用事を思い出しただけなのか、何か判らないけど・・・明日、聞いてみるね」
 お茶代も返さないと、と苦笑した香穂子の言葉で、加地がここの支払いをしてくれていることを思い出し、月森たちは全員明日にそれを返そうと思った。
 それから程なく、香穂子たちも店を出、土浦と冬海とはそこで別れた。
「・・・今日はいつもとは全く違う感じの寄り道になったね」
「・・・そうだな」
 すっかり暗くなった空を見上げ、香穂子と月森はゆっくりと歩を進める。
 吐く息が白く見える。
「でも、たまには、いいかもしれないね、こういうのも。蓮くんと一緒なら」
「香穂子・・・」
 月森は僅かに瞠目して隣を歩く香穂子を見つめる。
「蓮くんと2人だけもいいけど、みんなと一緒にいる時の蓮くんを見るのも好きだから。こういう何気ないことって、きっといい思い出になると思うんだ。ね?」
 笑顔で見上げてくる香穂子に、月森は微笑んだ。
「・・・そうかもしれないな。君と知り合うまで、1人でいることの方が多かったから、ああして何人かと一緒にいるというのは新鮮ではある」
「楽しい思い出、たくさんつくれるといいね、蓮くん」
「・・・ああ、そうだな」
 2人だけでも、みんなとでも。
 隣に香穂子がいてくれるだけで、月森には大切な時間であることに変わりはない。
 出来るなら、独り占めしていたいけれど、みんなといる時の香穂子もまた、輝いているから。
 日本にいる間に少しでも多く、香穂子と一緒の時間を過ごしたい。
 それが、月森の小さな願い。



  
   

 

END







BACK